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ほっとひととき『みんなのコーナー』
☆ 日中は暑いですが、朝晩は涼しいくらいになりました。家の周りはまだまだ片付かず瓦礫の山です。これが片付かないと前に進めません。買い物は隣の方を車に乗せて、週三回出かけています。娘が冷蔵庫を買って届けてくれましたので、部屋を整理して置き場を作りましたので、本当に助かります。時々の余震が心臓によくないですね。・・・。家内の白髪が気のせいか多くなりました。私もですがね。 熊本県 I・Tさん
☆ 作新学院の優勝は、まさかのことでした。優勝しましたが、県内は何となく盛り上がらないと感じます。球児には可哀想な感じです。原因はオリンピックと台風が来ていて何となく意識が盛り上がらないように感じます。栃木は今回の10号の被害はほとんどないようです。 栃木県 K・Eさん
☆ ・・・。膠原病の痛みは辛いです。2週間ほど体がだるくて動けませんでした。続いていた下痢もとまりました。ゴミと埃の部屋でしたが、少し掃除をすることもできました。入浴も洗濯もできない生活は辛く寂しいですし、冷蔵庫もカラになり、買い物にも行けませんでした。痛みの少ない時は独り身は助かりますが、そうでないときは、救急車のお世話になるばかりです。こうしてメール交換できるのは、私の大切な時です。感謝です。 埼玉県 S・Kさん
☆ ・・・。こちらは稲刈りが始まりました。田んぼの周りには高圧電気が流れています。イノシシ対策ですが、その電線が最近高くなりました。鹿対策なのだそうです。家の裏で先日長い蛇を見ました。あれは恐らくマムシと思います。自然豊かな証拠ですが、毎年、マムシに噛まれて救急車で運ばれて行く人がおります。もう秋です。 兵庫県 K・Yさん
☆ 今年は本当になんもかも異様な感じがしますが、その証拠のように次々に来る大雨と風で、道路も畑もなんもカモが土砂に覆われてしまいました。台風があと半月遅れてなら収穫もできたのに、と思うと残念。残ったものは商品にならない物と収穫を当てにしてJAから借りた借金です。・・・。もうすぐ冬。厳しいよう・・・。 北海道 K・Kさん
『ありがとうございます』
今年の秋は、台風の被害を受けた地域もあり、喜びの収穫に感謝すところもあるようですが、確実に秋の訪れを草花が告げてくれます。同時に受験を控えている若者には緊張の日々になることでしょう。先日までご近所の庭に咲いていたコスモスの蕾が、今朝の朝散歩で気が付くと、もう一斉にコスモスの花が咲き誇っています。濃いピンク、薄ピンク、しろと三色が織り交ざってとてもさわやかな朝いちばんでした、とメール下さった方がおられました。それぞれの秋があるのですね。夏の疲れが出ます。ご自愛の日々をお過ごしください。
2016年8月16日から2016年9月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者です。感謝いたします。
梶川実雪様 馬場暁美様 森谷千文様 匿名3名様
郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
彼はその魂が労したゆえに、喜びを見、満ち足りる。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とする。それは彼が彼らの不義を負うからである。
~イザヤ53:11~
連日の猛暑日も9月の声とともに秋の虫たちの声が夜風とともに心地よい響きとなって聞こえてきます。夏の疲れが神様のお癒しをいただいてお元気にお過ごしください。
私たちの生活は、絶え間のない活動で成り立っています。そのために、多くの人が働いて、それで保もたれております。電気、ガス、水道から公私の交通機関、外国に漁に出ている方もおられます。国と国との争いのないように、その任に当たっている人もおります。また、24時間営業が普通になりました。そうして、そこで働いている方もおられます。このように多くの人の働きによって、多くの人は安心して生活しております。しかし、現実には、過重労働のために多くの弊害も起こっています。
ところで、聖書によれば、そのように目に見える「地」だけでなくて、さらにその上に目に見えない「天」も私たちのために働いている。天において私たち人間のために働いている「先々、万々」の者(ダニエル7:10)に比べれば…と、ふと思わされます。預言者イザヤは「その魂が労した」と言っている「一人の人」のおられる方を、私たちはどれほど考え、思い巡らしているでしょうか。
