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『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
☆ ご無沙汰してしまいました。今年のこの過酷な暑さで身も心も焼け付いていまいました。夏の疲れで毎日がつらいです。夏の休み中は、母の介護でした。離れていろいろ考えているより、疲れた母を見るのですが、側にいる方が安心できます。これからも頑張ります~~。大阪府 H・Tさん
☆ 友人とのメール交換の内容は、健康のことでの弱音と愚痴が多くなったと反省していても、ついそんな内容のメールを送信している自分に気がついて、反省すると、メールが送れなくなりますので、お互いの今確認の意味でメールを送るよ、とメールしたら俺も同じだよと返信があり、ほっとしているこの頃です。・・・。埼玉県 B・Hさん
☆ 虫の声と共に秋が来ました。これからまた秋の野菜の収穫で忙しくなります。孫たちも日焼けした顔で学校に通っています。何とか宿題も間に合ったようです。秋田は高校野球の準優勝でおお盛り上がり、ご無沙汰していた友だちから連絡があり、金足農高OGとして、今もまだ浮き浮き、ドキドキ感が残っています。思い出深い夏のひと時、青春時代に戻れました。神奈川県 N・Kさん
☆ 「ほっとひととき・・・」の「我が物顔の猪・・・・」の文章を読んで、ふるさとを離れてしまった自分の心が痛みます。離れたのではなく、見棄ててしまったのですから。でもやはり汚染は怖いです。お盆にも帰れませんでした。福島県 S・Dさん
☆ 機会を得て、岩手県、宮城県、福島県を巡り、帰宅中です。今更、震災地域を訪ねてどうかと思いましたが、復興が進んでないのに驚きました。福島県に至っては、状況は悪化するばかりではないかと思ってしまいました。宮城県の方に、南海地震を心配されたのには、頭が下がるばかりです。機会を得られたことに感謝するとともに、せめて、思い、祈ることを忘れないようにと思わされました。仙台平野の見渡す限りの緑の田んぼと、福島県の除染した赤土の作付けしてない田んぼが悲しいですが印象的でした。 愛知県 T・Yさん
☆ まさかこんなことに…が今です。震度7の大地震、もうだめかと思いました、今、こうしてやっとメールできるのが信じられません。これから寒くなります。不安です。全国にいる「ジャーナル友さん」、お祈りで支えてください。 北海道 Y・Oさん
☆ 経験のない地震に出くわしてしまいまして、驚きと怖さにおびえています。それに住まいが高層のビルですので、余計不安がつのります。早く何とか 一日も早くおさまって欲しいと祈るばかりです。早速にお見舞い頂ましたのに、停電になったりで、パソコンを開けなくて申しわけなさでいっぱいです。まだしばらく落ち着かない日々が続くと思いますが気をしっかり持って頑張ろうと思います。ここ札幌も寒くなりました。テレビでは今回の地震のニュースばかりです。 北海道 O・Tさん
**********
△ 秋の雲は多くなりましたが、片付けにも疲れてしまいました。毎晩考えることは、これからのことです。考えても何も浮かびません。不安ばかりです。どこか小さな部屋を借りて老後を過ごすしかないのかなあ~。
△ 今年のお盆休みは、有給も含めて1が月を子供の時に育った家の片付けに行きました。家の傷みは少なくて済みましたが、両親の気持ちの張りを失った姿は、本当に心配です。ぽつんと残ってしまった家にこれから住み続けられるのだろうか。生き甲斐にしていたその畑も土砂に流された両親を残して、今は東京です。毎日メールしています。
△ 不思議ですが、ボランティアさんとは古いお友達の様に、お付き合いの出来る人になっているのがとてもうれしく思います。周りの変化に一喜一憂していた心にも、時間と共に安らぎが感じれるようになれました。人とのふれあいがそんな気持ちにさせるのですね。
△ 一日の仕事を終えて寝転んで、ボーっとしていたら、ああそうか、と思ったのです。病気や高齢等のため、臥しておられる方々、外界に触れる機会のない方々、看護や介護を担っておられる方々、また、様々な事情にある方々にとって、「ジャーナル」は心の拠り所なんだなぁと、ふとそんなことを思いました。そして、その真ん中に主イエス様がおられるのだなと感じました。何だかほっとした気持ちです。
△ 2時過ぎから 風が泣いています。雪ではなく雨で泣くのは久しぶりで少し怖いです。何キロメートルなのかな…。今台風は神戸だって人的被害の少しであることを 祈っています。
△ 台風21号でまたブルーシートが飛ばされ、部屋は滝の様な雨が入り込んでしまい、気力もなにもかもなくなりました。こんなメールで、ごめんなさい。
