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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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     ほっとひととき『みんなのコーナー』      

 ☆  今日は午後、墓前礼拝をいたしました。みかん山の中腹に墓地はあります。そこは市内の教会のお墓がいくつか建てられています。今日は、昨日までの寒さがウソのように、春の陽射しに包まれました。 ホーホケキョ ケキョ ケキョ・・・ ピーヒョロ ヒョロ ヒョロ・・・の鳥たちの高らかなさえずりの中で、私たちも讚美をささげました。帰宅しましたら、「つのぶえジャール」が届いていました。「その愛のゆえに」の文章の中に鶯のことが書かれていて、かの地では2月に もう鳴き声を聞いておられるのですね。今日の鳴き声は本当に素晴らしいものでした。(実はカエルの鳴き声も 仲間入りしていました。) 富士の麓はもう春ですが、富士山の上の方はまだまだ・・・・です。雨の度に雪がぽってり積もり、美しい眺めになります。 静岡県 H・Tさん

☆ 白いすみれが可憐です。道端に一株だけ、本当に小さな小さなすみれが咲いていたので、写メを送りますね。愛知県 O・Kさん

 ☆  この4月は複雑な気持ちです。孫の大学受験は失敗で浪人、孫娘の方は希望の高校合格、若者にもそれぞれの歩みがあるものですね。もう昔のことで記憶があまりありませんが、高校受験も大学受験もはらはらしたものです。今は懐かしい思い出を味わっています。・・・。 兵庫県 K・Kさん

 ☆  ふる里熊本城の崩壊の姿をテレビで見ていました。涙だがこんなにあるのかと思えるほど、泣けて、泣けて仕方がありません。子供たちはそばで私の様子に驚いていました。何とも言えない虚しさ、悲しさ、大きなものを失ってしまったこの気持ちは、経験した初めてわかりました。とにかく、落ち着いてほしいです。 大阪府 T・Iさん

 ☆  携帯電話がこんなにも貴重で、役に立つとは思いませんでした。連絡しても通じない不安、出てよ、頼むから出てよ!!とかけ続けました。電源がなくなり、補充することが出来なかったようでした。今も、車の中での生活だそうですが、あの地震の振動と揺れと恐ろしさで、家に入れないと言っていました。水が欲しい。トイレ・・・、何とかしてほしい。食べる物は何とか我慢できても、あのトイレだけは・・・と思っているようです。悲しいです。 岡山県 O・Sさん 

 ☆ 自分も含めてですが、生活力のなさは現代人共通ですね。薪でご飯炊けない、料理も苦手ですもん。あるもので工夫する知恵が失われているのですよね。気になることがあります。それは、被災地で、発達障がいの子どもたちはどうしているのだろうと気にかかります。見えない障がいの人など。聴覚の人もだけれど。・・・。 宮城県 L・Rさん

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   『ありがとうございます』

「つのぶえジャーナル」をご覧になっている信友の熊本や大分におられる方の、やり場のない気持ちのメールが送られてきます。やっとの思いで建てた我が家、思い出の詰まった家があり、家族の歴史が満ちあふれている我が家、それが無残な姿になっている。「危険」の二文字の張り紙を主人と見ています。もう、新しい家を建てるなんて、不可能・・・。のようなお気持ちのメールばかりです。お返事を差し上げる言葉が浮かびません。ただ、祈りつつメールの言葉に寄り添はせていただきます。

2016年3月16日から2016年4月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者

篠崎あやの様 近藤 恵様 西山真一様

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

   今月のことば

 「自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」。

    ~へブル12:14~

 高校生時代に読んだ民族学の本の中に、その地に住む人々のシンボルとして、いろいろの壁画や木彫りの成り立ちが書かれていて、その時の感動は今も覚えております。美的鑑賞能力に乏しい私にはよくわかりませんが、日々の生活の記録とともに、精神的な意味合いを感じたものです。それが木や石であっても深い精神性と宗教性を持つものであることは理解していたように思います。

 人は、そこに何かを見出さそうとしたのでしょう。「今月のことば」の聖句はそれを明確に私たちに示しているのではないでしょうか。

 私たちは、「自らきよくなるように努めなさい」と言われているのです。そのために戦い、苦慮しなければならないことは確かです。何を願い求めるかは人それぞれでしょうが、聖書が求めていることは私たちに、求めることを明白にしています。それを追い求めることには意味も意義もあります。なぜなら、「自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」からです。

