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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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    ほっとひととき『みんなのコーナー』

 ☆ 昨夜、また地震があり不安でした。同じような規模の地震があるとテレビの予測・・・。穏やかな新年を迎えたいと思っていた矢先のことで、不安です。お祈りください。 福島県 T・Kさん

☆ ご無沙汰しておりましたが、主人が長期入院でした。郵便・新聞も局止めと、休止にして留守にした生活でしたが、退院して木製の郵便受けを開けたら一匹の蛙が留守の間、ここを住家にしていたのでした。「留守番してやったぞ」と言う感じ。今年も「戦争を語り継ぐ演劇」に出演します。少し無理をして挑戦!です。・・・。 愛知県 S・Mさん

 ☆ 今年も「ジャーナル」楽しみにさせていただきます。こちらは吹雪の日が多くなりました。日中でも車はライトをつけて走っています。私はメガネをかけていますので、雪で見えなくなり、本当に難儀です。庭の木は雪を被って、何だか一番暖かそうな装いです。春のお便りを「ジャーナル」で楽しみに待っています。 山形県 R・Kさん   

 ☆ 運転に自信がある私と自負していましたが、バックで車庫入れしたとき、アクセルとブレーキを踏み間違えて、大事に育ててきた盆栽の棚を壊してしまいました。家族に言われる前に、免許証を返納しました。人様に迷惑をかけずに無事40年の運転を終えて、何だかほっとしています。幸い病院はバスで行けますから、不便はありませんが、教会に行くのが不便になりました。家内と考えます。高齢信者の悩みですね。 滋賀県 A・Mさん

 ☆ 北見は真冬です。地吹雪の毎日です。殆んど先は見えません。買い物は本当に困ります。こんな生活は4月まで続きます。部屋の中は温室です。観葉の鉢が所狭しです。これはどこの家でも同じです。灯油になってからです。燃料代は食料品より掛かります。春は先の先です。・・・。 北海道 K・Kさん 

 ☆ 私は老齢者夫婦ですが、私の住む地域の80%はお一人で生活されています。お部屋はきれいに掃除されていて、我が家よりきれいな方も大勢いらっしゃいます。一人は寂しいが、元気なうちは思い出多いこの家や皆さんと一緒が一番安心ですよ・・・と言われて、そういう生き方もあるんだよね・・・、と主人と話しています。いずれ私たちもその立場になるのですから、とても参考になりますね。田舎の生活、決して不便ばかりではないですよ。もう少ししたら梅の花を見ることができます。楽しみですよ。 徳島県 K・Nさん

 ☆ 妹に3人目の男の子が生まれました。うれしくて、メールしました。母から、あなたはまだだね、と言われ、仕事が好きだから、予定なしよ(独身41歳)と言い返しています。 宮崎県 T・Uさん

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  『ありがとうございます』

 今年は、沢山の年賀メールをいただきましたが、70%はCBC「キリストへの時間」放送圏外の方でした。この「つのぶえジャーナル」をいつも拝見していますと言う、うれしいお言葉のメールでした。今は年齢に関係ない日常生活に欠かせないものなっている携帯機器は、電話や手紙とは異なる意思疎通の便利なものになっていることを感じさせられます。私は孫たちに「ガラケイ」と言われているものは持っていますが、いつも電池切れで、役に立っていません。

 超高齢者の必需品になっているのでしょうか、ご高齢に方でも巧みに操作されているのを拝見して、驚いています。リハビリに来ておられる方は、先生との会話手段は、声が出ませんので携帯メールで、行っています。

 2016年12月16日から2017年1月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者です。

藤沢徳治様 飯島みさき様 西口義昭様 金田好美様 井上義明様 梶川実雪様 篠田 潔様 馬場暁美様 T・Y様 匿名3名様

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。どうぞ親しい方にご紹介ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

 今月のことば

 「新しい歌を主に向かって歌え、全地よ喜び祝い、喜び踊れ」

                 ~詩篇~

 2016年が終わり新しい2017年を迎えます。広場の片隅には風に吹かれてこんもりとした枯葉の山。幾重にも重なった枯葉の布団に包まれた虫たちの姿。人はそれを冬眠と言うがそうではない。秋に蓄えて生きる力、訪れる次の季節のいのちの備えの営みの姿がある。

 大きく伸びた街路樹は、きれいな形に切りそろえられ、木枯らしの中に立っている。ふと、幼い時、近所の人との使い回しのバリカンでかられた頭の残り毛を思い出した。時間がたったら分からないよの一言で、母は、ハイおしまいとポンと虎狩頭を叩く。街路樹の残された木にも数多くの小枝がある。切り忘れでないのは、どの木にも小枝がある。春に備えた庭師さんからの、いたわりと気遣いの贈り物。

 2017年も、そのような人の思いが、そこここに満ちている。生きる喜び、生きている喜びが待っている。

 「冬こもり 春さり来れば あしひきの山にも野にも鶯鳴くも」(万葉の歌)。

 人は過ぎ去った一年に、何を思うだろうか。辛く死んだような日だろうか。空虚な日もあったことだろう。しかし、それは終わりである。

 「恐れるな。わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である」(黙示録1:17,18)。

一日でも一時間でも祝福があるなら、喜びのはじめ、踊りのはじめ・・・。終わった日を数えるのではなく、迎えうる新しい日を数えたい。

 

