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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  『旧・新約婦人物語』(36)
 
  ローマのマリヤ
       =ローマ16:3~16=
 
 使徒パウロが、ローマにいるキリスト信者に書き送りました有名な「ローマ人への手紙」の終わりの16章で、20数人の熱心な信者たちの名を一つ一つあげて、丁寧な挨拶を送り「よろしく」と言っています。その内に3節に記されていますプリスカとアクラ以外の人々の名前は、このところにしか聖書に記されていません。しかし、これらの名前は、わたしたちにいろいろと大切な教訓を与えていると思います。
 その一つは、パウロの愛に満ちた心が鏡に映るように出ていることです。その心は愛と同情に満ち、人より受けた親切は決して忘れず、神にある信徒の交わりを尊ぶ心で一杯であったことを強くあらわしています。もう一つ教えられることは、パウロの伝道がいかに力あるもので、まことに素晴らしく立派な信仰の実を、どんなにたくさん結んだか、ということであります。
 特にわたしたちを感激させますことは、ここに現われていますあたたかい個人的な交わりです。教会においても、このあたたかい個人と個人の信者たちの交わりは、まことに大切であると存じます。転々と伝道旅行を続けていたパウロではありますが、ローマの教会の一人一人をよく覚えていて、彼らの信仰状態を詳しくつぶさに察知していました。彼が一人一人の名をあげて、その人たちと手紙のやりとりをしていたことは、実に美しいことだと思います。
 
パウロが、ローマ人への手紙16章においてあげた、ローマの教会の信徒たちの名前の内に、二人の女性の名が出ています。その名は、6節に記されていますマリヤと、12節のペルシスであります。このマリヤは、特にローマのマリヤと呼ばれていますが、それは新約聖書に出てくる5人のマリヤと混同しないために、このように呼ばれているのでしょう。たぶん、この婦人は洗礼受けた時、マリヤというクリスチャン・ネームをいただいたのでしょう。
 彼女のローマでの名前は誰も知りません。このローマのマリヤと、ペルシスについて、パウロは何と言っているかによって、彼女らの性格や信仰がうかがわれます。6節を見ますと、「あなたがたのために一方ならず労苦したマリヤに、よろしく言ってほしい」。12節では「・・・。主にあって一方ならず労苦した愛するペルシスに、よろしく」と書かれていて、この二つの節の短い言葉の中に、彼女らの気高い信仰と、美しい愛による働きが目に見えるようであります。またパウロの彼女らに対する愛情に満ちた心根が、にじみ出ているようでもあります。
 
この名も知られぬマリヤとペルシスの名前が、どうしてここにあげられたのでしょうか。この二人の主にある姉妹は、教会のため、また多くの人々に慰めの奉仕をしたためであったことは、先のパウロの言葉を見てもよくわかります。それがどういう奉仕であったかは、はっきりいたしません。しかし彼女らがもし伝道者であったとか、執事でありましたなら、きっとそのことが記録されていたであろうと思います。
 でもそれも書かれていないところから察しますと、彼女らは伝道者とか執事には選ばれていなかったようであります。とにかく、彼女たちは平信徒として、単なる信者として、一生懸命、主の教会のために努力したことは事実でありましょう。おのれを捨てて、貧しい人々を助け、病める人たちを病床に見舞い、教会から遠のいて離れ去りつつある人を尋ね、また隣り人を教会にさそい、孤児たちを慰めるなど、自分の持っている才能を十分に働かし、主のみ栄えのために奉仕されたようであります。さらに、彼女たちは自らの家庭の中ででも、友人たちとのグループの中ででも、力強く、主イエス・キリストによる救いを、人々に証ししたことと思います。
 
