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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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234fbf19.jpeg                  キリスト者の生活綱要  (34)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳

  第4章 来るべき世への希望

  6 主は栄光のうちに来られる、マラナタ
  
  1 信者の群れ全体は、地上にあるかぎり、そのかしらであるキリストにますます似るために、事実、「ほふられる羊のよう」でなければならない。そのために、信者たちが思いを天に向け、過ぎ行くものを超えて、この世の地平線の彼方を見るのでなければ、彼らは、彼らの状態はまことに悲惨なものである。

  2 不信仰な者たちがその富と栄誉を増し、彼らの言う心の平安を楽しむなら、そのままにさせておこう。彼らにその繁栄と奢侈とを誇らせ、喜ぶままにしておこう。彼らが、光の子らを自分たちの悪をもって悩まし、高慢をもって辱しめ、貪欲をもって奪い、まったくの無法で挑発したいなら、そうさせよう。
 しかし、信者たちがこのような目に会うとき、彼らの目をこの世より上にあげさせよう。そうすればそのような災害の中でも、心の平安を保つのに困難なことはなかろう。主が、忠実なしもべたちを、主の平和の国に受け入れられる日を、信者たちが待ち望むからである。その時、主は彼らの眼の涙をことごとく拭い、喜びの衣をまとわせ、勝利の栄冠をもって飾り、限りない喜びをもって楽しませ、御自身の栄光にまで彼らを高め、御自身の幸福の共有者としてくださる。

  3 しかし、この世で大きな者であった悪人は、恥の深い淵を嘆きながら落とされる。主は、彼らの喜びを苦痛に、笑いと歓喜を涙と歯がみに変えられる。主は、彼らの平安を、良心の恐ろしい呵責をもって乱される。主は、彼らをその不義とともに消えぬ炎の中に投げ込み、彼らは信者たちに服従する者となる。信者たちの忍耐を悪用したからである。
 パウロによると、主イエスが天より現われる時、聖徒たちを苦しめた者たちに罰をもって報い、苦しめられた者たちに安息をもって報いるのは、神にとって正しいことだからである。

  4 これがわれわれの唯一の慰めである。もしこのことがわれわれから奪われるなら、絶望の中に沈むか、この世の虚しい喜びで自らを慰めざるを得なくなるか、そのいずれかである。
 詩篇の詩人ですら、この世の悪人たちの繁栄についていぶかった時、迷ったことを告白しているからである。彼は聖所に入り、義人と不義な者との最後を見とどけるまでは、平静を取り戻せなかった。
 結局はこうである。キリスト者が、復活の力を見つめるために、その目を上にあげる時だけ、キリストの十字架が信者の心に、悪魔と肉、罪と悪に対して勝利を与えるのである。

ローマ8:36、Ⅰコリント15:19、イザヤ25:8、黙示録7:17、Ⅱテサロニケ1:6~7、詩篇73:2以下。

(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。


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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (1)
5f9659e4.jpeg               
                    岡田  稔著

第一章 聖書について・・・(1)

1 自然の光および創造と摂理のみわざは、人間を弁解できないものとするほどに、神の善と知恵と力とを表わすとはいえ(1)、しかしそれらは、救いに必要な神とそのみ旨についての知識を与えるには十分でない(2)。従って主は、いろいろな時に、いろいろな方法で、ご自身の教会に対してご自分を啓示し、み旨を宣言し(3)、また後には、その真理を一層よく保存し広げるためと、教会を肉の腐敗と悪魔や世の敵意に対して一層確立し慰めるために、その同じ真理を全部文書に委ねることをよしとされた(4)。これが、聖書を最も必要なものとしているのであって(5)、神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている(6)。

  1 ロマ2:14,15、ロマ1:19,20、詩19:2-4(1-3)、ロマ1:31,2:1(*)
      *ロマ1:31と2:1を比較
  2 Ⅰコリント1:21、Ⅰコリント2:13,14
  3 ヘブル1:1
  4 箴22:19-21、ルカ1:3,4、ロマ15:4、マタイ4:4,7,10、イザヤ8:19,20
  5 Ⅱテモテ3:15、Ⅱペテロ1:19
  6 ヘブル1:1,2

