2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
(59)
4月16日
明日、明後日の事業所の体験はキャンセルしました。体調をちゃんと整えてからじゃないと。麻酔科で、慢性疼痛用の薬をもらってきました。効くとよいのですが。ぽかぽか陽気のせいか、花粉がよく飛んでいるらしく、鼻水たらたら。目が痒い。ここのところ、めんどくさいのと花粉が付くのが嫌で、洗濯物は乾燥機任せです。縮むのと、くしゃくしゃになるのが難点ですが。
さっそく母に会いに行かねばという気になりました。母の具合が悪くて、父も軽い鬱になっています。わたしが行ってどうにかなるわけでないし。お祈りしましたが、神様に手放せないでいます。おまかせしたいのに。文章がハチャメチャですみませんm(__)m
4月17日
今にもとんで行きたいくらいなのですが、わたしにも家庭があります。主人をほっぽらかして行くわけにもいきません。実家のことでは、主人には不便な思いをかけているし。バランスが大事ですね。父はこちらからメールでもしない限り、弱音は吐きません。だから、よけいに心配です。
わたしの願いは伝道です。でも、両親にどうみことばを伝えてよいか、想像も付きません。
みことばを聞く機会を与えて下さい、とお祈りしてはいますが。両親と一緒に祈ったことはありません。教会に行ってくれれば、一番いいのですが、母は外に出られるような状態じゃないし、父は宗教嫌いだし。わたしはどうも電話が苦手で、父にメールしてしまいます。母はメールができないので、電話をしてくれます。
それではダメなのかなぁ。直接電話したほうがいいのかなぁ。
4月20日
腰痛の痛み止を倍増してもらったら、嘘みたいにすっきりして、るんるんで外出まで出来ました(医者のところだけど)。でも、時間がたち、薬の濃度が下がってくると、ものすごく痛いのです。ヒィヒィ言っています。薬物って恐い。
アスペが元で、対人関係が悪くなり、鬱になって薬が手放せなくなって、腰痛でも薬のお世話になって(脊髄刺激装置が効かない)、薬のコントロールに神経を使わなくてはいけなくなりました。だけど、わたしにとって、ADLのためには必要なものなんです
4月27日
最近、アンチエイジングとか、ピンピンコロリという言葉をよく耳にするけれど、それって、年を取ることに否定的な考えから出てきてるのではないでしょうか。人は年を取れば、誰かの助けを必要とします。安心して介護が受けられない状況が、ピンピンコロリ願望を産んでいるのではないでしょうか。
介護を否定するということは、障害者差別をしていることになります。
自立は無理だけど、自律は大切に・・・。それが介護を受ける側にとっても、する側にとっても重要なことじゃないでしょうか。そうすれば、年を取ることにネガティブにならずにすむのではないでしょうか。
5月7日
わたしには、どうも人を恋する気持ちというのが、いまいち理解できません。
愛の神というのは、もっとわかりません。キリストが人の姿をとって来られたこと、受難、復活、再臨・・・。すべては愛ゆえなのでしょう。互いに愛し合いなさい。わからん。肉親の愛、これもよくわからない。
何かねぇ、感覚的に言われても、理解できないですね。わたしは、好き嫌いはあっても、愛するということが、さっぱりわからなくて、困っています。
加納さおり
PR
世田谷通信
(103)
猫 草
かつて自分は情報通信分野で「こっち側」「だいたいわかっている」方だろうと思ってきた。それがあっという間に「あっち側」に居る。ともかく最近の情報機器やその関連ニュースが何のことやら、理解できないのだ。まずFacebookをはじめとするソーシャルネットワークというもの。世界中の何億人と友達になれるんだよ!すごいんだよ~!と言われても。自分のプロフィールを世界上に公開する恐怖の方が先に立つ。いいよ、友達少なくて。
さらにあのスマホなど、タッチパネルで操作するタイプの機器。どうにも上手く扱えない・・という間に周囲の半数以上はあのタイプに切り替わって、楽器を爪弾くように軽やかに操作している。ボタンでカチカチ携帯を操作している姿は時代遅れらしい。
長男から「今はまっているゲーム・・」の説明を聞いてもしかり。なにしろ自分はゲームスタートするだけなのだ。ボタン操作はスタートのみ。そのあとは敵を倒しも、謎を解くことも、何もしない。勝手にゲームが進行し、敵をやっつけてくれて、ポイントがたまり、アイテムがゲットできるんだよ!と言われても・・・だから、それのどこが面白いの?えっ、違法性が指摘?そんなに流行ってるんだ・・。使い方がわからないとか、そういう次元ではない。そのサービスの意味がわからない。わあ便利!とか、おっいいね!と共感できない。これはかなり置いて行かれた状態だなあと実感する。
そんなわけで、もういまの携帯が壊れたらどうしましょう。お店のメインにはあのツルっとした画面のしか並んでいない。ボタン操作のなんてキッズ用とシニア用ぐらいかも。
そこで開き直りが生じる。いいもん、別にわからなくても。生きて行けるもん。だいたいね、携帯依存症みたいになって常に画面みてないと不安って状況がおかしいんだよ!
・・そうはいってもメールと電話ぐらいないとやっぱり不便・・。というわけで。世界中と常につながっているフルオープンな人種と、どことも接続していないガラパゴスな人種の2種類に分類されるとしたら、自分はどちら?という崖っぷちにいるような気がする。
宇宙の9割以上は暗黒物質でできていて、私たちが見て認識できる宇宙はごくわずかだという。そんなことを急に言われても、これまた理解の範疇をはるかに超えたスケールの話。こうなったら「理解」をあきらめて、ブラックホールにも似た無限のネットワークの中に呑み込まれてみるか。それとも先細り確実の狭く閉じた世界に安住するか。
その選択はきっともう眼前にある。
猫 草
かつて自分は情報通信分野で「こっち側」「だいたいわかっている」方だろうと思ってきた。それがあっという間に「あっち側」に居る。ともかく最近の情報機器やその関連ニュースが何のことやら、理解できないのだ。まずFacebookをはじめとするソーシャルネットワークというもの。世界中の何億人と友達になれるんだよ!すごいんだよ~!と言われても。自分のプロフィールを世界上に公開する恐怖の方が先に立つ。いいよ、友達少なくて。
さらにあのスマホなど、タッチパネルで操作するタイプの機器。どうにも上手く扱えない・・という間に周囲の半数以上はあのタイプに切り替わって、楽器を爪弾くように軽やかに操作している。ボタンでカチカチ携帯を操作している姿は時代遅れらしい。
長男から「今はまっているゲーム・・」の説明を聞いてもしかり。なにしろ自分はゲームスタートするだけなのだ。ボタン操作はスタートのみ。そのあとは敵を倒しも、謎を解くことも、何もしない。勝手にゲームが進行し、敵をやっつけてくれて、ポイントがたまり、アイテムがゲットできるんだよ!と言われても・・・だから、それのどこが面白いの?えっ、違法性が指摘?そんなに流行ってるんだ・・。使い方がわからないとか、そういう次元ではない。そのサービスの意味がわからない。わあ便利!とか、おっいいね!と共感できない。これはかなり置いて行かれた状態だなあと実感する。
そんなわけで、もういまの携帯が壊れたらどうしましょう。お店のメインにはあのツルっとした画面のしか並んでいない。ボタン操作のなんてキッズ用とシニア用ぐらいかも。
そこで開き直りが生じる。いいもん、別にわからなくても。生きて行けるもん。だいたいね、携帯依存症みたいになって常に画面みてないと不安って状況がおかしいんだよ!
