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「今月のことば」
良い地に落ちたのは、御言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
=ルカ8:15=
人には、それぞれの時間があります。人は時間の長短や貧富で評価しますが、それは私たち人間の身勝手な基準、評価です。しかし、その基準から離れて、時間や内容を沈考させる言葉として、「今月のことば」の聖句として選んでみました。
「良い地に落ちたのは、御言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」。という人生、日々を振り返ってみたいと思います。
慣用語に「氏より育ち」というのがありますが、ここで言う御言葉の意味は少し違います。それは、私たちの心の地、日々の時間、すなわち生活そのものが、落ちた地なのです。私たちの心の地、日々の生活は、良い実を結ぶものなど一つもありません。また、その地に「種まきが種を蒔きに出て行った。蒔いているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。・・・岩の上に落ちたのは、喜んで受けいれるが、根がないので信じていても、試練の時が来ると、信仰を捨てる、・・・。生活の心づかいや富や快楽」(ルカ8:5、13、14)心惑わされる地に、神のみ言葉と言いう種が蒔かれたのです。
そのような心の地に、春のうららかな日に始まり、輝く秋に至るまでに成長し、実となって熟するという幸いな「心の地」とされる幸いを神様は、お恵みとして下さるというのです。
では、正しい良い心の地を持つ人々とは、どういう人々でしょう。どのように生き、どのような人々でしょうか。それは、その人生、日々の生活の大きな目的を、神様との幸いな交わりの中に持つ人々です。正しい心で、み言葉に立つ生活をと願う心の生活を求め続ける人ではないでしょうか。その指針であるみ言葉を心の糧とし喜びとして、聖霊の導きに生きることを願う人でもあります。
神様は、私たちをロボットのように扱いません。神様がお与えくださった意志によって、力量によって、天賦の才能によって、また自由な道によって提供されているすべてのことに、神様のご栄光を求める「心の地」で感謝をもって生きる人々が、すなわちキリスト者一人ひとりなのです。
信仰生活を苦難とか、日々の戦いの連続であるかのように思い込み、喜びを忘れてしまいがちですが、それは違います。
信仰生活は、幸いという実を結び、美しい花が開き、うるわしい実、すなわち、愛、喜び、平和、忍耐、親切、情け、忠実、優しさ、自制などを実らせるものなのです。「よい地」とは、「感謝の地、生活」であることを、この11月のみ言葉に心を向け、クリスマスの心備えをしたいものです。
「小閑記」
決して行いによるのではない、だれも誇ることがないためなのである。
=エペソ2:9=
2022年も残る日が日一日と少なくなりました。一年間の出来事を振り返るよい意味では、この11月は大切な時と言えます。
年の初めにはいろいろの計画を立て歩み始めました。思うのですが、結果はどうであれ、何かの目標を立ててそれに向かって歩んできたことに感謝して、2023年を迎える備えの月がこの11月になるなら、それは意味深いのではないでしょうか。
私たちキリスト者は何時も心の中に真剣に、神様との交わりの時が必要であると感じる者であると思う時と、不思議に思う時があります。
また、自分の救いが人生の大問題となる時も多々あります。大袈裟ではなく、日々の生活の中に、それがあるからです。そのような時、心を騒がせるのですが、それが「救い」への再確認、再認識へと導いてくださるのです。良い意味での「疑問、不安」であるとするなら、それは無駄なことではないと思えるのです。
そのために、先ず思うこととして、現在の自分の姿・信仰の心を点検させましょう。順風満帆、自信満々の時よりも、自分の在り方を問い直させる恵みの時が必要ではないでしょうか。今よりもより良き者にならなければならない、という思いが心の内に根を下ろし、改めて、信仰生活を省み、思いや心や性質が少しでも変わりたいと思わされるなら、その「今の時」を大切にしたいと思います。
「心をつくし・・・、全力をつくして」、時には立ち上がらなければならない時があります。それが今だとするなら、幸いな時です。