 「主を見る」ためには「きよく」ならなければ見ることはできないとありますから、それに気づくなら、そのために自らの生活の中で役立つと思えることに励むでしょう。しかし、私たちはどこまでも不完全であり、罪人であるという自覚を持ってのことです。この自分を知ることからスタートするのが信仰への求道の道であります。知識や経験で得るものではないことも事実です。自らの努力や修行で得るものでもないのです。

 しかし、そこに神の愛を知るなら、「主を見るのです」。神は私たちのために、神のその御子の贖いをあの十字架のキリストにお示しくださいました。「主を見る」とは、あのみ姿を見、追い求めるもので、ただ、ここにこそあると信じ、認めることです。導き手である聖霊はこの願いにお答えくださいます。ここに望があるのです。 

 

  小閑記 

 「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされなさい」。

      ~エペソ5:18~

 イエス様への信仰を与えられた人は、誰でも聖霊を受けたのです。その聖霊は「みずから、わたしたちの霊とともに、わたしたちが神の子であることをあかししてくださる」お方です。聖霊によらなければ、誰も「イエスは主なり」と言うことはできません。「もし、キリストの霊を持たない人がいるならば、その人はキリストのものではない」のです。なぜなら、わたしたちは一つのみ霊によって主と一つのからだになるために洗礼を授けられたのですから。

 しかし、このことが確かであると同様に、多くのキリスト者が心にも生活にも神のみ霊を入れる余地の余りにも少ないことをも認めなければなりません。その事実に立って、パウロは聖霊で満たされるように勧めているのです。

 み霊に満たされるということは、神のみ霊をこれ以上受けられなくなるというのとは違います。子供は成長するに従って、だんだんと理解を深めます。そのようにキリスト者も、キリストの恵みと知識に成長するとともに、多くの聖霊の働きとお導きを受けるのです。

 しかし、私たちキリスト者はこの世で、キリストを十分知ることはできないように、神のみ霊を一度だけで、十分に受けることはできないのです。そのために、キリスト者は神の勧めのお言葉を受け入れなければなりません。

 「御霊に満たされなさい」という勧めのお言葉に希望を持ち、み恵みによってますます御霊を賜ることを願い続ける歩みが、信仰者の人生なのです。

 

 「主の恵みを」

真の神を信じない 仰ごうとしない私を

真の神を仰ぐ者とされた 主の恵みをほめ讃える

 

真の愛を求めない 触れようとしない私を

真の愛に触れる者とされた 主の恵みをほめ讃える

 

真の道を尋ねない 歩もうとしない私を

真の道を歩む者とされた 主の恵みをほめ讃える  

                  水野源三

 

世田谷通信(151)

猫 草

ただいまいろんなものの真っ最中である。入学、転職、オフィスの引っ越し。まあそれらは事務処理のようなもので淡々とこなすしかないのだが、最も気がかりなのは、ウサギである。2匹のうち片方の食欲がない。小動物はちょっとした体調変化が命に関わるので、気が抜けない。数日間、なんだか掃除が楽だと思ったら、片方はほとんどウンチをしていないのだ。この季節はウサギ大好物の葛の葉は霜と同時に枯れて初夏まで手に入らない。他の草を色々試してみる。タビラコ、ハコベ、タンポポ、オオバコ、オヒシバ、ハルノノゲシ、ビワの葉までも。都会の冬に草は少なくロゼッタで冬越し状態なのをしゃがみ込んで探す。さぞかし傍目には変人だろう。なのに、どれも臭いをかいでプイッと横を向く。牧草もペレットも減っていない。もう片方が普段以上の食欲なので差は歴然としてくる。ウサギのおやつ「乾燥葛の葉」なるものをネットでわざわざ買い与えても食べない。

考えてみればこいつは夏に食べ過ぎだった。明らかに新鮮な葛の葉中毒。どんどん肥えて、ネザーランドドワーフの適正体重を大きくはみ出し、片手じゃ支えきれないほどに重くなった。さらに新聞やプラスチック、電気コードなど異物を齧るのが大好き。ケージの近くに物を置くと確実に引っ張り込んで齧っている。もしや何か変な物を飲み込んだ?と獣医でレントゲン撮影。画像には何かが胃の中に充満している。でも盲腸は空っぽ。つまり栄養が満足に行ってない状態である。放っておくと胃腸が動かなくなり危険な状態に。そうは言っても小動物には人間のような胃カメラもないし開腹手術のリスクも高すぎる。

という訳で強制給餌。粉状の餌を離乳食ぐらいドロドロにしてシリンジへ。ウサギをタオルで巻いて保定し、無理矢理のどの奥に流し込むこと1日数回。暴れるし、汚れるし、毎回一苦労。

