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ほっとひととき『みんなのコーナー』
☆ 急に暑くなりましたね。体力のない高齢者にはつらい急激な高温・・・。避難所におられるご高齢の方が心配です。私たちも高齢者ですが、主人と手の付けようもない部屋の中を何とか、片付けようとしていますが作業はなかなか進みません。梅雨入り前には何とかしたいのですが、思うように進みません。車でファミレス行きの夕食の毎日です。ご家族づれが多いです。余震が怖いです。 熊本県 M・Yさん
☆ 最近、食欲がありません。何時も車酔いか船酔いみたいなのです。大きな地震の後、小さな余震でも過敏な体の反応で、怯えてしまい眠れないのです。これは私ばかりではありません。本当に辛いです。精神科で薬をもらっていますが、良くなりません。主人もお酒の量が多くなり心配です。毎日、何度もメールしてごめんなさい。 熊本県 M・Rさん
☆ 全壊した家から荷物を運びだすなどして1カ月があっという間に過ぎてしまいましたが、気が張っていたのでしょうか、少し落ち着くと、一日が長く感じます。そうなると体調を崩したり、他人を羨んだり、人の笑い声を責めたくなったりする人も出てくる感じがしてきます。私の周りには顔なじみの人がいるので、町民が協力して復興に取りかかることが大切と話ができます。 熊本県 A・Sさん
☆ 介護の仕事をして13年目になりました。多くの方をお送りしましたが、何年目だったでしょうか、疲れて椅子にもたれていた時です。Aさん、何時もありがとう・・・・。迷惑ばかりかけているよね。大きな声を出しても、優しく、どうしたのと声をかけてくれたでしょう。うれしかったよ・・・と手を握ってくれました。そのおばあちゃんの一言が、今も心の支えになっています。仕事もきついです。給与も低いです。でも、あのおばあちゃんの言葉は、私のすべてを吹き払ってくれました。若い職員さんに比べのろまになりましたが、これはお年寄りペース・・・だよう~と過ごしています。きっと同じ仕事の人や、ご家族を介助されている方も『何時もありがとう』で、笑顔になれてると思います。 香川県 A・Uさん
☆ 緑濃い山郷です。田植えも終わり一番きれいな時です。待ちに待っていたホトトギスが澄んだきれいな声を響かせているのが聞こえました。主人とお茶を飲みながら穏やかな時がとてもうれしい瞬間です。 和歌山県 T・Sさん
☆ 高校受験を控えた息子が中学の授業では理解しづらく塾に通いたいと言うので希望を聞いていますが、周りのお母さん達と同じく、学費の高さに目が回ります。中学の真横には図書館があり通える時は週一回でも充実した施設で利用するのですが、子ども達はそういう場で自習出来ないのかと 大変残念でなりません。私もそれほど難解な書物を読み解く事は出来ませんが、努力と熱意と疑問を持ち続ける事で何とか学習意欲を保ち続けていました。たとえ勉強に真面目に取り組んでいても、携帯やお小遣いが無いと困る最近の若者の感覚は 便利な毎日に適応する為なのでしょうけれど勉強はすべき事であり、ご褒美を貰う為の行為では無い事を理解して欲しいです。 私は昭和の頑固なお母さん像を貫いています。 奈良県 N・Rさん
☆ 梅雨入りになりました。お祈り感謝いたします。ちょうど体調を崩しており熱と酷い咳をしている時期でお礼の返事をするのが遅くなって本当にごめんなさい!!長村さんは相変わらず痛みを我慢しながら頑張っていらっしゃる様子。少しでも楽になって欲しいのにと歯痒い思いになります。私も4月は本当に痛みが酷くて、苦しくて毎年の事とはいえ少し気持ちが落ち込む事もありました。5月に入りやっと軽くなってきているので、それだけでも有難い気持ちで幸せです。新学期になり、新しい学生達となんとか楽しくやっています。必要とされている事が痛みがあっても仕事に行けるパワーなのかもしれません。・・・。 長崎県 M・Fさん
☆ 壊れた屋根瓦の隙間から庭のアジサイが花を咲かせてくれました。梅雨入りで、片付けが遅れると暗い気持ちになっていた私を励ましてくれたアジサイに、あたたかい気持ちをもらいました。雨もまた恵み・・・なんて言えませんが、うれしくなり、メールしました。 熊本県 K・Oさん
☆ おはよーございます。今日は曇りで、雨が降るかもしれません。 気温もやや低め 田んぼは田植えが終わり 雨もお日様も欲しいと言うのがお百姓さんの望みでしょう。私のところも終わりました。地割れで何もできないところもありますが、この地域はそれがありませんので、一安心です。 大分県 Y・Oさん
『ありがとうございます』
