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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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『ありがとうございます』

食卓の上のコーヒーカップに、数枚の枯葉が入っています。それぞれの葉には個性的な色があり、自然の輝きに圧倒されます。そうして小さな会話に、ふと秋を感じます。その色も時間と共に変わり、一瞬の輝きで色あせます。役割を終えた静けさがあり、それもまた、別の輝きのように思え、今も食卓の上にあります。我が家の紅葉の一コマです。

今回もお祈りのお言葉と寄付金をいただきました。感謝いたします。

2016年10月16日から2016年11月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者

大迫ゆかり様 富所 慶様 佐々木真一様 宇佐神正武様 西口義昭様 匿名3名様

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

 
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  その愛のゆえに

   =時々の記=

    (128)

10月20日

夕方に散歩の帰りにお隣の方に出合いました。きれいに草を刈りとっておられました。こんにちはと声を掛けると、暑い日が続くなとお返事が返ってきました。夕べの散歩を終えるころには汗がにじんできました。なんという異常な秋なのでしょう。イチョウもまだ青い葉っぱのままです。この調子では秋の紅葉がずいぶん遅れるのでしょう。

この土手にツユクサ色をちりばむる。

翻訳を試みもする夜長かな。

キリシタン迫害の秘史秋深む。

笛の音の過疎に聞こゆる村祭り。馬場路哉
毎晩遅くまで笛の練習が始まっています。高齢化が進んで笛を吹く人がもう二人だけになってしまったと聞いています。この村祭りもあと五年続けられるかどうかということです。見渡せば、だれも住んでいない家が毎年一軒、二軒と増えていくのです。寂しい限りです。

10月31日

今日で、10月が終わりますが、昨日の朝、今朝と、冬のような寒さです。朝だけはエアコンをつけて、ストーブを使い始めました。一気に冬へと移り変わりです。教会では高齢の方たちが三名も入院されたと伺いました。昨日はそのおひとりのところへお見舞いに行ってきました。礼拝の後で少ししかお話しできませんでした。そして短いお祈りをして帰ってきました。この11月で99歳になられるというのに、とてもしっかりと受け答えされていました。もう一度自宅へ戻りたいとおっしゃっていました。誰でも病院には入りたくないものなのですね。

萩垂るる石垣低き山家かな。

くもり空芥子粒(けしつぶ)程の小鳥来る。

鰯雲おぼろ昆布となり消ゆる。

このチャペル襄説かれけり天高し。

木犀や鴇色(とき)の星こぼしける。 馬場路哉
11月5日

昨日、ようやく、ゴダート先生へのクリスマスカードを何とか書き上げることができました。先生もご高齢になっておられますから、今年が最後かななんて思いながらペンを走らせていると、熱いものがこみ上げてきました。去年のお手紙を読み返しますと、83歳になられたとのこと。でも週に二回はお花屋さんでお仕事をされていると。もう何十年も前になりますが、南長老派のミッションの先生方が日本伝道に尽くされた日々があっての今があるのだと、感謝に耐えません。お若い先生を送り出すときにお母様は、あなたとはもう会えないかもしれないけれど、天国で会いましょうと言って送り出してくださったことが一番うれしかったとありました。東海地方を中心に日本の伝道のために、命がけでご奉仕してくださったことは心から感謝いたしています。

11月7日

クヌギの木が散歩道に沢山あるからでしょうか。帰りの坂道にどんぐりがいっぱい落ちていて、それを踏んでしまうともう大変です。坂道を下ってしまうほどに足元が滑って、「どんぐり坂」と呼んでいます。今朝もとても冷え込みが厳しく、新聞配達の方と朝の散歩でのご挨拶は、今朝はとても冷えますねでした。それもそのはず、暦の上では「立冬」ですもの。冬が駆け足でやってきそうです。
家が隙間だらけなので、冬になるとガムテープを使って、主人が目張りをしてくれます。 今年はもう昨夜、部屋中をガムテープで隙間を覆いました。やはり、隙間風を止めるだけでずいぶん温かく感じました。これから半年この
さとの戦いが始まります。

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」

 

  今月のことば

 わたしはシオンの糧食を豊かに祝福し、食物をもってその貧しい者を飽きたらせる。

      ~詩編132:15~

世界の貧困が深刻であると叫ばれ続けている。ほんの少数のものに富が集中しているとも言われる。数字の上ではその通りである。貧しい人はある限られた地域や人々のことなのだろうか。身近に目を向けるなら、そこに支援を求めている人がいる。

人は、生来、利己主義で心汚れた者と言われているが、本当にそうだろうか。

暖かい心を持ち細やかな思いも持っている。大多数の人は善意に満ち、優しいと思う。事実、不正や犯罪も起こる。不正な行為で得た富に喜びがあるだろうか。富に富を求める貪欲がその人を虜にするなら、富は不幸の象徴になるのではないだろうか。利己主義の恐ろしさは、自分の権益擁護のために、打算に夢中になり、喜びとは無縁の中に陥ることであるなら、虚しいと気づきたい。