一 「表わす」と言うのは、「マニフェスト」という英語であって、それは「知識を与える」と言うことと同じではない。この信仰告白では、それを区別している。次に「啓示」という言葉であるが、これは二つの面を持っている。すなわち神が外に、あるいは、人間に向かって神の存在とか、性質、意志を発表するという面と、もう一つは、この発表を額面通りに正しく認知せしめるためという面から成り立っている。
 すなわち、発表し、しかも知らせるときに、初めて啓示が有効に役割を果たすのである。エデンにおいて、自然啓示(一般啓示)は、常にこのような効果をおさめていた。神が発表されたことの一切を、人間は正しく受け取っていた。
 しかし、現在は罪のために、神の発表が、かならずしも人間に正しく受け取られていない。ここに自然啓示が客観的に十分でありつつ、主観的に無効(不十分)だという奇妙な現象が生じている。特別啓示が与えられた理由は、主としてこの効力の面に関係している。それで真理の文書化、あるいは、文書啓示が重んじられることになった。
 啓示の発表面、客観面を「事件啓示」、「啓示の権威性」と呼び、啓示の認識面、主観面を「言葉啓示」、「啓示の有効性」と呼ぶことができる。自然啓示と特別啓示の関係を、前者は神の存在を現わし、後者は神の性質や意志を示すというように理解してはいけない。
 神が何かを発表されるとき、かならずそこで神の存在、性質、意志の幾分かが示されているのである。自然啓示はこのような意味では、十分なのである。だから、これを知らない人間の側に言い訳のできない責任がある。
 罪はこのように、神の啓示の効力を無にするものであるから、特別啓示は主として啓示本来の効果を生じせしめるために与えられていると言うべきである。啓示は自然啓示でも特別啓示でも、常に権威性と有効性とを備えているのであるが、今日、自然啓示が事件啓示と理解され、特別啓示が言葉啓示と同一視されている傾向を持っているのは、以上のような事情(罪のために自然啓示は不十分で権威性が認められない)から生じているのである。
 この条項で主張されている教理上の断定は
1 自然啓示の不十分性。
2 特別啓示の意図が主として自然啓示の不十分な点を補足するところにあること。
3 聖書の必要性、特別啓示の完結性、完結した啓示としての聖書であること。
従って、次のような教説を誤謬として排斥する。
 1 理神論のように、特別啓示を否定する説、自然と理性で神認識が可能であるとする説。
 2 神秘主義のように、今も昔も相変わらず直接的な特別啓示がありうるとする説。
 3 ローマ・カトリック教会のように、特別啓示が聖書のみでなく、伝説によっても保存され、伝達されているとする説。
 4 聖書を単に啓示の記録と解釈したり、啓示の証言とする見解は、今日のように明瞭な形をもって主張されてはいなかったために、本信条の起草者たちの意識に論争点として浮かんでいなかったのかも知れないが、本文の精神と異なる教説であることは明らかである。

2 聖書すなわちしるされた神のみ言葉という名の下に、今では、旧新約のすべての書が
含まれている。それらは、次のものである。
 旧約聖書では、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、土師記、ルツ記、サムエル記上、サムエル記下、列王紀上、列王紀下、歴代志上、歴代志下、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩篇、蔵言、伝道の書、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。
 新約聖書では、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる福音書、使徒行伝、パウロのローマ人への手紙・コリント人への第一の手紙・コリント人への第二の手紙・ガラテヤ人への手紙・エペソ人への手紙・ピリピ人への手紙・コロサイ人への手紙・テサロニケ人への第一の手紙・テサロニケ人への第二の手紙・テモテへの第一の手紙・テモテへの第二の手紙・テトスへの手紙・ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの第一と第二の手紙、ヨハネの第一・第二・第三の手紙、ユダの手紙、黙示録。これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である(1)。

  1 ルカ16:29,31、エペソ2:20、黙示22:18,19、Ⅱテモテ3:16

二 わたしたちが聖書と呼び、または書かれた神の言葉と呼ぶのは、前項で規定された通り、現在、教会に与えられている唯一の終局完結的な特別啓示(内容的にも方法的にも)そのものである。その内に含まれている書物とその順番がここに明記してあり、その全部が神の霊感によって信仰と生活の規準として与えられたことを、ここで告白している。
 ここで、大切な点は
  1 聖書は別名を「記された神のみ言葉」と呼ばれていることである。神の言葉を含むとか、神の言葉の人間的記録や証言とは呼ばれていない。「記された神のみ言葉」とは、神の言葉の記録と言うよりも、「文書における神の言葉」と理解する方がよい。
  2 旧新約聖書の全部が同様にその権威と効用を持つものとして認められている。この部分とあの部分とに重要性の差違があると考えてはいけない。また、部分部分についてと言うよりも、全部が統一ある全体として、権威と効用とを神より与えられているという主張とみるべきである。「神の霊感によって与えられた」と言うのは、聖書の「権威の根拠、出所」を指す言葉である。また「信仰と生活の規準として与えられた」と言うのは、「聖書の効用の範囲」を示す言葉である。テモテへの第二の手紙3章15~16節に関するカルヴァンの註解を一読すると、この点はよく分かる。
    権威と効用とは、パウロの聖書論では車の両輪のように重視されている。どちらか一方だけを主張することは、無理な考え方である。それは聖書の霊感(権威の根拠)を否定すると、直ちにその効用も安価なものになってしまうからである。