・・・。5月号の「ありがとうございます」の中にありました佐賀の方のことを読んで、そうそう私もそんな経験をしたことを思い出しましたが、今まで自分の心の中にしまい込んでいました。改めて、故郷の魅力、日本の魅力、いやいや、身近なわが街の「魅力さがし」を始めたところです。新聞折込などにも面白いお店屋さんが沢山ありますと新潟のT・Tさんからお便りをいただきました。
「魅力探し」・・・ですか、面白いと思いました。皆さんの「魅力探し」をご投稿ください。7月号をお届けする頃には、「梅雨明け」や「深緑」という言葉が多くなることでしょう。健康に注意しながら、夏を楽しみたいと思うこの頃です。
2016年5月16日から2016年6月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付をいただきました。本当に感謝いたします。
森田英輔様 森本龍太郎様 村上さとみ様 馬場伸直様 馬場暁美様 匿名1名様
郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
わたしから離れては、あなたがたは何一つできない。
~ヨハネ15:5~7
私たちには、大切な時期があります。それは親元を離れ、自立したいという思いを持つ時期であります。何かが出来るというよりは、未知の自分への挑戦、時には冒険という大それた思いになる思春期から青年期です。これは、経験を積んだ大人でも言えることです。好奇心、向上心、想像への思いでもあります。
人は、イエス様から離れていても、様々なことが出来ると思います。結婚もできる。家庭を築くこともできる。仕事に取り掛かることもでき、事業を起こすこともできる。
物事を想像し、新たな何かを作り上げることもできる。時には、争いを仕掛け、相手を支配することもできると思うのが私たち人間と言えます。むしろ、神なしに、生きることこそ自由な人間の幸福な姿と思うのも私たちです。
しかし、聖書は、イエス様なしには何もできないとことを示されました。
日々の生活の中で起きる涙や悲しみ、不安や失望、先の見えない孤独は、自立とともに、私たちの生活や心を支配します。実は、自立は、自分の無力を体験し、知るスタートでもあるのです。指針・目標なしに明日を生きることはできないのです。
聖書は、イエス様なしには、何一つしたこともない、したいことにすることもできない自分を知ることは、決して愚かなことではないのです。人間的な栄光に対しての神様からの愛の警告と受け止めるとき、この「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」というみ言葉は、真実を見つめさせ、少し腫れています、主イエス・キリストにあって今を、明日を、未来へと導くみ言葉として心に留めたい大切な「聖句」と言えます。
小閑記
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
~コロサイ3:15~
傲慢と猜疑心は、私たちを利己的にしています、と言われます。いつも何かを要求し、不平を言います。そのような心の我々の日々になにがあるでしょうか。数え上げたら際限なく湧いてくるのです。しかし、謙遜な信頼の心を持つ人、持ちたいと願う人は、感謝する道を見出します。
不平を言う人は、そのことに力や思いを用いるために、真の勇気を失い、働く力、人生を喜ぶ心を失います。そういう人は、人生は自分にとっても、自分とともに住む人にとっても、重荷となるでしょう。自分以外のあらゆるもの、あらゆる人に満足しないことを覚えることは何と簡単で容易でしょう。しかし、親切な気持ちを持ち、隣り人や家族に感謝し、その思いを神様からいただいた恵みと知るとき、「信仰の恵み」に感動します。
父なる神に感謝する、主にあることを知る―、これが神の力に至る道であり、幸いな生活の道であります。
私たちが日々活動している時、出会う人に、自然に「ありがとう」という言葉で満ち満ちているなら、何と幸いなことでしょう。毎日一緒に生活している人に対して、「感謝」することは何という喜びでしょう。
今病床にある方、熊本や大分で被災されている方々のことを思うとき、この今の困難な状況は本当に苦しい毎日でしょう。しかし、この試練に打ち勝つ力と時は必ず与えられます。困難や試練の次に来るのは絶望ではありません。「喜び・幸福・感謝」です。
不平の言葉や思いから解放されるなら、次は感謝する思いではないでしょうか。投げ出したくなる時もあります。生きる事に疲れを覚えるのも事実です。しかし、一番悲しいことは、「感謝することを」知らない人生、忘れてしまった人生ではないでしょうか。
今、私たちは生き、生かされています。この「今」をキリストと共に、人々と共に「感謝」を求めて生きませんか!!
