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「今月のことば」
イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
=マルコ1:25~26=
聖書の中には日常生活とはかけ離れた出来事や気づかないことが、奇跡のような出来事や教訓が記されていることに驚きます。平穏無事を願い、心穏やかでありたいと願っている私たちには時として驚きます。
この「今月のことば」の聖句は、私たちが信じ、理解する以上に、悪の霊は多くの人々に力をふるっていることが分かります。また大それた悪は犯さなくても、小さな悪は見過ごしがちです。誰もがしていることとか、これ位は許されるだろという曖昧さの中で、ことさらどうこう言うことではない、と自分を許して生きているのです。
しかし、人間が考える最も悪いこと、悪質なことは、私たちは生まれつき悪い者ではありますが、悪の働きが自分の生活の上になければ、大部分は罪や悪はそれ程ではないだろう、という身勝手な安堵の中に平安を見出していることです。
神の言葉は、悪が人間を支配する力を失う時が来ると預言しています。それは悪の力が縛られる時であります。
悪の霊は、敵意、嫉妬、野卑、憎悪、醜い貪欲などが人を支配する時に、人間の魂を統治しているのです。家庭が争いで満ちている時、夫と妻との間、親と子の間の幸福が壊される時、親類同志が憎み合う時、隣りの人同志が争う時、悪の力が働いていることに気付くなら、何と幸いなことでしょう。しかし、現実はそうではないのです。
私たちは、人との諍いなど望みません。神様との和解、安らぎを願っています。しかし、一歩も進まず、落胆と諦めに陥っています。それは自分の意志や努力不足以上に、悪の霊が私たちを縛っているからです。
人は、誰もが、家内安全、健康を願います。しかし、そうであるのに、なぜキリストにある平安を頂くための歩みをしないのでしょうか。出会いの機会がない、キリストを信じなくても、私には昔からの家の宗教があり、今更、キリスト教を信じなくても、という思いがおありでしょう。
しかし、それはどの様な状態なのでしょうか。イエス様は言われました。「・・・これをしかって、『黙れ、この人から出て行け』と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った」といわれれる前の状態です。
今は、悪の力から解放させる力をお持ちの方を探し求め、出会い、歩むことを決心する時なのです。主イエス・キリストはその決断を祝福してくださいます。
目覚めよ、眠れる者、死の眠りより起きよ。
キリストは汝を照らすなリ。
真昼の光、満ちみちて、清き恵みに招きたもうなリ。
<お詫びとお知らせ>
「つのぶえジャーナル」10月号は、更新はできましたが、家庭用印刷機の過度の使用のため、印刷機が壊れて買い替えのため、お手元にお届けするのが遅れてしまいますが、お待ちくださる多くの方にはご迷惑をおかけいたしますが、必ずお送りいたしますのでお待ちください。 編集子
「小閑記」
もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。
=ヨハネ8:32~32=
キリストを救い主と信じる信仰者の生活は、神のみ言葉の内に留まっていなければ、決して続けることはできません。聖書を捨ててなお、自分はキリスト者であると思う人は、うそ偽りの生活をしていると知らなければなりません。
しはし、神の言葉にとどまるということは、簡単に出来ることではありません。たんに聖書を読むということでもありません。それはまず徹頭徹尾、長続きしなくても、集中できなくても、とにかく、一日の中に、心に、日々の生活に、神の言葉のために時間と場を作り出し、それに基づいて生きることを、喜びとすることです。次に、神のみ言葉にとどまることです。自分の生活や考え方を、み言葉に立って振り返ってみることです。肩ひじを張って生きることではなく、むしろ、心から日々の生活の中に感謝があることに気づくことではないでしょうか。
家族の健康であることに感謝したり、一日の仕事を無事に終えた時に満足感を感じたり、友人と久し振りに会い食事や時には美味しいケーキを食べながら他愛のないのない時を過ごすことも、時を持つことは大切です。
