忍者ブログ
2023年7月号  №193 号 通巻877号
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

812a5ede.jpeg 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」

仕事から帰って来てお風呂に入って洗濯してやっと干し終えました・・・。疲れた~。今日、帰りの車の中で、私が帰ったら洗濯だ!って言ったら運転してる人が、人生の選択か?って聞くので、そうそう人生の洗濯をするわって言いました・・・・。日本語は面白いなあ~と思いました。
                             滋賀県 N・Mさん

この時期になりますと、気になるものの一つが天気予報です。台風シーズンの秋になりますと自然に主人との会話が、収穫ではなく、台風の襲来です。一年間の努力は秋の収穫に現れるのですが、毎年その前に来る台風で収穫ゼロに近いことを何度も経験してきました。今は防害ネットなどで被害を防ぐ対策は取れますが、自然の力には微々たる対策に過ぎません。今回の17号も進路近くに当たり、気が気ではありませんでしたが被害もなく、通過して行きました。本当に感謝ですが、他の果樹園の経営者や野菜の栽培をされている方々のことをつい考えてしまいます。こんなところにも絆があります。
                   岐阜県 A・Tさん   
PR
b50f2bf5.jpeg 『ありがとうございます』

 美しい自然に彩られた山々は人のこころを穏やかにいたします。素敵な風景に出逢い感動したり、元気をいただきます。先日、主人と大山(だいせん)に行ってきました。春の桜の趣とは違った山の景色に心和むひと時を過ごしてきました。季節、季節の風を楽しみながら、健康である幸せを語り合える2泊3日の主人との小さな旅でした、と福知山のSさんからお便りをいただきました。
 皆様の身近な出来事や思い出のお便りをお待ちしています。このメールアドレスを利用ください。電子メール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp 

 今月号の写真は大阪市にお住まいのK・Aさんのデジカメ作品です。
 寄付金もいただきました。感謝いたします。
     
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
岸上とし子様 馬場暁美様 小幡伸幸様 小幡美智子様 匿名2名様

 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社

        2012年9月16日から10月15日までの報告です。
e19395b5.jpeg    今月のことば

「主は、貧しい者の叫びをお忘れにならない」。  
       =詩篇9:12=

人には武器が必要です。貧しい者も、武器は持っています。子供も武器を持ち武装しています、しかし、その武器は、人に危害を加える武器ではありません。その武器とは「泣き叫ぶ」ことです。危険や苦しみに対して、警報を伝えるための、いわば非常信号機を持っています。その警報音は、世の人々には届き難くても、天にいます父は、鋭い耳を持っておられますので届くのです。母親が夜、小さな子供の泣き声を聞くよりも、もっとよく聞かれるのです。神様が持っておられるみ手をもって、支え、守って下さるのです。
 しかし、私たちは、そのお守りを、そのお支えを手にするためにどれほどの時間が必要なのかを考えてしまいます。そのようなことは、私には起こらないのではないかと、疑ってしまいます。

 そんな時、心の中にもっともらしい、別の救済者、すなわち、自己救済への思いが湧いてきます。忍耐して待つ間に、神様から差し延べられた、救いのみ手であるかのように近づいてくるのです。頑張りなさい!良い考えが浮かんで来るかもしれませんよ!と言う囁きの声でもあります。
 私たちに必要なのは、忍耐して、与えられることを信じて待つことです。

 しかし、私たちは身勝手です。自分の時間でことを判断します。聖書は、「すべての業には時がある」(伝道の書3:1)ことを語っていますが、それは、私たちの時ではなく、あくまでも「神様の時」であることを知る時、神様は、恵みとして「長い時間でも希望をもって耐え抜く信仰」を下さいます。
   小閑記
       
 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。
          =イザヤ30:15=

信仰を持つということは、心を変えて、自分の人生の方向を転換をすることであります。今まで神に背を向け、不信仰と罪と現世のことに勝手に歩んでいた自分が、自分のありのままの生活をもって神に向かい、自分の汚れと罪を思い知らされることでもあります。
信仰を持つということは、悪を征服してから神に行き、あたかも自分で自分のことが出来るというようなものではありません。そうではなく、自分で自分を救うことが出来ないということを悟り、自分以外の方に救っていただくと言うことです。神に反対することを止め、神から逃げることを止め、「ここにわたしはおります。み心ならばお救いください」と申し上げることです。