   小閑記 

 ・・・、「主よ、信じます」と言ってイエスを拝した。

      ~ヨハネ9:38~

 キリスト者は信仰によって歩むことを願い求めます。救い主としてのキリストにお目にかかった後も、キリスト者は信じる者でなくてはなりません。しかし、キリスト者として、信じることよりも、自分の知識や歩んできた経験の上に、信仰生活を建てる危険に陥ります。それはキリスト者をキリストから離れさせる人生設計と言えます。

 「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども信じている」とペテロは言っています。パウロでさえも、天にあげられ、人の語ることばではないことばを聞いても、その後は信じる者でなければならないことを喜ぶと告白しています。 

 キリスト者は、捜し求めても見いだせない者とは違います。神のみ言葉を信じて進む者は、妄信ではなく、神の約束に生きて、知り、実感するのです。キリストは、私たちが信じ、また有るべきことを語られたばかりでなく、このように約束されたのです。

 なんじの労して耕しし所は、わが永遠の収穫とならん。

 心を閉ざすことなく、キリストのみ前にひざまずいて、今までより深く、主の明らかなみ言葉を信じましょう。

 幾度も幾度も助けてくださった主 時には少しも、私たちが期待しなかった時も、 主は、今日も私たちの頼みとなるお方であります。この主イエス・キリストへの信頼・信仰こそ、揺るぎない土台にしたいものです。

 

世田谷通信(160

猫草

ただいま倫理政経を勉強中の長男と「生存権」について話をする機会があった。現在日本国憲法で保障される社会権の一つとしての「生存権」は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と定義づけられている。でも生存権というと一般的にはちょっとニュアンスが異なるものを思い浮かべないだろうか。つまり、今ここに生存していることを「善」とする根拠を問う「生存権」である。

我々の生存権は基本的に保障されている一方、突如脅かされる危険性もはらんでいる。安穏とした日常が昨日も今日も続く前提で人は予定をたて、約束を交わし、来年の手帳やカレンダーを用意するのだ。だが予測不可能な故意・偶発、様々な理不尽な事由により突然その生活が一変する事態は日々世界のどこかで起きている。それはニュースの向こう側の他人事ではなく、明日は我が身に起きるかもしれない。漠然と不安を感じてはいる、でも切迫感はない。

そう、特に根拠はないが、そのような「災厄」に見舞われない限り生存を保障されていると信じている自分が居るのだ。しかしここで一つの疑問がわく。生存権とは誰に対して主張しているのか。それが自分以外の他者に対してであれば、他者の生存権と自身のそれが拮抗したときどのように折り合いをつけるのかという事由となる、これは通常の「生存権」の概念の範疇である。自分と他者の「生存権」は、互いの権利・なわばりが侵害されない距離まで移動するか境界線や共存ルールを定めることによって多くの問題は解消されうる。

この場合自分と他者はお互い平等という前提がある。しかし仮に下位の、いや下位と信じていたものから、その生存権を主張されたらどうなるだろう?少し想像してみる。自分が生物学者だとして、生殺与奪の権利を掌握し日々実験しているシャーレの中の「菌」がある日叫んだら?「これまで人類により大量虐殺を繰り返されてきたが、このような不当な扱いにはもう耐えられない。我々はその生存権をかけて戦う」と言ってきたら?菌、いわゆるモネラ界は人類の知覚を超えた全ての世界で、数・多様性・耐性・性質、あらゆる面で人類を凌駕する「圧倒的存在」である。その宣告に対しヒトなどなすすべがない。

遙か高みより守られていると信ずればこそ成立する「生存権」だが、大きな生態系の輪の一括りの中にあることも覚えていなくては、と時に思う。

 

   『美しい朝に』・・27・・

11月15日

 今日は、雨時々晴れでしたが、主人とバスで神経科まで行きました。バスで阿倍野の一駅手前で降りました。アベノハルカスの近くです。バスを降りる時は主人に荷物を持ってもらって助かりました。また、椅子付のサイドカーが大活躍しました。病院内の移動も楽でした。途中で座れるのが良かったです。3年前の7月に、交通事故に会いお世話になった先生です。先生の言葉と漢方薬とに支えられました。2年振りですが先生も看護師さんも、その時のことを覚えて下さっていました。

11月27日

 寒いのも、暑いのも苦手で、気候によって体調が左右されます。15日に神経科で、新しい眠剤をいただいて、30日の水曜日に2回目の診察になります。そして、12月1日が内科の診察日で体重や血糖値のコントロールまで、気持ちがついていかなくて、結果が心配です。お祈りありがとうございます。

一晩中夢の中にいるような感覚でお祈りをしている自分を感じながら過ごすという不思議な体験をしました。友人や家族の心配なことを自分ではどうすることもできないので「お守り下さい」と、ただお祈りしていました。長いような短いような時間でした。

