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ほっとひととき『みんなのコーナー』
☆ 久し振りの秋晴れに、主人の運転で洛北に行ってきました。修学院離宮の周辺、特に、赤山禅院・鷺森神社・解脱山禅華院・曼殊院門跡は、素敵でした。
紅葉にはまだ早い感じがしましたが、ひんやりとした風は秋そのものでした。遠くに、近くに見える山並みも後しばらくで春の桜の山とは違った深味のある景色に代わるのでしょう。紅葉時期にはもう一度来てみたいと思いました。滋賀県 Y・Mさん
☆ すっかり秋です。栃の木の実がなっています。内部の実は、栗のようですが、栗のように上の部分がとんがっていません。昨日は中学の同期会でした。仲良くしていた友(2名)が亡くなっていました。心の中に空洞ができるとはこのようなことかと感じました。今回の同期会では40年くらい逢っていない学友(89名)、顔を見ただけではだれかわからず、つい名札を先に見てしまいます。しばらく待ってから記憶が戻ってくる人もいますが、まったくわからない人も大勢いました。3年後に再開できることを祈って別れました。あとで出席名簿の名前でかなりの人の記憶がもどって来ました。 木県 K・Eさん
☆ 今の力の源は「笑顔と涙」です。病気の追い打ち、家族に迷惑ばかりの年月、子供の運動会など見に行ったこともない母親でしたが、心がけたのは、心からの「笑顔」を・・でした。「涙」も沢山流しましたが、それは、笑顔のためには必要だったと思っています。65歳、信じられません。孫の顔も見れます。こうしてメールを送れることも感謝です。外は秋風。ああ~綺麗な山々・・・。
鳥取県 M・Mさん
☆ 数か月前のことですが、お孫さんの車で一人のご高齢の方が礼拝に来られました。若い頃、教会の前を時々通る時、綺麗な歌声が聞こえて来て、どのような人が歌っているのだろうと、想像していたそうです。一度でいいから教会に行ってみたいという思いのまま時が経ち、孫にお願いして教会に来たとのことでした。今は、会堂の席の一番前が指定席になり、お孫さんと礼拝を熱心に守られております。讃美歌も少し覚えたとうれしそうにお話しくださいました。この方が来られてから、教会が和やかになった気がします。うれしくて、メールしました。 岡山県 T・Tさん
☆ わたしの住む団地も高齢者が多く、定例の団地内掃除に出る人も少なくなりましたが、皆さん頑張って出られます。 掃除の時間は10分くらいですが、そこここで小さな輪ができて他愛のない話と笑いがあります。小さな、小さな人の輪を秋の日が包んでいます。 大阪府 S・Hさん
『ありがとうございます』
背丈の伸びたススキが秋風に吹かれています。年賀状印刷の案内、2017年のカレンダー、彩り鮮やかなクリスマスの飾りが、2017年の近いのを肌で感じます。この一年に起こったことを振り返る時、人それぞれの一年であったことでしょう 。心にほのぼのと残る出来事や出会い、思いがけない重い病を背負った人もおられるでしょう。神様のお守りとお導きをお祈りいたします。
支えられてこうして11月号をお届けできる幸いを感謝しています。寄付金やお言葉も沢山頂戴いたしました。ありがとうございます。
2016年9月16日から2016年10月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者
村岡三郎様 今野みな実様 小川和夫様 西口義昭様 桑原廣子様 匿名3名様
郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
~Ⅰヨハネ5:12~
聖書の言葉は欧米の文化や文学や絵画や芸術に影響を与えて言いますから、自然に覚えている人は多いように思います。「狭き門」「人はパンのみに生きるのではない」とか、「隣人を愛しなさい」などもあります。ある時期には、聖書を題材にした映画も沢山配信されました。「十戒」「聖衣」「サムソンとデリラ」などなど・・・。
しかし、この「御子」と言う言葉の持つ意味は特別なものがあります。初めて教会に行かれた時の戸惑いは、よく覚えていると言います。讃美歌や祈祷などではなく、殆ど初めての言葉や言い回しに「異」を感じたと言うのです。
お話の中に「罪」「罪人(つみびと)」「いのち」「救い」「贖い」と言う言葉が何度となく出て来て、違和感さえ覚えたという人もいます。
この「御子を持つ者」もその一つでしょう。しかし、この言葉と意味を知ることが、キリスト教信仰そのものなのです。
人の声を聞くことは大切です。他者の声を聞かぬ者は、本物の声を聞かぬ者とするなら、ことは重大です。「羊飼い」は、その語られた言葉に耳を傾け、確かめに行きました。そうして出会ったのが幼子イエス(御子)でした。呼び掛けに聞き、確かめに行き、見たのです。
聖書のみ言葉に戸惑い、それに疑問と好奇心を持ち聖書を読む人もおられるでしょう。しかし、そこに待つのは「御子を持つ者の幸い」です。聖書を読む者。それは「神の御言葉が命の養いとなる喜びを知る者」でもあり、それはちょうど、命を保つためにパンを食べるように読むことに等しいのです。また、キリストの群れに加わる者にされることでもあります。それが「いのちを持つ」と言うことなのです。