△ もう冬です。灯油のタンクも壊れてしまいました。まだ水道は出ません。洗濯もできません。一軒あったコンビニには品物はありません。何とか電気は復旧しましたので、メールを送れるようになりました。
*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
『ありがとうございます』
台風や大きな災害に遭われた方々のメールやお手紙に接する9月でした。本当に何もできませんでした。この小さな「つのぶえジャーナル」が、時に支えになり、慰めになります、というお言葉に、改めてこの働きに感謝するものです。
御霊とみ言葉をもってなさる神様の御業であることに尽きます。
ここに、神様のお守りと祝福をお祈りしつつ、10月号をお届けいたします。
2018年8月16日から2018年9月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。
西口義昭様 馬場暁美様 藤掛朔生様 佐藤のり様 加納さおり様 稲田喜水様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの方々の「ジャーナル友」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
「今月のことば」
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのだから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。
~Ⅱコリント5:20~
日本人の感覚で理解できないものの一つに「救われる」という宗教としての考え方であると、ある宗教家の著書の中にありました。それは罪に対する意識・認識の相違とありました。罪は犯罪という理解と対神という宗教的理解・神への背信・敵対であるとする聖書の主張にあります。大切なことです。「今月のことば」で、聖書はそれを示す。この真理をご一緒に考えてみましょう。
まず、キリストの救いを得るには、用意されているキリストによる救いが、私たちに伝授されなければなりません。私たちの外側に、用意された救いがあるということだけで十分ではありません。私たちはそれを自分のものとして受け入れなければなりません。キリストの御業、恵みは、私たちの救いのためには十分であるというのは確かであっても、私たちはキリストの死によって、神と和解した者とされる必要があります。しかし、和解を許されるためには、私たちは、まず、自分自身を和解されるようにしなければなりません。それは、私たちがキリストのみ元に行き、主によって用意された救いを受けなければならない、ということです。
もし、それをしたくないならば、決して救われません。ですから、神様はみ言葉を送り、証し人を送って、キリストに立ち返ることを強く言われるのです。
主イエスは私たちの負債(罪)と咎の証文を取り、主ご自身の血で、「支払い済」の印を、神の聖所で押してくださいました。同時に、私たち自身の心の中に「支払済」(罪赦された者)と主イエスに書いていただかなければなりません。そして信仰によって私たちの心を主に潔めていただかねばなりません。
失われた私たち罪人としてキリストに行かず、キリストの死には自分の罪の責任があると認めない者、また、信仰によって心をキリストに開かない者は、裁きを免れることはないことを事実として知らされています。
私たちは、自分自身が救われるか、失われるかを決断しなければなりません。この決断は「今」なのです。
「小閑記」
彼は乏しい者をその呼ばれる時に救い、貧しい者と、助けなき者を救う。
~詩篇72:12~
神の言葉は、高ぶる者、奢る者には厳しく語られ、鞭打つものでありますが、捨て置かれた者、不幸な者には、柔和で励ましに満ちたみ声で語られます。聖書の中にひと言として、自分を小さき者、貧しい者であると認め、知る者には、荒々し言葉は使われていることはありません。
絶えることのない水の清らかな流れの泉のように、恵みと励ましの愛、父なる神の心、また救い主の心は、助けを求める者、迷い出た者と認めるすべての者に、注がれているのです。聖書は、それを証言しています。
旧約聖書に登場するサウロが自分を小さい者と知っている時に、神はその民の上に王としてサウロを立てられました。しかし、彼が自分は偉大な者だと思いあがった時、彼は自らの刃に倒れました。
主は富める者を空しく去らせ、飢えたる者を良きもので満たされます。主は弱った者に力を与え、力なき者に勢いを与え給うのです。「重荷を負うもの我に来たれ」と招いておられます。主は不幸な者を救い、傲慢な者を低くされます。
天は喜び、地には喜びにあふれるといわれています。
わたしは主が苦しむ者の訴えを助け、