奮闘努力の甲斐あって、少しは食欲回復したが、まだ春は遠いなあ、とすっかり小さくなったウサギをみて思う。たった1kgでも「命」ある生き物。どうか長生きしてほしい。

*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 

 
 

   『美しい朝に』・・17・・

2月19日

 ここしばらく眠れていない日が続きましたが、今日は、良いお天気で、朝、主人と車で買い物に出かける時、大きな公園の横を通って行きました。まだ、枯れ木が多いようでした。お祈りありがとうございます。もう少ししたら歯医者さんに行きます。

2月21日

大阪は冷たい雨降りです。昨日晴れていましたので、歯医者さんに行くとき

友達に誕生日にもらった軽いショルダーを持って行きました。可愛くてお出かけがうれしくなります。定期健診を先延ばしにしていたら、少しだけ虫歯になりかけていました。「体調はどうですか?」と聞かれたので「体調は良くないですが、天気が良いので来れました」と答えると、「ゆっくりしていきましょう」とおっしゃいました。昨日も、ほんの少しだけ寝れました。それでも感謝です。お祈りありがとうございます。

2月22日

 眠れない日々が続き、限界だなと感じていました。勇気がなくて、薬を減らすことが出来なかったのですが昨夜思い切って、2錠→1錠に減らしました。何日も眠れないと、身体のあちこちに痛みが現われます。眼も痛いし、肩こりもひどいです。眠れなかったのですが、夜中起きていても文句を言われることもなく幸せだなと思います。

しんどい話は、なるべく書きたくなくて楽しい話の「美しい朝に」なるようにしたいです。(情けないので)

2月23日

 昨夜は、久しぶりの熟睡でした。薬を2錠→1錠→2錠に戻したので、ぐっすり眠れたようです。寒い日でしたが、雨も降っていなかったので、歯医者さんにも行けました。雨だと自転車を押して歯医者さんまで行けませんし、体調が悪いと吐き気がして治療が無理なのです。体調をみながらゆっくり治療していただいています。病と闘っておられる方のためにお祈りします。

花の写真を写してきたので、またお送りしますね。

2月25日

今日は、良く晴れています。朝方にやっと眠たくなったので、夕方まで寝ていました。明日は、天気が良くて体調が良ければ歯医者さんの予定です。早いうちに、お風呂に入って体調が悪くならないように備えます。検診は3月8日は血液内科と10日内科ですので、血小板。血圧。血糖値。体重などの数値が心配です。

2月29日

 

今月2月は、誕生月なので服屋さんからも、美容院からもインターネットのお店からも割引のポイント券が送られてきました。昨日は、洋服屋さんや美容院は行けました。なんか「バースデーカード」がうれしくてついつい、出かけてしまいました。気候が落ち着かなくて体調を崩されている方も多いと思います。お祈りいたします。

3月4日

 今日は良いお天気です。家の中からも暖かさが感じられる日差しです。でも、来週は、血液内科と内科と久しぶりの検査でそろそろしんどくなってきました。3か月ぶりに血小板の数値を検査しますので気になりますし、血糖値も2か月ぶりの検査です。血液内科は、ITPの再発が心配です。内科はこわい先生に、2か月前「よく体重と血糖値をコントロール出来ています」と褒められて以来です。血液内科で血小板が減少して再発していれば、また、ステロイドを服用することになり、副作用で血糖値や体重も増えていきます。血液の病気は、定期検査でないと数値がわからなくて不安になります。

3月8日

 昨夜は不安で不安でたまりません。検査で、再発がこわいです。やっぱり、昨日は不安で全く寝れませんでした。朝、9時前に家を出て、10時前には着いて30分くらいで血液検査は、していただけたのですが怪しい数値があったので再検査となりました。2回目は、血小板は正常値でした。炎症反応が高いようでしたが、入院はしなくて良かったです。病院を出たのは、午後2時過ぎでした。血糖値は、血液検査の後、甘いものを飲んでしまったので正確には測定できなくて・・・不安だし疲れました。また、内科で木曜日に調べていただくので不安の先送りです。

お祈りありがとうございます。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております) 

 

  その愛のゆえに

   =時々の記=

      (120)

2月18日

 「今日一日を頑張る」。とても励まされる良いお言葉ですね。私たち、特に主人にとって、健康で何の病もない方たちと比べて、一日がとても大切なものになっているように感じます。「今日一日」を頑張りきることができればとても感謝なことですと主人がこのように言っていました。みな健康な者も病ある者も、人生には限りがある。しかしイエス様を信じる者たちには、永遠の命がある。このことを信じて生きるときに希望が出てくると。
 そのように言い切ることができる心境に感謝です。イエス様のよみがえりの事実を信じる者たちにとって、この世の限りある命は恐れることがない者となりますね。

