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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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    ほっとひととき『みんなのコーナー』      

 ☆ 今年も残りわずかになりました。近くの川(矢作川・やはぎ)に冬の渡り鳥が川岸にやってきました。見慣れたことなのですが、大病で、もう見ることはできない風景と思っていましたので、今こうして見る景色や渡り鳥に、生き、生かされていることに感謝しております。愛知県 A・Sさん

☆ 12月号のジャーナルをお送りくださいまして ありがとうございました。27日に、CSの子どもたちとツリーを飾りました。- 待降節- 主と共にあることを喜びたいです。子供たちの心に残るクリスマス会になることを祈って準備します。教会の前のお茶の畑からのぞむ、綿帽子をかぶった富士山の写真2枚も送りますね。 静岡県 H・Tさん

 ☆  甲州名物の北風がヒューと吹く度に、何十枚ものクヌギの葉っぱが地面にひらひらと舞い落ちてきます。その道の片側を歩くとカサカサと音がして楽しくなります。今日の風はその葉っぱを家の庭先や土間の中にも運んでくれました。まるでおとぎの国の様にいろんな種類の枯れた葉っぱが舞い込んできています。箒で掃いてしまうのがもったいないような気がして、そのままにしてあります。ああ~、田舎ならでは、山の中にある家ならではの景色です。 山梨県 U・Kさん 

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  『ありがとうございます』

 11月30日に「美しい朝に」さんから、美しい手作りの「折り紙」を送って頂きました。親しい方にお届けいたしました。団地の中にある山茶花の写真ですと愛知県のO・Kさんが送って下さいました一雨ごとに寒さが加わると思うよりも、春への序奏の雨と思うと、雨もまた感謝に変ります。

皆様の2017年が、神様の御手に支えられての日々でありますように、お祈りいたします。「つのぶえジャーナル」の活動のことも、祈りにお加えいただければ感謝です。

寄付金をいただきました。2016年11月16日から2016年12月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者

宮川真澄様 長津 栄様 太田敏子様 鶴原澄子様 石黒和夫様 馬場伸直様 馬場暁美様 水島美智子様 匿名6名様

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

  今月のことば

 「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし」。

              ~ルカ1:51~

 飼葉おけの中には、一人の幼子が横たわっています。それが後に、人を「倒れさせたり立ち上がらせたりするために、定められている」人であり、この方のゆえに倒れ、この方のゆえに死ぬということも起こり得るのです。

 クリスマスを迎えます。しかしもしかすると、私たちの中の多くの人々にとっては、クリスマスなど無縁の人、無くてもよいと思う人、その祝福など知らずに祝いもしない人もいるでしょう。

 クリスマスは、子供らしい事柄や無邪気な出来事ではないのです。祝福の時であり、審きを招く時でもあるのです。

 この飼葉おけの幼子は、私たちに対して光と希望と永遠の命をもたらす幼子でありますが、その光と希望と永遠の命を受け入れない者には、闇と滅びに留まることになるのです。

 幼子の産声は、後の救いの呼びかけを告げ知らせるものであります。その呼びかけの声を聞こうとしない者、心の扉を閉ざす者は、棄却の中に沈むのです。しかしこの幼子(キリスト)の招きを受け入れる者は、キリストが所有者となり、救い主キリストと一つとされるのです。また人は、洗礼を受けキリストに属する者たちでありながら、今もキリストを十分に受け入れない人もいるのです。

聖書の中には、神の御業に戸惑い、迷い、悩む人の姿が描かれています。高齢のアブラハムと不妊の妻サラの懐妊(創世記18章)、そうして、イエスの母マリヤと夫ヨセフの姿は、それを物語っています(ルカ1:1~2:35)。

 しかし、人の思いを越えた神の御業に、驚き怪しむ心を、御霊の働きによってその思いを喜びに変えるのです。

 暗闇を覆うこの世界に、光をもたらす祝福が、あの飼葉おけの幼子なのです。

<讃美歌109番>

 1 きよしこのよる 星はひかり、

   すくいのみ子は まぶねの中に

   ねむりたもう いとやすく。

 2 きよしこのよる み告げうけし

   まきびとたちは み子の御前に  

   ぬかずきぬ、 かしこみて

 3 きよしこのよる み子の笑みに、

   めぐみのみ代の あしたのひかり

   かがやけり ほがらかに。   アーメン

 

   小閑記 

 「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか」。

    ~へブル4:1~

 2016年のカレンダーも12月一枚になりました。多くの方は2017年のカレンダーを手にして、新しい年のあるべき姿を思い描いておられることでしょう。

 神様のお言葉の中には、二つの強い対象のことが記されていますが、そこには不思議な調和があります。

 一つは、数々の言葉で、完全な救いと開かれた扉、そして神様が私たちを守ってくださるという、確かな約束であります。それは、誰も私たちを救い主のみ手から引き離し奪うことは出来ないこと。何物も、主イエス・キリストにある神の愛から私たちを離すことは出来ないということです。