イエス様のある弟子の人々の中には、出来ないことを要求し、裁きを宣告し、道を示す言葉を研究し、考え、自分に当てはめて自己満足したがることを好みますが、恵みと赦しのみ言葉については触れずにおきます。自分の思いのままに過ごしながら、人々からは、慰め、励まし、幸いにする言葉を知りたがります。こういう生き方は、一方的で危険をはらんでいます。
もし真理が私たちに自由を得させるならば、要求や審判や慰めは、全て私たちの心に、生活に場所と時間を見出すはずです。しかし、自分たちの考えが生活の中心に据えられ、それに従って生きるなら、慰めも励ましも、手にすることはないのであります。
キリスト者の生活を支配する根本的な掟は、罪と恵みについてのみ言葉の理解です。罪の認識・意識の欠落・希薄さが支配しているなら、また神の愛や罪の赦し、聖霊の導きや働きとは無縁に状態に陥るなら信仰の重病と言えます。これは知らず知らずに忍び寄るもので、常に目を覚ましていなければならない信仰生活のポイントとも言えます。
これからの日々を、改めてキリスト者として生きようと決心するなら、神のみ言葉のみが私たちを救うという恵みを頂く唯一の目標であると信じる時、私たちは自由にされます。
み言葉は、力ですから・・・。
深くして、栄えあるみ言葉(神)よ、
きよくして、永遠に生きたもう。
罪人を招き、イエスの与えうる、
命の勝利者足らしむる。 イエスこそ、天に行く道なれと。
世田谷通信(229)
猫草
崖があればその下からは湧水が出るものだ。台地に溜まった水は低い方に排水される。雨水は地面に浸透する。染みこんだ雨水が地下でどう流れるかはよくわからない。よくわからないけれど、自然の排水システムはおおむね理にかなっている。しかし何らかの余分な力が加わってうまく排水されないとき、水を吸い込んで膨張した地面はその形を維持できない。つまり崩れる。子どもの頃の砂遊びはそんな当たり前のことを感覚的に教えてくれる。昨今の公園からは砂場が減っている。猫の糞に媒介されるトキソプラズマ症が心配とか、泥で手や服が汚れるからなど撤去の理由はあるのだろうが、子どもたちから砂と水が教えてくれる貴重な体験を取り上げてしまうのはいかにも残念だ。
この世田谷、成城で近所の人たちが里山と呼んでいる場所は、国分寺崖線の一角にある。崖下からは何か所か湧水が出る。その場所は一様ではない。谷は少しずつ開析されて奥に移動しているし、大雨が続けば新しい水の道ができる。
人が通る場所だと雨のたびに足元がぬかるんで歩きにくいので何とかしようという話になる。とは言え、緑地内の遊歩道なので舗装はできない。じゃあ簡略な水の道、排水路を作ろう。穴を掘って、竹を半割にして並べ、竹の枝を伐ったのを被せて、雨のあともあんまり泥んこにならない程度に補修する。木杭を何本か打ってみたこともあるがさほど長持ちしなかった。今回もやがて溝や竹に土砂が詰まる。要は応急処置、でも里山保全のベテランさんたちは「そんなもんだ」と言うのだ。
完全にその湧水の流れをコントロールしようとするなら崖をがっちりコンクリートの擁壁で覆い、排水パイプを打ち込むことになる。かくして人間に都合の良いインフラができあがるが、植物やそこに暮らす生き物にとって水の流れは生命線。自然と共存し、人間はあまり不便のない程度に補修するなら、里山的にはその場しのぎがよいということだ。
自然の中にいると、物事は流動的だし、圧倒的な時間と質量でごくゆっくりと動いていることを感じることができる。真っ白なスニーカーや華奢なサンダルで緑地内を散策して足元が泥まみれになっても自己責任。自然の恵みを享受したいならそのルールに従うべきで、お洒落で快適なアウトドアなんて矛盾と幻想だと思う。いささかの不便と不快をおおらかに楽しめばよい。
<いきいき里山・山里ものがたり>
⊛ コロナ禍の制限から解放されて6年振りに帰国しました。飛行機から見る日本
の風景に改めて感動しました。主人の仕事はインドネシアで政府機関で農業技術指導などを専門にしおりまして、資料として山深い農家の写真を見たり、時には車に便乗して直接皆さんとの会話の中に入れていただくことがありました。険しい田畑で、山全体が棚田でした。狭い水田ですから機械より人手の方が能率的ですねと、家族全員、村全員での農作業で、昭和の日本の農家の様子を祖母から聞いていましたので感慨深いものがありました。農薬を使わないので水田には生き物が沢山いて、虫たちも空に舞っています。どの家も開放的で戸締りなどありません。網戸など一つもありません。鶏は放し飼いで動き回って虫を食べるためにあちこち動き回っています。今、東京のマンションで冷房の部屋で過ごしていますが、息が詰まりそうです。私たち夫婦は、母譲りの「つのぶえ・つのぶえジャーナルファン」ですよ。 東京都 T・Tさん
