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『ほっとひととき『みんなのコーナー』
☆ 我が家の12月の行事は、家族の部屋にあるカレンダーの取り替えです。どういうわけか分かりませんが、娘二人はマイカレンダーを飾っていますが、毎年その好みが成長と共に変っています。姉はアイドルから来年は趣味の小物カレンダーで妹はまだアイドルです。私も昨年は外国の観光地カレンダーで旅行気分を・・・でしたが、来年は、主人好みの日本の原風景にしました。皆さんのところは如何ですか・・・。 秋田県 M・Yさん
☆ 今年は冬の訪れが遅く、秋を長く過ごせて有難く思います。忘れん坊の息子の期末テストが近づきハラハラしているところに、親戚のお付き合いの連絡が入りました。あまり重要でない事は最近はスルーしています。真正直に対応してもキリがなく家族も生活時間がバラバラなので 余程でなければ、自分達の生活を守れません。
戦争状態に入ったパリはクリスマス前というのに殺伐としています。中学では進路を考えれない生活を送る生徒達が荒れていますが、生死に関わる事がない中、教科書や勉強する場所を与えられている事に感謝出来れば少しずつ生活態度も変わるかと思います。日本は島国で不便な点が多いもののテロから逃れ易いのが利点だと思います。が、こうも 大都市でのテロが続くといろいろ心配です。年末にかけ、今迄見聞きしたことのない凄惨な事件も増えていますが何とか 元気に年始を迎えれる様、気を付けたいですね。 奈良県 N・Rさん
☆ 看護師として働いてまだ10年目ですが、病床の人や閉じ篭りの人、昼夜忙しくしている人のことを知るとき、今を感謝すると共に、日々の多忙に追われて、気持ちの上でも、祈りも貧しく小さいことに気付きます。自分の行動なんて本当に無そのものですが、祈ること、思うことも無に等しくならないようにと、主にある思いにさせてくださいと祈っています。夜勤明けは疲れます。健康であることを何時も祈っています。田舎の母には、早く結婚しなさいといわれます。その気持ち、よく分かります。田舎に帰って、地域の病院で働き、母の傍に居ることも考えていますが、兄たち夫婦に我儘を許してもらっている今ですから、頑張れます。礼拝にはなかなか行けなので、一人で祈る礼拝です。神様、お守りください。 神奈川県 D・Kさん
『ありがとうございます』
日課の一つに、30年以上前からNHKの天気予報をよく見ます。それは、地域の名前を見ることでメールを下さる方が、どの様にお過ごしなのだろうかと考えることが出来るからです。日本列島は長いと思います。沖縄と北海道とは全てが違います。お花の便りから雪の便りですが、共に同じ時間を過ごしていることに、不思議な安堵感を感じております。故郷の義姉からメールが来ました。・・・。札幌は 今年二度目の大雪になりました。手稲山は雪に蓋われています。お元気に お過ごしのご様子で 何よりです。おかげさまで私共も無事に暮らしております。来年は自分の年まわりの猿年を迎えます。無理は出来ませんが、穏やかに過ごしておりますから、安心してください。・・・。
団地に外国の方が多く居られますが、日々の暮らし方の違いが思わぬ気持ちのズレをうんでいます。毎月の団地全体で行う掃除、決まった日の分別ごみの収集などです。説明不足で意識のズレが生じているための解消に、数ヶ国語の決まりごと案内を、そこに居られる外国の方々の参加を得て、その国の言葉で書くようにしたところ、とても好評で、いろいろの情報を毎月紙にしているところもあります。外国人ではない、ここに住んでいる意識が生まれているようです。「つのぶえジャーナル」もそのような役割を果たせたらと、改めて気付かされました。この年もよろしくお願い申し上げます。
2015年11月16日から12月15日までの「つのぶえジャーナル」事業へ寄付してくださった方々。
伊藤昌男様 光山英夫様 島田祥子様 李 和夫様 長津 栄様 馬場暁美様 匿名5名
郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
神を信じた結果。約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるためである。
=エペソ1:13~14=
キリスト者の生活を、祈り、讃美する。ほめたたえ、捧げ物をする。説教を聞き、献金をし、聖書研究の集まりに出席し、聖餐にあずかり、食前の祈りをする。このような信仰的行為でなされるのが一般的と言えます。キリスト者の信仰生活を堅苦しいと思われる方もおありでしょう。
では、自分の思いのままの生活に、真の喜びは生まれるでしょうか。お互いに自己主張し合う社会、人の目を気にしながら、また人を無視し、差別する社会、会話の無い家族、そこに喜びはあるでしょうか。キリスト者は禁欲主義者なのでしょうか。もし、キリスト者の生活がそのように思われているとしたら、それは証の少ない閉ざされた信仰生活と言えましょう。
キリスト者の信仰生活は、華やかではありません。開放的であっても静かなものでもあります。