11月30日

大阪は、寒いですが良い天気です。神経科の先生に「薬の離脱症状は辛いですな」と一言が、暖かいのでありがたいです。薬を抜く時のだるさは、ステロイドでも経験しましたので、何事も経験だなと思いました。お送りした「折り紙」をお役に立ていただき感謝です。病気は、辛いですが、人のお役に立てることが、長村先生を通じてできることが感謝です。明日は、内科です。問題の体重と血糖値です。眠剤を減らしているからとの言い訳は、聞いてもらえないと思います。

12月1日

 こんばんは。今日から12月、内科の診察日でした。体重は、マイナス0.5キロでした。血糖値は、174と高くなっていました。血糖値は、高くて怒られるかと思いましたが、「冬の服だし、体重は、減っているでしょう。血糖値は様子を見ましょう」と言われました。お祈りありがとうございます。

昼から、洋服屋さんで手袋を買いました。去年までの手袋が皮の部分が「ぽろぽろ」ととれて、バスの中で恥ずかしかったので買いました。途中で、写真を写してきましたので、また整理してお送りしますね。

12月3日

 今日も大阪は快晴でした。昨夜は、良く眠れました。お祈りありがとうございます。おかげさまで「愛」の体調は、守られているようです。一緒に、新しい年を迎えられそうです。8日(木)は、午前中に大正区の眼科で、7時には家を出ます。瞳孔を開く目薬をさして、網膜剥離がレーザー手術でおさまっているか調べていただいてきます。毎年、先生には、「クリスマスカード」を持って行きます。目が守られて、写真を写すことができるのですから感謝です。

12月7日

おはようございます。日差しが眩しいくらい良い天気です。久しぶりの朝のメールを送信しますね。おとといも昨日も眠れていません。明日が、眼科と鍼治療なので、眠剤を調節しています。明日は、午前中に眼科です。両目とも瞳孔を開く目薬をさしますので、しばらく眩しくて帰りは黒いサングラスをかけて移動します。

12月13日

 こんばんは。今日は、血液内科の診察日でした。雨降りの1日でした。傘と杖で大変でした。長い間、待ちましたが、結果は良くて血小板は正常値でした。血糖値も先日の内科の時より下がっていて155でした。自分で祈れない時は「お祈り下さい」と長村先生にもお願いしてしまいます。また、多くの方のお祈りに支えられています。教会の方や、親しい人や、家族・友達、「つのぶえジャーナル」を読んで祈って下さる方にもお礼を言いたいです。本当にありがとうございます。私も、眠剤を減らすのと、体重と血糖値も減らさなくてはいけません。「乗り越えられない試練は与えられない」と思ってはいても、「どうぞ一つ宿題をすませてから、次の課題をお願いします」とお祈りしてしまいます。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

  その愛のゆえに

   =時々の記=

    (129)

11月14日

昨夜からスーパームーンのお出ましを期待しながら空を眺めるのですが、一向に月が出てきません。それもそのはず、雨が降り出そうとしていたのですから。明日から三日間はよく晴れるという予報ですから、きっとスーパームーンを眺めることができるでしょう。期待しながら月夜を眺めています。
 一叢の萩の枝垂るる山家かな。
 弦の音の澄むに聞き入る暮れの秋。
 公園にリハビリ散歩薄紅葉。
 棕櫚(しゅろ)の葉丸く整ひ冬に入る。
 林泉や色変えぬ松眺めける。     馬場路哉
夕の散歩の帰りに大きなイチョウの葉がとてもきれいに黄色に色づいているのに気が付きました。最も美しく紅葉しているのは、何と‟うるしの葉っぱです。これからの厳しい冬に備えて自然界は着々と準備をしているのですね。
 11月22日

木の実落つ果たして大地土の上。
 藪の端いくつか懸るカラス瓜。
 一群の野菊明るし山の窪。
 柊の花ほんのりと園歩く。
 父の里億伊賀を恋ふ翁の忌。     馬場路哉
主人の三重大へ検査に行く折に父親の生まれた家の前を通ります。今はもう誰も住んでいないのですが、懐かしく思うようです。

11月28日

夕の散歩に出かけようとしましたら、郵便受けに「ジャーナル」が届けられてありました。「今月のことば」を読ませていただくと、救い主イエス様がお生まれになった良き日をお祝いすることの大切さを改めて思い返しました。心の扉を開いて、悔い改めて、イエス様の招きを受け入れる人生は、どのような境遇に出くわしても強い力となって私たちを支え導いてくださるのですね。明日は主人の三重大での定期検査です。家で待っていても、時間が経つのが長いので、一緒に行くことにしました。「ジャーナル」をバッグに入れて、検査の待っている間、神様に祈りつつ、穏やかな思いで過ごすことができたらと願っています。
 大阪の「美しい朝に」さんは、いくつもの病と闘っておられるのですね。いつも前向きに神様を仰いで歩んでおられるお姿にとても励まされます。
 今月号でも多くの方たちは励まされることでしょう。私も、狭い考え方から少しは幅のある思いに変えられることができました。クリスマス、おめでとうと心からのお祝いの言葉が発せられますようにと、祈るものです。

