2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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今月のことば
あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。
=Ⅱコリント13:5=
私たちの信仰は、実際に、吟味する必要があります。それは、腐敗したり、弱ったり、空虚になったりすることがあるからです。また、世的なものによって肥大化したり、肉的なものに熱狂したりすることもあり得ます。世の中には、沢山の死んでしまったかのような信仰があるかと思えば、人間的な精力過剰な信仰もあります。
ことに心に持ち続ける悲しみや逆の享楽は、人々にとってばかりでなく、信仰者にとっても、罠になり得ます。ですから、私たちは、このパウロのみ言葉が、真実、点検が必要であると勧めているのです。
「自分を吟味するがよい」というみ言葉は、私たちの手探りで考え、熟慮することを求めてはいません。それでは、真の自己吟味・点検にはならないのです。パウロは、その手段・方法は、神のみ言葉にあり、聖書にあると言います。神のみ言葉は、日ごとの私たちの鏡になります。それによって「自分の心」を神の鏡で検証するのです。
自己検証は、自分に甘いものです。いろいろの理由をつけたがります。すなわち、自己弁護するのです。それでは、真の点検・修理はできません。み言葉は、単なる言葉ではありません。神から頂く命です。神という命のぶどうに木に枝としてつながっているかどうかを、吟味させます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしを離れては、あなたがた何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)
主イエスにならって
自らの言葉でなく 神のみ言葉のみを語りし 主イエスにならって
自らの意見のみを語ることなく み言葉のみを語らせ給え
自らの心でなく 神のみ心のみを行いし 主イエスにならって
自らの利益のみを求めることなく み心のみを行わせ給え
自らの栄えではなく 神のみ栄えのみを求めし 主イエスにならって
自らの誉れのみを求めることなく み栄えのみを求めさせ給え
水野源三著「主にまかせよ 汝が身を」より
=Ⅱコリント13:5=
私たちの信仰は、実際に、吟味する必要があります。それは、腐敗したり、弱ったり、空虚になったりすることがあるからです。また、世的なものによって肥大化したり、肉的なものに熱狂したりすることもあり得ます。世の中には、沢山の死んでしまったかのような信仰があるかと思えば、人間的な精力過剰な信仰もあります。
ことに心に持ち続ける悲しみや逆の享楽は、人々にとってばかりでなく、信仰者にとっても、罠になり得ます。ですから、私たちは、このパウロのみ言葉が、真実、点検が必要であると勧めているのです。
「自分を吟味するがよい」というみ言葉は、私たちの手探りで考え、熟慮することを求めてはいません。それでは、真の自己吟味・点検にはならないのです。パウロは、その手段・方法は、神のみ言葉にあり、聖書にあると言います。神のみ言葉は、日ごとの私たちの鏡になります。それによって「自分の心」を神の鏡で検証するのです。
自己検証は、自分に甘いものです。いろいろの理由をつけたがります。すなわち、自己弁護するのです。それでは、真の点検・修理はできません。み言葉は、単なる言葉ではありません。神から頂く命です。神という命のぶどうに木に枝としてつながっているかどうかを、吟味させます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしを離れては、あなたがた何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)
主イエスにならって
自らの言葉でなく 神のみ言葉のみを語りし 主イエスにならって
自らの意見のみを語ることなく み言葉のみを語らせ給え
自らの心でなく 神のみ心のみを行いし 主イエスにならって
自らの利益のみを求めることなく み心のみを行わせ給え
自らの栄えではなく 神のみ栄えのみを求めし 主イエスにならって
自らの誉れのみを求めることなく み栄えのみを求めさせ給え
水野源三著「主にまかせよ 汝が身を」より
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小閑記
もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。
=ヨハネ8:31~32=
神とともに生きる生活は、私たちが神のみ言葉のうちにとどまっていなければ、続けることはできません。聖書を捨ててなお、自分はキリスト者であると思う人は、嘘、偽りの生活をしているのです。
しかし、神のみ言葉にとどまると言うことは、単に聖書を読むと言うということばかりを意味するのではありません。それは、まず徹頭徹尾、心に神のみ言葉のために場を与え、それに基づいて生きることであります。
次に、神のみ言葉にとどまることです。イエスの弟子のある人々は、要求し、裁きを宣告し、道を示す言葉を研究し、考え、自分に当てはめることを好みますが、恵みと赦しのみ言葉については触れずにおきます。他の人々は、慰め、励まし、幸いにする言葉のみを知りたがります。
こういう見方は、両方とも、一方的であって危険をはらんでいます。もし真理が、私たちに自由を得させるならば、要求や審判や慰めは、全て、私たちの心に場所を見出すはずです。もし、私たちから真理が捨てられるならば、心も自由を得ることはできません。
キリスト者の生活を支配する根本的な掟は、罪と赦しと恵みについてのみ言葉であります。罪の認識の欠けるところに、恵みはありません。しかし、罪人が恵みの扉を開く時、神は恵みに恵みを加えられるのです。こうして真理は私たちを自由にするのです。
私たちが、イエスの弟子であるならば、キリスト者として、清く幸いな生活を送ることができるように、み言葉は自由と力を下さるでしょう。それを、手にするか否かは、あなたの決心にかかっているのです。
上河原立雄
<187>
1 しゅよ、いのちの ことばを
あたえたまえ、 わがみに
われはもとむ ひたすら
主よりたまう みかてを。
2 ガリラヤにて みかてを
わけたまいし わが主よ、
いまも活ける ことばを
あたえたまえ ゆたかに。 アーメン
もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。
=ヨハネ8:31~32=
神とともに生きる生活は、私たちが神のみ言葉のうちにとどまっていなければ、続けることはできません。聖書を捨ててなお、自分はキリスト者であると思う人は、嘘、偽りの生活をしているのです。
しかし、神のみ言葉にとどまると言うことは、単に聖書を読むと言うということばかりを意味するのではありません。それは、まず徹頭徹尾、心に神のみ言葉のために場を与え、それに基づいて生きることであります。
次に、神のみ言葉にとどまることです。イエスの弟子のある人々は、要求し、裁きを宣告し、道を示す言葉を研究し、考え、自分に当てはめることを好みますが、恵みと赦しのみ言葉については触れずにおきます。他の人々は、慰め、励まし、幸いにする言葉のみを知りたがります。
こういう見方は、両方とも、一方的であって危険をはらんでいます。もし真理が、私たちに自由を得させるならば、要求や審判や慰めは、全て、私たちの心に場所を見出すはずです。もし、私たちから真理が捨てられるならば、心も自由を得ることはできません。
キリスト者の生活を支配する根本的な掟は、罪と赦しと恵みについてのみ言葉であります。罪の認識の欠けるところに、恵みはありません。しかし、罪人が恵みの扉を開く時、神は恵みに恵みを加えられるのです。こうして真理は私たちを自由にするのです。
私たちが、イエスの弟子であるならば、キリスト者として、清く幸いな生活を送ることができるように、み言葉は自由と力を下さるでしょう。それを、手にするか否かは、あなたの決心にかかっているのです。
上河原立雄
<187>
1 しゅよ、いのちの ことばを
あたえたまえ、 わがみに
われはもとむ ひたすら
主よりたまう みかてを。
2 ガリラヤにて みかてを
わけたまいし わが主よ、
いまも活ける ことばを
あたえたまえ ゆたかに。 アーメン
眸
今、起きました。なんか寝るだけの1日だったのかな?と思ってます。でもちゃんと朝早く起きて、何とか二階に上がり洗濯して干したから、それだけでも良いかなと思っています。病院の先生からは、家でも体を動かすようにと言われています。両膝に痛みのある生活がもう20年も続いています。年齢的にはまだまだの歳ですが、体重があるのが一番の悩みです。
手持ちの薬が切れて精神的に非常に怖い期間です。来週あたり病院に行こうかどうしようか悩んでます。どのように行くか二ヶ所廻らなければならなくて真逆なんで効率良く行くにはどうしたら良いか、毎回考えてしまいます。歩くことが困難なため、最終的にはタクシーを使わなければならないので、なるべく安くあげるように、どこから乗るか、自分の足で歩けるか悩んでます。
一日に4回しか来ないバス。乗り降りには何時も運転手さんに迷惑をかけています。
こんな私ですが、神様のお役に立ちたいと思っていますが、どうしてよいのかわかりません。生きていることでいいのでしょうか?
