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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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    ほっとひととき『みんなのコーナー』

 ☆ 主人とアジサイ公園に行っていました。その時に見つけた野生種のアジサイです。とても味わいがあり送りますね。愛知県 O・Kさん

 ☆  初夏を迎え、様々な不具合を身体に覚えても清々しい気候がアウトドアに呼んでくれている様です。最近は子育て事情は昔と一変しており、出産補助金や予防接種の補助があり、とても驚きました。また子育て支援も充実していて、各児童館や保育園、幼稚園センターなどで、多くの場所が提供され事業が展開されています。昔は近くの数少ない公園か、スーパーのキッズコーナー、良くても図書館で助けられたことを友達に伝えると、それはそれで驚かれます。育児しやすくなっても以前の不便さを知らないとそれが当たり前、普通になっているのですね。いろいろ状況により変化があっても仕方ありませんですね。
 主の導きにより人生が開かれている感謝を忘れないことこそ大切にしていきたいものです。今月の発行もお疲れ様です。奈良県 NRさん

 ☆ 「つのぶえ」そして「つのぶえジャーナル」を合わさると40年以上のお付き合いになりました。親しい友も召され、寂しさもありますが、毎月送られてくるのこの今の「つのぶえジャーナル」が信仰の友・絆になっています。ありがたいことです。80を超えましたが、まだまだ読むことができますので毎月楽しみに待っています。この「ほっとひととき『みんなのコーナー』」はいろいろの方の信仰の姿を知ることが出来て励まされます。過疎地、コンビニもありません。小さな畑で野菜物を作っています。誰かが声をかけてくれて、魚やお肉や牛乳はまとめて買って冷蔵庫です。助け合えば何とかなりますよ。高齢者の過疎地もいいものです。 徳島県 TMさん

 ☆ 私たち人間て身勝手な存在なのですね。あの独特の蛙の鳴き声は、若い時にはうるさく感じましたが、農薬が使われるようになってから、急に静かになり、時には不気味は静寂で、ここにも自然破壊が・・・と思えた時がありました。しかし、今は賑やかです。自然の営み、生き物とのかかわりを感じています。 群馬県 R・Oさん

*********

 Δ 母が寝たきりになって6年になりました。自分で介護しなければ・・・と思うと、つい言葉がきつくなってしまったとき、お隣の人が声をかけて下さり、一緒に時を過ごしてくれるようになりました。今はホームヘルパーさんの助けをいただき、私も母も笑顔が多くなりました。もう抱え込むのはやめました。 

Δ 運転の出来ない私ですから母の様子を見に行くのは一日仕事になりますが、待っていてくれるので、出かけて行きます。地域の人たちにお会いすると、心配しなくてもいいのよ、幼馴染のSちゃんだもの、お互いさまよ。あんたこそ元気でね!に胸が熱くなります。

Δ このままでは、子供たちを不幸にすると考えシングルになって7年目になりました。二人の子供たちも大きくなりましたが、不安定な収入、ふと再婚を考えてしまう心の迷いの今。子供にとってシングルになって良かったのかと悩む。答えなんかわからない。さあ、深夜勤務だから出かけなければ・・・。またメールします。今までもめちゃしてますね。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております* 編集子

 

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    『ありがとうございます』

 沖縄は梅雨明けですが、名古屋は今少し先の様です。紫陽花の花便りが送られて来ますと、梅雨の真っ直中を感じます。庭に咲きました、アジサイ公園やお寺に見物に行きました、というものですが、そんな中に、アジサイを見ると亡き母のこと、失った友人のことが思い出されます、というお便りもあります。雨にうたれた寂し気な花に人それぞれの思いがあることを思わされます。そんな思いにさせる梅雨の時期、皆様のご健康をお祈りいたします。

2017年5月16日から2017年6月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

三木朝子様 藤井和夫様 岡田千歳様 佐藤のり様 島田祥子様 匿名1名

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

  今月のことば

 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

       ~マタイ6:14~15~

 この聖書のみ言葉は多くの人が知っている言葉と言えます。世の中に、このみ言葉が、個人レベルだけでなく、国と国の関係に適用出来たら・・・と思うのです。「愛し、受け入れ、赦し、赦される」社会の一人として、このみ言葉を大切にするなら、どんな社会が生まれるでしょうか。夢物語と言われても、祈り願い求めませんか。

