2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「ローマ人への手紙」研究 (94)
第55課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (6)
一つは「死人の中から生き返る」という表現は、「沈黙と悲惨の状態から繁栄の状態に移行する」という意味の比喩的表現であるとするものであって、C・ホッジの見解です。この見解によれば、ユダヤ人のキリストへの回心は非常な喜びと祝福であって、死人から生き返ることであると比喩的にいうことが出来ることです。ユダヤ人たちは不信仰とキリストを持たないことによって、あたかも霊的に死んだ者に等しい。しかし、彼らがキリストに回心すれば、彼らは霊的に生き返ることに等しいという意味になります。
もう一つの見解は、この言葉は、キリストの再臨のとき、死人が身体を持ってよみがえらされることを意味しているとするものです。この見解によると、ユダヤ人たちはキリストの再臨の直前に、キリストに回心するという意味になります。彼らの回心の直ぐ後に死人の復活が続くのです。故に、彼らの回心は死人に中から生き返ることであると表現できるのです。この見解はDavid.Freemanがその著書「聖書と起こるべき事柄」の中で採っている見解です。
「ここの『死人に中から生き返る』ということばはそういう意味だろうか。パウロはユダヤ人の回心が死人の復活をもたらしたと言っているのであろうか。もしそうであれば、イスラエルがメシヤを受け入れることは、天よりのキリストの再臨をもたらすものであろう。これこそ正にパウロが言おうとしていることである。何故ならば、彼は死人の中から生き返るということと世の和解とを関連させているからである。そして前者は後者の極点なのである。『死人の中から生き返る』ということは、世の和解と言うよりもはるかに高度で偉大なことであるに相違ない。今の世が経験する和解ということにまさって偉大でありうるのは、生命の復活以外に何があろうか。パウロはここで、キリストによって買い取られた贖いを、それの始まりから栄光に満ちた完成に至るまでを、一気に眺望しているのである」。Freemanは脚注の中で、「死人の中から生き返る」という言葉は、単なる霊的覚醒(リバイバル)を意味するとする比喩的解釈を許すものではありえない。文脈上からもこのような解釈は不可能である。『彼らは捨てられた』という言葉の反対である『彼らは受け入れられること』という言葉は、前者よりもより尊厳に満ちた状況を表しており、神が人間を取り扱われる終局的御行為の始まり、すなわち、死人の復活を意味していると取る以外にはないのである」と述べている。
「死人の中から生き返る」(life from the dead)という用語で復活が意味されている箇所は、新約の中で他にはないということを考慮すると、ホッジの見解は有利であります。他の個所では、復活を表す用語は、「死人の甦り」(the raising of the dead)です。しかし、パウロが、復活を表す用語として後者と同様に前者をも用いることが出来ることを、私たちは認めなければなりません。そしてFreemanの解釈が正しいと考えて、ローマ書の11章15節は、ユダヤ人たちのキリストへの回心がキリストの天からの再臨と死人の復活をもたらすことを意味していると理解すべきです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第55課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (6)
一つは「死人の中から生き返る」という表現は、「沈黙と悲惨の状態から繁栄の状態に移行する」という意味の比喩的表現であるとするものであって、C・ホッジの見解です。この見解によれば、ユダヤ人のキリストへの回心は非常な喜びと祝福であって、死人から生き返ることであると比喩的にいうことが出来ることです。ユダヤ人たちは不信仰とキリストを持たないことによって、あたかも霊的に死んだ者に等しい。しかし、彼らがキリストに回心すれば、彼らは霊的に生き返ることに等しいという意味になります。
もう一つの見解は、この言葉は、キリストの再臨のとき、死人が身体を持ってよみがえらされることを意味しているとするものです。この見解によると、ユダヤ人たちはキリストの再臨の直前に、キリストに回心するという意味になります。彼らの回心の直ぐ後に死人の復活が続くのです。故に、彼らの回心は死人に中から生き返ることであると表現できるのです。この見解はDavid.Freemanがその著書「聖書と起こるべき事柄」の中で採っている見解です。
「ここの『死人に中から生き返る』ということばはそういう意味だろうか。パウロはユダヤ人の回心が死人の復活をもたらしたと言っているのであろうか。もしそうであれば、イスラエルがメシヤを受け入れることは、天よりのキリストの再臨をもたらすものであろう。これこそ正にパウロが言おうとしていることである。何故ならば、彼は死人の中から生き返るということと世の和解とを関連させているからである。そして前者は後者の極点なのである。『死人の中から生き返る』ということは、世の和解と言うよりもはるかに高度で偉大なことであるに相違ない。今の世が経験する和解ということにまさって偉大でありうるのは、生命の復活以外に何があろうか。パウロはここで、キリストによって買い取られた贖いを、それの始まりから栄光に満ちた完成に至るまでを、一気に眺望しているのである」。Freemanは脚注の中で、「死人の中から生き返る」という言葉は、単なる霊的覚醒(リバイバル)を意味するとする比喩的解釈を許すものではありえない。文脈上からもこのような解釈は不可能である。『彼らは捨てられた』という言葉の反対である『彼らは受け入れられること』という言葉は、前者よりもより尊厳に満ちた状況を表しており、神が人間を取り扱われる終局的御行為の始まり、すなわち、死人の復活を意味していると取る以外にはないのである」と述べている。
「死人の中から生き返る」(life from the dead)という用語で復活が意味されている箇所は、新約の中で他にはないということを考慮すると、ホッジの見解は有利であります。他の個所では、復活を表す用語は、「死人の甦り」(the raising of the dead)です。しかし、パウロが、復活を表す用語として後者と同様に前者をも用いることが出来ることを、私たちは認めなければなりません。そしてFreemanの解釈が正しいと考えて、ローマ書の11章15節は、ユダヤ人たちのキリストへの回心がキリストの天からの再臨と死人の復活をもたらすことを意味していると理解すべきです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
PR
