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ほっとひととき『みんなのコーナー』
☆ メールありがとうございます。25日は夫婦二人で過ごしました。
教会のクワイヤーも30年前に途絶えてしまいましたので懐かしいです。宇都宮の26日の朝は寒い朝です。でも氷点下になっていませんが。小生は、今日から1/4まで休みで、病院と掃除とゆっくりと読書と出来たなら、ギターの練習をしたいと思っています。23日ウォーキングの途中でブロック塀の上にアケビがありました。ご自由にお取りくださいとありました。こうゆう光景もなくなったなあと感じています。枯れた木の中に黄色い花が咲いています。知らない植物ですが・・・。 栃木県 K・Eさん
☆ 今年を振り返ってみましたが、初孫が産まれ、腰痛も何とか悪化することなくですが、来年に持越しです。一年の計画・・・ですが、とても苦手で、何でもその時判断主義です。献立を考えてスーパーで買物も出来ないのです。それでも主人は我慢?して不平も言わず、時々、美味しいよ! と言ってくれるので、感謝しています。でも得意はお掃除です。12月に入ってから、晴れの日を見計らって家のカーテンを全部洗濯しましたよ。神様は何か一つ得意なものをくださるのですね。感謝して、新年を迎えます。 山形県 N・Uさん
☆ 明けましておめでとうございます。お友だち以外からのメールは「ジャーナル」さんが初めてです。今日は1月7日です。ありがとうございます。今年も、更新を楽しみにしております。・・・。 石川県 T・Yさん
☆ ・・・。年末に、福祉タクシーを予約して、今年も3日に主人と礼拝を守ることが出来ました。主人にとっては昨年8月以来の礼拝ですが、車椅子の上で小さい声ですが、讃美歌を歌っておりました。礼拝後は、皆様に声を掛けていただき感激、感謝でした。夕食時の会話は、盛り沢山の皆さんからのお声とお話が話題で、心が満ち足りたひと時でした。今年も私たちの健康、体力、そして信仰が守られて、夏もまた福祉タクシーを利用して主人と一緒に礼拝が守れますようにと、今から神様にお願いしております。どうぞ、お祈りで支えてください。 愛知県 I・Nさん
☆ 今、熊本にいます。母の容体が急変して、12日の日から今も母の看病をしている日々です。仕事は辞めてはまだいないのですけど・・・❗、月末には病院の方へ戻りたいとは思っていますが、分かりません。お祈りください。 愛知県 M・Nさん
『ありがとうございます』
今年も1月が終わろうとしております。近くの保育園の先生方が忙しくなるのでしょう。卒園、入園の準備をされている様子が遅くまでの明かりで分かります。保護者の方々もまた同じでしょうか。
そうして「新XXX]と言う文字が春を告げてくれます。今は心なしか暖冬で大きくなっていた蕾もこの寒さで硬めの蕾に見えています。沖縄の友人から、春の季語の「うりずん」(潤い初め)(琉球方言)という言葉で、メールが送られてきました。それに見合うこの地方の言葉を捜したのですが、私の知識では探しだすことは出来ませんで、味気ない返信でご勘弁いただきましたが、古里では、今は「ひゃっこい(冷たい)、しばれる(凍る)時期です。同じ日本でもこの違いのあるのに、不思議ですが感動しています。
今月も、尊い寄付金をいただきました。感謝いたします。
2015年12月16日から2016年1月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者
豊嶋 望様 宇佐神正武様 馬場暁美様 和田順一様 和田貴美子様」堀 瑛子様 藤澤徳治様 金田好美様 様
郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
「クリスチャン音楽家を支える会」寄付者 藤澤徳治様
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
神さま、罪びとのわたしをおゆるしください。
~ルカ18:13~
私たちを神より離し、すべてのものの上に災いと悲しみをもたらすものは、何でしょうか。それは、誰もが持つ弱さと罪であると聖書は言います。しかし、生ける者が持つ弱さ、罪を私たちは、心の中では認めても、それを公にすることは日本人の私たちには、とても難しいことです。その理由の一つになるかどうかは別にして、神様との関わり方が異なるからでしょう。弱さは認めても罪としては認められないとするなら、どのように生きるべきなのでしょうか。
それは、罪を赦し、弱さを愛をもって強め、励ましてくださる神を知ることではないでしょうか。