 しかし、聖書の他の個所では、私たちの危険は大きいと教えています。もし私たちが心から、真剣に目的に達したいと願うなら、気を配り、祈り、戦い、魂をきよめ、恐れおののいて救いのために労し、神を敬い、それを全うしなければならない、と。

 この二つの似ても似つかないみ言葉に、戸惑うのではないでしょうか。それは、最初のことは、神様に関することであり、次は、私たちに関することであります。動かせぬもの、確実なもの、決して失敗せぬものは、私たちの救い主の十字架の救いであり、父であられる神の内にそれがあります。この神と共にある限り、私たちは常に安全でありますが、自分自身のことについては、その弱さ、醜さ、不完全さに、謙虚に恐れおののく者でなければなりません。

 信仰の危険は、常に私たち自身の中に、心にあることを知っていなければならないのです。

 神様のお約束の確かは「あなたがたの父の許しがなければ、一羽の雀も地に落ちることはない」。そして「あなた方は多くの雀よりも、まさった者である」と言われています。このように私たちが神様の内にあり続けるなら、安全であることが約束されています。

 こ神のみ手に支えられ、神を愛し、従う2017年でありたいと願う、備えの12月にいたしましょう。

 =写真は長野県・小布施の「道の駅」の紅葉です=

 

世田谷通信(159

猫 草

昔から活字なら何でも好き嫌いなく読む方針だったが、一つだけ避けていたのはいわゆるハウツー本である。「あなたも~するだけで!」「~のコツ、教えます」「絶対~になれる~」みたいな題名と煽り広告の帯を見るだけで満腹感。手に取ったことのほとんどないジャンルだった。

ところが長男が「勉強のやり方ってなんだろう?」と言い出して、たくさん本を借りたり買ったりしてきたのだ。受験のど真ん中で今それを考えるのかとも思うが、納得しないとなかなか前に進めないので、そこは目をつぶることにする。

で、参考になりそう?面白い?と半信半疑で聞いてみると、みんないろんな事を言っており、共感できる部分もあるし、まあなかなか興味深いとのこと。私も試しにいくつか読むことにした。

さて、まず目次が魅力的。見出しの付け方が上手だなあと思う。本文も小分けにしてあって読みやすい。大事な箇所は色や太字で強調、項目別にテーマカラーを決めて構成してあったり、本全体のデザインが工夫満載である。

そうか、本って字が並んでいるだけの物ではなくて、こんなにバリエーションに富んだ表現ができるんだ、と気がつかされる。

007シリーズの作者が、純文学を書いている知人に、少なくとも私の書いているものはあなたのより読者に次のページをめくらせる力がある、とか言ったそうだが、読ませる努力ってあるんだな、と思う。

そもそも読者だって革新的、画期的なメソッドに胡散臭さを感じつつ手に取っているわけで、それをぐっと捉えて引き込む力は感じる。「3つのルール、これだけで!」とか言いつつ、3行で終わるわけもなく。革新的に始まっても、結論は意外と常識的なものだったりして。それでも最後まで引っ張る力はたいしたものだ。

勉強法について結論は出たのか長男に聞いてみると、「良さそうなのをいろいろ試して自分に合う方法を探せばいいよね」と。さらに、気分転換になるのでこれからもこの手の本は読むんだそうだ。狂信的になるでなく、嘘っぱちと決めつける訳でもない、美味しいとこ取り。なるほどそれぐらいの距離感がハウツー本との正しいつきあい方かもしれない。

 

   『美しい朝に』・・26・・

10月25日

昨日の大阪は、雨の肌寒い1日でした。おかげさまで、短い時間でも眠れる日が増えてきました。お祈りありがとうございます。11月に神経科に相談に行けるという安心感からだいぶ気持ちが、楽になったのかもしれません。1027日(木)は、針治療に行く予定です。腰も背中も、ずいぶん楽になりそうです。通院が増えるのは、主人に申し訳ないのですが、甘えさせてもらって、1人で出かけられるように頑張りたいと思います。

10月27日

 今日は良いお天気でした。主人に車で鍼治療に連れて行ってもらいました。おかげさまで、背中も腰の痛みも和らぎました。お祈りありがとうございます。

「つのぶえジャーナル」届きました。馬場さんところのワンちゃんが天国へ旅立たれたのですね。おさびしいことだと思います。家の「愛」も18歳。もう、自分では立てません。食欲があるのだけが救いですが、夜泣きがずっと続いています。高齢になるまで、全く無駄吠えをしなかったので、獣医さんは「痴呆でしょう」とおっしゃっています。それでも、大切な家族です。