⁑この投稿文はT・Tさんが仕上げてくださいました。感謝です。編集子
「美しい朝に」
⁂ 今朝、日の出を写しました。なんか秋の気配が・・・空気も、日差しも・・・。 先日は、杭全神社の隣の小学校の校舎に「鳥」がいました。野鳥のようです。大きな木も池もあるのです。先日、眼科に行きました。網膜剥離のレーザーの定期検査でした。もう、10年近くになりますが・・・奇跡的に「本手術」にならずに、駐車場で写しました。死にかけたおかげで元気になり、今は読書の許可も(笑)頂いています。
=沙耶香のつぶやき=
秋らしくなりました。何時もなら夏バテでしたが、どうしたのでしょう。元気に9月を迎えました。夏休みも、自己満足ですが、勉強も出来ました。きっと頑張らなかったためかな(笑い)と思っています。
また新しいお友だちが出来て、毎日メール交換しています。その子は2つ年下で、身体が弱く、学校には行けていません。でも本を読むのが好きで、メールは本のことばかりですが、私も今はまた好きな本を読み始めています。病院のロビーで私と同じようにお母さんと来ていて、お友だちになりました。
********
「美しい朝に」さんや「沙耶香のつぶやき」を楽しみにしながら、闘病を続けています。なかなか院外に行くのは許されていません。難病認定者なのです。今、42歳です。難病仲間の会もあります。でも、私には「つのぶえジャーナル」の皆さんの投稿が、どれも新鮮で、真剣で、あたたかくて、大好きなのです。これからも、読ませてください。
*この掲載は原稿の時にお送りし、全て了解を得ております。編集子
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(199)
8月14日
蒸し暑さが感じられます。それに今までの暑さで弱っていた体がいっそう疲れを倍加させています。明日、山添に来る予定だった娘は私が疲れているようだからまた涼しくなった時に帰るからと、先ほど電話をくれました。やれやれです。本当に疲れが出てしんどくて仕方ありません。明後日は乳がんの検診で奈良まで出かけなければいけません。主人が往復の車の運転はしてくれるので助かります。予約してあるので何とか頑張って出かけてきます。
タケノコの頂点達し皮脱ぎぬ。
鬼百合の過疎地の端に固まりぬ。
山中に信者住みける花むくげ。(山添村で初めてのキリスト者のおうちです。父が牧会していたころに礼拝に時々来てくれました。)
下草を刈るや全身汗まみれ。
手花火の煙り幼児を包みけり。 馬場路哉
山添村で初めてのキリスト教の信徒になられた方はよく、日曜日の礼拝以外にも教会を訪ねてきてくださり、よく話をしていかれました。主人はその方からキリスト教のことを郵便局でうかがったといっています。そんな時代にキリスト教を求めたご夫妻のことは皆さん敬意を表しておられます。神様のなさることはすべて時にかなって美しいというみ言葉を思い出しています。
8月16日
乳癌の検査で山添から九十九折れのカーブの多い山道で酔いそうになりましたが、主人の安全運転で無時に往復できました。検査の結果はあの大きな嚢胞が消えてなくなっているといっていただきました。神様の憐れみと恵みにただ感謝いたしました。
お祈りに支えられていることに心強く思います。帰りの道はとても気分良く帰宅できました。やはり奈良市立病院は大きくてびっくりいたしました。
8月27日
もう10月号のご準備ですか。その気力はどこから出てくるのでしょうね。今日は睡眠導入剤を求めに大阪の柏原まで出かけてきました。先生も大変なご苦労をされておられるのでとてもよく理解してくれます。秋の花コスモスがちらほら咲き始めています。
風に揺れている姿はとても可憐です。
ぶつかるは油蝉なり水掛かる。
涼しくも素早く子猫木に登る。(虎ちゃんのことです)
新涼や夕べの風に棕櫨そよぐ。
父と母の写真を拭きて盆用意。
ずいき剥く指をうっすら紅に染め。(ずいきというのはサトイモの大きな茎です)