今年で6年目になりましたが、夏休みにミッションスクールの高校生グループが私たちの老人施設にボランティアとして10日間ほど来て下さいましたが、顔馴染みの人もいてとても明るく楽しい時になりました。車椅子での外出や散歩など、私たちが願っていても手が回らないことをみんなで楽しそうに取り組んでくれます。生徒さんたちが自主的に計画したプランを見せていただき、その若さに満ちた発想に、私たちも感動しています。庭の掃除や施設内の片付けも、おじいちゃんやおばあちゃんの手を借りながら、ゲームや遊びのように楽しんでいるので、笑いや笑顔があふれています。来年も来るからね・・・の言葉を残して何時までも手を振りながら帰って行きました。三年生は新しい旅だちの準備に入ります。来年も新しい生徒さんが加わって来てくださることを楽しみにしています。
そうなんですよ、これが終わると夏の終わりになるんです。
栃木県 D・Tさん
陸奥の観光地はこれから短い紅葉のシーズンを迎え、冬になります。秋を告げる秋刀魚のシーズンで、被災した港にも活気が戻りつつあります。心の奥にしまいこんで頑張る東北人の伏し目がちの笑顔が「じょっぱり」で、何度も襲った冷害・凶作・貧乏・出稼ぎで生き延びてきました。さあ、冬の支度にとりかがらねばなんないなあ・・・。
岩手県 G・Dさん
秋の収穫が楽しみになりました。親元を離れて大阪にいる娘には毎晩メールして、嫌われています。心配なのはお母さんの方だよ・・・と言われ、子離れしていない自分に、ああ・・まだまだだ・・とため息をつきながら、携帯をいじっています。
そんな娘に秋の果物やお米を送り届けようと主人に話したら・・・、返事なし・・・。
愛媛県 A・Sさん
秋のおたより
山から町へのお便りは、 「柿のみ、栗の実、熟れ候、
ひよどり、鶫、啼き候、 お山はまつりになり候。」
町から山へのおたよりは、「燕がみんな 去に候。
柳の葉っぱが散り候。 さむく、さみしく、なり候。」
金子みすゞ童謡全集「美しい町・下」
季節は故郷を思い出させます。澄み切った蒼空を眺めていると子供のころ過ごした蓼科を想い出します。色とりどりの紅葉、風にそよぐススキ。もう二十数年帰っていません。今年は、と思っていたら、子供の大病です。故郷は心の中で思うものになりそうで、少し寂しい。こんな気持ちにさせるのも秋なのですね、とGさんがお便り下さいました。
37回続いて掲載してきました「カルヴァン・キリスト者の生活綱要」も今月号でおわりました。それを補う形で「解説 ウエストミンスター信仰告白」を掲載していますので、ご覧ください。
今月号の写真は、大阪の民放TV番組「ちちんぷいぷい」の砂の城と 、「つのぶえジャーナル」をご覧の方からのものです。身近な秋を、ありがとうございます。そうぞ、「つのぶえジャーナル」をご紹介下さい。
また、お友達などにこのメールアドレスをご紹介ください。大い歓迎です。
電子メール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
富井悠夫様 和田順一様 和田貴美子様 古屋愛実様 匿名2名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
***************
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
2012年8月16日から2012年9月15日‘まで
今月のことば
御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
=Ⅰヨハネ5:12=
私たちは、このみ言葉によって、誰が御子を持ち、誰が御子を持っていないかと言うことがわかるようです。また、それを告白しなければならないとすれば、何によって出来るのかでしょうか。別の言葉で言えば、誰が神の民で、誰が神の民ではないか、ということでもあります。また、誰が教会の一員であり、誰がそうでないかと言うのかを考えることも出来ます。その判断は、聖書の中に示されています。
「羊飼いの声を聞いて他の者の声は聞かない者」「神に呼びかけられ、召し出される者。み言葉に聞き、そのもとに身と魂と霊をもって立つ者。聖書を読む者。それを命を保つ食べ物として読む者。神のみ言葉が命の養いに欠くことのできないものとしている者」。
このような人は、神に属し、神の民と言えるのです。
そして、三位一体の神の御名によって洗礼を受けた者。キリストに従いたいと切に願う者。それを単なる形式として軽んじない者。そのような人は、「御子を持ち」御子の教会の一員です。聖餐の招きに与り、キリストの肉としてのパンを口に入れ、キリストが私たちの贖い主として流された血の杯を飲む者は、御子を持つ者と見做されて、罪の許しと永遠の命を受ける者として生きる者と告白することが許されるとしたら、何と幸いなことでしょう。
<538>
1 過ぎゆくこの世 朽ちゆくわが身
何をかたのまん 十字架にすがる。
2 ながくもとめし 罪のゆるしを
したしく主より きくぞ嬉しき。
3 古きわが身は 十字架に死にて
あらたに生くる 身とぞなりける。
4 時もたからも この身も霊も
みな主のものと みまえに献げん。
5 主にある我は よろこびあふれ
代々みさかえは 主にとぞ歌わん。 アーメン
御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
=Ⅰヨハネ5:12=
「羊飼いの声を聞いて他の者の声は聞かない者」「神に呼びかけられ、召し出される者。み言葉に聞き、そのもとに身と魂と霊をもって立つ者。聖書を読む者。それを命を保つ食べ物として読む者。神のみ言葉が命の養いに欠くことのできないものとしている者」。
このような人は、神に属し、神の民と言えるのです。
そして、三位一体の神の御名によって洗礼を受けた者。キリストに従いたいと切に願う者。それを単なる形式として軽んじない者。そのような人は、「御子を持ち」御子の教会の一員です。聖餐の招きに与り、キリストの肉としてのパンを口に入れ、キリストが私たちの贖い主として流された血の杯を飲む者は、御子を持つ者と見做されて、罪の許しと永遠の命を受ける者として生きる者と告白することが許されるとしたら、何と幸いなことでしょう。
<538>
1 過ぎゆくこの世 朽ちゆくわが身
何をかたのまん 十字架にすがる。
2 ながくもとめし 罪のゆるしを
したしく主より きくぞ嬉しき。
3 古きわが身は 十字架に死にて
あらたに生くる 身とぞなりける。
4 時もたからも この身も霊も
みな主のものと みまえに献げん。
5 主にある我は よろこびあふれ
代々みさかえは 主にとぞ歌わん。 アーメン
小閑記
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育ってゆくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。
=マルコ4:26~27=
