2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (2)
岡田 稔著
第一章 聖書について・・・2
3 普通に経外典と呼ばれる書は、神の霊感によるものではないから、聖書の正経典の一部ではない。従って神の教会内では何の権威もなく、ほかの人間的な文書と違ったどのような仕方ででも是認されたり使用されてはならない(1)。
1 ルカ24:27,44、ロマ3:2、Ⅱペテロ1:21
三 聖書の権威と効用が前項のように、不離密接である以上、聖書以外の文書の使用に関して十分な注意が必要である。ローマ・カトリック教会は経外典を聖書の中に含めており、英国聖公会は旧約外典を「続旧約聖書」と呼んで準聖書的に重視することは、一般に知られている。それから近代の学者たちは、二世紀の教父文書と聖書中の文書との歴史的価値を十分に区別せず、場合によっては同じように評価して原始キリスト教史を構想するのが常である。
また、自由主義神学の立場に立つ牧師はアウグスチヌスなどの信仰文献を聖書と大差な
く利用しており、講壇での朗読や説教の引用などにも異教文書やゲーテなど非キリスト教
文学までもが採用されている場合も稀ではない。
古代教会の公の集会での朗読が、厳密に正典書に限定されていたことは、ユウセビウス
の教会史などに、はっきりと記載されている。神の教会は、神のみ言葉に導かれ、養われ
る団体である以上、人の言葉と神の言葉とは、はっきり区別しなければならない。
4 聖書がそのために信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない(1)。
1 Ⅱペテロ1:19,21、Ⅱテモテ3:16、Ⅰヨハネ5:9、Ⅰテサロニケ2:13
四 聖書が、信仰と生活の規準である、と告白することは、聖書は信ずべき、また、服従
すべきものであると告白することである。この両面(信仰と生活)に及ぶ聖書の神性にかかわる働き(すなわち、聖書の効用)は、それが神の霊感によって与えられたと言う聖書の権威に基いている事柄である。
本項は、この権威をわたしたちが認容する手段についての告白である。一つの命題を真
なりと承服する場合、わたしたちは理性や経験によってこれを自ら判定する。しかし、聖
書の権威と言うような大問題になると、人間であるわたしたちには不可能である。
このような場合、わたしたちより信用できる他の人間の証言に依存しようとする。ロー
マ・カトリック教会は、この常識論をもって聖書の権威を基礎づける。すなわち、わたし
たちよりも、より聖書時代に近く生存した古代人の証言や、よりキリスト教の真理に精通
した専門家の証言に信頼するようにと言うのである。
これは相対的には間違ってはいない。しかし、絶対的な基礎とはなりえない。最初に聖
書を受け取った人々の証言と言えども、それが神の言葉・霊感による文書であるとの確信
をどのようにして得たかと言うことになれば、その本人の理性とか経験による判定というだけでは不十分である。結局、聖書の権威はその真の出所である神以外に依拠できない神
の言葉ということだけが、聖書の権威の拠り所なのである。
5 わたしたちは教会の証言によって、聖書に対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう(1)。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るものである(2)。
1 Ⅰテモテ3:15。
2 Ⅰヨハネ2:20,27、ヨハネ16:13,14、Ⅰコリント2:10-12、イザヤ59:21。
五 この項は、聖書がどうして神の言葉であるとの確信が与えられるか、という点の告白
である。まず教会の証言、すなわち、外的証明と聖書自身の持つ証拠、内的証明である。
しかし、この二つは豊富な証明でありながら、根本的な弱点がある。
このことは第一項の自然啓示論とよく似ている。聖書が神の言葉であって、人間の言葉
ではないと言う証拠は、歴史からも聖書自身からも言い逃れられないほどに十分に存在す
るが、わたしたちの罪に汚れた知性や心情には、この二重の証拠も十分に有効ではない。
そこで、この障害を突破する道は、ただ神の特別な直接的・超自然的なみ業に待つ外ない。これが、聖霊の内的証明と呼ばれるものである。ここで注意したいことは、この聖霊の内的な働きと聖書自身との関係である。それがどんなに不離不即なものであるかを強調するために「み言葉により、またみ言葉と共に・・・」と表現されているのである。
もう一つ注意したいことは、「聖書の無謬と神的権威」と言われていることである。聖書
が神の言葉であるということは、漠然とした感情ではなく、明白な無謬的真理だという確信であり、聖書の権威はこうした聖書の無謬性を根底に持つ主張なのである。無謬だからこそ権威があるのである。聖書がみ言葉を通してわたしたちに証しすることは、この無謬性に基づく権威性そのものである。このことによって、聖書が単に啓示の記録だけにとどまらず、現在与えられている唯一の啓示そのものなのである。
ここでは明瞭に、アナバプテスト的な神秘主義、すなわち、み言葉を離れて聖霊が語る
という教説と、ルター派的なみ言葉以外に聖霊の活動を否定する考えに対して、改革派教
会の「み言葉と聖霊の共働」の教えが告白されている。
**********
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
岡田 稔著
第一章 聖書について・・・2
3 普通に経外典と呼ばれる書は、神の霊感によるものではないから、聖書の正経典の一部ではない。従って神の教会内では何の権威もなく、ほかの人間的な文書と違ったどのような仕方ででも是認されたり使用されてはならない(1)。
1 ルカ24:27,44、ロマ3:2、Ⅱペテロ1:21
三 聖書の権威と効用が前項のように、不離密接である以上、聖書以外の文書の使用に関して十分な注意が必要である。ローマ・カトリック教会は経外典を聖書の中に含めており、英国聖公会は旧約外典を「続旧約聖書」と呼んで準聖書的に重視することは、一般に知られている。それから近代の学者たちは、二世紀の教父文書と聖書中の文書との歴史的価値を十分に区別せず、場合によっては同じように評価して原始キリスト教史を構想するのが常である。
また、自由主義神学の立場に立つ牧師はアウグスチヌスなどの信仰文献を聖書と大差な
く利用しており、講壇での朗読や説教の引用などにも異教文書やゲーテなど非キリスト教
文学までもが採用されている場合も稀ではない。
古代教会の公の集会での朗読が、厳密に正典書に限定されていたことは、ユウセビウス
の教会史などに、はっきりと記載されている。神の教会は、神のみ言葉に導かれ、養われ
る団体である以上、人の言葉と神の言葉とは、はっきり区別しなければならない。
4 聖書がそのために信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない(1)。
1 Ⅱペテロ1:19,21、Ⅱテモテ3:16、Ⅰヨハネ5:9、Ⅰテサロニケ2:13