 神は、「わたしはシオンの糧食を豊かに祝福し、食物をもってその貧しい者を飽きたらせる」と言われる。このみ言葉は不思議である。神が私たちの所得を―私たちの「糧食」を祝福される場合には、それは私たちの持っている器からあふれ出すほどの仕方で起こる―という。

私たちはささやかな恵みで十分であると思う。もし溢れるほどなら、隣の人と分かち合い、喜びを共にして、一日を感謝できる。「お茶飲み友達」のお茶は、高価なものではない。共に語り、笑う時こそ恵みである。高価なコーヒーを孤独の中で一人飲むより、美味しい。

神がお与え下さる溢れる恵みをいただくために、私たちの利己主義・権力欲という器は小さく、分かち合い、ともに喜ぶ心の器を広げ、神からの祝福をいただこうではないか。

「分かち合う喜び」は「神を愛し、隣り人を愛する」信仰の証だから・・・。

 

 

   小閑記 

 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているからである。

     ~へブル10:35~

 信仰生活を送る中での、多くの信仰者が確信を失う場所が二つあると言われています。それは家庭と職場です。何もかも見抜き、知り抜いているのが家族です。お互いにたくさんの醜いところや思いを見ています。そこを隠して、うわべの信仰深い言葉は、虚しく響くものです。

 今の多くの母親は、子供を抱え、家事に、外の仕事にと働き続けています。本当に心も体も疲れ果てて、神経質になり、今を、心の状態を後悔する人もおられるでしょう。証のない生活は、確信の揺らぎになります。

 職場の中での信仰の証は、また別の困難さを覚えるでしょう。競争社会、成果主義社会と言われる中で、信仰者として生きることは、厳しいものがあるでしょう。そのような日々を過ごすうちに生活の疲れが確信の揺らぎになると言われます。

 そのような私たちに、神様は確信を失ってはならないとの励ましをくださいます。そのような確信を持てない者たちにこそ、報いをお約束くださるのです。

 その第一は、確信は自分を守るために必要です。今を静まって自分を注意深く見つめなおし、次へ歩ませる第一歩へと目を覚まさせ、改めて、神に助けを乞う祈り人にさせるためにお招きになります。

 第二は、それが自分のみにとどまらず、他の人々への祝福となしてくださるという約束です。家族に、夫婦に、職場の同僚に、社会にです。

 確信を保つ幸いは、この約束の主に生きる者に成長させてくださいます。信仰の戦いには、人を殺す武器は必要ないのです。信仰者の武器は、み言葉への信頼と神への愛です。

 

 

世田谷通信(158

猫 草

今年の夏はオリンピックと高校野球がほぼ同時開催、まるで華やかで儚い打ち上げ花火のようだった。花火といえば、かつてはどこかで音がすればわくわくして見に行ったものだが、ここ数年急に大きな音が苦手になり、花火大会の日には自衛手段として家の中でも耳栓をして過ごす始末だ。音というのは、そもそも波のようなもので、押し寄せる力が強いと圧迫感に、不意の大きな音は恐怖にもなる。

四方八方に雑多な音が存在する場所、特に電車や人混みは元々苦手だが、最近はスーパーマーケットも体調が悪いとつらい。絶えず流れるテーマソングと甲高い子供の声、それにレジの電子音が重なると動悸が速くなってくることがある。そんな時のために、出かけるときには耳栓とイヤホンを持参している。本当は工事現場などで使う、遮音用のヘッドホンが適度に周囲の音を緩和し一番いいのだが、結構無骨なので、外で付けるには違和感があり断念している。

寝るときにもごく小さな音量で音楽をかけるときもあるし、耳栓で完全に遮断したい場合もある。耳栓も両耳或いは片耳だけ、などその時によって決める。耳栓の種類もいろいろあって、最初は飛行機でもらってくるのを使っていたのだが、最近いろんな種類を試している。

歳をとると機能低下と同時に、過敏にもなる。全体的に調節機能が甘くなるのだろうか。友人も、耳石が耳の中でコロコロ転がっちゃって目眩がして大変だったのよと、ギョッとするようなことを言っていた。

耳の奥にある精密機械のような小さな三つの骨と小さなカタツムリのような渦巻きが、今日も震えながら私に音を伝えてくる。

 

   『美しい朝に』・・24・・

9月23日

 大阪は雨が降り出しました。2、3日前、娘がまとめて買った味付けのお肉を量が多いと半分、持ってきてくれました。2、3日中に食べようと、久しぶりの焼肉を毎日夕食に食べました。炊きたてのごはんに、焼肉。おいしかったです。食欲の秋とは、本当だと思いました。たまには、検査や体重のことも忘れてはめをはずすのも良いものだと感じました。元気の源は、おいしく食べれることですね。お腹が満腹だと眠りやすいです。しかし、体重はあっという間に3キロ増えました。10月13日(木)には、内科の予約日です。

9月26日

24日から、娘夫婦は北海道旅行に行っています。北海道といえば長村先生のふる里ですよね?今日の夜に帰ってくるようですが、レンタカーを借りて札幌のあたりを回っているようです。お天気に恵まれ良かったです。旭山動物園やモエレ沼公園というところがあるみたいですね。私も20代の頃、友達と妹と一緒に札幌の時計台や函館の夜景を見たり、クマ牧場も行きました。懐かしい思い出です。

