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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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    ほっとひととき『みんなのコーナー』      

 ☆  保育園の説明会に新米お母さんの緊張の顔がとても微笑ましく、思い出しました。その時の子供たちは、高校生と大学生、背丈も私を超えました。超えないのはお腹の周りと体重です。悲しい現実?・・・。主人も同じです。  岡山県 M・Gさん

 ☆  元気なお年寄りは、春の農作業を始める下準備に忙しくされています。田舎暮らしにあこがれて4年目になりますが、その当時の元気はだんだんと薄れて来て、農作業は厳しい労働と土を愛する思いの強い人のすることと、反省しています。今は、地域の方々の事務のお手伝いをして過ごしています。事務の仕事で仲間に入れてもらっています。  岩手県  H・Kさん

 ☆  私の楽しみは、春と秋の学生時代の友達と美術館巡りをすることで、誰とはなしに話がまとまり、お出掛けすることです。家庭の愚痴話はなしが、暗黙のルール・・・。これも、長く続いている理由の一つと思っています。いつまでも学生でいたい気分でありますようにです。共に研究室で過ごした仲間意識もありますので、話は弾みます。あんな失敗をしてしまったとか。新しいものに出会い、わくわくした感動は、不思議ですが風化しませんし、お仲間ですから美化もしません。そんな時が、私の今の楽しい時間です。 京都府 T・Kさん

 ☆  昨年の今頃は、母とアパート探しをしていました。高校生の時は、自立するんだなんて意気込んでいましたが、結果的には、身の回りの物から、スーパーでの買い物まで母の後ろをついて回っていました。受験勉強に集中させてくれた母に感謝しています。あれから1年、私も大学生として歩んで来ましたが、今、学校近くの不動産屋さんには1年前の私と母の姿を見ている感じがしています。親の有難味を少し(本当は沢山)感じている私です。ありがとう。お母さん!! 兵庫県 M・Kさん

 ☆ 「ジャーナル」の皆さまは、如何お過ごしでしょうか。我が家の庭の桜、散歩路の桜の木々が花を満開に咲かせています。長野市内ではもうつくしが出てきているそうです。何だか急に春爛漫?の陽気です。やはりうれしいですね。これから長野の山は緑一色になります。 長野県 S・Eさん

 ☆ 春はいろいろなものを花かごに入れて届けてくれる季節です。黄色の菜の花、つくし、虫たちも・・・。お隣の垣根のすぐ傍に沈丁花が植えられています。今年はもうピンクの濃いつぼみをいっぱいに付けてよい香りを放ってくれています。沈丁花は少しきつい香りですが、私はあの香りがとても好きです。 滋賀県 K・Mさん

 ☆ 3・11から5年、テレビや新聞には「特集XX」の見出しで報道されています。時間とともに記憶は薄まり、消えてしまいます。何時までもそこに留まることも、消し去ることもできない現実に、きちんと、丁寧に向き合い続けたいとの思いにさせられました。 福島県 Y・Kさん

 ☆ 今日は歯医者に行く日・・・。歯を磨かないから虫歯になっている。でも病気だと朝目がさめてからがしんどい。健康な人に一度でもこの全身の痛み、しんどさを味じあわせてやりたいと思う。この病気が悔しい。もう20年・・・。 埼玉県 匿名さん

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  『ありがとうございます』

昨年の11月に買い求めた盆栽仕様の1本の楓の鉢植えが1月には全部葉を落としていましたので、仕事場の隅に置いたままでしたが、なんと細い小枝に蕾は4つほどつけていました(312日現在)。感激です。忘れていた鉢植えが、寒さに耐えて生き続けていたのですね。本当に神様に感謝です。これからが楽しみです。

3月23日現在、小枝20数本にそれの三倍ほどの蕾がついています。根元の苔にも新芽が出ていて、驚きです。初めてのことで、わくわく、どきどきを楽しみます。

毎日、「つのぶえジャーナル」を見てくださる方から継続して、近況の報告のお便りいただいております。読ませていただく毎日が本当に楽しみです。ご紹介できませんが、感謝しております。これからも、この声の輪が広がるようにと願っております。メールをお待ちしております。

2016年2月16日から2016年3月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者です。

玉田ひかる様 菊池みさき様 前田和夫様 馬場伸直様 馬場暁美様 近藤弘子様 匿名4名様

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

 

   今月のことば 

 

 あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信に大きな報いが伴っているからである。

        =ヘブル10:35=

 3月は出会いと別れ、新しい可能性をもって4月に向かう時でもあります。ある人には試練、ある人には不安でもあるでしょう。世界を見渡せば終わりのないかのような戦争、失われた命への悲しみ、身近ではいじめや差別・・・。私たちはそういう中で過ごしています。信頼と言う言葉にそれだけの重みと意味があるのでしょうか、と若者に問いかけられ、自分に正直に、自分の言葉で何かを伝えたい、伝えなければいけないのですが、それを持ち合わせていないと素直に答えました。