11月30日

ちょうど、11年前の12月を思い出しています。悪性筋肉腫と診断され、私たちにとってはクリスマスをお祝いする気持ちにはなれませんでした。それでも三重大学病院のホールには、あちこちにクリスマスツリーが飾られ、落ち込んでいる患者さんを励ますかのようにきらきら輝いていたのを思い出していました。今日も早々ともう病院の中はクリスマス一色です。小さなお子さんが入院されるのでしょうか。たくさんの荷物を持って泣いている子供をあやしながら急ぎ足で病棟へと行かれました。主人の 診察の番まで昨日お届けいただいた「ジャーナル」を読んでいますと、お隣りに座っておられる患者さんが私に話しかけてきます。“何を読んでいるのかとたずねられるので、“キリスト教の冊子です”と答えました。すると、“奥さんそんな悪い病気には見えんが、どうしたんや”と言われるので、“主人なのです”と答えました。一般の方にとっては宗教に頼るのは、“溺れる者藁をもつかむの時なのでしょうか。
 キリスト者にとっては悪いときもよいときも神様にお祈りしながら、詩編にもあるように「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても私は恐れません。あなたが私とともにおられますから。」と神様に対して、真に絶対的な信頼と、祈りとを持って試練を乗り越えてきています。
 診察室に入りますと11年、お世話になった先生が突然、私は12月1日付で、福井大学病院へ転勤です。馬場さんはここまで本当に体調が良かったのすからもう大丈夫ですよ、との励ましを言っていただくと、主人も私も、苦しいときのも、辛いときにも、先生の大丈夫、何とかなります、のお言葉に支えられてきたことに、もう胸がいっぱいになりました。主人は先生と固く握手をして、先生もどうぞ気を付けて頑張ってください、と申しますと、さすがに先生は、馬場さんこそ!これからもこの調子で気を付けてくださいね、私は度々は三重大に戻りませんが、後輩の医師にあなたのことは頼んでありますから、と最後に、リハビリは大切ですよ、といってお別れをしてきました。
 医師と患者という関係を超えて、良い先生に巡り合ったことに心から感謝して帰路につきました。

12月4日

一日、温かく過ごしやすい日和でした。明日からまた平年並みの寒さになるといわれています。入院されていた93歳の方が亡くなられ、家族だけで見送ったことが礼拝後に伝えられました。今は、家族だけでの葬儀がとても多くなっているとのことです。イエス様の御許へ引き上げられるのですから、家族で静かにみ守られての最期は本人にとっても家族にとってもとても大事なひと時になると感じます。
 棕櫚の葉の整ひにけり冬初め。
 芭蕉忌や峠越えなば伊賀近し。
 母と子の園に木の実を拾ひをり。
 初時雨庭を濡らして上りけり。
 奈良の秋リュック背負へる旅の人。   馬場路哉
 12月14日

やはり、十二月も半ばを迎えますと、寒さが一段と厳しくなっていきました。
昨日は、氷がバケツの水に薄く張っていました。明日は雪が降るというのです。
日ごとに、着ぶくれが激しくなり、動作が思うようにいきません。寒さ対策として、薄いものを重ね着するとよいと言われていますが、私はとても寒がり屋なので、びっくりするほどの重ね着です。着脱に時間がかかりますので、朝はとても焦ります。朝起きて、身支度を整えるのにも10分はかかってしまうのです。
犬たちが“いつまで待たせるんだよとせがんできます。5時30分。ようやく犬たちとの朝の散歩に出かけます。あたりは、まだ真っ暗です。犬も年を取ってきているので、私よりも先に進もうとはいたしません。
 猪がガサガサ物音を立てると、じっとして待っているのです。最近は狸の親子連れ、鹿の親子連れにも出会います。こちらが何もしないでいると、山に向かって行きます。お互いに礼を尽くすことが大切なようです。動物の世界でもこのようにとても命を大切にしているのですから。人間も見習う必要がありますね。
   馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (53)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

 

第25章 教会について・・1・・ 

1 公同または普遍の教会は、見えない教会であり、そのかしらなるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員から成る。それは、すべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたの配偶者、からだ、また満ちみちているものである(1)

  1 エペソ1:10,22,23、エペソ5:23,27,32、コロサイ1:18

一 公同教会の別名はユニバーサル・チャーチである。普通は、ユニバースは広さにおいて普遍的という意味に考えられているけれども、ここでは、時間的にも古今を貫く意味を持ち、古今東西にわたる普遍性の意味である。教会はキリストを含むものではないし、キリストを離れてはありえない。

 キリストは教会の一部を構成しているのではなく、キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだである。教会は自己完結的なものではなくキリストに接ぎ木され、キリストに統一されて存在するものである。

 キリスト者が一人でありえないのは、一方、キリストとともにあらねばならないばかりでなく、他方選ばれた者全体との有機的統一的結合においてのみありうるからである。見えない教会という名称は、一つには、それが普遍的であるという意味であり、他方には、選びという目に見えない事柄のうちに成立しているからである。「すべてのものを、すべてのものによって満たすかた」とは、エペソ人への手紙1章23節の言葉であるが、神が満ちるとは、神の恵みが豊富にあること、賜物が豊かに与えられていることと理解することができる。