私たちが救われるということを信じる時、もしも主イエス・キリストを受け入れず、あるがままに救われると信じるとすれば、それは不可能です。また同様に、自分の努力で救いを頂く領域に自分を引き上げたり、変化させるということもまた不可能です。自分の力でその領域にいたるために何かをすることなど、全くないのです。むしろ大切なことは、その思いを捨て、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、感謝して生きることこそ、求められる道です。
もし、主イエス・キリストを救い主と信じる前のように、自分自身の善行という行為で救いと平安を得るのが救われる道だと思うなら、それは間違った道ですから、逃れなければなりません。不幸にしてそう思ってしまうなら、神の子イエスを否定し、十字架につけ、自分の義に生きたあのパリサイ人の仲間に加わっているのです。
私たちの唯一の救いへの道は、「わたしは命である。罪と滅びから救い出して下さる救い主イエス・キリストを信じる者だけが、神の国に入る」と言われた、この主イエス・キリストに生きることです。これこそ最高の恵みです。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるものである。これはあなた方自身から出たものではなく、神の賜物である」という事実を信じて生き続けましょう。
我がなす施しもいさおも、罪の一つだにあがないえじ。
カルバリの丘に、我のがれん。神よ、あわれみたまえ。
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紅葉の時期になりました。知人にアケビや柿をいただき、庭の山ブドウと一緒に玄関に飾りました。秋の恵みをお届けします(写真)。今年は山ブドウがよく育ったのでジャムにしょうと思っています。アケビの皮はアクが強いので、何度もアク抜きしゴボウと一緒にキンピラにしました。素敵な秋の味がしました。 「ジャーナル友」より皆様へ
世田谷通信(230)
猫草
東京、文京区に茗荷谷という場所がある。その名の通り、かつてミョウガ畑が広がっていたそうだ。周辺地形は起伏に富み、谷ではきっと湧水で適度に湿っていたのだろう。茗荷坂の一角ではいまも僅かにミョウガを育てている場所がある。
さて、地下鉄茗荷谷駅前の駐輪場奥に丸い柱が見える。「同潤会大塚女子アパートメントハウス」入口ポーチの円柱と中庭の草植鉢だという。建物自体は解体されて残っていないが、建築遺構というわけだ。
同潤会アパートと言えば、青山や代官山のレトロなアパート群としてかつて注目され、老朽化により解体されたという大まかな記憶がある程度だ。「大塚女子アパートメントハウス」は初耳だったので、いくつか本を読んでみた。
まず開設当初の入居条件が「単身、女子、月給50円以上、保証人二人」というハードルの高さ。昭和5年当時にその条件をクリアできる職業婦人はそれほど多くなかっただろう。鉄筋コンクリート5階建て、居室は洋室と和室合わせて150室、鍵付きの個室。男子禁制、家族と言えど男性は内部に入れず面会は応接室を使ったそうだ。地下に80席の食堂が早朝から深夜まで営業し、部屋まで温かい食事を運んでくれるサービスも利用できた。そのため部屋には台所はなく簡易ガスコンロのみ、風呂は地下大浴場、トイレは共同、洗濯は屋上で行う。防音仕様の音楽室には当時非常に高価だったピアノと蓄音機完備、日光浴室にはピンポン台とラジオ、屋上テラスではガーデニングも楽しめた。現在でもこれだけの規模と設備の女性専用マンションなどそうそうお目にかかれない。当時の職業婦人憧れの物件、周囲の注目も高く、雑誌の取材も多かったようだ。目の前が都電の停車場で、交通至便。仕事で遅くなっても暗い夜道を歩かなくて済むという安心感。そして、今では当たり前だが鍵のかかる個室は、独身女性にとって代えがたい居場所だったろう。たとえその部屋が四畳半でも、家賃が相場の倍でも、大人気だったのは頷ける。
とはいえ時代は戦争に突入し、戦況悪化と時代の趨勢の中で当初エリート女性向け高級物件だった大塚女子アパートは、戦後、都営住宅となり低所得単身女性向けへと大きく方向転換する。老朽化の末、2003年、他の同潤会アパート同様に解体となる。今は駅前に丸柱と草植鉢を残すだけだが。街にその場所の記憶は残る。
<いきいき里山・山里ものがたり>
岡山県にお住まいの「ジャーナル友さん」がメールを下さいました。