私たちは生きていますが、それは「彼はその魂が労したゆえに」生き、生かされていることを、深く考えることは、生きる意味・目的を自覚する上で、大きな意味を持ちます。「神の愛に満ちた魂の労」に深い感動と感謝を覚えるのです。同時に、人々の労に心を向け、感謝の思いをこの実りの秋に思いたいものです。
ふと、普段着の生活に安堵の思いを覚える幸いは、明日への希望になるのではないでしょうか。そう思えることに感謝・・・。
小閑記
そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
~ルカ:27~
キリスト者の生涯で、イエスに従うことを許された年月のことを思い返すと、その頃は本当に恵まれた年月であった、心から言うことができることはなんと幸いなことでしょう。もしそうでなかったとすれば、その生涯の最良のものを手にすることなく、名ばかりの信仰者であったことになります。
主にある者としてでなかったとすれば、キリスト者にとって悲しみ、恥とするところであります。これは、私たちの思いです。
しかし、主は決して私たちを捨て去られませんでした。どのような弱く、惨めな私たちの人生・生涯であったとしても、主はその生涯に、恵みに恵みを加えてくださいました。永遠の命を約束してくださいました。
私たちは今までより更に、主の良いことのほか、何もなさらなったことを、知るべきです。移り変わる世に、繁栄に、不幸に、悲しみに、罪にあっても、主の愛と同情は、日々、私たちにありました。私たちが誤った時、主はすべてを許し、人生に傷ついた時に癒し、心に慰めと励ましを与え、人に見捨てられた時には、もっとも近くにいてくださいました。怠惰な時には、愛をもって罰し、人生の苦難を変えて、希望という宝をくださいました。
主は真っ暗闇の中にさまよう私たちに、み言葉という光を下さり、導いてくださいました。この主が「わたしに従いなさい」と招いてくださいます。この愛の主が待っていてくださいます、と言われます。
キリスト者として、これからの人生を良い年月であったと、心から告白したいものです。日々に、未来に希望と目的を思い描く時、新鮮に思えるのは、どうしてでしょうか。
世田谷通信(156)
猫 草
ササと竹の違いって何だろう?と里山でササを刈りながら思う。スマホで調べたら、「英語でササはbamboo grass、竹はbamboo」と出てくる。うーん、結局どっちも「バンブー」ですか。
「竹も笹もイネ科タケ亜科に属する植物で、一般には、大型のものを『竹』、小型のものを『笹』と呼ぶ」ともある。サイズの違い?そういえば里山でせっせと刈っているアズマネザサ、1年で膝丈、数年放っておくと数メートルまで成長して、シノダケと言われるそうな。
もうちょっと調べると「成長するにつれて皮がはがれ落ち、茎の部分がツルツルしているのが『竹』、成長しても枯れるまで皮が残っているのが『笹』。」とある、おお、ちょっと植物学っぽくなってきた。とはいえ里山でみると皮が引っかかって微妙な状態のものも多い。見分けはつきにくい。
「茎の部分を利用したものは『竹』と呼び、葉っぱの部分を利用したものは『笹』と呼ばれる。」とも書いてある。これがなんだか一番しっくり。素材としてどう使いたいか、という話なんだな。呼ばれ方は切り出してきたあとのプロセスによる。「竹」細工にするか、「ササ」をまとめて土留めの粗朶として利用するかは状況による。或いは児童館が「七夕で使う」という時には、もちろん葉っぱ付きで提供する。
人里の身近にあって、適度な太さと長さがあり、まっすぐでしなやか。丈夫だが割ると空洞で加工しやすい。古来から利用されてきたのも納得がいく、便利な植物なんだなと思う。
しかし一度背丈ほどの藪になると厄介だから毎年大人数で刈る必要が出てくる。毎夏、外資系証券会社のボランティアの方が20人ほどもやってくる。本社は六本木ヒルズだそうな。普段は超高級オフィスのヒルズ族だが、今日はパソコンではなく鎌を存分にふるってもらう。メンバーは多国籍で半分は日本語が通じない。でもひたすら急斜面のササを刈ってくれる。彼らのランチは里山のど真ん中にピザのデリバリーである。なんだかピクニックみたいでお洒落だ。
こうやって手入れした斜面には翌年希少な金蘭やエビネ、ウラシマソウ、ホウチャクソウといった植物が群生するようになる。地方では荒廃した山林の管理が大変と聞くし、不在地主も多くて簡単には手が出せない中、鳥獣被害や土砂災害などの危険も増しているという話を耳にする。秋田出身の友人が「秋田の山はもっと荒々しいよ、クマいるし。こんなお綺麗な箱庭じゃなくてさ。」と笑っていた。確かに世田谷の里山は都会の小さなエアスポットのようなもの。それがこんな風に守られているんだな、と思う。