 「神への信頼」が、青空の下で花を咲かせ、空の小鳥に歌を歌わせ、輝く太陽の光は、明日への希望を約束しているとするなら、そこに何を見るでしょうか。

 

 「神への信頼」を見出すなら、何と幸いなことでしょう。あの十字架に付けられた方のみ姿にそれがあるのです。人に見捨てられ、助けを求めても、答えてくれるものがないと諦めないで下さい。

 イエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた神に対して、いささかの信頼も失ってはいませんでした。私たちはどうでしょうか、「神への信頼」を奪い去るものが、沢山あります。その信頼を揺り動かすものがあります。それは巧みな罠です。弱さであり、安易な妥協心、曖昧な信仰です。そうであるなら、今一度、キリスト・イエスにすべての基盤を持つ神信頼をお与えくださる「信仰の恵み」を思い出しましょう。

 

 <主よ、あなたの父としての恵みに対する私の信頼を、どうか強くしてください。あなたが罪の苦しみの中での慰めに、お与えくださった方への視線を、失わないようにしてください。私の心が叫び訴える時、どうか私に神様を信頼する信仰をお与えください>

  

  小閑記 

 彼は必ず栄え、わたしは衰える。

        =ヨハネ3:30=

 努力する姿は美しいものです。そこには素直さがあり、真摯な心を見て感動もいたします。しかし、そうでないことも事実です。イエスの救いに招かれる前には、善くなりたいと願って事に励みますが、実際は失敗に終わります。前進したいと試みると、いつでも道は閉じられてしまいます。

 何事でも私たちが望んだり、得たいと努力するものとはまるで反対になってしまいます。自由になりたいともがくと、一層からまれ、上に登りたいと願う時に、坂を滑り落ちてしまいます。

 どうしてなのでしょう。何か理由があるはずです。それは、神のみ霊が私たちの目を自分からそらさせて、失われた者を救ってくださった主イエスへ向けるまでは、解決は見出せません。私たちがキリストを、神のみ前に、あなたこそ全てであると信じた時、救いと平和の時が来ると聖書は語ります。その時に「彼は必ず栄え、わたしは衰える。」の意味を悟るのです。

 私たちは神様から命を頂くばかりでなく、それに生きなければなりません。神様のみ前で、「命への門・道」は狭いことを学びました。しかし、今、信仰者としてその道は細いことを学ばなければなりません。辛く苦しい道になるでしょうが、生き、進まなければならないのです。古い罪の自分は衰え、新しいキリスト者は栄えるのです。そのために神様は、私たちを新しい苦難へと導き、私たちはそこを歩まなければならない時に、人は弱さのゆえに、留まりたくなってしまいます。自分の意志や努力で自分を奮い立たせることは出来ないのです。

 その時、私たちを自負心から解放し、全ての希望と力が、ただ、キリストへの信仰にあることを知るのです。望みは主イエス・キリストの十字架の死とよみがえりにあるのです。

 

 

 

世田谷通信(150

猫 草

久しぶりに新幹線に乗ると色々な発見がある。「のぞみ」にはN700系と700系があって、前者には座席にコンセントがあり、後者にはないそうだ。それ大事?と私は思うのだが、確かに名古屋駅でN700系に乗り込むのはパソコン片手に東京まで仕事オーラ全開のビジネス客。皆さん発車数分前にさっと現れて、一瞬でKIOSKの手土産を買い、タッチパネルでピッと会計、手慣れた感じで颯爽と乗っていく。車内もスーツ姿とモニターがぎっしり並んでいる。数分後にきた700系には私のようにモタモタ、きょろきょろしている客が多く、あ、間違えた、すみませんね、いえいえ、と車内の雰囲気はほのぼの。全体的にかなり空いている。パソコンを開いている人はさほどおらず、お弁当か新聞か或いは寝ている。こんな風に昼間の新幹線がNのありなしで客層の棲み分けがなされているとは知らなかった。

そして背もたれを倒す前に後ろを振り向き「ちょっと椅子を倒してよろしいですか?」と一声かける素敵な習慣が。少なくとも私の前席の乗客は往復ともそうで、私も「どうぞ~」と笑顔で応じていた。しかもそんなに倒さないし。なんとも奥ゆかしく美しいやりとりではないか。かつて国際線エコノミーの狭い座席で機内食を食べていたら、突然前の座席が急激に倒れてきて慌てふためいたのが思い出される。いまどきの日本人はなんてジェントルなのだ。

ところが月に何度か新幹線やら飛行機に乗って出張する主人に聞くと、倒す前に後ろをちらっと確認しアイコンタクトはとるが、口に出して言ったことも言われたこともないとのこと。ビジネス客同士の暗黙ルールか。代わりに車内アナウンスで「大型のノートパソコンをご使用の方は座席が倒れた際モニターが破損することがございますのでご注意ください」と流れるそうだ。きっとトラブルがあったのでしょうね。でもNなし700系にはそんなアナウンスはなかった。ふうむ。興味深い。