馬場路哉
8月29日
本日、9月号のジャーナルをお届けいただきました。とても重みのある「今月のことば」に主人と二人で“その通りだねと祈りを捧げました。それに今月号から、パーマーの「聖霊とその働き」が連載されるのですね。感謝です。というのも、以前送っていただいた本の中からパーマーの「聖霊のその働き」を好んで読んでいます。そしてとても力づけられているというのです。
黒白の雲入交り秋暑し。
雨降って拭き掃除しぬ秋初め。(主人は掃除をするととても丁寧にしてくれます。)
草刈れば戯れもして親子猫。 馬場路哉
8月31日
いよいよ明日から9月のスタートですね。2学期の始まりかと思っていたら、最近は25日から新学期になっているようです。この暑さの中、勉強ができるのでしょうか。
集中力が出ませんよね。やはり2学期は9月からが適していると思います。裏山ではツクツクボウシが鳴き始めています。いよいよ秋だよとでも言わんばかりにどこか寂しげに鳴いています。我が家のミニトマトも動物たちもおいしいところをすべてやられてしまいました。獣たちも必死ですから。素人の私たちは無防備すぎて獣いたちもびっくりしていることでしょう。イノシシさん、冬野菜は食べないでねと言いながら畑を耕していました。
最近は山添では大きな百日紅(ひゃくじつこう、さるすべり)を庭にたくさん植えてあります。ピンクが多いのですが、今日は白い花のものを見つけました。とてもダイナミックなお花です。夏の終わりの疲れが出てくる頃に眺めると元気をもらえそうなお花です。それに夾竹桃(きょうちくとう)が暑さに負けずに濃いピンク色の花をたくさんつけて咲いています。朝の散歩では気が付かなかった花たちに出会えてとても感謝しています。
竹落ち葉トユより除き住まいをり。
電線に睦まじく寄る秋燕。
過疎の村昔変わらぬ蝉の声。
ミソハギや祖父母作り̪田の脇に。
山蟻は走り回りぬひたすらに。 馬場路哉
小さな畑の衣替えです。冬野菜を植え始めています。昨日は水菜、今日は白菜と大根を植えました。鍋物に使うことができるまでに成長するでしょうか。土地作りから始めなければ大きくならないといわれました。できるだけのことをやってみます。
昨夜、家の庭でマムシの子供が現れました。猫たちが妙に怖がっているので見に行くとマムシです。主人に伝えてすぐに処理しました。9月がマムシが出てくる季節なのです。気を付けて懐中電灯を持つとか、長靴を履くとかして対策を考えています。
馬場暁美
上野緑ケ丘教会会員
眸(ひとみ)
稔りの秋、収穫の秋になりました。春には小学校の生徒さんたちが畑をみんなで草取り、地域の人の力を借りでしたが、苗を植えて観察して作った田んぼの水を抜いた畑には生徒さんが稲刈りをしています。お米を作ることの大変さを学び、収穫の喜びを大きな歓声と土で汚れた汗まみれの顔で叫んでいます。健康で、無邪気な子供たちの姿に、先生たちの日頃のご苦労が伝わり、感謝しかありません。先生や近くの大人たちの笑顔が輝いていました。 福島県 H・Hさん
暑い日が続きますが、「ジャーナル友」のみなさんはお元気ですか。最近、虫の声が聞こえる季節にました。私は地方公務員ですが仕事柄、農家の人との関わりが多く、外に出ることは多いのですが、7、8月は暑くて水分補給をこまめにという理由で、とにかく休みを多くとりながらですが、忙しい毎日です。職場の近くには、バッタもトンボもたくさんいます。水田があるので、カエルが、本当にたくさんいて、カエルを潰さないよう気をつけて作業してます。帰り道は駅から自転車ですから、虫の声はお疲れさま!と迎えてくれるようで、讃美歌を口遊みながら帰るときもあります。暑いけど、幸せな職場ですよ。 奈良県 T・0さん
コロナと猛暑でしたが、皆様には如何お過ごしでしたか。今年の夏は天候不順で雨が多い夏でしたが、天橋立で有名な京丹後地方もやっと秋らしくなって来ました。秋の山の幸ち、海の恵み求めて多くの方がくることでしょう。日本海の夕日は格別です。「絶景そのものです」。秋には紅葉とコスモスが夏の疲れを癒し、自然の恵みをくれます。この地方も過疎ですが、一日を大切にしながら、お若い方々が元気に活躍できる丹後になることを祈っています。 京都府 T・Tさん