 

2 見える教会は、(律法のもとにあった先の日のように、ひとつの民族に限られないで)聖日のもとでは、やはり公同または普遍の教会であり、全世界にわたって、真の宗教を告白するすべての者と(1)、その子(2)らとから成る。それは、主イエス・キリストのみ国(3)、神の家また家族(4)であり、そのそとには救いの通例の可能性はない(5)

  1 コリント1:2コリント12:12,13、詩2:8、黙示7:9、ロマ15:9-12
  2 コリント7:14、行伝2:39、エゼキエル16:20,21、ロマ11:16、創世3:15、創世
17:7
  3 マタイ13:47、イザヤ
9:7(6)
  4 エペソ2:19、エペソ
3:15
  5 行伝
2:47

二 ここでは、二つの単語について注意が必要である。第一は「福音のもと」と、「律法のもと」という言葉であるが、これは、旧約時代と新約時代と言われているものである(第7章「人間と神の契約について」参照)。第二は、ここでの公同的は、世界的と言い換えられている。原語は、「一項と同じユニバーサル」である。しかし、過去、現在という時間的普遍性の方面は言及されていない。5項で、この「見える教会」が断絶しない点が明言されているから、その面を否定してはいないけれども、ここでは主として、律法時代には一国民のユダヤ人に限定されていたことに対比しての世界的(国際的)の意味を持つように思える。

 なお、この「見える教会」は旧約時代にも存在していた。すなわち、旧約時代のイスラエルは「見える教会」の旧約的姿であったとする点と、信者の子女も会員であると認めることは、バプテスト派などに対する改革派教会・長老教会との相違点である。また、この「見える教会」に属さない場合、普通には救われないと考えることも、アナ・バプテスト派などと異なる主張である。

 ローマ・カトリック教会の「教会の外に救いなし」は、ローマ・カトリック教会、すなわち、神の国という主張であるが、改革派教会がここで言うのは、聖霊の救う働きは聖書と礼典という恵みの手段を用いてなされる、という点に関係している。

 なお、新約聖書の中で使用されている教会に対するいろいろな比喩的名称のうち、配偶者(妻)、または、からだ、というように、キリストとの神秘的結合を中心に考えられているのは「見えない教会」にあたり、国家とか、家族というように組織体としての面を指示している場合には「見える教会」への名称として認めることは、非常に重要な区別の原則である。

 

3 キリストは、世の終りまで、この世にある聖徒らを集めまた全うするために、この公同の見える教会に、教役者とみ言葉と諸規定とを与えられ、また約束に従って、ご自身の臨在とみたまとによって、それらをその目的のために効果あるものとされる(1)

  1 コリント12:28、エペソ4:11-13、マタイ28:19,20、イザヤ59:21

三 「・・・聖徒らを集めまた全うするために」とは、選んだ者を召し、召した者を義とし、義とした者に栄光を与えることを意味している。これは「見えない教会」、すなわち、キリストのからだをたてることであるが、それを達成する手段として「見える教会」が役立つのであって、「見える教会」が、この本来の奉仕を有効に達成するために、主は教職と聖書と礼典とを与えてくださったのである。

 「諸規定」とあるのは、宗儀とも訳される言葉であるが、それは、礼典のみでなく、見える制度としての教会がかならず守るべき秩序一般を含むもので、無教会主義的な考え方を排除するものである。キリストご自身が「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたとともに「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(聖霊)を送って・・・」(ヨハネ4:16~18)とも約束された。

 キリストの臨在は、聖霊における臨在であると同時に、神性におけるキリストご自身の臨在でもある。み言葉も礼典も、すべてはこのキリストが用いられる手段となるとき初めて有効なのである。

 

 

さんびか物語 ・・・34・・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・33・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌337番

 わが生けるは

<神様のみ言葉>

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」。

~ピリピ人への手紙1章21節~

讃美歌337番は、神様に従って生きることの素晴らしさを歌った讃美歌といえるものですが、原作者も、年代も不明であります。一時はアメリカでも歌われたそうですが、今では英語の讃美歌集には見られません。私自身も、英語の言葉を一度も聞いたことはありません。しかし、日本では今日でも“わが生けるは”が歌われていることは、大変うれしいことであります。

337番の曲RIALTOの作曲者は、米国人のジョージ・F・ルート(1820~1895)でした。ルートは、ボストンで音楽を学んだ後、しばらくパリに留学しました。帰国後、19歳で教会のオルガニストや合唱団を指揮者となり、後に、公民学校の教師となりました。1844年にニューヨークユニオン神学校で声楽を教えました。また教会のオルガニストも続けておりました。ルートは再びパリに留学した後、ポピューラーな讃美歌や学校用唱歌をたくさん作曲し、彼の出版した讃美歌集は70種類にもおよびました。1881年には、ルートの功績が認められて、シカゴ大学からDoctor of Musicの学位が贈られました。