弱さも、不完全さも、穢れも全て、受け止めて下さるお方が居られると知ること。罪を罪としてその身に負って下さり、赦しという約束をしてくださるお方を知ることが、とても大切なこととなるなら、それを知ろうではありません。
私たちの中に、心の弱さを克服し、悲しみに打ち勝つ力がないと認めることは、敗者・意気地なしでしょうか。そのように見られ、言われても、いいではないですか。
罪深い者と認めることは、誇りを傷つけることになるのでしょうか。むしろ、正直に認めることに、希望があるとするなら、認めようではありませんか。偽善者として生きるよりも、罪を認めて生きる者に喜びが約束されているなら、それを信じようではありませんか。
『神さま、罪びとのわたしをおゆるしください。』という心の叫びは、真実・正直な告白です。
私たちは、この告白を、人の前では出来ません。しかし、可能にするのが、許すことの出来るお方であると、知り、認め、信じることで可能にするのです。そのお方こそ、私たちの救いを約束し、保証し、確かなものとして示された、十字架のキリストなのです。
私たちの日々を、捜し求める人生にするか、信じて、その恵みに生きる人生にするかは、神様を信じるか、自分の迷いの中で生きるか二つに一つとするなら、神様を信じる2016年にしようではありませんか。
**************************
・・・ 12月号を ありがとうございました。一頁目に干し柿を載せて頂いて、なんだか気恥ずかしいです。 冷えてきました。どうぞお身体大事になさって下さいませ。・・・
小閑記
それはどんな種よりも 小さいが・・・。
=マタイ13:32=
私たちの思いの中に、多いより、少ない方を軽んじる傾向があるように思います。世の支配者はその力の誇示を示すために、数を誇り、巨大な建造物を作って来ました。中国では万里の長城。バベルの塔、エジプトの強大な軍隊やピラミッドや神殿などは聖書の中に記されています。あのピラミッドは、この世の支配者と言うものの特徴・特質を、よく示しています。
しかし、それとは反対な記事もあります。教会は最も小さいところから誕生しています。ダビデは、エッサイの子らのうち、最も小さい者でした。「ユダの氏族のうち小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る」(ミカ5:2)。この民が神の民となります。神は、この世の支配権をこの小さな群の上に建てます。神は「どんな種よりも小さい」種を蒔かれます。
神の群れの力は「二人または三人が、わたしの名によって集るところ」(マタイ18:20)にあります。
日本は、高齢者の増加と少子化が将来の大きな課題となっているように、教会も同様の問題の克服に苦闘しています。礼拝者の減少、教会学校の生徒が少なくなっています。家庭集会などの諸集会の減少、祈祷会・聖書研究の集まりの少人数を憂いています。しかし、伝道不振で意気消沈しているなら、反省すべきであると思うべきです。
少数者だからと言って、それを自分で侮ってはいけないのです。大勢の群に憑かれているなら、もう一度、この「二人または三人が、わたしの名によって集るところ」の意味・祝福を深く知るべきであるのではないでしょうか。
教会の主は、二人または三人という小さな群に、勇気を与え、新しく奮い立たせて下さるのではなかったですか!
「からし種の譬え」に対する信仰を持ちましょう。私たちは、卑しい者、弱い力であり、少数者として、圧倒的多数者のこの社会の霊的勝利者として、2016年を歩みたいと思います。アーメン。
世田谷通信(148)
猫 草
久しぶりに水族館へ行く機会があった。次男が水族館や動物館好きだった数年前は毎週のように通っていたのだが、しばらくぶりである。
入るとまず巨大水槽は定番。いったい何トンの水だろう。もしガラスが割れたら(もちろん滅多なことでは割れませんが)そりゃもう凄い水圧だろうなあとか、余計なことを考える。
フロアは基本的に暗くて水槽は明るい。水槽の奥から正面のガラスに向かって光を当てている。これは人間が魚を見やすいのと同時に、魚からは人間が見えにくくストレスを減らす効果がある。と、とても臆病なチンアナゴの水槽でエサをあげている飼育員さんに教えてもらった。展示の手前にいるのは前からいる個体、奥が新顔。確かに古株は時間と気配で砂からニューっと体を伸ばしてエサを待っているが、新入りはびくびく様子をうかがっている。でも少ししたらみんな穴から体を伸ばしてエサのプランクトンを食べていた。