 このマリヤとペルシスの境遇は、ある意味で日本のクリスチャン婦人の境遇によく似たとこがあるように思えます。今日の日本の社会はどこに行きましても、二千年昔のローマと同様で、異教と偶像と迷信が満ち満ちております。また、クリスチャンの数も、同じように僅かであります。たいていのクリスチャンは一人ぽっちで、家庭の中で、キリスト教信仰を持っているのはその人一人だけというケースがまことに多いのです。
 信仰のあるクリスチャン女性が、信者でない男性と結婚したばかりに、教会へ出かけることが出来なくなった例は、数え切れません。幸いにも主人がクリスチャンであっても、お姑さんの反対があったり、気兼ねしたりして教会の礼拝に出ることの出来ないでいるお嫁さんもたくさんおられます。
 これからは日本のキリスト教会の発展にとって、癌ともいえる問題です。日本のキリスト教会の実情を考えます時、ローマのマリヤやペルシスの働きは、大きな励ましをわたしたちに与えてくださいます。この二人は、数え切れないほど存在する異教徒の中で、唯一、真の生ける全能の神様のために、ひとかたならず苦労を続けていたことは、実にわたしたちを感激させずにおきません。彼女たちは、わたしたちにとって立派な良き模範とも申せましょう。
 
      ーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
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 ビルマ 戦犯者の獄中記  (19)遠山良作 著
 
昭和21年
 
CCF20120821_00001.jpg7月15日
-カラゴン事件の4名処刑さる-
 
昨夜の夕食が終わりの間もない時である。房の入り口付近から、あわただいい靴音、ざわめきが聞こえてきた。ただ事ではない。カラゴン事件で死刑を宣告されている4名に死を告げるために来た英兵たちであった。刑の確定判決の宣告文を読み上げ、そして市川少佐は絞首刑、緑川大尉、柳沢大尉、田島中尉の3名は銃殺刑である。
市川少佐は西独房に移された。銃殺刑の宣告を受けた三人は、この棟の一番東端の房から一名ずつ別々の房に移された。三人の移された房は、私の房に近いので三人の話し声はなんとか聞き取ることが出来た。
三人の会話を聞いていると私の胸はしめつけられるような気がする。刑務所側の厚意から食べたい物があれば申し出るように、との取り計らいがあり、「コーヒー」「チョコレート」「ケーキ」等の差し入れがあったようである。
「久し振りのコーヒーは美味しいなあ」「ケーキもうまい」といって食べる三人。そして刑務所側の厚意で、カラゴン事件の関係者(有期刑)に最後の面会も許してくれた。英人にも武士の情けはある。鉄格子を隔てての会話である。
「無事に日本に帰ったなら、元気で死んで行ったと家族に伝えてくれよ。あとのことは頼む。みんな元気で頑張れよ」と、とぎれとぎれであるが、聞こえてくる。送られる友が送る友を励まし、最後の涙の別れである。許された時間も終わり、後ろ髪を引かれる思いで別れの言葉を残してそれぞれの房に帰る。あたりは急に静かになり、暗い中で監視兵の靴音のみが響いて来る。
やがて緑川大尉の声が聞こえて来る。「故国とわかれてから七年の間、支那、ビルマ、そしてインドのインパール作戦と戦い抜いてきた。その間幾人もの上官も戦死した。又同僚の多くの部下も戦いの中で死んで行った。自分もインパール作戦で左足を負傷し、後方に送られたが再び前線に復帰して戦列に加わり、傷つくこと五回、今から考えると夢のような気さえする。本当に今生きていることすら不思議である。当然あの戦いで死ぬべき命であった」と話す。各人互いに懐かしい戦場の思い出話の数々、追憶は尽きることがなく、会話は続く。
はっきりとは聞き取ることは出来ないが、死を前にして未練らしい言葉は少しも聞かれない。この三人は作戦命令に従って行動したことが罪に問われた。命令者である師団長、連隊長は起訴すらされなかった事件である。
きっと口惜しいことであろう。しかし、一言も不平らしい言葉を言うものはいない。明朝、何処かへ旅立つために、しばしの別れを惜しんでいるようである。死を前にしている人間の話とはどうしても思えない。「俺も次に来る裁判(取調べを受けている重大事件)で死刑になるかもしれない。死を前にしてこのような態度で一夜を過ごすことが出来るであろうか。俺にはきっと出来ない。狂ったようにうろたえてしまうであろう」。
三人の会話がうらやましい気持で鉄格子に耳をあてて聞き入る。
独房にいる私たちも、大きな声で励ましの言葉を送った。夜は次第に更けて、二時を告げる鐘の音が響いて来る。三人の上に死の時は刻々と迫る。一晩中殆ど寝ることなく語り明かす三人も、夜明け近くになって、話し声はとだえた。私もいつしかうとうとと眠ってしまった。東の空が白みかけた頃である。
「ああ少し眠ったようだ」との声。
「俺も少しは眠った。もう朝だな」との声もする。
私は三人の会話を一言も洩らすまいと、鉄格子に身をよせる。息詰まるような一夜は明けた。英兵のあわただしい靴音と共に幾人か私の房の前を通る。そして三人の房が開かれる音がする。外に連れ出されたらしい。
「皆さんさようなら」のひとことの言葉を残して、東の出口から刑務所内の中庭に設けられた刑場へと連れて行かれた。
私はズボン、シャツ等の持ち物全部を積み上げ、踏み台にして、塀越しに、三人の姿を見ようとしたが見ることができない。30名の英兵が三人がいると思われる方向に小銃を構えているのが見える。
「天皇陛下万歳」との叫び声が聞こえて来たと同時に、銃声は一斉にあたりにこだました。少し間を置いて又一発の銃声がした。
 