「私は神の御子を持っている。それゆえに私も生きる」と言うことが許される自分にされる。この魂の感動は何にも代えがたいものです。自分が生と死において神の御子に属していることを知り、そのことを信仰として確かなものにされていることは、なんと幸いなことでしょう。
「隣人を愛しなさい」というみ言葉には、次のようなイエス様と律法学者のやり取りがあります。イエスを試みようとして「先生、何をしたら永遠の生命を受けられるでしょうか」。とのお答えとして、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります(ルカ10:27)。
大切なことはその後のイエス様の、隣り人とは、誰のことですですかに対するお答えです。とても大切なことが教えられております。是非、聖書をお開きになり、お確かめください。
小閑記
勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。
~黙示録3:12~
柱と言うものは、何かを支える大切ものであり、力でもあります。柱は家をまとめ強くします。建物でも組織でも柱はそのためには欠くことのできない「要」です。
このみ言葉では、イエスは勝利を得る者をわたしの神の聖所における柱としよう、と言われています。これは単に、勝利を得る者が神とともにいる家で、上席を得ると言うばかりでなく、現在、今ここで、地上の神の宮で、勝利を得るキリスト者は柱となることを許されていると言うのです。神の民は神の宮であります。「あなたがたは神の宮であって、神のみ霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と言われています。
神の宮が支える力を必要とする場があるとすれば、それはこの地上であります。私たちの神の家が完全に立っているためには、勝利を得るキリスト者によって支えられねばならないのです。
私たちの中にはそのような人がおります。人から人へ、老人から若者へと、その生涯を通し、祈りと、責任と、働きをもって後の人を支える者であります。たとえ、時に敵意や反感を受け、感謝されることはなくても、です。あるところではわずかな友と、また時にはただ一人で重荷を負うこともあるでしょう。
神から賜った柱を感謝し、私たちのただ中なる神の国が、常にそのようなキリスト者を持つことが出来るように祈りましょう。そうすれば、私たちの後に来る人がまたそれを受け継ぐでしょう。
現在、神の言われることを聞き、神と共なる家にあることを知り、感謝して生きましょう。
問1 人間の第一の最高の目的は、何ですか。
答 人間の第一の最高の目的は、神の栄光を現し、神を永遠に、この上な
く喜ぶことです。
(ウエストミンスター大教理問答)
世田谷通信(157)
猫 草
巷ではポケモンGOなるものが流行っているそうな。かくいう私もスマホでミニゲームなるものをやってみた。電車やバスの中で皆がやっているのをしばしば見かけるあれである。俊敏性には自信がないので最初からシューティングゲームには挑戦せず、試したのはマス目をブロックで埋めるミニゲーム。
いろんな形のブロックを組み合わせて縦か横の列を作ると消える、隙間がなくなって置けなくなったら終わり、という単純なゲームだが、1列消すごとに大げさに褒めてくれる。「Good!」「Excellent!」と画面に文字が出る。最初はちょっと嬉しかったが、ブロックを動かすだけで「Great!」「Perfect!」と来るとだんだん嘘っぽくなる。そのうちに「Amazing!」「Cool!」にも慣れると褒め言葉のインフレが起きる。
よく「子供は褒めて伸ばせ」という教育論を目にする。否定的な言葉で萎縮させるのは論外だが、意味なく褒めても言葉の価値は下がる一方だ。しかも「何もしなくても褒められる」と思うと仕事は雑になる。緊張感がないので判断は速くなるが当然ミスも出る。失敗を恐れないので、思わぬ奇跡の大成功を生む可能性がなくはない、しかし日常的な注意深さは減少し、結果としてデメリットの方が勝る。
このゲームは列を消すとコインが貯まり、置く場所がなくなって行き詰まっても候補交換とか部分消去とか、コインの数に応じた救済措置があるのだ。ダメなら取り消しも効く、甘やかし放題。いかにもアメリカンなゲームだなあと思うのである。
もう一つの類似ゲームは一切褒めてくれないし、置けなかったらいきなりゲームオーバーである。ただ過去のハイスコアのみが表示されるのでそれを更新するのが目標となる。熟考するので時間がかかる。コツコツ自分との戦い、こちらはいかにも日本的な感じ。平均スコアはこちらの方が高いがモチベーションの維持が課題となろう。
結局、1日でやめてしまった。スマホの電池の減りが早いだけで褒められてもハイスコアが出ても嬉しくないからだ。友人に勧められて「ねこあつめ」というゲームもやってみた。画面の庭先に餌やおもちゃを置くと猫が来る、それだけ。面白さが理解できないままこちらも2日で飽きた。要するにこの手のゲームに向いてない。高校野球なら熱中できるのに。夏もU18も終わったけど既にセンバツが待ち遠しい。
