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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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    ほっとひととき『みんなのコーナー』       

 ☆ 親ばかになっていました。4月から仙台の大学に入って間もないのに、私の方は寂しくて、毎日メールしていることに気づき、我慢していましたが、初めての夏休みには帰ってくるとばかり思っていたところ、お友だちと旅行するのでの帰りませんと、短いメール・・・。何だかむなしい気持ちになっていましたら、下の娘に睨まれました。反省、反省・・・です。 愛媛県 T・Kさん

 ☆ ・・・今まで気づかなかったことがありました。それは「やっと今までの生活に戻れました。うれしいです」という言葉でした。毎日同じことを繰り返している自分の生活がつまらないものと思っていたからです。それが不満でした。「ふだんの生活に戻れた喜び」のあることを忘れていました。惰性、マンネリって感謝や感動する心を失うことなのですね。だいぶ前の事でしたか「喜び探ししませんか」というような言葉がはやったことを思い出しています。  神奈川県 Y・Sさん

 ☆ ペンタスという、お花の上に、黒い蝶々が来ました。花の蜜を吸っていましたよ。玄関のお花が何もないので切ろうかなぁ~、飾ろうかなぁ~と思っていたものでしたが、こうやって蝶などが蜜を吸いにやってくると言う事になると、お花を切る事は出来ないなと思いました。 三重県 N・Rさん

☆ 今日はたいへん暑い日でした。高校野球は、作新学院が栃木県代表です。ピッチャーの今井のスライダーが140Km/H後半のスピードで高校生には打てない球でしょう。今年の甲子園の県予選は、可能な限り球場に通い、日焼けしました。教会の会堂移転は、この夏過ぎからのようです。具体的に保証金額が提示されるでしょう。移転の場所はほぼ全員の同意が一致するところです。後は、間取り(牧師館・集会室を増設)をどうするかです。会堂が移転中に、仮の会堂についてどうするか具体化することです。栃木県運動公園の写真です。青空がとても夏らしいです。 栃木県 K・Eさん

 東京都で初めての女性知事が誕生しましたね。分裂選挙とも言われていましたが、地盤など関係なく選ばれたのが時代の流れなのですね。でも、私の所の村長選挙は、三バン(地盤、看板、カバン)三縁(地縁、血縁、腐れ縁)なのですうらやましいですね。 岡山県 K・Aさん

    東京の友人から、団地ではエアコンの排気熱で不快な暑さですとのハガキが来ましたが、私のところでは、稲穂が垂れはじめ、一面黄金色に染まり、秋の気配がしています。月末にはあちこちで稲刈りが始まるでしょう。収穫は恵みですね。 兵庫県 K・Yさん

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  『ありがとうございます』

 観光地では花火大会が盛んに行われていますが、秋を迎える感じがいたします。高知県のT・Tさんからの暑中お見舞いのはがきの中に「自分は毎日海岸へ行って木クズ集めをしております」とありました。心の健康・お体のための日々にT・Tさんの信仰生活を見させていただきました。社会貢献と言う言葉では言い表せないものを感じました。 
 ご近所の庭の軒先の朝顔が二つ咲き残っていました。秋風に今にも振り落とされそうな感じに、季節の流れを感じました。まだまだ、残暑の日々です。ご自愛をお祈りいたします。

2016年7月16日から2016年8月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者です。

長津 栄様 富井悠夫様 宇佐神正武様 鶴原澄子様 宮川真澄様 和田順一様 和田貴美子様 中田裕也様  匿名3名様

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

 今月のことば

さまざまな違った教えによって、迷わされてはならない。

 ~へブル13:9~

思想・信教の自由は保障され、尊重されなければならない権利です。しかし、その尊い権利の衝突で争いが起きてきたのが人類史と言えるでしょう。新しい思想は、人を引き付ける魅力、魔力を持っています。