2月20日

こちらはとても気持ちの良いお天気になりました。主人はリハビリに頑張っています。午後からは二人で台所に立って夕ご飯の準備にかかります。毎日決まった三度の食事の準備がとても大変だというのがようやくわかってくれたようで、とても協力的です。助かっています。よろよろしながら、二人で一人前とまでいかないですがの、毎日です。

2月21日

タンポポが、春を先取りしていましたが、三日程前からやっとイヌフグリが野原にいっぱい青色の花を付け始め、春がやってきたんだなと感じさせられました。これでも例年に比べると一と月は早いようです。昨日は礼拝の帰りに月ヶ瀬の梅を見てきました。ほとんどの梅がその三分の二程花を咲かせていました。多くの人たちで賑わっていましたので、車で通りすぎただけにしました。奈良市内からも観光客用に臨時バスが運行されていました。関西では月ヶ瀬の梅はこれほどに有名なのです。

そうそう、朝一番に鶯の鳴き声を聞いて何だかとてもほのぼのと嬉しくなりました。その帰り、路の端っこには萌木色のフキノトウが二つ並んで出ていました。命あるものたちの生命力を強く感じました。冬の間、じっと耐えて、寒さに負けずに土の中や、山の中で栄養を蓄えて、春の訪れを待っていたのですね

2月24日

お日様は少し顔を出してはくれたものの、一日曇り空。その上雪が舞うほどの寒さになりました。それでも今日は家の竹藪からちっきょ、ちっきょと鳥の鳴き声がするのです。主人になんていう鳥なのだろうとたずねると、鶯の鳴き声だというのです。小鳴きといって、まだごく最初の鳴き声のことを言うそうです。こんな我が家の竹藪にまで鶯が春の訪れを伝えに来てくれたのかと思うと胸がいっぱいになりました。小さな小鳥たちや、野の生き物が精一杯生き抜いているんですね。

 春眠の豊かさ祈り捧げけり。
 日当たれば雑木の白く山笑ふ。
 蕗のとう野山は愈(いよよ)復活す。
 宇陀の野の棕櫚(しゅろ)堅固なり右近の忌。
 春の空こそ御国なれ晴れ渡る。      馬場路哉

3月7日

こちらはとても暖かくなっています。先日まだ蕾だったフキノトウはもうグーンと大きくなってびっくりです。
 穏やかな信徒の声やイースター。
 み許しを祈りし人の絵踏かな。
 津の海は大反射盤春日濃し。
 聖書手にチャペルを出でて卒業す。
 主の近く侍らむ人やイースター。     馬場路哉
 3月8日

奈良では東大寺のお水取りが12日に最終日を迎えます。お水取りが終わって初めて、春の暖かさが本格的になるといわれています。昔の人は節目節目で季節を感じ取っていたのですね。今年はイースターが三月下旬ですから少し早くやってくるのですが、墓前礼拝もコートなしで大丈夫かもしれませんね。
 イースターを迎える時期になるとやはり母のことを強く思い出します。母が最も好んでいたのがこのイースターだったからです。日曜学校ではイースターの讃美歌をよく教えてくれたのでした。つくしの様にすくすくと主エスの子供よ伸びていけや、山も野辺も空もなどなど。懐かしい思い出がよみがえってきます。

瞭然と春めく山河色と音。
樫の木の多き在所に風光る。
一望す布引の山梅匂ふ。
牡丹雪猿入る森の出で湯かな。    馬場路哉

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」

 

  解説 ウエストミンスター信仰告白 (45)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

第21章 宗教的礼拝および安息日について・・3・・

5 敬けんな恐れをもって聖書を読むこと(1)、健全な説教(2)、神に服従して理解・信仰・尊敬をもってみ言葉を良心的に聞くこと(3)、感謝して心から詩を歌うこと(4)、またキリストが制定された礼典を正しく執行し、ふさわしく受けることは、すべて普通の宗教的神礼拝の要素である(5)。このほか宗教的宣誓(6)や誓願(7)、神聖な断食(8)、また特別な場合の感謝の祈りも(9)、それぞれの時また時期に、きよい宗教的な態度で用いるべきである(10)