*-*-*
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」まで、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
 『旧・新約婦人物語』(34)

9f9149db.jpeg 門番をしていた婦人
  ロダ
                =使徒行伝12:12~17=

 ロダという婦人のことが、聖書のどこに出ていますか、と突然聞かれましたら、あなたは正しい答えが直ぐにできますか。よほど、注意して聖書を読む人でなければロダのことは分からないかも知れません。なぜかと申しますと、彼女のことは、聖書にただの一度しか出てこないからであります。
 「エルサレムのマリヤ」のところで読んでいただきました、使徒行伝12章をもう一度、お読みください。使徒ペテロが天の使いに導かれ、牢屋から救い出されましたとき、彼はすぐに、マルコと呼ばれたヨハネの母マリヤの家に行きました。ちょうどその時、マリヤの家では門を閉じて大勢のクリスチャンが集まり、ペテロが救われるようにと神様にお祈りをしている最中でした。
 時は真夜中で、都エルサレムは人の気配は絶えて、ひっそりと静まり返っていました。宮殿では暴君ヘロデも深い眠りにおちいっていたことでしょう。真暗闇の牢獄でも、ペテロがもうそこにはいないことなど気付かぬ兵卒も、ぐっすり寝込んでいたことでしょう。しかしマリヤの家だけは、明かりが外に漏れるのを恐れつつ、赤々とともし火をつけ、大勢の人たちが寝もやらず、一日の疲れと眠気も忘れて、熱心に神様に祈っていたのです。
 その時、誰かが突然、門の戸をコツコツと叩きました。もちろん、家の中で祈っていた人たちには、その音は聞こえなかったでしょう。けれども、門の番をしていた若いロダには、門を叩く音が聞こえました。彼女は直ぐに門のところへ行きました。

 当時、キリスト教会は凶暴なヘロデ王の迫害を受け、信者は牢獄に投げ込まれ、弟子のヤコブはすでに殺されておりました。何時、どんな危険が、他の信者たちに襲って来るか油断の出来ない状態でした。そのような全く危険な時に、真夜中、家の門を守ると言うことは、誰にでも出来ることではありません。よほどの勇気がいりますし、しっかりした人でなければ、勤まらないと思います。
 ペテロが、門を叩くその音に、直ぐ門のところへ近寄ったロダは、用心深く、門を直ぐに開いたりせずに、まず名前と用件とを訊ねました。ここに彼女の賢いやり方を見ることが出来ます。自分の重い責任を深く感じて、危険な人は一歩も入れさせまいとする、彼女のしっかりした気構えが伺えます。
 「おれだ!ペテロだ!」と言う、外からの声に、ロダは直ぐその声の主が間違いなくペテロの声だと分かりました。このことで、今一つ知ることが出来ますのは、彼女がただの一言で、ペテロだと知るほど、信仰の深い婦人であったと言うことであります。
 ペテロはこれで、門を開けてもらえるものとばかり思い込みました。そころがそうではなく、ペテロの声だと知ったロダは、喜びと驚きで有頂天になって、門の鍵をはずすことも、戸を開けることも忘れて、家の中へ駆け込み、祈っている人々に、「ペテロさんが門口に立っています」と告げました。この時のロダの態度から、彼女の性格がよく分かります。彼女は非常に活発な、しかも活動的な、元気な女性であったように見受けられます。その反面、彼女は物事をじっくり考えてから行動するといった熟慮型でなく、さっさと事を運ぶ拙速型の性格であったように思えます。ペテロを戸の外に長く待たせておいたのは、どうも愚かなことでしたが、彼女は余りの嬉しさと、喜びに、すっかり落ち着きを失い、このような失敗をしでかしたのでしょう。
 ロダの報告を聞いた人々は、彼女の言うことを信じようとしませんでした。そのような人々の態度を、皆様は非常に不思議と思いませんか。皆が真剣に祈り求めていたことが、事実となって神様によって答えられた時、彼らは本当に自分たちの祈りが、答えられたのだとは、信じなかったのです。このようなことは、今でもよくあることです。
 彼らはロダに向かって、「あなたは気が狂っているのだ」と言いました。けれども、ロダは皆に何と言われても、わたしの言っていることは事実なのです。間違ってはいませんと言い張りました。ここでもまた、わたしたちはロダの人格について、もう一つ知ることが出来ます。
 多くの人たちが何と言おうとも、自分の立場と確信を曲げないで押し通す、彼女の勇ましく強気な態度です。気が狂っていると言われても負けずに、真実に対して取った態度は、本当に教えられるものがあります。彼女が余りにも熱心に言い張るのに負けて、その場にいた人たちは、「それでは、ペテロの御使いだろう」と言って、まだ本当にしてくれません。家の中で、このように言い争い大騒ぎをしている間も、門の外に立つペテロは、しきりと戸を叩いておりました。