次に新幹線に乗るときにはNなしで、倒す時には後席にひと声かけよう、と思った次第である。

*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 

 

 『美しい朝に』・・16・・

119

 昨日は、大阪は雨と風でした。朝、雪が積もってなかったので、母のところまで主人に送ってもらいました。数時間、実家で過ごしました。母の顔を見れて良かったです。母の作品とシクラメンを写しましたが、またの機会にお送りしますね。実家のことを祈りました。

1月21日

 寒いです。大阪は曇り空で、今にも雪が降りそうです。昨夜はあれこれ考えて眠れませんでした。神様を信じていたら救われるはずなのに、熱心なキリスト教信者の方のお身内が去年、お姉さまも含め「癌」でたてつづけに2人亡くなりました。若くして交通事故や難病で亡くなった友人もいます。私も、自分のことなら「これも良い経験」と考えられても、私も私の親しい友達も交通事故にあい、命は助かってもみんな後遺症に苦しんでいます。

 病気のご本人も家族も大変なのも経験しています。家族や近しい方の度重なるご苦労を聞くと「神様を信じてない方が試練は避けられるのではないか?私の存在自体が近しい人を巻き込んでいるのではないか?と考え込んで、眠れず、落ち込んでしまいます。また、お祈りが出来なくなってしまいそうです。

1月26日

 「今月のことば」の、こがね虫の話は、自分のようだなと思いました。お腹を上に向けて手足を動かしていても起き上がることさえできないのに、上の方から窓が開かれ支えのみ手が来られるのを握りしめる時が今なのですね。色々、起こると本当にスランプに陥りますね。でも、1人1人にみ手が差し伸べられるのですから安心です。神様におゆだねします。自分の体調管理をしっかりして、辛さに耐えている方が、神様のみ手をしっかり握れるようにお祈りします。

1月30日

 今日は、幼稚園教諭時代の同僚からの電話が懐かしかったです。年賀状で頸椎の手術をしたと書いてあったので心配で留守電を入れておいたのですが、無事成功して安心しました。「暖かくなったら会いたいね」と約束しました。暖かくなるのが、楽しみです。

 お正月からバタバタしていて上手く父方の叔母と連絡がとれずに心配しておりました。高齢なのでインフルエンザの予防のため、ベッドで寝て過ごすことが多くて電話に気が付かなかったようです。本当に、感謝です。

2月5日

 こんにちは。今日は、大阪は快晴です。少し、暖かいような気もします。愛犬も、今は良く寝ています。家の中ですが(犬なのに)熟睡しています。犬のメスの「愛」といいますが、3月で18歳になります。老犬なので、夜泣きをしたりおかしな行動も多いです。

毎年「これが最後のお正月かな」と思いますが、今年も一緒にお正月が迎えられ嬉しいです。今は、主人と私。愛ちゃんで日々を過ごしています。

2月10日

 大阪も今日は暖かく快晴です。三寒四温で、だんだん暖かい春になるのでしょうね。今日も生活のため一生懸命仕事をしています。

息子曰く、一見厳しいようですが、お腹を空かせてるのが子供でも親でも「魚」をあげると、働かないで「魚」をもらい続ける依存者になると言います。そして、「僕なら魚の釣竿を渡して、魚の釣り方を教える」と。生き方を息子から教えてもらいました。寝れなくても病気でも、働かないと生活できないのですからあたりまえの話ですが・・・。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております) 

 

  その愛のゆえに

   =時々の記=

      (119)

1月13日

 一日太陽が出てくれず、寒い一日でした。この時期らしい寒波の到来です。空を見上げると今にも雪が降ってきそうです。関東地方では雪が舞っていると報道されていました。これからが本格的な大寒がやって来るのですから、寒さに耐えられるように体を鍛えておかなければと犬たちとの朝夕の散歩を健康維持と考えています。
 水源地熊笹多く冬日差す。
 初雪や雲江州の山を越ゆ。
 冬の雲山と聳えて連なれり。
 夕映えに黄金色なす冬木立。
 河川敷枯草途切れ流れあり。         馬場路哉
1月25日

 ・・・。昨日、一年間何も音を出すことができなかった貰い物の電子ピアノを修理していただき、きれいな音が出るようになりました。電子ピアノですからタッチが少し違いますが、手軽でとても使いやすく感じられます。古いものですがこうして修理していただくことができて、とても感謝でした。大阪からもう80になられる方が来てくださいました。最後にご自分で演奏してくださり、感激いたしました。この頃は修理という仕事が少なくなりましたと言って帰られました。
 二年ぶりようやくきたる年賀状。
 さりげなく一茶の句ある年賀状。
 碧天に十字架の立つ初景色。
 三山(さんざん)の麗しくあり冬霞
 声高く讃美歌歌ふ老いの春。         馬場路哉
 主人はこの26日は三重大病院まで行かなければなりません。雪が降ったら名張まで車で、あとは電車で行くといっています。雪用のタイヤに変えておいて本当に良かったです。