・・そうはいってもメールと電話ぐらいないとやっぱり不便・・。というわけで。世界中と常につながっているフルオープンな人種と、どことも接続していないガラパゴスな人種の2種類に分類されるとしたら、自分はどちら?という崖っぷちにいるような気がする。
宇宙の9割以上は暗黒物質でできていて、私たちが見て認識できる宇宙はごくわずかだという。そんなことを急に言われても、これまた理解の範疇をはるかに超えたスケールの話。こうなったら「理解」をあきらめて、ブラックホールにも似た無限のネットワークの中に呑み込まれてみるか。それとも先細り確実の狭く閉じた世界に安住するか。
その選択はきっともう眼前にある。
その愛のゆえに
=時々の記=
(74)
4月16日
体調を崩して二年振りに教会の礼拝に出かけることが許されました。多くの方たちとご挨拶をしようとするのですが、言葉になりません。この二年の間、決して、教会のみなさんのことを忘れていたわけではないのですが、行くことができなくなっていた信仰の弱さを感じとりました。イエス様に、昨日も今日も変わらない御言葉に強められ、教会の方のあたたかいお心に迎えられました。久しぶりに多くの方とのお交わりで、疲れ切ってしまいました。次の日は、午前中、ずーと休んでいました。
主にある兄弟姉妹と、お会いすることができ、あふれ出る涙を止めることはできませんでした。Kさんご一家は、三人の女の子に恵まれ、とても幸せそうでした。ご挨拶をしようと思っても、胸がいっぱいになり握手をして帰りました。先生から、一言と言われたのですが、ずーと長い間、祈り続けてくださっていて、何を言っているのやら、訳のわからないご挨拶となってしまいましたが、ただ、ほほを伝って流れ出る涙をぬぐおうともせずの時でした。
4月17日
今日は、やっと山添村の桜が満開になりました。今年は、いつもより十日ほど遅く、見ごろとなりました。桜祭りが地元の中峰山で行われ、私たちも、何か出品せねばと、主人と二人で、およそ30人分のおでんを作ることにしました。大きなお鍋いっぱいに二つ。昨日から、仕込みにかかりました。今朝早くトラックに載せて、運びました。はたして、どれだけの方が味わってくれるかわからないのですが、とにかく、無事に仕上げられてほっとです。
フィリピンより来たるかや初ツバメ
紅梅の増えて梅渓華やげる
チェンバロの春の到来奏づなり
早瀬ありおそせのありて春の川
竹かごを編みをる老いや春日影 馬場路哉
4月21
こちらは、また、激しい雨と風にみまわれています。天候が不順です。今朝、朝の犬たちの散歩にでかけていると、大きなイノシシに出くわしました。タケノコを餌に捜しまわっているようです。野生の動物たちにとって、生きていくために必死の手段です。山道も、イノシシが歩いた後で、とても、危険な思いにさらされました。
主人はもう少しで、転倒しかけました。主人も転倒すると、脚に入っている、金属が突き出てくるから、絶対に転んではいけないと厳しく、主治医の先生から、注意されています。
これからは、また雨が多いので、朝の散歩はしっかり足元を見て、気を付けたいものです。
5月1日
緑のそよ風に乗って、昨日、4月30日、五月号のジャーナルが届けられました。
心から感謝いたします。みなさん、ジャーナルに支えられて、生かされていることがよくわかります。今月の言葉、小閑記に励まされ、私たちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているとのみ言葉を、いつも胸に刻み、この世の誘惑に陥らないように、心したいものです。
きょうから五月。一年中で一番気持ちの良い季節がやってきました。
散歩の途中に見る山の景色は、濃い緑、淡い緑が折り重なって、しばし、絵の中に浸っているようです。急に真夏のように暑くなり、野の草花は、もはや初夏の装いとなりました。
水野源三さんの詩にありますように、神様の大きな御手の中で、私は私らしく生きる。
今日一日、そうありたいと祈りつつ、過ごしたいものです。
5月5日
小さな畑にミニトマト、ピーマン、パセリを植えました。どれも、素人でも何とか、実らせることができるものばかりです。ゴールデンウィークも、後半に入りました。
田舎から、都会に出ている方たちが里帰りをしています。田んぼでは、稲の苗が植えられています。全部、機械化されています。はやいもので、今日は暦の上では立夏だそうですが、まだ、冬物が必要な朝夕の冷え込みです。
道の辺の色を浮かべてよもぎもち
喜びていそしめる声初ツバメ
犬死ぬや春の寒さの強すぎて 馬場路也
この連休は、畑を耕すだけで精一杯でした。何しろ慣れない者ですから、大変時間がかかります。昨日、やっと苗を植え付けることができました。この野菜が食卓に上がるころを楽しみに、世話をしていきます。
5月10日
5月とはおもえないほど、とても肌寒い朝です。明日もこのような日が続くとのこと。健康管理に気をつけないと、風邪をひいてしまいそうな天候です。
明日は、母の日ですね。
学生時代にポーリン・マカルピン先生が、母の日礼拝で、アメリカでは、この母の日をとても大切にしていると教えてくださいました。そして、寮生皆で、讃美歌510番「春は軒の雨 秋は庭の露。母はなみだ乾くまなく 祈ると知らずや。」と歌いながら、それぞれの故郷にいる母のことを考え、過ごしたものでした。
山道や床し残すシャガの花
若草の炎のごとく伸びるなり
山吹の白壁の塀迫りだしぬ
この村の水源なせる山若葉
新しき町に幼き花水木 馬場路哉
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
=時々の記=
(74)
4月16日
体調を崩して二年振りに教会の礼拝に出かけることが許されました。多くの方たちとご挨拶をしようとするのですが、言葉になりません。この二年の間、決して、教会のみなさんのことを忘れていたわけではないのですが、行くことができなくなっていた信仰の弱さを感じとりました。イエス様に、昨日も今日も変わらない御言葉に強められ、教会の方のあたたかいお心に迎えられました。久しぶりに多くの方とのお交わりで、疲れ切ってしまいました。次の日は、午前中、ずーと休んでいました。
主にある兄弟姉妹と、お会いすることができ、あふれ出る涙を止めることはできませんでした。Kさんご一家は、三人の女の子に恵まれ、とても幸せそうでした。ご挨拶をしようと思っても、胸がいっぱいになり握手をして帰りました。先生から、一言と言われたのですが、ずーと長い間、祈り続けてくださっていて、何を言っているのやら、訳のわからないご挨拶となってしまいましたが、ただ、ほほを伝って流れ出る涙をぬぐおうともせずの時でした。
4月17日
今日は、やっと山添村の桜が満開になりました。今年は、いつもより十日ほど遅く、見ごろとなりました。桜祭りが地元の中峰山で行われ、私たちも、何か出品せねばと、主人と二人で、およそ30人分のおでんを作ることにしました。大きなお鍋いっぱいに二つ。昨日から、仕込みにかかりました。今朝早くトラックに載せて、運びました。はたして、どれだけの方が味わってくれるかわからないのですが、とにかく、無事に仕上げられてほっとです。