 神の愛と慈しみは、一人ひとりに当時も後の歴史の人類にも示し、与え続けています。罪と放蕩に明け暮れた私たちに、悔い改めを求め、常に扉を開いています。何か特別な心構えと身支度をしてではなく、ありのままの姿で来なさい、と招いておられるのです。人は疑い深いものです。無条件ほど疑うのです。裏に何かあるのではないかと不安になるのです。むしろ、ある基準、ハードルが示されることで安心し、励むのです。

 でもここにも条件があります。全くの無条件ではありません。それは神様への「悔い改めの心と赦された者とされたことを知って、感謝の心をもって、赦されている喜びで、赦す愛と信仰に生きる」ことです。

人を尊敬し、愛する心に変えられるなら、こんなうれしいことはないのではないでしょうか。

 

  「キリストによって」

 むなしく生きる私たちの所に こられたキリストによって

 父なる御神の招きを受けて 父なる御神のもとへ帰れよ

 

 悪に苦しむ私たちの所に こられたキリストによって

 父なる御神の正義を知りて 父なる御神の腕に頼れよ

 

 病に悩む私たちのところに こられたキリストによって

 父なる御神の恵みに触れて 父なる御神の安らぎを得よ

 

            水野源三 信仰詩集   

 

   小閑記 

 われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。

       ~詩篇90:12~

 

 人には思い出したくない出来事、消し去りたい思いを持っています。同時に、今までの歩みを旅になぞらえ、生き抜いて来たことを思い出す人もおります。また、神が赦して下さるからと言っても、自分の犯した罪の数々を、告白できないで、何時までも心の奥にしまっているのも事実です。

 神は、私たちの罪を幾度も赦し恵み、支えて下さってきたことも事実です。嵐や苦難、先の見えない暗闇の中をさ迷ってきたのも事実です。しかし、神様は支えて下さいました。

 

 人は、年を重ねると、ふとその生涯を振り返ることが多くなります。とても大切なことでもあります。それは、若い時を思い出し懐しむためだけではありません。その歩みの背後に何を見るかです。自分の努力、功績、それもあるでしょう。しかし、そのまた奥に、神の御手、摂理に出会い見るなら、何と幸いなことでしょう。

 

 不思議ですが、日々の生活の中に多く出てくる言葉があると言いかす。それは「ありがとう」という言葉だそうです。自然に出てくる言葉がそうです。当然、愚痴や不満な気持ちの言葉も多いでしょう。そんな時でも、澄みわたる青空、清らかな思いも湧いてきます。

 それを可能にするのが、信仰の歩みです。自分の信仰の歩みを回顧する時、神様に不平、不満を言うでしょうか。多くの困難であればこそ、祝福もまた多しです。不運の時間と平安な時間を比べた時、平安の時の長さに驚きを発見するのが「回顧」の素晴らしさです。

 

 神の愛に生かされ、神に見捨てられることなく、今あることに感謝したいものです。

 

 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」というようにならない前に・・・。ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ、これはすべての人の本分である。・・・。」(伝道の書12:1、6、13)。

 

世田谷通信(165

猫草

世田谷の制度を利用して、ガーデニングを頑張っている。今までは思いつきで植物を庭の空いているところに植えて枯らす、の繰り返しだった。まあ気が向いたときに特売品の花や苗を買っていたので然もありなんである。

しかし今度は違うのだ。ちゃんとプランを作り、申請して承認を受け、実行してから報告書も出して、助成を受けるという立派なプロセスがある。3軒以上のグループで活動するという条件もあるのでお隣とお向かいを巻き込んでの共同作業である。とはいえ自分たちだけではプランも作れない。この制度の良いところはガーデニングの専門家を派遣してくれるところだ。現地を見て、ここにはこういう植物とか、あっちにプランターか、ハンギングバスケットもいいんじゃないか等、色々とアドバイスをもらうことができる。

最初はプランなんてめんどくさい、と少しうんざりしていたのだが、計画してから園芸店に行くと、目的がはっきりしているので買いやすい。例えばラベンダーといっても濃い紫から白やピンクまで様々な色があり、雰囲気も違うのだ。