明日死ぬる 友の言葉を もらさじと 高なる 胸を おさえつつ聞く
死刑囚なれば 靴履くことも 許されず 銃殺されて 君は果てり
垢つかぬ 衣に替えて 死にゆくと 銃殺刑の 友語りたり
朝もやを つきて聞こゆる 銃声に 戦友万歳の 声を残して
吾が前で 三十人の 英兵に 銃殺されぬ ああ戦犯者君
 
 緑川大尉の辞世
我も又 なき数に 入る 名を止め 南の果てに 散るをよろこぶ
 
  柳沢大尉の辞世
みずすかる 信濃の春の 咲く桜花は 散りてぞ清く 思わるるかな
 
  田島中尉の辞世
国破れ 愛児の帰り 待つ親に なんと聞かせん 銃殺の刑
 
  と辞世を残されて逝かれた。
 西独房に残された市川少佐は絞首刑である。西独房にいる戦友の話として、最後の様子が伝えられた。
「市川少佐は絞首台に連れ出されるため房から出る前にコーヒーを一杯グイーと飲み干して、扉より一歩踏み出して一本のタバコを口にして、英兵の肩を軽く叩いて『おい行くぞ』と先にたって行かれた」との話である。
運動の時間に市川少佐のいた空房を覗いた。片隅に空き缶を利用して植えてある雑草が小さな花を咲かせている。この雑草に水をくれた人は再び帰って来ることがない。
 
 名も知らぬ 一輪の草花 植えてある 処刑されし 少佐の房に
 
7月22日
 カラゴン事件の関係者6名は何の理由かわからないが「インセン」刑務所に移監された。幾つかの空房が出来たと思ったら「ラングーン」捕虜収容所事件で有期刑をうけて、西独房にいた田住大佐ら三人がここに移された。
 
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
 
 
 
 あなたに聖書を
 
=詩篇146:5=
わたしたちは、みな、明日に希望を繋いでいます。そういうことを考えるゆとりがなく、今日生きるのが精一杯と言う状況の中にあっても、今日の営みがよい明日へと繋がることを願っています。ですから、それとは反対に、明日がどうなるか不安である場合は、その不安が、明日を精一杯生きる力を失わせてしまいます。
さらに、もし、明日への期待が全く失われるとなったら、明日を生きる力は、出てきようがありません。「頑張って」と言われようと、自分でそう言い聞かせようと、何の力にもなりません。虚しいだけです。
 
そこで、考えさせられることの一つは、わたしたちが明日に繋がっている希望とは何か、ということであります。それは、人様々でありまして、具体的に「全ての人の希望はこれです」と言うわけにはいきません。が、反対に「全ての人が抱いている希望は断ち切られています」と言うことは、確実なこととして言うことができます。それは、言い換えると、全ての人にとって、「明日がなくなる」ことは確かであるからです。
つまり、「全ての人は死ぬ」ということです。「死ぬ」ということは「明日を失う」ことであります。明日がなければ、明日に希望を繋ぐなどということは成り立ちません。「絶望」、これがわたしたちのこの世における人生の結論ではないでしょうか。
 