  1 行伝15:21、黙示1:3
  2 
テモテ4:2
  3 ヤコブ1:22、行伝10:33、マタイ13:19、ヘブル4:2、イザヤ66:2
  4 コロサイ3:16、エペソ5:19、ヤコブ5:13
  5 マタイ28:19
コリント11:23-29、行伝2:42
  6 申命6:13、ネヘミヤ10:29(30)(*)
    *申命6:13をネヘミヤ10:29(30)と比較
  7 イザヤ19:21、伝道5:4,5(3,4)(*)
     *イザヤ19:21を伝道5:4,5(3,4)と比較
  8 ヨエル2:12、エステル4:16、マタイ9:15
コリント7:5
  9 詩107編、エステル9:22
  10 ヘブル12:28

五 礼拝指針で取扱われる項目である。

個人として、また私的礼拝として、聖書の朗読、賛美、祈りなどがなされるが、ここでの「普通の宗教的礼拝」と言われているのは、集会の公同礼拝のことである。そこには礼拝の奉仕者の心得と一般会衆の心得とが含まれている。礼典については、第27章以下で別に規定されているからそこを読み合わす必要がある。

このほかには、「普通」に対する、やはり宗教的「特別」な場合の行事であるが、やはり宗教的行事である以上、すべて礼拝の精神を失わぬよう敬虔に祈り深くなすべきである。

 

6 祈りも、宗教的礼拝の他のどの要素も、今や福音のもとにおいては、それがなされ、または向けられるどのような場所とも結合されず、またはそれによって一層よしとされることもない(1)。かえって、すべての所(2)で霊とまこととをもって(3)、神を礼拝すべきである。すなわち個々の家庭で(4)日ごとに(5)、隠れた所で各人が自分で(6)、そのようにし、公同集会では一層厳粛にすべきである。神がみ言葉または摂理によってそこに招かれる時に、不注意からまたは故意に、公同集会を軽視したり放棄したりしてはならない(7)

  1 ヨハネ4:21
  2 マラキ1:11
テモテ2:8
  3 ヨハネ4:23,24
  4 エレミヤ10:25、申命6:6,7、ヨブ1:5、サムエル下6:18,20
ペテロ3:7、行伝10:2
  5 マタイ6:11
  6 マタイ6:6、エペソ6:18
  7 イザヤ56:6,7、ヘブル10:25、箴1:20,21,24、箴8:34、行伝13:42、ルカ4:16、行伝2:42

六 ここは礼拝にとって場所は少しも差別がないことの主張で、ヨハネによる福音書4章で主イエスは礼拝の一番深い原則を、あのサマリヤの村はずれで一婦人との日常的会話の中で教えられ、「ゲリジムでもエルサレムでもない」いずこにもいます神(霊とはそういうもの)人の手で造った宮に限定されない方にふさわしい礼拝、と同時に、公同集会の尊さの主張が特記されている。個人で礼拝しているから公同礼拝に出る必要はないという考え方を戒めている。

 

 

さんびか物語・・・25・・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・24     

 ポリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌260番

 千歳の岩よ

<神様のみ言葉>

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがさない」。

~詩編62編1節、2節~

 

讃美歌260千歳の岩よは、世にある讃美歌の中でも最高峰と言われる有名なものの一つであります。それは、主イエス・キリストがなしとげてくださった完全な救いと贖いのみ業が、この讃美歌の中心になっているからでありましょう。キリストの十字架でのみ苦しみとその死と三日後のよみがえりによって、私たちの罪が赦されているという確信が与えられているからであります。

死からいのちへと解放されているキリスト者は、この素晴らしい讃美歌を声高らかに歌わずにはおれないことでしょう。

作詞者オーガスタス・M・トップレディ(1740~1778)は、この作品を書いた時には、まだ36歳の若さでした。彼は戦死したイギリス陸軍将校を父としてサリーのファーナクムで1740年11月4日に生まれました。

信仰深い母親は彼をロンドンのウエストミンスター校に入学させましたが、その後、彼らはアイルランドに移住しなければなりませんでした。彼はそこでダブリンのトリニティ大学で教育を受けました。

1762年に彼は国教会の牧師に任命され、まずデブンシャーのブロードヘンムベリー教会の牧師となりました。また1775年にロンドンのリスターフィルドにかわり、そこでフランスからイギリスへ亡命したカルヴィン主義者のために牧会を続けました。

牧会の他にも多くの讃美歌を作詞したり、宗教的な本を数冊書いています。しかし、彼の作品のまとまったものは、彼の死後まで出版されていませんでした。1794年にそれらのものは、6巻の著書として初めて発表されたのであります。この讃美歌260番はトップレデイが1776年に編集者であった雑誌「ゴスペルマガジン」に初めて発表されました。