社会がめまぐるしく動き、時流の出来事に飲み込まれ、自分を見失うほどの情報に翻弄されて、疲れていないでしょうか。そうであるなら、キリスト者は、批難されても、厳しい傍観者になることが大切ではないでしょうか。一人一人のこころに信仰と救いと約束された証印を受けた者として、勇気を持って「緑の牧場」(詩篇23編)を語り、「いこいのみぎわ」を指し示す信仰の証し(宣教)の時ではないでしょうか。
新しい2016年という歴史を、どのように思い描くかは、キリスト者一人一人の日々の信仰の生活に関わっているとしたら、光栄なことと言えましょう。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことはない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」。(詩篇23:1~4)
小閑記
なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
=Ⅱコリント5:14=
神の本質は愛です。そしてキリスト教の本質もまた愛です。神はその子供ら(人類)に、ご自身の持っておられる性質をお与え下さったのです。
愛は私たちの心に、信仰と聖霊によって産みつけられています。それは、私たちがまず神様を愛したと言う意味で、生じたものではまったくありません。私たちを愛して、そのみ子を私たちの罪の贖いとして下さったのは、神です。
それは私たちにとって(全人類・全被造物)大きな幸せでした。もし、そういう神様のご計画がなければ、私たちは決して神様より来る愛で、愛することには、とうてい、達することはありません。不可能とはこのことです。
しかし、神様の一方的な愛により、愛が示され、それと神様の一方的な招きと導きによって、神様の愛を学ぶことが出来ることは、何と幸いなことでしょう。愛する者は、神様によって生み出されるのです。何というみ業、愛でしょうか!
キリスト者としての私たちの大きな務めは、この愛を私たちの生活の中に取り入れることです。私たちがキリストの愛にだんだんと深く導かれるのでなければ、私たちの信仰・人生は白く塗った虚しい墓となるでしょう。
使徒パウロは言いました。この信仰の歩みの道は、ゴルゴタを通ることであると。信仰者としてそこに立つ時、ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が、ゴルゴタに死んだと言う真理が示されていることを知るのです。パウロがそこで見た愛は、彼を強く捕らえて、その生涯を、私たちすべての人のために死んで下さったあのキリストに捧げたのです。
私たちの人生を、願わくばキリストの愛に根ざし、キリストに生きる者でありたいものです。
今月、全人類が迎えるキリストの誕生の祝いの日を、そのような思いでお迎えしたいものです。
世田谷通信(147)
猫 草
健康食品やサプリメント、ダイエットや健康法にうまく乗れた試しがない。画期的な新発見というので「ほお~」と興味は持つのだが、いかんせん回転が速すぎる。試す前に次の商品に目移りして実行できない。
風邪薬すら、効いた実感がない。喉が渇いたり、頭痛がしたり、副作用はあっても、症状が改善されていると思えない。だから病院で1週間分の薬を出されても、2,3回で勝手にやめてしまう。まあ、正しく飲まず、信用していないので効果もないのだろう。医者に行って薬をもらった事実で安心して、あとは自然に回復するのを待つばかり。
では食生活がきちんとしているかというと、自信もない。家族の食事には野菜多め、塩分控えめ、油少な目、旬の食材を・・と気を使うのだが、自分は残り物と冷ご飯のお茶漬けで満足。三食お茶漬けでも問題ない。炭水化物を一切とらないダイエットも流行中だが、私にとっては炭水化物、特におコメが命綱。
ずっと疑問なのだが、どうして炭水化物が太る原因と言うのだろう。だって、炭素、Cですよ。あんなに燃えやすくて、いろんな物質ともくっつきやすく、エネルギー効率の良い物質はないでしょう。
カロリーを摂取しすぎて、体内に貯めこむから太る。摂取したカロリーは消費すればよく、燃焼効率の良さは炭素、とても優秀。炭火ってずっと燃え続けるじゃないですか。もちろん空気中と違い、体内での燃焼はゆっくりと低い温度で起きているけど原理は一緒。断じて炭水化物は悪者ではないと思いたい。お米好きからのひいき目の擁護である。
ヒトの体に必要なものって新発見とか新開発の凄い成分ではなくて、ずっとそこにある物で足りる。代謝や酵素が発見されたのは最近でも、仕組み自体は何万年もたいして変わってないと思う。昨日、今日の新発見より、ずっとヒトが選んできた実績を信じて、弥生時代からの日本人の宝、お米を今日もいただくのだ。それで不健康になるなら人類はとっくに滅亡している。
『美しい朝に』・・13・・
10月27日
こんにちは。大阪は、良い天気です。娘も来て、主人と息子と私の4人でお昼ごはんを食べました。何故か涙があふれました。家族が生きているだけで幸せです。
昨日は、寝れなくて1日が長く感じます。夕方にもなっていないのにもう充分1日を