もう一つ、この際ぜひ見たかったのがカイロウドウケツである。これは長男が片利共生の例だと教えてくれたのだが、深海にすむサンゴに似た生き物で、見た目はガラス繊維でできた20センチほどの細長い籠形をしている。その中に住んでいるのがドウケツエビ。必ず雌雄ペアでいる。籠の口は閉じているので、エビは外敵から守られるが、外にも出られない。夫婦で一生をその中で過ごすことから「偕老同穴」という名前がついているのだ。珍しい深海生物なので展示している水族館はめったにない。飼育員さんに聞いたらここでも飼育は極めて困難で、中のエビは生きているが、籠のほうは死んでいるのだそうだ。理由はカイロウドウケツ自体、何を食べどう暮らしているのか生態がよく分かっていないから。せっかくなので色々聞いてみる。必ず夫婦1組だけ?余計な1匹が同居することはない?その質問自体が余計なお世話という気もするが、成体では夫婦だけだそうだ。でも深海にドウケツエビの家となるカイロウドウケツが沢山あるわけではないので、ペアになれなかった個体は住処がなく、他の魚のエサに・・という悲しい現実が待っている。キラキラと宝石箱のような魚の世界だが、ここでも生きるために縄張りとエサを巡って覇権を競っている。外から見れば夢のように美しくても内側は甘くない。シビアな一面でもある。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
『美しい朝に』・・14・・
11月17日
昨日とはうって変わって大雨の大阪です。今日17日(火曜日)は、血液内科の外来治療の日でした。血液検査の結果は、ステロイド0錠で血小板正常値でした。難病は完治ではなく寛解(かんかい)です。お祈りして頂き本当にありがとうございました。本当に心強い1年間でした。めまいは、ステロイドの副作用で自律神経が乱れているのだろうということで、頓服をいただきました。今年は、12月8日に行きますが、来年はもう少し間隔をあけての検査でいいようです。風邪をひいて再発する可能性もあるので血小板に気をつけながら過ごしていきたいと思っています。
11月19日
今日19日(木)は、こわい内科の先生の予約日で、体重測定のある日でした。体重は、増えも減りもしていませんでした。17日にITPが、寛解(かんかい)しましたと伝えました。先生に「良かったですね。でも、もうステロイドのせいにはできないのだから、お顔をみせてもらえるごとに、マイナス1キロになるようにしましょうね」と言われてしまいました。でも、明日は阿倍野で、友達とお茶します。バスで1本なので、気分転換に写真も写せたらいいなと思っています。風邪予防にマスクをして行ってきます。
11月23日
こんばんは。1日中雨でした。昨日は、全然眠れなくて、しんどくて動けませんでした。じっとしている日は、寝ていても良い日と自分に言い聞かせていますが、自分に甘い日があってもいいですよね・・・・。
12月8日
今日は、大阪は晴れです。血液内科で風邪のお薬をいただきました。風邪をひいても血小板が下がるかもと言われていましたが、プレトニン0錠で今回は血小板27万と正常値でした。多くの方にお祈りして頂いて感謝です。長村先生のおすすめで、メール原稿を載せていただいて、「つのぶえジャーナル」で、多くの方に支えられております。皆様のお祈りの力だと、感謝しています。ステロイドを1年も服用していましたので、副作用で血糖値は180あり、骨も弱ったのか膝もひどくなり、電車で出かけることが困難になりましたが、徐々に体重を減らせれば血糖値も減り、膝への負担も軽くなるだろうと課題は残されていますが、頑張ります。
クリスマスは、今年も教会へは行けませんが、教会の方から暖かいメッセッージのクリスマスカードをいただいて、思わず笑顔になりました。 「つのぶえジャーナル」12月号では富井悠夫先生のお名前もありました。「つのぶえジャーナル」に、深く関わらせていただき、難病と向き合う1年でしたが、神様から大きな恵みをいただいた1年でもありました。「写真」だけの時とは違い、じっくり読ませていただくようになりました。
神様は、「叫ぶようなお祈り」をする機会を与えてくださいました。辛いと思えることも、実はこれからの人生になくてはならない出来事なのかもしれません。病気の方や重荷を背負われている方とそのご家族のために、お祈りいたします。
12月10日
こんばんは。今日は雨降りの1日でした。朝7時前に主人の車で家を出て
12月17日
こんにちは。今日は晴れていますが、気温が低いようです。昨日、お風呂の小物をお風呂のお湯の温いうちに湯船で一晩ハイターにつけておきました。今朝、期待したほどは、きれいになっていなくて洗面所に椅子を持ってきて、お風呂の椅子や洗面器・石鹸入れ・シャンプー置きなどたわしでこすったらきれいになりました。お風呂場も、排水溝も磨きました。疲れましたが、休み休み年末の大掃除です。
12月21日