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
『美しい朝に』・・22・・
7月18日
梅雨明けと「ニュース」で言っていましたが、今日も良いお天気です。
夏本番という感じです。眠れない夜は、DVDを見て過ごすようになってから、
「寝なければ」と思わないので、辛くなくなりました。見ながら、寝てしまうこともあり穏やかです。眠剤は2錠→1・5錠のままで、寝れたり、寝れなかったりです。お祈り感謝です。寝苦しい夜を過ごしておられる方のためにお祈りします。
8月5日
こんにちは。毎日、真夏日です。写真を数枚お送りしますね。真夏に頑張って咲いてる花々です。自然の美しさに勇気づけられます。
昨日は、息子の自転車を借りてラーメン屋さんまで炎天下15分くらい乗りました。サドルを下げてもらっても、足がつま先しかつかないのでものすごく疲れました。家族で過ごせて息子の話も聞けて良かったです。
自然のものしか使用していないラーメンでおいしかったです。昨日は、疲れて、良く眠れました。今日は筋肉痛です。子供はいくつになっても心配ですが、親元から巣立っていけたのだから、これからの未来を祈っていきたいと思いました。
いよいよ、オリンピックですね。
8月6日
オリンピックが始まりました。リオのオリンピックの開会式を見ていました。
サンバのリズムで、あざやかで楽しさがあふれていました。色々、オリンピック反対のニュースで大変そうでしたが、大丈夫だったのでしょうか。
私の家の子供は、2人ともオリンッピックの年のオリッピックの時期に生まれました。オリンピックを見ていたら、当時を思い出します。辛いことも多かったけれど、過ぎればどれもが、必要な試練だったのかもしれません。オリンピックで、思い出にひたっていたら掃除をするのが遅くなってしまい、「トイレ」の壁を拭いて、床を拭き掃除して、暑さでフラフラです。病気になるまでは1日中掃除をしても平気だったのに体力が続かず情けないです。少し、休憩にしました。
8月15日
こんにちは。朝から、オリンピックの卓球を4時間くらい見てしまいました。
手に汗握り、肩に力の入る女子の団体戦でしたが、惜しくも負けてしまいました。また、2~3日して、3位決定戦があるようですが、テレビで応援してるだけなのに、ぐったり疲れました。
最近、薬を減らしているので眠れなくて、また、内科の予約が18日に近づいているのに、ついつい甘いものを食べてしまい、今回はこわい先生に怒られそうな予感がします。
(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)
その愛のゆえに
=時々の記=
(125)
7月16日
殺風景な我が家の庭に毎年決まって花を咲かせてくれるのが朝顔です。せめて、この夏の暑さにめげずに朝起きた時に朝顔の花から元気をもらうために、毎年五月に種をまきます。小さな種が二か月余りで、花を咲かせてくれるのですからその成長の速さに感謝するものです。今は、青紫、白、濃いピンクの三種類が入れ替わり、立ち代り花をつけています。残念なことに開いた花は午前中で萎れてしまいます。それでも花たちから清々しさと元気をもらうのが楽しみで朝一番に花を見に行きます。支柱は家の裏山の細いアマゴ竹を使っています。一本一本が太さが違いますし、曲がっているものもありますが、すべてが自然のものですからぴったりと似合っているように思います。鉢も昔ながらの土から作ったものです。プラスチックと違って暑さに強いといわれていますが、この暑さでは、朝、夕二回の水やりを欠かすことはできません。
庭の小さな野菜畑ではピーマン、ミニトマトが毎日、たくさん収穫できるようになり、楽しみです。ミニトマトは彩りを添えるのにとても便利な野菜です。
ピーマンは調理するのに手間がかかりますが、自分の家で採れたと思うと、いとおしく、毎日ピーマン、ミニトマトが食卓に出てきます。夏野菜の力強い恵みを頂いて、これから一層厳しくなってくる暑さを乗り切りたいものです。
7月23日
毎日、暑い日が続いています。こちらは、八月が近づいてくると、高齢者たちが競い合うように、家の周りの木の剪定をしたり、草刈り機で生い茂った草をきれいに刈り込んでいきます。みなさん、すでに70歳ははるかに超えておられますが、頑張っているのです。昔からの習慣で八月が来る前にそこいらをきれいに片づけておかなければという思いが強いのでしょう。主人もみなさんに刺激されて、今朝からは草刈りに励んでいました。これで蛇が近づきにくくなったかなとほっとしています。