10月31日

 良く晴れていましたので、午後から美容院で髪をカットしてもらい、すっきりしました。腰と膝の傷みが緩和されたのでやっと自転車で出かけることが出来ました。家の中は、暖かいのに外は肌寒く、道行く人の服装は様々です。薄着の方や、コートや分厚いジャンパーなどちょうど、季節の変わり目で着るものが難しいです。帰りに、洋服屋さんであたたかそうな帽子を買いました。これで、寒い日のお出かけも安心です。

来年の手帳は、気に入ったものがなかったので、頑張って、次回は、遠いけど大きな本屋さんまで行って買いたいなと思っています。明日から11月ですね。街の様子もかわってくると思います。秋から冬へとバトンタッチですね。

11月2日

 今日は、寒くて良く晴れていました。久しぶりに、バスで阿倍野まで行こうとしたのですが、バスが満員で1台見送りました。初めて、サイドカーで歩きました。サイドカーと一緒に歩いていると、道路の段差が気になりました。椅子付のサイドカーと歩いているには、いいのですが、バスに乗るとき、降りる時、持ち上げないといけないので大変でした。旅行のトランクのようなので、すいている時は、いいのですが、バスが混んでくると意外とかさばりました。しかし、バスが阿倍野に着いて歩く時に体重をあずけられるので助かりました。友達を待っている間も、椅子のないところでサイドカーの折り畳みの椅子で座れるので良かったです。身体の不自由な方が考案されたサイドカーのようで、足が痛くなったときは、手押し車のようにも使えました。アベノハルカスの16階で景色も見ました。写真を整理してお送りしますね。

11月5日

 今日も、良いお天気です。「愛」は、先週と今朝、獣医さんところへ行きました。子宮が膿んでいるみたいです。普通、若ければ手術で子宮を取り出すそうです。「愛」は、18歳と高齢のためお薬の治療を続けています。

11月9日

 大阪も良く晴れています。冬晴れとは、良い響きですね。明日が、定期健診なのですね。お祈りしています。私も、11月は11日鍼、15日神経科に「眠剤の相談」。121日内科「血糖値」、8日眼科「網膜剥離のレーザー手術の経過観察」、13日血液内科、「ITPの経過観察」と、私も病院と仲が良いのです。

おかげさまで、昨日は良く眠れました。お祈りありがとうございます。三国志のDVDは、次は音声を「韓国語」で字幕「日本語」で見てもいいかなと思っています。その間に、次のDVDを探そうと思っています。日本の「真田丸」も、毎回楽しみです。子供の頃と違って歴史も改めて興味がでてきました。教科書で無理やり歴史を覚えていた学生のころより、歴史ドラマで見る歴史の中の人物が興味深いです。子供のころから、両親と毎週大河ドラマは見ていましたが、眠たいだけの時間だったのに、不思議なものです。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (52)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第24章 結婚と離婚について・・2・・ 

4 結婚は、み言葉において禁じられている血族あるいは姻族の親等内でなすべきでない(1)。またこのような近親相姦的な結婚は、人間のどのような法律や当事者たちの同意によっても、そのような人々が夫婦として同棲ができるよう合法化することは、決してできない(2)。男子は自分の血族で結婚できるより以上に近い妻の血族とは結婚できないし、女子も自分の側でできるより以上に近い代の血族とは結婚できない(3)。 〔最後の一文は、日本基督改革派教会第17回大会削除〕

  1 レビ18章、コリント5:1、アモス2:7
  2 マルコ6:18、レビ
18:24-28
  3 レビ20:19-21


四 結婚は神の言葉で禁じられている血族、あるいは姻戚関係内ではすべきではない。そのような近親相姦の結婚は、いかなる人の法律をもってしても、あるいは当事者の合意をもってしても、そのような人々が夫婦として同棲できるように、合法化されることは決してできない。当時王室で行われていた愛欲にからむ無理を法的に認容する処置は実際にあった。

 一項での規定と同様に、旧約時代に行われていた習慣であって、しかも新約時代では、かならずしも明白な禁止はないけれども、キリスト教的分別から、性的乱れの防止―すなわち、結婚そのものの制定されている目的上―このようなことは禁じられるのは当然である。 

 レビ記18章の禁止命令は一夫一婦制への違犯、または、単なる一時的性欲による姦淫の具体的な例を記しているもので、このような姦淫や淫行は、きわめて機会が多く、また、それだけ隠れた遊戯としてなされえる性質のものであり、今日でも、ある地方では平気で行われている悪習の一種に属するものである。

 このような悪徳への厳しい良心が養われていないならば、家庭、社会の乱れは防止できない。性の純潔が姦淫を犯す相手の貞操であるのみでなく、自分自身の貞操を失う罪であることを男子も女子とともに十分に教えられる必要がある。近親間の結婚禁止は、聖書の言明というよりも、結婚制度が神によって立てられている本来の主旨への正しい理解からの推論と見るべきである。