ベランダ前に培養土を入れてレンガで囲い、ラベンダー、ローズマリー、タイムなどのハーブ類を外から見えるように育てる。雑草だらけの門柱周りも一度掘り下げて腐葉土を入れる。何を植えても育たないな、とあきらめていたのだが、掘り返してみたら木の根が思った以上に広がっていた。根をとって、雑草を抜いて、土をふるい、肥料を入れたら植物が育ちそうな、ふかふかの土になった。今までこのプロセスを省いていきなり穴を掘って植えて、いや埋めていたのだから、植物に申し訳なかった。こんな場所無理と内心ご立腹だったに違いない。植物が寡黙で良かった。

いい土にしたらスイートピーがよく育つ。アズレウスという、深い青紫の品種で実に美しい。綺麗な花が咲くと手入れも楽しくなる。植物と向きあって、土に触れていると、ささくれた気持ちも落ち着く。植物や土いじりをするセラピーもあるそうだ。さらに植物の好きな方が綺麗ですね、珍しい種類ですね、と通りかかって声をかけてくれたりする。褒められるとやる気も出る。次はどこを手入れしようかと構想が広がる。いい循環である。

 

   『美しい朝に』・・32・・

4月17日

大阪は雨が降り出してきました。2日ぐらい前から、腰痛とひざ痛がひどくなりました。お天気が良かったときに、美容院へ行った時は、まだそんなに痛みはひどくなかったのですが・・・。19日が神経科なので、身体の調子も悪く、眠れなくて、お腹をこわして3階から、夜中に2階のトイレに何回も降りることになり、ひどくなった気がします。辛いです。階段にもお風呂にも手摺がついて、杖で上り下りしています。それでも、一段ごとに寒気がするほど痛いのです。

4月20日

 昨日は、神経科の日でした。腰・膝の傷みとお腹の調子が悪くて院内の移動に大変でした。5日ほど、寝れていませんでしたが、ベゲタミンは、足しませんでしたのでハルシオンを他の薬にかえてくださいました。おかげさまで、昨夜は良く眠れました。お祈りありがとうございます。「痛い・痛い」さんのためにお祈りしています。

4月25日

 今は、晴れていましたが少し曇ってきました。昨夜は、寝返りするとあまりの痛さで眠れなかったので、朝方3時半に、PCでネットスーパーで買い物をしていました。それでも、昼の12時~14時の配達にやっと間に合いました。

確かに、配達してくださる方の負担を考えると申し訳ないのですが、腰痛やひざ痛も加わって自分で買い物できない私には、買いたいものを届けていただけるサービスはありがたいのです。腰痛とひざ痛はますますひどくなって、4月30日に以前診ていただいていた鍼の先生に往診して頂けることになりました。

4月27日

 今日は、良く晴れています。昨日は、久しぶりに熟睡できました。お祈りしていただき感謝です。「つのぶえジャーナル」の「世田谷通信」さんは、ご長男の大学進学と同時にご自分も新しい資格をとろうとしておられる姿勢に勇気づけられました。

5月1日

 昨日も、今日も暑いくらいのお天気でした。昨日は、診ていただいていた鍼の先生に診に来ていただきました。あまりの状態の悪さにびっくりされ、1回では半分直せるかどうか・・・と、本気でマッサージも体重をかけて汗だくでしてくださいました。鍼の効果もあり、少しは楽になったのですが、「近くではやいうちに続けて通った方が良い」と言われました。

5月9日

本当にGWあけでお医者さんがお休みでないのが本当に安心感がありますね。

装具が出来るのが待ち遠しいですね。私も、腰と膝のサポーターにずいぶん助けられています。今日は、母のために本当に簡単なレシピを作っていました。

料理を作るのがしんどくなって、お弁当をいただくようになっていたのですが、このGWみごとにお弁当もお休みだったみたいで、困ったそうです。

「祈りのちから」という映画をDVDで見ました。あらためて、「お祈り」が大切なのだと感じました。家族のことも自分のできることはしても、神様に

祈り、またお祈りしていただけることを感謝します。

5月12日

 大阪も今日は蒸し暑く曇ってきました。腰や膝が痛くて、気にはなっていたのですがお風呂や洗面所の掃除ができていませんでしたが、今日は、痛さも楽になってきましたので、お風呂と洗面所をカビキラーで掃除しました。