曲終わるかに亡くなりぬ戻り梅雨。(高知教会からの信友が6月に急に召されました)。
薔薇散りて得も言われぬ香遺しけり。(同じ信友が召されたことをしのんで)
梅雨明けの青空永遠(とわ)の神秘とも。
朝散歩かさかさふめる竹落ち葉。
玉虫や望み確かに信じける。 馬場路哉
こうして、台所で座っていると、確かにコオロギが初めて鳴きました。裏山ではカナカナと寂しげに蝉が鳴き続けています。
8月2日
連日、猛暑が続いています。夕立もなく、農家さんたちは声をそろえて、一と雨ほしいな、と言っています。ちょっと油断していると農作物はあっという間に枯れてしまいますから。
過疎の村一隅灯る蓮の花。
老梅の枝天に伸ぶ茂りかな。
計画を主は成させけり送り梅雨。
梅雨明けや青空天の神秘とも。
月下美人全てに時の有りといふ。 馬場路哉
8月6日
昨夜は一晩モモのことを考えると居ても立っても居られません。藪の中に入ってしまったら足の弱いモモですから出てくることができません。野生のイノシシが必ず出てきますから、モモはきっと噛みちぎられて死んでしまっているに違いないと思うと、とても辛くなりました。息子が慰めてくれたのは、犬も苦しんで死んでいく姿を見せるのもつらいもんだから、きっとモモはその姿を見せまいとして隠れてしまったんだと思う、と。
役場からも何も連絡がありません。あきらめるしかないと思っていましたら、午前九時過ぎに電話が入りました。犬を探していませんか?と。黄色の首輪、青色のリード。モモに違いありません。親切な方でモモが田んぼに落ちて出てこられなくなっているのを発見してくれたようです。朝ご飯までしっかりいただいて無事に連れて帰ってきてくれました。首だけは水につかっていませんでしたが全身水につかっていたようです。左足が骨折しているのかパンパンに腫れて歩くことが思うようにいきません。獣医さんに電話して尋ねると、痛み止めと化のう止めで処理するしかありませんねと言われたのでモモは連れて行かないでお薬だけを頂きに行きました。少し痛みが和らいだのか落ち着いています。モモが帰ってきてくれてとても感謝でした。最後まで一緒だよと言い聞かせています。
8月11日
このような猛暑の中、空を見上げると、赤とんぼが群がって飛び交っていました。暦の上ではもう秋ですから。オリンピック、残念なのは山に囲まれた我が家のテレビはNHKがうつりにくいのです。アンテナが電波をうまく受け止められなくなっているようです。ラジオに耳を傾けている毎日です。
やや強き風に揺れもすラベンダー。
土用波もたらす風の山を越ゆ。
暑き日や神の忍耐説かれける。
師の詠みし野菊の蕾刈らでおく。
子ツバメの鳴き交わしをる気迫かな。 馬場路哉
ツバメたちは五羽だけを残して遠いフィリピンへ帰ってしまいました。
毎朝、電線に止まって挨拶を交わしていたので、さびしく感じます。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
解説 ウエストミンスター信仰告白 (49)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第23章 国家的為政者について・・1・・
1 全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる(1)。
1 ロマ13:1-4、Ⅰペテロ2:13,14
一 神は至上の主権者であられる。従って一切の支配権の唯一の保持者は神のみである。人間社会の統治権を霊的と現世的とに二分するなら、前者は教会に属し、後者は国家または公共団体に属する。両者ともに神から賦与されているものあり、お互いに補いあいうものであるから、自己の両域を越えないように、また、わたしたちもキリスト者であると同時に、国家社会の一員であるから、それぞれの事柄に関しては、どちらの支配権にも真面目に、忠実にこれを尊び認めて服従すべきである。
なお、岩波文庫の中に、マルチン・ルター著「現世の主権について」の邦訳が出版されているが有益な本である。
2 キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり(1)、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので(2)、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる(3)。
1 箴言8:15,16、ロマ13:1,2,4
2 詩2:10-12、Ⅰテモテ2:2、詩82:3,4、サムエル下23:3、Ⅰペテロ2:13
3 ルカ3:14、ロマ13:4、マタイ8:9,10、行伝10:1,2、黙示17:14,16
