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ほっとひととき『みんなのコーナー』
☆ 石油タンクの火災で驚きました。現場からは少し離れていますが、家の近くには沢山の備蓄タンクがありますから、怖いです。この恐怖は全国各地にある石油施設の近くに住む人も同じですよね。主人はこの関連の会社に勤めていますから、複雑な気持ちです。・・・。 和歌山県 W・Uさん
☆ 川岸を犬と散歩していたら、つくしやタンポポを見つけました。草花には春がもうすぐなのですね。何だかうれしくなり、メールしちゃいました。 鹿児島県 K・Kさん
☆ 雪国の人が春を感じるものに、「雪形」と「雪解け水」があります。雪深い我が家からも、毎日、この「雪形」の変化を眺めて春の訪れ感じております。小川のせせらぎにはまだ少し時間がかかりそうです。(雪形・・・山肌にできる残雪のことで、農作業の歳時記でもありました) 長野県 T・Kさん
☆ 朝ゴミ出しに行ったとき、団地の敷地で白梅が咲いていました。こんなところに梅が植わっているなんて今まで気付かなかった。寒さは厳しいけど、春は来ているのですね。そういえば、小鳥たちも動き出していました。ベランダの鉢植えにも蕾がありました。 東京都 O・Kさん
=編集子=
「つのぶえジャーナル」2月号の「美しい朝に」の感想が数多く来ていましたので、ご紹介いたします。
Δあの2月号は、今の娘の姿ですが、想像できていない母親でした。娘に申し訳ない気持ちです。
Δ製薬会社や掛かり付けの医者に怒りを感じます。何の説明もなく飲み続けていた私の身体や気持ち、どうしてくれるの!!
Δこれって、薬害じゃん・・・。
Δ「美しい朝」さんの勇気、すごいです。
Δ家族にも理解されないって本当に悲しいよね。でも伝えようがないですね。
Δアルコール依存症や過食・拒食の人もきっと同じ苦しみにあるのでしょう。何もできないですが、もう少し理解することにします。
Δご家族いや周りの人を気遣い元気に振舞っていたのですね。その気持ち、分かるなあ・・・。
Δ私は不眠症で退職して10数年になります。病院には行っていますが、あまり変わりません。周囲の目が気になるのと、妻や子供のために時給の高いコンビニで夜勤しています。家では家事洗濯は私の役目です。辛いです。
Δクリスチャンは我慢強く、弱音は言わないと思い込んでいて、自分を隠していましたが、「美しい朝」さんは、自分のことを告白されていて、これからは、自分のことを隠さず家族に、夫に言おうと思いました。
Δ「美しい朝」さんの所を読みましたが、私は主治医に相談しないで自分で断薬し、失敗して後遺症が残り苦しんでいます。辛いです。
Δ心の病でお風呂に入れませんし、下着も替えなくても平気です。家族から臭い、臭いと言われていますし、分かっていますが入れないのです。臭いの強い香水を匂うところに振りかけています。ですから嫌われますが、どうにもできないのです。
Δ主人は脳こうそくの後遺症でリハビリに励んでいますが、最近は投やり気分になっていましたが、友達が「美しい朝に」のコピーを送ってくれまして、読んでいるうちに頬に涙が流れていました。ぽつりと「諦めたらお終いなんだ・・・」と独り言を言っていました。うれしい一言でしたので、初めてメールしました。これから読むことにします。
ΔK・Aさんの「美しい朝に」を読みました。同じではありませんが、頑張らないでほしいです。失敗も挫折もあります。落ち込むこともあります。それは生きているからです。決して、弱さとか根性がないとか、いろいろ考えないでださい。それが自然な人間だと小生は思うのです。自分らしく生きてほしいと思いました。
Δ「ジャーナル」を読み「美しい朝に」で 同じように考えている人がいる。ベゲタミンですか、我が家の冷蔵庫にも入っています。主人の薬で私も過去に飲んでいました。私も癌の手術から5年目、ほかに難病も持っています。こちらは、進行が遅く、生活に支障が出ない限り、手術しないと難病指定にはなりません。でも五十肩でさえびびることもあります。それと、旦那を置いて私が先に天国に行けない。この躁鬱の暴れ恐竜を置いては、世間様に申し訳かない・・・。暴れ出したら入院させないとと色々考えてしまいます。これでいいのかな・・・?
**このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております** 編集子
『ありがとうございます』
「緑のまきば」を書いてくださいました、吉岡 繁先生が召されたとの連絡を受け、神様の身元へ行かれたのだと思うと同時に、心の整理に時間がかかりました。夫人から、先日、お電話をいただきました。先生のお書きになった「緑のまきば」を、親しい方やお孫さんにお渡ししたいので、とのお申し出でした。
ご不便な日々に関わらずお元気なお声で安心いたしました。
「緑のまきば」が、このような形で用いられ、また、多くの方に読んでいただけることは、吉岡先生ご自身の願いでもあると思います。改革派教会の信徒ばかりでなく、若い牧師にも、良き指針となることを願っておられました。「つのぶえ」時代には、毎月きちんと原稿をお送りいただくとともに、私信も同封くださいまし。本当に励まされました。これは、岡田 稔先生の「解説 ウエストミンスター信仰告白」の出版の時も同じでした。学者でありつつ、牧者の姿を学ばせていただきました。私は本当に良き師に出会い、導かれたとしみじみ感謝しております。今日、このようにみ言葉を多くの方にお届けさせていただくための姿勢を、多くの方々のお祈りと共に、この良き師の励ましには、感謝しかありません。
3月号を皆様にお届けできることを感謝したします。
2017年1月16日から2017年2月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者
小河 清様 藤掛朔生様 藤掛久子様 和田順一様 和田貴美子様 斉藤 進様
郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためなのである。いつも感謝しなさい。
~コロサイ3:15~
新しい2017年も1ケ月が過ぎました。この月は、若い人にとって一番落ち着かない不安定な時でありましょう。進学、国家試験、進級、あるいは就職先の決まっていない人もいるかもしれません。これは、若者に限ったことではありません。
人の心に傲慢と偏見、猜疑心が芽生える時、私たちを嫌な心にいざないます。それは「利己的」です。いつも何かを要求し、不平を言います。しかし、「謙遜な信頼の心」を持つ人は、未来に「感謝する道」を見出します。
「不平を言う心」は、勇気を失い、何事に対しても意欲を失い、「喜び」を失います。人は人生を自分にとっても、自分とともに住む人にとっても重荷となるとしたら、とても辛いものです。家族でも、社会や組織でも、その中に「不平や不満」が産まれることは容易なことです。しかし、「思いやりと親切な気持ち」が産まれると、不思議にも、「感謝」の思いが育ちます。
この道は、誰の前にも示されている神の愛と力、恵みに至る道、幸いな道です。私たちの日々の生活の中で、家族や友人に「ありがとう」と言う言葉はどれだけ幸いを分かち合うことでしょう。
不平を言い、要求する代わりに、感謝することを第一にするならば、私たちの生活も、あるいは生涯を変えるでしょう。
愛する者と別れる時、最も心強くする言葉は「ありがとう」であるなら、素晴らしいことです。
人の発する言葉の怖さを、世界は感じています。しかし、イエスは言います。「あなたの隣人を愛しなさい」と。
小閑記
わたしはあなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
~黙示録3:8~
神様が私たちのために扉を開かれると、誰もそれを閉じることはできません。しかし、もし神様がお閉めになると、すべては取り返しがつきません。どのようにたたいて「主よ、わたしたちを入れてください」と叫んでも、扉は決して開かれません。神ご自身がそのように言われたのです。
まだ神の国の外側に立っている者は、この事をよく考えていただきたいと思います。まだ時を償うことができはしないかと思うのです。確かなことは、扉はまだ大きく開かれ、私たちはまだ恵みの時の中に生きているのです。しかし、「まだ余地がある」神の開かれた扉の外に立っているのは、私たちの心の扉が閉ざされているからなのです。この閉ざされた扉を神様はたたかれます。
もし私たちが心の扉を開ければ、主はお入りになります。しかし、開けなければ、何時かは神様の扉が閉ざされているのを見るでしょう。神様がお開きになっている間に、捜し求めない者は、ついに神様にお目にかかることがないでしょう。
しかし、開かれている扉についての言葉は、主として、弱さと貧しさのただ中にあって、神様のみ言葉に信頼するキリスト者に向かって言われております。それは、イエスのみ名によって、力のない者に力を与え、貧しい者に良いもので満たすと約束をして下さる言葉だからです。
自分の惨めさを知り、自分のものは信じられないほど小さく思えるとき、神様の開けて下さっている扉をしっかりと覚えるべきです。神様は決して、苦しんでいる者に対して、扉をお閉じにはなりません。
私たちの前には、輝ける主イエス・キリストの十字架の救いの扉は開かれているのです。
世田谷通信(161)
猫草
里山保全のボランティア活動をはじめて半年になる。最初は何の意味があるのかさっぱりわからなかった作業が、少しずつつながり、意味を持ってきた。落葉溜めの腐葉土がいっぱいになって壊れてきた→解体して中の腐葉土を竹林に運んで撒く→空いた場所に新しい落葉溜めを作る→そのための竹を伐り出す→枝を払う→長いので半分に切る→四つ割りにする→丸太の杭を打って四隅の大きさを決める→割った竹を下から四面に釘で打ち付ける→落葉を入れて完成、こんな流れである。