10月1日

今日から10月です。秋らしく涼しいですが、お天気は曇りで雨が降りそうです。最近「三国志」のDVDを見ながら寝ています。難しい名前が多いですが、勉強にもなって意外と面白いです。過ごしやすくなったせいか最近はよく寝れています。お祈りありがとうございます。

1ヶ月に1回は、自転車で外へ出ていたです。夏は、暑すぎたり雨降りだったりして、体調も悪く車で通院以外なかなか外へ出れませんでした。出かけても、途中で引き返したりしていましたのが、少し涼しくて、頭ののぼせるのも身体のだるさもいくぶん楽になったような気がします。

10月5日

 実は、昨日は全く眠れず朝を迎えました。その前に、昼も夜も熟睡してたので、眠剤も減らしました。それで、眠れないのは覚悟していましたが眠れないと、やはり体調はすぐれません。天気のせいか、腰も膝も痛いです。娘にもらった北海道の写真と、私の写した花の写真を数枚お送りしますね。

10月12日

 こんにちは。今日は、久しぶりの秋晴れです。明日は、内科の予約日ですが、腰が痛いのがひどくなっています。左の背中から腰・膝まで痛いのです。午前中の内科は、薬がなくなってしまうのでずらせませんので、午後から娘が通っている所へ、針の治療をしてもらいに主人に連れて行ってもらうことになっています。傷みが緩和されるようにお祈りいただけたら心強いです。長村先生の傷みも和らぎますように、お祈りします。

 10月13日

 今日も秋晴れの1日でした。昨日の夜は、寒くて毛布を出しましたが、今日は、のぼせるくらい暑くて、更年期のような症状をもてあましています。午前中は、内科で血液検査でした。体重が去年の11月から、2ケ月-1キロペースで7キロ減らしたのに、食欲の秋と腰が痛くて動けなかったら、1ヶ月で+3キロと増えてしまい減らすのはなかなかなのに、増えるのはあっという間だとショックでした。それで、血糖値もさぞ悪いかと思っていましたが以外に140→133と下がっていました。ヘモグロビンA1Cも、5.9で正常値でした。

午後からは、背中と腰の治療に、針の治療に行きました。膝の変形から腰にも痛みがきているみたいでした。背中の痛みは、治りにくくて、緩和治療になるみたいです。でも、腰は少し楽になった気がします。

本当に試練は、幾重にもありますが、「数えてみよう。主の恵み」という言葉を思い出しました。

つのぶえジャーナルでも、色々な方の声が聞けます。長村先生に感謝です。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

  その愛のゆえに

   =時々の記=

    (127)

9月19日

朝から大きな雷が鳴ったり、急に大雨が降ったりと激しい天候です。秋晴れはこれからなのでしょうか?毎日、湿度の高いムシムシした秋を迎えています。リオでのパラリンピックが終わってしまいました。選手の方たちの限りない努力、不屈の精神力に励まされました。今は、夕方になると秋場所を楽しんでいます。
 葛の花零るる道や缶拾ふ。
 絵葉書きの美し残暑見舞いかな。(藤沢さんと鶴原さんから頂いたものです。)
 チボー家の苦闘を読みぬ夜長かな。
 桐一葉芝生近くへ落ちにけり。
 ルオーの絵さまざま灯下親しみぬ。     馬場路哉
 昨日の礼拝で、信友が体調を崩し、10月に入院手術をされるとのこと。心を合わせて祈りました。

9月23日

秋らしくないこの頃ですが、土手に群がって咲き誇っている彼岸花に何だか力いっぱい生きている、そのような勢いを感じさせられています。あのどぎつい朱色は自然の中で咲いているから調和がとれているのだと思うほどにどぎつい色です。でも、秋の始まりに精一杯咲いている姿にはこちらも力を与えられるのです。何とも不思議な花です。葉っぱが一枚もなく、茎から直接花が咲いているのですから。それに必ず一本ではなく4、5本、あるいはそれ以上群がって咲いているのです。昨夜、NHK BS3で“昭和の歌と題して、“山田耕筰の作曲された歌を聴きました。中学の教科書で習った、“荒城の月“カラタチの花。また子供のころよくうたった“赤とんぼ“土手のすかんぽなどなど、およそ一時間にわたって秋の夜長を楽しみました。今まで知らなかったのですが、山田耕筰はクリスチャンだったというのですね。
 10月1日

10月もスタートです。ジャーナル10月号を今朝から読ませていただいています。私たちにとって最も大切なこと、それは神様のご栄光を表すことにあると導かれ、深く反省しているものです。神様から与えられた賜物を最大限にご栄光を表すために用いることができますようにと祈りましたす。
 大阪の「美しい朝に」さんのことも祈ってますが、人生には試練がもうだめだと思われる厳しい試練が重なるときがあるけれども、祈りによって支えられていると知らされました。“どうして、私だけがこのように苦しい人生を歩まねばならないのだろうと不平不満の私ですから、とても申し訳ない気持ちになります。
 賛美歌を歌ひて灯火親しかり。
 野分後木々の倒伏おびただし。
 気高くも棕櫚咲きにけり右近の碑。
 歌ふかに玉を転がす虫の声。
 リハビリの帰り道なる鰯雲。     馬場路哉
 10月10日