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
『美しい朝に』・・23・・
8月18日
今日は、内科に行ってきました。体重は2ケ月で1.3キロ減で、目標クリアでした。血糖値は、159でしたが、ヘモグロビンA1Cは5.8で正常値だったので、薬はやめてもいいかもしれないとおっしゃってくださいましたが、もう少し血糖値が120まで下がるまでお薬を頂くことにしました。こわい先生でしたが、体重がクリアできてヘモグロビンA1Cが下がっていたので、合格みたいでした。
8月23日
暑いですが、もうすぐ9月なのですね。リオが終わって気が抜けています。楽しみでしたので、夢の時間から覚めた感じです。夏バテなのか身体はだるいですが、少し秋の気配も感じられますね。長村先生もお身体ご自愛ください。
9月13日
今日は(火)は、血液内科の定期検査でした。朝から、大雨が降り続いていました。車から降りて、片手に傘、片手に杖と大変でした。2日程、全く眠れなかったので体調は悪かったのですが、おかげさまで、血小板は3ケ月前より増えていました。血糖値は、144と微妙に高いですが、だんだんと下がってはきています。
風邪をひいてもITPは「再発」の恐れがあるので、気をつけるようにと言われました。病院の帰りに、主人の誕生日のお祝いで外食をして帰りました。血液検査がすんで、ホッとしました。お祈りありがとうございます。感謝です。
9月14日
朝晩は、少し涼しくなりました。秋になっていくのですね。「17日から、家の前の道が工事です」と今日、連絡がありました。下水菅の工事のあと、道路をめくってセメントできれいにしてくださるそうでありがたいです。
昨年もそうでしたが、今回も、雨天延期と記載されていました。去年、仕上がるはずの工事が雨が降って放置されたままだったので、今年こそ仕上げて欲しいと思っています。また、今にも雨が降りそうです。台風が、多すぎる気がします。
9月16日
こんにちは。今朝は、大阪は晴れてきました。愛犬も、先程までないていたのですが、疲れて寝たようです。人間も動物も老化は受け入れなくてはいけないものですね。身体や心の病気・けが・後遺症など様々な症状も自分で受け入れなくては・・・。また、仕事で悩んでいる方も多いと思います。金銭的なことや人間関係に疲れている方もいらっしゃると思います。本人だけではなく、家族や周りの支える人も重荷を一緒に支えているのだから、大変だと思います。
災害で、何もかも失われた方のことも心配です。阪神淡路の時、おばの家も友人の家も全壊でした。命は奇跡的に助けられました。色々な試練が、幾重にも同時に来ると生きているのが辛くさえなりますね。でも、薄紙を剥がすように身体がふっと楽になる瞬間があるとき、神様が重荷を肩代わりしてくださったと感じています。いつも、祈れないのですが、本当に大変な時、祈ることで予期せない良い結果を得られます。
多くの方の重荷が軽くなるようにお祈りします。
(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)
その愛のゆえに
=時々の記=
(126)
8月22日
夏の高校野球は北海道が最後まで残っていたので応援していましたが、栃木に負けてしまいましたが、よくあそこまで勝ち進んだなと思い切り拍手をして応援していました。リオでのオリンピックは、9月から始まるパラリンピックを残して閉会いたしました。毎日、朝からテレビをつけての応援でしたので、急に夏の終わりが来たように感じます。
炎天や逃げたる犬を探しける。(翌日無事に見つかりました。)
蜂の巣に刈込み出会いはかどらず。(今年は非常に鉢が多いのです。)
一群の吹かれてをりぬ走り萩。
石組を重宝にして井戸替えす。
朝顔や赤色と紺基調なる。 馬場路哉
主人も支えられてこの夏を何とか乗り切ろうとしています。高齢者には厳しい今年の夏ですね。
9月2日
朝からはミ~ンミ~ンとセミが夏の終わりを告げるかのようにしきりに鳴いています。子供たちも二学期がスタートして少ない子供たちの山添村ですが、何だか、静かになったように思います。二学期は盛り沢山の行事に追われて教師も子供たちも大変です。特にこの頃は9月の早い時期に運動会がありますから、暑い中、練習に明け暮れて大変なことでしょう。
週二回通ふリハビリ爽やかに。
山峡や今も変わらぬ星月夜。
秋海どう夕さる庭に灯りけり。
黙示録めきて炎天続きけり。
一瞬の光大きく星飛びぬ。 馬場路哉
9月6日
今朝の散歩では、柿の実が熟さないまま、あちこちに落ちていました。上を見上げると小さな柿が鈴なりになっています。しばらくすると今度は青いままの栗が3つ4つと落ちていました。そうなんだ。このような暑さの中にあっても自然の恵みが豊かに実る秋を迎えているのだと実感いたしました。
こちらは台風の影響で蒸し暑い日が続いています。夕散歩ではいきなり黒い雲が現れたかと思うと、雨が勢いよく降ってきて、犬たちと一緒にずぶ濡れになって帰ってきました。