夕方から、雨がやんだので主人に、御堂筋イルミネーションを写しに連れていってもらいました。あまり、きれいには写せませんでしたが車の中で写せるのは感謝です。
お祈りありがとうございます。
大阪府K・Aさん
(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)
その愛のゆえに
=時々の記=
(117)
11月20日
人間は感情の動物ですから、いつもいつも、喜んでばかりはいられません。それでも、感謝する日々でありたいと願っています。こちらは午後から久しぶりに晴れ上がりました。一気に紅葉が進み、昨日まで気が付かなかったのに今日は燃えるような真っ赤な紅葉に散歩道で出会いました。まあ~なんと自然の赤の美しいこと!!感嘆してしまいました。
初時雨帽子被りて教会へ。
谷紅葉見上げて暫し動かざる。
車椅子病室を出づ小春の日。
茶の花の小さく清楚に開きをり。
朝霧の二上山(ふたかみやま)を隠しける。 馬場路哉
11月30日
寒さは朝は厳しかったのですが、午後は温かくなりました。名張まで、入院されている信徒さんのご主人をお見舞いに行ってきました。やはりどの車も気忙しく走っていました。ブレーキとアクセルを踏み間違えないようにゆっくり運転していますと、後ろからもっと早く走るように促されて困っているこの頃です。
私は最近、一週間の献立表を作っています。それは栄養を考えてではありません。主人が週に一度、伊賀上野まで食料の購入に行ってくれますので、無駄使い、無駄買いを防ぐためです。献立表を作っておくとお互いに、気を付けるようになりました。出来るだけ野菜を中心にしています。でもこの野菜料理が結構手間がかかりますね。主人は今月は「桂木」という俳句会からお褒めを頂き上機嫌です。
薄雲の空絵となれる小春の日。
面影や畔に咲きたる野紺菊。
二種類の虫つきてをる花八手。
良く伸びし万両杖を添えられる
数多なる岩見えをりて川かるる。 馬場路哉
12月4日
俳句が出てきましたのでお送りいたします。
老犬の散歩を請ひぬ冬の暮れ。
ここにこそ荘厳さあれ冬銀河
故郷や漆紅葉の又見ゆる。
茶の花の芯(しべ)は朝日に眩しかり。
過疎の村寂寥(せきりょう)として木の実落つ。
長年の馴染みとなりし日記買ふ。 馬場路哉
来年の日記が出回ってきました。主人は毎年農業日記を購入しています。農業もしないのになぜかよくわかりませんが慣れているので書きやすいのでしょう。
12月12日
昨日の嵐で落ち葉が最後の一枚までも吹き飛ばされて、庭一面を覆っています。
私は落ち葉が気にならないのです。とても風情があって・・・。ところが人は様々でその落ち葉が気になって仕方がないといっては落ち葉を掃き出してしまう方が多いのです。
しきりに落ち葉を掃く音が隣り近所から聞こえてきます。風が吹けば、また同じことの繰り返しなのにと思いながら、その様子を静かに見ている私です。
一面に日の差す雑木の山眠る。
山中の一軒家なるクリスマス。
雲間より冬日チャペルに差しにける。
学び舎に大きな花輪クリスマス。
緩和ケア選びたる日の冬紅葉。 馬場路哉
今年もさまざまな思いで年の瀬を迎えられる方がいらっしゃるのでしょう。苦しみの中、悲しみの中にあるすべての方たちに、イエス様の愛がゆたかに注がれますように、お祈りするものです。
12月18日
教会の真の霊的力は一人一人の信徒が信仰にしっかり立っていくことがとても大切ですね。そのことを来年い続けたいと思います。古くからの仕来たりのなのですが、今夜は今年最後の納税日なのですが12月だけは忘年会を兼ねて村の食堂で受け渡しをいたします。主人は今から出かけます。とても寒くなってきましたので、みなさんあわてておられます。こちらは山では雪化粧となりました。その影響か、山からの風がとても冷たく感じられます。間もなく平地でも雪が舞うのでしょう。
マイナンバーが無事にお届けできほっとするまもなく郵便局では年賀状を受け付けています。嬉しい悲鳴ですね。今は年賀状がずいぶん減ってきているようですが、メール便がとても便利ですのでそちらを利用される方が多いのでしょう。
イエス様のご誕生を心からお祝いできる幸いを覚えるものです。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
解説 ウエストミンスター信仰告白 (43)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第20章 キリスト者の自由及び良心の自由について・・2・・
3 キリスト者の自由を口実にして、何か罪を犯したり欲情をいだいたりする者は、それによって、キリスト者の自由の目的を破壊する。すなわちそれは、敵の手から救い出された、わたしたちが、生きている限り、恐れなく、主のみ前にきよく正しく仕えることなのである(1)。