私たちの社会は、流行という魅力、魔力で動いているかのようです。新しい商品、奇抜な発言、常識という枠を超えたものに、心惹かれるところがあります。時代の潮流という力もあります。そのような中にある私たちは「間違った教え」か「真理か」の判断を求められています。

私たちの教会生活も、流行の精神や人々の潮流に屈しているところがあります。「その時代の常識」という言葉は、時に判断を迷わします。「さまざまな違った教えによって、迷わされてはならない。」との警告を謙虚に受け止めなければなりません。「あなたがたは、ゆらぐことなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである」(コロサイ1:23)と警告されています。

キリスト教会は保守的で、変化に乏しい。もっと時代の先取り、社会のオピニオンリーダーであるべき使命を帯びていることを自覚し、自己変革すべきであるとも言われます。しかし、キリスト教会が保守的とみなされる時、古ぼけた形式に固執しているからではなく、むしろ古くならず、変わることなきものに―すなわち、永遠の財産に固執するのです。形式という点では、キリスト教会は、どれほど近代的でも、時代と世界と共に歩んでも不変のものがあります。教会は「使徒信条」に固執します。イエスが救い主であることに固執するのです。すなわち、不動です。

教会は祝福された頑固さを、喜びの使信として告白し続ける時、その真理のゆえに「地の塩、世の光」として、独善に陥ることなく謙虚に世に奉仕する使命があります。これは、キリスト者一人一人の使命でもあります。  

 

   小閑記 

 なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費やし、飽きることもできぬもののために労するのか。

 わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物をたべることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

   ~イザヤ55:2~ 

 誰でも心正しく、神との平和を得、救われているという確証を得たいと求める者は、救われていると信じる前に、自分自身が今ある姿とは違っていなければならないと考えるようです。しかし、自分で自分を改善・改造しようとして試みるわざは、常に行き詰まります。

 神様は止めるように言われるのは、このことです。お金を費やし、報いのないもののために労することを止めて、主に聞き従うべきであります。わたしたちが真に聞くところは、わたしたちにいのちの力を与えるものです。

 イザヤ書55章の3節にはわたしたちがよく聞き従うならば、主がダビデに与えられたと同じ恵みを与えようと言っておられます。そこで、主がダビデに賜ったみ言葉を聞いてみましょう。そしてそれらは神より、私たちへ下さったものと受け止めましょう。

 ダビデは罪を犯し、その罪を告白した時、神はダビデに語られました。

 「わたしはあなたの罪を除いた。あなたは死ぬことはないでしょう」と。ダビデは、この言葉を信じ、恵みが現わされ、救われました。

 わたしたちが罪を犯して、神に告白する時、神は同じ言葉を語ってくださるのです。このみ言葉を聞いて受け入れましょう。そうすれば、わたしたちもまた恵みを受けるのです。わたしたちも救われるのです。

 神はこのように、平和への道と、救いの確かさへの道を明白に、目の前に置いてくださいました。

 それを受け入れ、信じるか否かは、わたしたちの決心にかかっているのです。

 

世田谷通信(155)

猫 草

本の引っ越しは重い!のである。勤務している図書室で、棚が古くなって破損し、他の学校に譲ってもらった本棚と入れ替えることになった。まず中の本を出して、箱詰めしておき、地震対策で壁面と床に固定された棚を外して撤去。これだけで一苦労である。なにせ図書館用品は堅牢に作ってある。その気になれば私でも破壊できる組み立て家具とは物が違う。数人がかりで台車やらなんやらフル活用してやっと運ぶ。新しい棚を入れるのも同様。すっかり腰が痛くなる。

さらに、主人もオフィスの引っ越しで、段ボール約80箱もの本を運ぶことになった。研究者の商売道具なので仕方ないが、それにしてもざっと数えて50007000冊。ハードカバーは、同じ冊数でも児童書の倍はある重量感。運搬はもちろん業者さんだが、棚出し箱詰め、2階から玄関先まで運ぶのはこちらの仕事である。長男にも手伝ってもらってなんとか運ぶ。リビングは段ボールだらけ。運送業者さんにも、これ全部本ですか?とあきれられる。