このみ言葉の中には、キリスト者としての、また神の国の働き人としての私たちへの、大きな励ましがあります。私たちのこころの中には種をまいた日に、実を結ばなければすぐに文句を言いたくなったり、また良い物は萎えて消えて行くのに、悪いものはどんどんと成長していると信じがちであります。しかし、イエス様は別の見方をなさいます。イエス様は、私たちの中に、また私たちによって神の国は成長すると言われています。
主の恵みの雨と光によって、神の種は芽を出し、双葉になり、熟した実となります。神のみ霊が、私たちの内に、信仰によって植えてくださった神のみ言葉をそっと育てて下さいます。
もしキリスト者が、神と共なる命の成長を自分の内に見ることがないと言うので、また命の実を味わうことが出来ないと言うので、信じることを止めるならば、それは、まいた種をたびたび堀り返して、芽を出しているかどうかを疑い見るのに似ています
そのようなことをしたら、命の実は芽を出し成長する前に力を失い、枯れるか、成長を妨げることになるのです。
箴言には「なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ」とあります。
詩篇には「彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません」(92:13~15)とあります。
大切なことは、ただ一つ、信じて待つ信仰です。
上河原立雄
赤とんぼ
電線にとまる赤とんぼよ
くもの巣 虫取り網の
おそろしさを知れよ
自分の弱さを知れよ
神様に
生かされていること
愛されていること
守られていることを知れよ 水野源三 第二詩集より
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育ってゆくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。
=マルコ4:26~27=
このみ言葉の中には、キリスト者としての、また神の国の働き人としての私たちへの、大きな励ましがあります。私たちのこころの中には種をまいた日に、実を結ばなければすぐに文句を言いたくなったり、また良い物は萎えて消えて行くのに、悪いものはどんどんと成長していると信じがちであります。しかし、イエス様は別の見方をなさいます。イエス様は、私たちの中に、また私たちによって神の国は成長すると言われています。
主の恵みの雨と光によって、神の種は芽を出し、双葉になり、熟した実となります。神のみ霊が、私たちの内に、信仰によって植えてくださった神のみ言葉をそっと育てて下さいます。
もしキリスト者が、神と共なる命の成長を自分の内に見ることがないと言うので、また命の実を味わうことが出来ないと言うので、信じることを止めるならば、それは、まいた種をたびたび堀り返して、芽を出しているかどうかを疑い見るのに似ています
そのようなことをしたら、命の実は芽を出し成長する前に力を失い、枯れるか、成長を妨げることになるのです。
箴言には「なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ」とあります。
詩篇には「彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません」(92:13~15)とあります。
大切なことは、ただ一つ、信じて待つ信仰です。
上河原立雄
赤とんぼ
電線にとまる赤とんぼよ
くもの巣 虫取り網の
おそろしさを知れよ
自分の弱さを知れよ
神様に
生かされていること
愛されていること
守られていることを知れよ 水野源三 第二詩集より
1959年―月刊「聖書研究の友」8月(102号)
=証言=
水泳会のクリスチャン
先月行なわれた、日米対抗水上大会に、日本の選手が、かずかずの世界新記録を打ちたてたことは、読者のみなさんの記憶に新しいことと思います。
山中選手の活躍もさることながら、二百メートル バタフライの那須選手の進歩は、大きな収穫であったと言われています。その那須選手が、大阪大会で2分17秒8の世界新記録を作った時の同選手の話を、7月27日の朝日新聞は次のように伝えていました。「・・・トロイ君は見えなかった。世界新記録とは意外だ。泳ぎながらお祈りした(那須君はキリスト教信者)・・・。」
那須純哉君は、立教大学在学中で、日本キリスト豊島北教会の会員ですが、ご両親は、岐阜県多治見市にお住いで、共に日本キリスト改革派多治見教会の会員です。
世界新記録樹立を知って、さっそく同市、市之倉町のお宅を訪れた筆者に、ご両親は、その喜びを次のように語ってくれました。
「多くに人に喜んでいただいて、純哉はしあわせだと思います。しかし、なかでも、教会のかたがたに喜んでいただくことが、親として、いちばん嬉しいことです。家に帰ってくるたびに、たえず謙遜な態度でレースにのぞみ、また、毎日を過ごすようにと言っているのですが、これからも、神さまの支えをいただいて、謙遜さを学んでもらいたいと思っています。」
筆者も、東京大会のもようをテレビで見ましたが、いよいよスタート台に立つという時、すぐうしろにある腰掛にすわって、頭を軽くたれていた那須選手の姿を忘れることができません。その心は、祈りのことばで満たされていたに違いありません。
日本の水泳界に、このようなクリスチャンの選手がいることを読者のみなさんにもしっていただいて、みなさんからも、祈りと励ましを寄せていただきたいというのが筆者の願いです。
名古屋での交歓大会を終えて帰郷した那須選手は、8月2日の日曜日の朝、多治見教会の礼拝に出席されました。礼拝後、教会員の祈りに送られて出て行く那須君は、この春とくらべ胸の厚さもずいぶんまして、ローマをめざすひとみが、ひときわ輝いていました。(写真は、多治見市、市之倉の自宅にて、両親と共に)。石丸 新
=「キリストへの時間」放送開始60年記念事業として、月刊誌を調べていた時に出会ったもので、今は、ロンドンオリンピックの最中、偶然見つけたものです。編集子=
自閉症者のひとりごと
(63)
7月27日
今日はバテて午前中寝ていました。わたしにはオリンピックはそれほど関心がなく、寝不足ということではないのですが、おかしいなぁ・・・。珍しく穏やかに過ごせていますが、何だか変な感じ。自分で方針を変えたのです。こちらからいつも父にメールしていたのですが、それをやめたのです。実家のことを気にしていたら、わたしが参ってしまいますから。今日も父からメールがきました。てんやわんやの大騒ぎのようでした。
8月2日
わたしはビクビクしている。いつ母から電話がかかってくるのか、である。内容はいつも同じ。具合が悪いので来い、断れば罵り。だから、マナーモードにして、電話に出ないようにしている。悪いとは思うのですが、母にも、頼るところはわたしじゃないということを、知ってほしいから。
8月3日
祈るとき、どうしても、苦しみに耐えることより、苦しみに合わないように祈ってしまう。柔和に耐え忍ぶ心より、耐え忍ばなくてもよい日になるように祈ってしまう。慈愛などどちらでもいいと思ってしまう。何かに怯えているのかもしれない。母からの電話かもしれない。