フィリピンより来たるかや初ツバメ
紅梅の増えて梅渓華やげる
チェンバロの春の到来奏づなり
早瀬ありおそせのありて春の川
竹かごを編みをる老いや春日影 馬場路哉
4月21
こちらは、また、激しい雨と風にみまわれています。天候が不順です。今朝、朝の犬たちの散歩にでかけていると、大きなイノシシに出くわしました。タケノコを餌に捜しまわっているようです。野生の動物たちにとって、生きていくために必死の手段です。山道も、イノシシが歩いた後で、とても、危険な思いにさらされました。
主人はもう少しで、転倒しかけました。主人も転倒すると、脚に入っている、金属が突き出てくるから、絶対に転んではいけないと厳しく、主治医の先生から、注意されています。
これからは、また雨が多いので、朝の散歩はしっかり足元を見て、気を付けたいものです。
5月1日
緑のそよ風に乗って、昨日、4月30日、五月号のジャーナルが届けられました。
心から感謝いたします。みなさん、ジャーナルに支えられて、生かされていることがよくわかります。今月の言葉、小閑記に励まされ、私たちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているとのみ言葉を、いつも胸に刻み、この世の誘惑に陥らないように、心したいものです。
きょうから五月。一年中で一番気持ちの良い季節がやってきました。
散歩の途中に見る山の景色は、濃い緑、淡い緑が折り重なって、しばし、絵の中に浸っているようです。急に真夏のように暑くなり、野の草花は、もはや初夏の装いとなりました。
水野源三さんの詩にありますように、神様の大きな御手の中で、私は私らしく生きる。
今日一日、そうありたいと祈りつつ、過ごしたいものです。
5月5日
小さな畑にミニトマト、ピーマン、パセリを植えました。どれも、素人でも何とか、実らせることができるものばかりです。ゴールデンウィークも、後半に入りました。
田舎から、都会に出ている方たちが里帰りをしています。田んぼでは、稲の苗が植えられています。全部、機械化されています。はやいもので、今日は暦の上では立夏だそうですが、まだ、冬物が必要な朝夕の冷え込みです。
道の辺の色を浮かべてよもぎもち
喜びていそしめる声初ツバメ
犬死ぬや春の寒さの強すぎて 馬場路也
この連休は、畑を耕すだけで精一杯でした。何しろ慣れない者ですから、大変時間がかかります。昨日、やっと苗を植え付けることができました。この野菜が食卓に上がるころを楽しみに、世話をしていきます。
5月10日
5月とはおもえないほど、とても肌寒い朝です。明日もこのような日が続くとのこと。健康管理に気をつけないと、風邪をひいてしまいそうな天候です。
明日は、母の日ですね。
学生時代にポーリン・マカルピン先生が、母の日礼拝で、アメリカでは、この母の日をとても大切にしていると教えてくださいました。そして、寮生皆で、讃美歌510番「春は軒の雨 秋は庭の露。母はなみだ乾くまなく 祈ると知らずや。」と歌いながら、それぞれの故郷にいる母のことを考え、過ごしたものでした。
山道や床し残すシャガの花
若草の炎のごとく伸びるなり
山吹の白壁の塀迫りだしぬ
この村の水源なせる山若葉
新しき町に幼き花水木 馬場路哉
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
5 死を恐れず、頭を上げるべきである
1 キリスト者であると誇らしげに言う多くの者が、死を待ち望む代わりに、死の恐怖に満たされて、あたかも死が、彼らに起こりうる不幸であるかのように、死のことが言及されるたびに恐れ震えるのは、情けないことである。この世の生からの別離を告げるとき、生まれつきの感情が恐怖に陥るのは、不思議なことではない。
しかし、キリスト者の胸中に、あふれる慰めによって、すべての恐怖を抑えることができる光と信仰がなければ、耐え難いことである。もし、この不安で、腐敗し、死ぬべき、はかない、衰えていく肉体の幕屋が、その後、堅く完全で腐敗しない、天の栄光に回復されるために、解体されるのを考えるなら、われわれの信仰は、生まれつきの性質が恐れるものを、むしろ熱心に求め支えるのではなかろうか。
死によって、追放の状態から家庭へ、天の祖国へ呼び戻されることを思えば、われわれは慰めに満たされるのではなかろうか。
2 しかし、永遠に存在し続けたいと望まない者は、この世にひとりもいない、ということも言われるであろう。なるほど、それは確かなことである。しかし、そうであるからこそ、われわれは本来の不死を望むべきである。そこでは、この地上に見られない、安定の王国を得ることができるからである。
それで、パウロは信者たちに、この身体を脱ぐためではなく、新しい衣を上に着るために、死を慕い求めるように明瞭に教えている。野の獣や無生物、石塊や岩石にいたるまで、現在の空しさに目覚め、神の子たちと共に空しさから開放される、最後の日の復活を望み見ているのであれば、まして、生来の理性の光と、さらに、はるかにまさる神の御霊の啓明に恵まれたわれわれは、未来の自分の存在を考えるとき、この世の腐敗を超えた彼方に思いを向けるのである。
3 しかし、死の恐怖というような、まったくの邪説を論駁することは、私にここでの目的にとって不要であるし、ふさわしくない。私は、日常の問題について、面倒な議論には立ち入らないことを、はじめにいっておいた。異教徒たちでさえ、死を蔑視しているのを知って赤面したいなら、哲学者たちの書を読むほどのこともないが、せめてキプリアヌスの書いた、死についての論文を読むことを、臆病な人には強く勧める。
しかし、死の日と最後の復活の日とを、喜んで待ち望まないようであるなら、その人はキリストの学校で少しも進歩してこなかったというように、はっきり断言されても仕方がない。
4 なぜなら、パウロはこの印をすべての信者に刻印したし、聖書も、まことの喜びの動機を与えようとするとき、しばしばわれわれに注意を向けさせてきた点だからである。
「身を起こし頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」と主は言われる。
キリストが、われわれを喜びで満たし、はっきりと目を覚まさせるために企てられたことが、悲哀と狼狽だけを引き起こすに過ぎないと考えるのは、正しいことであろうか。もしそうであるなら、なぜわれわれはキリストをなお主とほめたたえるのか。
だから健全な判断に立ち返り、われわれの肉の盲目で愚かな望みの反抗があるにせよ、すべての事柄の中でも、最も感動的なこととして、主の再臨を熱心に何の躊躇もなく待ち望もう。また、単にそれを待ち望むだけでなく、(審判の日を)切望し慕い歎こう。
主は救い主として、すべての悪の悲惨の底なしの大混乱の中から、われわれを救い出すために来られ、主の命と栄光のすばらしい嗣業の中に、導きいれてくださるからである。
Ⅱコリント5:4、テトス2:13、ルカ21:28
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