とはいえ、半日でこの作業をするのは大変なことである。なにせベテラン勢の平均年齢は70代後半。指示は出しても、重労働は厳しい。と言うわけで学生さんのお手伝いが重宝する。この日も3人来てくれた。普段から農業大学で学んでいるので作業着に地下足袋姿。土や竹みたいな重いものもどんどん運んでくれる。若い人がその力を遺憾なく発揮してくれている。頼もしい限りだ。
5m四方ほどの1基の落葉溜めで1年半ほど経過した落葉はミルフィーユのような層状になって栄養たっぷりの腐葉土になっている。ふかふかと活きている土である。この土でガーデニングをしたらさぞかし野菜も花もよく育つだろうと思わされる。落葉を分解したのはカブトムシの幼虫やミミズ、ヤスデ、菌類など。丸々太った幼虫が75匹いたので、この子たちはそーっと別の落葉溜めに移動した。
先日の報道番組で、放射能除去のために大量の表土を剥いでいる映像を見た。除染が必要とは言え、そこに新しく植物が根付き、落葉や枯れ葉が分解されて豊かな土壌が戻るまでの年月を考えると胸が痛くなる。かく言う世田谷の里山でさえ、放射線が心配だからと地域の方々への腐葉土配布は中止になったそうだ。
技術の進歩が常に明暗を抱える中で、今日も明日もこれからも微生物は土壌を豊かにし続けている。その静かで確実な活動が地球を支えている。
『美しい朝に』・・28・・
12月21日
夜に「愛」の口から「血」が出ているのに気づきましたが、高齢になってから、口のそばに来たものにかぶりついて離さないので、うかうか口の中も調べられません。夜は、「御心のままに」と、祈りました。朝、出血が少しになっていて、「ホッ」としました。18歳でも、「助かってほしい」と思ってしまいます。
12月28日
今日は、神経科の診察日でした。昨日の気温から、ずいぶん冷え込み貼るカイロが、活躍しました。毎日、睡眠の記録をつけて先生に診ていただくのですが、「先月より、ずいぶん良くなったね」と言われました。ハルシオン1錠とレメロン1錠を毎晩服用してベゲタミン1/4錠を1日おきに足して服用していましたが、ハルシオン1錠と新しい薬(レメロン)1錠だけでも、だるさに耐えれるようになってきました。依存性の強いベゲタミンを減らすのは、自分自身との戦いです。毎晩1錠→2日おきに1/4錠にするのは、すごく辛くだるいです。でも、12月で生産中止になったので、大勢の方が同じく苦労されてると思います。祈っています。
お正月を挟むので、無理をしない程度にこのまま1ヶ月様子をみて、新しい薬を、もう少し軽い薬にかえれば「だるさ」もましになるかも知れないとのことでした。年末最後のお医者さんが、終了しました。お休みの間に体調を崩さないように気をつけて過ごしたいと思います。お祈りありがとうございます。
12月29日
今日、「つのぶえジャーナル」が届きました。南天と千両の写真お使い頂き、ありがとうございます。よそのお宅の「南天」を写させていただきましたが、「あんなに赤くたくさんの実がついているのは、何か特別の方法があるのだろうか?」と感心してしまいます。今日も、冷えて、張るカイロが大活躍しています。馬場さんのお褒めの言葉、感謝です。「自分を責めること」はやめれたように思います。友達が「宿題をまじめにこなすから、次の宿題を出されるのと違う?ゆっくりしてたら1つだけですむかも・・・」との言葉に「なるほど」と思いながら、ゆっくりしてたら、次々課題が重なっています。でも、何度も死にかけても、奇跡的に一命を取り留めるのは私に、この世での役目が残っているのだと思います。神経科の先生が、「人生無駄に思えても無駄なことってないよね。交通事故にあったことで親しい人や家族や、杖をついている人に優しくできると思うよ。死ぬ前まで文句ばっかり言って死んでいくより、私の人生は、いい人生やったって死にたいやん」との言葉で、前を向く勇気も出ました。その後、また、難病で死にかけて、奇跡的に助かりました。血液内科に、入院して抗がん剤の治療を受けている方とも同室でした。病気は本人だけでなく、家族も試されているように思います。
1月4日
あけましておめでとうございます。悲しいことながら、ベゲタミンとの戦いに負けてしまいました。今は、生きていることさえ辛いです。手元にある「100錠」を1度に飲めば楽になれるのではないかと思います。私の「SOS」は、家族には届きません。
ベケタミンの離脱症状は薬が身体に入らないことで、自律神経が乱れ、脳から間違った信号が体中に伝達されるみたいで、新しい薬「レメロン」には、抗うつ作用があるのですが、体中の粘膜が痛く、歯茎から鼻から血が出ます。胃も痛く、身体中痛いのです。11月15日から続いている症状に辛くて食べてしまうと、太った自分が許せなくて、食べれなくなってしまいます。
血糖値やITPも心配です。やっと食べても自己嫌悪から吐いてしまいます。こうして自分の症状をメールで打ち込むと反復学習のように、頭の中でこだまする夜が怖いのです。涙で目も痛い痛いです。頭の先から爪先まで痛いです。
お祈りありがとうございます。
1月5日