過ごして寝ててもいい感じの疲れ方です。それでも空が晴れているだけでも幸せです。いつもお祈りありがとうございます。いつか、一人になっても生きているだけのでありたいです。でもいっぱい泣きながら過ごしているかも知れないです。
10月28日
朝からリハビリに行きました。結構自転車も自動車も急いでおられる人が多く、ぶつかりそうで肩にぐっと力が入り、疲れました。運動だと思いがんばっています。4週目の注射で、連続、5回までと言われてましたが、次週注射をすると、その次は18日になってしまいます。17日(血液内科)19日(内科)の間に入り、3日連続はきついので、連続は今週で終了にしてもらいました。お祈りありがとうございます。娘に送ってもらった写真がきれいなのでお送りします。
11月2日
昨晩3階でベットの上でしたが「天井がグルグル回るよう」に見えて、しばらく、それの繰り返しでした。初めてでしたので怖くて主人に伝えてなんとか寝れました。朝もまだ続いていました。病院は、火曜日が祝日で主治医がいらっしゃらないのです。杖で1階まで下りてきますとなんとかおさまっていますので様子を見ることにします。具合の悪い時に寝ていられるのは感謝です。
11月5日
今日は良い天気です。阿倍野にバスでクリスマスツリーを写しに行ってきました。リースも写してきました。暑かったので「くら」っとしました。ご心配おかけしてすいません。
そしてお祈りありがとういございます。去年も退院してすぐに、家族にもお医者さんにも
内緒でクリスマスツリーを写しにいったことを思い出します。「しんどくても、写真を写すために出かける!」それが、私の気分転換です。無事に家に着きましたのでご安心下さいね。
大阪府K・Aさん
(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)
その愛のゆえに
=時々の記=
(116)
10月21日
この頃は毎日、秋晴れというか午後からは暑ささえ感じられます。いつもの10月では。
義足にて飛べる選手や天高し。
山峡(やまかい)の家を隠しぬ朝の霧。
朝冷えやフルート澄みて聴きにける。
木犀散るや一隅染めをりぬ。
大雨のまばらとなれば虫集く。(すだく)
棕櫚の木の新旧の葉や秋の風。 馬場路哉。
つい先日まで三日月だったのが今日はもう半月になっています。台所の窓からはもう月がみえなくなってしまいました。外に出ての月見となっています。
10月29日
そうですか。今日は78歳のお誕生日ですか。私は、この11月で67歳の誕生日を迎えます。主人が誕生日祝いにと、ウォーキングシューズをプレゼントしてくれました。さっそく犬の散歩に履いて出かけました。何だか慣れないせいか、歩きにくく感じました。もっと歩いて慣れなければと感謝しつつ散歩を終えました。
望月(もちづき)や胸に照るなり主の恵み
牧師説く悔い改めや秋時雨。
気高くも荘厳なりや望の月。
男性のアリア滑らか秋惜しむ。 馬場路哉
11月1日
11月の始まりです。本格的な冬がやってきそうな曇り空の一日でした。寒くなってくると、ここ
クリスチャンではありませんからお祈りもできないし、讃美歌も歌えないのですが、いっぱい積もりに積もったお話をしていると、とても楽しくなってきたと喜んでくれました。今朝は、お元気ですか!とご挨拶を交わすことが出来ました。朝の挨拶は、とても大切ですね。改めて知りました。
11月4日
つい先ほど教会の友から電話が入りました。”暁美さん。お祈りしてください”と言うのです。”何かあったの?”とたずねると、一人息子さんの体調が良くないのでお祈りしてほしいとのこと。私たちの祈りの力は弱くても全能の神様の力を信じてお祈りします、とお答えいたしました。私も今でもそうですが、主人の病気の時には多くの方から祈っていただいて力が与えられました。今もその当時に祈ってくださり、はがきを下さった方たちのカードは家の壁にびっしりと貼ってあります。そのカードがもう色あせてきてはいますが、いつも神様にお委ねしなさい励まし続けてくれています。
朝散歩帽子に触るる山ブドウ。
リハビリの一歩踏み出す草紅葉。
薄雲や神在(ます)す天の高きこと。
流れ星友の癒しを祈りける。
ささやかな花野なりしを刈りにける。 馬場路哉
11月10日
畦道に少し残れる野菊かな。
薄緑なる教会や冬の丘。
明星(あかほし)の煌めきて直ぐクリスマス。
軽き音大きな音や落ち葉踏む。
名盤のシンフォニー聴く暮れの秋。 馬場路哉
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
解説 ウエストミンスター信仰告白 (42)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第20章 キリスト者の自由及び良心の自由について・・1・・
1 キリストが福音の下にある信者のために買い取られた自由は、罪責・神の断罪的なみ怒り・道徳律法ののろいからの自由と(1)、今の悪い世・サタンへの隷属・罪の支配から(2)、またかん難の害悪・死のとげ・墓の勝利・永遠の刑罰からの彼らの解放と(3)、彼らの自由な神への接近(4)、奴隷的恐れからでなく子のような愛と自発的精神から神に服従をささげることにある(5)。これらはすべて、律法の下にある信者にも共通であった(6)。しかし新約の下では、キリスト者の自由は、ユダヤ人教会が服していた儀式律法のくびきからの自由において(7)、恵みのみ座に一層大胆に近付くことにおいて(8)、また神の自由のみたまを、律法の下にある信者が普通にあずかったよりも豊かに与えられることにおいて(9)、更に拡大されている。