トップレデイは生まれつき健康的には恵まれていなかったようで、38歳の若さで結核のため、この讃美歌を発表した2年後の1778年8月11日に召されました。

1954年版の讃美歌260番の曲には、二つの曲がつけられていますが、日本では下の曲とTOPLADYの方がよく歌われているようです。この曲は1830年、有名なトマス・ヘイステングスによって作曲されたものであります。初めて発表されたのは次の年の1831年でロウエル・メイスンとヘイステイングスが編集したSpiritual Songs orocal orshipに収められていました。その後、特にアメリカでは、この曲は大変な評判になりました。トマス・ヘイステングスについては、讃美歌384番をご参照ください。

イギリスでは、この讃美歌はいつもREDHEAD別名AJALONで歌っています。作曲者リチャード・レドヘド(1820~1901)は、イギリスのミドルセックスのハローで1820年3月1日に生まれ、オックスフォードデマヅダラ・カレッジの聖歌隊員になり、そこでオルガニストのウオールタ・ヴィカリからオルガンを学び、1839年にロンドンのオールド・マガレット・チャペルのオルガニストに任命され、25年間そこで任務をはたしました。     

その後30年間、聖メリー・マグダラ教会でオルガニストとして勤めました。また彼は、特に少年聖歌隊の優れた指揮者として活躍し、聖歌隊等のために多くの聖歌集や詩編誦などを出版しましたが、その中には自分の作品や他の作曲家の作品が含まれているため、その作品が彼のものかが分からない場合が多くあるそうです。

この曲が初めて発表されたのは1853年で。Church Hymn unes ncient and odernという讃美歌集におさめられています。この曲はその巻の76番目にあたるもので、時にはREDHEAD76と言われています。

次に歌詞を共に考えてみましょう。

<260>

 1 千歳の岩よ わが身を囲め

   さかれし脇の 血しおと水に

   罪もけがれも 洗いきよめよ。 

 

1節で作詞者が歌っている千歳の岩よとは、どのような、また、どなたを意味しているのでしょうか。もちろん、それは、私たちのために裂かれた岩、主イエス・キリストご自身を意味いたします。

使徒パウロは次のように私たちに語ります。「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊を飲み物として飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです」(コリント10:1~4)。

旧約聖書で26回も岩なる神と名付けられた神様は、雲の柱をもってイスラエルの民の長い砂漠の旅路をお守りになりました。天からマナを食物として降らせ、岩から水を出させて彼らの渇きを潤し、たえず彼らを導き守られました。

この神様のイスラエルに対する愛と恵みと同様に、主イエス・キリストも神様のご計画に従って、十字架上で私たちの罪の身代わりとして、そのいのちを捧げ給うたのであります。ですから、私たちはキリストの裂かれた脇の血潮によってのみ、罪から解放され、み霊の洗いと潔めにあずかることが出来るのであります。

 2 かよわき我は 律法(おきて)にたえず

   もゆる心も たぎつ涙も

   罪をあがなう 力はあらず。

2節では、人間の方からは自分の罪を贖う力も方法も全然ないということが歌われています。それは、神様の規準によって人の行為や思いをはかりますなら誰一人として、神様のみ前に義と認められる者はありません。神様に律法を完全に守った人は、世のはじめから今日に至るまで一人もいません。どのような修行、苦行をいたしましても、それをもって自分を救うことは出来ません。神様のみ前にあっては信仰なき行為は無駄なことなのです。今日のよき行いが昨日の罪のつぐないにはなりません。もえる熱心があっても、反省の涙を流しましても、それによっては救われません。

神様の救いの恵み、また救われる条件は、この世の規準や神無き人々の考え方とは、まったく逆であります。慈善事業をしたり寄付をしたりすることによって、天国の門が開かれたりは致しません。偶像崇拝者のように人の力やお金で天国への道は買えないことをはっきりと知って頂きたいと思います。

大切なことは、キリストのみが私たちを救う資格を持っておられること、この主イエス・キリストのみがいのちの門であり、この方を通してのみいのちに入ることが出来るのです。主イエス・キリストを救い主と信じる信仰こそ大切であります。

 3 十字架の外に 頼むかげなき

   わびしき我を 憐れみたまえ

   み救いなくば 生くる術なし。

3節ですが、原作で作者がかさねて歌っているのは、罪人が罪人である自分を救うことには無力であると言うことであります。

私は神様に何も差し上げるものはない。私の手はからっぽですと歌っています。私たちの求めることは何でしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架につらなることです。裸の私が義の衣をキリストからいただくことを願うことです。キリストに救いと恵みを求めることを願うことです。キリストに救いと恵みを求めることです。汚れた私たちを主イエス・キリストのみもとに行き、潔められることを乞い願うことであります。