貧しい者のために正しいさばきを行われることを知っています。
詩篇140:12
あなたは苦しんでいる民を救われますが、
高ぶる者を低くされるのです。
詩篇18:27
世田谷通信(180)
猫草
次男は特別支援学校高等部3年生になり、卒業後の進路を考える時期である。障害がある故に大学や専門学校は選択肢にほぼなく企業就労か、作業所、或いは生活介護と言われる福祉施設へと進路を考えていく。企業はさておき、作業所と福祉施設ってほぼ一緒かと最初思っていた。でも違う。自治体によって呼び方は異なるが、いわゆる作業所は自力通所が基本、軽作業が中心で多少なりとも給料が貰える。福祉施設は送迎バスがあり、落ち着いた生活を支援することが目的。じゃあ全然違うかというと、そうでもない。要するに個々の施設によって雰囲気も内容も全然違う。運営する組織のカラーもあるし、集まった利用者どうしの個性に寄るところも大きい。ではどう判断すればいいのか。それは実際に行ってみるしかない。これに尽きる。
それは高校3年生が進路を考えるときと同じである。大学や企業と言っても千差万別なので、パンフレットを取り寄せ、ホームページをチェックし、オープンキャンパスに参加する。企業なら先輩に話を聞いてみたり、インターンシップで職場体験をするなど、色々な手段で情報を集めるだろう。そして最後は結局自分の目で見て判断するしかない。
高等部2、3年生は実習という形で1週間程度色々な施設に行って、体験学習を行う。3年生になると実習は進路に直結するので、受け入れ側も「来年4月からこの人が来たらどんな感じか」という目でみるし、こちらも「うちの子がここに入ったらどんな感じか」を探ることになる。
方針が決まったら利用希望というのを区に出す。入試や面接があるわけではないので、最終的な行き先は区の会議で決まる。こちらとしてできることは第3希望まで実習した中から施設を絞り込んでおく必要がある。もちろん定員はあるし、既存施設はどこも定員ぎりぎりという状況。新規施設は情報が少ない。どうなることやら、高校3年生。受験生のいる家庭の大変さも2年前に経験したので痛いほどわかるが、今回も先行きの不安と情報不足、不確定要素が多い。どちらも子どものよりよい将来のために最善を尽くすのは一緒だなあと思う。
『美しい朝に』・・47・・
7月19日
こんにちは、昨日、岐阜の多治見で気温が40度超えたとニュースで流れていました。昨日、大阪ではにわか雨が降りましたが、それでも暑い日が連続で続いています。熱中症での救急搬送の方も増えているご様子。京都の祇園祭や高校野球の応援でも暑さが大変みたいですね。
被災された方からの「ジャーナル」へのメールでも、この厳しい暑さは「悲鳴になりつつあります」とありましたが、特に持病がある方は、深刻だということです。私も、断水や停電も大変ですが、色々な病気の薬がないと思うと深刻な状態になります。腰痛や膝や身体に痛みのある方も床や車中での生活では
痛みが深刻になります。本当に「なぜ?」と泣き叫んで神様に文句しか言えない時があります。
自分に起こることは耐えられても、親しい人に降り掛かる出来事は、その意味が全く理解できなくて長い年月暗闇から抜けだすことができませんでした。でも、何もかも失ったと思った時、特に大きな災害の現場での他人への思いやりや助け合いこそ、本当に奇跡が生まれる場所だと思います。日本での大きな震災の中、身体や心に傷を受けた親しい人の立ち直る生きざまを見て聞いてきました。また、東北の震災での階段で人の歩けるスペースを開けて座る人々の写真に感心して心打たれた海外の方も多いと聞いたことがあります。
何回も「今夜が峠です」を経験した私は、私のことを案じる家族のことを案じました。「神様、もし私が生き残ったとしたら、私にまだこの世での役目があるのですね」と思いました。
7月27日
真夜中から朝方5時過ぎまで「避難警告」がでるほど、台風の雨風が強くて3階の窓ガラスも心配でした。豪雨であちらこちらの河が警戒水域を超えている
みたいで心配です。満潮みたいで高波も心配ですね。朝方の救急車のサイレンが気になりました。台風で始発からJRの電車は動いてないようでした。今は雨風も落ち着いてきたようで晴れています。気温は少し低いようです。お祈りありがとうございます。
7月31日
こんばんは。台風が去って雨風の台風でしたが、今日はまた本当に猛暑でした。体調管理が難しいですね。お祈り感謝です。今日は7月も最後の日で明日から8月なのですね。先日、堺みくに教会からお葉書もいただき感謝です。ハガキや手紙離れの時代に、時代とは逆行していますがお便りが大好きです。何故かとても温かみを感じます。おやすみなさい。
8月2日