今は扇風機で部屋の空気の入れ替えをしています。身体じゅうが痛くて辛い時は、「もうこのまま痛さが続いて何もできないのだろうか」と思っていましたが、鍼灸院の先生に治療をしていただいて傷みが軽減しました。当たり前のことがありがたいと思えるのも辛い経験のあとにしみじみ感じます。

お祈りしていただきありがとうございます。

来週は、15日鍼灸院・17日神経科・18日内科で内科ではレントゲン・心電図・血液検査・体重測定と調べていただく予定です。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

 その愛のゆえに

   =時々の記=

    (134)

54

こちらは日一日と緑が濃くなってまいりました。この頃になると思い出す讃美歌は122番“緑も深き若葉の里”です。散歩の途中でもいつも口ずさんでいます。

庭の梅の木は黄緑色の葉っぱをたくさんつけて、梅の実が熟していくのを待っているかのようです。台所ではもう蟻が甘いものを狙って歩き始めました。外の八朔の木の下では、大きなカラスが木の根っこに座り込んでいるのです。どうして、こんなところにいるんだろうと思って遠いところからじっと眺めていると、取り残した八朔をおいしそうについばんでいるのです。カラスは頭がよいとは聞いていますが、このような光景を見たのは初めてです。よく見かけるのはゴミをあさっている様子ばかりでしたから・・・。

5月9日

三重大病院で10年間お世話になった先生がおられなくなっているかと思うととても寂しいでした。新しい先生ってどんな先生なんだろう。できたら気さくな先生であってほしいな、何でも言えるような先生であってほしいなと思いつつ、j1306番の番号を言われるまでじっと待ちつづけました。一時間半ほどでその番号を言われて診察室へ入ると、なんとわが息子よりも若い先生が“画像診断から見ると異常はありませんね”といってくださいました。十年前にさかのぼって詳しく経過を確認してくださいました。先生がカルテをしっかり読み直してくださると、そうだ骨折して在宅治療に専念した三か月があったのだったな。よくぞ大きな山を何度も乗り越えて今日まで支えられてきたなと感謝の思いで胸がいっぱいになりました。昨年の様に電話で呼び出されないように何度も若い先生に肝臓は大丈夫でしょうか?としつこくたずねてしまいました。

一度に肝臓、肺、骨盤、右大腿部と四か所も造影剤を使っての精密検査でしたがすべてに異常が見られずに感謝でした。三重大の先生も“毎日リハビリをやっていますか?”とたずねておられました。リハビリに励むことによって筋肉がついてくるだけでなく精神的にも前向きになるのだそうです。改めてリハビリの大切さを教えられました。

510

今日5月10日は61年前に伊賀上野へ家族でやってきた日です。朝、長野の上田を出て伊賀上野へ着いたのは夜暗くなっていました。あわただしく数名の方たちに迎えられての開拓伝道の始まりでした。とにかく礼拝をする場所がない。それを快く受け入れてくださったのが今は宝塚にお住いの鶴原さんご一家でした。

そして私たち牧師一家とともに路傍伝道にも一緒になって讃美歌239番を歌い続けてくださり、街中を通り行く人々に礼拝へのお誘いをしてくださったのでした。なかなか、実は結ばれませんでしたが、お一人の姉妹が礼拝に来てくださり、皆が心から喜んでお迎えしたのを、今でもはっきり覚えています。その後、あけぼの保育所という所で日曜礼拝をすることが許されてとても感謝したのでした。

5月になるといつもそのことを思い出すのですが今年は何だか特別な思いでこの日を過ごしました。61年間上野での伝道が続けられていますことに神様に心から感謝するのです。

藪椿入日に一層赤々と。

犬おれば蛇現れずツバメの巣。

古巣より飛翔する日の近からむ。

老いぬれど気丈なれかしイースター。

塗畦や里山晴れて鳩の声。      馬場路哉

5月13日

 一昨日はとても蒸し暑くてどうも変だなと思っていましたら、今朝から激しい雨に見舞われました。その雨に打たれながらも、ツバメは元気に空を舞っています。さすがに年老いた犬たちは雨の空を眺めながら、散歩に行くのは無理だと考えたようです。今まで元気だったころは雨など平気だったのですが、体の調子の衰えをよくわかっているようです。それがまたいとおしくて、胸がきゅんと痛みます。夕方になってから雨が上がったのでいつものように散歩に出かけることができました。この一日も欠かすことができない日課をこなすことができるとホッとするのです。野山は、雨に洗われて、一層緑が濃くなってきました。