1 ガラテヤ5:13、Ⅰペテロ2:16、Ⅱペテロ2:19、ヨハネ8:34、ルカ1:74,75
三 自由の強調は一方で律法無視の危険を伴うものである。それは、律法の強調がパリサイ主義の危険を伴うのと同様である。わたしたちは生きるにも死ぬにも、主のためでなくてはならない。主に仕える生活は、主が聖であるように、聖くなることを建前としなければならない。従って、罪を自発的に犯す生活は、キリスト者の自由と両立しない。自由は罪を犯す自由ではない。自発的に神に仕える自由である。
4 神が制定された権力とキリストが買い取られた自由とは、破壊するためでなく、互いに他を保持し維持することが、神によって意図されているのであるから、キリスト者の自由を口実にして、国家的または教会的権能のいずれであれ、合法的な権能またはその合法的行使に反対する者は、神の制定に反抗している(1)。また自然の光や、信仰・礼拝・または行状に関するキリスト教の周知の原則や、あるいは敬けんな権能に反するような意見を公表し、あるいはそのような行為を支持すること、あるいはその性質上または公表や支持の方法上、キリストが教会の中に打ち建てられた外的平和と秩序にとって破壊的な誤った意見や実践をするならば、そのような者が教会の譴責(2)と国家的為政者の権能(3)とによって、責任を問われ告訴されるのは、合法的である。
[1787年合衆国長老教会総会改訂「そのような者が教会によって譴責されて、責任を問われ、告訴されるのは、合法的である」。日本基督改革派教会第4回大会採択]
1 マタイ12:25、Ⅰペテロ2:13,14,16、ロマ13:1-8、ヘブル13:17
2 ロマ1:32、Ⅰコリント5:1,5,11,13(*)、Ⅱヨハネ10,11、Ⅱテサロニケ3:14、
Ⅰテモテ6:3-5、テトス1:10,11,13、テトス3:10、マタイ18:15-17(**)、
Ⅰテモテ1:19,20、黙示2:2,14,15,20、黙示3:9
*ロマ1:32をⅠコリント5:1,5,11,13と比較
**Ⅱヨハネ10,11、Ⅱテサロニケ3:14、Ⅰテモテ6:3-5、テトス1:10,11,13、テトス3:10を、マタイ18:15-17と比較
3 申命13:6-12(7-13)、ロマ13:3,4、Ⅱヨハネ10,11(*)、エズラ7:23,25-28、
黙示17:12,16,17、ネヘミヤ13:15,17,21,22,25,30、列王下23:5,6,9,20,21、
歴代下34:33、歴代下15:12,13,16、ダニエル3:29、Ⅰテモテ2:2、イザヤ49:23、ゼカリヤ13:2,3
*ロマ13:3,4をⅡヨハネ10,11と比較
四 ここでは、更に、具体的に律法無視論(アンティノミアニズム)を否定する。秩序そのものは神の機能に属し、自由と矛盾しない。神の意志である律法とキリストの賜物である自由とは両立する。従って、キリスト者の自由に基づいて、非聖書的な命令に服従しないと言うことは、それを命じている国家または教会が、明白に神にそむき、神の権力を非道な命令で犯すこと、すなわち、暴政を行おうとしているとの確信に基づいてのみ、実践されるのである。
この場合、これを命じている国家または教会の当局者が、自分の命令が明らかに神の意志(聖書の教え)であると確信しているとしたら、当然に二つの確信が対決となり、為政者は不服従者を神への反抗者として譴責、処刑する権利と義務を負うのである。この場合、わたしたちは神の意志とは聖書のうちに啓示されている意志を指すべきもので、何か直接啓示的に為政者に神の声がかかぅたと言うような、神秘主義、または為政者の側でのみ、それを神の意志と断定する特権があるというような権力主義を認めてはならない。
<付言>
ウエストミンスター信仰基準において、この自由に関する点は、大小教理問答には全然言及がなく、信仰告白のみで取り扱われているという現象は、わたしたちの注意をひくところである。多分、この問題が常識的に取り扱われていることの危険を感じてのことであろう。予定論以上に、当時の情勢下ではこの事柄は注意深く語られる必要があった。教会は律法主義に対してより以上に、律法無視論を警戒していたと思う。
そこで本章全体も、律法主義に対しての警告はほとんど言及されていない。ルター派に比較し、特にこの点が見える。しかし、律法の正しい意義を知るためには、自由の正しい理解が伴わなければなし得ないと思う。律法と自由とが各章を連ねて論じられているのは、そのためであろう。