『旧・新約婦人物語』(33)
妖婦バテシバ
サムエル記下11章
バテシバの話は、前に述べましたデリラの話とよく似たところがあります。その一つは、二人とも、性的に大きな罪を犯した点です。他はともに映画化されて、広く社会に紹介された点です。しかし、バテシバはデリラのような遊女のような女ではなく 、立派な武人ウリヤのれっきとした妻で、いわゆる社会の上流婦人であったことが違っています。だから、バテシバの犯した罪は、デリラのそれよりも重く、ひどく追求されねばなりません。
サムエル記下11章にある、ダビデ王とバテシバの不倫の話は、私たちの耳を覆いたくなるほどで、神に選ばれた、権威ある王の行動とも思えぬ一大失敗談です。もし聖書が、人の考えた世の道徳書でありますなら、決してこのような不愉快な話は、さしはさまなかったと思います。事実は事実として伝えているところに聖書の特徴があり、生命があります。
しかも、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して、十分な準備ができて完全にととのえられた者になるのである」(テモテ第二3章16~17節)とあるとおり、神の御霊の導きによって書かれたもので、これによって神の罪人に対する憐れみを知ることが出来ます。また人間がどんなに弱く、サタンの誘惑に負け、罪を犯しやすいかを、このような不愉快な出来事を通じて、私たちに適切な教訓として聖書は教えているのです。
では、この話の主人公バテシバは、どういう性格の婦人であったのでしょうか。
サムエル記下11章2節に、「その女は非常に美しかった」とあります。彼女は非常にあでやかな婦人であったようです。しかし、その美は外見だけで内的には欠点が多く、ことに貞操観念の薄い女性でした。
「ひとりの女がからだを洗っているのを見た」とあるのをみましても、人に見られるところで水浴をするなど、彼女のぶしつけさがわかります。ダビデ王から宮中に召されたとき、人の妻であると言う理由でこれを辞退すべきですのに、それをせず、王のそば近くに仕えているあたり、彼女の貞操観念のほどがうかがわれます。その上、彼女は王の求めるままに姦淫の罪を犯しました。そればかりか、自分の夫ウリヤが王の命令によって、戦場から帰還したとき、戦場にいる戦友の労苦を思って、「わたしの主人ヨアブとわが主君の家来たちが野外に陣を取っているのにわたしはこうして家に帰って食い飲みできるでしょうか」と言って、わが家に入るのを拒み、城外に仮寝をするときも、あえて夫を訪ねようとはしませんでした。王と犯した罪の告白など思いもよらぬことでした。姦婦とはこのような女性のことで、その罪の深さは、到底、遊女デリラと同一に語ることはできません。
王とバテシバは、自分たちの犯したこの醜い罪が誰にも知られず、隠しとおせると思ったのでしょう。ダビデは、立派で忠実な武臣ウリヤを一番危険な戦線へ送って、彼を敵の刃に倒れさせて、殺人の罪も重ねたのです。まことに言語道断とはこのことです。
しかし、人を欺いても、神を欺くことはできません。誰知るものぞと思っていたこの罪も、神の前には明白であり、隠し切れぬことでありました。
ここに、神の預言者ナタンの登場となります。神はナタンを通してダビデの犯罪を、彼の顔の前に暴かせ、激しくこれを責め、罪科を示し、彼の子供の死を預言されました(12:11~15)。
ダビデは、ここで初めて、心の目が開かれ、自分の罪科の恐ろしさを知り、真心から罪を告白し、悔い改めて、自分の子供の命が助けられるように断食し、終夜地に伏して祈りました。けれども聞かれず、ナタンの預言のとおり、子供は七日目に死んでしまいました。それのみでなく、ダビデの家族は、父子兄弟が常に争って平和な日がなく、ついには父と子が殺し合う悲惨さえ生じました。まことに恐ろしいのは罪の結果です。
しかし、砕かれた魂は神の喜びたもうところで、ナタンの叱責によって心砕かれたダビデは、悔い改めて、新たな信仰に立ち返り、後にソロモンが与えられました。このソロモンは神より知識を与えられ、イスラエルの歴史上ソロモン時代が一番栄えたと言われています。
不愉快なこの話も、私たちに多くの教訓を与えています。
1 神はどんな罪も決してお見逃しになりません。罪が必ず罰せられることは、聖書の一貫した主張ですが、この話は特にそれを強く物語っています。
2 神の大いなる憐れみは、私たちが真心より罪を悔い改めるならば、お許しになること。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネ第一 1章9節)。
神は、私たちの罪を赦すために、御子キリストを世に御降しになり、すでに私たちを、贖って下さいました。あなたは、この贖いを受け入れておられますか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
妖婦バテシバ
サムエル記下11章
バテシバの話は、前に述べましたデリラの話とよく似たところがあります。その一つは、二人とも、性的に大きな罪を犯した点です。他はともに映画化されて、広く社会に紹介された点です。しかし、バテシバはデリラのような遊女のような女ではなく 、立派な武人ウリヤのれっきとした妻で、いわゆる社会の上流婦人であったことが違っています。だから、バテシバの犯した罪は、デリラのそれよりも重く、ひどく追求されねばなりません。
サムエル記下11章にある、ダビデ王とバテシバの不倫の話は、私たちの耳を覆いたくなるほどで、神に選ばれた、権威ある王の行動とも思えぬ一大失敗談です。もし聖書が、人の考えた世の道徳書でありますなら、決してこのような不愉快な話は、さしはさまなかったと思います。事実は事実として伝えているところに聖書の特徴があり、生命があります。
しかも、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して、十分な準備ができて完全にととのえられた者になるのである」(テモテ第二3章16~17節)とあるとおり、神の御霊の導きによって書かれたもので、これによって神の罪人に対する憐れみを知ることが出来ます。また人間がどんなに弱く、サタンの誘惑に負け、罪を犯しやすいかを、このような不愉快な出来事を通じて、私たちに適切な教訓として聖書は教えているのです。
では、この話の主人公バテシバは、どういう性格の婦人であったのでしょうか。
サムエル記下11章2節に、「その女は非常に美しかった」とあります。彼女は非常にあでやかな婦人であったようです。しかし、その美は外見だけで内的には欠点が多く、ことに貞操観念の薄い女性でした。
「ひとりの女がからだを洗っているのを見た」とあるのをみましても、人に見られるところで水浴をするなど、彼女のぶしつけさがわかります。ダビデ王から宮中に召されたとき、人の妻であると言う理由でこれを辞退すべきですのに、それをせず、王のそば近くに仕えているあたり、彼女の貞操観念のほどがうかがわれます。その上、彼女は王の求めるままに姦淫の罪を犯しました。そればかりか、自分の夫ウリヤが王の命令によって、戦場から帰還したとき、戦場にいる戦友の労苦を思って、「わたしの主人ヨアブとわが主君の家来たちが野外に陣を取っているのにわたしはこうして家に帰って食い飲みできるでしょうか」と言って、わが家に入るのを拒み、城外に仮寝をするときも、あえて夫を訪ねようとはしませんでした。王と犯した罪の告白など思いもよらぬことでした。姦婦とはこのような女性のことで、その罪の深さは、到底、遊女デリラと同一に語ることはできません。