地面を這う蛇が庭先に出てきました。ツバメを狙っているのです。犬たちが元気なときにはこのようなことはなかったのですが、蛇の賢さには驚かされます。

犬たちの弱り方を察知しているからです。

5月14日

 母の日礼拝を金城学院の学生時代にスマイス寮で捧げたのを思い出した一日でした。ポーリン・マカルピン先生のご奨励でした。アメリカではこの母の日を特別に大切にしているといわれていました。母の日には家族が集って感謝の気持ちを表す日なのだと、ある牧師さんがその夫人のために特に記念して行っていたというのでした。皆で、510番“母は涙流す間なく祈ると知らずや。”と賛美し終わるとみなそれぞれの母を思い出して涙していました。子供のために精一杯の犠牲を払って育ててくれた母のことはいつまでたっても尊い存在ですね。

マーガレットの花が咲き誇っています。

藪椿入日に一層赤々と。

犬おれば蛇現れずツバメの巣。

古巣より飛翔する日の近からむ。

塗畦や里山晴れて鳩の声。

木の上の両手に乗りし古巣かな。   馬場路哉

    馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (58)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第27章 礼典について・・・3・・・

5 旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(1)

  1 コリント10:1-4

五 新約時代と旧約時代は、同じ恵みの契約の二つの時期で、一方はキリストが来られた後であり、他方はキリストを待ち望んでいた時であって、別個の契約ではない。従って、旧約時代の礼典のしるしが表示した霊的事柄と、新約時代の礼典のしるしが表示していることとは別の事柄ではなく、まったく同一の霊的事柄であることは当然である。

 まず、わたしたちキリスト者がこの世で受けている救いの祝福(義認とか、子とされることとか、聖化などの恵み)と最後の審判において受ける究極的な救いの完成状態との関係を考えると、それは太平洋と海岸の入江の関係に比べることができよう。両者は、完全な状態とそれの初歩的な様相との相違であって、実質は同一の新しい命である。

 ところが、礼典のしるしが表示する霊的事物とは、普通には自分の掌中にすくい上げられたにも等しい一滴の水そのものである(場合によっては、太平洋そのものを意味するかも知れないが)。従って、この霊的いのちと、それを表示しているしるしそのものとは、決して本質的には同一物ではない。洗礼の水にしろ、聖餐式のパンやぶどう酒にしろ、それ自体はどこまでも被造物であり、朽ち果てる品物に過ぎない。

 しかし、この礼典を行なう場合、それにあずかったキリスト者の魂は、現実にそれが表示する霊的祝福、すなわち、永遠のいのちの一滴に浴しているのである。その効果は、何となく心がうるおう、というような気分的な問題ではなく、むしろ、主観的自覚を越えた客観的実効を伴うものである。

 もちろん、これにあずかった人が真に神の聖霊の働きに浴している場合のことであって、偽信者、偽りの一時的信仰の持ち主の場合には、受洗も、主の晩餐の陪餐も、少しもそのような祝福を伴わないばかりか、かえって、裁きを招くことになるのである。

 

さんびか物語 ・・・39・・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・38・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌391番

 ナルドの壺

<神様のみ言葉>

「イエスがベタニヤで、ライ病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」。 

~マルコの福音書14章3節~

奉仕についての素晴らしい、そして美しい讃美歌391番“ナルドの壺”の原作者はエドウィン・パント・パーカーです。この讃美歌は、彼の故郷のアメリカでよりも日本の国の方でよく知られ、愛唱されていると思います。

パーカー(1836~1925)は、アメリカの東北にあるメイン州のカスティンという町に、1836年1月13日に生まれ、後にドーウドィン・カレッジとバンカー神学校で教育を受けました。卒業後、組合教会の牧師となり、50年の長い間コネチカット州のハートフォード市のセンター教会(中央教会)の牧会に力を注ぎました。