それを新しい職場の棚に並べる。ジャンル別にといってもNDC(日本図書十進分類)で言えば、ほぼ全部「5」類である。箱を開けて並べて箱を解体して・・と無言の作業。途中で隣の研究室の先生がのぞきに来た。その方の部屋を見せてもらうと、両壁面に天井までの巨大な本棚が一体型でくみ上げられて床にボルトで固定されている。すさまじい収納力。ぱっと見て2万冊はある。あの天井付近の本、置いたが最後二度と見ないのでは?そしてこの方が引っ越しするときにはさしもの運送業者さんも泣くだろうな。

連日の本の引っ越しであちこち痛い。本好きの私も食傷気味。湿布を貼りつつ、半分ぐらい電子化できないのかな!とやけ気味に思うのである。

書店、出版社、図書館、或いは事務職で大量の書類を扱う仕事の方々を思いやるとしみじみする。本当に紙は重いですね!

*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 

   『美しい朝に』・・21・・

6月23日

 今朝は、弱い雨が降っていました。今日は、内科の検査の日でした。体重は、2か月でマイナス1キロはクリアでした。血糖値は、やや高めの155でしたが、ヘモグロビンA1Cが、5.9だったので良い数値でした。あと、5キロは体重を減らせれば薬をなくしてもカロリーコントロールだけでも、正常値をキープできるでしょうということでした。お祈りありがとうございます。

6月24日

今日は、大雨の1日でした。外へ出ることがなかったのですが、すごい「ザー」という豪雨の雨音が家にいても聞こえました。お医者さんもひと段落。2か月後の検査まで、しばらくは羽をのばして今夜は久しぶりのごちそうです。写メ送ります。

6月28日

今日は、朝も昼も夜も食欲がなく、かろうじて玉子焼きだけ食べれました。

夕方の5時まで、何も口に入れたくなくてお布団の中でした。動けないのですから、食べるのを減らすしかないと、お医者さんから言われています。

一応目標まであとマイナス5キロですが、あと、10キロは減らす方向でと指導を受けています。体重を減らさなくては血糖値は、下がりません。しんどくて食べれない日は、「断食」だと思っています。

7月4日

今日も真夏日です。昨日全国で800人弱の方が熱中症で、病院に運ばれたとかニュースでしていたようです。「お塩」をなめたり、スポーツ飲料を飲むのが予防にもなるみたいです。6月30日(木)から、眠剤の服用を止めて今日(7月4日)で5日目になります。依存性の強い薬なので、止めるとやはりだるくて辛いです。今夜まで頑張れたら、明日から2種類のうち1錠だけ服用するつもりです。2錠→1錠にして寝れたら、それだけでも感謝です。

この暑さの中、頑張っておられる方々のためにお祈りいたします。

7月9日

今日は、雨の予報でしたが今は晴れています。7月7日に、娘がカップちらしずしを作った写真を送ってくれました。こんなふうに盛り付けをかえるだけで素敵になるのですね。見ているだけで食べたくなりました。おすそ分けのおすそ分けです。

7月11日

今日も良い天気です。タオルケットも洗濯できました。昨日は、選挙の投票に行ってきました。18歳からの選挙権で、初めての投票の人もおられますね。

雨だと無理かなと思っていましたが、晴れていましたので自転車で行けました。膝が悪くて、歩くのはかなり痛いですが自転車はだいぶ乗れるようになりました。右脚には、力が入れられませんがペダルに足は浮かせてのせれるようになり感謝です。

今日(11日)から、夏祭りで「だんじり」の音が朝早くから聞こえています。12日・13日と「だんじり」が走りまわります。13日が宮入で結構大勢の人が見に来られます。家が神社から近いので、家の近くから屋台がでます。「だんじり」の音は「夏本番」という感じです。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