香川県 A・Cさん
今、起きました。なんか寝るだけの1日だったのかな?と思ってます。でもちゃんと朝早く起きて、何とか二階に上がり洗濯して干したから、それだけでも良いかなと思っています。病院の先生からは、家でも体を動かすようにと言われています。両膝に痛みのある生活がもう20年も続いています。年齢的にはまだまだの歳ですが、体重があるのが一番の悩みです。
手持ちの薬が切れて精神的に非常に怖い期間です。来週あたり病院に行こうかどうしようか悩んでます。どのように行くか二ヶ所廻らなければならなくて真逆なんで効率良く行くにはどうしたら良いか、毎回考えてしまいます。歩くことが困難なため、最終的にはタクシーを使わなければならないので、なるべく安くあげるように、どこから乗るか、自分の足で歩けるか悩んでます。
一日に4回しか来ないバス。乗り降りには何時も運転手さんに迷惑をかけています。
こんな私ですが、神様のお役に立ちたいと思っていますが、どうしてよいのかわかりません。生きていることでいいのでしょうか?
香川県 A・Cさん
自閉症者のひとりごと
(65)
10月9日
昨日、午後から主人と彼岸花を見に行きました。電車に乗ってとことこ歩きました。堤防一面が真っ赤に染まっていました。あれは美しいというより、強烈な色がびっしりで凄いと言ったほうがいいです。例によって主人は、カメラをいじっていました。休みということもあって、多くの家族連れやカメラマンで賑わっていました。
帰りは、結婚記念日として、レストランでご飯を食べました。以前よりは眠れるようにはなりましたが、それでもまだイライラしています。何をしていいのかわからないのです。今のところ就労するところはないですし。ミーティングにもろくに行けないのです。背中がだるくて。
今週末、受診するので、この落ち着きのなさをなんとかしてもらいたいです。ささやかなのですが、花を買ってきて、花瓶にいけました。
10月10日
夕食は作ってしまったし、かといって、掃除をするのも億劫だし、本は読みたくないし。何もすることがないと落ち着かない。何時がぶ飲みするかも分からない。昨日のうれしい出来事が何の意味も持っていないとは、なんと悲しいことか・・・。晴れのち曇りなく大嵐、まるでジェットコースターだ。
10月15日
眠いのに眠れない。落ち着かないです。またがぶ飲みをして、気分が悪くて、吐いてしまいました。もう最低。でも以前よりは眠れるようにはなりましたが、それでもまだイライラしています。何をしていいのかわからない。このままでは駄目なので、何とか働きたいと思っているのですが・・・。
加納さおり
(65)
10月9日
昨日、午後から主人と彼岸花を見に行きました。電車に乗ってとことこ歩きました。堤防一面が真っ赤に染まっていました。あれは美しいというより、強烈な色がびっしりで凄いと言ったほうがいいです。例によって主人は、カメラをいじっていました。休みということもあって、多くの家族連れやカメラマンで賑わっていました。
帰りは、結婚記念日として、レストランでご飯を食べました。以前よりは眠れるようにはなりましたが、それでもまだイライラしています。何をしていいのかわからないのです。今のところ就労するところはないですし。ミーティングにもろくに行けないのです。背中がだるくて。
今週末、受診するので、この落ち着きのなさをなんとかしてもらいたいです。ささやかなのですが、花を買ってきて、花瓶にいけました。
10月10日
夕食は作ってしまったし、かといって、掃除をするのも億劫だし、本は読みたくないし。何もすることがないと落ち着かない。何時がぶ飲みするかも分からない。昨日のうれしい出来事が何の意味も持っていないとは、なんと悲しいことか・・・。晴れのち曇りなく大嵐、まるでジェットコースターだ。
10月15日
眠いのに眠れない。落ち着かないです。またがぶ飲みをして、気分が悪くて、吐いてしまいました。もう最低。でも以前よりは眠れるようにはなりましたが、それでもまだイライラしています。何をしていいのかわからない。このままでは駄目なので、何とか働きたいと思っているのですが・・・。
加納さおり
世田谷通信
(108)
猫 草
先日、友人と一緒に東京駅方面行く用事があり、「ついでだから、新しくなった東京駅見ていこうよ!」と丸の内側の駅舎に向かった。一歩、足を踏み入れてびっくり!ものすごくたくさんの人々が全員上を見上げて、手をかざしていたのだ。手に手にケータイ、スマホ、デジカメが握られている。つまり、みんな腕を伸ばしてドームの写真を撮っているわけだ。
復元された東京駅丸の内側の駅舎ドームは広々とした吹き抜けで、白い丸天井から延びる柱が流麗なラインを描き、美しいレリーフに縁どられている。まるでヨーロッパのお城の建築のような、でも干支のレリーフがちょっと和風の味付けで親しみを感じる。
そのまま、日本橋方面に歩くと日本銀行本店が見えてくる。この石造りの荘厳な建物も、東京駅と同じく辰野金吾設計になるものだそうだ。緑の屋根に丸いドームがあり、周囲にはレリーフ。確か日銀大阪支店も同じようなデザインだったはず・・さてはこの人、かなりのドーム好き?