夕方に「つのぶえジャーナル」が届いていました。被災されている方や家族やご自分のことで、辛い思いをされている方のお便りやメールを読ませていただきました。勇気を出させてくださったことに感謝です。簡単には解決できることではなくても、「ジャーナル」を読んで多くの方が祈って下さることが心の支えになると思います。私も多くの方にお祈りをしていただきありがとうございます。
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(149)
7月17日
昨日、猛暑の中、長い間、不便な生活をしていた台所に新しく、クーラーを設置してもらいました。この暑さですから、クーラーがなかなか手に入らない状態だというのです。一日がかりで丁寧につけてくださいました。除湿機能がついていて、そこをオンにするだけでもとても涼しく感じられます。この蒸し暑さがとてもしんどいのだということがよくわかりました。電気工事の方は同じ気温でも、ここ、山添村は緑が多いので体感気温が低く感じられるので、仕事がしやすいといってくださいましたが全身汗まみれになっての一日でした。
またたびの傾るる(なだるる)道をリハビリへ。
畔刈られ整然とある青田かな。
笹ユリの消えたる村の過疎進む。
玄関を出ていくツバメ急加速。
草むらに抜きんづるなり夏アザミ。 馬場路哉
山添村の総合検診が近づいてきました。あまりにも暑くて車で出かける気力が出てきませんが、何とか頑張って行ってきます。
7月25日
昨日、山添村の健康診断に行ってきました。暑い中でしたが、何とか決められたことをやり切った充実感がありました。結果は9月28日だというのです。心配していた不整脈は検診を受けるひと月ほど前から気にならなくなりました。昨日の心電図の検査の時にも自覚はなかったのでほっとしています。内科の女性の先生が心音を聴診器で調べてくださいました。貧血の検査も目の下側をめくって調べてくださいました。一つ一つの検査がとても昔懐かしく感じました。そして、外からの検査では大丈夫ですよ、と言ってくださいました。主人の母はこの地域で、お医者とてその生涯をささげました。その様子を思い出し、懐かしくほっとした一日でした。
7月31日
もう7月が終わろうとしています。西日本豪雨、12号台風、猛暑でととても長く感じられたひと月でした。今もなお、被害にあわれた方たちはとても大変な生活をされています。こちらは12号台風で、家の周りの竹がずたずたに倒れて道をふさいでしまいました。その片づけに追われただけですのに、すっかり疲れ果ててしまいました。それに生活用水の井戸水がまだ湧き出てきません。後しばらくの我慢なのか、とても嫌な予感がいたします。三日はその井戸を村中が集まって見に行きます。うまく水が湧き出ていたら、井戸の中を掃除して、飲料水として使えるようにする予定です。人間の計画がすべて覆されているこの頃です。この先どうなるのだろうと、不安がよぎります。「明日のことを思い煩うな」とのみ言葉。「一日の苦労はそれで充分である」というみ言葉を信じて、生きたいものです。
8月2日
暑さが続いています。この暑さには疲弊してしまいます。今までならば、午前中は何とか頑張ることができたのですが、最近はとても長続きは致しません。気力が保たないのです。そのうえ体力も弱っています。今までできていた仕事の半分もこなすことができなくなっています。診療所の先生は励ますかのように、まだ69歳なんだからがんばれるよ、と言ってくださいましたが、今年の猛暑には閉口です。セミたちがあまりにぎにぎしく声を出しません。暑すぎて、弱っているのでしょう。
白鷺の青田の中へ舞い降りぬ。
苦悩する姿尊し桜桃忌。
笠といふ山開かれぬ蕎麦の花。
無住寺の門前に群れ捻れ花。
信仰は闘ひと聞く聖五月。 馬場路哉
8月6日
きょうは暦の上では立秋です。昨日までの暑さに比べると二度ほど気温が低いこちらです。やはりとても過ごしやすく感じます。クーラーもいりません。洗濯物を干したり取り入れたりするのも、傘を差さずにできます。ほっと致します。でも緊張していた夏の暑さに疲れを覚えて、体は重いのです。被災地の方たちの特集が新聞に組まれています。アッという間に大切な命が奪われてしまうのですから、本当に悲しく辛く、その悔しさをぶつけたらよいのか、と毎日が戦いですね。「ジャーナル」さんとのメールでのやり取りに出ています。お祈りしています。
命掛け話す牧師や聖五月。
勇気もて道踏み出せと聖五月。
アジサイや永久の命を解かれける。
リハビリや、またたび傾る谷道を。
渓谷も滝壺も青と轟きぬ。 馬場路哉
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)・・90・・