 戸を叩き続ける物音を聞きつけた人たちが、大急ぎで門を開きました。すると、そこに、ロダが言う通りペテロが立っていたのです。ペテロは手を振って、皆の喜び騒ぐのを静め、主が牢獄から自分を連れ出してお救いくださったことを、詳しく説明して聞かせました。彼は「このことを、ヤコブやほかの兄弟たちに伝えてください」と言い残して、どこか他の所へ行きました。
 年若い女中のロダのことを学びます時、わたしたちはいろいろと教えられます。彼女は若いながらも、忠実に自分の勤めを果たし、元気で、喜びに満ち溢れた信仰生活を送った女性であったようです。わたしたちもこのロダのように昼夜を分かたず、神様から与えられた使命を、間違いなく忠実に果たしているでしょうか。
 キリストの教会の進展のために、あるいはまだ救われていない家族の方々や、隣り人のために、さらに滅びに陥りつつある多くの人々のために、毎日わたしたちはどれだけ祈っているでしょうか。
 今のクリスチャンが、第一世紀のクリスチャンに少しも劣らぬ勇気と熱心とをもって、キリスト・イエスにある確固不動の信仰に立って偶像崇拝に満ちているこの世と戦って行かれますように、祈ってやみません。

ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。

 ビルマ
  戦犯者の獄中記  (17)  遠山良作 著73539289.jpeg

昭和21年

6月27日
-戦友の情に泣く-
 空腹、そして神経痛の痛みなども、苦しい獄の生活であるが、今一つの苦しみがある。それはタバコがないことである。刑務所より一週間に10本入りのライオン(巻きタバコ)を2箱支給してくれるが、この数量ではタバコ呑みにはとても足りない。タバコが切れると、気持ちがイライラしてくる。こんな時に吸うタバコの美味は格別である。頭がスーとして天国にいるような幸福感を覚えて、牢獄にいることすら忘れてしまう。タバコを吸う者のみが知るタバコの魅力である。独房ではこのタバコを入手することは不可能に近いのである。
 一般キャンプにいる戦友は、われわれにタバコを差し入れるために、僅かばかりの持物であるシャツやズボン等を印度兵の歩哨と交換するのである。このタバコは取り調べのため呼び出しに来る通訳たちにひそかに依頼し差し入れてくれるのである。それのみか、今日から戦友が食事を運んでくれるというニュースを聞いた。今まで私たちのために食事を運んでくれる兵隊は、戦争中に英軍に捕虜になった日本兵であったが、かねてから、一般キャンプの戦友側が運ぶことを再三にわたり刑務所側に交渉していたことが許可されたのである。
 夕食時である。モールメン分隊の戦友たち、田室、前原、永田、森本、懐かしい友の顔、雨に濡れながら運んで来てくれた。鉄格子の扉の間からであるが、幾月振りかで見る。顔はやつれているが元気である。監視兵が付いているので言葉を交わすことは出来ない。ただ「有難う。元気だよ」とひと言だけでも言うことが出来た。
 入所以来こんなに嬉しく、また心強く思ったことはない。

 刑務所側より支給してくれる少ない材料の内から、私たちのために作ってくれたこの食事は、堅い飯で量も多い。おかずも今日は特別食だと思うが、「コロッケ」である。「地獄に仏」ということわざがあるが、仏どころではない。何だか体全体のどこからか生きる力が湧いて来たような気がする。お互いに定められた最低の量で、ひもじい思いは同じである。おそらく友は自分の食事を減らして、独房にいる私たちのために、こんな豪華な食事を作ってくれたのであろう。
 一般キャンプ(雑房)でも米の量は少なく、籾が多く混じっているので籾選びの作業がある。籾選びをしながら生米を食べる者がいることが問題になり、この作業に監視者が付くのである。また、炊事場の溝に落ちている「ジャングル」野菜の残飯を拾って食べる人もいると聞いている。今この刑務所では、生きるためには恥も外聞も考える余裕はない。わが軍の撤退作戦には、食べる物も尽き果て、弱っている戦友の米を奪い取って逃げてきた兵の話も聞いている。生きるためには人間は動物以上に醜い争いが生じることはどこの世界も同じである。
 誰もかれもがひもじい生活のなかにあって、あたたかい戦友の情に感謝して箸を取った今日の夕食である。
 満たさるる ことなき胃の腑に 歯ごたえある 飯の美味さは たとえようなし
 戦友の 運びくれたる 夕食は 盛り多くあり おがみて食む