世田谷通信(153)
猫 草
紙は「重い」というのは本や事務などに関わるすべての方の共通認識だろうと思う。今回の震災でも沢山の被害が起き、そして回復に向けた地道な作業の中で大量の書類や本の存在はずっしりと「重い」だろう、と想像する。
勤務している図書室では、破損した棚を、他の学校に譲ってもらった本棚と入れ替えることになった。新しい棚を買ってもらうなど低予算のご時世、最初から望まない。不要品の抽選に当たったのをまずは喜ぶとしよう。
古い棚の本を出して箱詰めし、壁面と床に固定された地震対策金具を撤去。なにせ図書館用品は堅牢。その気になれば私でも破壊できる組み立て家具とは造りが違う。大人数人がかりで台車や古毛布をフル活用してやっと運ぶ。すっかり腰が痛くなる。
さらに、同時期に主人もオフィスの引っ越しで、段ボール90箱の本を運ぶことになった。研究の商売道具なので仕方ないが、ざっと4000冊。ハードカバーの専門書は、同じ冊数でも児童書と比較にならない重量感。運搬は業者さんだが、棚から箱に詰め、玄関先まで出すのはこちらの仕事である。春休みで家に居た長男に手伝ってもらって運ぶ。リビングは段ボールだらけ。運送業者さんにも、これ全部本?とあきれられる。ごもっとも。
それを新しい棚に並べる。ジャンル別にと思ってもNDC(日本図書十進分類)で言えば、ほぼ全部「5」類である。しばし本を並べる無言の作業。途中で隣の先生がのぞきに来た。参考までにその部屋を見せてもらうと、両壁面に天井までの巨大な本棚が組み上げられて床にボルトで固定。すさまじい収納力。ぱっと見て1万冊はある。天井付近の本、置いたが最後二度と見ないのでは?この方が引っ越すときはさしもの運送業者さんも泣くだろう。
棚は綺麗になって大変使い勝手がよくなったのだが、連日の本の引っ越しで肩と腰と指と手首がぱんぱんである。この作業、日常的に新刊と差し替えをする巨大書店さんや日々大量の文書ファイルを扱う事務系の方々は延々とやっているんだよな。人類の叡智が詰まっているとはいえ、紙媒体は重い。さりとてすべて電子化すればすむ話でもない。紙が紙たる存在意義もわかっている。あちこちに湿布を貼りつつ、本の重量を一時的に月の重力ぐらいにできる技術を開発した人には私がノーベル賞をあげる!と半ばやけ気味に思うのである。
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
『美しい朝に』・・19・・
4月22日
大阪も、朝方降りそうな空模様でしたが、今はよく晴れています。地震にあわれた方の「メール」が「つのぶえジャーナル」宛に、届くようになったのですね。携帯が充電できたのか、電気が使用できるようになったのでしょうか。ニュースでしかわかりませんが、道路も寸断されていて新幹線もとまっているとか、飛行機はどうでしょうか。郵便物は、届くのでしょうか。
阪神淡路大震災の時、親戚も兵庫に多くいたので、家が全壊した知り合いも親戚もいました。20年も過ぎましたので、それぞれの時を過ごされたのでしょう。それでも辛い記憶はトラウマとなっている方もいますし、そのトラウマを克服した方もいます。被災されて、「今、どうなるか・・・」の不安は深刻だと思います。働く場所を失った方もいらっしゃると思います。病気をかかえてたりすれば、薬がなければ症状も心配ですし、お年寄りや小さい子供さんのことも気になります。どのように祈ればいいのかわかりませんが、それぞれの方の「道が開ける」ようお祈りします。
4月28日
今日は、内科の病院での定期検査でした。早く着いたのと担当の先生がいらっしゃったので、私は、今日はそんなには待ちませんでした。でも、3月末でやめられた先生の患者さんは他の先生が、診られるので問診から長くかかるみたいでした。
今回も、体重は0.5キロ減っていたのですが、血糖値は、高めで正常値の範囲を少し超えていました。前々回・前回と2回続けてこわい先生に「良くコントロールできています」とほめられたので、正常値になったと気が緩んでいたのかもしれません。また野菜を多く食べて、炭水化物は控えて、野菜ジュースも、もう少し続けてみようと思いました。