北海道では農家さんたちがジャガイモ、玉葱の収穫の前に大雨に見舞われて、本当に無念なことでしょう。ここまで大きくするのにどれだけの労力が必要だったかと思うと、いてもたってもいられません。今年はなぜか、東北、北海道へ台風が上陸して大変です。異常気象がそうさせているのでしょうが。一日も早く、元の生活に戻ることができますようにとお祈りするものです。
9月7日
秋の七草のひとつ、萩が土手の上から見下ろすように咲き始めました。夕方散歩で見つけました。やっぱり秋がやってきてくれるのかなという思いになりました。日中は真夏日です。いつになったら気温は秋らしくなっていくのでしょう。きょう七日は白露で、もうそろそろ涼やかな風が吹き出してもよいのにという思いです。
昨日の夕方、七色の虹が二本も家の庭の空に見えました。ほんのひと時でしたがとても心が和やかになりました。わたしには、四色にしか見えませんでしたが、主人には七色に見えたというのです。感性の違いでしょうかね。
9月12日
四季の変化がある日本は感性を高めてくれるようでとてもうれしいです。これからが秋の夜長の時期ですね。こちらは朝が早いので、夜はできるだけ早く休むようにしています。犬たちが4時30分には起こしてくれるからです。おかげで、早寝早起きの習慣がいつの間にかついてしまいました。これも健康維持には大切なことかなと良いように考えています。
夏草を刈らねば家を守られぬ。
手のひらに入る新種のさつまいも。
山里の白くぼやける星月夜。
爽やかや心開けという校歌。
夜の庭独占したる虫時雨。 馬場路哉
虫たちの大合唱にも耳が慣れてきたのでしょうか。今鳴いているのは何だろうと考えながら、聞いています。とにかくあちこちで鳴き始めますから、もう今鳴いているのはキリギリスなのか、クツワムシなのか、コオロギなのか聞き取りにくいほど一斉に鳴き始めています。
おかげで、涼しくなってきたので、夜はよく眠ることができています。私にとっては睡眠不足が最も翌日の活動に応えるのです。
9月13日
今年は、夏の異常な暑さのせいでしょうか。橋の下や池の近くなど涼しいところを選んで蜂が巣を作っているようです。各地で被害が出ていると伝えられ、怖くなりました。役場に連絡すると、山添村にも専門的に蜂の巣を退治してくださる方がいるとのこと。 さっそく電話を入れると雨が止んですぐに来てくださいました。30分程で、大きな蜂の巣を駆除してくださいました。
蜂にはもうしわけないのですが、人間に対して攻撃してくる生き物はちょっと放っておくわけにはいきません。蜂に刺されたところが頭に近い部分だったら亡くなった方もおられますから。 やれやれです。
土手のススキが雨に濡れて湿っていました。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
解説 ウエストミンスター信仰告白 (50)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第23章 国家的為政者について・・2・・
3 国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない(1)。しかし、一致と平和が教会において維持されるため、神の真理が純正に欠けなく保持されるため、すべての冒とくと異端がはばまれるため、礼拝と訓練においてすべての腐敗と乱用が防がれ、あるいは改革されるため、また神のすべての規定が正当に決定・執行・遵守されるため、国家的為政者はふさわしい配慮をする権威を持ち、またそうすることが義務である(2)。このことを更に有効にするため、彼は教会会議を召集し、会議に出席し、またそこで処理されることが一切神のみ旨に従ってなされるよう準備する権能を持つ(3)。
[1787年合衆国長老教会総会改訂「国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならないし、信仰上の事柄に少しでも干渉すべきでない。しかし、養育する父親のように、ひとつのキリスト教教派を他派以上に優遇せず、およそすべての教会の人々が、暴力や危険なしに自分の神聖な機能のどの部分をも履行する十分な・解放された・疑う余地なき自由を受けるような方法で、わたしたちの共同の主の教会を保護することが、国家的為政者の義務である。そして、イエス・キリストはその教会に正規の政治と訓練とを定められたので、どのキリスト教教派の自発的会員の中での・自分自身の告白と信仰に従うその正当な行使を、どの国家のどのような法律も干渉したり、邪魔したり、妨害したりすべきでない。だれも、宗教または無信仰を口実にして、何か軽べつ・暴力・虐待・傷害を他人に加えることがゆるされないような効果的方法で、すべての国民の人物と名声を保護すること、またすべての宗教的教会的集会が、邪魔や妨害なしに開催されるよう、ふさわしい配慮をすることが、国家的為政者の義務である」。日本基督改革派教会第4回大会採択]
1 歴代下26:18、マタイ18:17、マタイ16:19(*)、Ⅰコリント12:28,29、
エペソ4:11,12、Ⅰコリント4:1,2、ロマ10:15、ヘブル5:4
*歴代下26:18をマタイ18:17・マタイ16:19と比較
2 イザヤ49:23、詩122:9、エズラ7:23,25-28、レビ24:16、申命13:5,6,12(6,7,13)、