神を信頼できないと思う人もおります。では何を信頼するのですか。自分を、お金を、地位を、名誉を、それを得るために、どれだけ自分の大切なものを失ったかを、考えてみてください。何も信頼しない。信頼して、裏切られ、どれだけのものを失ってきたことかを。もう疲れてしまった。信頼するから、裏切られて失望し、悲しんできたことかと言うでしょう。

では、神を信頼しましょう。主イエス・キリストにより頼めば、必ず悲しみの扉は閉じられ、希望への扉は開きます。キリストにとどまっているなら、この世の生も死も失望も、解決するのです。それに希望をもって生きるのが信仰の喜びです。

                上河原立雄 

                 
主から受けた愛をもって

主から受けた愛をもって 主から受けた真心をもって
激しい戦禍を逃れて来た あの人々と共に生かして下さい

主から受けた愛をもって 主から受けた真心をもって
 病や飢えでやせ衰えた  あの人々と共に生かして下さい

主から受けた愛をもって 主から受けた真心をもって
生きる望みさえ失った  あの人々と共に生かして下さい
       水野源三 著 詩集「今あるは 神の恵み」
  

  
   85daace7.jpeg自閉症者のひとりごと
        (64)

8月30日
また食べて水を飲んで吐きました。まずいですよね。何に原因があるのだろうなぁ。この状態が何日も続いている。家の中にいるからそうしてしまうのだろうか。でも、外は暑いし、目的もないのに外出なんか出来ない・・・。
過食嘔吐だけど、わたしの場合、手を喉に突っ込んでも反射は強くないので、水を飲んで水を吐く感じで、あぁまた太るなぁと思いました。太っているので、主人が嫌がらせを言ったりしたりするのです。それが嫌で太ると困るのです。腰にもくるし。

9月3日
生きている気力がないです。悲しいです。信仰が足りないからなのでしょうね。きっと・・・。お昼から洗濯をと思い洗濯機の蓋を開けたら、取っ手が壊れた。業者に電話したら洗濯機の件はとりあえずめどが立ちました。今度は、また過食に走り吐きました。何でこうなってしまうのだろう。もうウンザリです。罪悪感と落ち込みと不安に苛まれています。どうにかなってしまいそうです。

9月5日
先ほど炭酸ジュース(0カロリーと銘打ってある)をしこたま飲んだのに、昔風喫茶店にきました。何をするわけでもなく。ママさんに、いつものでいいですか、って聞かれて、思わず、はい、なんて言って。お金が続くかしら。昨日の喫茶店のほうが安いんだけど、距離があるので。それに水曜日休みだし。

9月7日
最近、ムッとすることはあっても、楽しいと思うことは少ないですね。CDで音楽を聴いても、生演奏でないと、無反応。花でも一つと思ったがベランダの鉢植えが枯れてしまったので諦めた。切り花でもほしいと思うのですが、買ってくる気力がありせん。美術展を見に行きたいと思うのですが、名画だから観たいというだけで美しいものに触れたいという気持ちはありません。だから、億劫というのがあります。
空気がおいしいとか、夕日が美しいとかも思いません。何んとも潤いがないですね。
人の生き方が美しいと感じることもないですね。ないないづくしの日々ですね。