☆ 「投稿してください」の言葉に乗せられてしまいました。一浪した息子も今は2年生になりました。最近のことですが、高校時代の仲間と無料の学習塾の手伝いをしているのです。家庭に事情や経済的な理由で勉強はしたいがついていけずに登校できない子がいるのを知って、区役所に問い合わせたところ、夜間の無料の学習塾のあるのを知って、自分にも出来るのではないかと始めたそうです。それまでマイペースな子でしたが、コンビニでバイトをしている時に、いつもおにぎり一個を買いにくる子がいたのが気になったと言っていました。自分がいかに恵まれた環境にいたかを知って、そのような活動をしているのだそうです。何だか頼もしい顔になりました。社会人になっても続けたいそうです。見守っていたいと思います。 神奈川県 Y・Oさん
☆ ・・・。数年前まで職場の先輩のTさんがデーサービスに来るようになって8か月になりました。最初は暗いお顔でした。私たち後輩職員も緊張しましたが、今は以前の先輩職員のように振る舞い、元気に他の利用者さんたちにも声をかけてくれて、大いに助けられています。経験って凄いなあ~と思いますのは、周りの人の体調などを見ていてくれて、それとなく私たちに教えてくれます。私も退職したら…のお手本になります。 山形県 ぽっこりXXより
☆ 「眸」のお仲間に入れてください。暑い毎日ですが、いかがですか? 私は必要最小限の外出で過ごしています。主人は病院を一時退院して、今、散歩に出かけています。カラオケセットとテレビを買いました。パソコンに繋げなくテレビを買い繋げました。私はカラオケが大嫌いですが、ヘッドホーンを使うようにお願いして、今は下手な主人の声(一番困るのですが)だけです。 身体はなんか、しんどくてゴロゴロしています。主人の無駄遣いも今のところは控えていますので、これも助かっています。息子はB形作業所に職業訓練のために勤務しています。今の所、 わからないながら、なんとかやっています。感謝です。大阪府 T・Mさん
☆ 田んぼもの作業も終わり、次は酒米の田植えは梅雨の時期だそうです。農家も機械なしの農業はできなくなりました。機械の操作を知らないとだめだそうです。農業もIT時代になり専門家並みの知識が求められ、昔の牧歌的風景など期待できません。都会に近い所では、若い人は町で仕事を見つけ、実家に近い所に家を建て、繁忙期だけ戻って来て仕事をし、定年になれば専業農家になる人がだんだん増えてきました。これも一つの農業形態なのでしょう。 秋田県K・Iさん
☆ 通勤電車では朝晩1時間半の生活が、もう30年近くなします。電車の中では行きかえり、寝ていたのですが、友人の紹介で「つのぶえジャーナル」を紹介されて、今は、通勤時間は、楽しい時間になっています。幸いにも、バックナンバーを読むことができますから、とても有益です。仕事の関係で日曜日は取引先の接待ゴルフなどで、教会生活はできていない不熱心な信者ですが(今もあまり変わりませんが…)、「つのぶえジャーナル」は読みごたえがあるので、よい勉強の時間になっています。私も定年間近かですが、これからも活用させていただきます。 神奈川県 T・Mさん
☆ 今回の大雨で友人の家が被害に合ってしまい、先日、片づけのお手伝いに行きましたが、日頃、力仕事をしたことのない者のすることは、迷惑を掛けることと、無理しなくてもいいよ、と逆に励まされてしまいました。それでも来てくれてありがとう、の言葉に行ってよかったと思いましたが、テレビで見るのとは大違いで、その災害の大きさに驚き、帰って老人会の集まりでお話しすることが出来ました。 島根県 K・Lさん
☆ 今日の大阪は良く晴れて気温も高い日でした。洗濯物は良くかわきますが、玄関の鉢植えの梅の木がしんどそうでした。この暑さは異常で人も動物も草花もみんなしんどくなりますね。線路が熱くなりすぎて、電車の事故もおきています。被災されている方には、この暑さが続くことが心配です。救急車もお忙しそうです。この暑さのなか郵便や宅急便などの急ぎの荷物を届けていらっしゃる方も疲れておられるご様子です。便利の陰に、多くの方のご苦労のあることを知らされます。 大阪府 K・Yさん
☆ 小学校司書として、子供たちに読み聞かせをしています。今回は夏なので怖い本を読もう、ということで、遠野物語絵本「かっぱ」と「ざしきわらし」を読みました。柳田国男、京極夏彦らしく、変にオチをつけず、そのまま民間伝承を絵本にしている。子ども達に伝わったのかどうか、でも集中して聞いていましたよ。 東京都 B・Mさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り・・3・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=わたしのほかに=
第一戒①・偶像の支配
出エジプト記20:3、ローマ1:23~25