王とバテシバは、自分たちの犯したこの醜い罪が誰にも知られず、隠しとおせると思ったのでしょう。ダビデは、立派で忠実な武臣ウリヤを一番危険な戦線へ送って、彼を敵の刃に倒れさせて、殺人の罪も重ねたのです。まことに言語道断とはこのことです。
しかし、人を欺いても、神を欺くことはできません。誰知るものぞと思っていたこの罪も、神の前には明白であり、隠し切れぬことでありました。
ここに、神の預言者ナタンの登場となります。神はナタンを通してダビデの犯罪を、彼の顔の前に暴かせ、激しくこれを責め、罪科を示し、彼の子供の死を預言されました(12:11~15)。
ダビデは、ここで初めて、心の目が開かれ、自分の罪科の恐ろしさを知り、真心から罪を告白し、悔い改めて、自分の子供の命が助けられるように断食し、終夜地に伏して祈りました。けれども聞かれず、ナタンの預言のとおり、子供は七日目に死んでしまいました。それのみでなく、ダビデの家族は、父子兄弟が常に争って平和な日がなく、ついには父と子が殺し合う悲惨さえ生じました。まことに恐ろしいのは罪の結果です。
しかし、砕かれた魂は神の喜びたもうところで、ナタンの叱責によって心砕かれたダビデは、悔い改めて、新たな信仰に立ち返り、後にソロモンが与えられました。このソロモンは神より知識を与えられ、イスラエルの歴史上ソロモン時代が一番栄えたと言われています。
不愉快なこの話も、私たちに多くの教訓を与えています。
1 神はどんな罪も決してお見逃しになりません。罪が必ず罰せられることは、聖書の一貫した主張ですが、この話は特にそれを強く物語っています。
2 神の大いなる憐れみは、私たちが真心より罪を悔い改めるならば、お許しになること。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネ第一 1章9節)。
神は、私たちの罪を赦すために、御子キリストを世に御降しになり、すでに私たちを、贖って下さいました。あなたは、この贖いを受け入れておられますか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (16) 遠山良作 著
昭和21年
6月25日
-坐骨神経痛に悩む-
今、ビルマは雨期である。雨は毎日休みなく降り続く。英国の植民地時代からの古い建物であるこの独房も青いカビさえ生えている。天上の割れ目から雨だれがポツン、ポツンと落ちる。コンクリートの叩土にアンペラ一枚と薄い代用毛布一枚で寝るのである。体は冷え切ってしまう。
このような独房生活のため、腰のあたりにズキンズキンと痛みを覚える。寝返りをしても痛く、起きる時などは特に痛い。歩行さえ困難である。巡回して来る印度人の軍医にこのことを訴えた。彼は、「歳のせいだ」と言って薬さえくれない。原因は冷えから来る坐骨神経痛のようである。
一般キャンプにいる戦友と連絡を絶たれているこの独房ではあるが、私たちのために心の支えとなって励ましてくれる多くの戦友がいる。神経痛で苦しんでいる私のことを聞いて、大湖通訳に依頼して麻袋(米を入れる麻袋)を差し入れてくれた。この独房にいる出田大佐も小さな布団を貸して下さった。どうしようもなく、途方にくれている時の友情は、涙が出ほど嬉しいものである。
「落ちぶれて袖に涙のかかる時 人の奥ぞ知らるる」の昔の人が歌った和歌を思い出す。
監房に アンペラ敷きて 病む我に 戦友は励まし 麻袋をくれる
生きるとは 苦しきことと 思うなり 生きねばならぬ 我命思う
我が痛む 腰をさすりつ 雨の洩る 天井を見て 今日も暮れたり
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
「狭い門」と言う言葉をご存知のことと思います。その場合は、大抵、そこへ皆が入ろうとするために競争率が高くなっている学校や会社のことを、「あそこは狭い門だ」と言っています。
この「狭い門」と言うのは、もともと、キリストが「狭い門から入りなさい」と言われた言葉でありまして、そうだとすると、例えば、修道院に入って生涯修道に勤めることの困難さを言う言葉のように受け止められます。
しかし、そのいずれの場合にも、「ここが狭い門」だということは、誰もが知っていることです。ところが、キリストは、この「狭い門」については「それを見出すものは少ない」と言われています。門の狭い広いは、そこを通って入ろうとする人数との関係で決まるわけですから、よく分かるはずなのですが、キリストは「それを見出す者は少ない」と言われました。それは、その門が「命に通じる門」のことであるからであります。
考えて見ますと、わたしたちが歩いている道は、やがて死に至る道です。終着駅は「死」と言う名前の駅です。これに対して、キリストは「狭い門から入る細い道ではあるが、その道は死んで滅びに至る道ではなく、命に通じる道であるから、この狭い門から入って、死ではなく、命を得るようにしなさい」と勧められているのであります。
死ぬということは、死を受け取ることでありまして、命はそこで終わりです。これに対して、命に通じる道を歩むということは、死ぬことも命につながる、と言うことであります。これは、キリストが死んで、復活されたことを受けてのことであります。死んでも死なない道がある、と言うことです。
このことに関して、キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われています。自分を頼りにしている者には、このキリストを信じて従うことは、狭い門を通るように困難なことでありますが、まことの命と言うべきものを得るには、この狭い門から入ることが勧められているのであります。
篠田 潔
(参照聖句・マタイ7:13~14)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
6月
3日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
10日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
17日 後藤田典子(金城学院中学校宗教主事)
24日 後藤田典子(金城学院中学校宗教主事)
「キリストへの時間」放送予定
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究 (90)
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (2)
この問題を入念に学ぼうと願う人々は、次の書物を読むことが望ましいです。(2)