ところが、旧約聖書の中の詩篇146編5節と言う箇所には、「その望みを自分の神、主におく人はさいわいである」という言葉が記されています。これを書いた人は、望みを、自分の側におかないで、神の側に繋ぐ人を、「幸いな人」、つまり「希望に生きている人」ということが出来た人であります。
そこで、問題は、「自分の神、主」と信じて、自分の側にではなく、その神に希望を託すことが出来るような、自分の神が存在するかどうかと言うことにあります。聖書は、イエス・キリストによって、神が、あなたの神として生きておられる方であることを伝えている書物であります。
あなたも、聖書によってゆるぎない希望を抱かれるようにと願っています。
 
(参照聖句・詩篇146:5)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
「キリストへの時間」放送予定
       
9月
  2日 大塚喜久蔵 (日本キリスト改革派中津川教会牧師)
  9日 大塚喜久蔵 (日本キリスト改革派中津川教会牧師)
 16日 草野    誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
 23日 草野    誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
 30日 長谷川  潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
      CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 
  「ローマ人への手紙」研究 (93)
 第55課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (5)
 
 「そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務めを光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている」(11:13~14)。
 
 パウロの論述において、これらの二つの節は挿入句になっています。パウロはユダヤ人の堕落と回復の論述を一時中断して、この大問題に関連して自分の気持ちと行動について一言しようとしています。パウロは異邦人の使徒です。しかし、使徒行伝に記されている彼の行動から見ると、彼が訪れた多くの場所において、彼はまず最初にユダヤ人に福音を宣べ伝えることを常としていたことを知るのです。ここでパウロは異邦人に語っていますが、それは彼が異邦人に言及することが、彼の血族であるユダヤ人たちを奮起させて、救いを求めさせ、キリストの中に救いを見い出させることを望んでいることなのです。
 異邦人の救いとユダヤ人の救いとは密接に関連していることは明らかです。全てのキリスト信者は、これらの両方に深く関心を持たなくてはならないのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、そのいずれかに悪感情を持つことは根拠のないことなのです。パウロが異邦人の救いを切望したのは、彼ら異邦人たちのためばかりではなく、そのことが彼の同族のユダヤ人たちの回心のためにも道を開くことになるからです。
 
 「彼らの幾人かを救おうと願っている」(14)。勿論、これはパウロ或いは他の伝道者が罪人を実際に救うことが出来るという意味ではありません。罪人の救いは全く神の業です。しかし、神は同時に人間をその器として、ある点においてお用いになるのです。現代において、伝道者の努力が聞く者を救いに導くのに十分な力を持っているかのような印象を与えますが、パウロが述べているのは、そのような意味は全くないのです。彼のいう意味は、「彼らの幾人かの救いのための神の御手の中の器となりたい」と言っているのです。
 
 「もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか」(11:15)。
 この節は、11章12節と部分的に並行するものです。前半は難解なところはありません。「捨てられる」は明らかに神がユダヤ人を拒まれることを意味し、「世の和解」とは異邦人の救いを意味してします。「彼らの受けいれられること」はユダヤ人の回心を意味しています。しかし、後半は全く難解です。「死人の中から生き返る」とは何を意味するのでしょうか。この11章15節の解釈について二つの見解があります。
 
J.G.ヴォス著
     玉木  鎮訳
    (日本キリスト改革派引退教師)
                                                                                                                                                          「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
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 どうせ私の特色なんて、軽く治る病くらいの程度にしか思われていないんですよね。だから何時も言われることは、くだらないことで悩んでいるとか、同じことを何時も言うとか、祈ることです、とかしか言われないし、思われていないんだよね!もう20年以上も精神科に通院しているし、教会にもきちんと行っているのに・・・。                       