8月7日
成り行きで、何となくfacebookに入ったのはよいのだけれど、何をどうしてよいかわからないので、うっかりしたことをしたら大変だと、怖くなってしまいました。そこで、とりあえず、アカウントを削除しようと思い、ネットで退会の仕方を探して、ようやく削除に至ったわけです。14日後に完全削除になるそうです。その間、わたしに成りすました人がもしログインしたら、わたしに成りすました人がわたしを語って、騒ぎを大きくするかもしれません。ネット社会は怖いですから、むやみやたらに首を突っ込んではいけないと、反省しきりです。
8月14日
わたしは太りやすい体質なので、いつもは食事のコントロールをしています。
太るとみっともないばかりか、LLサイズの服は割高だし、何よりも、腰に負担がかかります。思春期の頃の痩せ願望とは違って、健康にかかわってくるのです。ところが、何かが外れて、落ち着きがなくなると、無性に口に何かを入れたくなるのです。それが、アルコールだったり、タバコだったり、食べ物だったりするのです。アルコールとタバコが封印状態なので、食べ物に走るのです。そうなるとコントロールがきかない。依存性は治らない病気なのです。
加納さおり
(63)
7月27日
今日はバテて午前中寝ていました。わたしにはオリンピックはそれほど関心がなく、寝不足ということではないのですが、おかしいなぁ・・・。珍しく穏やかに過ごせていますが、何だか変な感じ。自分で方針を変えたのです。こちらからいつも父にメールしていたのですが、それをやめたのです。実家のことを気にしていたら、わたしが参ってしまいますから。今日も父からメールがきました。てんやわんやの大騒ぎのようでした。
8月2日
わたしはビクビクしている。いつ母から電話がかかってくるのか、である。内容はいつも同じ。具合が悪いので来い、断れば罵り。だから、マナーモードにして、電話に出ないようにしている。悪いとは思うのですが、母にも、頼るところはわたしじゃないということを、知ってほしいから。
8月3日
祈るとき、どうしても、苦しみに耐えることより、苦しみに合わないように祈ってしまう。柔和に耐え忍ぶ心より、耐え忍ばなくてもよい日になるように祈ってしまう。慈愛などどちらでもいいと思ってしまう。何かに怯えているのかもしれない。母からの電話かもしれない。
8月7日
成り行きで、何となくfacebookに入ったのはよいのだけれど、何をどうしてよいかわからないので、うっかりしたことをしたら大変だと、怖くなってしまいました。そこで、とりあえず、アカウントを削除しようと思い、ネットで退会の仕方を探して、ようやく削除に至ったわけです。14日後に完全削除になるそうです。その間、わたしに成りすました人がもしログインしたら、わたしに成りすました人がわたしを語って、騒ぎを大きくするかもしれません。ネット社会は怖いですから、むやみやたらに首を突っ込んではいけないと、反省しきりです。
8月14日
わたしは太りやすい体質なので、いつもは食事のコントロールをしています。
太るとみっともないばかりか、LLサイズの服は割高だし、何よりも、腰に負担がかかります。思春期の頃の痩せ願望とは違って、健康にかかわってくるのです。ところが、何かが外れて、落ち着きがなくなると、無性に口に何かを入れたくなるのです。それが、アルコールだったり、タバコだったり、食べ物だったりするのです。アルコールとタバコが封印状態なので、食べ物に走るのです。そうなるとコントロールがきかない。依存性は治らない病気なのです。
加納さおり
世田谷通信
(106)
猫 草
どうにも合わない人間というのがいる。考え方の違いというのか、「普通こうするだろう」というポイントがずれているのだ。例えば待ち合わせ。私は遅れてどきどきしたり約束に間に合わないのが嫌いなので、早く行く。しかし必ずギリギリ、或いは遅れてくる人がいるものだ。そういう人とは現地ではぐれてもとても困る。相手がどう行動するかお互いに読めないからだ。もちろんケータイがあるのでその都度連絡をとればいいのだが、電車内や美術館内だったりして通話がはばかられる事態もある。なので「こういう時はこうしようね」「もしこうだったら集合はここね」などと事前に取り決めておくしかない。
仕事でもそう。きっとこの人はこうするだろう、こう考えるだろう、と思ってやったり、或いはやらなかったりすることが裏目に出ることは多い。そうするとお互いに「ごめんね、最初にきちんと確認すればよかったね」と言いつつ、内心はどっちも(普通こうするでしょう?)と思うことになる。
「普通」ってなんだろう。自分の中での価値基準や行動原理だ。それはその人の経験則の中で培われているのだから、その背景が違えば、異なるアウトプットが出てくるのだ。頭でわかってはいても、自分にとって当たり前のことを「私はこうしているんだけど、あなたは?」といちいち確認はしないし、お互いに暗黙のルールがあるという前提がなければ生活も社会も成立しない。顔見知りの日本人コミュニティの中でもそう思うので、外資系の会社で働く方や外国暮らしの方はさぞかし日々大変だろうなあと思う。
それでも努力と改善の余地はある。私は数年前、他者との付き合いがとても上手な人に出会い、その人のコミュニケーション能力の高さに衝撃を受けた。この人から学べ!私にないものがある!と思った。以来、彼女との付き合いは続いている。話を始めるときに前提がすごく長いのだ。結論から話し始める私とは真逆。「あのね、これにはこういう背景があってね、こういう考えもあるし、でも逆にこう思う人もいるでしょう?もちろんあなたは違う考えを持つかもしれないの、それでもいいんだけど、私はこうじゃないかと思うわけなのよ」と。最初はどんだけ回りくどいんだ!と辟易したが、これが意外に合意形成、問題解決の最短ルートだったりする。何度も彼女がこうやって複雑な人間関係をうまくこなしているのに感嘆した。自分と違う考えは無限にあるという包容力。他者への配慮。人間関係や社会をうまく回していくのは忍耐と想像力が必要だ。
(106)
猫 草
どうにも合わない人間というのがいる。考え方の違いというのか、「普通こうするだろう」というポイントがずれているのだ。例えば待ち合わせ。私は遅れてどきどきしたり約束に間に合わないのが嫌いなので、早く行く。しかし必ずギリギリ、或いは遅れてくる人がいるものだ。そういう人とは現地ではぐれてもとても困る。相手がどう行動するかお互いに読めないからだ。もちろんケータイがあるのでその都度連絡をとればいいのだが、電車内や美術館内だったりして通話がはばかられる事態もある。なので「こういう時はこうしようね」「もしこうだったら集合はここね」などと事前に取り決めておくしかない。
仕事でもそう。きっとこの人はこうするだろう、こう考えるだろう、と思ってやったり、或いはやらなかったりすることが裏目に出ることは多い。そうするとお互いに「ごめんね、最初にきちんと確認すればよかったね」と言いつつ、内心はどっちも(普通こうするでしょう?)と思うことになる。