2月3日

 こちらは朝から冷たい風です。一年で一番寒い季節となっています。お気を付けください。でも明日は暦の上では立春ですね。そう思うだけで気持ちが春めいてきます。
 高原のリハビリ散歩息白し。
 チボー家の人々読了凍返る。
 通学路歩き返せばよもぎ萌ゆ。
 空の紺極まりにけり冬うらら。
 山中の空気の旨し寒の内。           馬場路哉

2月5日

 昨夜は主人と悔いのない人生を送りたいものだと話し合いました。主人は今度5月の精密再検査で悪性腫瘍が再発、転移の恐れがあるかもしれないけれど、もしそうだったとしても悔いが無いように、リハビリに励み、多くの本に接し、生きていきたいと言うのです。私はその言葉を聞いて、10年前とはずいぶん違っていることに安堵いたしています。精一杯最善を尽くして悪性腫瘍と闘って来たこの10年でしたから。
 これからも神様にお委ねして残りの人生を歩んで生きたいと言っているからです。
主人の悪性腫瘍の話になるとこちらがお腹がきゅんと痛みます。でも聖書にもあるように、人の齢は長くて八十路と・・・。

一月や日々に日差しの強まり来。
オリオンに励まされもす受験生。
山峡の木々轟かせ寒波来る。
寒カラス二羽枝にいて膨らむる。
強霜に山の茶畑真白なる。       馬場路哉

2月6日

今朝はこの時期にしてはとても冷たい朝でした。昨日はうっかりして水道の水を取っておくのを忘れたり、じゃ口の水を流しておくのを忘れたりと不注意が重なってしまいました。朝から一滴の水も出ませんから、大慌てで朝の準備にお弁当の支度にと焦りました。幸いに、一か所だけ水道の水が出る場所がありました。
風の当たらない普段は使っていない水道から水がちょろちょろ出てくれました。
本当にほっといたしました。ちょっとした気のゆるみがこのようになるのですね。
2月8日

木々が冷たい風にあおられて大きく揺れ動いていました。その上雪混じりの雨が降ってきて体感的にはとても寒く感じた一日でした。今朝から、お隣の手作り職人としてこの地元の竹を使っての工芸品を作っている方のところへ河瀬直美監督が映画の取材に来ました。野次馬根性とでもいうのでしょうか。この寒空に皆地元の人たちが集まって来てその取材を見守っていました。竹細工を作っている人は今年86歳になられています。腰はしゃんと伸び、車の運転も自由自在。
まるで気持ちは青年のようです。
その方が竹を切り出して、細かな手作りで一日にいくら頑張っても二個しか作ることができないというのです。しかも作業されているところは外の何の仕切りもないガレージです。見ているだけでも寒く感じますが、集中して仕事をされているとあまり寒くは感じないというのです。ご夫婦二人だけの生活ですが、とても生き生きされています。その方が言うには、毎日決まって何かに取り組むものがあるのでこうして元気でいられると。また一つ学ぶところがありました。
2
10

こちらは昨日までとは打って変わって温かい一日となりました。このまま春になってほしいなという思いが強いのですがそうはいきません。今週末には雨、来週はまた寒の戻りが来るとか。主人は親友の葬儀に出かけました。多くの友がいるはずですが葬儀に来ていたのは二人だけだったということです。
その友のために今朝、弔句をしたためていました。
西行に親しみ君は春に逝くというものでした。
 こちらまで悲しみがこみ上げてまいりました。あと一人来ておられた方もクリスチャンになられている方だったそうです。女性の方で、音読奉仕をされていて、亡くなられた方が、この本を音読してください、と言われて何冊もご奉仕されたというのです。
 このようなところでもキリスト者は自分のためではなく、神様のご栄光のために生きておられるのだと主人の報告を聞いていました。
 立春や胸に溢るる主の恵み。
 犬たちに命の散歩寒戻る。
 大霜や鎮もりかえる伊賀盆地。
 郵便夫安堵してをる小雪かな。
 フォスターの明るき曲に日脚伸ぶ。     馬場路哉
主人にとっては何とも言い表せない一日であったようです。この世での別れは悲しみが付きまといます。天国でお会いできることを確信して希望を持って祈りつつ歩んでいきたいものです。
 馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」

 

  解説 ウエストミンスター信仰告白 (44

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

第21章 宗教的礼拝および安息日について・・2・・

3 祈りは、感謝をも含めて、宗教的礼拝の特別なひとつの部分であるので(1)、すべての人々に神から要求されている(2)。そして祈りが受け入れられるためには、み子の名において(3)、みたまの助けにより(4)、み旨に従って(5)、理解・尊敬・謙そん・熱心・信仰・愛・忍耐をもってなすべきである(6)。また声を出して祈る時は、よく知られた言葉でなすべきである(7)