すべきものであると告白することである。この両面(信仰と生活)に及ぶ聖書の神性にかかわる働き(すなわち、聖書の効用)は、それが神の霊感によって与えられたと言う聖書の権威に基いている事柄である。
本項は、この権威をわたしたちが認容する手段についての告白である。一つの命題を真
なりと承服する場合、わたしたちは理性や経験によってこれを自ら判定する。しかし、聖
書の権威と言うような大問題になると、人間であるわたしたちには不可能である。
このような場合、わたしたちより信用できる他の人間の証言に依存しようとする。ロー
マ・カトリック教会は、この常識論をもって聖書の権威を基礎づける。すなわち、わたし
たちよりも、より聖書時代に近く生存した古代人の証言や、よりキリスト教の真理に精通
した専門家の証言に信頼するようにと言うのである。
これは相対的には間違ってはいない。しかし、絶対的な基礎とはなりえない。最初に聖
書を受け取った人々の証言と言えども、それが神の言葉・霊感による文書であるとの確信
をどのようにして得たかと言うことになれば、その本人の理性とか経験による判定というだけでは不十分である。結局、聖書の権威はその真の出所である神以外に依拠できない神
の言葉ということだけが、聖書の権威の拠り所なのである。
5 わたしたちは教会の証言によって、聖書に対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう(1)。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るものである(2)。
1 Ⅰテモテ3:15。
2 Ⅰヨハネ2:20,27、ヨハネ16:13,14、Ⅰコリント2:10-12、イザヤ59:21。
五 この項は、聖書がどうして神の言葉であるとの確信が与えられるか、という点の告白
である。まず教会の証言、すなわち、外的証明と聖書自身の持つ証拠、内的証明である。
しかし、この二つは豊富な証明でありながら、根本的な弱点がある。
このことは第一項の自然啓示論とよく似ている。聖書が神の言葉であって、人間の言葉
ではないと言う証拠は、歴史からも聖書自身からも言い逃れられないほどに十分に存在す
るが、わたしたちの罪に汚れた知性や心情には、この二重の証拠も十分に有効ではない。
そこで、この障害を突破する道は、ただ神の特別な直接的・超自然的なみ業に待つ外ない。これが、聖霊の内的証明と呼ばれるものである。ここで注意したいことは、この聖霊の内的な働きと聖書自身との関係である。それがどんなに不離不即なものであるかを強調するために「み言葉により、またみ言葉と共に・・・」と表現されているのである。
もう一つ注意したいことは、「聖書の無謬と神的権威」と言われていることである。聖書
が神の言葉であるということは、漠然とした感情ではなく、明白な無謬的真理だという確信であり、聖書の権威はこうした聖書の無謬性を根底に持つ主張なのである。無謬だからこそ権威があるのである。聖書がみ言葉を通してわたしたちに証しすることは、この無謬性に基づく権威性そのものである。このことによって、聖書が単に啓示の記録だけにとどまらず、現在与えられている唯一の啓示そのものなのである。
ここでは明瞭に、アナバプテスト的な神秘主義、すなわち、み言葉を離れて聖霊が語る
という教説と、ルター派的なみ言葉以外に聖霊の活動を否定する考えに対して、改革派教
会の「み言葉と聖霊の共働」の教えが告白されている。
**********
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
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『旧・新約婦人物語』(35)
シバの女王
=列王記上 10:1~13=
ここに面白いエピソードがあります。それは、シバの女王がソロモンの知恵と悟りと、その栄華の噂を聞いて、それを実際に見、試そうとして、いろいろの難問を用意し、贈物としてたくさんの金銀宝石などを、らくだに積んで、供ぞろえ美々しく、エルサレムに乗り込んできたことです。
この女王はユダヤ人ではありませんが、旧約聖書でも滅多に見ない、地位の高い人でした。まだ女の権利の認められていない古代において、王としての権威を一女性が持っているのも面白いと思います。
さて、この女王の国はどこでしょうか。シバはアラビヤの西南端にあった小さい国で、エルサレムからはずいぶん遠いところでした。当時は、まだ交通機関もなく、新聞やラジオの報道もない時代であったにもかかわらず、ソロモンの噂は、この遠いシバにまでも伝わっていたということは、驚くべきことで、ソロモンがいかに偉大であったかがわかります。
この女王は、今の言葉で言えば、センスのある、開けた人とでもいいましょうか、新しい文化に興味を持っていたようで、彼女は自分が聞いているソロモンの栄えと知恵が、真実であるかどうか、実際に自分の目で見たく、この長い旅を続けて、エルサレムへ来たほどです。道も開けていない砂漠地帯を横切って行くこの大旅行は、実に苦しい旅であったでしょう。
彼女は、この苦しい旅をもいとわぬほど、新しい文化を吸収することに熱心であったのです。また、彼女は単にエルサレムでソロモンの文化から、何かを得ようとしたばかりではありません。立派な贈物を用意して、自分の国の文化をも紹介しようとして、シバの最高の宝物を持って行くことも忘れませんでした。シバは、当時の文明国エジプトからインドへ行く交通の要路に当たり、商業が盛んで、国が富んでいたようです。女王がエルサレムに着いたとき、町の人々はその供まわりの美しさ、沢山の荷物が運ばれてきたのに目を見張って驚きました。
ソロモンは、親切丁寧に、国賓として彼女を迎え、女王の質問にことごとく答え、その上、宮殿に案内して、その盛んな様子を見せました。
女王は「わたしが国であなたのことと、あなたの知恵について聞いたことは真実でありました。・・・あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています」(6~7)、と言って驚嘆しています。特に、女王がエホバの家にのぼる階段を見たとき、彼女は気を奪われたとあります。唖然としたことでしょう。ソロモンが女王を主の宮に案内したのは、宮の礼拝に出席して、まことの神の礼拝に参加させたことを物語っていると思います。
ここで残念に思うことは、女王がこのように神の恵みに満たされたソロモンの様子を見ても、まことの神を信じるようになったという記事が見られないことです。女王は「あなたの神、主はほむべきかな」(9)と、神を賛美していますが、「あなたの神はわたしの神」と告白していないのは、まことに残念なことです。
彼女は、ソロモンからたくさんの贈物を受けて国に帰りましたが、何ものにもまして大切な信仰は持って帰らなかったのです。私たちも、この女王のようにせっかく神のみもとに導かれて、信仰を得る機会を与えられながら、手を虚しゅうして帰るることはありません。新しい教育を受けた、いわゆる、文化人にこのような傾向の人が多いようです。彼らは高い犠牲を払って、何年も科学的真理を求めていますが、科学以上のものがあるのに気付かないのです。