昨日、教会の礼拝から急いで帰ってきました。犬のサクラが二日ほど前から体調を崩してとても苦しんでいたからです。直ぐにサクラの部屋に入っていくとやはり痰が肺からあがって来るようで、呼吸が荒く苦しそうです。見ているとこちらがとてもつらくなってきます。神様に“サクラのこの苦しみを取り除いてあげてください。と祈ることしかできません。“サクラ、そんなに頑張らなくてもいいよ。十五年間本当にありがとうね目立つのが嫌いなサクラは私の後ろに回ってチョンと両手で、挨拶してくれるのです。その礼儀正しさを見ていて村中の人たちから“忠犬ハチ公のようだといわれてきました。そのサクラが午後五時三十分、天国へ旅立ちました。家の中が急に暗くなりました。たった一匹の犬のサクラの死がほかの二匹にも伝わったようです。一匹は首をかしげて、どうなったの?と私をじっと見つめます。あと一匹は“キューンと泣いて悲しみを表しいました。
今朝、早くからサクラのお墓を主人と掘りました。サクラが一番好んでいた八朔の木の下です。その横にはサクラのお母さんのお墓があるのです。散歩に行く途中必ずサクラはその八朔のところまで行って出かけていましたから。そして温かいタオルでサクラの体をきれいに拭いてあげるとふと今にも口をあけるかのように感じました。“サクラ、お前が一番最後まで残ると思っていたのに。一番先に死んじゃったね。でも本当に忠実に仕えてくれたお前の姿に感謝しているよ。有難う。さようならサクラ。もう胸がいっぱいです。
 主に在りて爽やかな朝迎
ける。
 どことなく優しく揺れる千草かな。
 秋草の真っただ中に憩ひけり。
 夕霧に山峡の村出で湯とも。
 遠景を遮り青し今年竹。       馬場路哉

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (51)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第24章 結婚と離婚について・・1・・ 

1 結婚は、ひとりの男子とひとりの女子の間でなすべきである。どのような男子にとっても、ひとりより多数の妻を、またどのような女子にとっても、ひとりより多数の夫を、同時に持つことは合法的でない(1)

  1 創世2:24、マタイ19:5,6、箴2:17

一 結婚は一人の男子と一人の女子とのあいだでなされるべきものであって、男子が一人より多くの妻を、あるいは女子が一人より多くの夫を同時に持つことは、何れも合法的ではない。旧約時代はアブラハムやモーセやダビデのように偉大な人物でも、この規定に従ってはいなかった。しかし、新約時代には、この道徳は明確にキリスト者の間で普及したのである。唯一神教の確立がこのことに深く関係していたと見るべきかもしれない。

 

2 結婚は、夫婦お互いの助け合いのため(1)、嫡出の子供をもって人類を、またきよい子孫をもって教会を増加さすため(2)、また汚れの防止のため(3)、制定された。

  1 創世2:18
  2 マラキ
2:15
  3 コリント
7:2,9

二 結婚は、夫婦の助け合いのため、また嫡出の子女による人類の繁殖による教会の増大のため、また汚れの予防のために制定されたものである。

 結婚の目的は4つである。

1 相互扶助―これは単に家族のみでなく、社会一般の原則である。

2 人類の正しい繁栄のため。

3 教会は契約の子らによって増大する点が大きい。

4 性道徳の乱れは、あらゆる不道徳を伴うものであり、また、その原因となり、その結果となる。ローマ人への手紙1章18節以下を忘れてはならない。「制定された」と言う文句は、決して軽視されてはならない。これは、神の掟であり、人間生活の本来の道としての掟である。家庭なき社会と社会なき家庭は禽獣に等しい。

 

3 思慮分別をもって自分の同意を与えることのできるすべての種類の人々にとって、結婚することは合法的である(1)。しかし、主にあってのみ結婚することが、キリスト者の義務である(2)。それゆえ、真の改革派信仰を告白する者は、無信仰者・教皇主義者・あるいは他の偶像礼拝者と結婚すべきでない。また敬けんな人々は、生活におけるなうての悪人や破滅的な異端の主張者と結婚して、つり合わないくびきにつながれるべきではない(3)

  1 ヘブル13:4テモテ4:3コリント7:36-38、創世24:57,58
  2 コリント
7:39
  3 創世34:14、出エジプト34:16、申命7:3,4、列王上11:4、ネヘミヤ13:25-27

    マラキ2:11,12コリント6:14

三 自分の判断で同意を表わしえる、いかなる結婚も合法的であるが、この項での主張である。しかし、主にあってのみ結婚することがキリスト者の義務である。従って、真の改革派信仰を公言する者は、不信者、法王主義者、その他の偶像信者と結婚すべきではなく、また、敬虔な者が日常の生活で、名の聞こえた悪徒や、あるいは罰せられるべき異端思想の保持者と結婚して、つり合わないくびきを負うべきではない。