4 Albertus Pieters 「アブラハムの末」(絶版)
本書の副題は「イスラエル・教会・ユダヤ人についての聖書的研究」です。この書の中で、著者はローマ書11:11~36の問題について、「パウロは来るべき時代におけるイスラエル民族の領土的回復について述べているのではなく、またそのようなことに関心を寄せているのでもない。ローマ書の11章において、彼はイスラエルの霊的回復のことを言っているのである。しかし、パウロが、異邦人たちが集められた後であるにしても、或いはそれと共であるにしても、どのような形における回復を期待しているかは明らかではない。パウロが「彼らが全部救われたら」と言っているのだから、四散している個々のユダヤ人だけでなく、ユダヤ人全体の回心が最終的にあるので、今後は、パウロの時代から今日に至るまで、存在したような、福音に反対する立場をとるユダヤ人に集団と言うものはもはや世界に存在しなくなると結論する人々があるが、決して不自然な解釈ではないのである。或いはこれが正しい解釈であるかもしれないが、パウロが常に主張している「残された者」という理念があるので、一抹の疑問は残る。この理念によると、神の約束は民の一部分に対してだけ成就され、しかも、それで正当且つ真実に成就されたのであるとされる。この考え方をここに適用すると、全てのイスラエルというのは、イスラエルの中の選ばれた者を意味することになり、神は予め知っておられたその民を捨てられることはないと言うパウロの確信にも合致するのである」。
5 David Freeman「聖書と来るべき出来事」(絶版)
本著の「ユダヤ人:その回心と領土」という章において、著者が述べていることは、きわめて有用で啓発されるものがあります。彼は「神が再び民族としてのユダヤ人の上に、恵をもって臨まれると言う意味の確かな教えがある」。また、「民族としてのイスラエルは、回心という仕方においてのみ救われる。いつの日にか、彼らは必ず、全ての民族から来る者と共に、真の信仰をもって、その救い主を認めるのである」と言っている。フリーマン氏の所論に中には、反対の見解を持つ人たちがまだ十分には答えていないものがあると考えられます。
ローマ書11章11~36節は、ユダヤ人が集団として将来、キリスト教に回心することを述べているとする学者たちの中には、H.Alfuord C. Hodge, Shdd,G.Vosなどがあり、反対の見解を持つ人々には、P.Mauro,I.Graebner,W.Hendriksenなどがいます。ローマ書11章11~36節は全く難解な箇所です。この箇所を単純で明白であると考える人たちは、この問題について無知であるばかりでなく、この問題について記されている文献にも無知であることを暴露していると言うべきでありましょう。
この学びにおいては、ユダヤ人のキリストへの回心は集団的であるということが、ローマ書11:11~36の語っているところであると言う立場を採用したいです。しかし、常に明記しておかなくてはならないことは、この問題は確かに議論の多いものですが、結論はまだ記されてはいないということです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (2)
この問題を入念に学ぼうと願う人々は、次の書物を読むことが望ましいです。(2)
4 Albertus Pieters 「アブラハムの末」(絶版)
本書の副題は「イスラエル・教会・ユダヤ人についての聖書的研究」です。この書の中で、著者はローマ書11:11~36の問題について、「パウロは来るべき時代におけるイスラエル民族の領土的回復について述べているのではなく、またそのようなことに関心を寄せているのでもない。ローマ書の11章において、彼はイスラエルの霊的回復のことを言っているのである。しかし、パウロが、異邦人たちが集められた後であるにしても、或いはそれと共であるにしても、どのような形における回復を期待しているかは明らかではない。パウロが「彼らが全部救われたら」と言っているのだから、四散している個々のユダヤ人だけでなく、ユダヤ人全体の回心が最終的にあるので、今後は、パウロの時代から今日に至るまで、存在したような、福音に反対する立場をとるユダヤ人に集団と言うものはもはや世界に存在しなくなると結論する人々があるが、決して不自然な解釈ではないのである。或いはこれが正しい解釈であるかもしれないが、パウロが常に主張している「残された者」という理念があるので、一抹の疑問は残る。この理念によると、神の約束は民の一部分に対してだけ成就され、しかも、それで正当且つ真実に成就されたのであるとされる。この考え方をここに適用すると、全てのイスラエルというのは、イスラエルの中の選ばれた者を意味することになり、神は予め知っておられたその民を捨てられることはないと言うパウロの確信にも合致するのである」。
5 David Freeman「聖書と来るべき出来事」(絶版)
本著の「ユダヤ人:その回心と領土」という章において、著者が述べていることは、きわめて有用で啓発されるものがあります。彼は「神が再び民族としてのユダヤ人の上に、恵をもって臨まれると言う意味の確かな教えがある」。また、「民族としてのイスラエルは、回心という仕方においてのみ救われる。いつの日にか、彼らは必ず、全ての民族から来る者と共に、真の信仰をもって、その救い主を認めるのである」と言っている。フリーマン氏の所論に中には、反対の見解を持つ人たちがまだ十分には答えていないものがあると考えられます。
ローマ書11章11~36節は、ユダヤ人が集団として将来、キリスト教に回心することを述べているとする学者たちの中には、H.Alfuord C. Hodge, Shdd,G.Vosなどがあり、反対の見解を持つ人々には、P.Mauro,I.Graebner,W.Hendriksenなどがいます。ローマ書11章11~36節は全く難解な箇所です。この箇所を単純で明白であると考える人たちは、この問題について無知であるばかりでなく、この問題について記されている文献にも無知であることを暴露していると言うべきでありましょう。
この学びにおいては、ユダヤ人のキリストへの回心は集団的であるということが、ローマ書11:11~36の語っているところであると言う立場を採用したいです。しかし、常に明記しておかなくてはならないことは、この問題は確かに議論の多いものですが、結論はまだ記されてはいないということです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
祈 り
1962年10月
「キリストへの時間」ラジオ放送10周年を迎えて
「聖書研究の友」誌10月号(140号)より
ラジオ放送「キリストへの時間」は、この10月をもって、ちょうど10周年を迎えることになります。思えば、1952年10月22日に、名古屋の中部日本放送(CBC)から、初めてわたくし共の放送が開始されたのです。以来、10年の間、多くの人々の耳に、主イエス・キリストによる救いの道、十字架の福音を伝えてまいりました。