今日、ルートの作品は米国では、ほとんど歌われていませんが、以前には、広く愛唱されていました。しかし、日本では明治時代から今日に至るまで、RIALTOはさかんに愛唱されています。

今日の曖昧な信仰の時代に、この歌詞の意味を味わい、熱烈な信仰とかたい決心を学ぶことは必要であります。

<337>

 1 わが生けるは 主にこそよれ

   死ぬるもわが益 また幸なり。

 2 富も知恵も みな主のため

   力もくらいも また主のため。

 3 迫めも飢えも みな主のため

   うれいも悩みも また主のため。

 4 主のためには 十字架をとり

   よろこび勇みて 我はすすまん。

この讃美歌を十分に理解するためには、はじめの聖書のみ言葉の背景と意味とを知らなければなりません。ギリシャのピリピという町に住んでいたキリスト者に、手紙を送った使徒パウロはなぜ「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と書いたのでしょうか。この偉大な使徒は、一生を、イエス・キリストの福音宣教のために捧げてきました。パウロは「むち打たれことは数えきれず、死に直面したこともしばしばであった・・・、幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難にあい、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Ⅱコリント11:23,26~27)と言っています。

私たちの想像以上の、耐えられない迫害と苦難を受けていた使徒パウロは、この手紙を書いていたとき、信仰のためにローマの獄に入れられていたのであります。老人のパウロは、間もなく殉教の死をとげなければならない状態にありました。しかし、パウロは弱音など一言も言わず、むしろ、「わたしの身におこったことがむしろ福音の宣教に役立つようになった」と言っております。また、ローマにいたクリスチャンは、パウロの入獄によって「主にある確信を得、恐れることなく、ますます大胆に神の言葉を語るようになった」とピリピ人への手紙1章12~14節に記されています。

パウロの主な目的は、生きるにも、死ぬにもキリストがあがめられることでありました(1:20)。これこそは、すべてのクリスチャンの、目的でなければなりませんし、そうありたいものです。

神の栄光をあらわすこと、永遠に神をよろこぶこと、大胆に福音を語ること・・・。このことが、あなたの生きる目的になっているでしょうか。

2節をもう一度読んでください。

富も知恵も みな主のため

力もくらいも また主のため。

これは不思議な言葉ですね。“富は私たち自身のため”という考えは普通であります。“知恵も自分のため”と言って、知恵を私たちに与えたもうた、唯一の神を認めようともしないのが、現代の姿であります。“力もくらいも、また主のため”とあなたは心から、この歌をうたうことがお出来になりますか。

3節の言葉は、より素直で、私たちの心を本当に貫きます。

迫めも飢えも みな主のため

うれいも悩みも また主のため。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことをはたらかせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロがローマ人への手紙8章28節で語っております。神様が“迫めも飢えも、うれいも悩みも”益としてくださることを知っていたパウロは、勝利の生活を送ることが出来ました。自分の十字架を負って、喜び勇んで進んで行くことが出来ました。

死を恐れることも、死ぬことも、かえって自分にとっては益であると確信をもって告白しているのであります。それは、この人生が耐えられなくなったとか、うれい、悩み、迫めなどが死によって終わるとか、死ぬことによって、逃れることが出来ると考えたからではありません。

パウロには、死ぬことによって、神のみ前に立ち「キリストのはかりがたい富」(エペソ3:8)を受け、永遠に神のみ国で神を讃美することが出来るからにほかなりませんでした。あなたも、このような、かたい信仰を持っていただきたいと思います。

 

ビルマ  戦犯者の獄中記  (70)  遠山良作 著

11月22日    

―小田大尉、塩田中尉の死刑執行される前夜―・・2・・

―小田大尉、塩田中尉の死刑執行される前の夜―2時10分頃、塩田中尉から「皆さんの熱意ある言葉を聞いて安心して逝くことが出来ます。日本再建は必ず出来ると信じます。かつて独逸が第一次大戦に敗れた1年後、少年に将来何になるかと尋ねたところ、99%の者が「ソ連をたたくことだ」と答えたそうです。これがゲルマン民族の気概です。ところがそれ以上にまさる我々大和民族は、独逸が立ち直った以上に早く復興すると信じます。そして大和民族が再度この悲劇を繰り返さぬようにお願いします」との言葉がある。続いて2時30分頃から小田大尉が、11年間にわたる野戦勤務の想い出を語られる。

「昭和12年の春、2・26事件半ばにして満州に派遣され、14年の春、南支那に移り、16年春、福州作戦に参加、同年10月海南島に赴任し、サイゴン、泰国に平和進駐、そしてベッグ山系を越えて17年2月11日、紀元節の日にマンダレーに入り、シッタン作戦後、3月8日ラングーンを攻略(この間弓部隊に配属)、4月29日マンダレー作戦に参加し、この間門出中尉(現在少佐)と共に元ビルマ国家代表バーモ博士を救出した。その後雲南作戦に参加、6月龍陵分遺隊長、181月本部附となり、モービン県地区粛正討伐隊長として出勤した。この時の事件が今度の裁判で起訴され、今日の結果になったのです。その後、191月西南憲兵隊本部附となり、55師団連絡将校を1カ月やった後、特殊工作隊を編成し、それを指揮してバセイン、アラカン地区で勤務、20年5月転進作戦でベグー山系に入り、特殊工作神風隊と改名した。マンダレー街道を突破する友軍のために情報収集及び地形敵状偵察等の任に当たる。