「南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる」(マタイ12:42)。
これは、イエスの在世当時、イエスをキリストと認めなかった人々に対する、イエスの警告です。もちろん、お言葉の中に引用されている南の女王とは、シバの女王をさしています。彼女が地の果てよりソロモンの知恵をかりに来る熱心な態度を、イエス様はお認めになっていますが、イエスは全能の神の存在を教えようとして、「見よ、ソロモンにまさる者がここにいる」と力を入れて叫んでおられます。
私たちも、キリストを認め、イエスをキリストと信じなければ、このシバの女王のような熱心さがあっても、宝の山に入りながら、手を虚しゅうして帰る愚を行うことでしょう。多くのお母さん方、自分の娘が結婚するために、お茶だ、お花だ、洋裁だといろいろな文化的教養を身につけさせるのに一生懸命ですが、より大切な魂をお忘れではないでしょうか。この世の文化がいかに栄えようとも、信仰のない文化は根のない草花に等しいもので、やがては、しぼみ、枯れてしまいます。それゆえに信仰のない文化は空の空なのです。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
シバの女王
=列王記上 10:1~13=
ここに面白いエピソードがあります。それは、シバの女王がソロモンの知恵と悟りと、その栄華の噂を聞いて、それを実際に見、試そうとして、いろいろの難問を用意し、贈物としてたくさんの金銀宝石などを、らくだに積んで、供ぞろえ美々しく、エルサレムに乗り込んできたことです。
この女王はユダヤ人ではありませんが、旧約聖書でも滅多に見ない、地位の高い人でした。まだ女の権利の認められていない古代において、王としての権威を一女性が持っているのも面白いと思います。
さて、この女王の国はどこでしょうか。シバはアラビヤの西南端にあった小さい国で、エルサレムからはずいぶん遠いところでした。当時は、まだ交通機関もなく、新聞やラジオの報道もない時代であったにもかかわらず、ソロモンの噂は、この遠いシバにまでも伝わっていたということは、驚くべきことで、ソロモンがいかに偉大であったかがわかります。
この女王は、今の言葉で言えば、センスのある、開けた人とでもいいましょうか、新しい文化に興味を持っていたようで、彼女は自分が聞いているソロモンの栄えと知恵が、真実であるかどうか、実際に自分の目で見たく、この長い旅を続けて、エルサレムへ来たほどです。道も開けていない砂漠地帯を横切って行くこの大旅行は、実に苦しい旅であったでしょう。
彼女は、この苦しい旅をもいとわぬほど、新しい文化を吸収することに熱心であったのです。また、彼女は単にエルサレムでソロモンの文化から、何かを得ようとしたばかりではありません。立派な贈物を用意して、自分の国の文化をも紹介しようとして、シバの最高の宝物を持って行くことも忘れませんでした。シバは、当時の文明国エジプトからインドへ行く交通の要路に当たり、商業が盛んで、国が富んでいたようです。女王がエルサレムに着いたとき、町の人々はその供まわりの美しさ、沢山の荷物が運ばれてきたのに目を見張って驚きました。
ソロモンは、親切丁寧に、国賓として彼女を迎え、女王の質問にことごとく答え、その上、宮殿に案内して、その盛んな様子を見せました。
女王は「わたしが国であなたのことと、あなたの知恵について聞いたことは真実でありました。・・・あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています」(6~7)、と言って驚嘆しています。特に、女王がエホバの家にのぼる階段を見たとき、彼女は気を奪われたとあります。唖然としたことでしょう。ソロモンが女王を主の宮に案内したのは、宮の礼拝に出席して、まことの神の礼拝に参加させたことを物語っていると思います。
ここで残念に思うことは、女王がこのように神の恵みに満たされたソロモンの様子を見ても、まことの神を信じるようになったという記事が見られないことです。女王は「あなたの神、主はほむべきかな」(9)と、神を賛美していますが、「あなたの神はわたしの神」と告白していないのは、まことに残念なことです。
彼女は、ソロモンからたくさんの贈物を受けて国に帰りましたが、何ものにもまして大切な信仰は持って帰らなかったのです。私たちも、この女王のようにせっかく神のみもとに導かれて、信仰を得る機会を与えられながら、手を虚しゅうして帰るることはありません。新しい教育を受けた、いわゆる、文化人にこのような傾向の人が多いようです。彼らは高い犠牲を払って、何年も科学的真理を求めていますが、科学以上のものがあるのに気付かないのです。
「南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる」(マタイ12:42)。
これは、イエスの在世当時、イエスをキリストと認めなかった人々に対する、イエスの警告です。もちろん、お言葉の中に引用されている南の女王とは、シバの女王をさしています。彼女が地の果てよりソロモンの知恵をかりに来る熱心な態度を、イエス様はお認めになっていますが、イエスは全能の神の存在を教えようとして、「見よ、ソロモンにまさる者がここにいる」と力を入れて叫んでおられます。
私たちも、キリストを認め、イエスをキリストと信じなければ、このシバの女王のような熱心さがあっても、宝の山に入りながら、手を虚しゅうして帰る愚を行うことでしょう。多くのお母さん方、自分の娘が結婚するために、お茶だ、お花だ、洋裁だといろいろな文化的教養を身につけさせるのに一生懸命ですが、より大切な魂をお忘れではないでしょうか。この世の文化がいかに栄えようとも、信仰のない文化は根のない草花に等しいもので、やがては、しぼみ、枯れてしまいます。それゆえに信仰のない文化は空の空なのです。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (18) 遠山良作 著
昭和21年
6月30日
-ビルマ新聞発刊さる-
在ビルマの日本軍の大部分はラング-ン、ア-ロンキンプに終結して、日本に帰る船を待っている。この部隊から発行される、ビルマ新聞が差し入れられた。藁半紙一枚のガリ版刷の新聞である。懐かしい日本のニュース、非合法であった共産党は、国会に五名の代議士を送り込み、「天皇制は封建的遺物であるから、陛下は速やかに退位しろ、官僚による統制は撤廃して、人民の管理に移せ、資本家は労働者の待遇を改善して、生活の保障をすべきである」等を叫び、人民戦線の統一による政府の樹立を目指している。
農民は米の供出を出ししぶり、商人は闇取引のみをする。野党である社会党は、政府の打倒をめざし、政権の獲得に懸命な努力を傾けている。政府は通貨の縮小、食料の増産のため、開墾による農地の拡大を奨励、統制の強化等の政策を打ち出し、荒廃した祖国の復興に努めつつある。