・・・。もう初冬ですね。駅前や繁華街には色とりどりに飾られたショーウインドーの灯かりで華やかです。この時期になりますと各地で市役所の方に苦情が来ている問題がムクドリの被害のようです。夕暮れと共におびただしい数のムクドリが電線や街路樹に群がるための鳴き声や糞の苦情だそうです。ムクドリはひと昔前は「益鳥」として私たちの食生活を支えてきました。農薬を使わない田や畑は虫の害に悩まされ、昔から虫退治(虫追い)の行事やお祭りは各地にあるほどでしたが、その虫を食べてくれたのがムクドリで、歓迎された鳥でしたが、都市化が進み農薬が使われるようになったので、森に住むムクドリは住み家が奪われて、食べ物を求めて街中に来るようになったそうです。ムクドリの住み家の森は狭まり、都会化し、安心して寝入る暗い場所を失い、虫もいなくなると共に、町中に有る食べ物を求めて集まりました。ムクドリは暗い森や安心して寝入ることのできる公園の森も明るい街灯りと車の灯かりで、眠る場所を失ったのが、あの哀れなムクドリなのです。益鳥を「厄介鳥・迷惑鳥」にしたのは私たちなのですね。・・・。
「美しい朝に」
⁂ ありがとうございます。心配していた孫の熱はだいぶ下ってきたようです。今日は、パパがお休みなので、私達は自分の家に帰り、衣替えができました。もう秋ですね。今夜も、冷え込んできそうです。夜、買い物に行くと肌寒いくらいでした。皆さんのお健康をお祈りいたします。
=沙耶香のつぶやき=
お母さんはよくきれいな秋の花が咲いてるよというのですが、あまり興味がなく、申し訳ない気持ちです。でも、興味がないのでどうしようもないですよね。今は、部屋で画面を見ながらダイエット体操に夢中です。そんな感じなのに、彼岸花が咲いてるよ、と教えてくれます。私にはどれが彼岸花なのかよく分かりません。何だか申し訳ない気持ちになりますが、仕方がないですよね。ああきれいだね???の相槌、ごめんなさい!
暑い暑いと言ってクーラーの部屋にいた生活から、急に涼しくなり、秋物をお母さんにおねだりしましたら、可愛いのを2枚買ってくれました。私はおねだりが得意なのです。でも、お母さんもちゃっかりと忘れずに自分のものは買いましたよ。
********
沙耶香さん、お元気そうですね。私は夏の疲れが少しなくなりました。暖かい、ホカホカのさつま芋が美味しくて、お店まで買いに出かけてしまいます。あのおいしさは魅力的です。今はケーキは二の次です。お腹の周りは気になりますが、食欲の秋を満喫しています。
*この掲載は原稿の時にお送りし、全て了解を得ております。編集子
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(200)
9月15日
今朝は思い切って朝散歩に出かけてみました。辺りには誰も歩いている方は見受けられませんでしたが、するとこの暑さの中、小さな秋をあちこちで見つけることができて感激しています。薄紫色のヌスビトハギ、ススキ、ツユクサ、ピンクのコスモス(これはおうちでしっかり手入れをされているものですから見事でした。)などなど。こんな暑さの中にあっても秋を教えてくれているのです。
今日、主人が散歩していると、60代後半の女性が話しかけてきてくれたそうです。その方は畑の手入れで草を毎日引いて手入れをしているというのです。その方曰く。今年ほど暑い夏は経験したことがないほどの暑さだと。9月になってもさっぱり涼しくならないのでしんどいですね、とのこと。このような農家のベテランさんがそう言われているのだから私たちがしんどく感じるのは当たり前、毎日体が重くて、動きが鈍くなってきている私たちです。
山離れ雲一つなき望(もち)の月。
平らかな神野山見ゆブドウ園、(神野山は標高660メートルもある山です)
馬場路哉
9月26日
昨日は私が室内で座っている状態から立とうとした瞬間、何かに引っかかってとんでもないところへ転がってしまいました。今日は主人が朝からめまいを起こして暫く安静を保っていると何とか歩くことができるようになりました。もう何が起きても不思議ではない私たちです。
夕空やツバメ帰りてぽっかりと。
白鷺の数多の浅瀬豊かなる。
塀越しに風船かづら垂るるなり。 馬場路哉
子供たちが幼かったころは神野山へよく登りました。大きな石がごろごろしていて足もとをしっかり見て歩かせないといけないので大変でしたが、頂上へ登って辺りを見渡すと素晴らしいパノラマです。東には伊賀盆地が西には奈良盆地が見渡せるのです。羊たちが放牧されていてとてものどかなのです。今でも小学生の良き遠足の場所になっています。
10月5日
本日、10月号をお届けいただいて私も印刷されたジャーナル派で気に入っています。今度、診療所の先生に一部をコピーして持っていくつもりです。今日は体の話ではなくジャーナルの話を診察の代わりにできてとても気分爽快です。名古屋の信仰の友達ってあなたと同じ年ですか、とまで尋ねられたので、いいえ大先輩です。80歳を過ぎても気力と頭脳の明晰さは衰えておられません。だから私のまずいコラムでもとてもよく推敲してくださって月刊誌が届くのが楽しみなのです、というと先生は“すごい方があなたにはお友達としているんやな。”と感心です。感謝です。