1 テトス2:14、Ⅰテサロニケ1:10、ガラテヤ3:13
2 ガラテヤ1:4、コロサイ1:13、行伝26:18、ロマ6:14
3 ロマ8:28、詩119:71、Ⅰコリント15:54-57、ロマ8:1
4 ロマ5:1,2
5 ロマ8:14,15、Ⅰヨハネ4:18
6 ガラテヤ3:9,14
7 ガラテヤ4:1-3,6,7、ガラテヤ5:1、行伝15:10,11
8 ヘブル4:14,16、ヘブル10:19-22
9 ヨハネ7:38,39、Ⅱコリント3:13,17,18
一 ウエストミンスタ―信仰告白は、3つの自由について言及している。第9章「自由意志について」と、この章の「キリスト者の自由」と「良心の自由」がそれである。この3つは深い関係にあるが、必ずしも同じものではない。そのうち、この項は「キリスト者の自由」について述べている。
それは、民主主義で言う基本的人権としての自由とは異なり、キリスト信者のもとに与えられている自由で、どこまでも宗教的自由であって、義認、子とされること、聖化などキリスト者がこの世で受ける救いの賜物の全般にわたることである。救いの恵みを、特に解放という面から見た表現と言えよう。
それは単に消極的な罪の赦しの面のみでなく、新しく与えられる特権面をも含むものである。この点、子とされることは、この自由の中心をなすことといえよう。この自由は、新約時代に与えられた特権であるので、旧約時代の信者もキリスト者ではあるけれども、ここで言うキリスト者の自由に全面的には浴していなかった。パウロの時代の大問題であった「異邦人の自由」と言われるのは、大体ここで言う「自由」に当たるものである。エペソ人への手紙2章なども同様の問題である。
2 神のみが良心の主であり(1)、神は、何事においてもみ言葉に反し、あるいは、信仰と礼拝の事柄においてであれば、み言葉の外にあるところの、人間の教えと戒めから良心を自由にされた(2)。それで、良心を離れてこのような教えを信じまたは戒めに服従することは、良心の真の自由を裏切ることである(3)。また盲従的信仰や絶対的・盲目的服従を要求することは、良心の自由と理性とを破壊することである(4)。
1 ヤコブ4:12、ロマ14:4
2 行伝4:19、行伝5:29、Ⅰコリント7:23、マタイ23:8-10、Ⅱコリント1:24、マタイ15:9
3 コロサイ2:20,22,23、ガラテヤ1:10、ガラテヤ2:4,5、ガラテヤ5:1
4 ロマ10:17、ロマ14:23、イザヤ8:20、行伝17:11、ヨハネ4:22、ホセア5:11、黙示13:12,16,17、エレミヤ8:9
二 ここでは第三の自由「良心の自由」が問題とされている。良心の自由は、ある点からいえば、創造の秩序に属し、人間の基本的な問題である。しかし、罪のもとにある人間としては意志の自由と同様に、効力を伴わない。従って、実際問題としては、キリスト者の自由とともに信者として初めて問題とされる。神のみを己が良心の主とすることは、サタンの下にある人間のなしえないところであり、キリストに贖われて初めてサタンとの主従関係から解放されて、神との主従関係が確立するのである。神を知ることと、神を愛することと、神に従うこととが同時的に連なっていることを、わたしたちは認めなければならない。これがカルヴァンの主張の第一点であった。
本項で直接問題になっているのは、宗教的な観念や行事(本章4項には、信仰、礼拝、行状とある)であって、道徳の原則についてではない。新約時代の信者がユダヤ教的教会の割礼その他の儀式律法の義務から自由にされたように、異教の種々な宗教儀式を良心的に否定する自由を与えられた、いわゆるピューリタン原理であって、かくして礼拝の純正化が生まれるのである。しかし、このことは昔からアディアホラ論争と呼ばれて、ずいぶんやかましい問題である。
メランヒトンなどは、外的な礼拝様式は「どうでもよい自由な事柄」だから、少々カトリック的様式を取り入れても、信仰そのものの妥協にはならないと考えたが、カルヴィンは、それを悲しみ反対した。
アディアホラ論争は、その後ルター派と敬虔派との間で娯楽に関して争われた。しかし、本項での問題はどこまでも宗教問題そのもののことで、聖書に書いていないことを信じたり、守ったりすることはいけないという主張である。いけないと主張することは、一見自由を主張するよりも、自由を否定するように聞こえるが、実は、キリスト者の良心の自由を束縛することだから、それを断固否定せよ、と言うのである。
本信仰告白第一章「聖書について」の6項の後半には、神礼拝や教会政治に関し、ある意味でのアディアホラが認められているとも受け取れる。けれども、本項はあくまでも、メランヒトンたちがローマ・カトリック教会との協調を試みたような、非聖書的儀式を礼拝の中に認容することへの厳重な抗議と理解すべきである。これはコロサイ人への手紙2章でパウロが教えている通り、み言葉への服従のために、み言葉にない教えや戒めを「世の小学」として排除する自由の主張なのである。