そもそも明治期にこんな洋風の建築物が東京の中心部に設計されたのは、ひとえに明治政府の大胆な人事あってのことだろう。お雇い外国人教師ジョサイア・コンドル氏が工部大学校造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)の教授に招聘されたのはなんと24歳の時というのだから、驚きである。学生とほとんど大差ない若さではないか。そして彼と、辰野金吾をはじめとする弟子達が日本各地に美しいゴシック様式の建築物を設計していく。
すごいなあ、と感嘆する。丸の内、日本橋界隈の高層ビル群に埋もれるようになってはいてもその明治期の建築物の重厚さと存在感は圧倒的なのだ。世界に対して胸を張るような強い意志が感じられるような気がする。翻って自分はどうなんだろう?何か胸を張れるような気持ちがあるんだろうか。常に周りを気にして、方々に気を使って、取りこぼしのないように先回りして・・。それは協調性や順応性という大事なことだと承知はしているし、日本的な美徳ではある。けれど、ちゃんと自分の意見を言わないことの上手な言い訳にも使えることをちゃっかり知ってもいるのである。突き抜けて明るく高い東京駅のドームになんだか気後れする。
(108)
猫 草
先日、友人と一緒に東京駅方面行く用事があり、「ついでだから、新しくなった東京駅見ていこうよ!」と丸の内側の駅舎に向かった。一歩、足を踏み入れてびっくり!ものすごくたくさんの人々が全員上を見上げて、手をかざしていたのだ。手に手にケータイ、スマホ、デジカメが握られている。つまり、みんな腕を伸ばしてドームの写真を撮っているわけだ。
復元された東京駅丸の内側の駅舎ドームは広々とした吹き抜けで、白い丸天井から延びる柱が流麗なラインを描き、美しいレリーフに縁どられている。まるでヨーロッパのお城の建築のような、でも干支のレリーフがちょっと和風の味付けで親しみを感じる。
そのまま、日本橋方面に歩くと日本銀行本店が見えてくる。この石造りの荘厳な建物も、東京駅と同じく辰野金吾設計になるものだそうだ。緑の屋根に丸いドームがあり、周囲にはレリーフ。確か日銀大阪支店も同じようなデザインだったはず・・さてはこの人、かなりのドーム好き?
そもそも明治期にこんな洋風の建築物が東京の中心部に設計されたのは、ひとえに明治政府の大胆な人事あってのことだろう。お雇い外国人教師ジョサイア・コンドル氏が工部大学校造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)の教授に招聘されたのはなんと24歳の時というのだから、驚きである。学生とほとんど大差ない若さではないか。そして彼と、辰野金吾をはじめとする弟子達が日本各地に美しいゴシック様式の建築物を設計していく。
すごいなあ、と感嘆する。丸の内、日本橋界隈の高層ビル群に埋もれるようになってはいてもその明治期の建築物の重厚さと存在感は圧倒的なのだ。世界に対して胸を張るような強い意志が感じられるような気がする。翻って自分はどうなんだろう?何か胸を張れるような気持ちがあるんだろうか。常に周りを気にして、方々に気を使って、取りこぼしのないように先回りして・・。それは協調性や順応性という大事なことだと承知はしているし、日本的な美徳ではある。けれど、ちゃんと自分の意見を言わないことの上手な言い訳にも使えることをちゃっかり知ってもいるのである。突き抜けて明るく高い東京駅のドームになんだか気後れする。
その愛のゆえに
=時々の記=
(79)
9月15日
ここ山添にも、秋の風が吹いてきました。
ようやく、朝、夕は涼しくなってきましたが、日中は少し動くと、汗ばんできます。
名東区は緑が多いということですが、疲れたこころと体をいやしてくれるのはやはり、緑ですね。
上野緑ヶ丘教会は、大人は20人。あとは、子供たちがにぎやかに応援してくれています。
お子さんがたくさんいらっしゃるご家庭が礼拝をささげてくださっているので、パワーをもらっています。地方都市や田舎の教会は、頑張っていますが伝道に苦戦しています。皆さんのお祈りを期待しています。
明日は、村の行事で、路の草刈です。昔は鎌で刈っていましたが今は草刈り機を使えないと、話になりません。
いろいろ、付き合いが大変なので、若者たちはこの緑の多い山添を離れていきます。人口減少に歯止めがかかりません。まさに高齢化村の象徴です。
高台に散歩路あり、月見草
コスモスを残し、畑をあらしけり
オニヤンマ凛々しく行き来繰り返す
雲の峯、さほど、育たず、崩れけり
ラジオ聞き、夜明けを待てる夜長かな
山霧や朝の木漏れ日斜めなる 馬場路哉
昨日、敬老の日のお見舞いに母のところへ行ってきました。
何とか暑さを乗り越えることができましたが、日に日に、弱っていくのを目の当たりにしている兄は、とても、辛いところがあるようです。でも、本当によく世話をしてくれているので、感謝です。
9月18日
名古屋は、雨はひどくありませんか。こちらは、久しぶりに非常に激しい雨に見舞われています。
犬たちとの散歩では、人っ子一人出会いません。皆用心して、家の中にすっこんでいるようです。
雨とともに涼しくなりました。急に変化して、暑さから、この涼しさに対応できないでいる高齢者の私です。65歳以上は高齢者の仲間入り。ご老人、お年寄り、このような言葉がぴったりの年齢になってしまいました。
主人との会話もつい、昔のことが多くなりました。また、物の名前がなかなか出てきませんので、あれをこうしてくれる?という、変な会話が通じあうようになりました。
田舎では、また彼岸の行事があります。親が亡くなったら、その実家に帰り、親をしのぶ行事です。
もっと簡素にできないものかといつも感じていましたが、とにかく何か行事があるごとに、食べたり飲んだりがついてきますので、女性にとっては厄介な行事です。
我が家は、それらを改革いたしました。主人と二人で、誰に何を言われようと、断固として、できないことはこの私たちの家から改善していこうと試みました。最初は、多くの非難を浴びましたが、今は、我が家とまでは行きませんが皆、私たちの考えに賛同する人が増え、今までの古いしきたりを変えて行こうとしているのがうかがえます。
何事も、最初に改革するには勇気がいります。でも、正しいと思ったことは、皆認めてくれるのですね。
なかなか難しいことですが、神様に祈りつつ、古い伝統から脱皮しようとしている私たちです。
お褒めを頂いて、主人は、ますます、俳句を練るときが長くなりました。
さっそく、出来立ての俳句をお送りいたします。
この谷は、かつて、棚田や花ススキ
山峡(やまかい)は、草刈りの見る女郎花(おみなえし)
蔓あがり安くなりをるブドウ買ふ
笛吹きの亡くなり淋し村祭り
岩壁を覆ひて葛の垂るるなり
アベリヤの匂ふ小道や朝散歩
萩の前少し休みて朝散歩 馬場路哉
9月29日
先ほど、水島(三造・元長老)さんの葬儀から帰ってきました。水島さんは私の父の上野緑ヶ丘教会の伝道に献身的に協力下さいました。その水島さんは奥様のおられるみ国へいかれました(92歳)。朝から、いろいろなことが思い出されて、神経が高ぶり、葬儀の間も心臓がどくどくしてきました。
讃美歌405番をうたいつつ、また天国で会う日まで、と願っていました。
神様がすべてのことを、取り計らってくださり、参列された方たちに何かを感じとっていただけたように思われてなりません。そう願っています。水島さんの葬儀は、静かに執り行われました。何年間も教会でお会いできなかった姉妹と再会することができ、教会のすみっこで、二人で、抱き合って再会できた喜びを感謝いたしました。
神様はこのように不思議な力で、人間ではどうしようもできないと考えていたことを、現実にしてくださいました。
復活を固く信じて、眠りけり
隣人の病になりて、夏終わる
宝石のちりばめるかの千草かな
ひたすらに穴を掘る犬、秋暑し
秋のセミ、これをかぎりと、鳴きにけり
コスモスの夢醸すかに揺るるなり
星月夜、いただく里へ、帰らばや 馬場路哉