バルト主義では、福音と律法と言う方式が愛用されている。本信条では、律法と自由とが表裏をなして論じられている。この論じ方の相違は大変重要である。改革派神学体系では、神と信者との関係は、まず根本的に契約の関係として規定されている。律法関係も、福音関係も根本的には契約関係である。契約は恩恵関係と義務関係との両面を持っている。律法関係も福音(あるいは信仰)関係も、恩恵関係であり、義務関係である。このような意味で、自由のない律法はなく、律法のない自由はない。だから律法を説いて自由を説くことを怠れば、結局、律法がないことになり、自由を教えて律法を教えなければ、自由を教えていないことになる。
ひと言で言えば、律法主義も律法無視論も同じ誤りを犯しているのである。自由を主張することに危惧をいだく必要はない。それを心配するなら、なぜ、律法を主張することにも同程度の心配をしないのだろうか。無軌道信者を作ることと、パリサイ的信者を作ることと、どちらが悪いのだろうか。改革派教会が真に聖書的教会であり、改革派信者が真のクリスチャンであるためには、自由と律法とを同時に、同様に尊重するのでなければならない。
牧会上の便利から、もし律法を10回教えて、自由を1回しか教えないなら、パリサイ主義の信者を作りつつあると思わなければならいのではないだろうか。日本人は昔から儒教の影響で律儀な人間を尊敬してきた。それはパリサイ主義に通じる道ではないだろうか。
嵐に会っても信仰を貫くことは、キリスト者の自由と良心の自由を、はっきりとつかんだ信者でなければできないことである。イギリス清教徒の強さは、スコットランド・カルヴィン主義者(ジョン・ノックスを見るとよくわかる)の強さと相まってのみ、はじめて真に聖書的信者の偉大であったことが分かる。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (58) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・6・
-裁判-
―タキン党事件に思うー・・1・・
死刑は免れることはないと思っていた二回目の事件は、穴沢弁護士や、ビルマ人の友情によって助けられた。15年の刑を受けて東独房に帰って来た私を、運動に出ていた出田大佐たちは、「よかった、よかった。生きていればいつか必ず日本に帰れるからなあ」と肩を叩いて喜んでくれたのである。
今まで自分の裁判のことのみで死刑の判決を受けている東大尉たち10名の友が西独房にいることすら忘れていた自分が恥ずかしく、申し訳なかったと思う。
タキン党事件で死刑を受けている多くの友は、怒涛の如く攻め寄せる優勢な敵の包囲網を突破して、ようやくモールメンに辿りついた者たちである。タキン党事件で殺されたあのビルマ人たちが、日本軍に対してどのような役割をなしたのか、詳細には知らないと思う。ただ命じられるまま、現場に行き彼らを斬ったからである。
そもそもこのタキン党事件で彼らを逮捕したきっかけは私のような気がしてならない。否、張本人かも知れないのである。
昭和20年2月も終わりに近い暑い日の出来事であった。私と親交の深かったモールメン地区のタキン党の幹部であった、タキンタント〈印緬混血〉から、「明日の夕方6時に街外れにあるモッポのパゴダ〈寺院〉に通訳を連れず一人で是非来てほしい。話したいことがある」との連絡があった。私は唯事ではない・・・。「何かあるな」との予感がした。拳銃を懐に忍ばせ高鳴る胸の動悸をおさえて指定された場所に行った。日中の灼けつくような太陽はすでに西の空に沈み、僅かにそのあたりはぼんやりと明るさが残っている。
しかしパゴダの付近は薄暗かった。まだ早かったかなと思いつつ、塔の中央付近まで歩いて行くと、何処ともなく現われた大柄なタキンタントは人目を避けるようにパゴダの陰に身を寄せて、“マスター”と呼びかけて来た。そして私に思いもよらない情報を知られてくれたのである。
彼「ビルマのタキン党とビルマ軍は間もなく、日本軍を叛乱するであろう」
私「それは本当であるか」
彼「本当である。タキン党員でモールメン地区の責任者である私が言うのだから間違いない」
私「モールメン地区のタキン党員もその一味であるのか」
彼「そうです。ただ誰と誰がその関係者であるのかの名前は私の口が話すことではない。その人物はマスターの方で調査して下さい。これ以上詳細にお話しすることは出来ない」と一気に私に話してくれた。私は彼の言葉に驚きつつ、質問を続けた。
私「こんな重大な情報を何の理由で私に話すのか」
彼「私は同志を裏切るような行為は本当はしたくない。むしろ同志にはこころ苦しく思っているが、再び英軍がこのビルマに来ることだけは許せない。この英軍に協力しようとしている同志たちにときには憎しみさえ感じる」と言う。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (58) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・6・