栃木県 K・Mさん

 毎日暑いですね。私たち夫婦は、高齢者の仲間入りして何年にもなりますが、元気な時には自然豊かな所が老後の生活には良いのではないかと、建築し車で動きまわっていましたが、今は、その車も運転が危険なため止めました。今度は、礼拝に行くことが出来なくなりました。毎月送られて来る「つのぶえジャーナル」と、毎日曜日朝6時30分からの「キリストへの時間」が私たち夫婦の礼拝になりました。「つのぶえジャーナル」は印刷物なので、夫婦で何度も繰り返して読み、信仰の糧にしています。今後ともよろしくお願いします。(お便りから)
   
                       三重県 O・Mさん夫妻
 『ありがとうございます』
私の住む四国の山奥の祖谷は、もう秋です。紅葉の季節は寒さを運んできますが、自然の夜空はプラネタリュウムです。手を伸ばすと星に届きそうです、とお便りを下さったkさんは、奥様を亡くされて10年になります。「つのぶえジャーナル」を楽しみして下さっている方です。若い頃に、高知で信仰が与えられ、信仰の伴侶を得ての信仰の歩みは、信仰一筋そのものです。月刊「聖書研究の友」「つのぶえ」、そして今は「つのぶえジャーナル」を読んで下さっている方です。9月号をお届けできることを、こころから感謝しております。
今月号のお花の写真は、お子様たちの演出で、お父様の還暦のお祝い時のものを送ってくださいましたのをで、それを利用させて頂きました。ご家族の写真もありましたが、和やかな笑顔が溢れておりました。

どうぞ、このアドレスでメールをご利用くださって近況など送信してください。大歓迎です。電子メール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp 

     
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
藤沢徳治様 三神豊彦様 古屋愛実様 匿名4様

 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社

2012年7月16日から2012年8月15日まで
  71b62c6a.jpeg 今月のことば

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それなのに、おまえたちは応じようとしなかった。
             =マタイ23:37=
 
 私たちの心の鍵は自分の手にあります。救い主は、扉の外に立って、叩いておられます。扉を開けるのも、そのまま閉めておくのも、責任は私たちにあります。扉を叩く者は、内側からハイと言う返事を待っておられます。そのお方は、無理やりにその扉を壊してお入りにはなりません。そういうことは決してなさいません。
 私たちは自分の未来を選ぶ特権を持っています。天国へ無理やり引きずり込まれることはありません。もし無理に天国に入れられたとすれば、それはもはや天国とは言えないでしょう。

 もしも、私たちが、いくらかでも本気になって全能の神様に、救いを得ようとしないならば、しかも高慢にも「否」と答えるならば、永遠の滅び、死というものを手にするでしょう。この「滅び・死」は私たちの扉を打ち壊し、入るのです。そうして、審きの座に引き出します。心の扉の鍵を開かなかった責任は、「死」と言う代価を支払うのです。

 しかし、私たちが、もう一度、救い主に扉を開いた者にでも、まだ主イエスの入られるのを拒んでいるたくさんの扉のある部屋を持っているのです。本当に、主イエス・キリストが扉を叩かれるのを聞いた時に、すべての扉を開ける者でありたいものです。主にあって賢い者とは、扉を開け、新しい人(自分)にされることを信じ、神と共に生かされることを喜びを持って待ち望む者です。
   小閑記
       
 いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
                 =詩篇92:1=

  私たちが神様のみもとに行って、悩みを嘆き訴えることが出来ること、その上、いつでも歓迎されていることを知っているというのは、大いなる喜びです。主に助けを求める貧しい者に、耳を傾けてくださる主は、へりくだる者の心を喜んでくださいます。

 9904ad2f.jpeg しかし、不平をいうほうが感謝することよりも易しく簡単であることは余りにも真実でありすぎます。多くの人は、人生を真っ暗闇だと見て、人をも自分をも、毎日不平と落胆とで満たして居るなら、それは、不幸そのものです。闇を見て、闇だと思っているのでしょう。キリスト者の多くも、この暗い谷間の道に迷い、いったんこの暗い穴に落ちたら最後、そこから出ることは容易なことではありません。