 

5 婚約後に犯した姦淫または淫行は、結婚前に発見されるならば、潔白な側にその婚約を解消する正当な理由を与える(1)。結婚後の姦淫の場合には、潔白の側が離婚訴訟をし(2)、離婚後はあたかも罪を犯した側が死んだかのように、他の人と結婚しても合法的である(3)

  1 マタイ1:18-20
  2 マタイ
5:31,32
  3 マタイ19:9、ロマ
7:2,3

五 婚約後―婚約前でも淫行の事実が隠されていた場合も同様であろう―で結婚前に発見された場合にのみ、解消の正当性が認められる。解消や離婚は、このようは不倫行為の防止のためのみ許される一種の正当防衛、または、加罰手段と考えてよい。大切なことは、性の乱れを双方が常に真剣に予防しようとするところにある。


6 人間の腐敗は、神が結婚において合わせられた人々を不当に離すために、論議に苦心しがちなものであるが、姦淫以外の、または教会や国家的為政者によってもどうしても救治できないような故意の遺棄以外のどのような事柄も、結婚の結びを解消することの十分な理由ではない(1)。離婚する場合には、公的な秩序正しい訴訟手続が守られるべきで、当事者たちは自分自身の事件において、自分の意志と判断に任されてはならない(2)

  1 マタイ19:8,9コリント7:15、マタイ19:6
  2 申命記
24:1-4
六 正当な結婚が正当な理由で解消できる場合は、ただ二つだけである。① 一方の側の不貞 ② 一方の側の不貞が見捨てて、どう手をつくしても、復帰を拒む場合、である。

<結び>

結婚の神聖が口にされても、それが単なる恋愛至上といったロマンチックな感情が先行して論理の通らない場合が多い。ここで告白されている結婚観は、きわめて理詰めでって、先ず人間の地上生活の基本的な道徳として、十戒の中にある意味で不可欠なものである。しかも強制によることではなく、当事者の自由な判断による契約として成立すべきものである。

 自由な結婚と言っても、決して享楽中心的な事柄ではない。二人の一致協力による人間本来の使命の遂行としてなされるべきものである。従って。乱れを防ぐためのすべての注意が十分に払われた上でなされなければならない。軽率な結婚は、すでに不倫の素材となる。決してテスト的な気持ちでなされるべきでことではない。また、そんなに難しくて面倒で危険が多い冒険なら止めておくというように、消極的な態度もよくない。使命の達成という大きな決心でなすべきである。そして、一度結婚した以上、自分から解消を考え出すべきではない。何としてでも一致和合していくように努め、祈り、忍び、自分と戦い、相手に奉仕していかなければならない。

 また、相手に不倫があり、また見捨てられた場合、どこまでも十分な忍耐ある祈りと手続きとで、問題の正しい解決に当たるべきである。少しでも相手の落ち度を自分の口実に利用するようなところがあってはならない。

 事は二人以外に証人のない秘事であるから、良心的ということが根本である。お菓子をつまみ食いして、口をぬぐっておくとしても、現実に一つのお菓子が減っている以上、誰かに疑いがかかる。しかし、淫行は当事者らが隠す場合、証拠は残らない場合が少なくない。近しい者の間では、それが一層隠されやすい。良心と貞操観念のみが防止させるのである。

   

 

さんびか物語 ・・・33・・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・32・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌331番

 主にのみ十字架を

<神様のみ言葉>

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい・・・』」。

~マタイの福音書16章24節~

この讃美歌331番“主にのみ十字架を”は明治の時代から今日まで、日本の多くのクリスチャンに愛唱されている讃美歌の一つと言えましょう。

原作者トマス・シェパード(1665~1739)は、英国教会から非国教会へと転向した牧師の子供として、イギリスの片田舎に生まれました。彼は大学を卒業してから国教会の聖職になりましたが、1694年に非国教会に転じ、ノティガムの独立教会の牧師となりました。その後、エセックスのボキングに移って、納屋の中で集会を始め、それを教会にまで育て上げたと、「讃美歌略解」に記されています。

彼の作品としては数巻の説教集のほかに、同時代の讃美歌作者ジョン・メイスンの詩であるPenitential Craiesの続きとして書いたものが数編あり、それらのあるものは、今日でも用いられているそうですSongs of Praise(1693)に納められていたものですが、原詩は1節だけで2節以下は誰が作ったか不明だそうです。しかし、2節以下は作曲者G・N・アレンによったものではないかと、想像する人もおります。

また、原作の詩よりも日本語訳の方が優れている歌の一つでもあります。英文には5節ありますが、日本語の方は、それが4節に圧縮されています。その上、英文の4節と5節は日本語の方には訳されていません。そのかわりに、英文の3節にあることは、日本語の3節と4節にあります。