  1 ピリピ4:6
  2 詩65:3(2)
  3 ヨハネ14:13,14ペテロ2:5
  4 ロマ8:26
  5 ヨハネ5:14
  6 詩47:7(8)、伝道5:1,2(4:17,5:1)、ヘブル12:28、創世18:27、ヤコブ5:16
    ヤコブ1:6,7、マルコ11:24、マタイ6:12,14,15、コロサイ4:2、エペソ6:18
  7 コリント14:14
 

三 原文で、祈りと感謝の間にコンマの入っているものと、そうでないものとがあるので、多少判断に迷うのであるが、私は「祈りは感謝を含めて」、すなわち、祈りと感謝とは、の意味と理解した方がよくはないかと思うのである。従って、「アクセブテット」は「聴かれる」という意味と「受納される」という意味を含むものと思う。

原文の意味は「祈りの中で、特に感謝をもって祈り」について、規定しているわけではなく、むしろ「祈り、すなわち、祈願」も「感謝」(これも祈りである)も、という二つに関係している規定である。この祈願も感謝も、すなわち、広義の祈り全体は、人間として当然神にささげるべき事柄である。

それは一項で言う神が善であられるために、当然なのである。そして、この祈りが神によしとされる条件は、まず、三位一体の神に対してなされるものであって、この三位一体は、本質的三一論とよばれる通り全く神の内在的な三つにして一つであると同時に、それに基づいて、また、それに止まらず、経綸的(おさめととのえること)三位一体であられるから、この三一神への祈りは、同時に、三一神の御働きにかなった祈り、すなわち、神へ神によって(仲保者キリスト)、神にあって(聖霊)なされなければならない。祈りの対象が神であるばかりでなく、祈ることの許される根拠も、実際に祈りえる力も、みな三一の神のお働きなのである。それが、この項での「受け入れられる祈り」の意味であり、具体的には聖書の教えに示されている通りの内容、目的、態度、手段などを含む、一切のキリスト教的なものという意味になるだろう。

「理解」は、第20章「キリスト者の自由および良心の自由について」二項で「・・・盲従的信仰や盲目的服従・・・」と言われたのと同じで、主の祈りを意味も知らずに唱えたり、自分の知らない古典語や外国語の祈祷文を暗誦したりすることを、戒めたものである。「よく知られた言葉でなすべきである」は、その意味であり、また異言を否定する。

「声を出して祈る」は、当然二人以上でともに祈る場合を予想してのことであって、ともに祈っている人たちに、自分の祈る事柄がはっきりわかるのでなければ、アーメンと唱和することはできない。ついでながら、公同の祈祷で、小声で祈って他の人に聞き取れない場合も同様である。また、聞こえなかったり、意味が理解できなかったり、理解しても、同意しえない場合などは、みだりにアーメンと唱和すべきではない。アーメンと唱和する以上、その祈りが唱和する者自身の祈りと同じでなくではならないはずだからである。

 

4 祈りは、合法的な事柄のため(1)、またすべての種類の現在生きている人々やこれから生まれてくる人々のために(2)、すべきである。しかし死人や(3)、死に至る罪を犯したことが知られている人々のためには(4)、すべきではない。

  1 ヨハネ5:14
  2 テモテ2:1,2、ヨハネ17:20、サムエル下7:29、ルツ4:12
  3 サムエル下12:21-23、ルカ16:25,26(*)、黙示14:13
     *サムエル下12:21-23をルカ16:25,26と比較
  4 ヨハネ5:16
 

四 ここでは、祈りがだれのためになされるか、という点と、何について祈るべきかという点とが規定されている。第二の点に関しては、ごく簡単に「合法的な事柄」とだけ言われている。この合法性は申すまでもなく、聖書を律法として、それに適ったという意味にとるべきものである。従って、前項の中で「み旨に従って」と同じ意味に理解することができる。もし、そのように理解することが重複だから誤りだと言うならば、前項の方は、どこまでも目的や態度などのことで、本項は内容の問題と受け取ればよいと思う。

死者のための祈りは、してはならないと言う主張は、本信仰基準にある一つの重要な主張である。仏教、神道、その他の異教的慣習にあって、特に葬式や記念会などにおいて、お互いに留意しなければならない。なお、後半に記されている「死に至る罪を犯した人」とは、だれの場合について言われているのであろうか。

たとえば、ローマ法皇を反キリストと断定する本信仰告白第25章「教会について」6項に従うとしても、わたしたちが、そのために祈ることを禁じられているとは言えない。もちろん、ローマ法皇を祝し給えとは祈れないにしても、彼を悔い改めに導き給えと祈るのがいけないとは考えられない。