教会生活も導かれて40年以上になしますが、今年も10月が近くなると思い出すことがあります。それは初めて教会に行った頃のことです。仲良しのTちゃんが日曜日の午後、教会に行っていて、誘われたのです。その時はTちゃんの陰に隠れて行きました。当時は子供の礼拝は午後からだったのです。年齢別に分かれて、聖書のお話しを聞きました。その後、クリスマス会の準備もありました。クリスマス会の飾りつけやクラス別の出し物の練習をしていました。下の妹と弟も一緒に来るようになりました。二ケ月休まない人には皆勤賞が出ましたが、私は一度も頂いたことがありませんが、一回休んだ人も、二回休んだ人も、そうして全員、頑張りましたね!を大人の礼拝の最後に頂けました。私はシールと豆カードが欲しくて頑張りました。中学生になったTちゃんも私もミッションスクールに進み、童話が好きだったので英文科に進み、公立高校の先生になりました。同じ教会に5年先輩に、数学の得意な大学生がおり、憧れの人でした。その人も数学の先生になり、青年会も一緒で、今は主人です。二人とも教会で子供たちの先生をしています。その頃のお友だちは学校の先生か、幼稚園の先生希望でした。
その当時から子供たちへは、良い日曜学校の思い出になる何かを伝えようと思っていました。二人の子供も学校の先生、孫も同じです。私をTちゃんが誘ってくれなかったら、と思うと感謝しかありません。Tちゃんはアメリカに留学し、今は州のYWCAの役員として、留学生のお世話をしています。そのようなことを今も主人と話しています。 長崎県 S・Kさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御国=
第二の祈り④・再臨
ルカ18・1~8
「御国を来たらせたまえ」と祈る神の国は、「すでに」到来しているという面と、「まだ」到来しない面の 両面があることが教えられています。すでに学びましたように、主イエス・キリストが来られ、特にその十字架と復活により、悪魔の支配に決定的な打撃をお加えになりました。しかし、神の国は目に見えるように完成していないことも事実です。悪魔はなお抵抗し続けていますし、この世の悪は幅を利かせています。神の国も完成はなお将来にその実現を待たなければならないことを聖書は教えています。御国がすでに完全に来ているのであれば、主イエスは弟子たちに、「御国を来たらせたまえ」と祈るように教えることはなさらなかったはずです。
ですから逆に言えば、主がこのように祈ることをお命じになったのは、御国が完全に到来することを約束してくださった証拠でもあります。読んでいただきました「不正な裁判官の譬え」から、神の国の性質を学んでおきましょう。
この譬えは、「気を落とさずにたえず祈らなければならないことを教えるために」(1)、主イエスが弟子たちにお教えになったのですから、神の国の完成を願う譬えとして、「裁判官は、暫くの間は取り合おうとしなかった」(同4)ということは、実現に時間がかかるという意味です。私たちの目から見れば、「しばらくの間」はごく短い期間のように思えますが、神の目から見れば、「一日は千年」のように短いとしても、それは私たちには非常に長い期間にわたって待つことを暗示しています。
他方、主は、最後の8節で、「人の子がくるとき」と言われて、裁判官が裁判をする時は、世の終わりの時、すなわち、主イエスの再臨による最後の審判のことであり、しかも、この裁きは、主御自身の目から見れば、「神は速やかに裁いてくださる」(8)ことなのです。わたしたちには「しばらくの間」と言う時間を要することでありながら、主イエスご自身の視野の中では、この「しばらくの間」と「速やかに」という二つが同時に事実であるということです。
私たちには、「しばらくの間」を要するということは、遠い先のように受け取られます。そうなると、再臨に対して無関心になります。その反対に「速やかに」再臨があるとなると、今にも実現するかのような期待をもって、再臨運動をしたりすれば、今の生活に身が入らなくなります。Ⅱテサロニケの信徒への手紙2章2節のように、既に再臨はあったものとしてみたり、3章11節のように、「怠惰な生活をし、少しも働かない」という誤りにも陥る可能性があります。
これらのいずれでもなく、神の国がすでに到来し、主によって、その支配が明らかになっていることに励まされ、現在の使命に生き、そして同時に、やがて確実に到来する再臨によって、神の国は完成することを大事にして、「御国を来たらせたまえ」と祈り続けます。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