加納さおり


   
 世田谷通信
 (107)
猫  草

小学校で一人の先生がビニール袋の端を持って職員室に戻ってきた。ちょうど居合わせたので覗いてみると、大きなタマムシが入っている。キラキラと緑に輝く背中はまさに碧玉の美しさ。「わあ、すごいですね、どうしたんですか?」と聞くと「そこの昇降口に居たって、生徒が持ってきたんだよね・・」と先生はちょっと困った顔。どうやら虫関係は苦手の様子。
ついおせっかいが顔をだし、「この子、何を食べるんでしょうね、たぶん木の葉っぱだと思うけど。樹種がわからないな・・よろしければ図書室で調べてきましょうか?」というと「はあ、よろしくお願いします」との返事。顔には「『この子』ってなんだよ?虫は草でいいんじゃないの?」と書いてある。
(いえいえ、先生。大抵のものは消化できちゃう人間と違って、昆虫は結構デリケートなのです。昆虫には草食、雑食、肉食と居ますけど、草食でも木か草か、葉か汁か蜜か樹液かに分かれますし、とにかく限定的、特定のものしか食べない場合が多いのですよ・・。)と変人扱い間違いなしのトリビアは心の中に呑み込んで図書室に戻り、さっそく昆虫図鑑を調べる。タマムシの成虫はケヤキやニレなどの広葉樹の葉を食すと書いてある。そういえば昇降口の近くには大きなケヤキが。きっと、あれでしょう!図鑑を手に職員室へ、途中ケヤキの枝を少し折り取って持参した。
先ほどの先生に図鑑のコピーを渡しつつ説明する。同時にビニール袋に葉っぱと枝を入れてやる。縮こまっていたタマムシは枝につかまるとしばらく考えてから葉っぱをかじりだした。ビンゴ!やっぱりこの木で正解だったんだ。というわけで最近ではめっきり見かけなくなったタマムシは葉っぱとともに高学年の教室で回覧されることになったとか。
翻って考えるに、人間って本当になんでも食べちゃうんだなあと思う。そのバリエーションと貪欲さ、適当さはすべての生き物を凌駕する。世界中から輸入したものでも、農薬がかかっていても、添加物の化学物質でも、遺伝子組み換えでも、わざわざ未知のリスクのあるものを作り出し、よっぽど速攻の毒性がなければとりあえず食べてしまうなんて、人間だけでしょう。しかし食べた結果、本当に健康被害が出ないのかとか将来的に次の世代に引き継がれた場合はどうなるのか、は誰にもわからない。地球全体で壮大な人体実験を日々行っている状態だ。
昇降口のケヤキに居たであろうタマムシはあのケヤキが伐られたら、たぶんもう生きてはいけない。融通のきかなさは命の儚さと同義だ。とはいえどんな手段を講じても生き延びる人間の融通の効きすぎも、同じく命の危うさにつながっている気がする。
  その愛のゆえに
   =時々の記=
    (78)

8月29日
今月号の言葉の中に出てきます、讃美歌538番は今まで何気なく歌っていました。しかし、この歌詞をかみしめながら歌いますと、本当に朽ちゆくわが身ではありますが、十字架にのみすがって生きるとき、苦しみから、喜びへ、悲しみから忍耐へ、と変えられていることを信じることができます。
昨夜NHKの、クローズアップ現代を見入りました。特攻隊員たちが遺書を残して、潔くこの世のために死んでいくのですが、その家族に宛てた遺書が回収されてしまった現実に何か、やりきれない思いがいたしました。ちょうど今月号の遠山さんのビルマ戦犯記を読んでいましたので、重なって、どんなに辛かったでしょうにと胸が痛みました。
若い人たちは最後に亡くなる前に、お母さん、お父さんと家族の名を読み上げて、突撃していったのですね。戦争を知らない私ですが、このようなことは二度と起こってはならないことだと、痛感いたしました。
遠山さんはよく無事で帰ることができましたね。恵那で行われていた信徒修養会で、雀のお宿キリスト教会館が宿泊者でいっぱいで、泊まれなくなったとき、主人は、遠山さんのお宅で、泊まらせて頂いたと言っていました。懐かしいよき思い出でもあります。
 白杖で歩む学徒の日焼けかな
 遅れたる音奥ゆかし遠花火
 生まれたる村に行きたる墓掃除     馬場路哉
朝の散歩は少し暗いですが、涼しい空気をいっぱい吸って、一日の始まりです。
源三さんの詩にありますように、神様に生かされていること、愛されていること、守られていることを知る日々でありたいです。