この潔めがなければ、生きる方法も道もないと歌っています。実にへりくだった率直な祈りではないでしょうか。3節はその意味で日本語訳は今少し甘いものになっておりますのは残念なことと思います。

 4 世にある中(うち)も 世を去る時も

   知らぬ陰府にも 審きの日にも

   千歳の岩よ わが身を囲め。

4節で作者は、世にある中も、世を去る時にも、岩なる神様のみ守りにより頼むと歌っています。この世での私たちの旅路は、ほんのわずかなものであります。モーセが詩編90編10節で歌っていますように「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」と言っています。

人は、この地上でいかに生きるかを問題にいたします。それはそれでよいのですが、十分ではありません。私たちが真剣に考えなければならないことは、飛び去ってからのこと、この世を去ってからのことを考えることによって、はじめて、本当の意味でのいかに生きるべきかの問に正しい答えを知りたいと思うようになります。

その真剣な求道を、唯一の神様に求める人は、何と幸いなことでしょう。主イエス・キリストを知ることが出来るからです。主イエス・キリストを救い主と信じる人にとりまして、もはや何の心配もいりません。それは、私たちの裂かれた千歳の岩はその贖いと愛をもって、私たちを囲んでいるからです。言い換えますなら、原作にありますように、私たちは千歳の岩の裂け目にわが身をかくして、神様がたえず私たちのすべての嵐、この世のあらゆる大波より守って下さるのであります。

あなたも、この唯一の避け所なる神様を、あなたご自身のなくてならない宝、魂の避け所となさってください。まことの神様に立ち帰り、主イエス・キリストの贖いの恵みをあなたご自身のものとしてください。

  *****************  

­­­=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  61)  遠山良作 著

昭和22年

  ―タキン党事件の裁判の状況―・・9・

  落下傘諜者を追跡して・・2・・

 現場はイエ町より5キロ程北方の部落である。村長たちの案内で落下傘を発見した場所に行った。そこは部落のはずれにある見通しの良い原っぱであった。発見した現地人の話によると、「当日農作業のため、たまたまここを通りかかるとあの木の枝に落下傘が引っかかっていたので村長に届けた」と高さ10メートル位の木を指差して説明してくれた。

 現地附近に何か遺留品らしきものが落ちていないかを捜索したが、それらしいものは見付けることは出来なかった。しかし現場の状況から判断すると、確かに英軍の飛行機から何者かが降下したと判断されるが、ただ落下傘諜者が降下したならばなぜ落下傘を処分しなかったのかの疑問は残るけれども諜者が潜入した疑いが濃厚であるので、附近一帯の捜索を開始した。

 先ず部落民を集めて英軍の諜者らしい者、あるいは、ふだん見かけたことのない者を見た者、食糧らしきものを部落の外に運んだ者はいないか等の聞き込みを始めた。

 部落民たちは「この部落(ビルマ人)を除いてこの付近一帯はすべてカレン人の部落である。きっとあのカレン人の部落に逃げ込んだ」と言うのである。

 カレン人は主に山岳地帯に住み、焼畑農業(註1)に従事している少数民族である。英国はビルマを支配する政策の一つとして多数派である仏教徒のビルマ人に対抗させるために、カレン人を優遇し、キリスト教を布教したので、彼らの大部分はキリスト教徒であり、親英的である。日本軍がビルマに進駐するや英軍に従って印度に逃亡したカレン人の兵士も少なくなかったとも聞いている。

     *文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・40

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・

答・・7 ヒトラーは「ユダヤ人は生かしておいてはならない」という考えで、数百万人を殺しました。そういう考えに捕らわれていたからです。もちろん本人は捕らわれていたとは思っていなくて、そうすることが正しいと信じていたのでしょう。そういうことから言うと、「正しいと信じていること」の問題性を思わずにおれません。他人事ではありません。わたしたちの国日本においても、日中戦争が始まって以来、「必ず勝つ」という信念を持っていました。

 「いざとなったら神風が吹いてきて敵をやっつける、何と言っても日本は神国だから・・・」と信じていました。そういう「共同幻想」に捕らわれていたと言えるでしょう。こういう信念というものは、固ければ固いほど、内部結束という閉鎖力を強め、それとは違ったものを排除する強い力となって働きます。