 それのみでなく、独房で苦悩の中にある私たちを少しでも慰め、励ますことが出来ればと「蛙の声」と題して寄せ書き(15、6枚)を書いて、監視兵の目を盗んで差し入れてくれた。
表紙は田室兄の「蛙」の絵が描いてある。内容は、随筆、和歌、詩等である。
 降り続くビルマの雨期、薄黒く雲一つ見えない空、コンリートで囲まれた薄暗い部屋での生活で憂鬱な毎日でもある。差し入れられた「蛙の声」を何度も繰り返して読む。なつかしい友の一人一人の顔が浮かんで来る。監視の厳しい牢獄で禁止されている紙や筆記用具をどうして手に入れたのであろう。これからは一週間に一回くらい差し入れてくれるという次の「蛙の越え」が今から待ち遠しい。
 トイレットペーパーに 日記かく 囚人吾は 英兵にかくれて

この文章の転載はご子息の許可を得ております。


SH3J19840001.jpg  あなたに聖書を
 ローマ8:28

 わたしたちは、それぞれが「自分らしく生きたい」と願っています。それは「自分は自分でありたい」ということであり、また「自分の可能性を十分に生かしたい」ということでもあります。
 しかし、そうは思うものの、そういう自分が何者であるかは、自分でもよく分かっていませんから、「自分探し」の旅に出る人がいます。それは、その旅の中で、今まで知らなかった人や場所に触れることによって、自分について考える視野が広く、また深くされることとして、意義あることと言えます。
 また、自分では気がつかなくても、つまり自分には隠されていた才能などを見出して、それを用いてくれる人が現れることがあります。そうなると「ああ、自分にはこういうことで用いられることがあるのだ」と嬉しくなって、思っていなかった仕方で、その才能を伸ばすことがあります。そのようにして、新しく、自分を発見することがあります。
 要するに自分とは違ったものに触れることがなければ、それまでの自分とはそう変わらない自分のままで終わってしまうことだろうと、いうことです。そういうことから言って、では、誰に、また何に出会うことが望ましいか、ということが、これからの自分を生かすため、重要な課題となってきます。
 その答えは様々にあることと思いますが、聖書は、イエス・キリストを知り、更には、「わたしに従ってきなさい」とのキリストの招きに従うなら、その中で、今までとは全く違った新しい自分を、しかも揺らぐことなく、後になればなるほど良くなる自分を、神様との関係において見出すことができることを伝えています。
 パウロは、そのことを「神に召された者たちには、万事が益となるように共に働く」と言っています。そういうわけで、あなたも聖書を読まれることをお勧めし、その中でキリストからの呼びかけを聞くことが出来るようにと願っています。

 
篠田 潔

(参照聖句・マタイ7:13~14)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

7月
  1日 楠本茂貴 (名古屋高等学校・中学校聖書科主任)
  8日 大藪博康 (名古屋高等学校・中学校宗教部長)
 15日 福井 智 (名古屋学院大学キリスト教センター主事)
 22日 大宮有博 (名古屋学院大学経済学部准教授)
 29日 葛井義憲 (名古屋学院大学宗教部長・人間健康学部長) 
 

「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 「ローマ人への手紙」研究 (91)
 第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否P3280181.jpg
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (3)

  「そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」(11:11)。
 11節が11章の1節の「そこで、わたしは問う、・・・、断じてそうではない」と同じ形で始まっていることに注目したいのです。1~11節において、パウロは「神はその民を捨てたのであろうか」という問いを起こし、それに答えました。彼は、ユダヤ人拒否は全員ではなく、恵みの選びによって残された者は救われると説明して、その問いに答えています。更に進んで、もう一つの問い、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」を問うて、次に、以下の節においてそれに答えているのです