めずらしいことですが、パーカーは56歳になるまでは、讃美歌は一曲も作ったことがなかったのですが、この年のスタートとして、89歳で召される1925年までに、なんと200ほど作詞・作曲しました。そのうちの一番歌われているのが、この讃美歌“ナルドの壺”であります。

この讃美歌は、歌詞・曲ともパーカー牧師の作品で、1888年に作られたものであります。この歌詞は、パーカーが中央教会での、ある日の説教の締めくくりとしてこの詩を作ったものであります。

LOVES  OFFERING (愛の捧げ物)は、歌詞が作られて作曲され、翌年の1889年に The Christian Hymnalという讃美歌集に初めて発表されたものであります。

パーカーは音楽に対して強い興味を持ち、中央教会の牧師だけでなく、聖歌隊の指揮者としての責任をも果たしていました。そのような関係から讃美歌の歌詞・作曲・編曲という広い範囲に才能を持っていましたし、讃美歌集の編集などもしていました。

 奉仕の尊さを中心に歌っています歌詞をともに考えてまいりましょう。

 <391>

   1 ナルドの壺 ならねど

     ささげまつる わが愛

     みわざのため 主よ、潔めて

          うけませ。

 1節ですが、最初の言葉のナルドとは何を意味するのでしょうか。聖書辞典によりますと、ネパール、ブータン、チベットが原産で、おみなえし科の多年草で、根茎の部分から優秀な香料が採れ、これを石膏の箱に入れて遠路を運ばれていてとても高価なものとされていました。

 おもしろいことですが、原作ではナルドの壺ということばそのものは用いられていません。パーカーの歌詞では“主よ、私たちはマグダラの(マリア)のように香のよい値段の非常に高い持ち物をあなたに捧げることが出来ません。しかしながら、どうか、私たちの愛の香のように、いけにえよりもかんばしい香をあなたのみ前に放つように”と歌っています。

 原作では、“マグダラ”という名前が用いられていますが、これは、昔からの誤れる伝統によったもので聖書的ではありません。日本語訳の方が聖書に近いものとしなければなりません。

 マタイの福音書26章6節~13節やルカの福音書7章36節~37節に記されている「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼをもってみもとに来て、食卓についておられたイエスの頭に香油を注いだ」この女とはベタニヤのマリヤと言われ、ルカの福音書8章2節の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリア」とは別人であることを知っていただきたいと思います。

 ですから、原作にある“マグダラ”という言葉は不適当としなければなりません。また、新約聖書には6人のマリアが登場していますので、それぞれをご自身で確かめるもよいことと思います。

 この讃美歌の背景にある出来事ですがマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書にそれぞれしるされていますから、それぞれの箇所をお読みになってください。場所はベタニヤという村に住んでいたシモンの家で、イエス様のために晩餐をひらこうとしているところです。ラザロの姉妹マルタは、そこで給仕をしていました。もう一人の姉妹マリアは、非常に高価なナルドの香油の入った石膏のつぼを割って、イエス様の頭に注ぎ、また、足に塗り、彼女の髪で足をぬぐったことが記されています。

 そこにいた何人かの客のうち、特にイエス様を裏切ろうとしていた弟子の一人のイスカリオテのユダが、それを見て憤慨して「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに」と言ってマリアを責めました(マルコ14:4~5)。しかし、ユダがこのように言いましたのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であった、とヨハネの福音書12章6節に記されています。

 イエス様はマリアを責めていた人々に「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。・・・埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことにあなたがたに告げます。世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人の自らした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(マルコ14:6~9)と語られました。

 イエス様は、これにまさるお褒めの言葉を他の誰にもお使いにならなかった

と思います。私たちも、彼女の愛の業に教えられて、よき業に励みましょう。自分の出来ることを必ず実行することであります。

  2 よわき民に  ちからを

    おぐらき世に ひかりを

    あたえて主の たかき御旨

       なさばや。

  3 怖(お)ずるものに 平和を

    なげくものに  のぞみを

    わかちて主の  ふかき恵み

       あらわさん。

 2節と3節では、実際に私たちに出来るような愛の業を、具体的に示しそれをなすようにという勧めを美しく歌っています。もちろんこの業は、いつもみ旨にかなうように、また、主の深き恵みをあらわすためのものであることを、常に祈り求めるべきであります。