  その愛のゆえに

   =時々の記=

      (112)

619

 今日も一日雨の降ったりやんだりのややこしい梅雨空でした。そのような中、元気をくれるのはやはりアジサイの花です。この頃はアジサイにもたくさんの種類があるようで、ご近所のアジサイの新しい品種には、はっとさせられます。お花も次々と改良されて珍しいものが人気を呼んでいるようです。我が家の庭には従来通りのものばかりです。なんら変わり映えのしない庭です。
 蕗の皮むくや古(いにしえ)人思ふ。
 ポプラの葉奏づる音や風薫る。
 西行も夕焼けを斯く(かく)眺めけむ。
 多羅尾超ゆ京への道の青嶺(あおね)かな。
 梅雨寒しラジオのジャズにくつろぎぬ。     馬場路哉
ぎっくり腰で痛んでいる主人の腰は太い腰を支えるベルトで何とか支えられているようです。明日から毎週のように土曜、日曜と草刈、路作りの「出会い」があります。それに耐えられるか心配です。できるだけのことをして、許してもらいたいものです。毎年何人かは無理をしてけが人が出るのです。とても急な斜面はスパイクのついた地下足袋を履いていかなければ滑ってしまいます。このような危険な草刈りは加齢に伴って皆しんどがっています。
7月2日

 アジサイや大海原の色となる。
 谷間(たにあひ)に笹百合見えず過疎の村。
 朝まだき懸命に鳴く燕(つばくらめ)
 故郷に帰って摘みぬ花あざみ。
 ぬた場とはなってしまひぬ草を刈る。(家の周りのすぐそこまで猪がやってきて、大きな穴を掘りすみかにしています。その猪の掘った穴のことをここら辺ではぬた場というそうです。)            馬場路哉
 今朝も大雨の中高齢者の男性たちは、路の草刈に出かけました。二時間ほどで帰ってきましたが合羽を着ていても、隙間から雨が入り込んで大変だったといって帰ってきました。70歳以上の男性たちですが皆休むことなく草刈りに精を出していたというのです。田舎の高齢者にも大変なところがありますね。
7月7日

 おはようございます。こちらは今朝も雨が降っています。台風がもうやってきているとのこと、それが前線を刺激しているようです。
 橋たもとしばし留まるカジカ笛。(かえるのこと)
峰の木々殊に揉まれぬ青嵐。
子ツバメのぶつからず飛ぶ狭庭かな。
荒梅雨や合羽を着たる道つくり。
早朝の楽器練習音涼し。
生垣に見ゆ走り萩小紫。     馬場路哉
ようやく歯科医院の治療が終わってほっとしています。でも、これからは,歯の矯正を行う必要があるとのこと。大切なものですから主治医の先生に従って矯正をしてもらうことにいたしました。
 私は少し疲れ気味です。ぼちぼち、焦らずにできることからやっていこうと思います。
 馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会」

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (48)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

第22章 合法的宣誓と誓願について・・3・・ 

5 誓願は、約束的宣誓と同じ性質のものであり、同じ宗教的注意をもってなし、同じ忠実さをもって履行すべきである(1)

  1 イザヤ19:21、コヘレト5:3-5(4-6)、詩61:8(9)、詩66:13,14

五 請願も宣誓と似ている。特に約束的宣誓との区別はつけにくい。マルコによる福音書6章26節にあるヘロデがバプテスマのヨハネの首を切らせた時の場合、どちらに入れるかは少し判断するのはむずかしい。しかし、パウロが誓願に従ってケンクレヤで髪をそった(使徒18:18)のは明白である。

6 誓願は、どのような被造物に対してもなすべきでなく、神のみになすべきである(1)。そして誓願が受け入れられるためには、自発的に、信仰と義務の良心とから、受けたあわれみに対しあるいはわたしたちの必要を得たことに対する感謝として、なすべきである。それによってわたしたちは、しなければならぬ義務や、適切にその助けとなる限り他の事柄を、一層厳密に果たすことを誓うのである(2)