二 イエスは「あなたがたの中で・・・、指導する人は仕える者のようになるべきである」(ルカ22:24)と言われているけれども、それはキリスト者が社会的に主要な地位に立つことを否定してはいない。国家の主権を握る者が、この主権に当然付随している帯力(ひいては武力)を自分の権力内に持つことは当然であり、従って、この刀を抜く必要のあるときは、それを振るう機能も握っているのである。
合法的とは、前章の場合にも用いられた用語であるが、神の言葉に矛盾しない、あるいは聖書の啓示に適うと言った意味とみてよい。ゲッセマネに向かうとき、イエスは「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」(ルカ22:36)と命じつつ、耳を切った者に向かっては「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われた。この二つのことに矛盾はないか、と問う人もあるが、わたしは前者の場合、なかなか事に危急性にめざめない弟子への警告と見るべきではないかと思う。
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=この「解説 ウエストミンスター信仰告白」」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1976年)で、出版社の許可を得て掲載しています。この本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語・・・30・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・29
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌310番
静けき祈りの 時はいと楽し
<神様のみ言葉>
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。
~へブル人への手紙4章16節~
この讃美歌310番は、祈祷会でよく歌われている讃美歌の一つであります。
讃美歌310番の作詞者はウイリアム・W・ウォルフォードについては、残念ですがあまり知ることができません。生まれも、経歴も明らかではなく、学歴もない人であったようです。
それにもかかわらず、彼は、強い精神と記憶力との持ち主でした。彼は盲人説教者で、19世紀前半にイギリスのウォーリックシャーのコールズヒルで伝道に励んでいました。彼の説教は、聖書の言葉をほとんど全部暗記していて、それらを適切に活用してなされたと言われています。
また、ある著者は、彼はホミルトンにあるキリスト教の専門学校の助教授であったろうと言っています。それは、その学校に同名の教授が、同じ頃、17年間牧会志願者を教えてしていたこと、また、この人物は、祈りについての具体的な本を一冊出版していたからであります。1838年、コールズヒルの組合教会に招かれて、4年間、牧師の職にあったトマス・サーモンは、ウォルフォードを友人として知り、この讃美歌を、1842年に自らこの歌を書き取り、彼が帰米して後、1845年にNewYork Obeserverに発表して以来、一躍有名になりました。その後、アメリカの教会で広く歌われるようになりました。しかし、今日、次第に用いられなくなっています。
今でも熱心に祈祷会が続けられている教会で、愛唱されていますことは、喜ばしいことです。この讃美歌が歌われている限り信仰の灯は燃え続けることでしょう。
讃美歌310番の曲SWEET HOURの作者ウイリアム・B・ブラドべリは、1816年10月6日メイン州のヨークで、音楽を愛好する家庭に生まれ育ちました。その恵まれた環境に育った彼は、14歳の時ボストンに出て、音楽を専門的に学び、ボストン音楽専門学校を卒業後、彼は各地で音楽の講習会を開きました。彼は、特に子供の聖歌隊を指導するとともに、教会学校用の曲を多く作曲しています。
彼はイギリス、ドイツに留学して後59の聖歌集、讃美歌集を出版しています。彼の活躍は、多くの人々に音楽に対する興味を起こさせることにありました。また有名なブラットベリ・ピアノ会社を作り、活躍しましたが、そのために52歳でこの世を去ったのであります。1954年版の讃美歌には、彼の曲が14ほど収められています。子供のための讃美歌“主われを愛す”や199番“ わが君イエスよ、罪の身は”271番の“いさをなきわれを”280番の“わが身の望みは”などは、皆様の愛唱される讃美歌の一つと思います。