4月30日
我が家の玄関に何年越しで世話もしてないのに今年も花が咲いていました。感謝です。1つは、実家からもらったと思っていましたが、母は、「知らない」というのです。去年も咲いて「蘭ではないですか」と教えていただきました。
育てるのが難しいと言われている「蘭」が1年雨水で毎年咲いたのであれば不思議です。赤い花も、「カランコエ」だと思うのですが、咲いていました。
5月4日
昨日、久しぶりに天井がまわるような「めまい」がしました。だいぶ、落ち着いていたのでびっくりしましたが、気温とも関係するのかもしれません。暑いと頭も「クラッ」としますしね。いつも、お祈りありがとうございます。
5月6日
急に腕時計が止まってしまいました。1日中、腕時計をつけて時間を確認する私にとって、腕時計の故障は痛手です。今回は、はじめてソーラーの時計を買ったので安心していました。明後日出かけるので大変です。今、かろうじて動いている腕時計をはめてみましたが、大幅に時間が遅れるようでした。念のためインターネットで安い腕時計を頼みましたので、一応今日に届く予定です。
メガネでは視力は出ているのですが、網膜剥離のレーザーの手術を両目ともしているせいか、メガネで見ようとすると目が痛いのです。それで、裸眼で過ごしていますので、柱時計の数字が見えなくて・・・つい腕時計に頼ってしまいます。
5月9日
今日は、雨の1日。昨日は、天候に恵まれ娘夫婦と親戚の家に行きました。母の日でしたので心温まるプレゼントもいただきました。うれしいです。スムーズな運転になんか安心できました。懐かしい顔ぶれや新しい顔ぶれで楽しいひと時を過ごせました。九州のいとこの元気な顔が見れて安心しました。会社は熊本だそうですが、無事だったみたいで感謝です。心配していましたが、「ホッ」としました。転勤が多いので、違う場所でも地震にあってその時も大変だったようです。また、九州に飛行機で帰っていくようです。これからの熊本のことが守られるように願います。お食事したところのお花を写してきました。今日は、思いっきり寝たので元気が回復しました。
5月11日
大阪は2日連続雨降りです。天候が安定しないと、体調管理は思うようにいかないですね。家で普通に生活していてもそうなのですから、被災された方で、ご高齢の方の疲労やお子さんのいるお母さん方のしんどさは、はかり知れません。学校に行けていない学生の方々、仕事場のなくなった若者や成人の方々。また、若い人は、病気でも、「若いくせに」と周りから理解されにくく、白い目で見られてしんどい思いをしても、体調が悪いように見えなくても「私は病気なんです。」とも言えるはずもありません。ニュースでは、ペットと一緒で避難所に入れなかった人たちもいらっしゃったと聞きます。私の家でも18歳になる老犬は家族です。見捨てられるはずもありません。色々な辛さで、心に深い傷を抱える場合もありますので想像するだけで、全ての方の苦しみはわかりませんので、声なき思いや目に見えない弱者の方々のためにもお祈りしたいと思います。
5月12日
今日は久し振りに良いお天気です。すがすがしい気持ちがします。洗濯ものが良く乾きそうです。最近、ゴミ袋を荒らされる被害に困っています。犯人はカラスか猫のようです。ネットをずらしてゴミ袋を破ります。カラスや猫を寄せつけない方法を考えなくてはだめですね。今日も、昼から家で商品の登録作業があります。難病でも、仕事が与えられていることは、とても感謝です。
(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)
その愛のゆえに
=時々の記=
(122)
4月18日
長引く避難生活にお疲れを覚えておられる方たちに希望を持ってほしいと祈ります。派遣されている救援隊、支援者、医療団の方たちの上にも尊いお働きが最後まで全うできますようにと祈るばかりです。高齢者、障害を持っておられる方、乳幼児、弱者が守られますように!