門先の野菊は刈らで愛でにけり。
家を守る媼一人に紫おん立つ。 馬場路哉
10月7日
今日は晴れると聞いていましたがあまりすっきり致しません。明日からまた雨とか。散歩に出かけるとどのお家も洗濯物が山のように干されています。お隣に住む93歳のお兄さんのお世話に来ている妹さんと出会いました。とてもきれいにケトウの花を咲かせておられるので癒されることをお伝えいたしました。93歳の方の奥様はケトウが大好きだったので、お世話に来ている方が一生懸命に花を咲かせているとお話してくれました。奥様はもう点滴のみの生活だそうです。
皆がその同じ道を行くわけですが、神様を信じている私たちに不安はありますが、神様に守られていることを確信していますから、すべてをお委ねしていくことができて感謝です。
賛美歌で楽に眠りぬ秋の夜。
おきつもの名張の山の秋時雨。
秋嶺の彼方の雲の夕焼けす。 馬場路哉
寒くなってきたので俳句が作りやすくなったのか、今週もまた出て行きました。たくさん載せていただいて心から喜んでおります。ジャーナルに載せていただくのがとても励みになっているようです。
10月10日
昨日に比べると小糠雨ですが、うっとおしい秋雨です。
超エムとすおとぎ峠の野菊かも
腕利きの調理師死すや秋の風。
怪獣と見え葛高くよじ登る。
ケトウを咲かせて媼施設へと
筋肉の衰へどうのと敬老日。 馬場路哉
秋から冬への移り変わりですね。
馬場暁美
上野緑ケ丘教会会員
眸(ひとみ)
小さな庭ですが秋を飾る菊の花が咲いています。暑い夏も過ぎ、刈り取られた田圃には無数の小鳥が飛んできて餌をついばんでいます。もう暫くしたら初雪の便りをテレビが教えてくれます。寒さに強い菊を楽しみます。そうそう、クリスマスカードを作らなければなりません。多くて3種類のデザイン??の下絵を送る人を考えて描いています。もう何十年も続けているので、苦にはなりません。そう言えば、年賀状は年々減ってしまいました。 岩手県 H・Hさん
一度は行ってみたいと思っていた徳島の旅に街歩きを趣味にしているお友だち仲間三人で出掛けてきました。印象に残っているのは徳島県美馬市脇町です。パンフレットにあるように建物保存が行き届いた伝統建築保存地区で戦国時代に脇城の城下町として成立し、長野県の海野宿にも似た街並みで、過剰な観光化されていない多くの建物が保存されていました。何と言ってもそこにお住まいの方の日常の生活の香りのする街並みに感動しました。また土地の食材を素朴な器に盛った手料理と少し??地酒に酔い、温泉に疲れを癒されて、心と体の舌鼓そのものでした。心に残る旅でした。 長野県 W・Sさん
一人息子が今度就職し、家を離れることになりました。子供の成長は嬉しいことですが、この家から離れると・・・考えるだけで落ち込んでしまいます。何とか主人と頑張らなければとは思いますが、子育てという目標を失う不安は消えません。どうしたらいいのでしょうか…・。毎日、そればかり考えてしまうのです。 弱虫ママ?群馬県T・Tさん
夏の暑さから解放されて、夕焼けが美しい季節になりました。秋の七草を調べてみました。秋の七草とは、萩、スズキ、葛(くず)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、桔梗(ききょう)と書かれていました。また、万葉集の8巻に、山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ和歌が2首あるのがもとになっていて、後に広く知られるようになりました、と解説されていました。
「秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数(かぞ)ふれば 七種(ななくさ)の花」
「萩の花 尾花(おばな)葛花(くずばな) なでしこの花 女郎花(おみなえし)また藤袴 朝貌(あさがお)の花」
・・・・歌の内容は、「秋の野原で花を数えたらいい花が7種あったよ。これとこれと・・・」という、とても純朴で幸せそうなもの、との説明のことばもありました。台風の被害に遭われた方々の上に神様のお守りとお励ましが与えられますようにと、お祈りさせていただきます。 山梨県 S・Kさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御心=
第三の祈り①・明らかにされた御心
使徒言行録21・10~14