8月26日、初めて終戦になったことを知り、直ちにモールメンに赴き、10月11日、武装解除され、2、3日後、久米司令官たち5名と共に飛行機でこの刑務所に移送された。私が神風隊長の理由で独房に入れられたが、そのことは何もなかったので、翌年(21年)11月独房から出された。この時はほっとした。そして生きて内地に帰れると思い本当に嬉しかった。―中略―

自分の人生観は(朝に紅顔ありて、夕に白骨となる人の一生)の要旨を語られる。―中略―

2時50分頃、清水中尉は「塩田さん、腹の具合は如何ですか」

塩田「もう大丈夫です。明朝は火葬で完全消毒して行くんだから、「アミーバ」でも大腸炎でも大丈夫ですよ。それに英軍の親切ですよ。あの世に行くのに予防接種までしてこれるんですからねアハッハ!」

今度は葵生川准将が「塩田さん一度聞こうと思ってわすれていたけれど・・・」「何かね」「一寸言いにくいね。フフフ、言っちゃおうか。貴方の妹さんのことだよ」

塩田「ああ妹かね。あれはまだ小さいから使いものにならんよハハハ」「小さいから可愛いいでしょう」と、葵生川さんの声

―中略―

4時10分頃、小田「今日、死刑の言い渡しを受けて帰る時、SK(印度人)に会って、永い間有難うと言ったら、お国のためだから安心して行って下さいと逆に激励されたよ。井出、後からよろしく言っていたと伝えてくれよ」

小田「井出、恩を忘れるな。三恩をな。君の恩、親の恩、師の恩を。師は小学校の時の先生が一番良い。人間としての基礎を作ってくれたのだから。そのことを大野当房、塩田たちにも伝えておいてくれ。そして屋には最後まで希望(減軽のこと)を持って頑張れと言ってくれ」

このとき5時を知らせる時報が鳴る。

5時8分頃、小田大尉から「じゃ「君が代」を始めてください」

塩田「お願いします」

森元「承知しました」と答える。森元准将の音頭により全員で『君が代』『海行かば』を各々2回合唱する。

小田「今度は二人だけで『海行かば』を歌います」と言って二人合唱さる。

小田「平素の気持ちと変わりありません。ただ神様と阿弥陀如来が迎えに来ているような気がします。8棟や東独房の方々にも長い間いろいろとご迷惑をかけました。皆さんのご厚情と真心を抱いて笑っていきました、と伝えてください。どうも皆様ありがとうございました」

塩田「長い間いろいろ無理なお願いも聞いていただき、どうも有難うございました。二人は笑っていきました、と皆さんにも伝えてください」

5時45分頃、小田「決して悲しまないでください。笑って送ってください。万歳は縛られる前にします。井出、いよいよお別れだな。君からもらった水を末期の水に飲んで行くよ」

このとき所長が来る。両官は所長と何か話しておられるが声が低くて聞き取れない。暫し沈黙、房内の者はみな息をひそめ、時の経過を待つ・・・。

5時56分頃、両官は声高く「万歳」を三唱、一同もこれにあわせて「万歳」を唱える。

両官「さようなら」の最後の言葉を残して房を出る。各人直立身を固くして息をのみ、去り行く両官の足音のみを聞く。

両官は房を出られるに際して、次の辞世を朗詠される。

祈りつつ 死に行く吾は 霊となり 永遠に護らん 皇御国を

6時、早朝の静寂を破って冷酷な踏板の落ちる音が響く。全員万歳を以てこれに和す。 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・49・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・

答・・16 ホスピスに入院している方から時々「死んだらどうなりますか」と言う質問を受けることがあります。勿論、火葬に付されて墓に入れるという死体の処理のことではありません。

 死ぬということは自分の体がなくなることではありますが、体だけが自分ではありませんから体が死ぬことが同時に自分というもののすべて消え去るのか、それとも何らかの形で永続するのか、永続するとすればどういう仕方で永続するのか、という問であります。正直言ってわたくしには「それはこうです」とはっきりした答えを出すことは出来ません。それは死後のことについて、死後状態を知っていない生者が、死後世界のことについて何か言うということ自体が僭越至極であるからです。

 ですから、この種の質問に対しては、基本的には「分かりません」としか言えません。質問される方は、わたくしが牧師であることを知っておられて、「牧師なら死後のことについてもちゃんと答えてくれるだろう」と考えられたうえでの質問でしょうが、わたくしが「分かりません」などと言うものですからがっかりされるようですが、しかし生者が、未経験の死後世界のことについて明快な答えを出し得るはずがないし、仮に出したら、そのこと自体がおかしいじゃないかと言うと、大抵は納得されます。しかし「分からない」と言うことは、依然として不安であるわけです。