有史以来初めて経験する敗戦は、精神的にも物質的にも、予想以上に深刻さを国民に与えているようである。敗戦という悲劇を経験した苦しみの涙は尊く、そこになにかを見出してこそ美しい、戦争のない、平和な新しい祖国日本が生まれることだと思う。祖国よ、頑張れ、遠いビルマの獄中からただ一日も早く、立ち上がることを祈るのみである。
たは易く 敗るものか 敗戦の 祖国のニュースに 心みだるる
過激なる 文字にとまどい 新しき 祖国(くいに)のニュースを 獄舎にて読む
食すくなき日 続きいて ほそりたる 貌が映れり 澄みたる水に
7月10日
-死刑囚市川少佐-
「カラゴン村」事件の責任者である市川少佐は絞首刑の宣告を受けて、この独房にいる若い少佐である。私が大佐を知ったのは、モールメン刑務所の独房に入れられていた時である。たしか昨年の12月頃である。英兵に連れられて私の隣りの房に入れられた。それが市川少佐であった。彼は会津生まれで士官学校の生粋の軍人である。明るい気性と親しみ易い人であった。夜になるとよく詩を吟じた。「正気の歌」など吟じたり、又、私に草履を作ることを教えてくれた。恐らく農村の出身であろう。モールメン刑務所時代は、ほとんどその草履を履いて過ごした。
それから彼は私より早くラングーン刑務所に送られたのである。それから間もなくカラゴン事件で死刑囚となり、私はエデゴン事件で6年の刑を受けて、この独房に入れられ、数ヶ月振りの再会であった。監視が厳しくてなかなか言葉は掛けられないが、鉄扉を通して見るくらいである。一日に一回10分位運動のために出てくる少佐の姿を見ることがある。
死の宣告を受けた彼の上に、死は一刻一刻と迫りつつある。今日も房の外に出た少佐は、幾日振りかで晴れた青空を見上げて、大きく深呼吸をして、「おお、今日は久しぶりによい天気だ」と言って澄んだ瞳を輝かして運動する彼の姿、これが明日をも知れない人の姿であろうか、悟りきった仏に姿にも似ている。
処刑待つ 市川少佐は 獄庭に 空を仰ぎて 思いきり手を振る
夜ともなれば静かな闇をついて、張りのあるよく通る声で市川少佐の「魄たり二千六百州・・・」という長い国体篇の詩吟が聞こえて来る。声が余り大きいので監視の印度兵がとがめると、「俺は間もなく死ぬるから、お経唱えている」と言う。歩哨は「マスター、もっと小さな声で唱えてくれ」と頼む。
戦勝国であるはずの印度人は、私たちに「マスター」という、人のよい印度兵には異様に聞こえたかもしれないが、市川少佐はなかなか「ユーモア」のある反面もあった。
経読むと 印度兵に偽り 声を張り上げて 歌うは死刑囚 市川少佐
この刑務所内の炊事にいる友が一番気を使って作る食事は、死刑囚のための食事である。なんとか充分に食べさせてやりたいと思えども、絶対量が足りない給与である。特に肉類は皆無である。たまたま捕まえた野ねずみなどは料理して死刑囚のために差し入れられるのである。
ある日、市川少佐は私に「この肉は美味しかったから食べてみろ」と野ねずみの肉の煮付けをくれた。初めて食べる肉はやわらかくて、鳥の肉に似ている。ひもじい毎日の生活である。今まで食べたことのないほど美味しい肉の味、少佐に心から感謝したこともあった。
野ねずみの 一片の肉 わけくれし 少佐の情に 胃の腑をみたす
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (18) 遠山良作 著
昭和21年
6月30日
-ビルマ新聞発刊さる-
在ビルマの日本軍の大部分はラング-ン、ア-ロンキンプに終結して、日本に帰る船を待っている。この部隊から発行される、ビルマ新聞が差し入れられた。藁半紙一枚のガリ版刷の新聞である。懐かしい日本のニュース、非合法であった共産党は、国会に五名の代議士を送り込み、「天皇制は封建的遺物であるから、陛下は速やかに退位しろ、官僚による統制は撤廃して、人民の管理に移せ、資本家は労働者の待遇を改善して、生活の保障をすべきである」等を叫び、人民戦線の統一による政府の樹立を目指している。
農民は米の供出を出ししぶり、商人は闇取引のみをする。野党である社会党は、政府の打倒をめざし、政権の獲得に懸命な努力を傾けている。政府は通貨の縮小、食料の増産のため、開墾による農地の拡大を奨励、統制の強化等の政策を打ち出し、荒廃した祖国の復興に努めつつある。
有史以来初めて経験する敗戦は、精神的にも物質的にも、予想以上に深刻さを国民に与えているようである。敗戦という悲劇を経験した苦しみの涙は尊く、そこになにかを見出してこそ美しい、戦争のない、平和な新しい祖国日本が生まれることだと思う。祖国よ、頑張れ、遠いビルマの獄中からただ一日も早く、立ち上がることを祈るのみである。
たは易く 敗るものか 敗戦の 祖国のニュースに 心みだるる
過激なる 文字にとまどい 新しき 祖国(くいに)のニュースを 獄舎にて読む
食すくなき日 続きいて ほそりたる 貌が映れり 澄みたる水に
7月10日
-死刑囚市川少佐-
「カラゴン村」事件の責任者である市川少佐は絞首刑の宣告を受けて、この独房にいる若い少佐である。私が大佐を知ったのは、モールメン刑務所の独房に入れられていた時である。たしか昨年の12月頃である。英兵に連れられて私の隣りの房に入れられた。それが市川少佐であった。彼は会津生まれで士官学校の生粋の軍人である。明るい気性と親しみ易い人であった。夜になるとよく詩を吟じた。「正気の歌」など吟じたり、又、私に草履を作ることを教えてくれた。恐らく農村の出身であろう。モールメン刑務所時代は、ほとんどその草履を履いて過ごした。
それから彼は私より早くラングーン刑務所に送られたのである。それから間もなくカラゴン事件で死刑囚となり、私はエデゴン事件で6年の刑を受けて、この独房に入れられ、数ヶ月振りの再会であった。監視が厳しくてなかなか言葉は掛けられないが、鉄扉を通して見るくらいである。一日に一回10分位運動のために出てくる少佐の姿を見ることがある。
死の宣告を受けた彼の上に、死は一刻一刻と迫りつつある。今日も房の外に出た少佐は、幾日振りかで晴れた青空を見上げて、大きく深呼吸をして、「おお、今日は久しぶりによい天気だ」と言って澄んだ瞳を輝かして運動する彼の姿、これが明日をも知れない人の姿であろうか、悟りきった仏に姿にも似ている。
処刑待つ 市川少佐は 獄庭に 空を仰ぎて 思いきり手を振る
夜ともなれば静かな闇をついて、張りのあるよく通る声で市川少佐の「魄たり二千六百州・・・」という長い国体篇の詩吟が聞こえて来る。声が余り大きいので監視の印度兵がとがめると、「俺は間もなく死ぬるから、お経唱えている」と言う。歩哨は「マスター、もっと小さな声で唱えてくれ」と頼む。
戦勝国であるはずの印度人は、私たちに「マスター」という、人のよい印度兵には異様に聞こえたかもしれないが、市川少佐はなかなか「ユーモア」のある反面もあった。
経読むと 印度兵に偽り 声を張り上げて 歌うは死刑囚 市川少佐
この刑務所内の炊事にいる友が一番気を使って作る食事は、死刑囚のための食事である。なんとか充分に食べさせてやりたいと思えども、絶対量が足りない給与である。特に肉類は皆無である。たまたま捕まえた野ねずみなどは料理して死刑囚のために差し入れられるのである。