老犬の散歩喜ぶ春の宵。
花ずおう吹き出でにける朝の雨。(花ずおうは去年の秋に苗木を買ってきて一度ダメになってしまったのですがこの春米粒のような小さな赤紫の花をいっぱいつけてくれました。)
膨らむる夢一つありシャボン玉。
松葉杖踏み出す一歩新樹光。
春光は施設の部屋に満つるなり。 馬場路哉
4月21日
野山の木々が久し振りの雨に洗われて、とてもうれしそうに生き生きとしています。シッカリ咲き誇っていたチューリップは葉っぱだけを残しています。
今は街路樹として植えられている、花水木がとても華やかです。これはアメリカから来たといわれています。そういえば一度だけアメリカに旅をしたときにこの花水木がとても華やかに迎えてくれたのが印象に残っています。
のどけさや葛城山を見はるかす。
菜の花や清明にして広ごりぬ、
芽柳や薄雲高く園広し。
蘇鉄の葉すっと伸びをり風光る。
樫落ち葉掃くや熊本地震(なる)を聞き。 馬場路哉
5月4日
穏やかに晴れわたって、午後からは28度まで気温があがりました。長そでをめくりあげての家事に追われた一日でした。緑濃い山並みに薄紫のツルが伸びた花が目に映ります。よーく見ると藤がツルを巻きながら大きく伸びているのです。
とても美しく見えるのですが藤に巻き付かれた杉やヒノキは瞬く間に弱ってしまうそうです。目に美しい藤が木にとっては大敵なものだそうです。野生の藤ですから勢いが強く、家の窓から見える一本の木はぐったりしています。
シャクナゲの早や満開の窪に住む。
藪陰や生花にせんシャガの花。
厚き葉に囲まれ、枇杷の芽吹けり。
渓谷に白々見ゆは楢若葉。
春光や天空溢れ零れける。 馬場路哉
よく五月病などという言葉を耳にいたしますが、この季節は何だか疲れ易くなるのです。季節の変わり目ということもあるのでしょうが、加齢の故でもあるようです。今年も、山添村の健康診断の予約票が送られてきました。総合的な検診ですから私はさっそく申し込みをいたしました。この歳になると何か、どこも悪いところがない方が不思議なことですから。
老犬のモモがほとんど水だけで一週間生き続けています。自分の足で歩くことはもうできません。私がお水を手ですくって口元まで持っていくと何とか水をなめてくれます。毎日朝、昼、夕とモモのところで過ごします。何も言えないのですが、うつろな目で私をじっと見つめてくれます。“どうしてこんなになってしまったんだろう”と思っているようです。
犬たちとのお別れがだんだん近づいて来るのがつらいのですが、15年もの長い間、我が家を守り続けてくれて有難うという思いでいっぱいです。
5月10日
道掃除出合ひ終われば春の雨。
きたる世も麗しきとも聖五月。
森林の池のほとりに余花のあり。
林なる若葉に浴す散歩かな。 馬場路哉
先日、教会の礼拝の帰りに信友が“鳴子ゆり”という観葉植物のような植木を鉢植えにして手渡してくださいました。さっそく我が家の玄関に置くと、殺風景な玄関がとても明るく心癒してくれる場へと変わりました。この植木は雨を好むというのです。昨日からは玄関の屋根から外に出して眺めています。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
解説 ウエストミンスター信仰告白 (47)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第22章 合法的宣誓と誓願について・・1・・
1 合法的宣誓は、宗教的礼拝のひとつの部分であって(1)、宣誓においては、正当な場合に、宣誓者はおごそかに誓って、自分の断言または約束の証人となり、その誓いの真偽に従って自分のさばき主となりたもうよう、神を、呼び求めるのである(2)。
1 申命10:20
2 出エジプト20:7、レビ19:12、Ⅱコリント1:23、歴代下6:22,23
一 旧約聖書では、宣誓は神を畏れ、神に仕えること、神に従うこととならんで、重要な宗教的行為と認められていた(申命記10:20)。新約聖書でも、パウロは再三、自分の主張を神にかけて断言している(ローマ1:9、Ⅱコリント1:23)。イエスも大祭司が「生ける神に誓ってわれわれに答えよ」と要求したとき、これを受諾された(マタイ26:63)。
しかし、マタイによる福音書5章33節以下を見ると「いっさい誓うな」とある。そこで問題となるのであるが、おそらく、このイエスのみ言葉は、ユダヤ人が習慣的に軽々しくこのやり方を用い、また、自分の利益のために、神の名を利用するような場合が少なくないので、そのような誓いは止めるべきだと、お語りになったのであろう。そのように理解するとき、合法的宣言という考え方が成り立つのである。誤った宣誓はしてはならないが、正しい場合に正しくなされる宣誓は、単に許容されるばかりでなく、宗教的礼拝の一部として、行われてなければならない事柄なのである。
宣誓は単なる信仰告白や祈祷や主張ではない。それは神に向かって、「わたしはこのように信じます」とか「わたしはこのように行います」と言い切ることではない。または「神様、わたしの断言をこの人々が承認するように導いてください。助けてください」などと祈ることでもない。
それは「神よ、来てわたしの証人となってください」とお願いすることである。しかも、それはお願いして聞きいれられてから、神のみ前でわたしの断言なり約束を相手に発表することではなく、すでにこの願いは聞きいれられたものとして、相手に向かって「これは単にわたし一個人の断言ではなく、神も同意しておられる断言である」と、神の信用を自分の証人として使用することに等しいことである。