特に、日本に於けるキリスト教会のある地理的条件を見ますのに、大都市には至るところに教会を見受けますが、農漁村で都市を離れた地域には、教会を見出すことが困難な場合が多くあります。わたくしたちは、教会から遠くはなれている人々にも、聖書のみ言葉が伝えられ、やがてそこにも信者の群が出来、主にある交わりが持たれることを願い、ひたすら、聖書を語ることに努力して来たのであります。幸い、山奥の交通の不便な村落に住む人からも、喜びの便りがあれば、日夜汗して働く労働者の人々からも便りがとどいております。或いは、幾つかの刑務所では、拡声器を通して、全囚人に「キリストへの時間」が流され、そこからも便りが届いております。
今後につきましても、わたくし共のラジオ伝道の使命は、いよいよ重く、責任の重大なことを感じさせられています。しかし、その使命が良く果たされますためには、主にある兄弟姉妹のお祈りによる御声援が実に大切であります。皆様方のお祈りと、神様の計り知れぬお恵みをいただいて、ラジオ伝道の使命を遂行して行きたく願っております。この仕事は、莫大な経費を必要とし、決して楽な事業では御座いません。今までは、多くの方々の献金によって支えられ、常に道が開かれてまいりましたが、今後もやはり、主にある兄弟姉妹の心からなる献金がなければ、継続事業として続けることも困難となることでしょう。この点につきましても、皆様の御協力を願ってやみません。
一人の迷える魂のために、この「キリストへの時間」の放送が、有効な働きを続けることが出来ますように、神様のお導きを祈る者です。
1962年10月
キリストへの時間 総主事 ジェ・エイ・マカルピン
1972年
「キリストへの時間」放送開始20周年を迎えるにあたって
「聖書研究の友」誌1月号(250号)より
総主事 ジェ・エイ・マカルピン
1952年10月、中部日本放送の電波にのって産声を上げた「キリストへの時間」の放送も、1972年10月をもって満20歳の成人に達することが出来ました。
この20年の間に、1つの放送局より現在は、高知放送、ラジオ関西、南海放送、西日本放送と数多くのネットワークにより、中部地方及び近畿、四国、九州の各地にキリストの福音を宣べ伝えることが出来ますことは、文字通り、神様のはかり知れない御摂理によるものと、主にある多くの方々、諸先生の御協力、御加祷によるものと、深く感謝いたします。また、「キリストへの時間」は、日本国内ばかりでなく、沖縄、マニラと海外に於いても用いられています。
特に、今年中には、南米に於いても「キリストへの時間」の放送するメッセージが用いられようとしています。遠く祖国を離れた在留邦人の方々や二世、三世の方々に日本語をもって主イエス・キリストの救いの恵を宣べ伝えることの出来ますことは、本当に幸いなこととして、現在、祈りの内に準備交渉中です。
このプランの実現のためには、より一層の祈りをもって、事にあたらなければならないと思っています。どうぞ御加祷、御援助を心よりお願い申し上げます。
現在の放送のためには、一秒70円の費用を必要といたします。文字通り、神の言葉はすべての宝にまさるものです。しかし、私共はたとえ一秒がいくらであっても、多くの人々が福音の喜びに接しておられることを知っていますし、また魂の救いのために、すべてを捧げて、この「キリストへの時間」の放送を、神様がお許し下さる限り続けてまいります。
今後共一層の御支援をお願いする次第です。
最後に、20年もの永い間には、多くの諸先生による説教の御奉仕を頂きました。また、聖歌隊の御協力も得ました。同時に放送関係者各位の協力もありました。ここに厚く御礼申し上げます。 また、「キリストへの時間」をお聴き下さる皆様にもお礼を申し上げます。
主イエス・キリストのお恵みが皆様の上に豊にありますようにお祈り申し上げます。
主日1971年、この年から、長村秀勝は会計責任者・主事、文書発行・編集責任者とすることにしました。
米国南長老教会提供のラジオ放送「キリストへの時間」は60年の節目を迎えるに当り、その歩みを歴史資料として残すべく現在作業中でありますが、この「つのぶえジャーナル」はラジオ伝道のもう一方に文書伝道事業として、月刊「聖書研究の友」「つのぶえ」(両紙は現在廃刊)を、同時並行事業としてスタートし、現在は「つのぶえジャーナル」として今に至っています。そして、より多くの方々に、今日的な方法で「つのぶえジャーナル」として継続・開設したものです。どうぞ今後とも、ご理解、ご支援、ご利用くださり、育てていただきたいと願っております。
1962年10月
「キリストへの時間」ラジオ放送10周年を迎えて
「聖書研究の友」誌10月号(140号)より
特に、日本に於けるキリスト教会のある地理的条件を見ますのに、大都市には至るところに教会を見受けますが、農漁村で都市を離れた地域には、教会を見出すことが困難な場合が多くあります。わたくしたちは、教会から遠くはなれている人々にも、聖書のみ言葉が伝えられ、やがてそこにも信者の群が出来、主にある交わりが持たれることを願い、ひたすら、聖書を語ることに努力して来たのであります。幸い、山奥の交通の不便な村落に住む人からも、喜びの便りがあれば、日夜汗して働く労働者の人々からも便りがとどいております。或いは、幾つかの刑務所では、拡声器を通して、全囚人に「キリストへの時間」が流され、そこからも便りが届いております。
今後につきましても、わたくし共のラジオ伝道の使命は、いよいよ重く、責任の重大なことを感じさせられています。しかし、その使命が良く果たされますためには、主にある兄弟姉妹のお祈りによる御声援が実に大切であります。皆様方のお祈りと、神様の計り知れぬお恵みをいただいて、ラジオ伝道の使命を遂行して行きたく願っております。この仕事は、莫大な経費を必要とし、決して楽な事業では御座いません。今までは、多くの方々の献金によって支えられ、常に道が開かれてまいりましたが、今後もやはり、主にある兄弟姉妹の心からなる献金がなければ、継続事業として続けることも困難となることでしょう。この点につきましても、皆様の御協力を願ってやみません。
一人の迷える魂のために、この「キリストへの時間」の放送が、有効な働きを続けることが出来ますように、神様のお導きを祈る者です。
1962年10月
キリストへの時間 総主事 ジェ・エイ・マカルピン
1972年
「キリストへの時間」放送開始20周年を迎えるにあたって
「聖書研究の友」誌1月号(250号)より
総主事 ジェ・エイ・マカルピン
1952年10月、中部日本放送の電波にのって産声を上げた「キリストへの時間」の放送も、1972年10月をもって満20歳の成人に達することが出来ました。
この20年の間に、1つの放送局より現在は、高知放送、ラジオ関西、南海放送、西日本放送と数多くのネットワークにより、中部地方及び近畿、四国、九州の各地にキリストの福音を宣べ伝えることが出来ますことは、文字通り、神様のはかり知れない御摂理によるものと、主にある多くの方々、諸先生の御協力、御加祷によるものと、深く感謝いたします。また、「キリストへの時間」は、日本国内ばかりでなく、沖縄、マニラと海外に於いても用いられています。