「普通」ってなんだろう。自分の中での価値基準や行動原理だ。それはその人の経験則の中で培われているのだから、その背景が違えば、異なるアウトプットが出てくるのだ。頭でわかってはいても、自分にとって当たり前のことを「私はこうしているんだけど、あなたは?」といちいち確認はしないし、お互いに暗黙のルールがあるという前提がなければ生活も社会も成立しない。顔見知りの日本人コミュニティの中でもそう思うので、外資系の会社で働く方や外国暮らしの方はさぞかし日々大変だろうなあと思う。
それでも努力と改善の余地はある。私は数年前、他者との付き合いがとても上手な人に出会い、その人のコミュニケーション能力の高さに衝撃を受けた。この人から学べ!私にないものがある!と思った。以来、彼女との付き合いは続いている。話を始めるときに前提がすごく長いのだ。結論から話し始める私とは真逆。「あのね、これにはこういう背景があってね、こういう考えもあるし、でも逆にこう思う人もいるでしょう?もちろんあなたは違う考えを持つかもしれないの、それでもいいんだけど、私はこうじゃないかと思うわけなのよ」と。最初はどんだけ回りくどいんだ!と辟易したが、これが意外に合意形成、問題解決の最短ルートだったりする。何度も彼女がこうやって複雑な人間関係をうまくこなしているのに感嘆した。自分と違う考えは無限にあるという包容力。他者への配慮。人間関係や社会をうまく回していくのは忍耐と想像力が必要だ。
その愛のゆえに
=時々の記=
(77)
7月24日
今朝も朝早くから、暑いです。どうぞ、一日、神様のお支えとお守りがありますようにとお祈りしています。
捩花(ねじ花)の端正にして風にあり
笹百合の篠に紛るる一つかな
梅落つや甘い香りをまた放つ
子ツバメの数多(あまた)飛翔す空青し 馬場路哉
たくさんいたツバメたちは、もう姿を消してしまいました。また来年を待っています。今朝初めて朝顔が一輪花を咲かせました。ピンクの花です。思わず眠気が覚めるような鮮やかさです。おはよう・・と語り掛けて、よく咲いてくれたねと労っています。
7月27日
非常に暑い日が続いています。猛暑、酷暑など、どう表現すればよいのでしょう。山添にやってきてこのような暑さは、初めてです。異常気象が夏冬問わずにやってくるのは、本当に人間の愚かさの表れのような気がいたします。今、ロンドンでは、オリンピックが開催されましたね。
なでしこ、男子サッカーがともに初戦に白星スタートで、この暑さも何とか、凌げそうです。こうしてパソコンのキーを打っているだけで、汗がしたたり落ちてきます。食事の準備にガステーブルの前に立つのがとても億劫です。暑さは、比較的我慢できた私ですが、やはり、加齢の影響大です。忍耐が必要になってきました。
8月3日
このようにジャーナルで、信仰が保ち続けていますことは、心から感謝です。
昨日、Fさんご夫妻から暑中お見舞いのお手紙を頂きました。
ジャーナルを毎月読んでいますよ。そして、私たちのことを、祈りの中に覚えていますよ、とのこと。涙があふれ出てきました。もう何十年も前のこと。四日市教会で、お世話になった方が、まだ私たちのことを祈りの中に覚えていてくださる。信仰の友、主にある兄弟姉妹との交わりは、神様がその中におられますから本当に心強く感謝です。
このジャーナルが、その交わりを続けさせてくださっていますことは、なんと大きな喜びでしょう。有難うございます。
今週は、私、体調を崩し、病院に通い続けています。夕方になると、全身に発疹が生じ、非常なかゆみを伴って、夜も眠ることができません。これは、ぜんそくと同じように、アレルギーの抗体が体のなかで、反応しているらしいのです。
お薬で、少しおさまりました。体を冷やすようにと主治医の先生からは言われました。
しばらく、薬を飲み続けていく必要があります。
明日は、田舎の夏の恒例の一つ、井戸の掃除をする日です。昔からその水を飲んでいますので、皆、一年に一度の井戸替えには、協力的です。
明後日は、村の全戸の墓掃除です。宗教を超えてですから、皆出なければなりません。次々と目白押しに、やってくる田舎の夏の行事に追われる毎日です。暑い日が続きます。どうぞ、お体を特に大切になさってください。お祈りしています。
8月7日
毎日のオリンピック中継に寝不足が続いています。でも、選手たちの活躍ぶりには心打たれています。私は、体全身の発疹は少しおさまりました。やれやれです。今度は口内炎に悩まされています。少し疲れ気味のようです。
源流の山に鶯老いを鳴く
思い出すみちのくの旅さくらんぼ
荒瀬へと挑みてをりぬ鮎の竿
瑠璃色がしろき瀬と落つ夏の川
天国を真近く思ふ星月夜
森林で栄し村の清水かな 馬場路哉
8月13日
田舎の伝統行事お盆の里帰りがラッシュです。故郷は、優しい森に囲まれ、きっと都会の暑さに疲れきった心と体をいやしてくれるのでしょう。その故郷も、親たちがいなくなると、それは、単なる思い出の場所として残るだけですね。やはり、親が生きている間は、そこが故郷になるように思われてなりません。上野の母のお見舞いに行ってきました。
兄が今日は調子がいいよと嬉しそうでした。その通りでした。今日は、私のことも思い出してくれました。また、手土産にも、喜んでお礼を言ってくれました。
兄は今年の夏が最後かなっと漏らしていました。本当に、長い間、いつも明るく気丈にふるまってくれた母でしたが、すこしずつ、その明るさが消えていきつつあります。
でもここまで、神様の憐みによって生かされたことは、心よりの感謝です。母の娘でよかったと思っています。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
キリスト者の生活綱要 (36)
ジャン・カルヴァン
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第5章 この世の生の正しい用い方
3 まことの感謝は、濫用からわれわれを守る
1 したがって、絶対的に必要でない限り、被造物の使用をまったく許さないという非人間的な哲学を、投げ捨ててしまおう。そういう悪い考えは、神の好意を正当に喜ぶことを、われわれから奪ってしまう。そして、そのような考えを実際に受け入れることは、われわれから全ての関係を剥ぎ取り、無感覚な木や石にしてしまわない限り、不可能である。
他方、われわれは、全く同じ熱意をもって、肉欲と戦わなければならない。なぜなら、非常に厳しく制限されないと、肉欲はあらゆる枠を越えようとするからである。すでに見てきたように、放蕩にはその擁護者がいる。自由という口実の元に、全てのことを許容するものがいる。
2 何よりもまず、われわれの情熱を拘束しようと思うなら、全ての物は、その造り主を知り、感謝する目的で造られたということを、まず思い起こすべきである。地上の物に見られる主のご好意を、われわれは感謝をもって讃えるべきである。