列王下18:4、歴代上13:1-9、列王下23:1-26、歴代下34:33、歴代下15:12,13
3 歴代下19:8-11、歴代下29章、30章、マタイ2:4,5
三 本項は、教会と国家との関係が相違する近代の米国では、次のように修正されている。
「いやしくも信仰上に関する限り、特にそうあるべきである。しかし、国家的権威者の義務は、養い親に見るように、如何なるキリスト教の教派たりとも、取り分けて差別待遇することなく、全ての信者が暴力も危険も感じることなく、己が職務をあらゆる部門に於いて果たすように、完全にして自由な、しかも当然な自由権を享受し得るように、我らの共同に主の教会を保護することでなくてはならない。
またイエス・キリストが己が教会に秩序ある政治と戒規とを定め給うように、キリスト教のどの教派に属するにしろ、己が信仰告白と信仰に基づいて、それらを正しく実施することに口出しし、障害や妨害となる如何なる国法もつくってはならない。
また他の如何なる人物に対しても、信仰、不信仰を口実にして苦しみを受ける者のないように、また、如何なる侮辱、暴力、罵倒、あるいは損害を与えることに対しても、実力をともなう有効手段を以って、すべての国民の人権と名誉とを保護することが国家的権威者の義務である。また、宗教的、教会的なすべての集会が迫害を受けないように円滑に行われるようにすることが彼らの義務である」。
原文は、国家が善意の保護者・監視者となることを主張し、修正文は、信仰、宗教、集会の自由を保護することが、その務めであると規定している。わが国のように異教国家の場合は、どちらも、そのまま当てはまるわけではないが、これは教会の信仰告白であって、国家に対して、このような見解に立てと要請する権利があるわけではないから、国家がどのような見解を採用しているにしろ、わたしたちは、こうあるのが聖書的であると宣言するのみであって、ただちに、そうしないからその国家を肯定しないとか、何か国家に対して政治的に交渉したり、勧告するというのではない。だから原文のままを採用することが不可能なのでないと思う。しかし政教分離の原則を聖書的と考える限り、修正文の方をよりよいものと認めなければならないと思う(日本基督改革派教会創立30周年記念宣言を参照されたい)。
4 為政者のために祈り(1)、その人物を尊び(2)、彼に税と他の納めるべき物を納め(3)、良心のためにその合法的な命令に服従して彼らの権威に服することは(4)、国民の義務である。無信仰または宗教上の相違は、為政者の正しい法的権威を無効にせず、為政者に対するその当然の服従から国民を自由にせず(5)、教職者も免除されない(6)。まして教皇は、彼らが支配している国の中での為政者に対し、またはその国民に対し、何の権能も司法権ももっていない。とりわけ、彼が彼らを異端者と判断しても、または何か他の口実に頼っても、彼らからその国や命を取り去ることは断じて許されない(7)。
1 Ⅰテモテ2:1,2
2 Ⅰペテロ2:17
3 ロマ13:6,7
4 ロマ13:5、テトス3:1
5 Ⅰペテロ2:13,14,16
6 ロマ13:1、列王上2:35、行伝25:9-11、Ⅱペテロ2:1,10,11、ユダ8-11
7 Ⅱテサロニケ2:4、黙示13:15-17
四 主権者が異端者であれ、共産主義者であれ、彼らがわたしたちの主権者であるという関係を無効にはしない。わたしたちは人間としての彼らにではなく、神よりこの国の支配権を正当に委任されているということによって、彼らに服従すべきである。と同時に、法王が信徒に対して、あるいは国民に対して現世的司法権を振るおうとするなら、わたしたちは、これを非聖書的な要求として否定すべきである。
教会の牧師や小会が会員の家庭内の私事に対してもつ機能についても、同様であることが言われるべきである、と私は考えている。
*****************
=この「解説 ウエストミンスター信仰告白」」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1976年)で、出版社の許可を得て掲載しています。この本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語・・・31・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・30
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌312番
いつくしみ深き 友なるイエスは
<神様のみ言葉>
「滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりもたのもしい友もいる」。
~箴言18章24節~
讃美歌312番は、世界中で広く愛唱されている祈りとそれにお答えくださる神様への感謝の歌であります。
讃美歌312番の作詞者ジョセフ・スクリィビンは、1820年アイルランドのダブリンで生まれました。彼はダブリンのトリニティ・カレッジを卒業して後、25歳の時にカナダに移住しました。恵まれた境遇で育てられたスクリィビンは、なぜアイルランドを去ったのでしょうか。それは一つの謎ですが、多分彼のフィアンセが結婚式の2、3日前に溺死したからでしょうか。