fbf9fade.jpeg9月3日
ジャーナル9月号を毎日読み返しては強められています。特に岡田先生によるすすめは、聖書を読むこと。礼拝に出ること。その大切さを感じ取っています。また、マカルピン先生による二人の女性のマリヤとぺルシスのように神様に仕え、平信徒であっても、教会の中で困っている方への配慮、悩み悲しんでいる方への働き掛けはとても学ぶところがあり謙遜にさせられます。少しでも、そのようになりたいと切に祈るものです。
今日から、孫たちは、二学期です。行事の一番多いときですから、早く夏休みの生活を切り替えて、学校生活になじんで、頑張ってほしいものです。私たちの近所では、今まで誰よりも元気で、若者以上に頑張って働いていた方が急に倒れられました。とても衝撃が大きいです。
特に、いつも、誠実な仕事ぶりの方でしたので、皆、どうしてと震え上がっています。人生の不条理を何度も経験してきた私ですが、隣の方にはどうやってお慰めの言葉をおかけしてよいのか戸惑っています。できることは、隠れたところで、神様にお祈りするしかありません。どうぞ神様願わくばお元気を取り戻すことができるように。看病をなさっていた奥様の上にお守りをお願いします。と。
 盆過ぎて静かとなれる隣かな
 ほおずきの灯り残るや朝散歩
 朝まだき砂丘の沖にイカ釣り火
 大粒のブドウを買ひ求む
 朝顔を赤白青に大別す     馬場路哉
昨日はまだ体調がすぐれない中、主の日の礼拝に出ました。信友が心配してくれました。あまり無理をしないようにと。その一言がとても身に染みて嬉しいでした。
教会で、70歳以上の方を対象にお祝い会がありました。主人はあと二年で、70歳になります。
もう、どこから見ても、高齢者です。本人は、まだ元気と思っていますから頑張ることができるのですね。
ロンドンパラリンピックが終わりました。多くのハンデイを持ちながら、それらを乗り越えて、参加出場されている方たちには非常に勇気と生きる力を与えられています。どんな境遇に遭遇しても、ポジティヴに生きていくことの大切さを教えられています。
 竹落ち葉散り敷く小道朝散歩
 勢いに目を見張りもす樫茂る
 姉はたも弟かごで虫を追う
 一年の苦労を聞きぬブドウ園
 庭千草小さき花を刈らでおく    馬場路哉
朝の散歩は、行きはまだうす暗いのですが、帰りは、少し明るさが出てきます。うす紫の野菊が可憐に咲いています。思わず、「可愛いい野菊うすむらさきよ・・・」と小声で口ずさんでいました。また、土手には、コスモスが咲き始めました。もう自然界はすっかり秋バージョンです。

馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)


                  キリスト者の生活綱要  (37・最終回)
               
fd92a1ae.jpegジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳

  第5章 この世の生の正しい用い方

  5 欠乏のなかで忍耐ぶかく、足ることを知ろう
  
   1 もう一つの原則は、貧しい人々が、欠乏の中で忍耐を学び、富への思いによって悩まされないように、ということである。この節度を守る者は、主の学校で少なからぬ進歩をし、この進歩の見られない者は、キリストの弟子としての証しが殆んど出来ない。

  2 地上の物に対する情熱は、他の殆んど全ての悪徳を伴うばかりでなく、貧困の時に忍耐の足りぬ者は、豊な状態になると、その反対の悪徳を現わすのが普通である。つまり、みすぼらしい服装を恥じる者は、華美な服装を誇るということである。つつましい食事で満足しない者は、美食を望んで心安まらず、何か機会があるや否や、暴食にさえ陥ってしまう。
窮乏と貧困を不安と不満で我慢している人は、ひとたび名誉への道を走ると、横柄と尊大とを防ぐことが出来ないであろう。
それで、信仰生活において真実でありたいと願う者は皆、「飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも」処し得るように、熱心に使徒を手本に習うように努めよう。ピリピ4:12
 
   3 聖書はまた、地上の物の使用を制限する第三の原則について語っている。この点は自己否定の教えを述べた時に記されている。
 これら地上の物はすべて神の好意によって、われわれに与えられ、われわれの利益のためのものであるが、それらは同時に、われわれに任された預金のようなものであって、それらに対して、何時の日にか、われわれは勘定の説明をしなければならないのである。そのため、われわれは「あなたの会計報告を出しなさい」という警告を、間断なく聞いているように、それらを取り扱わなければならない。

   4 さらに、誰がこれを命じておられるかも忘れないようにしよう。その方は、自制と謹厳と倹約と節度とを非常に強く勧められる。その方は、奢偧や放漫や、みせびらかしや虚飾を非常に嫌われる。その方は、愛による以外に、われわれが神の祝福を取り扱うことを認めようとされない。その方は、われわれを貞節や純潔から導き出し、愚か者にしてしまうような、すべての快楽を咎められる。
 ピリピ4:12、ルカ16:2