しかし、ヨハネの第一の手紙516節にある「死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない」というみ言葉を否定することはできないから、この告白文は正当であって訂正の必要はないけれども、問題はだれの場合が、その例に当たるかについては、十分慎重に考慮されなければ、かえってヨハネの思想に反すると思うのである。イスカリオテ・ユダは明らかにそうであった。しかし、イエスはこのユダにさえも、最後まで悔い改めの機会を提供されたことを、わたしたちは福音書、ことにヨハネによる福音書で読むことができる(第13章「聖化について」参照)。かくされた神のみ旨は信者の行動の規準ではない。また、教会の処罰はどこまでも訓戒の意味である。しかし、国家の刑法に死刑があるように教会の戒規にも、永遠の死の宣告がありうる。そうでないと、地上教会の法治権は、家庭的・教育的であって、国家的・刑法的ではないことになる。

しかし、あくまでも死刑が慎重になされなければならないように、否、それ以上に、教会会議の決定には最後的審判の権威があるのではなく、聖書のうちに語られている聖霊に至上権があることを常に思い、良心の自由を尊重する必要がある。専制・独裁者でも、なお生前はわたしたちの祈りの対象(もちろん、悔い改めに導かれるように)とすることを妨げられてはいなかったのである。しかし、この点、私の発言はあくまでも私見に過ぎないことを申し添えておきます。 

 

さんびか物語・・・24・・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・23     

 ポリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌250番

 つみのちから せまりて

<神様のみ言葉>

「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」。

~詩編32編5節~

 

この讃美歌は、罪のしつこさ、深さ、恐ろしさを美しい言葉の中に表現していると共に、主イエス・キリストの十字架の贖いの死による、罪への勝利を歌い上げている、素晴らしい讃美歌であります。

讃美歌250番の作詞者ホレイシャス・ボナーは、イギリスの5大讃美歌作者の一人と言われています。また、スコットランドでは一番有名な讃美歌作者として、人々に知られています。

1954年版の讃美歌にも、ボナーの作品は、10ほどあります。その中には、皆さんもご存知の247檻をはなれ”285主よ、み手もてなどは、特に有名であります   

ホレイシャス・ボナーは、1808年スコットランドの教会で重要な地位にあった名門の家に生まれ、エジンバラの大学を卒業後、同地のリースの副牧師として牧会生活に入りました。1843年、国教会が分裂した時、彼は自由教会の側に立って、同教会の重要なメンバーとして活躍されました。

この讃美歌が書かれた1866年に、エジンバラのチャーマース記念教会に移り、23年間忙しい牧会活動を続けました。彼が1889年その生涯を閉じる数年前には、自由教会の総会議長にも選ばれています。

彼は、数多くの著書の他に、10巻近い讃美歌集を発表しています。また、彼の手になる讃美歌は600曲ほどと言われています。

当時の教会で用いられていた讃美歌は、詩編歌のみでしたから、彼の創作讃美歌はスコットランドの人々に大いに歓迎されていました。今日でも、100ほどが歌われ、世界のクリスチャンは、大きな力と励ましを受けています。

この讃美歌250番は、1867年、彼の讃美歌はHymns of Faith and Hope(信仰と希望の聖歌)の中に収められ、発表されたものであります。

作曲者アン・B・スプラトは、イギリスの婦人で、彼女は1829年に生まれ、1866年にこの曲を作曲したこと以外何も知られていません。本当に残念に思います。この曲はKEDORONと言う曲名で知られ、この曲名は主イエス・キリストがゲッセマネの園に向かわれる時に渡られた川の名前であり、十字架の死に向かわれるイエス様のお心を思います時、この曲名の意味は深いものと思われます。この実に美しい讃美歌をお味わいください。

<250>

 1 つみのちから せまりて、

   おさえがたく なやまし。

   されどわれは などか嘆かん、

       主ませば。

 2 追いはらえど つみとが、

   おりを見ては かえり来。

   みめぐみもて すくいたまえ。

       わが主よ。

 3 主よ、たまえや みゆるし、

   つみになやむ この身に。

   きよき血こそ わがいのちの、

       あがない。

 4 げにもやすし わがたま、

   みひかり満つ こころに。

   いさみ進まん 主のまさみち、

       今しも。 

この讃美歌は、罪とは何か。罪の性質とはと言う面と、罪に対する主イエス・キリストの救いの恵みを、力強く、そして美しく歌っているものです。

ボナーは主よ、罪に悩むこの身に、み赦しをたまわるようにと、奨めています。或る人は、自分は罪の問題には関係がないと言われるかもしれません。また、キリスト教は、いつも、罪!罪!と言うので、嫌だという人もあることでしょう。

しかし、そのように言われる人は、本当に罪とは何かについて、罪の性質について知っているでしょうか。自分自身と罪との深いかかわりを、理解しているでしょうか。イエス様の弟子ヨハネは「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(ヨハネ1:8)と言っています。自分を欺くことなく、自分の心を素直に見つめてください。そうして罪の本質と恐しさを知ってください。聖書は、私たちに、その方法と真実を教えてくださいます。