作曲者ジョージ・ネルソン・アレン(1812~1877)は、シェパードのおおよそ150年後に、アメリカのオハイオ州のシンシナティ市に生まれました。アレンはまず有名な音楽家ロウエル・メイスンの教えを受けたが、その後、1838年にオハイオ州のオウベリン大学を卒業しました。

アレンは卒業後、同大学の音楽講師となり23年の長い間、教授として宗教音楽を担当しました。その頃彼は、オウベリン大学に合唱団と管弦楽団とを組織しましたが、これが1865年に名高いオウベリン音楽学校設立の動機となったそうです。

彼が編集出版したSocial and Sabbath Hymn Book(1844)は、米国讃美歌史上重要なものとなりました。ここに納められていた331番のMAITLANDは彼の代表作の一つであり、当時は全米の教会で広く歌われていました。日本の教会では今日に至るまで愛唱されている讃美歌の一つと言えましょう。

<331>

 1 主にのみ十字架を 負わせまつり

   われ知らずがおに あるべきかは。

 2 十字架を負いにし 聖徒たちの

   み国によろこぶ  さちやいかに。

 3 わが身もいさみて 十字架を負い

   死にいたるまでも 仕えまつらん。

 4 この世の禍幸(まがさち) いかにもあれ

   さかえのかむりは 十字架にあり。

この歌の背景にあるみ言葉によりますと、主イエス・キリストはその弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)とお教えになられました。まずここで、注目しなければならないことは、イエスのみ言葉はキリスト(救い主)の弟子になろうとする人々に対して語られたものであるといことであります。

全ての人々は、二つのグループに別けられると思います。すなわち、イエス様のお招きの言葉を聞いて、従って行こうとするグループとキリストを信じず信仰の道を拒否するグループであります。

私たちの人生の道にも、この二つは深く関係してまいります。それは、イエス・キリストのみ言葉を聞いて、イエス様に従ってついて行くか、それとも無視するか否かという、二つに一つの道であります。しかも、その決意はどこまでも、私たち一人一人の自由意志にまかされています。

この讃美歌の1節では、キリストが負いたもうた十字架と、その十字架に対して自分とは何のかかわりもないかのように知らん顔をする人々の態度を美しい言葉をもってですが、せめています。すなわち、「われ知らずがおに、あるべきかは」という言葉であります。ですから、キリストのまことの弟子として、私たち一人一人が、自分の十字架を負って、キリストに従って行かなければなりません。というのが1節と3節に歌われているメッセージであります。私たちは、主にのみ十字架を負わせまつるのではなく、喜び勇んで、死に至るまで、自分の十字架を負ってキリストに仕えていく者でなければならないと力強く歌っています。

2節では、もうすでに召された聖徒たちについて歌っています。彼らはこの地上での十字架の旅路を終えて、神のみ国での喜びと幸いとを味わっている、その恵みについて歌っています。

また、4節では、「この世の禍幸(まがさち)、いかにもあれ、さかえのかむりは、十字架にあり」と歌っています。み言葉によりますと栄えの冠と十字架は常に一つに連なり、一体となっていて、切り離すことの出来ない結びつきがあります。ヤコブの手紙1章12節には「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」と言われています。

もし、私たちが主イエス・キリストについて行きたいと思いますなら、次の2、3の点について、はっきりと知らなければなりません。

イエス様は、その条件をご自分の12弟子に率直な言葉をもって教えられました。

それは、まず「自分を捨てること」であります。この自分を捨てることとは何を意味するのでしょうか。それは、己を忘れて、キリストをすべてにおいて、第一にすること、また、私たちの主な目的を、神のみ旨にかなうものとすること、また従わせることであります。

また、キリストご自身が語られたみ言葉を私たちの言葉(自分自身)にしなければなりません。イエス様は「わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方(父なる神)のみこころを求めるからです」(ヨハネ5:30)とお語りになられました。神様のご栄光を現わし、神様を喜ぶことはイエス様の弟子としてふさわしいあり方と言えます。

その次の条件といたしまして、「自分の十字架を負うこと」です。この十字架は人によって異なるでしょう。ある人にとって、それが信仰のために受ける迫害であったり、またある人には、病気や悩み、苦しみ、試みなどでありましょう。

ヨブ記には「人は生まれると苦しみに会う。花火が上に飛ぶように」(ヨブ5:7)と記されています。しかし、キリストの弟子は、キリストよりの救いの恵みとみ力によって、自分の十字架を、不平なく負うばかりでなく、それを高くかかげ、迫害と悩みに打ち勝つことによって、より一層の神様のお恵みと救いとを、素晴らしい証しとして、かかげることが出来るのであります。