  1 詩76:12(11) 、エレミヤ44:25,26
  2 申命23:21-23(22-24)、詩50:14、創世28:20-22、サムエル上1:11

    詩66:13,14、詩132:2-5

六 宣誓は、他人との問題で神を証人に呼ぶことであるが、誓願は神と自分との間のことである。「あなたがたの神、主に誓いを立てて、それを償え」(詩編76:11)。また、それは主として、特定な恩恵に対する感謝の表明の一種である。即座に感謝献金するのではなく、一定の期間の予約を申し出すようなものである。もちろん、教会を相手とすることではなく、神への誓いである。従って、普通の場合以上に約束に反することは許されない。

7 だれでも、神のみ言葉が禁じているどのようなことをも、あるいはそれが命じているどのような義務を妨げるようになることをも、あるいは自分の力の中になく、その履行のために神から約束や能力を得ていないことを、果たすと誓ってはならない(1)。これらの点において、終生の独身、公約した貧困、修道規則への服従という教皇主義者の修道誓願は、より高い完全の度合であるどころか、迷信的な罪深いわなである。キリスト者はだれも、このことにかかわり合うべきでない(2)

  1 行伝23:12,14マルコ7:26(*)、民数30:6,9,13,14(5,8,12,13)
     *マルコ6:26が正しい。

  2 マタイ19:11,12コリント7:2,9、エペソ4:28ペテロ4:2コリント7:23

七 ローマ・カトリック教会では、信徒として最高の徳と考えられているものが、実は大きな迷信であると断定されている。それは創造の秩序にも、罪ある人間性にも、無理な事柄である。AAホッジは、聖餐式には誓願の要素が含ま れていると註解しているから、受洗、結婚、任職などは、すべて宣誓的要素があると言える。

 小会戒規の場合、誓いという文字が使用されているにすぎない。異教の「願をかける」や「神にかけて誓う」という考え方には明らかに功利的な、また招魂的な、迷信がひそんでいる。このような要素を排除するとき、果たして宣誓や誓願の実用的意義がどれだけ残るのか私には疑わしい事柄であると思う。

 

 

さんびか物語・・・29・・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・28     

 ポ―リン・マカルピン著

       (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌292番

 はてしも知れぬ

<神様のみ言葉>

「夕方になって、イエスは弟子たちに『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、船に乗っておられるままで、イエスをお連れした。・・・。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。

ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」。

~マルコの福音書4章35節~39節~

讃美歌292番“はてしもしれぬ„は、水夫たちのために書かれたと有名な讃美歌であるとE・E・ライデンという人が言っています。なるほど、この讃美歌では、人生を一つの航海にたとえていますが、この航海をしているのは、水夫ばかりではなく、浮き世の荒波を渡っているあらゆる人々もそうであります。今、あなたもその船に乗っています。そうして、険しい人生の旅路を経験している私たちに、この讃美歌は、いろいろな非常に大切な教訓を教えてくれていると思います。その意味でこの讃美歌を共に考えてまいりましょう。

作詞者エロワード・ハパーは、長年の間ニューヨーク港にあったChuruh of the ea and and(海陸教会)の牧師として、特に水夫たちのために牧会を続けていました。ハパーは、1818年2月17日ニューヨーク市で商人の息子として生まれました。彼はニューヨーク大学とユニオン神学校を卒業後、まずニューヨーク州のグルーンビィル長老教会、またロングアイランドのセーグ・ハーパー長老教会で牧会の任務を果たしました。

彼は1870年からニューヨーク市に戻り、そこで水夫たちを相手に、心臓発作で亡くなる1888年まで、熱心に牧会伝道を続けたのであります。彼の多くの詩や讃美歌のほとんど全部、名前を付けずにペンネームで発表されていました。なぜでしょうか。