ところで、本項の後半は、それを命じる者の立場についての規定である。ローマ・カトリック教会は「教える教会」と「学ぶ教会」という区別、つまり、聖俗の区別を立てていた。改革派教会は、それを否定する万人祭司主義であるから、信者が一人ひとり良心の主、神に仕えて、人間の教えや戒めを否定する義務がある。同様に、信者も教師も、他の信者に向かって、理由の伴わない命令を下す権利は持っていない。主権は神のものであるから、神の僕を自分の命令下に置いてはならないのである。この原理こそ、パウロがローマ人への手紙14章で教えているところで、わたしたちは自分の良心の自由とともに、他人の良心の自由を尊重しなければならない。
さんびか物語・・・21・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・20
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌217番
あまつましみず
<神様のみ言葉>
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。あなたがたに与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます』」。
~ヨハネの福音書4章13節~14節~
讃美歌217番"あまつましみず″は、日本の讃美歌作詞者の作品のうちでも、最も古いものの一つであると言えましょう。それは、この美しい讃美歌が1884年(明治17年)に発行された「基督教聖歌集」におさめられていたからです。そしてこの作品は、この聖歌集から明治版「讃美歌」を経て昭和版「讃美歌」に編入された歌であるからであります。
また、この讃美歌の作者についても驚きです。それは、作者が作詞した年齢であります。この作品は永井えい子の17、8歳の頃のものであったそうですから、まだうら若い乙女の頃と思います。ですから、その若さと詩の美しさに驚きを禁じえません。
永井えい子は1866年(慶応2年)に、松本貞樹の子として上総国(千葉県)馬来田村に生まれました。彼女は幼い時から文学を学び、書をよくし、和歌なども作ったりしていました。そうして、1875年(明治8年)頃、東京の救世学校(青山女学院の前身)に入学して、キリスト教主義の教育を受けたのであります。
彼女は、わずか17歳にしてジャン・キャロル・デピソンというメソジスト派の宣教師を助けて「基督教聖歌集」に収める歌を作ったり訳したりしていました。この伝道的な217番‶あまつましみず″はその時の作品の一つでした。
また彼女は、ムス・ホルブルック(後のミセス・チャペル)というカナデアンメソジスト派の宣教師を助けて、四谷あたりで伝道もしていました。1883年(明治16年)には女子高等師範学校の助教授となり、さらに華族女学校、実践女学校で教えもしました。そして、その後、毎日新聞の記者にもなっています。
1902年(明治35年)にはアメリカに渡って、Ide Tama(いでたま)というペンネームで日本の風俗等について講演し、パシフィック大学から学位を授けられています。彼女は1928年(昭和3年)に62歳で亡くなりましたが、遺構「永井えい子詩文」は1300ページもある大きな本だそうです。
讃美歌217番の曲HOME(この曲は430番の結婚式にも用いられています)は、日本では明治時代から広く親しまれてきた曲であります。しかし、残念なことに作曲者ジョン・H・マクノートン(1829~1901)についての詳しいことは、ほとんどわかりません。
彼はたぶん無名のアメリカ人であったようです。なぜなら、この曲はアメリカの宣教師が、日本伝道用にもってきた、伝道用福音唱歌であったからであります。それはともあれ、この讃美歌の作詞者永井えい子と作曲者マクノートンのコンビは本当に素晴らしいものと思います。歌詞と曲とが実にうまく組み合わされていて、メロディーとことばが一本の絹糸のように、なめらかに流れているようです。また無駄なことばは一つも使わず、伝道の必要性と歌われた者の喜びを身にしみわたるように歌っています。
<217>
1 あまつましみず ながれきて
あまねく世をぞ うるおせる。
ながくかわきし わがたましいも
くみていのちに かえりけり。
1節ですが、この讃美歌全体の背景にあるのは、主イエス・キリストがヤコブの井戸のかたわらで、サマリヤの女に語られたお言葉であります。
ヨハネの福音書4章6節以下には、ある女がスカルの村にあるヤコブの井戸に水をくみに来たとき、旅の疲れで、井戸の傍らに腰を下ろしていたイエス様が「わたしに水を飲ませてください」と言われました。するとその女は、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女に私に、飲み水をお求めになるのですか」と聞きました。「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」とヨハネは記しています。