22 軍国主義下の伝道・・1・・
1936年(昭和11)2月26日、日本の軍人によるクーデターが行われ、バラ塾で指導を受けた大蔵大臣の高橋是清氏も殺害された(2・26事件)。これを契機に日本の右翼化は進行して、8月7日五相会議で「国策の基準」が決められた。(大陸、南方への進出と対ソ、対米軍備の拡充など)。
1936年6月21日、マカルピン師に長女アンさんが、大阪の聖バルバナ病院で生まれた。
1937年(昭和12)10月7日は、R・E・マカルピン師の結婚50年で、ちょうどアメリカに旅行中であったマカルピン師の信仰の弟子で、金城学院長の市村與市氏がウイントンセーラムにマカルピン師を訪問して、その金婚の喜びを分ち与えられた。市村氏は信州伊那谷の飯田出身で、ここは幕末には平田篤胤の復古神道を奉ずる門人が飯田、座光寺、伴野地方を中心に222人の多きを数える土地柄であった。
ここにバラ先生は伝道して飯田基督教会(現日本基督教団)の基礎をつくられたところ、そのバラ先生の娘婿マカルピン師に信仰を導かれて、キリスト教主義女学校の校長となった市村氏とマカルピン師との間には、深い関係があった。
さらに市村夫人の秀野さんは、東濃苗木藩並松(現中津川氏)の出身で、同藩は伊那谷のように平田学の復古神道によって藩内ことごとく廃仏毀釈を行ない、徹底した平田神道による変革を断行したところ、そしてR・E・マカルピン師の伝道した中津川教会の会員として母娘共々入信されたのである。
神の不思議な御摂理の糸は、選びの民を一致せしめ御業のために用いたもう。また秀野さんの娘、佐々木据野(すえの)さん(当時中津川教会員)も、中津川にあった松本顕二氏と明治26年3月、中津川で初代信徒太田清十郎夫妻の媒酌で結婚式を挙げ、その年の9月14日、松本顕二氏は中津川から長崎の東山学院神学部に入学、のち明治34年4月、名古屋の金城教会牧師になられた。こうした訳で東濃伝道につながるマカルピン師との関係は、いろいろな実となって結ばれたのである。
「いのり」
私は洗礼を受けてまだ1年生です。祈祷会で導かれましたが、今もお祈りが苦手です。家でお祈りしてように思っていることをお祈りすればいいのよ・・・と先輩の信者さんたちは言ってくださるのですが、今も苦手です。でも祈祷会には欠かさず行っています。先日、牧師先生からTさん、礼拝献金の奉仕をしてくださいと言われ、先輩の信者さんの後を着いて廻っていましたが、冷や汗でした。でも、小さな奉仕(私には大きな奉仕)ができてうれしかったです。 東京都 T・Tさん
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キリストと共に
肉に生きるわが命を キリストと共に十字架につけて
キリストにある新しき 命にいかしめてください
世を愛するわが心を キリストと共に十字架につけて
キリストにある新しき 愛をば持たしめてください
悪に向かうわが足を キリストと共に十字架につけて
キリストにある新しき 道を歩ましめてください
詩
昼には 木陰で セミが鳴き
夜には 草むらで 虫が鳴く
昼も夜も 私は作ろう 神さまを 讃える詩を
=水野源三著第四詩集より=
聖霊とその働き
エドウィン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
目 次
はじめに
第1章 聖霊と三位一体
第2章 聖霊と創造
第3章 聖霊と一般恩寵
第4章 聖霊と啓示
第5章 聖霊と照明
第6章 聖霊とイエス・キリスト
第7章 聖霊と再生
第8章 聖霊と聖化
第9章 聖霊と異言
第10章 聖霊と導き
第11章 聖霊と神の子
第12章 聖霊と祈り
第13章 聖霊と教会
第14章 聖霊とその象徴
第15章 聖霊と赦されざる罪
第16章 聖霊と人間の責任
訳者あとがき
第1章 聖霊と三位一体
本書において、聖霊の種々の働きのことをおもに考察したいと思っている。それにはまず、聖霊とはどういうお方か、ということを考える必要があるので、この第1章では、聖霊と三位一体のことをとりあげることにする。
それでは、この御霊について、4つの事柄を述べることから始めよう。