これらの讃美歌は、ともに信仰の喜びと、力とを兼ね備えたもので、この310番も、本当に歌いやすい、祈祷にふさわしいメロデーであります。
<310>
1 しずけきいのりの ときはいとたのし
なやみある世より われを呼びいだし
父のおおまえに すべてのもとめを
たずさえいたりて つぶさにつげしむ。
1節ですが、この讃美歌で気がつきますのは“静けき祈りの時はいと楽し”という言葉が、2節と3節にも用いられていることであります。
それは“祈りの時”とは、“静かに心を神様に向ける時”であり“神様との楽しい交わりの時”であるということです。心疲れ、魂に渇きをおぼえて、神様のみ前に出る時のおごそかな雰囲気と、神様との交わりの時は、本当に心楽しく喜ばしいものであります。
「祈り」は、騒がしく鐘や太鼓をうち叩いたり、大声でくどくどと祈ることではなく、心静かに、神様と語り合う静かな時でなければなりません。「祈り」は、私たちを“悩みある世より呼びい出し”て下さる、非常に大切な時であります。また、「祈り」は、私たちの“全ての求めをたずさえて”神様に“つぶさに”告げる時でもあります。
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神様に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と聖書(ピリピ4:6~7)は教えています。
私たちは、どのような時にあっても、感謝をもって、神様に願い、つぶさに告げるなら、神様はあなたに、愛をもってお答えくださいます。
2 しずけきいのりの ときはいとたのし。
さまよいいでたる わがたまをすくい
あやうき道より ともないかえりて
こころむるものの 罠をにおがれしむ。
2節では、人の魂のさまよえる時、危うい道を、歩んでいる時を歌っています。私たちの人生に起きる悲しみ、魂の迷い、危うき道は、悪へと導く者の罪の罠に陥っている時であり、落とし入れようと待ち構えている罠が待っている時でもありましょう。
私たちが、一歩でも正しい道からそれて歩むなら、かならず、この罠に陥り、誘惑と堕落の坂道へ落ち込んでしまうのであります。この世は、悪へといざなう罠の世であります。この世にあって生きる私たちは、自分の力だけではどのようにしても、この誘惑に抗しきれるものでもなく、その力さえもない者であります。
このように弱い私たちは、その時にこそ、祈るべきであります。主イエス・キリストは弟子たちに次のように祈ることをお教えになりました。「私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください」(マタイ6:13)。この主イエス・キリストの奨めを心に留めて、日々、熱心に祈る者となりたいと、思わずにはおれません。
3 しずけきいのりの ときはいとたのし、
そびゆるピスガの 山のたかねより
ふるさとながめて のぼりゆく日まで
なぐさめをあたえ よろこびをみたす。
3節では、神の人モーセが長い生涯の最後を覚えて、ピスガの高嶺より、神様がモーセに約束なさったカナンの地を見せられた場面を歌っています。
モーセは荒野の旅路で、イスラエルの人々に水を求められた時、己れの力かのように岩を打って水を出させたために、神様からの裁きを受け、約束の地、カナンに入ることを許されませんでした。モーセにとって、ピスガの山から見るカナンの地は、心のふるさと、旅路の終着でした。しかし、モーセは入れません。
愛と恵みと慈悲の神は、裁きを受なければならないモーセにそびえ立つピスガの高嶺よりふるさとを見せてくださったのであります。この時のモーセの喜びは何にたとえることができるでしょうか。私たちも、「祈り」によって、私たちの前にある約束されている「永遠のいのちのみ国」を望み見ることができるのであります。私たちも、天国へ上り行く日まで、祈りによって、日々、なくならない慰めと喜びと望みを豊かにいただくことができるのであります。
私たちは、だいたんに勇気を持って、神様の恵みをいただき、時に適った助けを受けることができるのであります。
どうぞ、あなたも、この恵み、この慈悲、この助けを拒否することなく、あなたのものにいてください。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
ビルマ
戦犯者の獄中記 (66) 遠山良作 著
10月11日
―「メイミヨー」の公判廷―・・・1・・・
運動のために外に出る。雨期も終わったのか、今日の空は高く、澄んでいる。すがすがしい内地の秋空が思い出される。灰色の壁に囲まれた薄暗い独房とは全く異なった外の空気は甘くおいしい。塀の片隅に生えているトマトの小さな青い実が光っている。誰も、もぎ取ろうとしない。みんなこの小さな一本のトマトに慰められているのかも知れない。