また、罪について、ウエストミンスター小教理問答書の問14には次のように言われています。「罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、または、これを犯すことである」。罪とは、唯一の生ける真の神様を知らないこと。神の律法を守らないことです。

自分を欺き、神様を信じない人は、まずはじめに、神様のみ言葉であります聖書を読んでください。神の家である教会に行って、まごころをもって、救いの神であられる方を尋ね求めてください。この態度にこそ、神様の救いの尊さと、自分の救われなければならない哀れな状態を知ることが出来るのであります。                                                    

 

ある日律法学者の一人がイエスのみもとに来て、次のように尋ねました。全ての律法の中で、どれが一番大切ですか、イエスは答えて「一番大切なのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の神である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』。次はこれです。『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ』・・」(マルコ12:28~31)。 

しかし、世の始めから今日に至るまで、この2つの大切なご命令を、完全に守った人は主イエス・キリスト以外に、誰一人いませんでした。むしろ、人は全て罪の支配下にあるのです。義人はいない、ひとりもいないのです。

自分は、罪とはかかわりがない、などとは絶対に言えない者が、私であり、あなたなのです。むしろ、罪の下にある者、罪に悩む者です。

1節では、されどわれは、などか嘆かん、主ませばと歌っています。それは、主イエス・キリストがお約束なさったように、「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいてくださる」という恵みを信じる者はいただき、また、いただく望みを持っているからであります。

2節では、追いはらえど・・・と歌いますように、罪は私たちの心に、いつも挑み迫っています。サタン(悪魔)は、常にその機会を狙っています。しかし、その時にこそ、私たちは、わが主よ、みめぐみもて、救い給えと叫び求めなければなりません。主はわが助け主であられますから。

3節では、カルバリの丘を歌っています。カルバリの丘とは、罪なき主イエス・キリストが、私とあなたの罪の贖い(代償)として十字架の上で、聖く尊い血を流し、ご自身のいのちをささげてくださった丘のことであります。

この十字架の聖き血しおこそが、わがいのちの贖いであることを信じ告白すべきですし、この信仰によってのみ、神様から罪の赦しをいただくことが出来ます。

4節ではいさみ進まん、主のまさみち、今しもと歌っています。

ダビデは、詩編32編の中で、次のように歌っていました。「私のそむきの罪を告白しよう。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」。神に対して犯した罪が神に赦されるという喜びは、何にたとえることができましょうか。

この喜びをいただく時、はじめて神様からの平安と光を心に受けて、喜びに満たされて、主に清きまさ道を力強く進むことが出来るのであります。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人よ」とダビデは歌っています。あなたも、赦された者の幸いをいただくために、主のまさ道を求め歩んでください。

  *****************  

­­­=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  60)  遠山良作 著

昭和22年

  ―タキン党事件の裁判の状況―・・8

  落下傘諜者を追跡して・・1・・

 寝静まった獄房の中で一人

「神様、私のような者でもこの世の中で何かお役に立つことがあるならば生かして下さい。しかし生きていても何の価値もない人間であるならば、ここで死ぬるともやむを得ません。」と祈った。この祈りが聞かれたかも知れないと思うと、目には見えない神様からのみ手が重くのしかかって来る感じさえする。

 そればかりではない。穴沢弁護士さん、戦友、証人に立ってくれたビルマ人の友情によって生きられたこの生命、大切にしなければならないと思う。

 ビルマの友よありがとう。

 日本の勝利を信じつつ戦った、当時のことが昨日のことのように思い出となって次から次へと脳裏に去来する。

 北支那(中国)からビルマ野戦憲兵として転属してモールメン憲兵分隊に赴任したのは昭和181月であった。それから間もない4月の暑い日のことである。情報収集から帰って来ると、モールメンから南へ100キロ以上もあるイエ町附近の部落から来たと言う二人のビルマ人が、落下傘らしきものを持って、憲兵隊に届けに来たことがあった。

 彼らの話によると、「3日前の月夜の晩であった。村の上空を低空飛行で、幾回も旋回して何慮かに去って行った飛行機があった。翌朝その附近の原野の木立の枝にこの落下傘が引掛かっていたのを村人が見つけて届けに来た」と言うのである。

 それは確かに英軍の落下傘だと思われる。血みどろの戦いをしている前線では、夜間低空飛行は旋回しては飛行機から落下傘諜者を味方の陣地後方に降下させる例である。英軍からの落下傘諜者が潜入した疑いがあるので鈴木磯次郎分隊長は捜索隊を編成して現地に派遣することにした。

 私と浜田曹長、屋(おく)伍長(北支五期生)、補助憲兵2名に捜索を命じた。なおビルマ人警官3名と、部隊から下士官以下10名の応援を得て、私たちはその翌日現地に急行した。 