教会では、受付で礼拝に来られる方を出迎えて下さっていました水島さんも、最後まで、俳句を作っておられたそうです。芭蕉祭の俳句の選者でもあられたので、かなりの方です。教会の壁に俳句を掲げて、読んでくださいといつも、言っておられました。懐かしい思い出になりました。
10月4日
10月に入りました。朝の散歩は、ずいぶんうす暗い中でのものとなりました。ススキが秋風に乗って、なびいています。いつの間にか、すっかり秋の景色に様変わりいたしました。
そちこちにもみ殻摘まれ、天高し
玉転ぶかのピアノ曲、秋澄みぬ
あばら家の裏に水引咲きをりぬ
とこしへの命説かれて天たかし
烏瓜、サツキの円を這いをりぬ
秋霖や、合羽をきたる道作り 馬場路哉
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
=註記=
伊賀市は、俳聖松尾芭蕉のふるさとです。旅に生き、旅に死んだ漂白の詩人、芭蕉翁は元禄7年10月12日、51歳で亡くなりました。その翌年から、伊賀上野では毎年、翁の遺徳を慕う者が集い、「しぐれ忌」が営まれてきました。
その余光を受け、昭和22年からわが国の詩歌史上に「俳諧」という庶民詩を確立した芭蕉翁の偉業を顕彰するため、「しぐれ忌」は「芭蕉祭」へと改められました。(インターネットより)
岡田 稔著
第二章 神について、また聖三位一体について
1 ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、最も賢く(13)、最もきよく(14)、最も自由(15)、最も絶対的で(16)、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い(17)、ご自身の栄光のために(18)、すべての物事を営み、最も愛(19)とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで(20)、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり(21)、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく(22)、すべての罪を憎み(23)、咎ある者を決してゆるさないおかたである(24)。
1 申命6:4、Ⅰコリント8:4,6
2 Ⅰテサロニケ1:9、エレミヤ10:10
3 ヨブ11:7-9、ヨブ26:14
4 ヨハネ4:24
5 Ⅰテモテ1:17
6 申命4:15(*)、ヨハネ4:24、ルカ24:39(**)
*申命4:15,16が正しい。 **ヨハネ4:24をルカ24:39と比較
7 行伝14:11,15
8 ヤコブ1:17、マラキ3:6
9 列王上8:27、エレミヤ23:23,24
10 詩90:2、Ⅰテモテ1:17
11 詩145:3
12 創世17:1、黙示4:8
13 ロマ16:27
14 イザヤ6:3、黙示4:8
15 詩115:3
16 出エジプト3:14
17 エペソ1:11
18 箴16:4、ロマ11:36
19 Ⅰヨハネ4:8,16
20 出エジプト34:6,7
21 ヘブル11:6
22 ネヘミヤ9:32,33
23 詩5:6,7(5,6)
24 ネヘミヤ1:2,3(*)、出エジプト34:7
*ナホム1:2,3が正しい。NahをNehと読み間違えたため生じた誤り。
一 これは神の定義である。その前半を注意深く読むと「なく」とか「できず」と言う文字が出ている。つまり「神とは何か」という問いに対して、わたしたちは、神とはこのようなものではない、と答えざるを得ない。いわゆる否定の道である。神は限りがない方、少しもまじりけのない霊、目には見えず、部分がなく、変化がなく、結局、人間の心では「こうだ」ととらえきれない方である。これをひと言で「有限は無限をとらえず」と、表現することが出来る。
「存在」と訳したのは、英語のビーイングである。「完全」の持ち主で「完全さ」は、その存在の属性である。すなわち、そのものに固有ないろいろの性質、特質を言う。神は本体(存在)そのものからみても、その本体(存在)の固有の性質からみても、無限の霊でいます。
霊とは、不可見で部分から成り立たない単一性を特質とする存在者であって、物質と異なるとともに人間性とも異なるものである。人間の魂は一種の霊であるが、それが身体と結合している時、純粋・至純の霊ではない。この純粋性・至純性は、罪に汚れた霊に対する聖を保持しているという意味で、「まじり気のない霊」という意味である。
改革派教会は、神の不可把握性を強調する。これは一方、合理主義に対する否定的主張であるとともに、不可知論、すなわち、神秘主義のいう神知識の否定とは異なる主張である。わたしたちは、神は知ることの出来る神、いな、知らなければならない神であると主張する。もちろんそれは、神が自己をわたしたちに啓示されることによってのみ、知ることが出来るのである。とにかく神は自啓者であって、人間に自己を知らさしめる神である。
同時に、わたしたちは神の全貌を、一時にすっかり知ることの出来る立場には置かれていない。わたしたちの神知識は常に部分的で、また、不徹底である。神が知らせてくださる程度においてのみ知ることが出来るのである。この神知識の不完全性は、実に神の自己認識の完全性と表裏をなしている。神は神を常に完全に知っておられる。
そのために、わたしたちは神を常にとらええない。神も人間も同様に、神を知りえない、というのは不可知論であり、神のように人間も神を知りえるというのが合理主義である。前者は神の存在の無限性を認めつつ、その知識の無限性を否定する。後者は神の知識の無限性を認めつつ、その存在の無限性を否定する結果に陥っている。わたしたちは、神の存在と知識の無限性を認め、そして、人間の知識の無限性を否定するのである。
さて、本項の後半は、積極的に神とはいかなる方であるかを記しているが、それは、いわゆる形而上学的属性と道徳的属性とを包含した行き届いた敘述であって、前者は絶対者、後者は人格としてこれを要約することが出来よう。すなわち、神は絶対的人格、人格的絶対者であられる。絶対という点は、神の自由、自己の意志決定のみによって行為し、他のどのような指図も強制も感化も援助も受けられないこと、人格という点では、厳正公平な審判者ということにおいて代表されている。
2 神は、ご自身のうちに、おんみずからすべての命(1)、栄光(2)、善(3)、祝福(4)をもっておられ、ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず(5)、それらから何の栄光を得てくることもなく(6)、ただご自身の栄光を、それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表わされる。彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって成り、彼に帰する(7)。彼は、ご自身よしとされることを何事でも、万物によって、万物のために、万物の上に行なうために、万物を最も主権的に支配される(8)。彼の目には万物も歴然とあらわであり(9)、彼の知識は無限無謬(むびゅう)で、被造物に依存しないので(10)、何ひとつとして、彼には偶然や不確かなものがない(11)。彼は、そのすべての計画、すべてのみわざ、すべての命令において最もきよい(12)。彼には、み使、人間、その他あらゆる被造物に彼が要求することをよしとされるどのような礼拝・奉仕・服従も、当然払われなければならない(13)。
1 ヨハネ5:26
2 行伝7:2
3 詩119:68
4 Ⅰテモテ6:15、ロマ9:5
5 行伝17:24,25
6 ヨブ22:2,3
7 ロマ11:36
8 黙示4:11、Ⅰテモテ6:15、ダニエル4:25,35(22,32)
9 ヘブル4:13
10 ロマ11:33,34、詩147:5。
11 行伝15:18、エゼキエル11:5
12 詩145:17、ロマ7:12