 こういうことに関して言えば、人間はみな死ぬことが定まっているのですから、早くから「死とは何か」とか「死後どうなるのか」など予めきちんと自分なりの答えを出していなくてはならない、と思います。泥縄式の対応や他人からの答えでは必ずしも納得は出来ないのです。とは言うものの、何らかの答えを自分なりに得ないままでは不安ですから、出来るだけその人が自分で答えを見出されるようお手伝いをしているのが現状です。

ただし、この問題は、ことがらの性質上、万人が納得できるような客観的普遍的な答えを出すことは出来ませんので、「自分はこう信じている」と言う答えを持っているかどうかにかかっているように思います。相手がクリスチャンの場合には基本的に話がかみ合う要素をもっていますし、他の宗教などによって、かねてから、自分なりの死後観に立っておられる方には、比較的同一方向についての対話が成り立ちますが、無前提の方とはなかなか同じ方向に向き合えないもどかしさを覚えます。

ホスピスに入院しておられる方から発せられる声には「いずれ死ぬと分かっているのにただ無意味に死を待っているのは苦痛ですから、早く死なせて欲しい」というのがあります。こういう方の本心は生きていたいのです。しかし、生きていることが耐えられない苦痛であるので、それで早く死なせて欲しいというわけです。聖書の中には「死にたいと思っても死ぬことが出来ず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」という言葉があります(ヨハネ黙示録9:6)。死ねない苦しみというものがあるのです。

「死の世界」というものが考えられるとしたら、どういう世界のことが思い浮かぶでしょうか。先ずは「し~んとしていて、何一つ動くものがない世界」ということが出来るでしょうか。あるいは「時間とか空間とかが関係しない世界」と言ってよいかも知れません。実際死んだ人は、ず~っと静まり返っていて、時間や空間に左右されていません。永久にそれっきりの世界であるといえます。

これに比べると、わたしたちは「生の世界」にいます。私たちが生きている時は絶えず変わって行きますし、空間も変わって行きます。浦島太郎の話は、竜宮城という時間にもこの世という空間にも絶縁していた世界から、時間と空間が変わって止まない世界に帰った時いっぺんにその間の変化分を清算させられたということでしょう。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

<2017年1月のラジオ放送予定>  

  1月 1日 小幡 伸幸  (日本キリスト改革派豊明教会長老)

     8日 小幡 伸幸  (日本キリスト改革派豊明教会長老)

    15日 青山昭一郎  (日本キリスト改革派犬山教会長老)

    22日 青山昭一郎  (日本キリスト改革派犬山教会長老)

    29日 長谷川 潤  (日本キリスト改革派四日市教会牧師)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

第76課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・22・・・

B キリスト者の市民的義務・・・8・・・ 

       13:1~2・・・7・・・

「政府の機能と権力」・・3・・

 13章3、4節で、パウロは国家は善事をなす者を賞賛し、悪事を行う者を罰するためにあると述べています。「善事をするがよい。そうすれば、彼らから褒められるであろう」12:3b)。ローマ帝国は当時キリスト者を迫害していたのに、パウロは何故このようなことを言うのかといぶかる人々がいます。しかし、その理由は簡単です。パウロが言っているのは、例外的な環境や条件下の政府について述べているのではなく、通常の状態下の政府について語っているからです。

 ローマ帝国は常時キリスト者を迫害していたわけではありません。聖書の解釈において、私たちはうっかりすると歴史的、時間的要素を忘れがちです。使徒行伝に描かれている初代教会において、ローマ帝国がキリスト者を保護していた時、キリスト者を迫害したのはユダヤ人たちです。また、エペソにおけるように、異邦人たちがキリスト者に対して迫害を加えることも時折ありました。しかし、記憶しておかなければならないことは、エペソの出来事は政府官憲によって扇動されたものではなくて、私的な妬みによるものであり、ローマ帝国に従う地方官憲によって鎮圧され、秩序が回復されたことです。

 パウロは当時の暴動者たちが官憲によって、その騒乱行為について責任を取らなくてはならないとされたことを思い起こしているのです。このように、私たちはエペソの銀細工人たちによって、引き起こされた動乱に際して、ローマ帝国が正義と法と秩序を維持したことを見るのです。パウロのローマ市民権はユダヤ人たちの暴力から彼を再三にわたって保護しているのです。このような初期においては、ローマ帝国は多くの欠陥をもってはいましたが、正義と法と秩序を守る機能を果たしていたのです。

 

 勿論、後になると、大きな変化が起きました。70年(AD)にエルサレムが滅亡すると共に、ユダヤ人たちは舞台から去りました。そしてローマ帝国はキリスト者の迫害計画にのり出してきました。パウロが「善事をするがよい。そうすれば、彼らからほめられるであろう」と言った時、勿論、彼はキリスト者を迫害する政府は一つもないだろうと言っているのではありません。現にパウロは善い事をしたけれども、ローマ帝国によって斬首されているのです。しかし、迫害は結局、例外的なものであって一般論においては、善いことをなし、法を守る者は、国家によって保護されるとういうことは真理なのです。

  J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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