こんにちは。元旦に、主人の母の施設に行った時に写真を写させていただきました。角松が昔のお正月みたいですが、受付のロボットが新しい時代を感じます。線路わきのポツンと「葉牡丹」が寂しげです。主人と、娘がほとんど詰めてくれた「おせち」です。身体は、辛くても写真を写すことは、出来たみたいです。多くの方が、喜んで下さるとうれしいです。お送りします。
1月10日
昨日も、全く眠れなくて限界です。年が明けから、まともに眠れてません。「ベゲタミン」を減らしているのですから、あきらめるしかないのかもしれません。お風呂に、入れたのですが身体の熱気がとれなくて、のぼせた感じが、一晩中続き、暖房も止めて、氷のうをしてもすぐに氷がとけてしまい、保冷剤を頭にあてていましたが、それもとけてしまいました。明日の「鍼」がなければ、お風呂には入らなかったかもしれません。でも、「鍼」や、「お灸」で、自律神経のツボを刺激していただくと当日は、眠れたりするので、期待しています。
1月12日
昨日、5年ぶりに運転免許の更新で疲れたのと「ホッ」して、夜中に、バターライスを食べて朝からもお腹いっぱい食べたのが良かったみたいで午前中11時~午後14時くらいまで、うとうとと眠ることが出来ました。今年に、入って「寝れた」のは、初めてでした。ベゲタミンの離脱症状は、自分との戦いです。
昨日は、あえて「レメロン」も無しで寝ましたので太っても、血糖値が上がっても、眠るためにはお腹がふくれるのは大切だなと思いました。
1月13日
昨夜は、お腹いっぱい食べれて、今年に入って初めて夜も眠れました。余りに、眠れないので前日「レメロン」も服用無しにしてました。眠れないと薬を増やすのではなく、一旦減らしてもとに戻すのが閉院されたクリニックの先生に教えていただいた方法でした。
昨夜は、「レメロン1錠・ハルシオン1錠・セパゾン2錠・ベゲタミン1/4錠」で、夜中の24時~昼の12時まで、熟睡しました。お祈りありがとうございます。
ベゲタミンの離脱症状には、「満腹感」も重要だと思いました。病気も、いくつもかかえていると、優先順位があると思います。血糖値の問題もあり、主人の「あまり食べない方がいいのに」のなにげない一言で、食べれなくなり、食べても吐いてしまったりしました。あたりまえのことですが、食べれることも大切ですね。
大阪も、冷え込んできました。明日は、雪の予報です。センター試験の頃は、いつも雪のニュースですね。昔、「趣味は?」と聞かれると、迷わず「読書です」と答えられましたが、網膜剥離のレーザーの手術をしてから「本」を読むことが少なくなりました。友達が、阿倍野の本屋さんで「君の名は」有名やね。「東野圭吾もあるよ」と言ってくれたのですが、「今は、いいわ」と答えていました。今年になって、眠れない日が続き、「君の名は」を読みました。久しぶりの読書でした。東野圭吾の「手紙」も懐かしくて家で映像を見ました。
昔、「眠れない」と、相談した時、「昼、もっと動いたら」と言われ、余計辛くなった経験があります。たぶん、自分が同じ経験していないと、どんなことも見当はずれのことを言ってしまうものなのでしょう。辛い時に、「祈っています」と言ってもらえると心強く思えます。
お祈りありがとうございます。
(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)
その愛のゆえに
=時々の記=
(130)
12月17日
明日はクリスマス礼拝です。何だかあまり気が進まないのですが。救い主イエス様のご誕生を心からお祝いできることができますように信仰が強められますようにと祈っています。
桐一葉またも空き家の殖えにけり。
過疎の村枯野となりてさっぱりす。
黄落やざわざわとして降りにける。
ボブディラン切に歌ヘリ秋の風。
地震(なる)人慰め給へクリスマス。 馬場路哉
人は神経が細くて、苦しむときがありますね。それはまたとても良いところでもあるのですが、今のこの荒々しい世の中ではなかなか通用いたしません。このような弱さを持っている者でも、弱さがあるのは誰が悪いのでもない、と神様はおっしゃって私たちを慰めてくださいます。イエス様を仰いで、来る年も祈り深く歩んでまいりたいと願うものです。
1月1日
2017年がスタートいたしました。息子にとって、年賀状は日曜日だというのに一日に配らなければならず、大変な元旦の朝でした。“決して誤配がないこと。”“決して、事故を起こさないこと。” “午前中に配り終えること。”と言う指示に従って、真っ暗闇から出勤して行きました。何よりも良いお天気に恵まれて、配りやすかったことでしょう。無事に配り終えて帰ってきた時にはこちらの方がほっといたしました。家族の協力があってのことですね。
私に届いた年賀状で最高齢の方は90歳の方でした。それも筆でしたためてくださってありました。月ヶ瀬小学校でご一緒させていただいた方です。何だかんだと言いながら、やはり年賀状を何度も読み返しては、楽しんだ元旦の一日でした。
1月5日
園訪へば柊の花匂ひけり。
挑戦す勇気美しスケーター。
飛び去れる日々の速さや古日記。
暁の清々しさよ冬銀河。
飾りたる冬着や古稀の同窓会。 馬場路哉
昨日、五十年前の教え子から電話が入りました。60歳になって元気に働いているとのこと。私の新任の時の姿がとても印象的で、教師を志すきっかけとなったと伝えてくれました。ちょっぴりうるうるとなりましたが、嬉しい電話でした。
1月13日