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第三の祈りに移ります。この祈りが聞かれるまで、「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りがかなえられます。さらに「御国が来ること」が、「御名を崇めさせたまえ」という第一の祈りがかなえられたことになりまます。
では、神の「御心」について考えてみましょう。神の御心は何かということについて、まだ明らかにされていない御心と、すなわち、隠されている御心と、すでに明らかにされている御心の二つがあります。
そうなると、このように言う人がいるかも知れません。「私たちが第三の祈りをしても、あるいはしなくても、神の御心は常に行われているのであれば、祈る必要がないのではないのではないでしょうか」と。この疑問はもっともな疑問です。なぜなら、神は私たちがどのように求めても、あるいは求めなくても、御心を行なってくださる面があるからです。
それは隠されている神の御心と呼ばれるものなのです。それは神御自身の行動に関するものであって、預言の言葉として前もって語られた時になって初めて分かるか、出来事として起こった時に分かるからです。
例えば、「主よ、わたしたちの神よ・・・御心によって、万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録4:11)とありますように、人は神の創造の御心を結果的に見ることが出来るだけです。また神の摂理的な支配の業についても同じことが言えます。ネブカドネツッアルは自分の苦しみに会ったことを神の摂理的な業であり、よいことであったと語って、神を讃美しています(ダニエル4:34):が、結果的に分かるだけです。また、神が誰を憐れまれるかは分かりませんが、後になってみると、結果的に恵みであったことが分かることが多くあります(ローマ9:15)。これらは神の隠れた意志と言えます。
パウロがエルサレムで迫害されるという予測(ローマ21:14)も隠された御心です。しかし、神が明らかにしてくださった御心があります。神は御自分の御心を聖書によって明らかにしてくださいました。十戒のように明らかにされた神の御心があります。隠された御心とは違って、私たちはそれを無視したり、従わなかったりすることができるため、御心が行われないことが数限りなくあります。
例えば、安息日、父母への敬い、憎しみ、色情、偽証、貪りなど、私たちの心の中まで厳密に調べるなら、信仰者であっても、私たち自身が守っているよりも守っていないことの方が多いことを知っています。
そのため、私たちはそれだけ神の御国が人々に見えないようにし、来ないようにしていることになります。それで主は、私たち信仰者に、「御心の・・・地でも行われますように」と祈り、明らかにされた神の御心を少しでも行うことを求めるように励まされました。これは傍観者の祈りではなく参加者の祈りです。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
22 軍国主義下の伝道・・2・・
岐阜の地にあったJ・A・マカルピン師は、1937年(昭和12)から1940年(昭和15)まで、ミッションの巡回宣教師として、またミッションの会計として働いた。専ら岐阜県下を中心にした巡回であったが、最も援助を必要とする岐阜加納、関、太田、中央線の大井、多治見の諸教会が中心であった。
1937年10月、日本基督教会第51回大会決議の「非常時特別伝道」は、当時、政府当局の要求であった「国民精神総動員」への追従であったため、外国ミッションの宣教師としての積極的な参加は敬遠され、また、これによって教会はいつしか国家主義思想の大きな濁流に知らず知らず流される方向へと進んで行った。
この年12月12に日、日本の南京攻撃戦で米軍艦パネー号を砲撃して撃沈し、レデイーバード号も砲撃した事件は、日本国民に米国との戦争危機感を一層強めた。後になって知らされた南京大虐殺事件によって、既に日本の前途に希望は失われていったのである。
1938年(昭和13)には、国家総動員法の公布(4月1日)。1,日本軍徐州占領(5月19日)、1,日ソ軍張鼓峰で衝突(7月15日)、1,武漢三鎮占領(10月12日)と戦争は進度を加え、キリスト教界も連盟による皇軍慰問、国民精神総動員講習会、日、独、伊親善協会との協議会などの行事が目につくようになった。
そして、キリスト教会の小崎弘道(3月1日)、神戸中央神学校のS・P・フルトン博士(9月16日)、東北学院校長シュネーダー博士(10月5日)などが逝去されて、時代の急迫を一層重くしていた。そして在日宣教師に日本への認識を深めさせるため、数回外務省や海軍当局との懇談会が催されて、帰国中の英米宣教師への事変説明などが送られ、連盟名誉幹事のアキスリング氏のパンフレットが4万部世界のキリスト教関係者に配布された。