 「恋に上下の隔なし」と世は言うが、個人の自由が確立していない社会では、なかなかスムーズに行かない。そこでさまざまな無理が生じ悲喜劇が起きる。男女の一夫一婦の愛での結合という原則は、年齢や身分などの差異のために否定されてはならない。つり合わないというのは、ただ信仰的また人間として助け合って同一目的のために努力していくことについての言葉である。

 

さんびか物語 ・・・32・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・31・・

      ホーリン・マカルピン著

         (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌320番

 主よ、みもとに近づかん

<神様のみ言葉>

「ヤコブは眠りからさめて、『まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。』と言った。彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家に他ならない。ここは天の門だ』。翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ」。

~創世記28章16節~18節~

女性の作詞者の手になる讃美歌ですが、本当に素晴らしいものであると思います。ある本では近代讃美歌の傑作であると言われています。

原作者セーラ・フラワー・アダムスは、1805年2月22日にイギリスのハーローで新聞編集者ベンジャミン・フラワーの次女として生まれました。セーラも姉のイライザ(またの名はエリサベツ)も素晴らしい才能の持ち主でセーラの方は主に文学にエリサベツの方は音楽にその才能を発揮しています。

父親が亡くなってから、このフラワー姉妹はロンドンに移りサウス・プレィス・チャペルの会員となりました。そこは独立教会でありまして、牧師のウイリアム・J・フォクスはユニテリアン派の有力な指導者でした。彼は特に女性の権利や出版の自由のために戦い、毎月「リボズィトリー」という雑誌に多くの記事や詩を執筆しました。

セーラもその雑誌に多くの記事や詩を執筆しました。そういう関係で彼女は、その同じ雑誌に政治的な記事を書いていたウイリアム・B・アダムスと知り合いになり、1834年に彼と結婚しました。主人のアダムスはもともと土木技師や発明家でしたが評論家としての才能を持っていた人物でした。

彼女は文学の他にも舞台人としての才能を持つ女性で、主人の励ましを得て、しばらくの間、レディーマクベスとしてロンドンのリッチモンド劇場で出演していました。しかし、女優としてのスケジュールは彼女にとってあまりにも大変だったために身体が続きませんでした。それで女優の夢を捨てて、執筆を一生の仕事としてもう一度ペンを取ったのであります。

1840年から41年にわたって牧師ウイリアム・J・フォクスが、Hymns and Anthemsと言う讃美歌集を発表しようとした時、アダムス夫人の才能をよく知っていたため、その書物に収めるためのものを書くように依頼したそうです。

彼女はその願いに従って作品を13ほど書いてフォクスに渡しました。この讃美歌Nearer My God To Theeは、その13のうちの一つで、その後、アダムス夫人の一番有名な作品となりました。

姉のエリサベツは、この本の150曲のうちのあるものを書き直したり編曲したりしましたが、63曲を自分の作品として納めました。悲しいことですが、エリサベツは結核のために1846年に亡くなりました。セーラも姉の長い看病の疲れで、同じ病気にかかって、その2年後の1848年8月11日に召されました。この二人の姉妹の葬儀の時には、彼女らが作詞・作曲した讃美歌が歌われました。40数年という短い生涯でしたが、その才能は多くの作品によって美しく実を結んでいます。

讃美歌320番の曲BETHANYは、アメリカの有名な作曲家ロウエル・メイスンの作品です。メイスンは1792年1月8日にマサチューセッツ州ノメッドフイルドで生まれました。この本の讃美歌62番に記されていますように、彼の少年時代については、ほとんど何も分かっていません。しかし、はっきりしていることが一つだけあります。それは、彼は音楽には大変な才能を持っていたということであります。また彼は、その才能を生かし活躍したため、その後、アメリカでは「教育音楽の父」と言われるほど重要な役目を果たしました。

アダムス夫人の歌詞“主よ、みもとに近づかん”は、1844年にすでにアメリカで発表されていました。それは、ボストンにある教会の牧師ジエムス・F・クラークが発表した讃美歌集に収められていたからです。その後、この歌は他の讃美歌集にも収められていましたが、本当に一般的になったのは1859年でした。

それは、アダムス夫人の歌詞にロウエル・メイスンのこのための新しい曲BETHANYが初めてあわさせられてSabb th Hymn and Tune Bookに発表されてからであります。その時から今日に至るまで世界的な讃美歌として歌われ、親しまれてまいりました。

<320>

1 主よ、みもとに 近づかん

  のぼるみちは 十字架に

  ありともなど 悲しむべき

  主よ、みもとに 近づかん

1節では、まずこの讃美歌のテーマを“主よ、みもとに近づかん”であると紹介しています。原作では、このテーマは12回歌われていますが、日本語訳では5回しか見られませんし、最後の5節には全然ありません。この方もなかなか味わいがあってよいかと思います。

この1節で歌われている“十字架”は、何を意味しているのでしょうか。苦しみでしょうか、病気でしょうか、悩みでしょうか。いずれにいたしましても、主イエス・キリストの十字架への道を歩み、主に近づくことを求めていますから主の愛と慈しみと慰めを、心ではっきりと知ることは確実であります。