今夜は最強の寒さとか・・・。庭の梅の木をじっと眺めていましたらもう、小さな蕾をしっかりつけていました。南天の赤い実はいつの間にか、小鳥たちがついばんで数少なになっています。春の訪れが待ち遠しい寒中ですね。
「美しい朝」さんが眠ることができますようにお祈りしています。睡眠がとれないと、とても苦しいことですから・・・。わたしには睡眠がとれない方の気持ちがよくわかります。わたし自身とても神経質でよく眠れなくなることがあるからです。今夜もよくお休みできますようにと祈っています。
1月14日
一番の寒さが日本列島を包み込んでいます。東海、近畿、四国などあまり雪が降らない地域も大雪になるとの予報です。雪道の怖さを知らない私たちですから、できるだけ外出は控えるように心がけています。
見舞ひたる竹馬の友や年の暮れ。
クリスマス白寿の媼召されける。
天の声聞けてふ人や初御空。
空へ伸ぶ枝なり模様冬木立。
雲近く鳶昇りをる春隣。 馬場路哉
早くこの厳しい寒さが抜け出てほしい思いでいっぱいです。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
解説 ウエストミンスター信仰告白 (54)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第25章 教会について・・2・・・
4 公同教会は、時によってよく見え、時によってあまり見えないことがあった(1)。またその肢体である個々の教会は、そこで福音の教理が教えられ奉じられ、諸規定が執行され、公的礼拝が行なわれている純粋さに従って、その純粋さに相違がある(2)。
1 ロマ11:3,4、黙示12:6,14
2 黙示2,3章、Ⅰコリント5:6,7
四 「見える公同教会」の公同性は「見えない公同教会」の公同性と本質的に同一である。従って、この公同性の濃淡からいって公同教会の可見性の程度ということが言える。この項では「公同教会は」となっている点に、まず留意しなければならない。つまり、ここでは「見えない」とか「見える」とかの区別ではなく、「公同教会」が問題となっているのである。
このことは、「見えない公同教会」「見える公同教会」という、まったく別種の二個の公同教会が存在すると考えることを許さない。「公同教会」は「見える」にしろ「見えない」にしろ、本来、唯一の公同教会なのである。従って、個々の教会は、単に「見える教会」の肢体であるばかりでなく、同時に、「見えない公同教会」の肢体でもある。それでより見えるとか、より見えない、という程度の問題と、この個々の教会の純正の度合いということも深く関係している。教会は、個人の敬虔の問題としてではなく、根本的に集団的な宗教行為の問題として、この純正の度合いが考えられている。
もちろん、いかに時間が厳守され、礼拝中の秩序が一糸乱れず整然となされても、その礼拝者一人一人の信仰的内容・信仰態度が、福音の精神を知らず、異教的敬虔でしかないならば、その教会の公同礼拝は、きわめて純度の低いものと判断されなければならない。ローマ・カトリック教会のミサが、その代表的な場合である。わたしたちの教会の礼拝も、どこまでもそういう意味での内容が重大視されなければならない。
5 世にある最も純粋な教会も、混入物と誤りとをまぬがれない(1)。そしてある教会は、キリストの教会でなくサタンの会堂になるほどに堕落した(2)。それにもかかわらず、地上には、み旨に従って神を礼拝する教会が、いつでも存在する(3)。
1 Ⅰコリント13:12、黙示2,3章、マタ13:24-30,47
2 黙示18:2、ロマ11:18-22
3 マタイ16:18、詩72:17、詩102:28(29)、マタイ28:19,20
五 個人のキリスト者の場合も同様に、教会としても地上では、完全なものはない。また、偽信者があるように、偽教会もあり、堕落教会もある。しかし、教会が全滅した時代はいまだかつてなかった。エリヤの危機にも7千人のイスラエル人があった。「会堂」はシナゴグの訳で、外見だけが教会の姿をしている、という意味である。
6 主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない。どのような意味ででもローマ教皇は教会のかしらではない(1)。その反対に彼こそは教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものとに反抗して自分を高くするところの、かの非キリスト、不法の者、滅びの子である(2)。
1 コロサイ1:18、エペソ1:22
2 マタイ23:8-10、Ⅱテサロニケ2:3,4,8,9、黙示13:6
六 一項で告白したように、教会は、ただ主イエス以外のいかなるかしらも持たない、ということが特色である。キリストのからだがあるのに、からだ自身に一つのかしらを持つとしたらどうであろうか。法王に対する名称を、聖書の黙示文学的名称を以ってすることは、一種の黙示録註解の手法を受け入れたものと誤解される恐れがある。アンチ・キリストが法王の予言であるかどうかは、別のことである。
さんびか物語 ・・・35・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・34・・・
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌344番
とらえたまえ わが身を
<神様のみ言葉>