 
6 神の召しに忠実であれ
 
   1 最後に、主は、われわれ一人びとりが、生涯の全ての行動において、召命に忠実であるように命じておられることに注意すべきである。主は、人間の心が、落ち着きなくあちらこちらと迷い、多くのものを一時に握りしめようという、飽くことを知らぬ野望のあることを知っておられるからである。そのため主は、われわれの愚鈍と奔放とから、生み出されるそうした混乱を防ぐために、それぞれ人に異なった領域で特別な義務を果たすようにされた。
 それで、だれも自分の限界を無謀に超えてしまうことのないように、主は、そのような人生の諸領域を「召命」と呼ばれた。したがって各自の領域は、彼が生涯不確かに歩きまわらないように、主によってその人に与えられた立場である。
 この区別は非常に重要で、われわれの全行動は、主の眼からは、この召命によって量られ、しばしば人間的な理性や哲学の判断とは非常に異なったものとなる。

   2 哲学者の中でさえ、自分の国を圧制政治から解放するのは、最大の英雄であると言う。しかし、天の審判者の声は、暴君を殺す個人を明白に罪と定める。実例を枚挙することは、われわれの範囲ではないが、市民としての行動で、何が正しい行為かという原理と基準は、主の召命が何かということを知るだけで十分としよう。
 主の召命を軽視する者は、自分の仕事の義務を果たす点で、決して正しい道を歩み続けることができない。時には、彰讃に価するように見える何らかの行為に成功するかもしれない。しかしながら、人の目にはそれがどんなに良く見えても、主の王座の前には受け入れられない。なおその上、その人の生活の各部分には統一性がないであろう。

   3 したがって、われわれのこの世の生は、常に召命感を心に持つことによって、最も良く統制される。そうすれば、自分の限界を越えることは悪であることを知るから、だれも、召命と矛盾することを敢えて企てるような、無謀をしてみたいと思わなくなる。最前列にいない者は、自己の任務を果たすことで満足し、主が配置してくださった場所から逃げ出すべきではない。
 心配や労苦、災難やその他の重荷の中にある時、これら全ての点で、主gの導き手であられることを知ることは、決して小さな慰めではない。あ そこで為政者は、いっそう快く自分の職務を遂行していくであろう。一家の父は、一層勇気を持って、自分の義務を果たすであろう。そして各人は、その肩の上に置かれた任務を、神によるものと確信する時、だれもかれも、それぞれの生の領域で、いっそう忍耐を示し、人生における困難や気苦労、悲惨や心配事に打ち勝つのである。
 もしわれわれが、神の召命に従うなら、神の前に真に尊ばれず、たいして重要でない卑賤な職業などと言うものは存在しない、というこのユニークな慰めを受けるであろう。(神の御前で!コラム・デオ)。
 創世記1:28、コロサイ1:1以下。 

   (つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。


 解説 ウエストミンスター信仰告白 (4)
               
                    岡田  稔著

第一章  聖書について・・・4

9 聖書解釈の無謬(むびゅう)の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らなければならない(1)。

  1 Ⅱペテロ1:20,21、行伝15:15,16

九 これは、七項と関連させるべきではないかと思う。聖書の明白性と深く関係する聖書解釈の原理である。まず聖書の意味は一つしかないことを主張して、聖書の表面的意味と裏面的(隠語的)意味とがあると言う主張を排斥する。ローマ・カトリック教会は、しばしば自己の教理の根拠を置こうとして、こじつけ的な解釈を下す。聖霊解釈などというのも、これと同類に近い場合がある。
 これに対して、わたしたちは文法的、歴史的方法を主張する。すなわち、字義通りに前後の文脈から、書いた人の歴史的事情に照らして、本来のままの心を読むべきである。
 また、聖書が自己完結的啓示であると考える以上、聖書を直接霊感や伝説、経典外文書などの光の助けを得て、はじめて理解出来ると見ることは誤りである。聖書の理解が困難な箇所は、より明白な箇所の光に照らして理解すべきで、同じ語、同じ問題はよりはっきりしている他の聖句に基づいて推論すべきであると言うのである。

 9c4a4c0d.jpeg10 それによってすべての宗教論争が決裁され、すべての会議・古代の著者たちの意見・人々の教義・個人の精神が検討されなければならないところの、またその宣告にわたしたちが従わなければならないところの至高の審判者は、聖書の中に語っておられる聖霊以外の何者でもありえない(1)。