とにかく、悲しい思い出に満ちたアイルランドを去った彼は、新しい生活と志しを持ってカナダに向かったのであります。カナダでの彼は、家庭教師をして生活していました。また、僅かな収入の中から身体障害者や貧しい人への奉仕と愛の業に一生を捧げました。寒い冬オーバーのない者へは脱いで与え、病人や未亡人のために、自分でのこぎりを引いて薪木を作り助けるという、信仰と愛の人でありました。
スクリィビンの毎日は、イエス様がお教えになった大切な戒め“あなたの隣り人を自分と同じように愛せよ”を実践する日々でした。高齢になった彼は、病に倒れた時、多くの友人が看病に来ました。ある日、その一人がふと一つの原稿に目を止めました。これが讃美歌312番であったのです。それは愛と慰めに満ちたものでした。それはWhat a friend we have in Jesusを自分の愛する母が非常に悩んでいた時に、母を慰め励ますために書いたもので、他人に見せるためではないと彼自身語っています。
1865年友人の勧めによってSocial hymns Original & Selectedという讃美歌集に発表され、広く愛唱されて来ました。
讃美歌312番の曲WHAT A FRIENDは、歌詞発表後3年たった1868年に作曲されたものであります。
作曲者チャールズ・C・コンヴァースは、1832年米国のマサチューセッツ州に生まれ、後にドイツで4年間音楽を学び、帰国後法学を研究して弁護士や裁判官にもなりました。また彼は才能豊かで発明家でもありましたが、彼の名声は、この讃美歌にのみ基づいています。
彼は自分の名前を用いずKari Redanというペンネームを常に用いていました。1870年Silver Wingsと言う讃美歌集にスクリィビンの歌詞と共に一つの讃美歌として発表されました。後に有名な歌集Ira・D・サンキーのGospel Hymns
No1におさめられ、サンキーが大伝道者ムーデーのあらゆる伝道集会で、この讃美歌を歌ったために、大いに人気のあるものとなりました。
<312>
1 いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を。
1節の1行目と2行目で作者は“いつくしみ深きともなるイエス”が、私たちになさった偉大なみ業を中心に歌っています。そのみ業はどの様なものでしょうか。それは、贖いのみ業です。キリストを信ずる全ての者の罪、とが、憂いを取り去るためのみ業であります。主イエス・キリストは、人の罪のために十字架にはりつけになる前夜、その弟子たちに、最後の大切な教えをなさいました。その一つは、「友」という言葉の本当の意味についてであります。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」。(ヨハネ15:13)と、イエス様はお教えになりました。まことの友はとは、自分のいのちを捨てるほどに、その友を愛しているものであると言うのであります。その本当の、そしてまことの友とは、誰でしょうか。主イエス・キリストご自身です。
罪と憂いの鎖に縛られている私たちを、その鎖からとき放つために、十字架の上で私たちの支払うべき代価を、イエス様は身代わりとして支払われたのであります。「神が御子(主イエス・キリスト)を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)とお語りになったみ言葉も同じことを語っています。
私たちの唯一の友は、主イエス・キリストのみであって、このお方以外に私たちを罪より救って下さるお方は、誰一人いません。使徒の働き4章12節に次のように記されています。「この方 (主イエス・キリスト)以外にはだれによっても救いはありません」。あなたは―まことの友―あなたを罪より救う友―をあなたの友となってください。滅びに至らせる友に従ってはいないでしょうか。
間違った見せかけの宗教や友人に、心を惑わされないように、気を付けてください。また終わりの2行では、私たちに一つの根本的な質問をしています。それは、あなたは何故、心の嘆きを遠慮なく友なるイエス様に述べ、その負っている重荷をイエス様にお任せしないのですか、ということであります。
主イエス・キリストは「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)とお約束なさっているのですから。“すべて”とは、あなたも含まれています。スクリィビンが歌っていますように、あなたも主イエス・キリストのみ前にその重荷をおろしてください。
2 いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。
2節では、他の言葉をもって1節で強調していることを繰り返しています。まことの友であるキリストは、私たちの弱さ、悩み、悲しみに沈む心を知ってくださり、私たちの祈りにお答えくださると歌っています。これは真実です。私たちは決して絶望に沈むことはありません。主イエス・キリストはかならず、慰めと力をお与えくださり、勝利することが出来るのであります。