     *文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・39

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・4・・

答・・6  キリストは「あなたの目が罪を犯させるなら目をくりぬいて捨ててしまいなさい」といわれました。同様に「あなたの手や足が罪を犯させるなら、切り取ってしまいなさい」とも言われました。宝石泥棒や強盗などは目が見えるからすることです。「他人の目の中にあるおがくずはよく見えても、自分の目の中にある丸太棒が見えない人」の目は取り替えてもらう必要あるのではないでしょうか。指先の器用な人間が、スリや金庫破りをするのです。頭の良い人が、巧妙に人を騙すのです。口の達者な人が、口下手な人の口を封じてしまうのです。耳の良く聞こえる人は、噂話や他人の悪口がすぐに聞こえて来て同調するのです。そして、人にもそれを蒔き散らします。五体満足、頭脳明晰であることが禍の元となるのです。不老長寿は幸いとされてきました。が、人生内容は問われなくて良いのでしょうか。

 カネを持っていることも幸せと見られてきました。が、そのカネを得るために搾取したり、貧しい人のことなど無頓着な人の幸せとは何でしょうか。

 キリストはまた「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。「富」とは自分を豊かに生きさせるものであり「宝」でもあります。「あなたのおたからは?」と尋ねられた時、「これです」とさし出すことが出来るものが、その人にとっていちばん大切なものであり、こころはいつもその宝に寄せられています。「子宝」とはよくいったもので、「子」が宝である人は、子によって豊かにされるに違いありませんし、いつも子のことに心が寄せられます。同様にカネ、名誉、権力、家庭、などなどを宝とし自分を豊かにしてくれる富としている人もいることでしょう。

 こういう点について、次のように述べている人がいます。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えました。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。

 これはパウロという人が語っていることですが、この人が授かっている「秘訣」というのはこの人にとっての「宝」であり「富」でしょう。注目すべきは、この「富」は自己本位でなく自分に執着していないことです。前述した宝が自分に即したものであるのに比べ、この人が一番大切にしているのは、自分を超えているものです。「秘訣」であり「授かっている」ものです。

 とらわれている自分から解放されている人であることがうかがえます。聖書が言うところの「救い」というものが、こういうことが言えるようになることの中にあることを、先ずは知っていただきたいのです。要するに、この世とその中にある自分に即して生きている自分でない、新しい自分とされている「秘訣」を授かることにあります。

                篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

      

     <2016年3月のラジオ放送予定>  

   3月 6日 木下裕也 (日本キリスト改革派名古屋教会牧師) 

     13日 木下裕也 (日本キリスト改革派名古屋教会牧師) 

     20日 梶浦和城(日本キリスト改革派春日井教会牧師) 

     27日 梶浦和城(日本キリスト改革派春日井教会牧師) 

         (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

「ローマ人への手紙」研究」

 第72課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・16・・・

A 個人の生活上の聖潔を養う義務 

       12:1~21・・・15・・・

「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・4・・

「高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい」(mind not high things,but conecend to men of  low  estate(16a)。これらの言葉を自分の生活と性格の中に取り入れることができる人は、真に偉大な人格の持ち主です。アブラハム・リンカーン大統領は、その地位にありながら、少しも尊大さがなく、社会の底辺で生きている人々と語り合えることが出来る人でした。それが出来る人は真に立派な紳士であると言えましょう。

 自分の体面や尊厳を保つことに汲々とする人は、このような事はできません。あまりにも自分を意識し過ぎているからです。

 

 私たちは、キリスト者として、へり下って、低い地位にある人々と交わるべきです。結局、神のみ前には、私たちは皆、低い地位にある人間だからです。神に対して人間は取るに足りない者です。謙遜さと柔和さという恵みを受けているキリスト者は、自分自身の尊厳を保とうとすべきではありません。キリスト者は、他人と折り合ってゆくことを困難させるような、いかなる固定観念を持ってはならいはずです。

 

 「自分を知者だと思いあがってはならない」(be not wise in your own conceits)。いい気になって、自分を知者だとするようなという意味です。「知性について誇ることや、周りの人々より自分が勝っていると思うことほど、有害な種類の誇りは他にありません。このような考えは、他人の見解を蔑視したり、自分自身に自惚れることを引き起こすのである。福音が私たちに求めている気質とは、幼児のような従順、謙遜、柔和さなのである」(ホッジ)。

 

 「だれに対しても悪をもって悪に報いず」(Recompence to no man evil  for evil(17a)。ある時、一人の宣教師が、キリストの福音について僅かしか聞いていない人から、天国について質問を受けました。その質問の一つは、「この世にいる間に、自分をひどい目に合わせた人々を、天国において復讐することができるだろうだろうか」というものでした。

 その宣教師は彼にこう答えて、「復讐しようなどと考えるような人は、天国に全く入ることは出来ない」と答えました。だれかに復讐しようという欲求は、罪の汚れた心の自然な傾向であろう。しかし、このような願いは邪悪なものであって、私たちはそのほかの罪に汚れた考えと共に、取り除かれねばないないのです。

  J.G.ヴォス著

  玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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