この狭い庭を僅かな時間であるが歩きながら、友と語るひとときは楽しい。またいろいろな話をする場でもある。山田大佐は、岡田通訳から聞いたと言って、次の話をしてくれた。メイミヨーの公判廷で「カーサーケース」として清水中尉、菅原准尉、橋口曹長、光安曹長の4名に死刑の判決があった。この即決囚をメイミヨーからラングーンに移送途中、光安曹長が逃亡したのである。手錠を掛けられたままよくも逃げられたものである。逃げるからには背後に彼を助けてくれる現地人がいなければ不可能である。どうか無事に逃げてくれ、と祈るのみである。
5月(22年)からラングーンの法廷の外に「メイミヨー」にも戦犯者を裁く法廷が設置され、ビルマ北部に於ける事件はこの法廷で裁判をしている。今までにこの法廷で判決を受けた者はすでに17名であるが、全員が西独房に収容されているので、詳しいことは分からない。
11月3日
午後3時半頃である。一人の英人が私と、タキン党事件の関係者を呼び出しに来た。彼の後について行くと、メインゲートの横の広場に来た。そこには既にタキン党事件で死刑の判決を受けて西独房にいる東大尉たちが来ていた。数人の英人将校は緊張した様子で私たちの来るのを待っていたかのようにタキン党事件の確定判決文を読み上げた。
15年の刑から10年に減刑された。東大尉たちの死刑の確定は、予期していたとはいえ、ハンマーか何かで脳天を打たれたような気がした。この悲しみの中にも7名の友の減刑は喜びである。
死の宣告を受けた東大尉に、分隊長殿と手を差し伸べて何か言わんとしたが、あとからあとから涙があふれて言葉にならない。また何と言って慰めたらよいか、その言葉さえ見つからなかった。ただ「あとのことは心配しないで下さい」とひとことだけ言う。
東大尉は「遠山、体だけは大切にしろよ。日本に帰ったら1日に5分で良いから日本の国のことを考えることだけは忘れるな」と言われた。中山少尉とも、涙で最後の別れをして東独房に帰った。
判決文死刑確定を平然と
読みあぐる英兵の 横顔かたし
言葉なく 堅き握手に別れきぬ
明日処刑の 東大尉と
死の決まる 宣言文を 聞きおわり
君は静かに 顔を上げたり
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・45
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・12 死とは自分のいのちがなくなることであり、そのいのちとは自分の存在を意義あらしめているものであることは、先述した通りです。そして、それは、自分の意識においての問題です。意識がない人には、死は問題になりません。肉体にしても、社会における位置などにしても、また家族などとの関係においても、そこにいのちを見出しているから、その喪失が意識される時に、その喪失状態としての死が問題となるのです。
そしてそれは「人間」という日本文字が「人と人との間にある存在」であることを示しているように、自分以外のものとの関係において始めて問題となるのです。全く孤立している人間というものはあり得ませんが、仮にあるとしたら、その人は生きている自分について何らかの意識を持つと言うことは有り得ないでしょう。
今あるわれわれというものは、今まで関わって来た他者との関係において造り上げられてきた自分であって、その自分が今の自分に対する判断を下すのです。「死んで花実が咲くものか」という判断はそれです。「もっと長生きしたい」というのも「この世に生きている方が良い」という価値判断、逆に言うと「死んだら何もかもおしまいだ」という価値判断があるからです。もっとも「こんなに芽が出ないのなら、見切りをつけた方が楽で良い」という判断もあります。
更には「死ぬことは益である」という聖書が告げている価値判断もありますが、要するにわれわれは、純粋に単純に自分というものを作り上げてきたわけではなく、殆ど自分以外の他者との関係の中で築き上げられてきている自分なのです。そういう既成の自分が、今の自分や変わって行く自分に診断を下すのです。「こんなに物忘れがひどくなって来たのではダメだ」とか「皺だらけになってどうしょうもないわ」などという自己意識を待つようになるのです。もし「だんだん物忘れがひどくなっていくのは高齢化の特権であって、若い時には忘れて良いものまで覚えていて、そのために禍が起きるのだ」とか「皺が増えるようになれば必死で人目を引くようにお化粧に時間や費用をかけることもないし、あるがままでいいのだから、こんないいことはないよ」とかいうような価値判断が自分の内に作り上げられていたなら自分についての否定的判断を下すことなどなくて済みます。