  1 マタイ22:29,31、エペソ2:20、行伝28:25(*)
      *エペソ2:20を行伝28:25と比較

十 この項は、まず九項との関連から考えなければならない。これは、聖書解釈の原理に関するものである。すなわち、ここで言う「宗教論争」は、九項の「聖句の真の完全な意味について疑問のある場合」と同じように、教理上の異論についても考えられる。そして、その判定の権威を個人の哲学や教会の決議や教皇や伝説などの人間的なものに置くことに反対して、どこまでも聖書自身に基づくと言う主張であり、九項は「もっと明らかに語る他の箇所」からの推論を、十項は「聖書全体の統一的教理との調和」を主張したものである。
 同時に、十項は第一章の結論として、聖書の権威は聖書の真の著者である聖書自身の上にのみ依拠すること。従って、聖書の意味の判定者は、この聖霊ご自身の外にないこと。聖霊は信仰を通して信者の良心に明らかにされることなどを主張する。
 従って、この良心の自由を拘束するものは、ありえないこと。偉大な教権、伝統と言えども、個人の良心に語る聖書を通しての聖霊の声を黙らせることは出来ない、と言う聖書解釈における。個人的自由が告白され、ローマ・カトリック教会の教える、教会教理の無謬性と、それへの信者の無批判的盲従とを排斥するのが、この項の中心的な意味ではないかと思われる。
       ・・・・・・・・・・・・

この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
『旧・新約婦人物語』(37)

 ヤラベアムの妻
    =列王紀上 14:1~17=

 これから学ぶ婦人は、イスラエル王ヤラベアムの妻と聖書に記されている人物です。彼女が王の命令によって、コロにいる預言者アヒヤを訪ねた物語です。聖書にはこの婦人の記事はここ一箇所だけしか出ておりません。
 このお話しがよくお分かりいただくために、少しさかのぼって、ヤラベアム王のことから始めましょう。彼の名前が聖書に出てくるのは、11章26節からです。彼はソロモン王の家臣で、知恵に富み、能力のある青年でした。王はヤラベアムをたてて、ヨセフの家を司る重い責任ある地位を与えていたのです。さすがに全盛を極めたソロモン王朝も末期となって、王は異教の女を王宮に入れ、これを愛したために、だんだんと偶像崇拝に陥り、神を離れ、ついに神からも見捨てられるようになりました。
 そこで、神はヤラベアムを選んで王とするために、預言者アヒヤを通じて、主のみむねをお伝えになりました(11:34~38)。ソロモンは父ダビデが神の命令と掟を守ったために、特にソロモンの一生涯は王とされます。しかし、彼の手から国を取って、十の部族をソロモンの家来のヤラベアムに与えるとの預言でした。この預言の通りに、ソロモン王の死後、国は二つに分裂し、十の部族がヤラベアムに、二つの部族がユダ王国としてソロモンの子レハベアムに残されました。
 しかし、残念なことに、せっかく神に選ばれて王となったヤラベアムは、神のみ心に背いて偶像に走り、金の子牛の像を二つ作って一つを国の南に立て、国中の人々及び旅人にこれを拝むように強制したのです。これは神に対する大罪で、偶像崇拝を自らの国民にまで強制したことになり、聖書はこれを「ヤラベアムの罪」と何度も繰り返しています。
 ヤラベアムは神から、「もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう」(11:38)と、いとも懇ろな戒めとお約束を受けながら、どうしてこのような罪を犯すようになったのでしょうか。
 それは、民らがユダの国のエルサレムの宮に参るのを防ぐ政治的手段であったのです。神の力に頼りきれない、政治家の弱さでもあります。13章を見ますと、神は今一人の預言者を送って、今一度彼に注意を促し、もし偶像崇拝の悪い道を離れず、偶像崇拝を止めない時は、神はヤラベアムとその家族を滅ぼすであろうと警告されました。しかし、彼はついに従いませんでした。
 神の預言は実現し始め、ヤラベアムの子アビヤが重い病に苦しみはじめました。王ヤラベアムも愛する子供が病気で苦しむ様子を見ては、世の人々と同じで、諺にあるとおり「困った時の神頼み」と、まことの神の救い求めるようになりました。彼はかつて預言を伝えに来たアヒヤを思い起こしたのです。彼は妻を呼んで、「王妃であるのを知られないように変装し、十個のパンと菓子をみやげにして預言者アヒヤを訪ねさせ、子供が癒されるか、どうかを尋ねるように命じました。
 これは、神の預言者に対して取るべき態度ではありません。彼女はこのことが悪いことと知りつつ断りもせず命じられるまま、姿を変えて出かけました。ここに彼女の弱さがあります。
 神はアヒヤにこの婦人が誰であるか、お知らせになりました。彼女の足音が戸の外に聞こえますと、預言者は、「ヤラベアムの妻よ、はいりなさい。・・・わたしはあなたに厳しい事を告げるよう、命じられています」(14:6)と前置きして、あなたの夫、ヤラベアム王は神より選ばれ、イスラエルの君として、ダビデの家より国を裂いて与えられたのに、神の戒めを守り行いませんでした。だから、あなたが家に帰って敷居をまたぐときに、その子は死にますと、預言いたしました。彼女は驚いて家へ帰ったとき、預言の通りその子供の息は絶えたのです。
 間もなく、ユダの王アビヤがたって、ヤラベアム王朝は僅か22年で滅んでしまいました。歴代誌下13章20節に、「ヤラベアムは、・・・主に撃たれて死んだ」とあります。