苦しめられても、悩みの中にあっても唇に讃美の歌をもって主に近づこうとするのが、クリスチャンの取るべき道であると思います。昔、ダビデが歌いましたように、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」(詩編55:22)と私たちも歌いたいものであります。また、“十字架”は主イエス・キリストがお受けになった迫害を、自分のものとすることでもあります。

それとともに、悩み苦しみに耐えられるように神様は、私たちに歌をも与えてくださったのであります。その歌とは、「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります」(詩編42:8)という神様への信頼の歌であります。あなたの周りが暗ければ暗いほど神様への讃美を歌いつつ、主に近づこうではありませんか。

2 さすらうまに 日は暮れ

石のうえの かりねの

夢にもなお 天(あめ)を望み

  主よ、みもとに 近づかん

3 主のつかいは み空に

  かよう梯の うえより

招きぬれば いざ登りて

主よ、みもとに 近づかん

2節と3節は、旧約聖書に記されています、ヤコブの夢の物語が背景になっております。

創世記27章、28章には、ヤコブは父イサクをだまし、兄エサウの長子相続権を奪ったために、彼を怒らせてしまい、命がけで家から逃げなければなりませんでした。そうしてカランへと旅立って、ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにして石の一つを取り、それを枕に横になりました。

眠っていたヤコブは、そこで夢を見ました。その夢は「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂きは天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立って居られた。そして仰せになられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である・・・。わたしはあなたとともにあり、・・・あなたを守り、決してあなたを捨てない』と約束されたのであります(創世記28:12~15)。

放浪者であったヤコブは、眠りからさめて恐れおののき「まことに主がこのところにおられるように、私はそれを知らなかった」と言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない」と言いました(創世記28:16~17)と、このように記されています。

私たちも、神様がいつも近くにいたもうことを忘れてはなりません。「神はあなたがたは御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう」(詩編139:7)とダビデが叫んだように、私たちは、いつも神様のみ前で生活していることを覚えましょう。「天の門」は、私たちのまん前に開かれていることをあなたは知っていますか。

4 目覚めてのち まくらの

  石を立てて めぐみを

  いよよせつに 称えつつぞ

主よ、みもとに 近づかん

4節では、ヤコブは翌朝早く起きて、枕にしていた石を立て、神様への感謝として、その上に油をそそいで、神様の恵みをほめたたえたことが歌われています。この4節の日本語訳は原作よりも聖書的であり、私たちにはっきりと語っています。それは、神様への感謝の正しいあり方、すなわち、神様の恵みをただ口先だけのこととするのではなく、私たちの行ないと捧げものとをもって感謝の心を表すべきであるということであります。

5 うつし世をば はなれて

  天がける日 きたらば

  いよよちかく みもとにゆき

  主のみかおを あおぎみん。

5節ですが、日本語の訳は実に素晴らしいと思います。この讃美歌のクライマックスの“いよよちかく みもとにゆき 主のみかおを あおぎみん”は、原作では歌われてはいません。原作では最後まで、神様に近づこうと言っています。もちろん、神様に近づこうとすることは、私たちの日々の中心的なことでなければなりませんが、神様に近づこうとする、本当の目的を忘れてはいけません。その目的は“主のみかおを あおぎみる”ことであり、“永遠に主と共にいること”であり、“主のみもとに住まわせていただくこと”であります。

へブル人への手紙4章16節には「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と、私たちにすすめています。この勧めこそ大切であると信じます。

 

 

ビルマ

  戦犯者の獄中記  (68)  遠山良作 著

―「メイミヨー」の公判廷―・・・3・・・

11月4日・・2・・    

―東 登大尉、中山伊作少尉の最後の日・・2・・

―死刑者東大尉、中山少尉最後の夜の語らいは続く―

(両官ともしばらく静かになる)

中山 「何を考えていましたか」

東  「いや何も考えていない。ただ今日のことは夢のようだ」

中山 「そうですね。夢です!今までのことはみんな夢ですね。人生は夢の如くですな。分隊長、あれは仕上げましたか」

東  「うん仕上げた。創作的に書こうと思ってみたがやっぱりそういう風に書くと文学的能力がいる。何しろ自分の一生涯を書くのだからちっとも飾らずにありのままを書き表そうとしたのだから大分苦労をしたがようやく仕上げた。それに歌のほうも仕上げた」

中山 「それは良かったですね。私も一生涯を、生まれてから現在までの状況を詩によって書きました。将来、子供が見て父親がこんな人生航路を歩んで来たか、と見て何かの役に立てば良いと思っています」

  (すこし間を置いて)

東  「中山君、俺と君とは長い間いっしょに勤務したが俺は己の全能力を発揮して勤務したことはなかったよ。司令部にいる時、分隊にいた時、全智、全能を発揮して勤務したことはない。実に情けないことである。俺の力の半分位出したかな・・・、何しろ仏印時代は俺の花だったし、活躍の舞台であった」

中山 「そうですね。実に仏印時代は花でしたね。いろいろの面でも思い出の多い地でもありましたね。ところで今夜は皆さんに私たちが余り沈んでいてはいけないから演芸会をしてはどうでしょうか」