3つ目の条件として、主の弟子は「死に至るまで忠実でなければなりません」。キリストに「従わなければなりません」。この二つのことを心から願い求めますなら、神様から私たちは永遠のいのちの冠を頂くことができます。讃美歌の歌詞にありますように実に「さかえのかむりは、十字架にあり」であります。

「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ、悪魔はあなたがたを試すために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは10日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(ヨハネの黙示録2:10)。

このみ言葉こそ大切です。
 

ビルマ

  戦犯者の獄中記  (69)  遠山良作 著

11月22日    

―小田大尉、塩田中尉の死刑執行される前夜―

モービン討伐ケースで死刑を宣告されていた小田大尉、泰面鉄道ケースで死刑の宣告を受けている士官学校出身の若い塩田中尉の死刑を執行される前夜の記録(筆記者不詳)は次の通りである。

 西独房20号に小田大尉、塩田中尉、清水中尉、橋口准将の4名、向側1号房には宮本、岩城、葵生川准将、鼻野、屋(おく)曹長がいる。19号には菅原、渡辺の両准将(いずれも絞首刑の宣告を受けているものである)は15時30分頃夕食を食べ終わって雑談していた。そのとき英人曹長たち3名が房に入って来た。そして「キャプテン小田、リュテナント塩田」と両名の名を呼んだ。呼び出しを受けた両名は「とうとう来たか」と言いながら彼等に従って房を出た。刑の確定判決を受けるためである。16時頃両名とも死刑確定の言い渡しを受けて帰って来る。両名は房の廊下を歩きながら各房にいる友だちに「永い間お世話様になりました。今晩が最後になりましたからお願いします」と挨拶される。

 小田大尉は10号、塩田中尉は11号と向かい合った房に移された。衛兵が帰ると間もなく塩田中尉は「小田大尉殿、仲よく行きましょう」と言う。

小田「ああ、仲よく行きましょう。今日はなかなか親切だったね、何もせずここまで連れて来たなあ」と両名とも声高く笑う。

 一寸間をおいて、

小田「オーイ井出いるか」「ハイ」と答える井出准将。

小田「書いたものやその他の品は新山大尉に渡してもらってくれ。森本君はどこか」「ハイ15号です」「今晩は頼むぞ」「ハイ承知しました」との会話が続く。

塩田「塩田の歌集やその他の品は橋口さんに言って、菅野少佐殿に渡して下さい」「ハイ承知しました」との返答がある。

 16時10分頃、英人曹長以下5名が来て両名を連れ出した。5分ほどして帰り廊下を歩きながら各房に向かって、小田大尉は「今晩は演芸を頼むぞ」と声をかける。塩田中尉も「お願いします」といいつつ元の房に収容される。

 衛兵が去ると井出准将が「今、何処に行かれましたか」「ああ、一寸体重を図りに行って来た」と小田大尉の返事がある。

 16時20分頃、小田大尉「印度人通訳ワタン(戦犯調査委員会通訳)が来て「お国のためだから安心してください」と言うから「お前たちにそんなこと言われなくとも、俺たち日本人には、ちゃんと覚悟は出来ている。でたらめな通訳ばかりしていらんことを言うな」と言ってやったらすごすごと帰って行ったよ・・・)と笑われた。

16時25分頃、刑務所長(印度人)が来て「何か頼むことはないか、欲しいものがあれば出来る限りのことはするから遠慮なく言ってくれ」

小田「一晩中話をすることを許可してほしい。そしてそのことを衛兵司令に伝えておいてほしい」と申し入れる。所長はそれを承諾した模様であったが、後の言葉は雑音で聞き取れない。そのとき菅野少佐と共に英人将校が来たが会話の内容は聞き取れない。

16時30分頃、西独房の者全員が漸次面会する。東独房から久米憲兵司令官たちが面会に来る。雑房からも原田少佐たち10名もそれぞれ最後の面会をする。所長はこれに立ち会い、17時30分頃帰った。暫く二人は無言であったがやや経ってから、「これで満足した。皆さんに会えてこんなに嬉しいことはない」と言われた。

17時40分頃、菅野少佐が桃の罐詰を持って来て分配しながら何か話しをしているが聞き取れない。―中略―

18時40分頃、小田大尉は房にいる全員に明朝出発の行事として、5時に私たちは遥拝をします。そして、「君が代」「海行かば」を各々2回歌います。万歳は房を出る直前に致しますから御承知下さい。歌の音頭は森本君に取っていただきたいと思います、と言われる。