このようなことは、果たしていかなる場合にしなくてはならないことであろうか。それは、明らかにそのようにすることは、どこまでも神のために必要であり、神がそうすることを、わたしに要求しておられるとの確信に立った場合でなくてはならないように思われる。わたしがそう断言し、また約束することが、私の利益であり、それをしないなら、わたしのいのち、名誉、財産が失われるであろうからと言うようなことだけでは、決してそれを合法化するに十分な理由とはならないことを知るべきである。
さんびか物語・・・27・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・26
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌282番
み栄は主にあれ
<神様のみ言葉>
「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。・・・しかし、今は、律法とは別に・・・神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による義であって、それはすべての信じる人に与えられ・・・」。
~ローマ人への手紙3章2お節~22節~
この讃美歌は、宗教改革を記念して作られたものであります。
作詞者由木康は1896年鳥取県に生まれ、関西学院大学で聖書と神学を学び、1921年東京二葉独立教会(現在、教団東中野教会名誉牧師)の牧師として長い間、牧師の任にあたっていました。現在は、キリスト教音楽学校理事長として、また、青山学院大学神学科の講師として活躍されています。
彼の創作による讃美歌は、1954年版讃美歌に10程収められています。この讃美歌の創作には、次のようなお話があります。
彼は以前から宗教改革記念日に歌われるものを作りたいと思っていましたが、昭和6年版の讃美歌の編集を終えて、その資料として用いたフランス聖歌集を見ていた時、その中にアウグスグスト・ドウコペ(1836~1907)の作った宗教改革記念日の歌のあるのを見出し、その作からヒントを得て、この歌を作ったそうです。その翌年(1936年)作者の讃美歌集「竪琴」に発表され今日に至っています。
作曲者小泉功は、1907年11月3日大阪に生まれ、大阪商科大学を卒業後、しばらく同大学で経済学の講師をつとめていました。その後、実業界に入り、現在は、湯浅株式会社社長室長として活躍されています。また、音楽評論家として、同時に音楽学会監事などの要職にあります。
彼は幼い頃から音楽的な家庭に育ち、1926年から合唱を長井斉に作曲法おとびオルガン奏法を大中寅二に学びました。
彼はまた西宮市の今津二葉教会、東京東中野教会などのオルガニストを歴任し、その間に「讃美歌前奏曲集」2巻のほかに「音楽教育」を出版しています。彼の作品は、1954年版の讃美歌に9曲ほど収められています。
おもしろいことは、その大部分のものが、彼がメロデーに、和音をそえた曲であるということです。例えば37番Bの讃美歌は、390年頃の非常に古いメロデーですが、このメロデーに和音をそえて、書き直したものであります。また、245番の曲は日本の古いメロデーである「今様」であります。彼はこのメロデーを1954年に和音をそえて、やさしく歌えるように改めたのであります。
讃美歌282番REFORMATIONは、由木康が宗教改革記念日のために作詞したものを、1953年小泉功が曲を作って出来上がったものであります。
<282>
1 み栄えは主にあれ めぐみの御神は
死の陰に座したる み民をかえりみ
み救いをもたらし みとのをきよむる
かがやける使者(つかい)を つかわしたまえり。
2 み栄えは主にあれ つみびとをゆるす
限りなきめぐみは あらたにしめされ
律法(おきて)より解かれし 自由のよろこび
主に頼るこころに ふたたびあふれぬ。
3 み栄えは主にあれ 権威(ちから)のもとなる
さかえある聖書(みふみ)は われらの手にあり
世の智者よ退け 聖なるみたまは
その旨をしたしく ときあかしたもう。
4 み栄えは主にあれ とうときゆずりを
さずかりし我らは おののきかしこみ
うえもなき宝を たえせずたもちて
暗き世にかがやく ひかりとならばや。
歌詞をお読みになって気づくことは、“み栄えは主にあれ”という言葉が4回繰り返して用いられていることであります。それは、全ての栄えは主にあることを強調しているからであります。詩編57編5節に記されていますように、わたしたちも歌うべきであります。「神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように」。
神様のみ手の業によって造られた私たちの一番大切なことは、常に心から神様を讃美すること、神様のご栄光をあらわすこと、神様の救いの恵みを喜び感謝することであります。
1節では、神様の救いの恵みを歌っています。すなわち、恵みの神様は、私たちが罪の結果の死の影におびえ、不安と悲しみの中に“神の民”を捨て去ることなくかえり見て下さると同時に、救いの使者を私たちにお与えくださるという事実を歌っています。それは、主イエス・キリストが救い主として、この世に来られた時、預言者イザヤの言葉が成就した事実であります。
その言葉とは、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上がった」(マタイ4:16)という言葉であります。同様に宗教改革以前の教会は、迷信や偽りの教えに陥っていた暗黒の時代でした。このような暗黒の時代に、再び偉大な光であるみ霊を教会にお与えてくださり教会を聖め、お救いくださったのであります。
2節では、罪人を赦す神様の限りない恵みを、感謝と共に歌っています。特に感謝しているのは、主イエスに頼る人々は、律法より解き放されているということであります。この自由、律法よりの解放を心に与えられている喜びを、イエス様は「もし、子(神の独り子・キリスト)があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8:36)と語っておられます。