ある日、市川少佐は私に「この肉は美味しかったから食べてみろ」と野ねずみの肉の煮付けをくれた。初めて食べる肉はやわらかくて、鳥の肉に似ている。ひもじい毎日の生活である。今まで食べたことのないほど美味しい肉の味、少佐に心から感謝したこともあった。
野ねずみの 一片の肉 わけくれし 少佐の情に 胃の腑をみたす
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (92)
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (4)
「奮起せしめる」とは、異邦人の救いが、不信のユダヤ人たちに妬みを起こさせることを意味しています。神がユダヤ人を拒まれたことは、永遠のものではなく、最後的な拒否ではありません。それは異邦人への福音伝道が促進されるためでもあり、最後的にはユダヤ人がそれを見て奮起し、救い主に立ち帰るように、神が計らわれたのです。
「奮起させる(妬みをおこさせる)ということは、罪に汚れた種類の妬みを意味するのではありません。パウロは異邦人の救いがユダヤ人を奮起させ、福音を通して彼らに救いを求めさせるよう神は意図されたのだと述べているのです。
「もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」(11:12)。もしユダヤ人の拒否が、世界にそれほど大きな利益をもたらしたのならば、彼らがキリストに回心するならば、さらに大きな益を期待できるはずです。「すばらしいこと」は「失敗」と対比されます。新約ではいろいろの意味に用いられています。あることを完全にするために補えられねばならない部分の意味を表しています(マタイ9:16)。
ここの11:12では、完全な回復または祝福(ホッジ)、あるいはユダヤ人が再び満たされる(アルフォード)の意味です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (4)
「奮起させる(妬みをおこさせる)ということは、罪に汚れた種類の妬みを意味するのではありません。パウロは異邦人の救いがユダヤ人を奮起させ、福音を通して彼らに救いを求めさせるよう神は意図されたのだと述べているのです。
「もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」(11:12)。もしユダヤ人の拒否が、世界にそれほど大きな利益をもたらしたのならば、彼らがキリストに回心するならば、さらに大きな益を期待できるはずです。「すばらしいこと」は「失敗」と対比されます。新約ではいろいろの意味に用いられています。あることを完全にするために補えられねばならない部分の意味を表しています(マタイ9:16)。
ここの11:12では、完全な回復または祝福(ホッジ)、あるいはユダヤ人が再び満たされる(アルフォード)の意味です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
♡ 20歳の娘のことで、警察に行ったり、市の相談所に行ったりしてきた13年になります。皆さん親身になってお話しをしてくれましたが、ことは簡単ではありません。娘の苦しみが分かるのです。今は教会の先生に相談とお祈りをお願いに教会に来ています。信仰の支えを求めてです。
山梨県 M・Tさん
♡ 私の永い年月の祈りは、主人が教会に来てくれることです。私が教会に行くことには反対ではありませんが、自分から行こうという気持ちになれないのです。私の祈りが足りないのかとか、日々の生活を見て教会に行こうかという気持ちにならないのかと考え、落ち込んでしまったことは、何度もありました。専業主婦定ですから、主人のお給料から献金をしてきましたが、これが私の重荷でした。その主人も定年退職して2年になりますが、生き甲斐とまでは言いませんが、何かを得てこの限られた日々を過ごして欲しいと願っています。
広島県 O・Tさん
♡ ・・・。眼の前に広がる景色は地震・津波による瓦礫はもう見えません。この景色はあの出来事の前には想像すらできないもので、今も受け入れることは出来ません。そうして、いまも起こる地震に毎日びくびくしています。不安そのもので、安心した日常生活は何時来るのでしょうか。・・・。
青森県 W・Kさん
♡ 暑くなりました。早朝はまだ雨が降っているみたいで犬の散歩には行けなくて、8時40分位に行きました、そしたら逆に暑い~です。夕方の散歩は5時か6時にします。だって人間の私の方が、熱中症になってしまうでしょう。朝夕の散歩をされている方ならお分かりですよね。
栃木県 G・Tさん
♡ 昨日、日帰りですが母の見舞いに行ってきました。お酒を飲んで意識を無くして緊急搬送で病院におります。最近気になることは、母がとても我がままを言うことです。特に父に対してが酷いのです。今まで口答えなど一つしなかった母が、我がままにになったのは、認知症のせいかなぁと言いましたが、そればかりではないように思う時、母の心の内が見えたように思うのです。自分という者がないかのように過ごしていた母が、認知症の名のもとに、自己主張、自己表現をしていると思うと、嬉しいような、悲しいような気持ちにさせられました。私の中にも母の存在は薄く、少ないことに気付き、本当に申し訳ない気持ちです。お母さん、我がまま言って!と思いたいです。
山口県 M・Kさん
*****************
「若人の祈り」 ウイリアム・バークレー
朝
神様、今日一日中、人々や物事が、私を苛立たせる時にも、かんしゃくを起こすことがありませんように。物事が、最初うまくいかない時にも、忍耐を失うことがありませんように。物事が難しく、それを学ぶことが辛いような時にも、希望を失うことがありませんように。私が、間違った方に行こうとするような時にも、善良さと信用を失うことがありませんように。
夜再び眠りにつく時に、後悔することがありませんように、今日の日を過ごさせてください。
主イエスによって祈ります。 アーメン
夜
神様、今日両親に知られたくない、あなたに見られたくないと思うようなことをしたことをお許しください。今日はもっと良く出来るはずであったのに、そうしなかったことをお許しください。時間を無駄にしたり、間違ったことに時間を費やしたことをお許しください。
今、私がすまなく思っているすべてことをお許しください。そして今夜も安らかな眠りをいただいて、明日をより良く過ごすことが出来ますように。
主イエスによって祈ります。 アーメン
山梨県 M・Tさん
♡ 私の永い年月の祈りは、主人が教会に来てくれることです。私が教会に行くことには反対ではありませんが、自分から行こうという気持ちになれないのです。私の祈りが足りないのかとか、日々の生活を見て教会に行こうかという気持ちにならないのかと考え、落ち込んでしまったことは、何度もありました。専業主婦定ですから、主人のお給料から献金をしてきましたが、これが私の重荷でした。その主人も定年退職して2年になりますが、生き甲斐とまでは言いませんが、何かを得てこの限られた日々を過ごして欲しいと願っています。