「私は、すべてを得たものではなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」。
~ピリピ人への手紙3章12節~
讃美歌344番は、多くの古い年代の讃美歌の中にあって、比較的新しいものであります。
讃美歌344番の作詞者ウイリアム・H・フォークスは、1877年6月26日、米国北長老教会の牧師の子供としてミシガン州で生まれました。その後、カンサス・ウエスレイアン大学、マコーミック神学校などを卒業後、1901年、フォークス家の5代目の牧師として、長老教会の牧師となりました。
彼は、西はオレゴン州から、東はニューヨークシティまで、多くの教会を牧会してのち、米国北長老教会の有力な指導者として、教会運営に活躍していた人物でありました。彼の発言は、アメリカの教会のみならず、広く諸外国にも影響を与えていました。1937年の教会の大会議長に就任した後、1941年牧会から引退して、避暑地ストニー・ブルック、ロング・アイランドの別荘で余生をおくっていたようです。
彼は、学生時代から詩を書き、多くの本を出版しています。その中の一巻は、アメリカ全土に放送されたHomespun Along Friendly Roadsは、彼の広く豊かな才能を物語っているものと思います。
この讃美歌には、面白いお話があります。1918年のある日、Dr・フォークスが汽車を待ってストニー・ブルックの駅にいましたが、その時、偶然、友人Dr・ローファーに会いました。その時、ローファーは作曲したばかりの、この讃美歌のメロディーをハミングでフォークスに紹介しました。ローファーは、このメロディーに敬虔な雰囲気をもたらす詩を書くことを熱望しました。
フォークスは、汽車に乗ってから、メロディーをハミングしながら、この歌詞の1~3節を1枚の封筒に書きとめました。それから数日後にストニー・ブルックの会議の時に初めて歌われました。最後の4節は、ある修養会の時に作って、1945年にこの讃美歌は完成したのであります。
讃美歌344番の作曲者キャルヴィン・W・ローファ(1874~1938)も北長老教会の有力な牧師でした。
フランクリン・アンド・マーシャル・カレッジとニューヨークのユニオン神学校を卒業して後、15年間牧会の任務に当たりました。しかし、彼の本来の才能は教会音楽とキリスト教教育に生かされています。彼は1914年から、長老教会の教育局に入り音楽関係の出版物の主幹として、また、教会学校の委員会会長として活躍いたしました。彼は、教会音楽についての、多くの本を発表し、長老教会の讃美歌の編集にも指導的は役割をはたしています。
讃美歌344番の最初の曲名はSTONY BROOKと言われていました。その後、ローファがHALLと変えました。それは、友人である有事であるDr・ウイリアム・R・ホルに敬意を表すためであった言われています。
<344>
1 とらえたまえ、わが身を、
主よ、みこころしめして、
日々まことをおしえて、
はなちままえ、罪より。
2 とらえたまえ、わが身を、
われに宿りたまわば、
とわの愛をつたえて、
地にみくにを来たらせん。
3 とらえたまえ、わが身を、
主のみ手にぞおさめて、
またき道をひらきて、
ゆかせたまえ、みもとに。
4 とらえたまえ、わが身を、
みたしたまえ、みたまを、
わがすべてをささげて、
こたえまつらん、みむねに。
この讃美歌の歌詞をお読みになってお分かりのように1節~4節の一行目は‟とらえたまえ、わが身を”という言葉が繰り返されていることであります。この言葉によって、私たちに教える中心点は、「全てを主にゆだねまつる、まったき服従」ということであります。
1節では、“主よ、みこころを示したまえ”と歌っています。神様のみこころを知るためには、全き服従が求められます。この服従を考える時、私たちは、主イエス・キリストのゲッセマネの園での祈りが思い浮かんでまいります。
「わが父よ、できますならばこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにはなく、あなたのみこころのようになさってください」(マタイ26:39)と祈っています。
私たちも、「あなたのみこころのようになさってください」という全き服従の信仰をもって祈るべきであります。では、そのためにどのようにすべきでしょうか。それは、「まことの神様より学ぶこと」であります。日々、み言葉に教え示され、自分を捕えてはなさない罪の思いをまことの教えを学ぶことによって、捨て去ることであります。
そのことにこそ、「まことの源であるみ言葉」に求めなければなりません。また、その源とは、「わたしが道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ14:6)とお語りになられた、主イエス・キリストご自身でもあります。
主イエス・キリストは、私たちを罪より解き放ってくださる、唯一の救い主であられます。イエス様の弟子であるペテロがいっていますように、イエス様は「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)とのみ言葉の通りであります。