この“おきて”とは、宗教改革以前では、教会の権威という名のもとに作り出された、人の手になるいろいろの戒律であり行事のことであります。当時の教会は、この戒律と行事の上に成り立ち、この“おきて”を守ることによって救われると教えられていたのであります。
しかし、聖書の教えはそのようなものではありません。「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)という教えであり「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません」(エペソ2:8~9)という事実であります。
3節では、権威のみなもとなる聖書は“われらの手にある”という讃美の歌声であります。当時、一般の人々は、誰も聖書を持ってはいませんでしたし、聖書のみ言葉を、たまにしか聞けませんでした。ですから、当時は聖書については、無知の時代と言えます。しかし、文化が発達し印刷技術が発明されるとともに、聖書が自国語に翻訳され、直接自分で手にすることが出来るようになったのであります。
聖書は教会の特別な人々の所有から一般の人々の手にもどり、人々は自分の目で聖書を読み、神様の福音に直接ふれる喜びを、この宗教改革の戦いを通して、特権階級から勝ち取ったのであります。今日、聖書は世界中のベストセラーになっていますが手にするだけでなく、日々聖書に親しみ、この世の唯一の光として聖書を読むことをおすすめいたします。
私たちに取まして、聖霊の導きによって聖書を学ぶと共に、聖書こそが、神様のみ言葉であり、誤りなき真理であり、生活と全ての唯一の基準であることを心から告白すべき時でもあります。
4節では、神様がお与えくださる贈物について歌っています。私たちに取りまして、この贈物は本当の宝であります。では、この上ない宝とは何でしょうか。それは、神様を信じる者は、相続人であるということであります。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光を共に受けるために苦難をも共にしているなら、私たちが神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:17)と言うことであります。
この意味は、主イエス・キリストの贖いの死を信じる全ての人がいただくことのできる特権です。すなわち、永遠のいのちの相続人であるということであります。主イエス・キリストが十字架でいのちを捧げたもうた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとマタイの福音書27章5節に記されています。この事実は何を意味するのでしょうか。それは、キリストの贖いの死によって、信じる全ての人が直接神様のみ前に立つことが出来るということであります。
主イエス・キリストの仲保者としてのお働きによって、もはや一切の人為的な何ものをも必要としないということであります。私たちは直接神様との交わりを持つ特権を持っています。この宝を大切にすると共に、キリストにふさわしい証人として、暗き世に輝く光として歩む責任と特権とを持っている者であります。
*****************
=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
ビルマ
戦犯者の獄中記 (63) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・11・
―落下傘諜者を追跡して・・4・・
捜索を始めてから12日目であった。ユン村(カレン人部落)の近くの山中に諜者らしき者が3名潜んでいるという情報を得た。浜田曹長の班と合同して、夜明けを期して急襲することにした。
情報を提供してくれた現地人を案内人として、夜中からの行動である。これでも道かと思われる山路を歩くこと3時間、谷底からせせらぎの音が聞こえてくる小高い所に来ると、案内人は谷底を指差して「あの谷にいる」と言うのである。
彼らが潜んでいると思われる場所に行くにはただ一本の道が下方に向かってあるのみで、右も左も深いジャングルで覆われているので一歩も踏み入れることはできない。一本道をしゃにむに進む以外に方法はない。夜明けが近くなって、浜田曹長を先頭に、私たちは息を殺して這うようにして少しずつ進む。木の葉の間より黒いものが動いている気配がする。
まだ気付いている様子はないが、彼らがどんな武器を持っているのかの不安があった。こちらは警察官が持っているライフル銃4丁と私たちが持っている拳銃3丁のみである。撃ち合いになれば双方に犠牲者が出ることは必至である。
それを避けるためにも少しでも彼らに近づくことである。谷川のせせらぎと暗闇が幸いしたのか30メートル位まで近づいた時である。彼らの一人が何か叫ぶような声がしたと同時であった。先頭の浜田曹長の「突っ込め」の合図があったので発砲しつつ、彼らに向かって殺到した。
余りにも気づくことが遅かった彼らである。反撃一つせず1名を残して逃走した。残された1名を逮捕すると共に逃げる2名を追跡したが、あたりはまだ暗く不案内な地形のために見失ってしまったので、夜明けを待って追跡することにした。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・42