特に、今年中には、南米に於いても「キリストへの時間」の放送するメッセージが用いられようとしています。遠く祖国を離れた在留邦人の方々や二世、三世の方々に日本語をもって主イエス・キリストの救いの恵を宣べ伝えることの出来ますことは、本当に幸いなこととして、現在、祈りの内に準備交渉中です。
このプランの実現のためには、より一層の祈りをもって、事にあたらなければならないと思っています。どうぞ御加祷、御援助を心よりお願い申し上げます。
現在の放送のためには、一秒70円の費用を必要といたします。文字通り、神の言葉はすべての宝にまさるものです。しかし、私共はたとえ一秒がいくらであっても、多くの人々が福音の喜びに接しておられることを知っていますし、また魂の救いのために、すべてを捧げて、この「キリストへの時間」の放送を、神様がお許し下さる限り続けてまいります。
今後共一層の御支援をお願いする次第です。
最後に、20年もの永い間には、多くの諸先生による説教の御奉仕を頂きました。また、聖歌隊の御協力も得ました。同時に放送関係者各位の協力もありました。ここに厚く御礼申し上げます。 また、「キリストへの時間」をお聴き下さる皆様にもお礼を申し上げます。
主イエス・キリストのお恵みが皆様の上に豊にありますようにお祈り申し上げます。
主日1971年、この年から、長村秀勝は会計責任者・主事、文書発行・編集責任者とすることにしました。
米国南長老教会提供のラジオ放送「キリストへの時間」は60年の節目を迎えるに当り、その歩みを歴史資料として残すべく現在作業中でありますが、この「つのぶえジャーナル」はラジオ伝道のもう一方に文書伝道事業として、月刊「聖書研究の友」「つのぶえ」(両紙は現在廃刊)を、同時並行事業としてスタートし、現在は「つのぶえジャーナル」として今に至っています。そして、より多くの方々に、今日的な方法で「つのぶえジャーナル」として継続・開設したものです。どうぞ今後とも、ご理解、ご支援、ご利用くださり、育てていただきたいと願っております。
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
佐渡市では、野生復帰を目指して自然に放され、繁殖させる試みを行っているトキのうち、先月、1組のつがいから3羽のひなが誕生しましたというニュースを複雑な気持ちで聞きました。つい4、50年前までは、その姿は人々の生活の中に溶け込んできたのが、人間の都合で生きて行けなくなり、人工繁殖という大きな犠牲を支払うことになりました。私たちの身の回りにはこれに類することが数多く起こっています。外来種による在来種の危機は、人間の側の責任です。嬉しいニュースに変りはありませんが、改めて、衣食住のあり方を見直しているところです。
岡山県 K・Pさん
先日、仕事で東京、大阪へ1週間ほど出向いていましたが、驚いたことは一年前の事故・災害記事のニュースが殆んどないことです。私のいる福島から時間にしても短時間であるにもかかわらず、この意識・認識の違いは何だろうと思った。次々に報道される新しいニュースに流される日々の生活は、物事を自分の中でのこととさせないものがあるのだろう。意識の風化は無関心へとつながり、やがては無かったかのように消えてしまう。自分自身の中にそのような思いのあったことを痛切に感じながら過ごした一週間であった。
福島県 D・Mさん
佐渡市では、野生復帰を目指して自然に放され、繁殖させる試みを行っているトキのうち、先月、1組のつがいから3羽のひなが誕生しましたというニュースを複雑な気持ちで聞きました。つい4、50年前までは、その姿は人々の生活の中に溶け込んできたのが、人間の都合で生きて行けなくなり、人工繁殖という大きな犠牲を支払うことになりました。私たちの身の回りにはこれに類することが数多く起こっています。外来種による在来種の危機は、人間の側の責任です。嬉しいニュースに変りはありませんが、改めて、衣食住のあり方を見直しているところです。
岡山県 K・Pさん
先日、仕事で東京、大阪へ1週間ほど出向いていましたが、驚いたことは一年前の事故・災害記事のニュースが殆んどないことです。私のいる福島から時間にしても短時間であるにもかかわらず、この意識・認識の違いは何だろうと思った。次々に報道される新しいニュースに流される日々の生活は、物事を自分の中でのこととさせないものがあるのだろう。意識の風化は無関心へとつながり、やがては無かったかのように消えてしまう。自分自身の中にそのような思いのあったことを痛切に感じながら過ごした一週間であった。
福島県 D・Mさん
『ありがとうございます』
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
羽野 環様 小幡伸幸様 小幡美智子様 古屋愛実様 匿名2名様
2012年4月16日から2012年5月15日‘まで
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
羽野 環様 小幡伸幸様 小幡美智子様 古屋愛実様 匿名2名様
2012年4月16日から2012年5月15日‘まで
さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
=ヘブル4:14=
神様は、天におられます。私たちは地上にいます。しかし神様は、その御子をこちらに送って、御子によって、大地をいわば結び付けられました。そしてその救いのザイルを、御子は、もう一度ご自身と共に、引き上げられました。そのことが起こって以来、大地は、取り消しようもなく決定的に、天と堅く結びついています。御父の右にいます御子が、救いのサイルを握っておられるということは何と幸いなことでしょう。
地上の大地がどれほど激しく揺れ動いてもキリストとの救いの・永遠の命のザイルはいささかも損なわれません。確りと結合されているのです。
私たちに取っての幸いは、私たちを見捨てない唯一の、この大祭司なるイエスは、私たちの弱さを知り、日々に祈ることを教え、この大祭司に全てをお委ねするという思いを、深め、高め、強めて下さると信仰告白させてくださるのです。
低い地上にあって、私たちが告白する信仰を堅く守ろうではありませんか。疲れはて、こころ弱った時、御霊の助けを求め、み言葉に堅く立たせてくださいと祈ろうではありませんか。
生きる
神さまの 大きな御手の中で
かたつむりは かたつむりらしく歩み
螢草は 螢草らしく咲き
雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
神さまの 大きな御手の中で
私は 私らしく
生きる 水野源三第四詩集 「み国をめざして」より
カテゴリー
ブログ内検索
バックナンバー
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
[PR]Samurai Sounds
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円