Ⅰ 聖霊は人格を持つ ・・1・・
クリスチャンであるなら、聖霊を人格のあるかたとして信じている。これがクリスチャンであることの一つの証拠である。教会の初期から今日の近代主義にいたるまで、人々はなんらかの形で、聖霊の人格を否定してきた。キリスト教の説教者や神学者と言われている多くの人々が、御霊を「彼」と言わず、「それ」という言及の仕方をする。彼らの考えによると、聖霊は非人格な影響とか力とかエネルギーであって、三位一体の第三位格ではない。そうした見解であれば、私たちの救いの大きな祝福の幾つかが奪われることになる。それだけではなく、そうした見解は非聖書的である。
聖書は御霊が人格を持っていることを、いろいろと明らかにしている。
まず第一に、彼には知性と感情のあることを示している。こうしたものは人格のある者の固有の性質であって、人格のいない物体にはこうした性質はないが、神の御霊には明らかにある。パウロが次のように書くとき、御霊が知性を持っていることを前提にしていることが分かる。「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめる。というのは、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも神の御霊以外には、知るものはない」(Ⅰコリント2:10,11)。
ここでパウロは聖霊が所有する知識のことを語るが、影響や力はこうした知識を持つことがなく、人格のあるものだけが持つものである。聖書はまた、意志という人格的性質を持つものとして御霊を描いている。パウロ、シラスおよびテモテがビテニアに行こうとした時、「イエスの御霊がこれを許さなかった」(使徒16:7)と書いている。コリント人への第一の手紙12章1節では、聖霊が多くの賜物をキリスト者に与えてくださったと、語る中で「聖霊は思いのままに」そうされると述べている。感情については、御霊を悲しませることが、エペソ人への手紙4章30節で言われ、それゆえに、「神の聖霊を悲しませてはいけない」という命令が私たちに与えてられる。
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
庭ではセミと秋の虫が交互に鳴き始めだしています。一番賑やかなのはクツワムシです。秋が近付いているのでしょうか。虫たちからその気配を感じさせられています。
遠くに見える阿蘇の裾野には秋風に揺れるススキが、季節の変わり目を身近になったことを教えてくれます。もう直ぐあちこちに曼殊沙華が咲くことでしょう。暑い夏ともお別れです。 熊本県 K・Kさん
子供たちも大きくなり、最後の家族旅行になるかも知れませんが、暑い名古屋から北海道旅行中です。秩父別(ちっぷ)温泉に行って来ました。写真は外の景色です。北海道は道路がまっすぐです。今は恵庭市というところで民泊しています。カントリー調のかわいいおうちで、オーナーは隣で雑貨屋を経営していて畑もやっているといって、新鮮なトマトや獅子唐、ジャガイモをくださいました。洗濯や自炊ができて便利です。周辺は区画整理されて道路と建物の並びがきれいです。
レンタカーで走って感じたのですが千歳空港からの道はどこもきれいで、建物も低めで屋根は片方に長く傾いでいます。雪対策なのでしょうか。高い家が少なく空が広く美しい景色です。私たちの念願の旭山動物園ではかわいい動物を見ることができました。今まで行ったどこの動物園より動物との距離が近く、よく見ることができました。白くま親子の遊ぶ様子やライオンが岩でじっとこちらを見て座っている姿、オランウータンの綱渡り、キリンの顔が私たちの足元の高さで見るようになっていて、工夫されているなあ、と思いました。旭山動物園の後は、北鎮記念館という自衛隊がやっている施設へ行って来ました。歴代の制服、ノモンハン攻撃、屯田兵の暮らし、戦争の爪痕等の展示がありました。ウクライナや各地で起きている戦争の今、平和の尊さを考える時になりました。 愛知県 K・Mさん
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀
「こんにちは。9月号のジャーナルを ありがとうございました。暑い暑い夏でしたが、いつの間にか日暮れも早くなってまいりました。夏の終わりも近いですね。お変わりございませんか?