 この292番の“はてしもしれぬ„もやはり無名で1871年3月3日にSailors Magazinenに初めて発表されました。また、その同じ年に無名でバプテスト派の讃美歌集にも収められていました。

ハパー自身は数回にわたってこの歌詞を改訂して、1880年に最後の手を加えてから、自分のものとして発表しました。この改正した歌詞は、1880年5月10日、ニューヨーク市の大きな教会で、アメリカ水夫の“友の会„の52周年記念会で初めてうたわれたものであります。ハパーは、最後の改正で原作の2節と3節を省略して歌詞を6節から4節に短縮し、言葉も少し変えました。しかし、おもしろいことですが、今の英米の讃美歌集には、この原作、つまり1871年の歌詞の1節、5節と6節だけがこの讃美歌の歌詞として発表されています。結局、今日では原作の最高のところを原作のままで、人々に好まれていて、この美しい讃美歌は広く知られています。

292番の曲PILOT(水先案内者)は、ジョン・E・グードルの作曲であります。この曲は1871年に作詞者無名のJesus Saviour Pilot MeにあわせてThe Baptist Praise Bookという讃美歌集に初めて発表されました。

ジョン・E・グードルはメイン州のバンーガで1822年に生まれました。彼は小さい時から音楽に対して大きな興味を持ち、作曲をはじめ、まだ30歳にもならないうちに楽器店を開き、エドワード・L・ホワイトと一緒に音楽の本を4巻出版しています。

彼は1852年にニューヨーク市に移り、ここでも楽器店を経営しながら、もう4巻の音楽の本を出版しています。その中に50曲ほどはグールド自身の作品でした。グールドは結婚してフィラデルフィアに移ってからも、もう一人の作曲家W・G・フィシャーと共に楽器店を共同経営するかたわら、合唱団を指揮したりしました。しかし彼は、健康を害したために暖かい南ヨーロッパや北アフリカの方へ旅行に出かけたりしましたが、北アフリカのアルジェリアのアルジェで1875年3月4日急死しました。

彼が出発する前の晩に、このPILOTをピアノで弾いたそうですが、あくる日が彼の最後の人生の航海への出発とは夢にも思わなかったことでしょう。彼の場合でも私たちにいたしましてもこの“うき世の海のはて„は、ほんとうに‟知れぬ„ものでありますから、ハパーが歌っていますように、‟たしかな水先のしるべ„である主イエス・キリストに依り頼むべきであります。

この讃美歌の背景にあるのは、マタイの福音書やマルコの福音書にある有名な物語であります。

イエス様がガリラヤ湖をお渡りになろうと舟にお乗りになりました。すると激しい暴風が起きて、舟は波をかぶって、水で一杯になりました。ところがイエス様だけは、ともの方で眠っておられました。弟子たちは、イエス様を起こして言いました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」。そこで「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、『黙れ、静まれ』と言われると風はやみ大なぎになった」とマタイの福音書8章23節以下やマルコの福音書4章35節~39節に記されています。

<292>

 1 はてしも知れぬ うき世の海の

   あさせあらなみ いわおの中を

   主よ、水先の  しるしたまえ。

1節で作詞者が描いていますのは、うき世の海の恐さであります。人生は大嵐の中にあるようなもので、私たちは一寸先のことすら知ることも察知することも出来ない者であります。ですから、私たちの人生の航海において、しばしば船を難破させる、危ない浅瀬や岩を発見できずに迷いや悲しみ、苦しみに沈むのであります。このような、か弱き私たちに、何よりも必要なものがたしかな水先案内人であります。ハバーが歌っていますのは、‟海図や羅針盤はあなた(イエス・キリスト)のものであり、救い主なる主よ、私の水先案内者になってください„と歌っています。