しかし、もし美味や酒に酔いしれて、祈りや仕事の義務を遂行できないほど怠惰に成っているなら、われわれの感謝はどうなるであろう。もし肉体の放縦が、われわれを卑しい情熱に駆り立て、不浄に心を染ませ、もはや善と悪との判断も失わせるなら、神への感謝はどこにあるだろう。もし自分の贅沢な服装のゆえ、他人を見下げ、自分自身に見とれているなら、着物のことで神に感謝するその感謝は、どこにあるだろう。
もしわれわれが不貞のために、着物の上品さや美しさで飾るなら、神への感謝はどこにあるのだろう。服装のきらびやかさに、われわれの思いがとどめられるなら、神への感謝はどこにあるのだろうか。
3 多くの人々が、熱狂的に快楽を求め、自分の心を奴隷にしてしまっている。多くの人が大理石や黄金や絵画を喜んでいて、自分たちがあたかも立像になったかのようである。彼らは、言わば金属に変り、描かれた偶像に似てくる。肉の味や匂いの甘さは、ある人々を霊的なことにはどんな関心も持たないような愚かな者にしてしまう。このことは、その他のあらゆる自然物の濫用にもみられることである。
したがって、この感謝という原則が、神の祝福を濫用する欲望を明らかに抑制する。この原則は、パウロの「肉の欲を満たすことに心を向けるな」という法則の裏付けとなる。なぜなら、われわれが生まれつき持っている欲望の手綱を自由にしてしまうと、その欲望は、節度の中庸の垣をすべて越えてしまうからである。
ローマ13:14
4 節度をもって生活しよう
1 しかし、われわれの目をこの世の生から離して、天での不死を思うにまさって、(感謝に至る)確実で近い道は他にない。
このことから、二つの一般原則が出てくる。
第一は、パウロの教えによるもので、「妻のある者はないもののよう、買う者はもたない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りないようにすべきである」というものである。
その第二は、われわれが、貧困を静に忍耐深く担い、富を節度をもって楽しむことが出来るようになることである。
2 この世を用いるには、あたかもそれを用いないかのようにせよ、とわれわれに命じた使徒は、単に飲み食いにおけるあらゆる不節制や、家具や家族や服装における過度の快楽、野心、自慢、より好みを禁じるばかりでなく、われわれの霊的水準を引き下げ、祈りを破壊するような、あらゆる心づかいと情欲とを禁じている。
このことは、肉体の外見については多くの関心があるのに、徳と言われるものには大変無関心である、と昔、使徒によっていみじくも喝破された。また、古い格言に、身体に深い注意を払う者は、一般に精神をなおざりにする、と言うのがある。
3 したがって、外的な物に対する信者の自由は、非常に厳格な規律では制限されないとは言っても、その自由は、溺れることができるほど多くあってはならぬというルールに従うべきことは確かである。これと反対に、われわれは、すべて余分に所有することを避け、贅沢の虚しい見せかけをしないよう、常に断固として努力すべきである。
神がわれわれの生活を豊にするために与えてくださった物が、躓きの石とならぬよう、常に、熱心に警戒すべきである。
Ⅱコリント7:29~31
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第5章 この世の生の正しい用い方
3 まことの感謝は、濫用からわれわれを守る
1 したがって、絶対的に必要でない限り、被造物の使用をまったく許さないという非人間的な哲学を、投げ捨ててしまおう。そういう悪い考えは、神の好意を正当に喜ぶことを、われわれから奪ってしまう。そして、そのような考えを実際に受け入れることは、われわれから全ての関係を剥ぎ取り、無感覚な木や石にしてしまわない限り、不可能である。
他方、われわれは、全く同じ熱意をもって、肉欲と戦わなければならない。なぜなら、非常に厳しく制限されないと、肉欲はあらゆる枠を越えようとするからである。すでに見てきたように、放蕩にはその擁護者がいる。自由という口実の元に、全てのことを許容するものがいる。
2 何よりもまず、われわれの情熱を拘束しようと思うなら、全ての物は、その造り主を知り、感謝する目的で造られたということを、まず思い起こすべきである。地上の物に見られる主のご好意を、われわれは感謝をもって讃えるべきである。
しかし、もし美味や酒に酔いしれて、祈りや仕事の義務を遂行できないほど怠惰に成っているなら、われわれの感謝はどうなるであろう。もし肉体の放縦が、われわれを卑しい情熱に駆り立て、不浄に心を染ませ、もはや善と悪との判断も失わせるなら、神への感謝はどこにあるだろう。もし自分の贅沢な服装のゆえ、他人を見下げ、自分自身に見とれているなら、着物のことで神に感謝するその感謝は、どこにあるだろう。
もしわれわれが不貞のために、着物の上品さや美しさで飾るなら、神への感謝はどこにあるのだろう。服装のきらびやかさに、われわれの思いがとどめられるなら、神への感謝はどこにあるのだろうか。
3 多くの人々が、熱狂的に快楽を求め、自分の心を奴隷にしてしまっている。多くの人が大理石や黄金や絵画を喜んでいて、自分たちがあたかも立像になったかのようである。彼らは、言わば金属に変り、描かれた偶像に似てくる。肉の味や匂いの甘さは、ある人々を霊的なことにはどんな関心も持たないような愚かな者にしてしまう。このことは、その他のあらゆる自然物の濫用にもみられることである。
したがって、この感謝という原則が、神の祝福を濫用する欲望を明らかに抑制する。この原則は、パウロの「肉の欲を満たすことに心を向けるな」という法則の裏付けとなる。なぜなら、われわれが生まれつき持っている欲望の手綱を自由にしてしまうと、その欲望は、節度の中庸の垣をすべて越えてしまうからである。
ローマ13:14
4 節度をもって生活しよう
1 しかし、われわれの目をこの世の生から離して、天での不死を思うにまさって、(感謝に至る)確実で近い道は他にない。
このことから、二つの一般原則が出てくる。
第一は、パウロの教えによるもので、「妻のある者はないもののよう、買う者はもたない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りないようにすべきである」というものである。
その第二は、われわれが、貧困を静に忍耐深く担い、富を節度をもって楽しむことが出来るようになることである。
2 この世を用いるには、あたかもそれを用いないかのようにせよ、とわれわれに命じた使徒は、単に飲み食いにおけるあらゆる不節制や、家具や家族や服装における過度の快楽、野心、自慢、より好みを禁じるばかりでなく、われわれの霊的水準を引き下げ、祈りを破壊するような、あらゆる心づかいと情欲とを禁じている。
このことは、肉体の外見については多くの関心があるのに、徳と言われるものには大変無関心である、と昔、使徒によっていみじくも喝破された。また、古い格言に、身体に深い注意を払う者は、一般に精神をなおざりにする、と言うのがある。