そこで主イエス・キリストは「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者が誰であるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」(ヨハネ4:10)と答えられました。
これらの聖句で明らかなことは、この女は神の賜物をまだ知らなかったばかりでなく、キリストご自身についても知らなかった、ということです。もし彼女がこの二つのことを知っていましたなら、彼女の方からイエス様に「いのちの水」を求めたことでしょう。そして、イエス様は彼女に生ける水を与えたことでしょう。
作詞者永井えい子は、主イエス・キリストが与えようとしておられるこの「生ける水」を‶あまつましみず″と言っています。つまり、この水は天からの聖いまことの水であって、世のすべてに流れ渡り、世界のあらゆる国々の人々の心をうるおすことのできる水であります。
国籍や人種は問題になりません。ガラテヤ人への手紙3章28節にありますように、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからである」。
大切な点は「キリスト・イエスにあって」というところにあります。主イエス・キリストを救い主として知り、受け入れていないなら、決して‶あまつましみず″を飲むことは出来ません。むしろ不信仰は‶あまつましみず″を飲んでいないというところにその証拠を見ることが出来ます。
2 あまつましみず 飲むままに
かわきを知らぬ みとなりぬ。
つきぬめぐみは こころのうちに
いずみとなりて 湧きあふる。
2節では、この‶あまつましみず″を飲んだ結果と、味わい知った恵みについて歌っています。キリストを信じ受け入れてから、‶かわきを知らぬ身となりぬ″と言われていますが、これは神様から祝福をいただいた者が証しする信仰の喜びです。また、キリストがお約束なさったように、救い主なるキリストが与え給う水は、信仰者の心の中で泉となって、尽せぬ恵みがたえず湧き溢れると歌っています。
この恵みは、生ける水を飲む者にのみという限られたものですから、主イエス・キリストを信じるか否かは大切な問題であります。
3 あまつましみず うけずして
つみに枯れたる ひとくさの
さかえの花は いかで咲くべき
そそげ、いのちの ましみずを。
3節で積極的にすすめていることは、私たちが〝いのちのましみず″を注ぐようにということです。この世の中にあって、罪の支配に打ちのめされてしまっている魂、息もたえだえに歩んでいる人々がいかに多いかは想像できないほどと思います。
罪に押しつぶされた人々の集団である現代は、罪の温床、魂のない死せる大地・砂漠のようなものです。この一本の草をも芽生えさせない砂漠に誰が命の水を注ぐのでしょうか。
それは、自分以外の誰かでしょうか。そうではありません。クリスチャンであるあなた自身であり私です。クリスチャン一人一人は、その責任を神と人の前に負う者でもあります(マタイ28:19~20)。
私たちはこの尊い責任をはたしているでしょうか。教会は宣教のみ業を今こそ十分に神と人の前になさねばならないのではないでしょうか。
作者が歌っていますように、永遠の花が咲くためには、生ける水・あまつ水が必要なのです。その生ける水・あまつ水を、まずあなたが十分に神様からいただき、そのいただいた祝福の水を愛する隣り人にわかち与える人になってください。
日本の国の救いには、あなたがいただいた信仰の喜びと証しの伝道が必要なのです。栄えの花が満ち満ちるために祈りましょう。
*****************
=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
ビルマ
戦犯者の獄中記 (57) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・5・
9月26日
―裁判―・・2・・
二日目からは、"セヤオンバーの拷問致死″を立証するために、検事は証人モンピンを証言させた。彼は、「私は1945年4月11日セヤオンバーと共に憲兵に逮捕され、憲兵隊に留置されました。遠山がセヤオンバーを取り調べるために房から連れ出すのを何回も見ました。45年4月19日の22時頃、遠山と通訳センタンに助けられたセヤオンバーがよろめきながら房に戻って来たのを見ました。その翌朝、セヤオンバーが死んだ、といって二人の番兵が房から連れ出しました」。
続いて証人オンペイの証言は、「連合軍のスパイを助けたという疑いでセヤオンバーたちと共に憲兵隊に逮捕されました。セヤオンバーは私の隣りの房に入れられていましたが、遠山は彼を取り調べるために何回も房から連れ出しました。帰って来たセヤオンバーは、弱々しく疲れ切っていました。4月19日の夜、房に帰って来た彼は歩行困難で通訳と日本人に助けられ房に入れられました。翌朝、セヤオンバーの房内にいた一人が、番兵にマスター、セヤオンバーが死んでいる、とビルマ語で叫んだのを聞きました。それから二人の日本兵が来てセヤオンバーの死体を房から出したのを見ました」。