広島県 O・Tさん
♡ ・・・。眼の前に広がる景色は地震・津波による瓦礫はもう見えません。この景色はあの出来事の前には想像すらできないもので、今も受け入れることは出来ません。そうして、いまも起こる地震に毎日びくびくしています。不安そのもので、安心した日常生活は何時来るのでしょうか。・・・。
青森県 W・Kさん
♡ 暑くなりました。早朝はまだ雨が降っているみたいで犬の散歩には行けなくて、8時40分位に行きました、そしたら逆に暑い~です。夕方の散歩は5時か6時にします。だって人間の私の方が、熱中症になってしまうでしょう。朝夕の散歩をされている方ならお分かりですよね。
栃木県 G・Tさん
♡ 昨日、日帰りですが母の見舞いに行ってきました。お酒を飲んで意識を無くして緊急搬送で病院におります。最近気になることは、母がとても我がままを言うことです。特に父に対してが酷いのです。今まで口答えなど一つしなかった母が、我がままにになったのは、認知症のせいかなぁと言いましたが、そればかりではないように思う時、母の心の内が見えたように思うのです。自分という者がないかのように過ごしていた母が、認知症の名のもとに、自己主張、自己表現をしていると思うと、嬉しいような、悲しいような気持ちにさせられました。私の中にも母の存在は薄く、少ないことに気付き、本当に申し訳ない気持ちです。お母さん、我がまま言って!と思いたいです。
山口県 M・Kさん
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「若人の祈り」 ウイリアム・バークレー
朝
神様、今日一日中、人々や物事が、私を苛立たせる時にも、かんしゃくを起こすことがありませんように。物事が、最初うまくいかない時にも、忍耐を失うことがありませんように。物事が難しく、それを学ぶことが辛いような時にも、希望を失うことがありませんように。私が、間違った方に行こうとするような時にも、善良さと信用を失うことがありませんように。
夜再び眠りにつく時に、後悔することがありませんように、今日の日を過ごさせてください。
主イエスによって祈ります。 アーメン
夜
神様、今日両親に知られたくない、あなたに見られたくないと思うようなことをしたことをお許しください。今日はもっと良く出来るはずであったのに、そうしなかったことをお許しください。時間を無駄にしたり、間違ったことに時間を費やしたことをお許しください。
今、私がすまなく思っているすべてことをお許しください。そして今夜も安らかな眠りをいただいて、明日をより良く過ごすことが出来ますように。
主イエスによって祈ります。 アーメン
衆議院では消費税増税がきまりました。何とか切り詰めて生活できることに感謝していますが、そうでない方々には厳しい時代の到来です。幸いにも、でもどのような時も、神様に目を向けて、精一杯与えられた今を生き、生かされている時間を大切に感謝して過ごしたいものです。
愛知県 T・Dさん
加納さんのページを読んで私の代弁者として嬉しいです。私の特色として頭の中には言いたいことが沢山あります。でもいざ手紙やメールとなると気持ちばかり焦り、それすら困難になったりします。いま、メールしていますが、本当は面倒になるとイラついてしまいます。それでつい電話代も考えないで電話を使ってしまいます。そのため主人からも、毎月の電話代が高いと言われます。お前は家計や将来を考えているのか!? とよく言われます。考えているよと言うと、考えているなら何故、遠方や長電話止めないんだと言われてしまいます。 私も出来たら電話でなくメールにしたいですが、出来ないのです。我慢するとイライラしてパニックになるのです。落ち着かなくなります。こんな気持ちを説明しても誰にも分かって貰えません。加納さん、ありがとう!これからも代弁者になってください。
新潟県 K・Rさん
『ありがとうございます』
原発反対の集会に友人と毎週参加しています。自分の言葉を手書きにしたプラーカードを持参して行きます。集まる皆さんも同じ手作りです。自発的集会は長い年月にこそ必要な
意思表示と思っています。70年安保の時の若さはありませんが、人生経験の中での意見こそ大切と思っています、と都内の方からメールが来ました。
先月号に大き目の写真を入れましたが、好評なので、今月号は、全部大きめにしてみました。写真を送って下さる方のお気持ちが届くのではないかと思い、そうしてみました。
お友達などにこのメールアドレスをご紹介ください。またご意見も大い歓迎です。
電子メール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
中野由美子様 西口義明様 馬場暁美様 岡田千歳様 鈴木英昭様 古屋愛実様
匿名2名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
2012年6月16日から2012年7月15日‘まで
原発反対の集会に友人と毎週参加しています。自分の言葉を手書きにしたプラーカードを持参して行きます。集まる皆さんも同じ手作りです。自発的集会は長い年月にこそ必要な
意思表示と思っています。70年安保の時の若さはありませんが、人生経験の中での意見こそ大切と思っています、と都内の方からメールが来ました。
先月号に大き目の写真を入れましたが、好評なので、今月号は、全部大きめにしてみました。写真を送って下さる方のお気持ちが届くのではないかと思い、そうしてみました。
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2012年6月16日から2012年7月15日‘まで
さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
=ヘブル4:14=
神様は、天におられます。私たちは地上にいます。しかし神様は、その御子をこちらに送って、御子によって、大地とを結び付けられました。そして、もう一度、引き上げられました。その結果、天と地とはキリストのゆえに堅く結び付けられました。この事実と真理はキリスト者の信仰の告白であり土台です。
私たちは地上に居り、いろいろの試みと誘惑に、躓きとなる魅力的な事柄に心奪われたり、時には、私たちの弱さのゆえに揺れ動き信仰の道から遠のくこともあります。だからこそ、信仰をかたく守らなければならないのです。それは、私たち自身の意志や決断によるものではなく、キリストの恵みを信じ「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない」(ローマ10:9~11)と約束されたことを知っているからです。
この恵みを常に心に持ち続けるために、聖書を読み、学び、祈り、そうして、教会の礼拝の恵みに与ろうではありませんか。主にある信仰の友との「信仰の交わり」の中に加えられ信仰の共同体の一員として、お互いに支え合おうではありませんか。