3 したがって、外的な物に対する信者の自由は、非常に厳格な規律では制限されないとは言っても、その自由は、溺れることができるほど多くあってはならぬというルールに従うべきことは確かである。これと反対に、われわれは、すべて余分に所有することを避け、贅沢の虚しい見せかけをしないよう、常に断固として努力すべきである。
神がわれわれの生活を豊にするために与えてくださった物が、躓きの石とならぬよう、常に、熱心に警戒すべきである。
Ⅱコリント7:29~31
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
解説 ウエストミンスター信仰告白 (3)
岡田 稔著
第一章 聖書について・・・3
6 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない(1)。それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯(きゅうじょう)的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること(2)、また神礼拝と教会統治に関しては、常に守られなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める(3)。
1 Ⅱテモテ3:15-17、ガラテヤ1:8,9、Ⅱテサロニケ2:2
2 ヨハネ6:45、Ⅰコリント2:9-12
3 Ⅰコリント11:13,14、Ⅰコリント14:26,40
六 ここでは、まず聖書における啓示の客観的な完結性が告白されており、聖霊による新啓示(神秘主義)と人の伝説(ローマ・カトリック教会)による追加や補足のあり得ないことが主張されている。
この点、一項の終わりの「神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている」と対応する。聖書こそ神が罪人に与えられる、信仰と生活の完結した規範であって、聖書の外に聖書を補う教えは、現在も将来も与えられる必要がないということを断言している。しかし、この聖書における啓示の完結ということ(聖書の十分性)は、次の二つの意味で但し書きを必要とする。
1 聖書の内に啓示されている事柄のうち、救いに必要な認識を得るためには、聖霊の内的啓明が必要であること。つまり聖霊の導き無しには自然的理性をもってしては、聖書の啓示の有効な理解は得られないということ。
2 神礼拝や教会の政治のような、人間に共通な形で現われる問題に関しては、本性の光と信仰者としての常識から推理判断すべき点が存在すること。聖書を信仰と生活の無謬の規準として使用する際、一方では聖霊の内的啓明(これは結局信仰ということになる)が必要であり、同時に、原則と内的事柄は直接聖書の言葉から教えられるが、具体的な適用には賢明な知恵を働かさなければならない、ということである。
7 聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない(1)。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる(2)。
1 Ⅱペテロ3:16
2 詩119:105,130
七 ここは聖書の明白性の主張である。聖書は学者が専有する書物ではなく、無学な人にも読んでわかる書物である。理解に苦しむ箇所もあるが、他の何処かに必ずとく鍵となる明白な箇所があるから、教理上、また行為上知らなければならないほどのことは、誰でも信仰と常識、祈りと教会出席と聖書を読むこと、牧師や信友との交際、思索と研究と体験とで、(別に無理な要求を言っているのではなく、「普通の手段の適当な使用で」の意味)十分わかるのである。
「改革派教会の教えは難しい。わたしのような無学なものにはとてもわからない」と言う声を聞くけれども、はたして本当にそうなのだろうか、決してそうではないはずである。 カルヴァンは、信仰とは神の恩恵のたしかな知識だと定義した。そして、ローマ・カトリック教会のように、信仰を盲目の服従と考える誤りを鋭く批判した。それは、何も一般信者に神学上の専門的知識を要求するという意味ではない。
ローマ・カトリック教会が「聖書は平信徒にはとても理解し得ない奥義を書いた本だから、宗教家がこれを研究して教えてやろう。お前たちは自分で読んでもわからないから、教えられることを信用せよ」と言うのに対して、改革派教会は誰でも罪人は信仰をもって熱心に読み、教会生活の中でこれを学んでいけば十分にわかる、と主張している。聖書は信者が自分の本として毎日読んでこそ、神の啓示の書なのである。教会とは信徒の群れであって教職階級だけでは成り立たない。
8 (昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である(1)。それで、すべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである(2)。しかしこれらの原語は、聖書に近付く権利と興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているすべての神の民(3)に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し(4)、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために(5)、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない(6)。
1 マタイ5:18
2 イザヤ8:20、行伝15:15、ヨハネ5:39,46
3 ヨハネ5:39
4 コロサイ3:16
5 ロマ15:4
6 Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,27,28
八 ここでは、原典の権威と訳本の有効性とを主張している。厳格に言うと原本こそ霊感を受けた唯一の聖書であるが、実際にはそれは一冊も現存していない。新約聖書についても、現在の最古のものは325年頃のものとみられている手写し本であって、写し違いがかなりある。しかし、学者たちは数千の写本の比較研究の結果、今日、大体千分の八位までに疑問の句を減少させている。教義の論争や註訳上の問題を確定するには、どうしてもこのような厳正な校正を経た原典によらなければならない。けれども実際上は、信仰と生活の規準として慰めと導きを得るためには現行のもので十分間にあう。
しかし、聖書の真理は、ある民族やある時代に特有な事柄ではなく、神の罪人へのメッセージであるから、いつの時代、どの国民にも共通な真理を基礎としており、翻訳によって原典の力が歪曲されたり、弱化される危険はほとんどない。厳正な意味で原典のもが霊感された無謬の聖書であるが、どの国語訳を通しても内的証明が働いておられることを主張している(しかし今日は原典の忠実な翻訳とは言えない、意訳が存在することを認めねばならない。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