 この話か私たちにいろいろな教訓を与えております。
1 偶像崇拝が如何に恐ろしい罪であり、この罪は国も滅ぼすことを教えています。第二次大戦前の偶像崇拝の盛んであった日本の状態、および戦争の結果は、明らかにこのことを証明しております。それにもかかわらず、世の人々はなおこの金の子牛である偶像崇拝を捨てきれないのです。
 クリスチャンでありながら心のうちに神棚、仏壇を忘れられず、死者を拝んだり、神社の祭礼行事に仲間入りしないと、近所との交際が出来ないと恐れるのは、金の子牛に心引かれることです。日本のクリスチャンにこの心がある限り、日本ではキリスト教は伸びず、日本の国は危ういと思います。
 2 虚偽は必ず罰せられます。ヤラベアムの妻が、夫の言いつけとは言いながら、神の人を欺こうとしたことは、大きな罪で罰せられるのは当然です。自分の都合や、勝手なことで、神にすがるというような、思いつき、その場限りのことはいけないことです。人を欺いて心にもない甘い言葉で人の歓心を買い、自分のためにすることは本当に愚かしいことです

ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。

 ビルマ
  戦犯者の獄中記  (20)  遠山良作 著

8月27日
-チャイトー事件の判決-

CCF20120920_00001.jpgチャイトー事件の裁判で判決を受けた松岡大尉たち7名もこの独房に収監された。
判決の結果は
陸軍憲兵大尉  松岡 憲郎   絞首刑
陸軍憲兵曹長  加藤 広明   絞首刑
陸軍憲兵曹長  鈴木喜代司   絞首刑
陸軍憲兵軍曹  小川 角次   12年
陸軍憲兵伍長  斉藤 健治    4年
陸軍憲兵曹長  川崎金次郎    3年
陸軍憲兵曹長  鈴木 勝夫   無罪
陸軍伍長       福田 安夫   無罪
(補助憲兵)
であった。
 