13 黙示5:12-14
二 この項は一見、一項と重複し、並列している感がなくはないが、一方、重点的に聖書の神が、哲学や諸宗教の人間的神観念と異なる点について詳述し、明瞭に主張するとともに、他方、被造物との対他関係という側面から規定している。この点で一項は主として神を神自身に即して対自的に規定しているという相違がわかる。
ここで数え上げている点を列記すると、
1 神は善きものに満ち足りる方であること。
2 そのために、充足者であって他の何ものをも必要とはなさらないこと。
3 のみならず、他の一切のものの根源であられるから、他のものはすべて神なくしては 存在しえず、神によってのみ、すべては存在しえること。
4 従って、神は万物への支配権、統治権、所有権を持たれる主権者であること。
5 神は全知全能であるから、一切の事柄を予知し、予定し、偶然も不確かさもなく、万事を一つも誤ることなく計画し命令されること。
6 神はこのような至上者であるから、天使も人間もこの神に対して、あらゆる崇拝と奉仕と服従とを捧げるべきであること。
3 神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である(1)。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる(2)。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る(3)。
1 Ⅰヨハネ5:7、マタイ3:16,17、マタイ28:19、Ⅱコリント13:13(*)
*欽定訳はⅡコリント13:14
2 ヨハネ1:14,18
3 ヨハネ15:26、ガラテヤ4:6
三 これは神の聖三一性について告白されている全部である。あの有名な大真理は実にこの数行に言いあらわされている。
三一性の教理は、まさに神秘中の神秘であって、神ただ一人のみの事実であり、他のいかなる被造物にも全くその片りんさえもないと言うのが正しい。いわば、これは唯一の神の内部構造である。神は唯一であるということを少しも修正することなく、神は三一であると言わなければならない。三一性は唯一性と何ら矛盾するものではない。すなわち、一つの本質にある三人格である。父と子とみ霊とは唯一の神でいます。しかも、父には父の、子には子の、み霊にはみ霊と、それぞれの人格的特質があって、父を子及びみ霊と区別し、み霊を父及び子と区別している。
この人格的区別をなす各人格の特質が「み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る」と、言われている。
それは、すべて永遠的区別である。子を生まない父、父と子より霊が出ない時代と言うようなことはありえない。従ってこの用語は、三人格の本質やとからや栄光についての順位、等差を示すものではなく、どこまでも三者は、平等・等位である。ただ、それは一つの永遠的秩序であり、その順位は主として、働き職務に関して表された順位である。
この意味で、わたしたちは単なるエコノミカル(経倫的)な三一論を排除すると共に、職務的等位論をも否定する。三位一体は本質における三位一体であり、従属は職域における差別であり順列である。
<結び>
聖書の神は、神ご自身において、わたしたちの把握を超越する絶対人格であられ、世界との関係についても、絶対主権者であり、自らの内に、神秘な三一性を持つ無比な唯一神である。ここから、この神を他にして神はなく、この神のみが礼拝と祈祷と讃美の対象ででなければならないのである。
・・・・・・・・・・・・
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
『旧・新約婦人物語研究』 (38)
信仰に生きたおばあさん
ロイス
=テモテへの第二手紙=
「また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起こしている。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿っていると、わたしは確信している」(Ⅱテモテ1:5)。
「御言を宣べ伝えなさい。時がよくても悪くても、それに励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(4:2)。
キリスト教信仰のためにローマに送られ、間もなく殉教の死を迎えなければならない大使徒パウロは、死に臨み、愛する若い弟子テモテに手紙を送り、このような言葉をもって、彼の信仰を励まし、彼の大きな使命をもう一度思い起こさせようと、こんこんと説いています。使徒パウロのこの言葉によって、パウロのテモテに対する気持がよくわかるばかりでなく、祖母ロイスや母ユニケに対する彼の考えがよくわかると思います。
今日の日本と同じように、この地方でも、この頃は三代にわたるクリスチャンの家庭は非常に少なかったのであります。パウロはそのような意味で、テモテの家庭環境をいくぶんうらやましく感じていたかも知れません。なぜかと言えば、パウロはご存知の通り、エルサレムからダマスコへの道すがら、直接、よみがえりの主イエス・キリストにお目にかかったことにより、キリスト教信仰に導かれました。従って、彼は彼自身の父母からキリスト教信仰について、暖かい導きを受けていないのです。けれども、テモテは幸いにも、幼い子供の時から暖かく祖母や母の信仰に導かれて成長したようです。彼は本当に幸福な環境にあったわけであります。
「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(3:15)と、パウロが書いている通りです。
この三代目のクリスチャン・テモテの持っていた偽りなき信仰は、もちろん主なる神様に導かれ、与えられたものでありますが、おばあさんのロイスと、お母さんのユニケから引き継がれたものであることを、ここでパウロが強調していることに注意して下さい。
先ずここで、非常にわたしたちが教えられますことは、祖母や母たちといった、家族の年長者の方々の信仰が、どんなに早くしかも確実に、子や孫に伝わるかということです。言葉をかえて言えば、祖母や母の信仰が如何に大きな影響を、彼らの子供に及ぼすかという点であります。
これは良い例ですが、悪い例、悪い影響はこれに反比例して、更に恐ろしいものがあります。一つの例を申しますと、子供たちのつまらない迷信や、間違った偶像崇拝は、実際、どこから彼らが知り、覚えたものでしょうか? それは多くの場合、おばあさんやお母さんたちの迷信からくるもので、最近はやりの「OO祭」と言った、氏神の祭りなどでつくづくそのことを感じさせられています。神輿をかついで騒ぎまわるのは、もちろんおばあさんやお母さんではありませんが、この習慣を生かしているのは、これらの女性たちではないでしょうか。
また、三つか四つの小さい男の子や女の子に厚化粧をさせ、一日中、お宮さんの稚児行列に連れ歩いておられる場面に出会います。疲れ切った子供が、母の胸に頭をもたせ掛け、「かなわんな!」といった姿を、皆様も見かけるでしょう。七五三のお祝いだといって、子供を身分不相応に着飾らせ、神社へ連れて行くのは誰でしょう。お母さんやおばあさんですね。
このような雰囲気と環境の中で育てられてまいります日本の子供たちが、どうして生ける真の神を知ることができましょうか? それに引きかえ、テモテのおばあさんのロイスの信仰は実に立派で、素晴らしいものでありました。このロイスは何時、クリスチャンになったか、はっきりわかりません。しかしある聖書学者は、それはきっとパウロの第一回伝道旅行のとき、小アジアのルステラで、彼が伝道した時ではないかと申します。使徒行伝14章8節以下をお読みになりますと、その時のパウロの伝道と苦難の模様が、詳しく書かれています。