「必勝の信念」をもって「一億一心」となった、かつての日本が、異常な力を発揮したのは、こういう点で納得出来ます。しかし、その力は、本来発揮されてはならないものに捕らわれていたからであって、その捕らわれから解放されることこそ、必要なことではなかったか、と思うのです、捕らわれるなら、むしろ「すべての人が生かされなくてはならない。そのためには絶対に『殺してはならない』という信念」でなくいてはならない、と思うのです。

 イエス・キリストが活動された時代のユダヤ人社会は、神から与えられたものとしての律法を厳守する信仰共同体でした。したがって、この律法を知らない異邦人はもとより、ユダヤ人であっても律法に沿わない生き方をしている者は、神の祝福に預かれない者として排除されました。この限りにおいて、神は律法を厳守する者だけを受容する閉鎖的な神となってしまう傾向を帯びることになりました。もちろん、神は閉鎖的な方ではなく、すべてのものを祝福の対象とされている方でありますが、この神を閉鎖的な神のように仕立てたのは、律法主義という、信仰についての枠付けをしてしまった人間でした。そのトップを切る担い手がパリサイ派と称せられた律法厳守主義者たちでした。

 イエス・キリストの言動は、以上で述べたように、神は全ての人を、そのあるがままにおいて受け入れて、差別したり排除したりする方でないことを明らかにするものであり、しかもそれが律法の本来の精神に沿うものであることを明らかにすることとして、なされました。そういうことを宣言し、そのような事実に生きることをもって、人間が造り出していると考え、もっと言うと人間自身の内にあって人間を支配しているものからの解放を意図されたものでした。

 聖書が言う「救い」とは、この人間が、人間が抱いており、また人間が造り出している人間をその中に閉じ込めているものからの「解放」を言うのです。人間を超えた神の御心に即して生きるようになる、これが「救い」であります。

                篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

      

     <2016年4月のラジオ放送予定>  

   4月 3日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師) 

     10日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)  

     17日 阿部 啓 (日本基督教団豊橋中部教会牧師)  

     24日 阿部 啓 (日本基督教団豊橋中部教会牧師)  

         (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

「ローマ人への手紙」研究」

 第72課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・16・・・

A 個人の生活上の聖潔を養う義務 

       12:1~21・・・15・・・

「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・5・・

 

 「すべての人に対して善を図りなさい」(17b(provide things honest in the

 Sight of all men) Charles hodgeは英語の欽定訳聖書は、残念ながらここの箇

所の正しい意味を伝えていないと言います。彼によれば、「パウロは私たちに自分自身や家族に対して、正直で誠実な仕方で接しなさいと言っているのではなく、人々の信頼と好意を引き起こすように行動しなさいと教えているのである」。ギリシャ語訳旧約聖書の箴言3:4「あなたは神と人との前に恵みと、誉れとを得る」のギリシャ語は、ここの17節のそれと酷似していると言います。

 

「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(18)。

この箇所は平和を維持することができないような場合があることを想定していると言えましょう。自国を防衛し戦わねばならない時もあるかもしれないし、また神の真理を護って戦うべき時もあります。「ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように」(ユダ3)。邪悪と戦わないことが裏切りとなるようなときもあります。私たちが必ずしも常に平和を維持することができるとは限りません。

 時としては闘うことが義務である場合があります。しかし、戦争は常に悪なのです。時としてやむをえない、また避けられない悪かも知れません 。しかし、とにかく戦争は悪なのです。戦争のための戦争の存在を信じることは出来ませんし、論争のための論争のそれも信じることは出来ないのです。

 

 理想は平和です。何を犠牲にしても平和をではなく、出来る限り平和を、なのです。「出来る限り」ということは、平和よりも貴重で重要なものを犠牲にしても平和をということではないという意味です。ここでパウロはすべての人と平和に過ごすことを語っているのであって、私たちの友人や隣人とだけの平和ではなくて、すべての人との平和なのです。すべての人というのは、私たちを嫌ったり、攻撃したり、害したりする人たちも含んでいるのです。

 

 これこそが謙遜であり、柔和なのです。誤解されたり、臆病とみなされながらも、敢えて平和を図ろうとする謙遜な有機なのです。キリスト者は平和を愛する人たちであると人々に知られなければならないのです。戦争そのものをたたえるものでは決してありません。戦争を憎み、どうしても避けられない場合にのみ、それに頼るのです。個人的関係においては、良心に反して行動することなしに、そうすることができる限り、平和と善意を求めるのです。

    J.G.ヴォス著

  玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

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緑を大切に!
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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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