しかし、国内での宣教事業は制約されて、一般国民の動揺に加えて、個人との対話、特に外国人との接触は防諜上厳重な監視と疑惑を招くものとして、宣教師との個人的交際にも後ろめたさを覚えるようになった。ミッションスクールにも10月27日、天皇の「御真影奉載」を強制するようになった。
地方都市の岐阜の地にあって、周囲から常に異様な眼で見られたJ・A・マカルピン宣教師はその苦難に堪えて祈りの生活が続いた。
写真・・・改革派中部中会婦人会上より三人目は岩井修二牧師と講師のマカルピン夫人・1955年)
「いのり」
「朝の祈り 夜の祈り」より
J・ベイリー著
新見 宏 訳
=朝=
おお、わが王なる主よ、新しい一日のはじめ、つつしんでみ名をよびたく存じます。いと高き主よ、すべての賛美と愛と忠誠とをあなたにささげられますように。この日、わたしの思いが、この世のすぎゆく姿だけで占められることがありませんように。あなたの愛をもって、見えざる永遠なるものを瞑想する心をわたしにお与えくださいました。それゆえ、どうかわたしが感覚と時間の世界をとらえ、その実在を感ずる力を強め、わたしの心を聖なるものへ向かわせ、この地上の生の終わりが近づくにしたがって、わたしがこの移りゆく地上の世界の一部となるのでなく、来るべき世における生にふさわしいものとなることができますように。
すべてのものを見、かつ知られる神よ。どうか恵みにより、わたしにあなたを知り、あなたを見ることを得させてください。あなたを知ることによって、あなたに知られるように完全にわたし自身を知り、あなたを見ることによって、み前にあるがままのわたし自身を見ることができるように。永遠なるあなたのみ前にあらわれるとき、わたしの生の幻を今日はっきりと見させてください。わたし自身の小さいことと、あなたの無限の偉大さとを示してください。わたしの罪と、あなたの全き正しさをお示しください。わたしの愛のなさと、あなたのすぐれて大きな愛とをお示しください。それとともに、どんなにわたしが小さくともあなたの偉大さの中にかくれることが出来ても、どんなに罪深くとも、あなたの義によりたのむことができ、どんなに愛が薄くとも、あなたの赦しの愛の中に身をかくすことができることをも、教えてください。
わが主イエス・キリストの生と死の上に、きょう、わたしの思いをとどめさせ、主のみ名によってお与えになったあがないの光においてすべての事を見ることを得させてください。 アーメン
聖霊とその働き
エドウィン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
第1章 聖霊と三位一体
Ⅰ 聖霊は人格を持つ ・・2・・
御霊が人格を所有していることを明らかにするのに、第二の点として聖書は、彼を他の人格と並置する。例えば、私たちは父と子が人格を持っているのを知っているので、イエスが「父と子と聖霊のみ名によって」(マタイ28:19)弟子たちに洗礼を授けるように語るとき、聖霊も人格のある方であると言ってわけである。初代教会に指示を与えるよう権威を与えられたヤコブは、初代教会に対してこう書いている。
「次の必要事項のほかは、どんな負担もあなたがたに負わせたいことが、聖霊と私たちにとって、ふさわしいように思われる」(使徒行伝15:25)。
彼は聖霊が、自分や使徒たちと同じ思いと見解を持っている人格のある方だと、非常にはっきりと考えていることになる。
また、イエスが「御霊の力を帯びて」(ルカ4:14)、荒野から戻ったということは、御霊が非人格的な力にすぎないものであれば、意味のない余分な説明になる。御霊の代わりに力という言葉に変えて読んでみたら、そのことがわかる。
御霊が人格のある方であることを、おおいに感謝しなければならない!彼には人格があるから、私たちに罪を自覚させ、神の導き、私たちの内に住み、罪と戦う力を与え、聖書を霊感し、聖書を理解できるように私たちの心を照らし、私たちを導いて神のみこころを知らせ、祈り導き、牧師と長老と執事を教会の役員として召すことができるのである。
聖霊が人格のある方であるからこそ、私たちは彼に好ましくない態度をとることになる。彼に反抗し、悲しませ、軽んじ、冒涜する。こうしたことは彼には不快なことであり、私たち自身には間違いなく害となる。御霊の人格を決して否定することをせず、彼を信じ、人格を持つゆえに、私たちに及ぶその祝福を経験するようにしよう。
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