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・9 釈迦が「生老病死」の四苦からの解脱を願ったことは既に述べましたが、この方が「死」を「苦」と受け止めて、この苦からの「解脱」を願ったと言うことは、誰でも共感出来ることではないかと思います。但し、その「解脱」ということが、修行や瞑想などを積み重ねていった結果到達出来たことなのか、それとも、そういう人間の側からの何かによるのではなく人間を超えた側からの働きかけによって得るに至ったことなのか、よく言われる言葉でいう「自力」か「他力」か、ということになるのでしょうが、ただ「死の苦」からの解脱は誰でも願っているに違いありません。
但し、この場合、「苦」と見る「死」とは何か、ということが、問題であると思います。わたしたちが普通「死」という場合の死は「肉体の死」のことを言うのではないと思います。「あの人、死んだ」という場合は、明らかにそれです。それは「現象としての死」であります。現象であれば、どういう現象をもって「死」と認めるかについての、客観的に正しいと認められるか、その判断基準がなくてはなりません。
ヘンな話ですが、こういうことが問題になるのは、わたしたち人間が何らかの帰属集団の一員であるからです。具体的には国家の構成員であるからです。それは誕生の時から始まります。一人の人間が誕生すると、出生届を出さなければなりません。しかも出産を証明できる資格を国家が認めた証明人(医師、助産師)による「出産証明」を添えてです。同様に、死亡についても、国家が承認した「死亡診断」をなし得る資格を持った医師による「死亡診断書」が提出されて初めてその人が死んだことになるのです。
要するに、わたしたちの生死を確認するのは国であると言うことです。自分の生死を国に認めてもらわなくてもよいし、国としては国民に人数が増えたか減ったかという数字の問題であって、私という人格とかかわることではないのです。この人格とかかわることがないとは、死が現象としてのことであるからです
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年6月のラジオ放送予定>
6月 5日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
12日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
19日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
26日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究」
第73課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・18・・・
B キリスト者の市民的義務・・・1・・・
13:1~7・・・1・・・
「上にある権威に対する服従」・・13:12~2・・1・・
第1節のギリシャ語は、「権威」と訳されるべきで、「力」とか「権力」とか訳されるべきではありません。力と権威とは同意ではありません。かつて、米軍の元帥が共産軍の捕虜たちに誘拐されたことがありました。この将軍は共産軍の手中にある間は、権威はあるけれども権力はないのです。共産軍は、この場合、権威はないけれども権力は所有しています。銀行で銃を構えている容疑者は、力はあるけれども権威はないのです。これを逮捕しようとしている警察官は権威と権力を共に持っていると言えます。このギリシャ語は単なる権力とか力とかの意味、すなわち、ある意味において、また、ある領域において承認された権威を意味しているのです。
この語は、常に、その最も高い意味における正当な権威、すなわち、神がそれを裁可され、その律法に合致する権威を意味するとする主張が試みられてきました。しかし、そのような試みは、権威と言う語の用法をよく検討する時に、誤りであることが分かりました。この語の用法は新約の中におけるサタンとその王国についても用いられているからです。
幾つかの例を挙げると、いずれの場合でもギリシャ語の権威の訳として、英語では力、日本語では支配・権力・権威が使われています。ルカ22:53「今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。使徒26:18「彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のもとへ帰らせ」。エペソ2:2「空中の権をもつ君すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って」。エペソ6:12「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威とやみの世の主権者」。コロサイ1:13「やみの力」。コロサイ2:15「もろもろの支配と権威との武具を解除し」。黙示13:4「龍がその権威を獣に与えたので」。黙示13:5「この獣には、また、大言を吐き汚しことを語る口が与えられ42か月のあいだ活動する権威は与えられた」。黙示13:7「そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた」。黙示13:12「先の獣の持つすべての権力をその前に働かせた」。
これらの例から、このギリシャ語は、神の律法に適合する権威に限定されるものではなく、サタンの権威にも用いられているのです。
従って、ローマ13:1「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」という日本語口語訳も、新改訳も、新共同訳も適正です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」