  この人生で不平をいうことのほか、何も学んだことがない様に見える人々が出会うのを見る時、何とも言えない悲しさを覚えます。しかし、私たちの日々の歩みに、この悲しさを抱え、無力感に押し潰された日々の中に、キリストの光が射し込んだら、その人は変ります。神の恵みを見、感じ取る人の心になる時、不平から感謝に変ります。

  感謝を知った人は、それが神様からの恵みだと知った時、暗闇に生きてきた自分を忘れ、キリストに生涯生きる者に変えられるでしょう。不平や不満は、キリスト者を弱くします。感謝の心を持つ者は、主にあって強くさせられます。

                         上河原立雄 
   <讃美歌461>

 主われを愛す 主は強ければ
 われ弱くとも 恐れはあらじ

 (おりかえし)
 わが主イエス わが主イエス
 わが主イエス われをあいす。
  


97cabd9b.jpeg   自閉症者のひとりごと
(61)

7月4日
母の見舞いで疲れたのか、昨日は一日寝ていました。今朝もしんどくてぐったり。
昼に精神科に行ってきました。そうしたら、じっと座っていられなくて、身体をずっと動かしていました。常同運動かしら。父からのメールで、母の胃の具合が悪いとの連絡がありました。薬は出してもらっているが、なかなか効いてこないようです。祈っています。
人のことを心配している場合じゃないのに、気になりますね。父も辛いみたいです。

7月7日
自分で抱えていると辛くなったので、メールします。
妹からの電話で、母の入院のことを、話さざるを得なくなりました。それで気がついたのですが、両親は共依存関係に陥っているのではないか、と。母は具合が悪いとひとりでいるのがいやなので、ナースコールしては、父に電話してくれというので、看護師は仕方なく、父に電話してくる。父は母の傍にいることがよかれと思って、朝早くから夜までいてやる。父は人の世話になることを、超非常に嫌う人。だから、全部抱え込む。そのうち倒れるんじゃないかと思います。父依存症の母には、そのほうがいいんじゃないかと思える程です。夫婦の問題として成り行きを見守っていくほうがいいのか、家族として介入したほうがいいのか、分からなくなってしまいました。

7月10日
母の退院予定の話が出ました。来週の水曜日あたりになりそうです。
退院後が大変。アルコールは家に(母の目に入らないように)置けないし、父の家事が再開するし、母は左腕を故障しているので、父の手を借りないと起き上がれないし。
わたしには何ができるのか、よくわかりません。頻繁に顔を出すようにして、父と母の話を聞くことかなぁ・・・。母は家事の手伝いをしろって言うけどね。
正直言って、退院がめでたいとは素直に喜べないというか、複雑な心境です。

7月15日
母の退院にともなって、実家にきました。母は認知症が進んでいるようです。
左腕に力が入らないので、仰向けで起き上がるには、人の手が要ります。だから、父がいないときは、わたしが手を貸すことになるのです。それ自体はいいのですが、傍にいて欲しいということは、父にとって大変だったなぁ~と思われます。