 第二の問いに対するパウロの答えの要点は、神がユダヤ人を拒否されたのが、全員ではないのと同じく、最後的ではないということです。「つまずく」と「倒れる」との間には、対比、あるいは比較があります。彼らはつまずいた、その通りです。しかし、それは、彼らが倒れるためであったのでしょうか。すなわち、永遠に拒否されることであったのであようか。
 明らかに「つまずく」という語は、一時的なことを表す語であり、他方「倒れる」という語は永遠的なことを表すものです。そこでパウロは、ユダヤ人の拒否は永遠的でなく、取り消され得ないものではないと教えているのです。なぜなら、彼は直ぐ後で「断じてそうではない」という強調的な否定をもって答えているからです。神がユダヤ人の背教を赦された意図は、彼らの拒否が永遠で最終的なものであるのではなく、むしろ、(1)異邦人の救いをもたらすためであり、(2)そうして、最後にユダヤ人をして奮起させるためであったのです。

 私たちはここで、ユダヤ人たちの不信仰が、どのようにして異邦人の救いを促進させることが出来るのかと少なからず不思議に感じるのです。しかし、それがこのような効果をもたらしたというのが聖書の教えなのです。 (使徒行伝13:46、28:28とイザヤ49:4~6を比較してください)
 「ユダヤ人たちは、キリスト教を告白している人たちでさえも、第一に、福音が異邦人たちに伝道させることを許すのに極めて消極的であった。第二に、彼らは殆ど一様に律法の儀式的遵守によって福音を阻もうと願ってきたように見えます。これが使徒時代にキリストの運動の進展を阻んだ最大の障害の一つであった。それで、もし民族としてのユダヤ人がキリスト教信仰を受け入れていたとすれば、それはまさしく一大驚嘆事であったことであろう。これら二つの理由から、ユダヤ人の拒否は思いがけなく福音伝播の促進の手段となったのである。さらに、その不信仰の故に彼らの上にもたらされた罰が、彼らの民族と勢力の破滅を伴いながらも、福音を広く伝道することを禁止しようとする彼らの熱烈な願望を実行する能力を阻んだのである」(ホッジ)。「ユダヤ人が神の愛顧のうちに持っていたこの地位からよろめき落ち、代わりに異邦人たちがその地位に入れられることによって、このように除外されたユダヤ人自身が奮起させられて、ついには民族として今は落ちているかつての栄光を再び獲得しようとするのである」。(H・アルフョード)

 J.G.ヴォス著
         玉木  鎮訳
       (日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
  祈 り

♡ 高齢の母を訪ねて、私は病気って何だろう。死への通過地点かなあと思ってしまう時があります。人は、いつかは死を迎えるのだし、生きているとは、それに向かう過程ではないかと考えてしまいます。看病する側もされる側もその事を思いながらも、信仰者はきちんと向き合い、そんな中でも 感謝、喜び、祈りを忘れずにいるところに感謝出来るかと実感しています。悲しみの中で喜んで感謝して祈ることが、どんなに苦しくても感謝なしの祈りはできません。
                    三重県 W・Kさん
       
♡ 心筋梗塞となり、ステント治療を受けて一年近くになるおばあちゃんが朝起きたときに鼻血が夜からずっと止まらないと聞き、驚いてすぐに受診しました。血液サラサラの薬を服用しているせいで、出血が止まりにくかったようです。止血剤を飲んで止まりましたが、びっくりしました。編集されている長村さんも似たような治療を受けていると聞きましたので、どうぞ、お気をつけてお過ごしください。
                    静岡県  G・Tさん82a6c347.jpeg

♡ 「つのぶえジャーナル」を毎月見ています。数年前にYさんと偶然病院でお会いした時、中学時代の方々の様子が話題になり、札幌出身の人が編集していると知り、何だか親しみを感じました。その時から、毎月「つのぶえジャーナル」を見て居ります。
ところで、先日、中学を卒業してから一度もお会いしていない東京にいる友から突然メールをもらいました。メールという形で、再会?しているのも、何かの縁ですね。友にあなたの知っている札幌は昔々の札幌です。すっかり変りましたが、変らないものがあります。6月の札幌も陽射しは強くなり、緑が一層濃くなり、豊平川の河川敷などでハマナスのピンクの花で賑わいます。札幌市の花、スズランが市内のあちこちで可憐な花をつけ、ツツジの花が鮮やかに街を彩ります。この自然は少しも変りませんよ、とお伝えしましたが、お逢いしたいですねとお互いに思いながら、今は楽しくメール交換でクラス会をしています。
                    北海道 O・Tさん