東  「うん、それは俺も考えていたことだ。所長が来たら頼んでみよう」

   7時50分演芸会に移る。両官のために、軍歌、和歌等を贈る。

 特に千葉の「子守歌」には感無量であると言われた。

 中山少尉は詩吟。西郷南州、摘流を吟ずる。

東  「私の心境は何一つわだかまりなくて本当に安らかです。既に逝かれた緑川大尉(カラゴン事件で死刑)の彼のあの暁の心、今晩は心から喜びに満ちております。それ以外なに物もありません。これひとえに戦友諸氏の大いなる愛情と、刑務所長たちの好意のお陰であると感謝します。みなさんの真心ある今度の演芸会、これはまた厚く御礼申し上げます。数限りなき愛情に満ちたこの気持を歌でお答えします」

  限りなき 人の情けに つつまれて 今宵の心 みちてあかるき

一段と声を張り上げて、日本再建の道について語られた。その要旨は「日本再建は重大かつ困難である。敗戦によって国民全般はその本来の伝統精神の退廃を見たが、それは敗戦の衝撃により生じた一時的現象であると思う。真の日本人はそれではいけない。また本来の日本精神は戦友諸氏によって生きているから安心して逝ける。帰還されたならば祖国再建のために、愛と誠に徹して奮闘努力して下さい。“欲望と私心を捨てよ”真の意味において真の愛は祖国再建をなし得る唯一の道である。これによってのみ祖国は栄えるのであると信じて疑わない。武力、全力で繫栄したならば、再び今日の如き悲惨な轍を踏む。「非理法権天」の道、即ち「人の道だ、愛だ誠だ」。

 畏くも詔書に明らかに示されてある。世界人類の普遍の原理であるこの大理想による以外に日本再建の道はない。私たち日本人は今次の敗戦によってこの反省が出来たのだ。日本は古きより愛の国である。武力再建は夢だにも思ってはならぬ。再び今日の悲劇の歴史を繰り返してはならぬ」。

 辞世として

 新しき 国のかためと 散りて逝く 吾が行く道は はげしくとも楽し

中山 「このような皆様の愛情に答えて私の偽らざる気持ちを申し上げます。死刑の確定の言い渡される前には、いささか心配で悩みもしました。が、今は非常に安らかな気持ちです。大野君以下7名は減刑になった。これらの若い方々の減刑はかねて願っていた。それが叶って本当に嬉しい。今日まで人生最高の体験をされたみなさんの祖国再建に力強さを覚えます。

 中山少尉の辞世

 吾は今 南の涯に 朽ちぬとも 永久に護らじ 皇みくにを

 東大尉は斎藤曹長に対して

 「この鉄格子の生活は誠に尊い得難い人生修養道場だ。ただ単に小説や諧きや雑誌等に読み耽けることなく、たとえ一日にひとこと、五分でよいから将来の日本再建を如何に計るかの大理想を語るべきである」と言われた。

 その後両官はお互いに幼き頃の思い出話をされた。

 12時を過ぎた。中山少尉は「みなさん眠いでしょうから寝てください」と言われる。3時頃、桧垣曹長は、「分隊長殿、桧垣がお宅に行きますから安心してください」

東 「有難う。遺族の者にこの状況を知らせてくれ。桧垣よ、小説やくだらない雑誌はなるべく読むなよ。論語か、役に立つ本を読んで人格の完成につとめよ」

 5時頃、私は(この記録の筆記者井出准将)両官に白い花を一枝ずつ贈った。東大尉はこれにこたえて。

 贈られし 葉末にとまる コオロギの 小さきひとみに 吾は語りぬ

東  「中山君そろそろ準備をしなければならないよ」

中山 「はい、承知しました」

5時20分 両官と全員で「君が代」と「海ゆかば」を合唱する。

5時40分 英人2名監房に入って来た。開錠の音が聞こえる。この時両官は万歳を叫ぶことを認められず、直ぐに連れ出さんとするものの如し。両官は「今ゆくぞ」と叫ぶ。突如、「天皇陛下万歳」を叫ぶ声がする(英人執行官烈しく制止する)。全員これに続いて万歳を三唱する。

5時50分 絞首台において中山少尉は天皇陛下万歳を一唱、おわらないまま余韻を残して踏台は落とされ「バタン」と不気味な音が響いてきた。

 整頓された空房に残された湯呑に差してある白い花の一枝は、生き生きとしてあたりに香りを漂わせていた。

 11月10日

 神野中尉たち3名を絞首台に送って以来、死刑を宣告された者は全員西独房収容されるようになったので、この棟(東独房)には有期刑の者ばかりである。したがって監視も緩やかになり、棟の外にある空き地を利用して野菜を作ることを許可してくれた。狭い独房に閉じこめられて生活していた私たちにとっては、棟の外はとても広い感じがする。

 雑草の覆い繁る荒地に裸足で踏み込むと朝露でひんやりと冷たい。力一杯振り下ろす鍬に驚いたコオロギが飛び出す。常夏の国にも秋の訪れを知る。運動不足で体力は弱っているので、直ぐ吐く息は荒く額からホトホトと流れる汗は目に口に入る。しかし本当に気持がよい。生きていることの実感が湧いてきた一日であった。