3 いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労わりたまわん。
3節では、イエス・キリストの変わらぬ愛について歌っています。世の友、人の心は変わりやすいもので、富み栄えている時の友が、滅び貧しくなった時の友でしょうか。人の心は、うつろいやすいものであります。しかし、主イエス・キリストは、“兄弟よりも親密”な友であられます。
詩人ダビデは次のように歌っています。「たとい、父母が私をすてても、主が私をむかえてくれるでしょう」(詩編27:10)。
「世の友われらを 棄て去るときも 祈りにこたえて 労わりたまわん」。
この“祈りにこたえて”と言う言葉は3節の一番大切なことばであります。いつくしみと恵みに富んでおられるイエス様は、私たちを友としてくださるのであります。主イエス・キリストは、そのことを「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:14)と語っておられます。
友なるイエス様を、唯一の友として受け入れること、聖書を通して私たちに命じることを喜びと感謝をもって行うこと、また、祈りをもって深く、主イエス・キリストに交わりを持つことを願い求めたいものであります。このことを通して、私たちも主イエス・キリストのまことの友となることが出来るのであります。
主イエス・キリストは、そのような人々を友として愛し、受け入れてくださり、永遠のみ国へと招いてくださいます。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
ビルマ
戦犯者の獄中記 (67) 遠山良作 著
―「メイミヨー」の公判廷―・・・2・・・
11月4日・・1・・
―東 登大尉、中山伊作少尉の最後の日・・1・・
(これからの記事は東大尉たちの隣房にいた井出准尉が書いた記録の原文である)
西独房10号に東大尉たちの隣房にいた井出准尉が入房していたが、印度人の所長カーン大尉の好意により中山少尉は11号に移され、東大尉の房と相応してお互いに会話が出来るようにしてくれた。
中山 「ああこれで安心した。若い者がみんな助かった。願っていた通りになり、こんな嬉しいことはない。私たちが逝った後は若い者がやってくれるから何も心配ない。だが確定の言い渡しがあってあのまま別れてしまうのはちょっと寂しかったが、所長の情によってこのように心ゆくまでお別れができることは有難かったね」
東 「うんそうだ。まったく所長の好意には感謝している」
中山 「現在のような真実に満たされた心境で明朝絞首台に上りましょう」
東 「うん、仏印以来ずっといっしょだし、またいっしょに散って逝くあの世までしっかり手を握って満ちた心で逝く、若い者が助かり責任者の俺たちが逝くのだが俺一人で済むと思っていたが、今の君の気持の立派さを聞いてこんな嬉しいことはない。俺もやっと安心した」・・・中略
中山 「分隊長どうでしょうか、われわれの如くに死んでゆくのと、天寿を全うして死んでゆくのと気持の上でどうですか・・・」
東 「それは天寿を全うしたとしても心配はあるよ。妻子のこと、事業上の心配、その他いろいろな悩みがある。われわれのような7年も8年も故郷の親兄弟妻子と離れていると、忘れはしないが歌の文句にあるなあ、『思い出しても忘れずに』の通りの肉親の別れがないだけ楽さ。天寿を全うしたからとて人間の欲には限りがない。同じだよ」
中山 「そうですね。やっぱりそうですね。その点われわれには国のためという自負心か何と言いましょうか、何かがある。そうして国家再建の礎石として死んで逝くのだという大きなものがありますから安らかに逝かれます。戦友その他の人に見守られずに死ぬ人も沢山あります。その点われわれは情けある分隊員、その他の戦友に見守られて逝くのですから勿体ない位です」
東 「内地に帰って妻や子供のことを心配して死ぬより、現在のわれわれは、妻や子供は元気でいる(はっきり聞き取れないが)。また戦友のこの限りない愛と情けに抱かれて死んでゆくのではないか」
中山 「現在の私たちは実に美しく結ばれた戦友の愛に包まれて死んで逝く、実に有難いです。やっぱり天寿を全うして逝く人といっしょですかな」
東 「確定の言い渡しがある前に死んでゆくとき果たして死を恐れず逝けるかなと、心配であったが、今になって見ると何も心配なく逝けるよ。むしろ平然としてゆけるよ」
中山 「分隊長もそうですか、私もそうでした。人間はやはり同じですね。こうして二人とも手をたずさえて逝けるのですから、こんな幸せなことはない。冥土までもいっしょですね」
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・46
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・13 この主流が「死んだらおしまいだ」とか「力が衰えてきたからもうダメだ」みたいなことを言わせるのです。主流に逆らうことにエネルギーを消費する必要はありませんが、少なくとも「自分にとってのいのち」について、既成のものに取り囲まれているだけでは、結局その既成のものに支配され、その影響をもろにかぶった自分による以外に、自分を意識し得なくなってしまうのです。