検事側証人の証言が終わると間髪入れず弁護士の鋭い反対尋問が行われる。検事から指導された証人も、答弁できず狼狽し、はっきり虚言であることが分かる証人もいた。
三日目を迎えた朝、私は警備に英兵に連れられて便所に行った。用便を済ませた時に、突然大便所の戸がパッとあいて出てきた者は思いがけない、センタン(検事証人元憲兵隊通訳)であった。私は思わず、「おお、センタンか、お前が調書に書いた通りの証言をしたら俺はきっと死刑になるだろう」と叫ぶように言った。センタンは無言のまま、私をじっと見つめて立ち去った。
センタンの供述している調書とは、「セヤオンバーは連合軍の落下傘諜者を助けた廉で憲兵に逮捕留置されました。遠山はある程度のビルマ語を話せたけれども、私を通訳に使いセヤオンバーを取り調べました。自白させるために、たびたび拷問をしたので歩行が困難になり、そして間もなく彼は、死にました」と供述し、調書に「サイン」をしていた。
センタンは検事側の最も有力な切り札とも思われる証人である。検事はセヤオンバーが死亡した原因は拷問の結果であることを立証するためにセンタンを証言台に送って訊問した。
センタンは「遠山は、セヤオンバーを取り調べたが、決して拷問しなかった。セヤオンバーは逮捕された時心臓が悪いと私に話したことがあり、病死であったと思う。彼の検屍に来た日本の軍医も病死である、と話していた」。と証言するセンタンに、検事は驚いた。机を叩き威圧するような大声で訊問をくり返した。センタンの証言は、ますます検事側に不利になるばかりであった。検事はついにあきらめ、途中で訊問を中止してしまった。
センタンの証言が、検事を裏切る、予期もしない証言をした理由の一つは、
終戦直後、わたしが戦犯容疑者としてモールメン刑務所の独房にいた頃のことである。日本軍に協力したとの理由で多くのビルマ人が逮捕され同じ刑務所に留置されていたが、「センタン」はその一人であった。日本軍に協力したために牢獄で呻吟している彼等の姿を見て私は哀れに思った。センタンに「戦争に敗れた俺たちがここに入れられるのは仕方ないが、お前たちまでこんな目に合わせて申し訳がない。英軍は何の取り調べをしているのか」。
センタン・・「戦争中憲兵はどんな悪いことをしたか、憲兵に協力した者は誰であるか等のことを調べている」。
私・・「憲兵の悪口なら何を話してかまわない。これから英軍に協力すると誓って早くここを出ることが大切である」と彼に話したことがあった。
センタンの調書は、その頃、英軍の取調官によって作られた調書である。検事側の全ての証人調べは終了した。続いて被告である私は証言台に立って次の証言をした。
「セヤオンバー及びアネーを取調べするに当たって一つや二つは殴打したと思うが、彼らが証言したような拷問はしなかった。セヤオンバーは老齢で、しかも病弱であった。死因は心臓病であると軍医は診断した」と証言した。
弁護士側の証人である、アオンチー、チョミーはビルマの警察官であったが、日本語を若干話すことが出来たので、憲兵隊に勤務させて、時には通訳として使っていた。
チョミーは・・・「遠山は取り調べを行う時、決して拷問などしたことは一度も見たことがなかった。セヤオンバーは病気で死亡した」。
アオンチーは・・「遠山はを取り調べた時、私も通訳をしたが彼は決して拷問をしなかった」と証言した。
他の三人のビルマ人も直接事件とは関係なかったが、「遠山は温和で立派な憲兵で住民は彼を尊敬し、慕っていた」と具体的な例を挙げて人格証言をした。
すべての証人調べは終わり、検事は論告を読み上げ死刑を求刑した。
大沢弁護士は「セヤオンバーの死因は検事側証人センタン及びアオンチーたちの証言で病死であることは明らかである。アネーを拷問したとの証言は彼等によって作られた虚偽の証言である」との弁論を読み上げ無罪であることを主張した。
裁判長の判定は致死を除き有罪を宣し、禁固15年を科した。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・36
問20・・13 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> ・・大分前のことですが、ある人から「あなたは救われていますか」という質問を受けたことがあります。正直言って、これには困りました。わたしは牧師であり伝道者であって、人々にキリストによる救いを説いているのですから、「勿論救われています」と応えるのが当然だと思うのですが、その質問者に即答出来ず、答えるのにいささかためらいを覚えていました。
そのわけは、その人は当然「わたしは救われました」と言い、それに続けて、いつ、どこでどんなことを経験してその救いを確信するに至ったかを語られるに違いないと思ったからです。そこで、わたくしは「一口に『救われました』と言っても、何をもって「救われた」と言えるか、少し話し合って相互理解をした上でないと、見当違いになる恐れがありますね」みたいなことを言ったものですから、その人は「こんなはっきりしない牧師を相手にしていてもつまらん」と思われたのでしょうか、話はそこで終わってしまいました。