人には、いつかは大嵐が襲って来るものです。それが、何時であるかは分かりませんが、今日無事であっても明日はどのようなことが起こるかはだれ一人知りません。

このような私たちのなすべき備えは何でしょうか。それは、大波をかぶる前にゆるがぬ岩、たしかな水先のしるしを求めるべきことではないでしょうか。では、その水先案内者はどこにおられるのでしょうか。そうです。主イエス・キリストを他にして、どこを捜しても決して見出すことはできません。どうぞあなたも、イエス・キリストをあなたの拠り所、水先案内者になさってください。

 2 母のみどりご ねむらすごとく

   みこえしずかに あらしをおさめ

   主よ、水先の  しるしたまえ。

2節では、実に美しいたとえをもって、主イエス・キリストの私たちに対する守りと愛を歌い上げています。母親がみどり子を静かに眠らせるように、主イエス・キリストも私たちを見守っていてくださる、と歌っています。イエス様は逆巻く嵐をも静め給いましたが、私たちの人生に襲いかかって来る苦難という嵐をも静め、取り去ってくださるお方であられます。

原作では、救い主なる主イエス様は、ただ嵐を統め給うたと歌っているのではなく主は嵐をも静め給う力がおありになるお方であるということが強調されています。主が波に‟黙れ静まれ„と云われた時、嵐と波は創造主なる主に服従し、主が私たちの心にある嵐をも静めてくださる、力あるお方であることを認め信じることこそ大切であります。

 3 さしゆくはまべ まぢかくなりて

   磯うつなみの 逆巻くときも 

   主よ、水先の  しるしたまえ。

3節では、人生の終わり、つまり死が忍び寄ってくるときの場面を歌っています。私たちの人生の長い航海が終わって到着の浜辺に近づく時、私たちに力と希望と確信を与えてくださるのはどなたでしょうか。それは、私たちのために死に給うたお方、その死からおよみがえりになられた主イエス・キリストであります。死に打ち勝ち給うた主には、イエス様を救い主と信じる人に、死よりの勝利をお与えくださる資格がございます。

原作では、この讃美歌は“恐れるな„というキリストのお言葉で終わります。主が私と共におられますから、死をも恐れず、み手に引かれて無事に安全な港に導かれることを確信しているのがクリスチャンの信仰であります。あなたも、この信仰をお持ちになってください。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなた(主)が私とともにおられますから」(詩編23編4節)。 

 

―落下傘諜者を追跡して・・6・・

 これではB村に着くには夜になっても到着しそうもない。やむを得ず木を切り「イカダ」を組んで銃、衣類、食料を積んで裸になり「イカダ」につかまって下流に向かって泳ぐことにした。時は雨期である。茶褐色の河は水かさを増し、ゆっくりと流れている。30分も河に漬かっていると体が冷え切ってくる。そのたびに上陸しては焚火で体を温めては又泳ぐのである。3時間くらい泳いだと思う。

 ようやく目的の部落が見えた。突然、バリバリと凄まじい大きな音に度肝を抜かれた。その音は40頭くらいの象の群れであった。部落民が作っていた陸稲を食べていたところを、突然現れた私たちに驚いて逃げていく音であった。

 この部落には人一人住んでいなかった。再び「イカダ」につかまり、下流にある部落にたどり着いたときは、すでに日は暮れていた。ここの部落民に、B村より「イカダ」を組んで泳いできたことを話すと、驚いて「この河にはワニが棲んでいる。マスターたちは運がよかった。水浴する水牛など、14フィート(4メートル位)もある大きなワニに襲われることがある」

「だけどワニなど1度も見なかったよ」

「ワニは通常川底に潜んでいて獲物が来ると川底に引っ張り込んでしまう」と言う。ワニがいるとは知らずに泳いだ河は忘れられない。

 この捜索にはいろいろの思い出がある。或る部落では、生まれたばかりの子象を毎晩襲いに来る虎から1ケ月も守った親象の話も聞いた。

 逃げた彼らに関する情報がぱったり途絶えて久しく、タイ国に逃亡したとの情報もあったので、象を雇い背中に荷物を積んでビルマとタイ国境にそびえている嶮しい山脈を越えてタイ国境まで捜索に行ったこともあった。