加納さおり
19450a3e.jpeg世田谷通信
(105)
猫  草

中学生の長男の教科書を見ると、ずいぶん私たちの頃と違うなあ、と実感する。教科書は今年から25%増だそうで分厚い。各種ワークブックや資料集で充実している。「脱ゆとり」は結構なことだ。若いうちに勉強せずにいつやるのだ?
「公民」という科目ではメディア・リテラシー、国際協力、地球温暖化など現在ニュースで流れているような内容がいっぱいだ。さて「歴史」は、とみると、こちらも戦時中の日本軍の状況などが詳細に取り上げられており、私たち子供の頃には曖昧にされていた戦争責任についても明確になっているなあと感じる。
「国語」や「音楽」に至っては古典的な作品に交じって、ちょっと前にベストセラーだった本や、最近のヒット曲もたくさん載っていてびっくりする。教科書は毎年更新されているので、時代に対応しやすいのだろうな、と思う。
翻って図書室はどうか、とみると、私の勤務する小学校図書室では最新!という状況からは程遠い。地理の資料では、古い本ではまだ地図が「ソ連」だったりして、慌てて新しいものを購入する。まだまだ東欧や中東周辺など国境も国名も含めてどうなることやら流動的ではあるが、とりあえず「ソ連」はまずいでしょう。
ほかにもあるんじゃないか?こういう時代錯誤な資料!と探したら、やっぱりありました。40年前の社会科資料「私たちの新しい生活」という本。ここでいう「私たちの家」には「和室」と「応接間」がある。応接間には「応接セット」と「ピアノ」。その上には「レースのカバー」、さらに「日本人形」と「フランス人形」も飾ってある。うーんこれでは「あー、おばあちゃんちで見たことある」って言われそう。さらにページをめくると、お母さんが籐のかごを下げて、エプロン付けて商店街で夕飯のお買い物をする写真が載っている。ほとんど「サザエさん」か「3丁目の夕日」の世界だ。平成2ケタ生まれの小学生にとっては、昭和は完全に「歴史」なので、こちらも「昔のくらし」コーナーへ移動する。
どの分野でも同じことが言える。子供たちが調べたいのは万能細胞やスカイツリー、リーマンショックと多様で最新。数年前のちょっと古い本だともう対応できない。時代も知識もどんどん変化して刊行物が間に合わない。でも後追いで仕方ないと割り切って現時点での「最新」をそろえていくしかない。
そして気が付く。日本も教科書で戦争責任や軍部の判断ミスを冷静に認められるほどに時間がたったのだと。「渦中」から「歴史」になってやっと振り返ることができる。流れていく状況と結果の産物が明らかになって初めて、その事象の本当の「意味」がわかるのだ。後追いの醍醐味はそこにある。
 P7090464.jpg その愛のゆえに
   =時々の記=
    (76)

6月27日
入院の日程が決まりましたでしょうか?
大きな病院は、なかなか入院のベッドが満床で、待ち時間が長くなることがあります。
でも、またもっともよい日を神様が定めてくださいますから、心静かに、祈りつつ、その日に備えて、体を整えておくことが必要なのでしょう。
主人は、昨日抜糸をしていただきましたが、念のため、精密検査に出して、良性か悪性かの結果が7月の17日に出ます。その間に三重大学病院で、定期の精密検査があります。
忙しい7月になりそうです。
畑仕事いそしむ媼花アザミ
樫と椎杜の新樹のもこもこと
水無月や山(やま)峡晴れてみずみずし
しもつけの一花ずつの色濃ゆし
アジサイの乙女のごとく咲き初むる      馬場路哉

6月29日
6月も明日で終わりですね。あっという間に日が過ぎ去っていきます。歳のせいでしょうか。畑の作業は時間がかかり、出来栄えはパッとしません。我が家の畑から、やっと昨日ミニトマトが5個収穫できました。ピーマンは3個です。
今年は、雨が多いせいか、あまり甘いものではありません。でも、もったいなくて酸っぱいと言いながらも、口に入れました。

7月3日
こちらは例年にない雨の毎日で、非常に激しい雨でしたが、今日はやっと止んで、晴れ間があります。今月は、主人も6ケ月ぶりの三重大学病院行きとなります。何時も、この検査のたびに、よくここまで支えられ、生かされたものだと、感謝の思いで胸がいっぱいになります。その感謝の気持ちをいつまでも忘れることなく、神様の恵みによって生かされていることを覚えて、日々を祈りつつ過ごしたいものです。

馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)

 キリiスト者の生活綱要  (35)
               
                 ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳

  第5章 この世の生の正しい用い方

  1 極端を避けよう
  
  1 聖書はわれわれに、天を終着地として指し示すと同様に、地のもろもろの祝福を正しく用いることも十分に教えている。これは生活の規範を問題にするとき、見落としてはならない点である。
 われわれが生きるには、生活に必要な手段を用いなければならないからである。必要というよりもむしろ楽しみに役立つ物を避けることさえ出来ないのである。しかし、きよい良心からそれらを用いるためには、必要のためであろうと、楽しみのためであろうと、節度を守るべきである。