19時頃より井出准将の進行係により演芸会が始まり房内は賑やかになる。

22時20分頃、全員の心からのはなむけの演芸会に応えて、塩田中尉は「二・二六の歌」自作の歌を謳われ、次いで辞世の歌を朗詠される。

あたたかき 友の情に うるおいて 心豊かに 我は逝くなり

身はたとえ 断頭台に 消えるとも 永遠に生きん 真心もちて

引き続いて小田大尉は、都々逸、詩吟、正気之歌、自作の「転進行」などを歌い、辞世の歌を朗読される。

皇国の 悠久平和を 祈りつつ 南の涯に 我は散り逝く

悠久に皇御国(すめらみくに)の新代を 興されかしと祈りつつ逝く

そして「内地に帰るもの者は戦犯をよく理解して帰り、祖国再建に尽してもらいたい」と言われた。―中略―

23時両官は「余り遅くなると皆様にもご迷惑だからこの辺で切り上げて下さい。長い間有難う御座いました」との謝辞があった。

清水中尉「時間の心配はありませんから続けましょう。そのかわり遅くなったから拍手だけは止めましょう」と提案される。2時ころまで演芸会は続けられる。

=東独房のスケッチ=

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・48・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・

答・・15 アダムとエバが禁断の木の実をとって食べたのは、「あれを食べると目が開けて、神様のように事の善し悪しをちゃんと決められるようになれるんだよ、食べてみてはいかが」とそそのかのす奴(サタン)がいて、それにまんまと引っかかっちゃったからです。人間はうまいこと言っておだてられると引っかかって大事なものを失ってしまうのです。こうして「失楽園物語」が生まれるに至るのですが、この話の中核となっていることは、神の戒めに従って神と共に生活していた者が、神よりも自分たちの思いを優先させたことによって、神との関係に生きてきた自分ではなくなってしまった。

 つまり、神を無視して生きる人間になってしまったということです。こうして、彼らは、神に従って生きてきた今までの自分を失いました。「あれを取って食べると死ぬよ」と言われていた通り、神との関係に生きてきた自分は、神からの禁断を犯した途端に、そういう関係存在でなくなりました。神に対しては死んだものとなったのです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とはこのことです。つまり神様という「的」を外して、自分の思いに「的」を絞った結果を受け取るのは「死」なのです。

 わたしたちは「死」と聞くと「体の死」のことを考えます。ただしそれは物理的現象であって「死の意味内容」を含んでいません。これは「生」についても同様であって「体が生きている」と言うだけでは、その意義が捉えられていません。

 しばしば述べてきましたように、人間は、その字の通り関係存在です。この関係が失われて回復されないところに死別の悲哀があります。アダムとエバは、神の戒めに従って生きることを止めて、自分たちだけで生きる者となりました。

これは確かに生きていることではありますが、神に対しては死んだものになってしまったのです。神を抜きにした人間の独走は、こうしてアダムとエバがトップランナーとなりましたが、そのあとに続く人間も皆同じバトンを受け継いで、「エデンの東」を走り回っているだけです。

 ということは、アダム同様、わたしたちすべては、このままでは究極の責任者により頼むことが出来ないまま、従って「あなたのみ手に委ねます」と言う相手を失ったまま死ぬしかありません。存在の根底を支える真の主を失ったままこの世を去るのですから、不安であるのは当然です。自分が主となっている限り、それで終わりです。どこまで行っても自分しかいないとなるのが、神様抜きで生きる者の当然の帰結です。

 死を恐れるのは、人間の生死を超えて、しかもそれを包み込む神の永遠の命を知らないからです。こういう人間に、新「エデンの園」へと招き入れるために来られたのがイエス・キリストです。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

<2016年12月のラジオ放送予定>  

  12月 4日 草野 誠  (日本キリスト改革派恵那教会牧師)

     11日 草野 誠  (日本キリスト改革派恵那教会牧師)

     18日 相馬伸郎  (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)

     25日 相馬伸郎  (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

第75課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・21・・・

B キリスト者の市民的義務・・・7・・・ 

       13:1~2・・・6・・・

「政府の機能と権力」・・2・・

 勿論、国家は神が立てられた人間社会に存在する制度の一つに過ぎません。その他に神が立てられた制度には、家庭と教会があります。これらのものの何れも固有の領域をもっています(領域主権)。そして、それらの何れもが他の領域を犯すべきではないものです。もし、政府が教職(牧師・監督など)の任命権を要求するような立法を企てるならば、それは国家が教会の領域を侵害するものというべきです。また、国家が、もし両親に対して宗教教育を施すことを禁じるような立法をしようとするならば、それは家庭の固有の領域を侵すことになるのです。聖書によれば、国家の機能には限界があるのです。国家は教会や家庭の機能を奪うことは許されないのです。

 

 過去と現在の全体主義国家においては、国家または為政者がすべてのものを奪おうとする悪い傾向が発展してきたのを見ます。全体主義国家は家庭や教会をますます狭い領域の中に押し込んでしまう一方で、人間生活の領域により広く支配権を伸ばしていきます。あらゆる組織や活動は、国家の偉大さと栄誉を増進するように志向することを、国家が要求するのです。このことをしないのは不必要と見做されて、禁止されたのです。