♡ 仮設に入って半年後に、それまでの疲労で体調を崩していた父が他界し、一人になってしまった母は、急に年老いて行くようで悲しくなりました。週に一度は訪ねて行き、身の回りの世話や買物などを届けていましたが、今は10日が15日になってしまいました。それは、あるうれしいことがあったからです。お花の世話が好きな母に、花の苗を3つほどと園芸用の土を届けたことがありました。最初は、枯らしてしまいましたが、同じ仮設の方からお花の苗を貰い育てている内に、その方とお友だちになり、今では数人の花好きのお仲間と、楽しい時を過ごしています。私の役目は、お仲間さんの日用品や買い置き出来る食材の買物係りなりました。それで、二週間おき位になったのです。お茶を飲みながら世間話をしながら、お互いの体をいたわる気持ちは、何倍もの元気の源になっていました。何だか母も元気になってくれて、うれしいです。・・・・。
                    千葉県 M・Dさん

* * * * 

「若人の祈り」       ウイリアム・バークレー
 
朝 
神様、今日一日中、人々や物事が、私を苛立たせる時にも、かんしゃくを起こすことがありませんように。物事が、最初うまくいかない時にも、忍耐を失うことがありませんように。物事が難しく、それを学ぶことが辛いような時にも、希望を失うことがありませんように。私が、間違った方に行こうとするような時にも、善良さと信用を失うことがありませんように。
 夜再び眠りにつく時に、後悔することがありませんように、今日の日を過ごさせてください。
 主イエスによって祈ります。 アーメン
 
 夜
 神様、今日両親に知られたくない、あなたに見られたくないと思うようなことをしたことをお許しください。今日はもっと良く出来るはずであったのに、そうしなかったことをお許しください。時間を無駄にしたり、間違ったことに時間を費やしたことをお許しください。
 今、私がすまなく思っているすべてことをお許しください。そして今夜も安らかな眠りをいただいて、明日をより良く過ごすことが出来ますように。
 主イエスによって祈ります。  アーメン

P6130439.jpg 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」

 先日中2の息子が、学校に行きたくないと言い出したので、内心イライラしながら、行かなくてもいいよ・・・なんて言ってしまったら、もう一週間も家でゲームばかりしている。ああ・・・、理解ある母親ぶった愚かさを反省していたら、母さん、僕学校に行くよ!と今まで通りの息子に戻ってくれて、ほっとしています。そう言えば、主人も時々そんなことを言います。疲れているんだ・・・・、と思いながら、有難う、頑張ってね!と心の中でおもっています。・・・・。
                    山梨県 M・Mさん

 パートで働き出して3年になりました。最近足腰や頭や体がだるくて、ああ・・・もう年だわ、と思って落ち込んでいます。テレビで、夫婦で果樹園を経営している姿を見て、わたしより歳うえに見えるのに、お元気な様子に、まだまだやれるよ、と言い聞かせて足腰に湿布を少し多めに貼りました。
                    愛知県 K・Dさん


 
P5280381.jpg 『ありがとうございます』

ある30代の女性から、一通のメールをいただきました。メールの要旨は、「人と話したりすることがとても下手で、何時も迷惑ばかりかけてしまって、駄目な人間だと思っている反面、そのスタイルで生きることを探そうと思っている、という内容でした。自己啓発やいろいろの集まりに参加してみたが、どこにもなじめないまま今は自立?した、形だけの生活をしています。なんとなく「つのぶえジャーナル」を読んでいたらいろいろの方の意見に出会い、メールして来る人のそのままが見えて、ほっとできた。これからも見ますね」と言うものでした。

 皆様の声を大切に取り上げて行きたいと思いました。7月号をお届けいたします。ごらんください。 
 雨に濡れているアジサイが、梅雨の台風も過ぎ、この季節の風情にぴったりです。仕事場のためにひと鉢買い求めました。
どうぞ、お友達などにこのメールアドレスをご紹介ください。大歓迎です。
電子メール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp   編集子

     
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
阿南美津江様 武知 隆様 藤本千春様 古屋愛実様 匿名2名様

 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社

2012年5月16日から2012年6月15日まで
    今月のことば
 
受けるよりは与える方が、さいわいである。0674dd70.jpeg
         =使徒行伝20:35=
 
 私たちの心の中に、与えることの方が易しいと思うような気持ちがあるなら、それは大きな誤りと言えます。実は、これほど難しいことはありません。私たちは、何時も与えることが出来るために、十分なお金と方法があれば出来ると考えてきました。しかし、与えることについても大きな過ちを犯し得ることを知りたいものです。
 私たちは、何としばしば、必要でないところで与え、必要なところで与えていないことでしょうか。私たちは、少しも必要でないものを与えてこなかったでしょうか。それにまた、私たちは、それを受ける者を喜ばせ、幸福にするかわりに、逆に卑しめるような仕方で、無意識の内に与えることを常としていないでしょうか。もしそうなら、受ける人よりも一段高いところに身をおいて、自分をパトロンのように感じることから来ているとするなら、何と言う思い上りでしょう。
 