天地には、天地を造られ、それを治めておられる神だけがまことの神です。人々はいろいろなものに名を付けて、神々と呼んでいますが、それらは神ではありません。聖書はそのことを直接的に、また間接的にはっきり述べています。
例えば、申命記4章28節のモーセの言葉は、将来イスラエルの民が約束の地に入った時のための注意を与えていますが、その中で次のように述べています。
「あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、たべることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう」。
このように、偶像とされるものは、実際には神ではないのです。預言者のエリヤもイザヤも、同じことをこう述べています。バアルの預言者たちとカルメル山で対決した時、エリヤは彼らをあざけって言った。「大声で叫ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか。それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて起こしてもらわなければならないのだろう」(列王記上18:27)。
イザヤも40章19節は、こう言います。
「職人は偶像を作り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける」。
このように人間が作った神ですから、偶像は神ではありません。それでも、偶像を問題にし、攻撃する必要があることを、神は第一戒で、禁じるという命令によって教えます。
旧約聖書にも新約聖書にも、偶像というものが作り出され、神の民はその偶像に従う危険に囲まれていることに注意を与えられています。イスラエルの民の歴史が示すように、それが内部から崩壊していったのは、まさに、この問題でした。間もなくソロモンの晩年の箇所になりますが、彼の不信仰はアンモン人の神ミルコム、モアブ人の神ケモシュ(列王記上11:4~8)の影響でした。
そのように、偶像は単なる異教の神々の問題ではありません。われわれの周囲に、われわれの心の中に、力をもって支配するものが偶像だからです。人を奴隷にする力をもっているものが全て偶像になります。例えば、典型的なバアルにしても、それは肥沃な収穫という富を人格化して神にしたものです。雨や雷の神、多産の神という具合です。
その他、いろいろな願望が神になります(ローマ1:23~25)。黄金や財産が崇められ(ヨブ31:24~25)ます。聖書はまた貪欲を偶像崇拝といいます(コロサイ3:5)。偶像のリストはさらに広いわけで、美貌、権力、知能、伝統、良心、趣味というように、良いものであっても私たちを支配するとき、偶像になります。ヨハネは「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」(Ⅰヨハネ2:16)が偶像になることを警告します。
第一戒② 神を愛する
出エジプト記20:3、ヨハネ21:15~16
「あなたは、わたしのほかに何者をも神としてはならない」という第一の戒めは、わたしのみを神としなさい、という命令でもあります、前に申しましたように、神々は多く存在していているのでありません。聖書によって神の方から御自身を明らかにしてくださった神のほかには、神は存在しません。それなのに、人間は自分の思いや都合のために神々を作りますから、多くの神々がいて、その中から選ぶかのように見えるため、それに合わせて、神はモーセにこのように第一戒をお与えになりました。
この十戒と共にイスラエルでよく読まれていたのが申命記6章です。主イエスも律法について、どれが最も大事な戒めかを問われた時、申命記6章の4節の言葉を引用されました。
「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
ここで、「愛しなさい」と言われていることが大事です。これは、レビ記19章18節の隣人愛の戒めと共に、十戒の内容を要約したものとして、主イエスによって用いられたこと(マタイ22:37~40)を、私たちはよく知っています。
この「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」ということが律法の要約であるということは、十戒を守る力が神に対するものであれ、隣人に対するものであれ、愛にあることを教えます。事実、私たちが聖書の神を神として選び、その命令を守ることができるのは、単なる理屈から出てくるものではなく、神を愛するときに可能です。私たちが親の言葉に本当に従うのも、親を愛するからであるのと同じです。