  2 主が弟子たちに、この世で生きることは天国に向けて旅をし続けている巡礼のようなものであると教えられた時、み言葉の中でこのことを語っておられる。この地上が単に旅の入口に過ぎないとしても、われわれの旅が遅らされるよりも前進させられるように、もちろん地上の祝福を用いるべきである。
 それでパウロが、この世をあたかも用いていないように用い、所有物を売る時と同じ心で買うように、忠告しているのは理由のないことではない。

  3 しかし、これは論議の余地のある問題であり、二つの相反する過ちに陥る危険性があるので、安全地帯を進み、両極端を避けるようにつとめよう。というのは、他の点では善良できよい人でありながら、放縦と奢侈の点になると極めて厳しく制約されないと、あらゆる肉的拘束を投げ捨ててしまうような人々がいるからである。
 彼らは、そうした有害な悪を矯正したいと思って、自分たちが適当と思う唯一の方法を採った。それは、ただどうしても必要である時だけ、地上の祝福を用いることを許容したのである。
 このやり方は意図としては良いが、極度に厳格すぎる。というのは、彼らは、主のみ言葉において設定されているよりも厳しい規則を、他人の良心に負わせるという、非常に危険な過ちを犯したからである。必要という枠の中に人々を閉じ込めてしまって、どんなものに対しても禁欲を押し付けることになってしまった。
 彼らによれば、乾いたパンと水以外の物を食い飲みすることは、ほとんど許されないのである。テーベのクレートのように、他の人々にはさらに厳しいことを求めた。そうしなければかえって自分がそれに滅ぼされるという恐怖から、自分の財産を海の中に投げ捨ててしまった、と彼について言われている。
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  4 その反対に、外的な物を過度に用いる口実を求め、肉の欲望にふけることを願っている者が、今日、大勢いる。そのような人々は、いかなる制限によっても、自由はまったく束縛されてはならないと思っている。しかし、このような考えに、われわれは決して同意できない。そのような人々は、自分にふさわしいと思う限り、自由を用いることが、各個人の良心に任せられるべきであるとわめいている。

  5 他の人々の良心を非常に厳格な規律で縛ることは、正しくないし、また出来ないことを認めなければならない。しかし、聖書は、地上の物の正当な用い方について、ある一般的な原則を示しているので、われわれはそれに従うべきである。
 Ⅰコリント7:30~31
 
2 地上の物は神の賜物である
  
1 先ず第一の原則として、われわれが考えなければならないことは、造り主御自身が造り定められたのと同じ目的に用いられている限り、神の賜物を用いることは、間違っていないということである。神は、地上の祝福をわれわれの利益のために造られたのであって、われわれの害のために造られたのではないからである。
 したがって、忠実にこの目的に従う人が、正しい法則に最も従っていることになる。

   2 例えば、なぜ神がいろいろな種類の食物を造られたかということを学べば、ただ単にわれわれの必要を満たすためだけでなく、同時に喜びや楽しみのためでもあることが分かってくる。着ることでも、神は、単にわれわれの必要ばかりでなく、礼節や体裁も心にとめてくださった。草、木、果実などについても、各方面に有用であるばかりでなく、神は、また美しい外観と快適な香りとして、人間を喜ばせようと企てられた。
 そうでないならば、詩篇の詩人は、神の祝福の中に、「人の心を喜ばすぶどう酒、その顔をつややかにする油」というように、教えはしなかったであろう。また、聖書が至る所で、人間が神の好意を讃美するために、これらすべてのものを神から賜わったのであると宣言することはなかったろう。
  
   3 事物の本来の性質ですら、どんな目的のために、またどんな限界まで、それを用いてかまわないか、そのことを示している。主は、われわれの視覚を花の美しさに、嗅覚をそのよい香りに、引きつけるではないか。それなら、それに見とれることは罪であろうか。主は、色彩を造ることさえなさって、あるものを他よりも美しくされたではないか。主は、金や銀や象牙や大理石に美しさを与えられ、他の金属や石よりも貴重なものとされたのではないか。
 ひと言でいえば、われわれの主は、多くのものを必要からだけでなく、それ以上に、われわれの注目に価するものとして造られたのである。
 詩篇104:15
   
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
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「著者のことば」より
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「十戒と主の祈り」
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 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
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われらの教会と伝道
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鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
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