 この事件は、終戦直前の事件である。チャイトー憲兵分隊は、ビルマ反乱国軍(終戦直前にビルマ国軍は日本軍に反乱した)の関係者を逮捕・取り調べた結果、罪状が明らかになったので首謀者7名を日本刀で斬殺した事件である。
 戦場に於いて前線から撤退して来る日本軍を襲撃する、ゲリラ部隊である。しかるに、当時、戦況はわれわれに不利であった。繰り返し繰り返し空襲する敵機により、全ての輸送路は不通であった。犯人を後方に移送することは不可能に近い状況にあった。また、犯人を後方に送ることが出来たとしても、日本軍の軍法会議は、当時すでにタイ国に撤退していたので審理出来ない状態であった。分隊長である松岡大尉は犯人の処置について上司に申請伺いしたところ、「現地に於いて処分せよ」という指示であった。処分とは「殺せ」との意味である。7名を日本刀で斬ったのである。検事側は分隊にいたビルマ人を証人に立て、殺した人物を裁判所に於いて指名させた。証人は「加藤曹長、鈴木(喜)曹長が刀で斬ったことを見ていた」と証言したのである。
 今まで行われた裁判の例を見ても、たとえその証言が間違っていても証拠として採用されている。弁護士団は罪もない二人を助けるためには、実際に実行した者、即ち、起訴裁判中の小川軍曹と斉藤伍長には気の毒であるが、その事実を証言させる以外に検事側の証言を覆すことは不可能である、との判断から事実を法廷で証言させることにした。
 証言台に立った小川軍曹は「分隊長に命により私が、斉藤伍長と山田上等兵(二人は起訴されていない)を指揮して、犯人を日本刀で斬った。」と証言した。斉藤伍長も山田、山本両上等兵もそれぞれの事実を証言すると共に、加藤曹長、鈴木曹長はその場にいなかった、と証言した。
 法廷は日本人の証言を一言半句も採用しなかった。僅か一名のビルマ人の間違った証言でも証拠として判決するのである。全く無茶な裁判である 。
 死刑の判決を受けた松岡大尉は、「何のために一ヶ月も審理したのか理解出来ない。彼等は誰が死刑になるのかは問題ではない。お前たちのように裁判もせずに殺さないようにと、裁判という形式が問題であり、初めから作られたサル芝居に過ぎない。自分がこの裁判に臨んで如何に英国が老獪であるかを知った。起訴されて裁判が始まる時、既にこの事件は誰が死刑で、誰が有期で、誰が無罪であるかを順序正しく割り当てているに過ぎない。証人は事前に教育し指導して証言させている。こんな細工までして審理するのは日本人の真似の出来ない芸当である。」と言われた。
 検事側の指導する証人が指をさす方にいた者が死の運命を辿るのである。裁判を受けた者のみが知る不当な戦犯裁判である。

この文章の転載はご子息の許可を得ております。

あなたに聖書を
   
  キリストが言われた言葉に「求めなさい。そうすれば、与えられる。」というのがあります。こういう言葉をどのように受け止めるか、人、様々であろうと思いますが、キリストは、こういうことを言われたあとで、どうしてそういうことが言えるか、ということについての説明がされています。
 それは「自分の子どもがパンを欲しがっているのに石を与える親はいないし、魚を欲しがる子どもに蛇を与える親はいない」、ということです。確かにその通りでありまして、生きて行くのに必要なものを子どもが求めているのに、それを与えない親はいません。それどころか、子どもが欲しがる前に、子どもの成長段階において必要な物を用意しているのが親であります。こういう事実に即して言えば「求める者に与える」という言葉は成り立ちます。
 しかし、子どもだけでなく、大人も含めて、わたしたちが生きていくのに本当に求めなければならないものは何か、ということは、改めて考えてよろしいのではないかと思います。それは、キリストが「人はパンだけで生きる者ではない」と言っておられることでもあります。パン、つまり食べ物は人間が生存を保つためには欠かせないものではあります。しかし、パンだけあれば、人間として生きるのに十分であるか、というと、そうとは言い切れなくて、様々な考え方があると思います。
 05b5d505.jpegそういう中で、キリストは、キリストの「天の父である神様は、求める者にはよいものを下さるに違いない」と言われ、だから、「求めなさい」と勧めておられます。
 キリストが、神様が下さるに違いないと言われた「良い物」とは何か、ということですが、キリストは「人は、神の口からでる一つ一つの言葉によって生きる」と言われています。「あの一言がわたしを活かした」ということがあるではありませんか。そういうことから言って、自分の思いを越えて、自分のために最も良い物が何であるかを知っており、求めに応じてそれを下さる神がおられるということを、聖書から読み取っていただきたいと願っております。

(参照聖句・マタイ7:7)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

10月
  7日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
 14日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
 21日 大住 元 (日本基督教団豊山教会牧師)
 28日 大住 元 (日本基督教団豊山教会牧師)
ブログ内検索
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
217ff6fb.jpg 








「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

b997b4d0.jpg
 









「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
 a0528a6b.jpg









「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
4008bd9e.jpg
われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

0eb70a0b.jpg








さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

Copyright © [   つのぶえジャーナル ] All rights reserved.
Special Template : シンプルなブログテンプレートなら - Design up blog
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]