私が小学生の頃、救世軍というキリスト教の一派の人たちが、太鼓をたたいて、町の中を歩き回ったり、広場の一隅で伝道していました。その時よく歌われていたのは「十字架にかかりたる救い主を見よや、こは汝が犯したる罪のためただ信ぜよただ信ぜよ信ぜよ信ずるものは皆救われん(救われる、の意)」という歌でした。この歌は余ほど多くの人に知られていたのでしょう。漫才の中のギャグにも「信じるものは救われん」などと言って笑いを取っていたものです。
確かに「信じるものは救われん」です。ただし、これには十字架にかかりたる救い主」を見ることがなくては叶わないことです。そして、その十字架にキリストがかけられたのは、わたしたちが犯した罪のため(罪に対する審きを担うため)でした。
前にも触れましたが、罪に対応するものは罰であって、赦しではありません。この世において、罪を犯したものはそれ相応の罰を受けます。罰が課せられることなしに赦されることはあり得ません。場合によっては死刑が宣せられます。死ぬことによって罪が償われるのです。しかもその罪というものが、何に対しての罪(背反、無視、見当違い)であるかは問題です。大日本国憲法においては「天皇は神聖にして犯してはならない」存在でした。
ですから、この神聖性を汚すものは極刑に処せられました。神聖なものが存在しないなら、これに対する罪というものもあり得ません。ただ神聖という言葉は使わなくても、「人の命は地球よりも重い」という時には、命というものの価値を絶対化に近い評価をしているわけですから、命を侵害する罪に対する裁きとしての罰が極刑に近いのは当然と言えます。
モーセの十戒の第一戒は「わたしのほか何者をも神としてはならない」ということでした。この神が厳然として存在しておられる所で、神に対する罪が問題とされるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<12月のラジオ放送予定>
12月 6日 横山 良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
13日 横山 良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
20日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
27日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究」
第71課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・13・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・13・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・1・・
この章ではキリスト者の謙遜と柔和について多く教えられています。しかし先ず柔和(meakness)と言うことの意味は何でありましょう。3節はその意味を殆ど余すところなく明らかにしています。「自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う、思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」。柔和は謙遜、慎み、心の低いことの意味です。また、穏やかさ、忍耐などもこの柔和という言葉に関連性があります。
謙遜と柔和ということは、実は一種の勇気、むしろ最高の勇気がいることでもあります。私たちは柔和や謙遜を勇気とは反対のことのように考えやすいものです。しかし、実際には、それらは最高で最も気高い勇気を要するものなのです。柔和と謙遜とは、人生のおける多くの現実に対して、毅然として直面してゆく静かな勇気なのです。それらは私たちに悪を赦すことが出来るようにする勇気であるとともに、自分から「すみませんでした」と言って、率直に自分の誤りを認めて許しを求めさせるようにする勇気でもあります。
更には、それらは、狼狽することなく、患難に直面させる勇気でもあり、重大な不正に直面しても、冷笑的、侮蔑的になることなく、冷静に対処させる勇気ともなります。
謙遜は偉くなろうとする野心を、敢えて捨て去り、低い所に甘んじ、その環境の中において、最善を尽くして、神を喜ばせることに、喜びを感じさせる勇気でもあり、また、自分を誇りや虚栄や自己中心主義を捨てさせ、謙虚な無私の態度をとらせる勇気でもあります。
私たちはみな生来、おそろしく臆病者なのです。私たちは人の下になることを極度に恐れ、自分のこの世的な誇りや野心を捨てることを極度に嫌がり、悪かったと自己の非を認めることをいたずらに恐れます。許しを求めることも苦しみに耐えることをも恐れるのが人間の生来の性質です。
私たちは道徳的に極度に臆病です。しかし、キリスト信者は謙遜と柔和の恵みを受けているのであって、あらゆる状況に直面しても、神の力によってそれらを乗り越えて克服してゆく力を与えられているのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」