 与えると言うことを、私たちがどんなに工夫してやってみても、後になって明らかになるのは、それが「間違い」だったということです。そうなのです。与えると言うことは、いつも悪魔につけ狙われているということです。私たちは、自分の心の中に、自分は役立っている、時には救い主の役を演じているのではないかとさえ思う時、その瞬間に、悪魔が私たちの背後に迫っていることに気付くべきです。
 人間がいつも与えることを考えて、受けようとする謙遜さを育てていないと言うこと、それがおそらく人間の罪なのです。私たちは贈与されることが不必要なほどに、自分を豊になっていると思い込んでいないでしょうか。
実は、貧しいのです。私たちは何も持っていないのです。ヨハネの黙示録3章14節から17節には「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。「アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊になった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」。とあります。
 
また、真に富むとはどういうことでしょうか。
私たちの心が、神から切り離されている状態を「貧しい心」とした時、私たちは神からの最大の賜物を頂いていない、貧しい者なのです。この貧しさを知り、神からの恵みをいただく時、この恵みを隣り人と分かち合いたいと思う時、謙虚な思いで与えることの幸いを知るでしょう。
    小閑記
       
 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
0b771f8c.jpeg               =ルカ18:14=
 
ある本の中に「わたしたちの心の園に根づく花の中で、最も美しいものは、謙遜の精神である」と言う一文がありました。
キリスト者の全ての徳のうち、謙遜は天のかおりを最も持つものです。しかし、キリスト者はたびたび、偽物で取り引きする誘惑を受けます。造花は本物と間違えそうなほど見かけは似ているかもしれませんが、それには生きているという気品はなく、そのものの香りはありません。
イエス様のお言葉の中に、末席に座れといわれたことを知っていますが、上辺では私たちは終始これを行っていますが、心では本当に驕った気持ちしか持っていません。私たちは立ち居振る舞いで賞賛されたいと望むなら、悲しいですが、高慢も虚栄も喜んでそれを携えて末席へ行くでしょう。しかし、席を変えることは、必ずしも心が変えられることではありません。
 
謙遜な人の特徴は、誰も人の見ていないところで喜んで奉仕し、また耐え忍ぶことが出来るということです。最高の名誉ある席が与えられても、何も大したことが起こらなかったかのように振る舞える人です。他人に迷惑をかけた場合には許しを乞い、自分に対して罪を犯す者を許します。
この世にときめき、神を信じない人々の間にあっても、信仰者には神を畏れる勇気があります。人に接する時、言葉ではなく自分たちが現在住んでいる世界よりも、より良い世界を思い起こさせます。善を愛し、言葉にも生活にも神を敬い、神に生きる人のことです。
 
「わたしたちの心の園に根づく花の中で、最も美しいものは、謙遜の精神である」に向って歩み、生きる人生でありたいものです。
 
 
                         上河原立雄 
 
  
eb6a39be.jpeg (ひとみ)
5日の子供の日には甥っ子や姪っ子達がやってきて遊んだり、甥っ子をお泊りさせたりと子供達と過ごしました。身体の痛みはずっとありますが、気持ちを分散しながらやっています。ある人は1に我慢、2に我慢、3、4も我慢と前向きに思ってやっていますと言っていました。私も頑張って、明日からまた学校での授業は始まりますが、少しずつですが頑張ります!
                  愛知県  M・Fさん
 
GWも終りましたが、今年も大勢のボランテイアが全く手付かずの瓦礫の処理や、お年寄りの家々の片付けに来てくださいました。悲しみや先の見えない私たちには、何よりの助けになります。これで4回目の参加ですという中年女性の方は、家族の協力で参加しているそうです。学生さんも本当は就職活動の準備をしなければならない時期なのに、顔を汚してやってくれている姿に、胸があつくなります。私のできることは、感謝の思いを持ち続けることと、自分に言い聞かせています。
                  岩手県 S・Kさん
 
保育園の頃はどちらかと言うと虚弱な娘で新一年生になっても通学できるか心配でしたが、近くの上級生のお姉さんが毎朝迎えに来てくれるのが楽しみで、元気に登校してくれています。やさしいお姉さんがいてくれて本当に感謝しています。それにしても、登校時の交通事故のニュースは考えると恐い気がします。
                  愛媛県 K・Gさん
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緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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