パウロの熱心な説教を聞いた人々の内、ユダヤ教の人たちが大変憤り、群衆を仲間に引き入れて、パウロを石で打つという事件が突発いたしました。石で打たれたパウロが死んでしまったと彼らは思い込み、町の外へ引きずり出して、そこに放り出してしまいました。けれども、パウロは間もなく息を吹き返し、立ち上がってまた町に入って行きました。翌日、パウロはバルナバと一緒に、他の町へ伝道に行きました。
このルステラの町は、ロイスとユニケが住んでいた町ですから、きっと、彼女たちはこの時のひどい迫害と、パウロの苦難を目の当たりに目撃して、パウロの信仰の真剣さに感動させられ、感激したことと思います。彼女らの信仰は、この迫害によってきたえられ、ちょうどアイロンが電気によって熱くなるように、彼女らの信仰は苦難によって熱せられ、あのかたい信仰にまで進んだことと想像いたします。
また、ロイスは、この苦難を通してきたえられ、つちかわれた何ものにもかえがたいキリスト教信仰を、また幼い孫テモテの心に、子供の頃から注ぎ入れられたと存じます。聖書のみ言葉を、ロイスは彼女の生活の土台としたのです。この美しい信仰生活にこそ、テモテのような美しい信仰の実が、結ばれる結果となったのであります。
このような信仰厚く、立派なクリスチャンのおばあさんが、ただ今の日本の国に、どれ程いらっしゃるでしょうか? もし立派な国民を作りたいという皆様がお望みでしたら、おじいさんやおばあさんの教育から始めなければならないと思います。その方々が何よりも先ず、偶像を捨てて、真の神に立ち返るために、主イエス・キリストを信じることです。
日本がキリストの国とされるためには、またそこまで導かれるためには、偽りなき真の信仰を持つおばあさんを、第一に必要といたします。
どうか、日本のすべてのロイスさんたち、間違った迷信や、誤った偶像をすっかり捨てて、真の神様に立ち返って下さい。そして、あなたのご家族の皆さんが一人残らず、主イエス・キリストに導かれますように、心から祈ってやみません。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
信仰に生きたおばあさん
ロイス
=テモテへの第二手紙=
「また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起こしている。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿っていると、わたしは確信している」(Ⅱテモテ1:5)。
「御言を宣べ伝えなさい。時がよくても悪くても、それに励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(4:2)。
キリスト教信仰のためにローマに送られ、間もなく殉教の死を迎えなければならない大使徒パウロは、死に臨み、愛する若い弟子テモテに手紙を送り、このような言葉をもって、彼の信仰を励まし、彼の大きな使命をもう一度思い起こさせようと、こんこんと説いています。使徒パウロのこの言葉によって、パウロのテモテに対する気持がよくわかるばかりでなく、祖母ロイスや母ユニケに対する彼の考えがよくわかると思います。
今日の日本と同じように、この地方でも、この頃は三代にわたるクリスチャンの家庭は非常に少なかったのであります。パウロはそのような意味で、テモテの家庭環境をいくぶんうらやましく感じていたかも知れません。なぜかと言えば、パウロはご存知の通り、エルサレムからダマスコへの道すがら、直接、よみがえりの主イエス・キリストにお目にかかったことにより、キリスト教信仰に導かれました。従って、彼は彼自身の父母からキリスト教信仰について、暖かい導きを受けていないのです。けれども、テモテは幸いにも、幼い子供の時から暖かく祖母や母の信仰に導かれて成長したようです。彼は本当に幸福な環境にあったわけであります。
「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(3:15)と、パウロが書いている通りです。
この三代目のクリスチャン・テモテの持っていた偽りなき信仰は、もちろん主なる神様に導かれ、与えられたものでありますが、おばあさんのロイスと、お母さんのユニケから引き継がれたものであることを、ここでパウロが強調していることに注意して下さい。
先ずここで、非常にわたしたちが教えられますことは、祖母や母たちといった、家族の年長者の方々の信仰が、どんなに早くしかも確実に、子や孫に伝わるかということです。言葉をかえて言えば、祖母や母の信仰が如何に大きな影響を、彼らの子供に及ぼすかという点であります。
これは良い例ですが、悪い例、悪い影響はこれに反比例して、更に恐ろしいものがあります。一つの例を申しますと、子供たちのつまらない迷信や、間違った偶像崇拝は、実際、どこから彼らが知り、覚えたものでしょうか? それは多くの場合、おばあさんやお母さんたちの迷信からくるもので、最近はやりの「OO祭」と言った、氏神の祭りなどでつくづくそのことを感じさせられています。神輿をかついで騒ぎまわるのは、もちろんおばあさんやお母さんではありませんが、この習慣を生かしているのは、これらの女性たちではないでしょうか。
また、三つか四つの小さい男の子や女の子に厚化粧をさせ、一日中、お宮さんの稚児行列に連れ歩いておられる場面に出会います。疲れ切った子供が、母の胸に頭をもたせ掛け、「かなわんな!」といった姿を、皆様も見かけるでしょう。七五三のお祝いだといって、子供を身分不相応に着飾らせ、神社へ連れて行くのは誰でしょう。お母さんやおばあさんですね。
このような雰囲気と環境の中で育てられてまいります日本の子供たちが、どうして生ける真の神を知ることができましょうか? それに引きかえ、テモテのおばあさんのロイスの信仰は実に立派で、素晴らしいものでありました。このロイスは何時、クリスチャンになったか、はっきりわかりません。しかしある聖書学者は、それはきっとパウロの第一回伝道旅行のとき、小アジアのルステラで、彼が伝道した時ではないかと申します。使徒行伝14章8節以下をお読みになりますと、その時のパウロの伝道と苦難の模様が、詳しく書かれています。
パウロの熱心な説教を聞いた人々の内、ユダヤ教の人たちが大変憤り、群衆を仲間に引き入れて、パウロを石で打つという事件が突発いたしました。石で打たれたパウロが死んでしまったと彼らは思い込み、町の外へ引きずり出して、そこに放り出してしまいました。けれども、パウロは間もなく息を吹き返し、立ち上がってまた町に入って行きました。翌日、パウロはバルナバと一緒に、他の町へ伝道に行きました。
このルステラの町は、ロイスとユニケが住んでいた町ですから、きっと、彼女たちはこの時のひどい迫害と、パウロの苦難を目の当たりに目撃して、パウロの信仰の真剣さに感動させられ、感激したことと思います。彼女らの信仰は、この迫害によってきたえられ、ちょうどアイロンが電気によって熱くなるように、彼女らの信仰は苦難によって熱せられ、あのかたい信仰にまで進んだことと想像いたします。
また、ロイスは、この苦難を通してきたえられ、つちかわれた何ものにもかえがたいキリスト教信仰を、また幼い孫テモテの心に、子供の頃から注ぎ入れられたと存じます。聖書のみ言葉を、ロイスは彼女の生活の土台としたのです。この美しい信仰生活にこそ、テモテのような美しい信仰の実が、結ばれる結果となったのであります。
このような信仰厚く、立派なクリスチャンのおばあさんが、ただ今の日本の国に、どれ程いらっしゃるでしょうか? もし立派な国民を作りたいという皆様がお望みでしたら、おじいさんやおばあさんの教育から始めなければならないと思います。その方々が何よりも先ず、偶像を捨てて、真の神に立ち返るために、主イエス・キリストを信じることです。
日本がキリストの国とされるためには、またそこまで導かれるためには、偽りなき真の信仰を持つおばあさんを、第一に必要といたします。
どうか、日本のすべてのロイスさんたち、間違った迷信や、誤った偶像をすっかり捨てて、真の神様に立ち返って下さい。そして、あなたのご家族の皆さんが一人残らず、主イエス・キリストに導かれますように、心から祈ってやみません。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (21) 遠山良作 著