今月は、21日、28日と以前奉仕させていただいた教会での奉仕の機会をいただきまして、里帰り?をしてきました。私も久しぶりの教会学校で、懐かしいでした。
一番上のお兄ちゃんに重い自閉症があって、大勢の中だと落ち着かないからと、教会学校の年令を過ぎた今も来続けているご家族があります。13年前は幼稚園や小学生だった子どもたちも、今は高校生となり大人となっていますが、親御さんと一緒に来ています。
もう一人、75才のおじいちゃんがいます。お人柄でしょうか、子どものような方です。朝9時に来て、11時半過ぎに礼拝が終わるまでじっと座っておられます。
(もう一人小学生の男の子がいますが、コロナでお休みしています。)
組み分けなどちょっと変わった教会学校ですが、後任の牧師先生が引き継いでくださって感謝です。
夏のお疲れが出ませんように。ジャーナルのお働きが支えられますように、お祈りいたします。
新聞やテレビでは毎晩のように旧統一教会と政治家とのかかわりが報道されています。このような醜い政治と宗教、お金の買収での集票は、今回の事件は昔からあり、氷山の一角なのですね。奈良県の容疑者と言われている人を応援しようと、今は減刑の署名運動が始まっています。今1万名の署名が集まっているそうです。既存の教会では、統一教会の勧誘や霊感商法のことについて、信者同志話し合うとかは何もありませんね。私たちは、礼拝に出るたびに社会に対して無関心、困っておられる人に対して冷たさを感じます。霊的な弱さをも感じていました。皆さんただ形式的に礼拝を守っているだけなのです。何か変だと感じていますが・・・。どうしたらよいのでしょう。
=この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております= 編集子
『ありがとうございます』
「つのぶえジャーナル」10月号を皆さまにお届け出来ますこと、神様に感謝しております。また、皆様の励ましとご支援を頂いておりますこと、心強い支援になります。台風14号の被害に遭われた方々のお気持ちが、お手紙やメールで頂きますが、辛い気持ちで後片付けに励んでおられます。神様のお守りを祈らせていただいております。
大分県におられる方からメールをいただきました。・・・・今朝の散歩のときに、今はお住みになっていない庭先に桔梗の花を珍しく見ることができました。何だか淋しい気持ちになりましたが、元気を出して秋を迎えましょうねとお花からエールもらいました。お住みにすみになっていた方も、お元気にお過ごしで、思い出されていることと思いながら朝の散歩を終えて一息ついたところです、とのメールでした。・・・。
2022年8月16日から2022年9月15日までにお送りくださいました方々です。
酒井裕里子様 宇佐神正武様 小山田一郎様 田上良子様 加納さおり様 佐藤のり様 馬場暁美様 匿名1名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
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(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
「つのぶえジャーナル」の文書伝道事業は、キリスト教の名の下に行う霊感商法など旧統一教会・歴史的キリスト教の聖書を軽視するエホバの証人の団体とは、一切関係はありません。どうぞ一人で抱え囲まずに公的機関か伝統的キリスト教会か、「つのぶえジャーナル」宛にご相談ください。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」