 この捜索が私の裁判の証人として立ってくれた警察官であったチヨミー、アオンチーたちとの出会いでもあった。

 *文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・44

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・

答・・11 体は生きていても、存在意味は見出せないとなれば、そういう自分に見切りをつける、ということでしょう。そして、これは、自分を取り巻く人々との関係の中、もっと広く言えばこの世の中での、人間存在についての価値判断、特に今日では有用性ということと結びついてのことと言えます。「役立たず」ということが、人間の存在意義を失わせるものであるなら、様々な面での役を担って来て、それを生きていることの拠り所としてきた人にとっては、その力の喪失が自己自身の喪失となるのは当然の帰結です。

 そういう場合に「いや、そんなことでわたしは失われはしない」「どっこいオイラは生きている」と言うことが出来る人は、この世の価値判断の中にいながら、それを超えたところに自分の拠り所を置いている人か、一旦死に体となった自分に新しい生き体のあることを見出した人であるかのいずれかでしょう。

 「生々流転」といい、「世は移りゆくもの」とも言われて来ました。聖書は「世と世にあるものとは滅び失せる」と告げています。この世だけでなく、その中にある自分が、移りゆくどころでない、滅びるものであることを踏まえるなら「いのちとは何ぞや」「死とは何か」ということが、改めて問われているのではないかと、思います。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2016年8月のラジオ放送予定>  

  8月 7日 岩淵 正樹  (日本基督教団高蔵寺ニュータウン教会牧師) 

    14日 岩淵 正樹  (日本基督教団高蔵寺ニュータウン教会牧師)   

    21日 田口 博之  (日本基督教団名古屋教会牧師) 

28日 田口 博之  (日本基督教団名古屋教会牧師) 

       (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 
 

第73課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・19・・・

B キリスト者の市民的義務・・・3・・・ 

       13:1~7・・・3・・・

主イエス・キリストである神の御子に授けられた権威と、獣に与えられた権威との間には、中間地帯的な権威の領域が存在します。その領域の権威は、ある意味においては、神から出ており、神によって定められていますが、最高の意味においては正当ではなく、神を喜ばせるものではないのです。現世に存在するが、主イエスを認めず、それに従わない政府の権威がそれであります。非キリスト教的政府は、最高の意味においては、神によって認められているものではなく、神に喜ばれるものではありません。

その理由は、彼らは詩編2:10~12に命じられているにもかかわらず、神の御子を認めず、それに従わないからです。他方、現世の政府と黙示録13章の獣の王国との間には大きな相違があります。現世の政府はキリストを崇めることをしません。しかし、一般的な意味においては現世の政府は市民政府としての機能を果たしています。

即ち、法律を維持し、秩序を保ち、犯罪者を取り締まるなどです。彼らが政府としての適切な機能を果たしている限り、それは神によって認められているものであって、その法律に従うことは、私たちの義務なのです。神の摂理のうちに、それは私たちにとって、上に立つ権威なのです。

 

パウロは13:1~7において世界に現存する非キリスト者政府のことを言っているのではなく、未来の理想的なキリスト教的政府のことを述べているのであるという人がいます。この理解は大いに誤っています。パウロは現存する政府のことを言っているのです。ギリシャ語は明らかに現存する権威を意味しているのです。

この言葉は現存しない未来の理想的政府を意味するのではない。唯一の解釈は、パウロはこの手紙を書いた時、現存していた政府(ローマ政府)について述べているのです。彼は一貫して現在形を使っています。読者に現存する政府に服従し、税を支払い、服従することを命じているのです。読者たちに服従せよと命じられているのは、その時代に存在していた政府なのです。

J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
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