戦犯裁判は続く
9月5日
第8回目の裁判は山脇一二三憲兵曹長に対する拷問致死事件で死刑の判決であった。
9月15日はタボイ警備隊情報係、林善人大尉に対する判決で7年の有期刑があった。事件の概要は反乱ビルマ軍の関係者数名を逮捕し、部隊長の命令でビルマ警察署にこの犯人を処刑させた事件である。
9月25日
10回目の裁判である。藤森嵯憲兵准将と橋本幸男憲兵軍曹たちの判決があった。事件の内容は犯人を取調べ中に拷問したとの理由である。起訴状の内容が事実と違って針小棒大であったが、死刑になるような内容ではない。もし検察側の証人が法廷で如何なる証言をするか計り難いので、起訴状をそのまま認めたほうが良いのではないか、との弁護士の助言があった。本人たちも弁護士の言葉に従うことにした。その翌日判決があり、結果は二名とも3年の刑であった。事実行わなかった行為であっても、認めなければならない裁判が戦犯裁判である。
10月1日
当房寿憲兵軍曹にたいする拷問事件である。偽りと虚偽でつづられた起訴状の内容であった。この事件も弁護士の助言もあり、開廷と同時に「有罪」と答え、起訴状をそのまま認めた。今度は10年の判決であった。拷問事件としては今までにない重い刑である。
英軍軍事法廷は、如何なる行為が重いのか、軽いのか、裁判に臨んでその対策は皆無である。
10月20日
-死刑囚の一日―
死刑判決を受けて減刑になった者は未だ一人もいない死刑の判決を受けてこの独房にいる友は現在5人いる。やがて絞首台におくられるのであろう。
愛する祖国のために、父母や妻子と別れて、南国ビルマの最前戦で命をかけて戦って来たが、ついに敗れ、敗戦を迎えたのである。戦いが終わったならば当然祖国日本に帰れると思っていたのに、待っていたのは、刑務所であり、裁判と断頭台であるとは、誰が予想したでしょうか。しかしこの悲劇を敗戦国民が担うのは当然の運命として受け止め、今日一日を正しく生きようとしている友の姿を目のあたりに見ると痛々しく、慰める言葉を知らない。
限られた狭い獄庭で一日僅か十分位赦される運動の時間を黙々と走り者、或いは監視兵に隠れて自分の思いを遺書として書き残そうとしている友の姿を見る。
生きられる 日はあと幾日と 数えつつ 遺書かく君は 死刑囚なり
毎日毎日降り続く雨の庭を褌一つになって、裸足で走る大西軍医(死刑囚)の足取りは軽い。
「大西さん、あんたの走りぷりは素人の私が見ても見事だね。随分走った足のように見えますがね」
「うん私は四国の金比羅さんのある琴平町から、五里もある山奥で生まれたので、小学校へ通学するために毎日駆け足で通学したし、国体でも二位に入賞したこともありました。」と走り続ける大西軍医、何日処刑されるか分からないにも拘わらず最後まで身体を鍛える。
獄庭を フンドシ一つで かけている 死刑囚の友 雨降る中を
死刑囚松岡大尉は日記に、「死の予期者は、現在をどんな風に考えているだろうかとは、誰しも疑問に思っているだろう。私は真実のことをいうと、死に就いて深く考えていない・・・。私の生命の鍵を握る者に、延命を乞う気持は全くない。私の生命は木の葉が落ちるのと少しも変わらない。太陽が西に沈むのと少しも変わらないと私は思う。絞首台に登れと言われた時に堂々と登り、そして呼吸が止まり、心臓が停止した時が、私が天から与えられた生命の終わりであると考えている。
私には今一日のたつのが非常に早く感じられる。修養のために一分、一秒でも惜しい現在 の私なのだ・・・。中略・・・。私の肉体は亡ぶ、これは自然の法則だ。木の葉が落ち花は散る。これも自然である・・・。自然は美しい、自然は清い。自然はやさしい、自然は強い、この数日、私は、自然を眺めよう、自然に帰ろう、そしてまた御奉公するのだ、御恩に報いるのだ、ああ私は幸福だ」と書いている(原文のまま)。
尽せども 尚励めども 吾がつとめ 果せることの なかりけるかな
明日ありと 思うな今日の このときを 空しく過ごさじ 明日はまた明日
松岡憲郎作
自分の運命を達観しつつ、最後の日まで、自己を磨こうと努めている死を待つ友の姿を見る。
「註」 判決の確定は、判決後その書類はシンガポールの英軍司令部に送られ、書類審査を行い確定される。その間二ヶ月位の期間がある。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (21) 遠山良作 著
戦犯裁判は続く
9月5日
第8回目の裁判は山脇一二三憲兵曹長に対する拷問致死事件で死刑の判決であった。
9月15日はタボイ警備隊情報係、林善人大尉に対する判決で7年の有期刑があった。事件の概要は反乱ビルマ軍の関係者数名を逮捕し、部隊長の命令でビルマ警察署にこの犯人を処刑させた事件である。
9月25日
10回目の裁判である。藤森嵯憲兵准将と橋本幸男憲兵軍曹たちの判決があった。事件の内容は犯人を取調べ中に拷問したとの理由である。起訴状の内容が事実と違って針小棒大であったが、死刑になるような内容ではない。もし検察側の証人が法廷で如何なる証言をするか計り難いので、起訴状をそのまま認めたほうが良いのではないか、との弁護士の助言があった。本人たちも弁護士の言葉に従うことにした。その翌日判決があり、結果は二名とも3年の刑であった。事実行わなかった行為であっても、認めなければならない裁判が戦犯裁判である。
10月1日
当房寿憲兵軍曹にたいする拷問事件である。偽りと虚偽でつづられた起訴状の内容であった。この事件も弁護士の助言もあり、開廷と同時に「有罪」と答え、起訴状をそのまま認めた。今度は10年の判決であった。拷問事件としては今までにない重い刑である。
英軍軍事法廷は、如何なる行為が重いのか、軽いのか、裁判に臨んでその対策は皆無である。
10月20日
-死刑囚の一日―
死刑判決を受けて減刑になった者は未だ一人もいない死刑の判決を受けてこの独房にいる友は現在5人いる。やがて絞首台におくられるのであろう。
愛する祖国のために、父母や妻子と別れて、南国ビルマの最前戦で命をかけて戦って来たが、ついに敗れ、敗戦を迎えたのである。戦いが終わったならば当然祖国日本に帰れると思っていたのに、待っていたのは、刑務所であり、裁判と断頭台であるとは、誰が予想したでしょうか。しかしこの悲劇を敗戦国民が担うのは当然の運命として受け止め、今日一日を正しく生きようとしている友の姿を目のあたりに見ると痛々しく、慰める言葉を知らない。
限られた狭い獄庭で一日僅か十分位赦される運動の時間を黙々と走り者、或いは監視兵に隠れて自分の思いを遺書として書き残そうとしている友の姿を見る。
生きられる 日はあと幾日と 数えつつ 遺書かく君は 死刑囚なり
毎日毎日降り続く雨の庭を褌一つになって、裸足で走る大西軍医(死刑囚)の足取りは軽い。
「大西さん、あんたの走りぷりは素人の私が見ても見事だね。随分走った足のように見えますがね」
「うん私は四国の金比羅さんのある琴平町から、五里もある山奥で生まれたので、小学校へ通学するために毎日駆け足で通学したし、国体でも二位に入賞したこともありました。」と走り続ける大西軍医、何日処刑されるか分からないにも拘わらず最後まで身体を鍛える。
獄庭を フンドシ一つで かけている 死刑囚の友 雨降る中を
死刑囚松岡大尉は日記に、「死の予期者は、現在をどんな風に考えているだろうかとは、誰しも疑問に思っているだろう。私は真実のことをいうと、死に就いて深く考えていない・・・。私の生命の鍵を握る者に、延命を乞う気持は全くない。私の生命は木の葉が落ちるのと少しも変わらない。太陽が西に沈むのと少しも変わらないと私は思う。絞首台に登れと言われた時に堂々と登り、そして呼吸が止まり、心臓が停止した時が、私が天から与えられた生命の終わりであると考えている。