岡田 稔著
第一章 聖書について・・・3
6 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない(1)。それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯(きゅうじょう)的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること(2)、また神礼拝と教会統治に関しては、常に守られなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める(3)。
1 Ⅱテモテ3:15-17、ガラテヤ1:8,9、Ⅱテサロニケ2:2
2 ヨハネ6:45、Ⅰコリント2:9-12
3 Ⅰコリント11:13,14、Ⅰコリント14:26,40
六 ここでは、まず聖書における啓示の客観的な完結性が告白されており、聖霊による新啓示(神秘主義)と人の伝説(ローマ・カトリック教会)による追加や補足のあり得ないことが主張されている。
この点、一項の終わりの「神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている」と対応する。聖書こそ神が罪人に与えられる、信仰と生活の完結した規範であって、聖書の外に聖書を補う教えは、現在も将来も与えられる必要がないということを断言している。しかし、この聖書における啓示の完結ということ(聖書の十分性)は、次の二つの意味で但し書きを必要とする。
1 聖書の内に啓示されている事柄のうち、救いに必要な認識を得るためには、聖霊の内的啓明が必要であること。つまり聖霊の導き無しには自然的理性をもってしては、聖書の啓示の有効な理解は得られないということ。
2 神礼拝や教会の政治のような、人間に共通な形で現われる問題に関しては、本性の光と信仰者としての常識から推理判断すべき点が存在すること。聖書を信仰と生活の無謬の規準として使用する際、一方では聖霊の内的啓明(これは結局信仰ということになる)が必要であり、同時に、原則と内的事柄は直接聖書の言葉から教えられるが、具体的な適用には賢明な知恵を働かさなければならない、ということである。
7 聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない(1)。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる(2)。
1 Ⅱペテロ3:16
2 詩119:105,130
七 ここは聖書の明白性の主張である。聖書は学者が専有する書物ではなく、無学な人にも読んでわかる書物である。理解に苦しむ箇所もあるが、他の何処かに必ずとく鍵となる明白な箇所があるから、教理上、また行為上知らなければならないほどのことは、誰でも信仰と常識、祈りと教会出席と聖書を読むこと、牧師や信友との交際、思索と研究と体験とで、(別に無理な要求を言っているのではなく、「普通の手段の適当な使用で」の意味)十分わかるのである。
「改革派教会の教えは難しい。わたしのような無学なものにはとてもわからない」と言う声を聞くけれども、はたして本当にそうなのだろうか、決してそうではないはずである。 カルヴァンは、信仰とは神の恩恵のたしかな知識だと定義した。そして、ローマ・カトリック教会のように、信仰を盲目の服従と考える誤りを鋭く批判した。それは、何も一般信者に神学上の専門的知識を要求するという意味ではない。
ローマ・カトリック教会が「聖書は平信徒にはとても理解し得ない奥義を書いた本だから、宗教家がこれを研究して教えてやろう。お前たちは自分で読んでもわからないから、教えられることを信用せよ」と言うのに対して、改革派教会は誰でも罪人は信仰をもって熱心に読み、教会生活の中でこれを学んでいけば十分にわかる、と主張している。聖書は信者が自分の本として毎日読んでこそ、神の啓示の書なのである。教会とは信徒の群れであって教職階級だけでは成り立たない。
8 (昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である(1)。それで、すべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである(2)。しかしこれらの原語は、聖書に近付く権利と興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているすべての神の民(3)に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し(4)、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために(5)、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない(6)。
1 マタイ5:18
2 イザヤ8:20、行伝15:15、ヨハネ5:39,46
3 ヨハネ5:39
4 コロサイ3:16
5 ロマ15:4
6 Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,27,28
八 ここでは、原典の権威と訳本の有効性とを主張している。厳格に言うと原本こそ霊感を受けた唯一の聖書であるが、実際にはそれは一冊も現存していない。新約聖書についても、現在の最古のものは325年頃のものとみられている手写し本であって、写し違いがかなりある。しかし、学者たちは数千の写本の比較研究の結果、今日、大体千分の八位までに疑問の句を減少させている。教義の論争や註訳上の問題を確定するには、どうしてもこのような厳正な校正を経た原典によらなければならない。けれども実際上は、信仰と生活の規準として慰めと導きを得るためには現行のもので十分間にあう。
しかし、聖書の真理は、ある民族やある時代に特有な事柄ではなく、神の罪人へのメッセージであるから、いつの時代、どの国民にも共通な真理を基礎としており、翻訳によって原典の力が歪曲されたり、弱化される危険はほとんどない。厳正な意味で原典のもが霊感された無謬の聖書であるが、どの国語訳を通しても内的証明が働いておられることを主張している(しかし今日は原典の忠実な翻訳とは言えない、意訳が存在することを認めねばならない。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
カテゴリー
ブログ内検索
バックナンバー
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
[PR]Samurai Sounds
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円