 愛の業、それは、弱き民に力を与えること、おぐらき世を光で照らすこと、怖れる者に平和を与え、嘆く者に望みを分かちあたえることであります。それと同時に、クリスチャンにとって大切な務めは、迷っている人々を、まことの神様に主イエス・キリストへの道に導くことであります。この伝道についての言葉は、日本語訳にはありませんが、原作にはあります。

 ですから、ここでやはり覚えることは大切と思います。

  4 この世のわざ おわりて

    あまつ国に かえらば

    主よ、みまえに 仕えまつらん

       ときわに。

4節ですが、原作と日本語訳とでは少し違います。原作でパーカーが強調していることは、「この世の夕暮れまで、勤勉に主のために奉仕が出来るように」とはっきりと歌っていることであります。そうして「私たちがこの世での勤めが終われば、どうか、安らかに神様のみもとに去って行けますように」と歌うのであります。

 この4節の歌詞は、人生の一コマ一コマの中に神様を認め、ただ神様への愛と奉仕に生きようとする信仰者の姿を見る思いがいたします。日本語訳にありますように、私たちのまことのホームである、あまつ国に帰って永遠に神様に仕える喜びが歌われていますが、私たちの喜びが、実にここにあることを覚えて、この世の戦いに勝利いたしましょう。愛と奉仕こそクリスチャンの大切な宝であります。

 

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(75) 遠山良作著

 ―結核で入院―・・・1・・・

 6月(昭和24年)、長い牢獄生活からの疲れであろう、軽い作業でも疲れを覚える。作業を終えて二階の房に帰る階段を昇ると息苦しく休んでは昇る。疲れている者は私ばかりではない。誰でもみんな疲れているのだと心に鞭打って休まずに作業を続ける。作業は戦争により手入れも出来なかった老朽化した家屋の取り壊し、パンを焼くかまど作り等当局から命じられた一般作業班である。

 ついには歩くことすら苦しくなったので、医務室に診断に行く。体温は38度である。休養を許され、その日は房に帰り、布団を敷いて休んだ。その午後。急に頭から血の気がス~と引いて行くような気がしたと思うと、真っ暗な深い穴に中に落ちて行く。その瞬間「ああ俺は死ぬんだ」と思った。そのまま気を失ってしまったのである。

 それからどれくらい時間が経ったのか知らないが、気が付いて見ると枕元には監獄の医師と心配そうに私を囲んでいる友の顔があった。「ああ死ななかったのか」と思う。起き上がろうとしても、まるで力が出ない。「無理するな寝とれ」と友は言う。立って便所に行くことすら出来ない。

 そのまま担架で刑務所内にある病院に入院をした。病院と言っても角材の格子に囲まれた部屋に寝台が並べてあるだけである。50人位の現地人が入院していた。入院患者は作業が免除される。一日一回医者の回診はあるが薬もなく、ただ寝ているだけである。仰向けになると格子の間から見える白い空はまぶしくて目を開けていることが出来ない。布で目を覆いながら寝るのである。熱を測ると37度5分から38度よりなかなか下がらない。着ているシャツは寝汗のためにびっしょり濡れてしまう。一日に何回も着替えなければならない。

 昼の休憩時間と、作業が終わると主に桧垣君が交代で汗に濡れたシャツの洗濯や一日二回の食事も運んでくれる。「遠山君今日はどうかな」とやさしく声をかけて来てくれる。そして、その日にあった出来事を話してくれる。

 彼らが来る時間が待ち遠しい。こんな入院生活が何カ月も続くが、病状は一進一退で病名もはっきりしない。医者は熱があるからマラリヤだとの診断である(後日、日本に送還され巣鴨拘置所でレントゲン検査の結果肺結核であったことが判明した)。

 なかなか回復しないはなはだしい貧血状態の病状を友はみんな心配してくれる。B級扱いを受けている戦犯者に支給してくれる副食物は現品を支給してくれる。これを炊事当番が調理する。鶏やあひるは生きたまま支給してくれる。その肝臓は栄養があるからといって私のために特別に料理してくれた。時には作業中に捕まえたサソリは、猛毒があるからきっと薬にもなるだろうといってサソリの黒焼きも食べた。味はないが、その友情を噛み締める。

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・54・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・8・・