そのための今日であり、今月でありたいものです。その時、天にあってかたく守られていることを、御霊は確信させてくださいます。
手紙
読まないで破り捨てるな 引出しにしまい込むな
主からの手紙を開いて読めよ 主からの手紙を開いて読めよ
いつまでも変ることない 愛と真実の満ちた
主からの手紙を開いて読めよ 主からの手紙を開いて読めよ
ためらわないで今すぐに 心をば素直にして
主からの手紙を開いて読めよ 主からの手紙を開いて読めよ
水野源三第二詩集 「主にまかせよ 汝が身を」より
小閑記
「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことはない」とあなたをあわれまれる主は言われる。
=イザヤ54:10=
これはまことに力強く、神ご自身のように強く、何と大いなるみ言葉でありましょう。このみ言葉は永遠なる神の如く、動くことはありません。このみ言葉一つで、キリスト者の肩の重荷を取り去って余りあるものであります。山は移り、丘が動くのを見るのは、たびたびあることではありません。しかし、もしこういうことが起こったとしても、私たちは山よりも確かな拠り所を持っているのです。神の御約束は、山々よりも安全であります。
これが真実であることを信じましょう。私たちには、それが必要なのです。人生はさまざまな力が充満しており、不安、粗相、疑惑、批判なども生み出しています。母は神より離れ、手に負えない子らのために嘆きます。父は、自分の義務に至らなかった自責の念に沈みます。若いキリスト者たちは、この世に神も望みもないかのように思い、しょんぼりと座り、絶望して前途を見つめます。
神のなさった約束への信仰を失う者は、束縛と、無力の中へ押し流されます。しかし、神のみ言葉に命をかける者は、自由にされ、勝利のキリスト者とされるのです。何と幸いなことでしょう。
立ち止まることなく立ち上がり、失望したキリスト者よ、そして、天地が過ぎ去るときも、動かぬみ言葉の上にもう一度、私たちの足を踏まえようではありませんか。過ぎ去った日に、私たちを捨てたまわなかった神は、来たらんとする日にも、私たちの重荷を負い、私たちの問題を解いて下さるのです。
主を信じる者は、決して辱められることはありません。
上河原立雄
「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことはない」とあなたをあわれまれる主は言われる。
=イザヤ54:10=
これはまことに力強く、神ご自身のように強く、何と大いなるみ言葉でありましょう。このみ言葉は永遠なる神の如く、動くことはありません。このみ言葉一つで、キリスト者の肩の重荷を取り去って余りあるものであります。山は移り、丘が動くのを見るのは、たびたびあることではありません。しかし、もしこういうことが起こったとしても、私たちは山よりも確かな拠り所を持っているのです。神の御約束は、山々よりも安全であります。
これが真実であることを信じましょう。私たちには、それが必要なのです。人生はさまざまな力が充満しており、不安、粗相、疑惑、批判なども生み出しています。母は神より離れ、手に負えない子らのために嘆きます。父は、自分の義務に至らなかった自責の念に沈みます。若いキリスト者たちは、この世に神も望みもないかのように思い、しょんぼりと座り、絶望して前途を見つめます。
神のなさった約束への信仰を失う者は、束縛と、無力の中へ押し流されます。しかし、神のみ言葉に命をかける者は、自由にされ、勝利のキリスト者とされるのです。何と幸いなことでしょう。
立ち止まることなく立ち上がり、失望したキリスト者よ、そして、天地が過ぎ去るときも、動かぬみ言葉の上にもう一度、私たちの足を踏まえようではありませんか。過ぎ去った日に、私たちを捨てたまわなかった神は、来たらんとする日にも、私たちの重荷を負い、私たちの問題を解いて下さるのです。
主を信じる者は、決して辱められることはありません。
上河原立雄
(60)
5月17日
就労は棚上げというより、諦めています。自分の体力のなさと、家事の両立ができないのと、出かけると頭がいっぱいになるのと、両親のことが気になるし。でも、自分にできることがないというのは、ほんとツライですね。
5月21日
腰痛で薬のお世話になって(脊髄刺激装置が効かない)、薬のコントロールに神経を使わなくてはいけないのですが、今回で何度目かの入院になるのだろう。一週間の予定なので、本は3冊持っていきます。聖書と、朝の祈り夕べの祈りと、契約の継承です。それと薬がやたら多いですね。
明後日手術ですが、お昼頃の予定なので、それまで寒い所で手術着を着て、点滴でしょう。手術室までは歩きだろうなぁ。左下にして寝転んだら、静脈麻酔でこてっとなったところで、始まるのでしょうね。全て病院にお委せ。後が痛かろうと、皆は心配してくれるけど、麻酔科なので、痛くなったらごねるだけ。今回は、オピオイド系の薬を飲んでいるので、そんなに鎮痛剤を出してもらえるとは思わないけど、そうなったら辛抱するだけですね。
なんとしてでも、一週間で退院しないと、月を跨ぐと高額医療費がきかないので、おとなしく養生します。
5月25日
今日も3時起き。祈りの本を読み、iPodで音楽を聴いていました。そのうちうとうとしたら、少し時間がたちました。早く売店が開かないかなぁ。傷口の痛みは減ってきました。昨日まではお腹の痛みがメインだったけど、今日は腰の傷口が痛むのが分かるようになってきました。病室にはわたししかいないので、気楽です。人は孤独で寂しくないかと言うけど、わたしにはこれがいいんですよねぇ。
5月27日
入院ライフ・6・・起床時間を待って、朝一番で洗濯機へgo!一応入院中は洗濯しなくてもよい分の着替えは持ってきているんですけどね。これといってすることがないので。今日から点滴もないし、ヒマだなぁ。
ナースステーションの電話の呼び出し音が気になるし、廊下からは見舞い客の話声に、うるさ~いと言いたくなりました。土曜日だから、特に賑やかなんだなぁ。
持ってきた本は読み終えてしまいました。後は聖書を読むだけですね。
回診で火曜日か水曜日に、傷の具合を見て、抜糸し、その後退院という見通しが立ちました。
6月1日
今日は、午前中は洗濯と乾燥は洗濯機に任せて、寝ていました。母からの電話で目が覚めました。何だか元気そうな声でした。夕食を作っていたら、傷口が痛んできたので、また横たわっていました。受診するような異様な痛みではないので、いいのですが。痛いのは嫌ですね。
加納さおり
(104)
猫 草
虫たちの盛んに活動する季節となった。しかし、こんなに目にする以前から、ひそかにその命は活動している。彼らが「見える」前には「増殖して」いるのだ。
五月雨の晴れ間に玄関ドアを開けたらそこは羽アリの大群だった。ドアと地面の隙間から湧いてくる。その光景に一瞬固まったが、しょせんは蟻。まずデジカメで状況を撮影し、殺虫剤で駆除。そこまでは余裕の対応。そして・・じわじわと不安になる。えーと、なんだろうあれは。ただのアリではないぞ。もしかして、もしかしてシロアリ・・・?いや、まさか・・!やめてよ、まだ新しい家なのに?!