ところがどっこい、この世の中で主演を演じている価値判断は、どうもそれとは違うようですし、大勢の前にたじろいでしまうわれわれは、いつのまにか主流に押し流され、飲み込まれてしまうのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年9月のラジオ放送予定>
9月 4日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
11日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
18日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
25日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
第74課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・20・・・
B キリスト者の市民的義務・・・4・・・
13:1~2・・・4・・・
13:1で、パウロが「上に立つ権威」は、神によって立てられていると教えられていることを見てきました。すなわち、ある意味で、それは神のご意思に適って存在しており、神の許容と摂理によって存在しているのです。たといそれが御子を崇め仕えることをせず、その故に、神を喜ばすものでないとしても、神はそれが存続し、人間社会において機能することを許容しておられるのです。
「この聖句(1,2節)は、君主政治、貴族政治、民主政治、また、それらの変形のあらゆる政治形態の下で生きている人たちに適用されることができるのである。権威の座にある者は、どのようにして、また、誰によって任命されたにしろ、その領域内においては服従されるべきなのである。存続している限り、神によって任じられているのが、上に立つ権威なのである。パウロにとっては、ローマ皇帝が、上院によって、軍によって、あるいは人民によって指名されていると言うことや、シーザーが皇帝権を持つのが正当かどうかということや、シーザーの後継者たちが正当な権威継承権をもっているかどうかということなどはあまり重要ではないのである。
彼が意図していることは、為政者は服従されるべきであるという単純な原則を提示することである。この服従の限界は各々の場合の性質から決定されるべきなのである。彼ら為政者たちは合法的な権威を行使する限り、服従されるべきなのである。パウロが妻たちに夫たちに従いなさいと命じる時、妻たちは夫としての彼らに従う事を求めているのであって、事業主とか君主とかのように、彼らに従うことを求めているのではない。子供たちは親としての親たちに従うことが求められているのではない。他のすべての場合においては、決して強力なものではない。・・・私たちが為政者に服従するのは彼らがその権威を神から受けているからである。政府というものは、神的制度であるばかりでなく、その政府が存続している形態や、その働きによってその政府が機能を果たしている人物などは、神の摂理によって決められているのである。どのような程度の為政者であろうと、すべて神の指定により行動しているものと見倣されるべきである。神が個々の為政者を指名されるということではないが、その為政者が存在すべきであることが神のみ旨であるからには、実際に権威をまとっている者はすべて、服従を要求する権威を持っていると見做されるべきであるというのが神の御意思なのである。
この聖句の命令には、服従そのもの範囲には限定はあるにしても、服従の対象に関する限り、限界はないのである。すなわち、私たちは現在上に立っているすべての権威に対して、それらの権威が合法的であろうと見做されたものであろうと、正当であろうとなかろうと、服従すべきことが命じられているのである 。実際に君臨している皇帝は、ローマのキリスト信者たちがその王権についてどう考えようと、彼らによって服従されるべきであった。しかし、もし、皇帝がその権威の範囲を越えて、偶像を礼拝することを要求するならば、彼らは人に従うよりは、神に従うべきであったのである。これこそ、すべての人間の権威の限界なのである。人間の服従が、神への服従と対立するときはいつでも、不服従が義務となるのである」。(C・ホッジ)
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」