 両親たちはますますその子供たちを国家の支配に服させるように強制され、教会は国家の意思するままにならなければ、その存在や活動を許されないのです(日本基督教団の成立事情を想起してください)。人間の自由は、すべてのものが全体主義国家の支配のもとに置かれていくに従って、ますます失っていくのです。

 

 西側国家や日本のように民主主義国家においては、この傾向は全体主義国家に較べると少ないけれども、やはり国家官僚が支配力を及ぼす領域はときとしてステイティズム(国家の経済統制・共産主義に対比して言われる語)と呼ばれることがあります。国民の生活や行動をより多く統制しようとする政府の中に見られます。事業、農業、教育その他の多くの活動が、ますます政府の統制と支配の下に置かれるように進む傾向にあります。民主主義国家における官僚主義です。さらには国家が民間と競合して、企業活動をしようとする傾向も現れます(専売公社)。

 

 国家が産業や事業を統制したり調整したりすることは、必ずしも悪いことではありません。それらをすることが正義の維持のために本当に必要で、ある程度までは、それらは合法的であり至当です。勿論、ここで言う正義とは、個人の不法行為を罰するというだけの狭い意味に解されてはなりません。人間社会における正義というのは、人と人の間、集団と集団との間の公平さを意味します。国家は人と人の間、集団と集団との間において、この正義が維持されるように、監視する裁定者なのです。もしある特殊な活動、例えば郵便等のような事業が政府の公営であることを、正義が要求するのであれば、それは国家がそのようにすることの保証となるのです。

 

 しかし、国家がすべての領域の中に足を踏み込み、人間の生活の多くをますます奪うならば、それは確かに悪いことであり、啓示された神の御言葉にもなることなのです。このことは、個人のみならず家庭や教会が、神の与えられた権利と機能を持っており、国家はそれを奪うことが出来ないという事実から明らかです。

 確かに全体主義や国家統制は、国家の機能や目的についての聖書の教えに反するのです。神は決して、政府や為政者が人類のすべての要求を満たす全能者としてはおられないし、人間の主の目的が国家の偉大さや勢力の伸長にあるとも言ってはおらません。国家は、人間社会の正義-すなわち、最も正当にして広い意味における正義・公平さ―を維持することによって、罪の結果を抑制するために建てられた神的制度なのです。

 J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

    ほっとひととき『みんなのコーナー』      

 ☆ 政治にあまり関心を持ったことのない私でしたが、都知事選挙に始まり、オリンピック会場問題やそれに関係する事柄の報道、そして豊洲市場の工事のことなどで、つい身近に思い耳を傾けるようになりました。そうしてお隣の韓国の大統領、その締めくくりのようなアメリカ大統領選挙報道には驚きました。アメリカ流と言えばそれまでなのでしょうが、あまりにもひどい言葉には、これがキリスト教国の知性と良心???と失望しました。余りにも醜い姿を膨大なお金を使って報道することに、嫌悪感を覚え、また政治に無関心になりそうです。・・・。憂鬱な日々です。 東京都 T・Kさん

 ☆ 天候不順の影響で野菜の値段が高くなり、品物を探しながらお財布と相談の日々ですが、近くの農家のおばあさんが時折、荷台に野菜を積んで俄か直売をしてくれます。採れたてで土も虫もついていますし、形も不揃いですが、新鮮そのものですから、おばあさんの姿を見て、たくさん買ってきてニヤニヤ、ほくほくしています。家族でお鍋を囲んだ夕飯に、おばあさんありがとう!の気持です。埼玉県  U・Kさん 

 ☆  秋の天候の変がで皆様お疲れ気味ですね。昨日は4ヶ月検診で他の用事で役所にも行き、忙しく一日を過ごしました。近所の友人がお子さんのオモチャや衣類を使わないからと惜しみなくくださるので、お礼がてらバザーでキャロットケーキなどを買って届けてきたところです。「今月のことば」にありますように、分け与えることの喜びを知っている方です。クリスチャンと伺ったことはありませんが、独居老人の方にも話しかけられる優しい方です。つい忙しさにかまけて忘れがちな他者への思いやりを彼女は知らせてくれます。
  
自分の為ではなく、他者の為にプレゼントを贈った方が幸せ度も高いというデータもあるそうです。他者の幸せも願い、省みることのできる大人になるにはまだまだ先は長いと感じますが心かけていきたく思います。奈良県 N・Rさん
 ☆ 倉吉にいる友人にその後の様子を聞きました。まだまだ神経が過敏になっていて、落ち着けないそうで眠れないと言っていました。睡眠を促す薬も飲めないそうです。寝ているときに地震が来たら、と思うと薬も飲めないと言っていました。これは、災害に会われた方のお気持ちなんだと思いました。阪神淡路のことが今も鮮明に残っていますから・・・。 兵庫県 A・Gさん

 

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緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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