ネットで調べたら、見たくもない情報までワンクリックで山ほど出てくるのが常である。検索したら、あれはシロアリの一種と即座に判明、壁の穴からぞろぞろ這い出してくる画像はうちとそっくり。そして「駆除薬散布費用のお見積り」、さらには「残念なことにもし建物も被害にあっていたら」と、ぼろぼろになった柱の画像と修理費用の概算まで。なんともご丁寧なことである。ともかく現状把握が一番と、あわてて害虫駆除業者に電話する。あちらは「ああ、飛ぶシーズンなんですよねえ」とのんびり声。すぐに見に来て!と悲鳴をあげるが、「まあまあ。そんな今日明日で家が潰れるわけじゃなし」と一向に緊迫感がない。あちこち電話をかけたら、すぐに行きますというところがあった。それでも2日後。
その不安な2日間で調べているうちにすっかりシロアリについて詳しくなった。そして開き直りも生まれる。所詮、家は「モノ」。形あるものはいずれ壊れる。家族は無事だし、別に平気だもん。まあそうはいっても強がりである。笑顔がひきつっていることは自覚している。でも最初のショックはずいぶん薄らいだ。時間と情報って大事だ。
2日後、業者さんが床下にもぐって検査をしてくれる。幸い建物の躯体は大丈夫。ただ防腐剤効果は約5年で切れるので再度、薬を撒く必要があると。さっそくお願いする。散布費用だって安くはないが、もし建物がやられていたらそんな額では済まない。今は諸々の処理を終えて、ほっと一安心したところである。しかし油断はできない。まだ地中に巣はあるのだ。そして大量の卵だって。
いつだって人間が気が付くのは後手である。地中で力を蓄えて、満ちて、地表にあふれてやっと私たちが目にするのだ。私たちは豊かで未知なる世界の薄皮一枚にのって生活している。それは奇跡のような危ういバランスの上に成立している仮初めの姿だ、と実感する。健康も、今の生活も、宇宙全体も。
その愛のゆえに
=時々の記=
(75)
5月14日
昨日は、とても懐かしい信仰の友から、電話が入りました。その方は、河合伝道所時代にキリスト教の集会に集い、若い日に、洗礼を受けました。家族の猛反対を押し切っての受洗でした。その後、四国学院を卒業され、岐阜の高校の英語教師として務め、今は、千葉に住んでいるとのこと。わが父母のただ純粋にキリストの救いを述べ伝える姿に心惹かれ、何の抵抗もなくキリスト者になったとのこと。
昨日は、母の日だったので、河合にいるお母様のお見舞いにやってきたとのこと。私とは、40年ぶりのお話でした。私たちは、青年会の一員として、讃美歌を思い切り歌って、心の虚しさを晴らしたものでした。ゴダート先生との思い出も尽きないものがあるねと、長い電話となりました。感謝して、神様に、お祈りいたしました。
6月6日
朝から蒸し暑くなってきました。主人は、朝のうちに、草刈りに出かけました。
我が家の周り一帯は、水が澄んでいるので、マムシの絶好の棲みかとなっています。もうお隣の庭先にはマムシが発生したとのことです。犬たちもマムシにさされて、毎年、血清を注射しにはしっています。今年は我が家にはまだ出ていません。そのような理由で、草刈りはこまめにしないといけないのです。田舎の生活は気力と体力の戦いです。私一人だったら、草だらけにしてしまいそうです。怠け者の象徴ですから。
6月9日
梅雨入りです。庭に咲いた、アジサイが恵みの雨をもらって、イキイキしています。雨は必要なのですが、気持ち的にうっとうしくなります。
そのうっとうしさを晴らすには、ちょっとした心使いで、庭に咲いている、花をコップに活けて食卓に置くとか。それだけで、雰囲気が変わりますね。
6月号の祈りにとても感動したのですが、この次月からは、岡田先生の熱い改革派への思いが伝えられるのかと思うと、わくわくしてきます。
6月11日
おはようございます。梅雨の晴れ間を頂きました。
雨で、汚れを落としたのか、緑が一層色濃く、元気を与えてくれています。
スイカズラにおう方へと朝散歩
またたびの咲けば山峡(かい)活気つく
光陰の早さを知らすホトトギス 馬場路哉
今朝はよく晴れたので、主人は、また草刈りに出かけました。村の人たちは、それぞれ、自分の家の近くだけでなく、手分けをして、草刈りをして道を守っています。86歳の方も、元気に草刈り機で刈ってくれます。すごいパワーですね。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
=時々の記=
(75)
5月14日
昨日は、とても懐かしい信仰の友から、電話が入りました。その方は、河合伝道所時代にキリスト教の集会に集い、若い日に、洗礼を受けました。家族の猛反対を押し切っての受洗でした。その後、四国学院を卒業され、岐阜の高校の英語教師として務め、今は、千葉に住んでいるとのこと。わが父母のただ純粋にキリストの救いを述べ伝える姿に心惹かれ、何の抵抗もなくキリスト者になったとのこと。
昨日は、母の日だったので、河合にいるお母様のお見舞いにやってきたとのこと。私とは、40年ぶりのお話でした。私たちは、青年会の一員として、讃美歌を思い切り歌って、心の虚しさを晴らしたものでした。ゴダート先生との思い出も尽きないものがあるねと、長い電話となりました。感謝して、神様に、お祈りいたしました。
6月6日
朝から蒸し暑くなってきました。主人は、朝のうちに、草刈りに出かけました。
我が家の周り一帯は、水が澄んでいるので、マムシの絶好の棲みかとなっています。もうお隣の庭先にはマムシが発生したとのことです。犬たちもマムシにさされて、毎年、血清を注射しにはしっています。今年は我が家にはまだ出ていません。そのような理由で、草刈りはこまめにしないといけないのです。田舎の生活は気力と体力の戦いです。私一人だったら、草だらけにしてしまいそうです。怠け者の象徴ですから。
6月9日
梅雨入りです。庭に咲いた、アジサイが恵みの雨をもらって、イキイキしています。雨は必要なのですが、気持ち的にうっとうしくなります。
そのうっとうしさを晴らすには、ちょっとした心使いで、庭に咲いている、花をコップに活けて食卓に置くとか。それだけで、雰囲気が変わりますね。
6月号の祈りにとても感動したのですが、この次月からは、岡田先生の熱い改革派への思いが伝えられるのかと思うと、わくわくしてきます。
6月11日
おはようございます。梅雨の晴れ間を頂きました。
雨で、汚れを落としたのか、緑が一層色濃く、元気を与えてくれています。
スイカズラにおう方へと朝散歩
またたびの咲けば山峡(かい)活気つく
光陰の早さを知らすホトトギス 馬場路哉
今朝はよく晴れたので、主人は、また草刈りに出かけました。村の人たちは、それぞれ、自分の家の近くだけでなく、手分けをして、草刈りをして道を守っています。86歳の方も、元気に草刈り機で刈ってくれます。すごいパワーですね。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
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〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円