主人が車の免許証を返して20年になりました。礼拝に、旅行に、日々の生活の買い物に、車いす生活の私を支えてくれましたが、その主人も80歳を超えて二人とも家に来てくださるお医者さんや、掃除や片付けをしてくださる方のお世話になっていますが、毎月送られてくる「つのぶえジャーナル」が信仰の支えになっています。聖書を読むにも、この「ジャーナル」を読むにも拡大鏡です。先ず主人が読んだ後、私の番です。もうだいぶ前に新聞は中止、二人とも難聴なのでテレビも最低限度のニュースだけです。でも、ジャーナルさんへのお便りは書けます。ありがたいことです。こちらはもう真冬です。 秋田県 K・Kさん
稲刈りの終わった畑の向こうにある小学校では秋の運動会、風に乗った元気な声が聞こえてきます。コロナ禍の影響で、多くの学校では中止や縮小のニュースは子供たちには思い出を奪うのですから、子供たちや先生たち、親御さんには辛いものがあったことでしょう。大きくなった時、運動会の無かったことが小学校の思い出になるのですから・・・。
庭の木にはたわわに実った柿の実が艶やかに輝いています。山間の地、朝晩は暖房が必要です。今年も主人とクリスマスをお迎えします。 愛知県 K・Mさん
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀
夏バテから体調を崩して1週間入院していましたが、その影響はまだまだ続いています。本当に秋になるのかしらと心配になるほどの暑さと湿度がかなり高いのが体に響いています。身に応えます。いつものように散歩に出かけようとしましたが、気持ち的にしんどかったことと、右足の半月板が少し痛みます。この暑さではなかなか気力が出てきません。礼拝だけは行きたいです。「ジャーナル友さん」たちの健康をお祈りいたします。
3か月に一度の歯科医の検診の日でした。バスと地下鉄で予約時間の9時30分ぎりぎりについて診察券をお渡ししたら、何と、受付の方に“あの、10時30分からですよ。”と言われがっくり来ました。若い頃から早とちり名人ですが、こんなところにも認知症が現れ始めました。水道の絞め忘れ、戸締りのうっかり忘れなど、数えたらきりがありません。悲しいけれど致し方ありませんが、もう少し何とか踏ん張って生かされたいものです。
最近主人(60代)が、目の痛みを訴えるので、眼科で診察を受けました。仕事や家での過度のパソコン使用のためが原因と言われました。仕事柄とは言え、長年の酷使がこのような形で出てくるのだそうです。まだ異常はないと思いますが、一度、脳のMRIの検査も勧められました。これから男性の多くはこの危険を抱えているとのことで、仕事とは言え、携帯の使用も目の健康のために控え目にしなければと言っています。私も最近、聖書の文字の大きいサイズに買い換えました。
三女の娘は何時も通園バスのお世話で楽しみに通っています。そのおかげで私も仕事に出ることが出来ています。事故などの子供の怪我や亡くなられるお子さんもいます。親として本当に悲しいです。私の利用している園でも職員さんは出来る限りのご配慮とお世話をしてくださっていることに、本当にありがたいと思っています。これからもよろしくお願いしますという気持ちをと職員さんの健康が守られますようにと、日々お祈りしています。ご自分のお子さんを他の園に預けて働いてみえる方もおられます。
=この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております= 編集子
『ありがとうございます』
お花屋さんの店先にはシクラメンの鉢植えが所狭しと並んでいて、クリスマスシーズン近しを感じました。私の机の周りには昨年買い求めたデンマークカクタス(シャコバサボテン・カニサボテンの名前)の花が咲き始め、もう一鉢買い求めてしまいました。パソコン画面の見過ぎで疲れた目を鉢植えに移すだけでも、気分も目の休息できるのが感謝です。
2022年9月16日から2022年10月15日までにお送りくださいました方々です。
長津 栄様 加納さおり様 山下洋子様 向井 明様 佐藤のり様 馬場暁美様 匿名1名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
「つのぶえジャーナル」の文書伝道事業は、キリスト教の名の下に行う霊感商法など旧統一教会・歴史的キリスト教の聖書を軽視するエホバの証人の団体とは、一切関係はありません。どうぞ一人で抱え囲まずに公的機関か伝統的キリスト教会か、「つのぶえジャーナル」宛にご相談ください。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」