周知のように、価値観は時代の変遷と共に移り変わりました。わたくしたちの国では、太平洋戦戦争での敗戦前後では、全く変わりました。それは今までいのちとして大切にしていた価値体系が一挙に変わってしまったことで、このことへの対応には難渋しました。
その最たるものは神であった天皇が人間宣言されたことです。この変化への対応に皆難渋しました。それでもこの状況を切り抜けたのは、とにかく食うことが先決で、このことへの取り組みでエネルギーの大部分が消費されてしまったからです。
では、飽食時代といわれるこんにちどれだけ揺るがない価値観に立っているかと言えば、これがはなはだ怪しいのです。つまり、あらゆる意味において死は恐るべきものであり避けたいことであることに変わりはない、ということです。人間がすべて死ぬべき存在であることは誰でも分かっていますが、これを直視して何かが生まれてくることは期待出来ませんから、みな避けます。死の力はすべてのものは呑み込まれてしまうからです。
死に向かう人間は、初めから、この点については負け戦をしていることがはっきりしています。「死にたくない」と叫んでも、死の力は確実に、人間を呑み尽くしてしまうのです。不老長寿の妙薬を手に入れようとしたり、体の再生を願って保存法を極めたりしてきましたが、みな儚い抵抗でしかありません。そのように確実に死ぬということが分かったなら「では死ぬ前にやりたいことはみんなやって悔いのない人生を生きよう」というので、生きている内に楽しみを追及したり、この世での存在意義を自認できる働きに専念するなど各自各様の対応をしています。が、それでも「死とは何か」「死ですべては終わりか」という問題は依然として未解決のままです。釈迦は「死からの解脱」を悟った人であると言われていますが、すべての人がそれを聞いて「分かりました」と言うことが出来るか疑問です。
以上のことを踏まえて「では、キリスト教では、確実に死に打ち勝つ力をくれると約束するのか」と問われたら、これも直ちに効き目の有る妙薬を提供するような仕方での応答をすることは出来ません。ただ、聖書全体を通して、特にイエス・キリストによって語られ示されていることの紹介と解説は出来ますから、それを死について考え、かつそれを通して何らかの死に対する方向付けを得ていただければ幸いです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年10月のラジオ放送予定>
10月 2日 杉本和道 (日本基督教団各務原教会牧師)
9日 杉本和道 (日本基督教団各務原教会牧師)
16日 辻 順子 (日本基督教団鳴海教会牧師)
23日 辻 順子 (日本基督教団鳴海教会牧師)
31日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
第74課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・21・・・
B キリスト者の市民的義務・・・5・・・
13:1~2・・・5・・・
「したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむくものである。そむく者は自分の身にさばきを招くことになる」(13:2)。為政者に対する服従が義務であれば、不服従は罪であり、罪を犯す者は罰を受けるのです。この「さばき」というのは、為政者による罰を言っているのではなく、神のさばきを指してします。何故ならば、パウロは服従を神が求められる義務として論じ、不服従を神に逆らう罪として論じているからです。
パウロがここで論じていることは、支配している為政者の権利ではなく、為政者に対するキリスト信者の服従の義務であるということを、私たちはしっかりと見極めておくことが重要です。為政者が支配権をもっているかどうかということと、キリスト者が、神の摂理のうちに現存しているすべての為政者に対して服従すべきであるということとは、別の事柄であります。
キリスト者が悪い為政者に服従する限界は何かということは、さらにもう一つの別の問題です。これら三つの別の問題が明確に区別されていないと、いたずらに混乱と間違いが生じてくるのです。13:1~7で、パウロは為政者の支配権を論じて、また、悪い為政者に対する服従を言っているのではなく、服従の限界は何かを論じているのではありません。パウロが述べているのは、上に立つ権威に服従することがキリスト信者の義務であるという単純な原則なのです。
為政者がよこしまな人物であって、神がその政府を取り除いて、代わりに良い政府を立てられることが神のご計画であるということも真理です。キリスト信者の為政者に対する服従には、或る正当な限界があることも全く真実です。しかし、パウロがここで教えているのは、神の摂理の下に存在する権威が存続する限り、その権威に服従すると言うことが、キリスト信者の義務であると言うことです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」