-裁判-
―タキン党事件に思うー・・1・・
死刑は免れることはないと思っていた二回目の事件は、穴沢弁護士や、ビルマ人の友情によって助けられた。15年の刑を受けて東独房に帰って来た私を、運動に出ていた出田大佐たちは、「よかった、よかった。生きていればいつか必ず日本に帰れるからなあ」と肩を叩いて喜んでくれたのである。
今まで自分の裁判のことのみで死刑の判決を受けている東大尉たち10名の友が西独房にいることすら忘れていた自分が恥ずかしく、申し訳なかったと思う。
タキン党事件で死刑を受けている多くの友は、怒涛の如く攻め寄せる優勢な敵の包囲網を突破して、ようやくモールメンに辿りついた者たちである。タキン党事件で殺されたあのビルマ人たちが、日本軍に対してどのような役割をなしたのか、詳細には知らないと思う。ただ命じられるまま、現場に行き彼らを斬ったからである。
そもそもこのタキン党事件で彼らを逮捕したきっかけは私のような気がしてならない。否、張本人かも知れないのである。
昭和20年2月も終わりに近い暑い日の出来事であった。私と親交の深かったモールメン地区のタキン党の幹部であった、タキンタント〈印緬混血〉から、「明日の夕方6時に街外れにあるモッポのパゴダ〈寺院〉に通訳を連れず一人で是非来てほしい。話したいことがある」との連絡があった。私は唯事ではない・・・。「何かあるな」との予感がした。拳銃を懐に忍ばせ高鳴る胸の動悸をおさえて指定された場所に行った。日中の灼けつくような太陽はすでに西の空に沈み、僅かにそのあたりはぼんやりと明るさが残っている。
しかしパゴダの付近は薄暗かった。まだ早かったかなと思いつつ、塔の中央付近まで歩いて行くと、何処ともなく現われた大柄なタキンタントは人目を避けるようにパゴダの陰に身を寄せて、“マスター”と呼びかけて来た。そして私に思いもよらない情報を知られてくれたのである。
彼「ビルマのタキン党とビルマ軍は間もなく、日本軍を叛乱するであろう」
私「それは本当であるか」
彼「本当である。タキン党員でモールメン地区の責任者である私が言うのだから間違いない」
私「モールメン地区のタキン党員もその一味であるのか」
彼「そうです。ただ誰と誰がその関係者であるのかの名前は私の口が話すことではない。その人物はマスターの方で調査して下さい。これ以上詳細にお話しすることは出来ない」と一気に私に話してくれた。私は彼の言葉に驚きつつ、質問を続けた。
私「こんな重大な情報を何の理由で私に話すのか」
彼「私は同志を裏切るような行為は本当はしたくない。むしろ同志にはこころ苦しく思っているが、再び英軍がこのビルマに来ることだけは許せない。この英軍に協力しようとしている同志たちにときには憎しみさえ感じる」と言う。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・37
<続き>
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・3・・
答・・4 「菊と刀」という著書によって有名になったルース・ベネデクトは、欧米の文化は罪悪の文化であるが、日本の文化は恥辱文化であると述べています。罪悪文化というのは神に対する罪が人間の意識の根底にあってそれによって文化が生み出されているというのです。恥辱文化というのは恥の意識が人間の根底にあってそれがもとになって文化が作り出されているというのです。
最初読んだ時には「成る程」と思いましたが、今では必ずしもそうとは言い切れないのではないかと思っています。それというのも、例えば昔から「そんなことをしたんじゃ、お天とう様に申し訳ない」と言われるのを聞いていますし、親鸞が自分のことを「最悪深重」と言い「地獄は必定わが住家ぞかし」と言っていること即して言えば、日本人がただ恥だけを意識の根底においているとは言えないのではないか思えるからです。
親鸞が自分のことを罪深く救い難い人間であると自覚したのは、超越的人格的存在である阿弥陀仏との人格的関わりがあってのことと思います。しかもその救い難い人間であるとしか思えない者であればそうであるだけ救い出さなくてはならないとされるのが阿弥陀仏の本願であることを知らされたことが、親鸞にとって救いであったのです。
親鸞が仏教全体の中でどういう位置付けをされているのかわかりませんが、「善人なおもて救われる、まして罪人をや」という「悪人正機説」は、「キリストは罪人を救うためにこの世に来られた」ということと、救いの構造はよく似ています。ただし阿弥陀仏というのが超越的存在であることと、キリストは真の人としてこの世に来られたこととは違います。