2節では、主イエス・キリストが、私たちを捕えていてくださるなら、み霊が私たちに宿ってくださり、その力によって導き、永遠の愛の福音を伝え、地にみ国を来たらせることを歌っています。私たちは「主の祈り」を口にいたします。そこでは、「み国を来たらせたまえ」と祈ります。しかし、本当にキリストに捕えられ、つらなっていない限り、この祈りは、空しいものになってしまいます。
イエス様はこの事実を、語っています。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き・・・。わたしにとどまりなさい。・・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。・・・あなたがわたしにとどまり、わたしのことばが、あなたがたにとどまるなら・・・、求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(ヨハネ15:1~10)。
3節では、‟人生の道について”歌っています。主イエスの愛のみ力の中にあって歩むその人には、まったき道が開かれているという感謝の歌声であります。それは、主イエス・キリストが、私たちを父なる神のみもとへと行かせて下さるからであります。主イエス・キリストは、私たちが本当に行き着かなければならない「目標」をご存知であるばかりではなく、案内者でもあられます。
目標のない、無意味な人生の道を捨てて、神様への道を歩み、声高らかに讃美の歌声を主のみ前に捧げましょう。
4節では、‟全てを捧げ、み旨にこたえまつること”を歌っています。全身全霊を捧げること、この世の歩みの一切を神様に捧げる献身の告白は、何と素晴らしいことでしょう。これこそ、クリスチャンの最もふさわしい告白であり、人生であります。しかしながら、神様に捕えられていない人には、まっかく不可能であるばかりではなく、そのような思いすら起こって来ません。自分は完全だと思う人、神様を信じていなくても人生を歩めると思っている人、み霊の恵みを頂いていない人には、神様に一切を捧げることなど絶対にできません。
神様を信じない人は、まず自分の不完全さ、罪深さ、神に逆らっていること、自分の力では、一歩も先へは進めないことを、心から認めなければなりません。このように真実の自分を認めて、神様に立ち帰るために、心から悔い改めて、一切を主イエス・キリストに委ねることであります。
「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」という、ピリピ人への手紙3章14節のみ言葉をあなたご自身の人生の歩みの目標にしてください。ビルマ 戦犯者の獄中記 (71) 遠山良作著
11月17日
―屋(おく)軍曹に死刑判決―
「イエケース」として公判中の宮本曹長死刑(確定判決で10年減刑)、屋正義軍曹死刑の判決がある。屋軍曹は北支那の5期生で、北支那からビルマに転属し、任地は私と同じモールメン分隊であった。着任間もなく、イエ地区に降下した英軍の落下傘諜者の捜索のためジャングル地帯を4ケ月間共に捜索した仲である。その後彼は「タイ緬鉄道」の終着地、タンビザヤ派遣所に転任したが連絡のためモールメン分隊に時々出張して来た。
インパール作戦に敗れ、戦況が不利になるにしたがって会う機会もなく、彼がイエ派遣所に移ったことも知らなかった
彼がイエケースで起訴されたことを聞いて私は彼に尋ねた。
「屋よ、起訴された事件は大丈夫か」
「反乱軍の関係者を逮捕し、二人を殺した事件であるが、俺は殺していないから大丈夫ですよ」
「だけどなあ、いままでの裁判の例を見ると、例え殺さなくとも証人より、指名されると危ないから十分気を付けてその対策をしろよ」と話したことがあったが、彼もついに死刑の判決を受けてしまった。彼の減刑をただ祈るのみである。
戦友の 死刑宣告 聞きし夜は たかぶりわれも 目覚め更け行ゆく
屋軍曹の辞世
今更に 言う言の葉も なかりけり 我が逝くことも 運命なりせば
11月21日
―戦犯裁判終わる―
「メイミヨー」で行われていた戦犯裁判は17日橋本定曹長の判決を最後に閉廷したのに引き続き、今日ラングーンの公判廷も、浜部隊の佐々木憲中尉に20年の判決を下し閉廷した。顧みれば弓部隊のカラゴン事件に始まり、絞首刑、銃殺刑によって死刑が執行された者15名。今なお死刑の宣告を受けて明日にも刑の執行をされるかもしれない戦友9名が西独房で死に備えて、自分の思いを短歌に、詩にと遺書に綴っている。
有期の刑を受けた者は今までに久米憲兵司令官外80名いた。
このような結果で戦犯裁判が終了したことは、暗い所内にもほのかな喜びであった。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・50・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・17 わたしたちが生きているということは、絶えず変化しているということです。血液は絶えず流れております。細胞の死と増殖活動は休むことなく続けられています。昨日までの自分と今日の自分とは変わっているのです。今日生きている自分は昨日まで生きていた自分とは違っているのです。その違いについてのこの世での評価に正負があっても、変わり続けていることは事実です。言い方を換えれば、昨日の自分は死んで、一夜の眠りのあと新しい自分になっているのです。