答・・13 日本人は昔、死んだ人は山へ帰ると信じられていたようです。山ふところに抱かれて永遠の眠りにつくなど、自然でいいなあという思いがあります。土葬にすることは、人間のからだが遂には土の成分に吸収されてしまうことですから、聖書記者が「神は人間を土から造られた」と言っているのは、その意味では適切な表現であると言えます。事実人間には自然的な存在であるという一面があります。

 ただし、こんにちでは死者が「山へ帰る」という思いにはなかなか繋がりません。中には「山に帰りたい」とか「海へ帰してほしい」という人もあって、そういう場所へ散骨する人もいますが、大抵の人は墓場か納骨堂へ、それも骨だけで納まることになっています。帰る場所が人工的になりました。死後納まる場所が人工的になり、しかも狭い場所に限定されることになってしまいました。

 以上は場所のことですが、それだけではありません。神道では亡くなった人は神になりますし、仏教では仏になります。靖国神社に神として祀られたり、祭神が大昔の誰かであったりするのはその現れであり、死人のことをホトケサマなどというのもそれです。更には死んだ人に戒名に現されているような位階がつけられます。そういう風に、わたくしたちの間には「成神」とか「成仏」とかいうように、死者を拝むということも何ら問題なくなされています。

 以上のような伝統的でまた一般化されている死者や死後観に対して、「ではキリスト教ではどう考えているか」と問われて先ず言えることは、聖書では、死ぬことを「眠りにつく」と言っているということです。日本語でも「永眠」という言葉は定着しています。この表現はなかなか言い得て妙だと思います。というのは、わたくしたちは、朝、目覚めて、それまで眠っていたことを知ります(もっともそういうことを毎朝考えているわけではありませんが、事柄としてはそうです)。

 目覚めなければ眠っていたということは分りませんから、「永眠」と言うことになります。ただし、その眠っている状況が本人においてどうであるかは、第三者には分かりません。生きている人間が「あの人はお眠りについた」という言い方であっても「死んだ」ということを言い表している、ということです。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

<2017年6月のラジオ放送予定>  

  6月 4日 沖崎  学   (金城学院高等学校宗教主事)     

    11日 沖崎  学   (金城学院高等学校宗教主事)     

    18日 後藤田典子   (金城学院中学校宗教主事)

    25日 後藤田典子   (金城学院中学校宗教主事)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

第79課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・27・・・

B キリスト者の市民的義務・・・13・・・ 

       13:5~7・・・12・

「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・4・・

ローマ書13:1~7の解説を終わる前に、参考として、改革長老教会(カベナンター)が掲げる「国家政府の憲法に対し不同意をとなえる権利について」と言う原則に対して、ここの聖句が持つ意義を見ておくことは有意義です。この問題についての改革長老教会の公式的な対話は、同教会の「証言集」の第30章に述べられています。この証言集は1963年の大会において交付されたものです。

 

 改訂された第30章は、キリスト者は全て、国家の保持者であり支配者であるイエス・キリストの権威と律法とが明白に承認されるように祈り、また、そのために労しなくてはならないと主張しています。キリスト者は、彼らに与えられた市民としての権利を行使することが、キリストへの忠誠を損なうことがない限り、その権利を最高度に有効に行使すべきです。他方、キリスト者はキリストの王権を認めず、無視し、否定するようなことに加担するようなすべての権利・特権を放棄しなくてはなりません。 

 

 キリストへの不忠誠を含まない場合には、キリスト者は、神を恐れ、真理と

正義を愛し、国家政府に関する聖書的原則に即っていることが明らかな為政者を選択すべきです。キリスト者が、イエス・キリストへの至上の忠誠を損なうような、国家への忠誠を誓約することは罪です。また、キリスト者が自分自身良心に従ってすることができないような宣誓を要求されていることや役人や公務員を選ぶことに参与することも罪です。

 

 すべての国家為政者に対して、キリスト者が約束することができる唯一の服従は、主にある正当な服従なのです。この範囲をこえることは全て有罪的です。公職に就く場合、この範囲を越える宣誓が要求される時は。キリスト者はその宣誓を拒否すべきです。個々の状況の中におけるいろいろな事実や環境が、宣誓することを有罪的にしてしまうことを宣誓することは教会の議会権能の中にあることです。

 J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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