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・47・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・

答・・14 さて 聖書によれば、人間は初めから死ぬことが定められていたとは見ていません。むしろ死などないものとされています。それは、人間は神によって、神にかたどって造られた者であると見ているからです。「神はご自分にかたどって人を創造された」というのがそれです(創世記1章)。これは「神との人格的関係に生きるもの」として造られたということでありまして、神が永遠である以上、その関係に生きる者に死はないという理解です。

 「エデンの園」の話は以前にも触れました。ここは「楽園」(パラダイス)であったとされています。何が楽園であったかというと、そこは神によって設定された場所であったからです。このことは聖書を理解する上で極めて重要なことですが、楽園というのは、究極の支配者が責任をもって人間を生かしておられる場所なのです。つまり神不在の楽園などというものはあり得ないということです。

 このエデンの園に、アダムとエバは、生きる者とされました。そしてこの園の管理を委ねられました。「大地を耕し、そこになる木の実は自由に食べてよい」と言われました(この話、つまり「創世記」を書いた人は、どうやら果樹栽培の地域に生きていた人のようです)。ただし、それには一つの条件がつけられていました。それは「善悪の知恵の木からは、決して食べてはならない」ということでした。どうしてかというと「それを食べると必ず死んでしまう」という理由からでした。

 この話にはいろいろな解釈がなされていますが、要するに、「エデンの園」というところは一つの条件を守ってさえいれば、そのほかのことは人間が全く自由に生きてよいとされているところであったということです。その条件とは「禁断の木の実はとって食べてはならない」ということであり、その木の実とは「善悪の知識の木」になる実というのですが、これが分かりにくいのです。

 通俗的には林檎のことみたいに言われていますが、これは一種の比喩的抽象的表現でありまして、その内容は「善悪についての究極的な判断をなし得る者となること」と言ってよろしいでしょう。昔の帝王のなかには「余の決定は正しい」と言った人がいました。大日本帝国時代には「朕帷フニ」といえばそれは最高の決定となったのでした。こういうことを言うことが出来る立場としての「お山の大将」や「亭主関白」などはそのミニ判と言えましょう。要するに自分がトップの位置につきたいというのは、自分が究極的な位置を占めたということで、それは本来神様が占めておられる場であるのに、それにとって代わることが出来るというのは、何とも魅力的は誘惑です。この誘惑に、多くの専制者や独裁者志願の人たちがイチコロで引っかかりました。そしてその結果は惨憺たるものです。歴史はそういう人たちの夢の跡です。

 神様が「禁断の木の実」をエデンの園に置かれたのは、そういう意味において、人間に、人間の位置を失わせまいとしての、不可欠にして実に周到な配慮に基づくものであったと言うことが出来ます。以前に述べたことの繰り返しになりますが、「エデンの園とは神の戒めのもとにあっての自由な世界」と言うことが出来ます。それが「神と共に生きる世界」であるわけです。ところがアダムとエバはこの禁を犯しました。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2016年11月のラジオ放送予定>  

  11月 6日 笠井 恵二  (中部学院大学特任教授・宗教主事) 

     13日 志村  真  (岐阜済美学院宗教総主事) 

     20日 志村  真  (岐阜済美学院宗教総主事)

27日 西島麻里子  (岐阜済美学院高等学校宗教主事)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

第75課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・20・・・

B キリスト者の市民的義務・・・6・・・ 

       13:1~2・・・5・・・

「政府の機能と権力」・・1・・

 「いったい、支配者たちは、善事をなする者にはっ恐怖ではなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである」(3,4)。

 ここでパウロは為政者に対する服従のもう一つの理由を述べられています。すなわち、服従が私たちキリスト信者の義務であるばかりでなく、為政者たちの悪を抑制し、善を推進するという目的をもっているからです。この二つの節の中に為政者の機能についての聖書的教理が明示されています。要約して言うと、神によって立てられた為政者の機能は、人間社会における正義の管理です。

 

政府は罪の存在のために必要です。もし人間が罪に落ちていなかったとすれば、国家と言うような機構が出現していたかどうかという問題は議論のあるところです。国家に類するような何ものかが存在していただろうと考えることもできましょう。しかし、罪に汚れた現在の世界に存在するものとは非常に違ったものとなっていたでしょう。何故ならば、罪に汚れていない世界においては、権力の行使は不必要であり、罰すべき犯罪や邪悪は皆無であったと考えられるからです。

 罪なき世界においては、国家は単に人類の有機的統一の表現に過ぎず、相互協力という目的のためにのみ存在し、邪悪の抑制のためではないのです。しかし、罪の世界においては、国家は邪悪の抑制のために存在するのです。国家は神が罪を抑制し、人間社会を守られる方法の一つなのです。

 

 政府という制度についての最初の明確な啓示は、創世記9:6の「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」です。「殺人は死刑をもって罰せられる」というこの命令は、この命令を執行するある種類の制定された政府の存在を含意しています。

 

 聖書を通じて、政府の存在とその役割についての多くの教えを見ることが出来ます。そして、政府の第一の機能が、人間社会に置ける正義の保持にあることを明確に教えています。

  J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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