主イエスの到来は、父なる神の臨在を私たちに非常に身近なものにし、神を愛することも現実なものにしてくださいました。私たち人間の代表ともいえる主の弟子たちは、主との歩みを共にすることができなかったので、主の復活を信じるのに鈍かったこと(ルカ24:25)、主がゲッセマネの祈りの時、大きな苦しみの中にあった時でも、居眠りをしているような始末であったこと(マタイ26:40)、ペトロに至っては、イエスを知らないと誓ったこと(マタイ26:69~75)、そして、主の約束どおりに復活なさったことを仲間から知らされても、弟子たちの中には信じられない者もいたことを、知らされます。
こうした彼らがやがて主を愛し、隣人を愛してその伝道の道を歩んだのは、彼らが主イエスに愛されていることを知って、主を愛するようになったからでした。ヨハネが福音書の17章に記されているように、主イエスは愛して執り成しの祈りをなさいました。やがて彼らは、主イエスに十字架と復活が保証している救いの恵みを知るようになりました。特にペトロは、「わたしを愛するか」と三度も問われ、主を愛することが掟を守るための秘訣であることを教えられました。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・10・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
8 バラの伝道・・2・・
ここでちょっと日本人の国内伝道について記してみよう。
日本人の最初の伝道は、小川義綏、奥野昌綱氏などが明治6年10月に、上総、八王子、川越街道を凡そ20日に亘って伝道、聴集延八百人位あったということである(植村正久とその時代第三巻1頁)。
また横浜海岸教会のバラ先生の影響は大きく、明治7年夏7月には同教会有志の献金70円で青年学生8名が選ばれて近県に伝道した。東海道静岡方面には篠崎桂之助、押川方義、上総、房州方面には本多洋一、雨宮信成、江頭信太郎、野州日光方面には吉田信好、井深梶之介が向かった。他に別動隊として箱根宿に熊野雄七が赴いた。
バラ先生の伊豆地方の伝道について小出正吾氏の談によると
「当時外国人は居留地から20里以外への旅行を許されておりませんでしたが、箱根湖畔は範囲内でございました。日本橋から勘定いたしますと26里になるのですが、神奈川から勘定してくると、すれすれ20里以内に入りますから、許可なしに避暑に来ることができました。暑さを避けつつ其の寓居で伝道集会を行う。
明治7年(1874)夏の事でございましたが、その際、三島神社の神宮内海某と商人安井某とがわざわざ箱根をもぼって聴聞したと伝えられていますが、三島の住人で初めて新教の説教を聞いたのは、恐らく両氏であったと思われます。
此の伝道の結果、一ケ月余にして箱根町の白井三四郎、山中宿の津田政右衛門などがバラ博士から洗礼を受けて信徒となった(…中略)。
明治8年(9月)、バラ博士は青年伝道者伊藤藤吉と共に三島に下り伝馬松葉屋に投宿し同家で伝道集会を開こうとしたが、館主が承諾しなかったので、三島神社前のキリシタン禁制高札に提灯をかけて路傍説教を行なった。高札はすでに、明治6年撤去を命じられていたが、地方によってはその様に未だ残存しているところが多かったのである。
当時としては珍しいこの辻説教は全町を動かし、おびただしい群衆が集まった挙句の果ては問答となり、遂にはケンケンゴウゴウ外人打つべし、殺すべしなどと叫んで石が飛ぶ騒ぎとなった、と言う(バラ先生と伊豆伝道 5、6頁)。
幸い桔梗屋市兵衛こと、小出市兵衛は、バラ先生と伊藤伝道師を家の裏二階に三日間かくまってのち、早朝のまだ暗い内に二人を箱根へ送り返した、と言うことである。これが機縁となってバラ先生は三島での伝道には、市兵衛宅に宿泊され、明治16年1月4日、三島教会が建設された時、この小出市兵衛氏も先生から受洗したと言う。
三島神社前の路傍伝道中、バラ先生に砂や石を投げたという青年沢田慶太郎も、箱根でバラ先生の私立小学校の教師となった後、入信して伝道師となり、明治18年3月25日御殿場教会の主任者となった。
芦ノ湖畔、箱根を源流としてバラ先生の伝道地を辿ってみると、箱根より三島に向かう途中の山中部落で、明治10年頃バラ先生、伊藤藤吉伝道師によって伝道がなされた。この山中宿の津田政右衛門は、先に箱根でバラ先生から受洗した信徒であり、この宿の「津田大作氏が明治11年にバラ先生から受洗、横浜海岸教会員となり、自宅を開放して集会した」(御殿場教会史)。
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・12・・