ところで、先述したモーセの第一戒に背いた時どうなるかというと、そういう人は最も崇めなくてはならない方を冒涜したこととして、死刑に処されます。キリストが死刑に処せられたのはキリストの言動が神を冒涜しているからだというのが、その理由でした。実際はキリストは父なる神様のみこころを行うことに終始されたのですが・・・。
神のみこころを行うことに生きた人を神に背く者であると判定したのですから、これほど大きな見当違いはありません。しかもその見当違いに気付くどころか、自分たちこそ神のみこころにかなうことをしているのだと自負していたのですから、救いようがありません。
キリストが十字架の上で、父である神に「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分たちが何をしているのか分かっていないからです」と祈られたのは、この救い難い見当違いの一切を自分の死において担い切られたからです。人間の犯す最大の見当違い(罪)は、人間が自分の価値判断を絶対化することにありますが、その見当違いを命をかけて担う人がいて、赦しが成り立ちます。ここに救いの根拠があります。その根拠となるのが「愛」であると言えます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年1月のラジオ放送予定>
1月 3日 保科 義朝 (日本基督教団熱田教会信徒)
10日 保科 義朝 (日本基督教団熱田教会信徒)
17日 佐野悠紀子 (日本基督教団枇杷島教会信徒)
24日 佐野悠紀子 (日本基督教団枇杷島教会信徒)
31日 田口 博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究」
第71課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・14・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・14・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・2・・
さて、12章には謙遜と柔和とが強く勧められていることに注目しましょう。まず3節には「思うべき限度を越えて思いあがる」と、私たちが容易に逸脱して行くように誘われる状況が描写されています。注意深く考えてみると、このような巧みな誘惑に免疫である者は誰一人いません。
自己の素質、人格、業績、重要さについて過大な評価をしようとする誘惑から逃れることが出来る人はいない。もし、私たちがキリスト信者の謙遜を身につけているならば、神の恵みが私たちに、ますますこのような利己的な誇りと傲慢さとを征服させて下さるのです。
さて、14節には迫害下の行動について教えられています。「あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」。この言葉はキリスト信者にキリスト教迫害者の要求に屈服せよと教えられているのではありません。ここで教えられているのは、迫害者に対する私たち自身の態度・姿勢のことであって、私たちは彼らを呪う代わりに、祝福しなくてはならないと言っているのです。彼らが私たちに悪を行う場合、悪に対して悪をもってではなく、善をもって報いるべきであると教えているのであります。
キリストの死後260年に、ローマ政府によって不当に死刑に処せられた監督キプリアヌスが逮捕された時、ローマの法廷で裁かれ、ローマの神々に捧げ物を捧げるように命じられました。その時彼は断固としてそれを拒否しました。裁判官は彼に注意深く答弁するように忠告し、彼の答弁如何にかかっていることを告げました。その時キプリアヌスは、「あなたの義務を果たしなさい。このことは全く考慮すべき余地のないことです」と答えました。このため、彼は斬首の刑を宣告されたのでした。彼が宣告を聞いた時に言った唯一の言葉は、「神に感謝する」でした。死刑執行日には多くの群衆が集まっていました。その中の多くは彼の友人であり、彼の尊敬者たちでした。刀を構えた執行人はその執行にあたって、震えていました。キプリアヌスは膝を屈して祈りを捧げ、それから彼はその財産の中から25個の金貨を執行人に贈り物として与えることが彼の最後の願いであることを表明しました。こうして彼は誰にも憎悪を示めさなかったばかりでなく、キリスト信者にとっては死ぬことも益であるという真理を深く印象づけたのでした。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」