私には今一日のたつのが非常に早く感じられる。修養のために一分、一秒でも惜しい現在 の私なのだ・・・。中略・・・。私の肉体は亡ぶ、これは自然の法則だ。木の葉が落ち花は散る。これも自然である・・・。自然は美しい、自然は清い。自然はやさしい、自然は強い、この数日、私は、自然を眺めよう、自然に帰ろう、そしてまた御奉公するのだ、御恩に報いるのだ、ああ私は幸福だ」と書いている(原文のまま)。
尽せども 尚励めども 吾がつとめ 果せることの なかりけるかな
明日ありと 思うな今日の このときを 空しく過ごさじ 明日はまた明日
松岡憲郎作
自分の運命を達観しつつ、最後の日まで、自己を磨こうと努めている死を待つ友の姿を見る。
「註」 判決の確定は、判決後その書類はシンガポールの英軍司令部に送られ、書類審査を行い確定される。その間二ヶ月位の期間がある。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ことわざに、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言うのがあります。それは、窮地に陥った場合、自分の命は捨てたつもりになって思い切ってやれば、予想外の活路が開けると言うこと、言い換えれば、物事は、わが身を犠牲にする覚悟があってこそ成功するのであるということを言っているのであります。似たような言葉に「清水の舞台から飛び降りる」というのがあります。これは、死んだつもりになって決断することを言うのでありまして、非常な決意でもって思い切って物事を実行することのたとえとして使われています。
ただし、これには「浮かぶ瀬もあれ」と言う言葉に含まれているような、ある程度の見通しや期待があるわけではありませんから、成功の確率は100%か0%かのどちらかでありまして、一種の賭けであります。
こういうことわざとの比較で言いますと、キリストは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と言われています。
ここでも「自分を捨てる」ことが勧められていますが、この「自分を捨てる」ということがなかなか出来ません。それは、自分という者が、自分を支えている一番確かな拠り所となっているからです。
一方、その自分が危なくなった場合には「溺れる者は藁をも掴む」と言われていますが、掴むものが「藁」では命の保障はできません。それと比較して言いますと、キリストは、キリストに従う者には、確実に、キリストに従う者に与えられる命が約束されているのだから、自分を捨てなさい、と勧められているのであります。
「自分を捨てる」ということも、自分を自分で生かすよりも確かに遥かに自分を生かすものがあるのだから、自分を命の拠り所としているのではなく、また自分にしがみついていないで、自分の計らいを捨ててわたしに従いなさい、というのが、キリストの勧めでありまして、この勧めに従うことがあなたを本当に生かす道であると言うのが聖書の語っていることであります。
(参照聖句・マタイ16:25)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
11月 ラジオ説教予定
4日 小野 経男 (岐阜済美学院 学院長)
11日 笠井 恵二 (岐阜済美学院 宗教総主事)
18日 志村 真 (中部学院大学短期大学部 宗教主事)
25日 西島麻里子 (済美高等学校 宗教主事)
「キリストへの時間」放送予定
(放送開始1952年10月)
「ローマ人への手紙」研究 (95)
第56課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (7)
「もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、枝もきよい」。(11:16)
ここで、同じ真理を教えている二つの著名な言葉を見ましょう。麦粉の初穂というのは、主への献物として捧げられた、こねた小麦粉です。(民数記15:21「あなたがたは代々その麦粉の初物で、主にささげ物をしなければならない」。)麦粉の初穂をささげることは、人々の食料としてもちいられるその残りの麦粉を聖別することになります。「根」というのはそれから成長と生命が出てくる木の部分を指しています。
根が枝を養い支えるのです。最初に、枝がある前に、根がなくてはならないのです。ここで「起原」、「初めの部分」を意味するものとして「根」が採り上げられているのです。明らかに、ここでは「根」と「初穂」とは同意に用いられています。ここの論旨は、「かたまり全体は初穂の性質をもっているものであり、枝は根の性質を留めているのである」ということです。
ここで、「根」とか「初穂」とかは、何が意味されているのでしょうか。ある人たちは、初穂と根とはキリスト教会の根となったキリスト教に改宗した際、初穂のユダヤ人たちを意味するとしました。しかし、もっと良い見解は、初穂と根はアブラハム及びイサク、ヤコブなどの族長であるとするものです。この見解は、前の見解よりも文脈に適合していることは明らかです。
パウロは今ここでユダヤ人はキリストに回心すると論じているのです。彼の論旨は、ユダヤ人はその先祖である聖なるアブラハムとの関係の故に、ある意味において聖いと言うのです。
次に「かたまり」と「枝」とは何を意味するのでしょうか。この箇所におけるパウロの論旨に適合する唯一の見解は、それらが「集団としてのユダヤ人」を意味するとするものです。従って、パウロの論旨は「族長としてのアブラハムは聖である故に、ユダヤ人も集団的に聖いのである」ということです。かたまりは初穂のきよい性質に与っており、枝は根のきよい性質に与っているからです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第56課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (7)
「もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、枝もきよい」。(11:16)
ここで、同じ真理を教えている二つの著名な言葉を見ましょう。麦粉の初穂というのは、主への献物として捧げられた、こねた小麦粉です。(民数記15:21「あなたがたは代々その麦粉の初物で、主にささげ物をしなければならない」。)麦粉の初穂をささげることは、人々の食料としてもちいられるその残りの麦粉を聖別することになります。「根」というのはそれから成長と生命が出てくる木の部分を指しています。
根が枝を養い支えるのです。最初に、枝がある前に、根がなくてはならないのです。ここで「起原」、「初めの部分」を意味するものとして「根」が採り上げられているのです。明らかに、ここでは「根」と「初穂」とは同意に用いられています。ここの論旨は、「かたまり全体は初穂の性質をもっているものであり、枝は根の性質を留めているのである」ということです。
ここで、「根」とか「初穂」とかは、何が意味されているのでしょうか。ある人たちは、初穂と根とはキリスト教会の根となったキリスト教に改宗した際、初穂のユダヤ人たちを意味するとしました。しかし、もっと良い見解は、初穂と根はアブラハム及びイサク、ヤコブなどの族長であるとするものです。この見解は、前の見解よりも文脈に適合していることは明らかです。
パウロは今ここでユダヤ人はキリストに回心すると論じているのです。彼の論旨は、ユダヤ人はその先祖である聖なるアブラハムとの関係の故に、ある意味において聖いと言うのです。
次に「かたまり」と「枝」とは何を意味するのでしょうか。この箇所におけるパウロの論旨に適合する唯一の見解は、それらが「集団としてのユダヤ人」を意味するとするものです。従って、パウロの論旨は「族長としてのアブラハムは聖である故に、ユダヤ人も集団的に聖いのである」ということです。かたまりは初穂のきよい性質に与っており、枝は根のきよい性質に与っているからです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円