テレビの「お笑い番組」によって提供されているお笑いでなく、死に直面するという危機においても、なおこの危機を危機としないで、新しい命へと変えられるものとする視点に立つという、イエスの復活によってわたしたちに提供されて自由に生きることができるなら、そういう死をも笑う人は、ユーモアに生き、人にもそれを示すことができる人であり得ることでしょう。ユーモアということは、そのように、復活という、人間の思いを超えた神の業を信じる者に与えられ発揮できる境地ではないかと思うのです。
パウロはテサロニケ教会に宛てて書いた手紙の中に、次の一文があります。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいて欲しい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から下って来られます。するとキリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」(Ⅰテサロニケ4:13~18)。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2018年9月のラジオ放送予定>
9月 2日 木下裕也 (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
9日 木下裕也 (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
16日 金原義信 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
23日 金原義信 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
30日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
第85課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・37・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・4・・・
「日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」(6節)。
ここの言葉は、ユダヤ教の祭りの日を守るものも守らない者も同様に正しいと言っているのではなく、また、肉を食べる者も野菜だけ食べる者も共に正しいと言っているのでもありません。それどころか反対に、一方は正しく他方は間違っており、一方は信仰が強く他方は弱いと言っているのです。この聖句でパウロは、両方のグループのキリスト信者が共に神への献身という動機から良心的に行動していると言っているに過ぎません。
一方は忠実に神に仕えており、他方は罪を犯しているケースではありません。双方共に献身の気持ちと神への感謝から、各々そのように行動すべきであると良心的に信じて行動しているのです。ユダヤ教の祝祭日を守ることをせず、宗教的な迷いでなく、すべての食物を食べる強いキリスト者は、そうすることによって神に感謝を捧げていること、良心に従って行動していることを明らかにしているのです。それを用いることが有罪であり禁じられている事柄を行いながら、神に感謝することはできません。同様に、それらの日を守り、肉を食べることを控えている人は、確かにその信仰において弱く、誤っているけれども、やはり自分は神のご意思に従って行動していると信じて、神に感謝を捧げているのです。
「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」(7)。
すなわち、真にキリスト信者ならば、自分自身を自分の主人と見做す者はなく、また、自分の好むところに従って行動する自由があると考える人はいない。彼は自分の生と死において、生きるにも死ぬるにも、その主なる目的は神の栄光を表わすことであることを認識しています。彼は自分自身は自分のものではなく、価をもって、すなわち、キリストの尊い血潮にとって買い取られたものであることを認識しており、従って、自分がキリストの僕であり、神のみ心に従ってその栄光を現わすように生きるべきことを知っています。
パウロはこの原則を受け入れる人はすべて、たとえ個々の事柄についての神のご意思を理解することについて、誤りや弱点を持っていても、真のキリストとして取り扱われるべきであると言っているのです。自分が全くキリストに属するものであることを認識し、自分の生と死について、自分が権威を持つ者ではないことを知っている人々は、キリスト者兄弟姉妹として受け入れられるべきであります。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」