ただし、以上のことを認めない人もいます。明日までの自分をいつまでも引きずったまま今日を迎える人です。相変わらずの自我によって生きる人、背負い込んでいる荷物を一切降ろそうとしない人、過去の栄光だけを頼りに生きている人です。こういう人にとっては、今日という日は旧態依然であって、新しくも何ともないことでしょう。
人間誰しも死ぬことを好んではおりませんが、しかし、以上述べたことから言うと、人間誰しも死ぬべき死を死ななければ、新しい自己は生まれて来ないのです。その意味で、パウロが「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされて生きます」(コリントの信徒への手紙2・4:16)と言っていることがよく理解できるのではないかと思います。
病院では4の発音は死に繋がるという理由で、4号室という室番号を付けていないところが多いようです。しかし、前述したように日々に古い自分は死ななければ新しい自己の誕生はあり得ないという理由から言えば、むしろ日々に古い自分に死んで別れを告げなくてはならない、ということも出来ます。むしろ「死ぬことは益である」(フィリピの信徒への手紙1:21)ということができます。
となれば、逆に「死なない自分であること」「いつまでも今のままで生きている自分」であることが問題となります。
「あの子、生きているのか死んでいるのか分からない」という嘆きの声を聞くことがあります。音信不通で、消息を得たいと思っても手がかりが掴めない時に、そういう声が発せられます。更には「あいつはもう死んだ」ということがあります。体は生きていても、自分の方から関係を断ち切って、二度と関係の修復が望めない場合です。前にも触れましたが「死」とは関係の断絶を意味するからです。パウロは「罪が支払う報酬は死です」と言いますが(ローマの信徒への手紙6:23)、それは、本来信頼関係にあるべき者が、その信頼関係に生きるべきことを無視して、自分だけで生き始めるという見当違いを犯すなら、その途端に関係が断絶するという意味での「死」を問題しているからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年2月のラジオ放送予定>
2月 5日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
12日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
19日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
26日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
第76課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・23・・・
B キリスト者の市民的義務・・・9・・・
13:1~2・・・8・・・
「政府の機能と権力」・・4・・
パウロはまた、為政者には悪を制し、悪人を罰するために、権力を行使する権威があるとも教えています。「彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである」(4節)。「剣を帯びる」ということは、権威、警察権、裁判権を意味します。正義の維持のためのすべての刑罰を意味します。もし国家が殺人者に死刑をもって罰すべき権威を神から与えられているとすれば、強盗や偽証や放火などに対して、罰金や懲役をもって罰する権威をも所有しているのです。
今日、死刑について感情的な反対論があります。多くの人々が宗教的人道主義的論拠から、これに反対します。しかし、殺人者に対する死刑は、旧約においても新約においても認められていることを覚えなければなりません。聖書は殺人者に対する死刑を認めているばかりでなく、それを要求しているのです。いかなる政府といえども、神のみ言葉の要求を変更する自由を持っていないのです。宗教的根拠から死刑に反対する人々は、明らかに罪の恐るべき実在性と神の聖と義を考慮していないのです。単なる情緒的な宗教観しか持っていないと言えます。
私たちが今考えている聖句は、また、平和主義に対しても意義を持っています。国際間の問題について軍事力を行使することは常に悪であると主張する人々は、この問題についての聖書の教えをよく理解していないと言わなければなりません。もし為政者が「いたずらに剣を帯びているのではない」のであれば、必要な時には、悪に対して力を行使する権威を与えられているのです。しかし、国内における核を抑制するために力を用いることと、国際間の悪を抑制するためにそうすることとの間に、原則的には区別はありません。
拳銃を発射しながら逮捕に抵抗する殺人者に対して、警察官が正当防衛のため射撃することが正しいと同様に、国家が外敵に対して自己を防衛するために、軍事力を使用することは正しい。すべての国際問題は軍事力の行使なしに解決できるとする考えは、人間の心の邪悪と罪の本質とを、聖書が教えているように理解していないものと言えます。
ここで注意すべきことは、私たちは力の行使については、あくまで慎重でなくてはならないし、自分だけが正しいとする偏見を厳しく排除しなければなりません。戦力の行使についても同様です。これは決して単純な問題ではなく、安易な決定を下してはならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」