2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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その愛のゆえに
=時々の記=
(30)
7月10日
今日は、山添村の「元気で歩こう会」が主催する、山(小山)を歩く行事に、主人は、ステッキをつきながら、参加しています。無理をしないように、と言って送り出しましたが、無事に帰るまで少し心配です。皆についていけなくなったら考えて、休むことでしょう。大人なのですから。
七夕の 半ば晴れたる 嬉しさよ
ゴルフ場 七夕竹に 願い吊る 馬場路哉
外は、曇り空ですが、湿度が高く、とても蒸し暑くかんじられます。そろそろ、夏本番ですね。今年も、クーラーを使わないで、過ごせたらありがたいのですが・・・。くれぐれも、熱中症には気をつけて、お過ごしください。
「元気で歩こう会」は、無事に帰ってきました。ほっとしました。真っ黒に日焼けして少し健康的に見えます。急救車で運ばれていないかとか、一日落ち着かない時を過ごしました。やれやれです。私は、家で、ごろごろしているのが大好きなので、こんなに、正反対な夫婦もめずらしいかもとあきらめています。その主人に草刈機の使い方を昨日、教えてもらいました。斜面が多い我が家は、今の主人の足では、踏ん張ることは無理です。ですから、生まれて初めての草刈機にチャレンジということになりました。横で指導してもらいながら、なんとか30分続けられました。村の人たちは、草を刈った跡を見て、暁美さんが刈ったのか?と尋ねてきます。なぜ、わかるのと聞くと、ふふふと笑って、虎刈りやなあーですって。悔しいので、今朝もう一度、トライしてみました。やはり、習うより慣れろですね。自分でも、少し上達したのがわかりました。隣のおばさんが、上手になったなとほめてくれました。
でも、変に力みすぎて、腕が、ガクガクしています。もう少し練習して、力を入れすぎないようになれば、認めてもらえるかなあ・・・。大変な夏の草刈機との戦いになりそうです。教会のメールボックスに8月3日、犬山教会で、鈴木雅明先生のオルガンコンサートの案内が届いていました。行きたい想いに駆られます。でも、少し、遠くて、むりです。我慢しておきます。
7月16日
竹の穂の 緩やかに揺れ 夕涼し
半時(はんとき)や 夏の呉豪雨の 晴れあがる
不意に 来てすぐに消えたる 揚げ羽かな
葛と篠 競いおるなり 国境 馬場路哉
やっと下手ながら家の周りの斜面の草刈を終える事ができました。隣のおばあさんが、ようやったなあ、とねぎらってくれました。あんたのその気力に感心するで、とまで言ってくれました。汗でびっしょりになりましたが、すがすがしい思いになりました。やればできることがこの私にもあるのだと。
7月21日
この暑さ、夜も熱帯夜が続き寝苦しい日々が体力を消耗させます。さすがに、草刈の影響で、先週は何もする気力が出ませんでした。年をとると、疲れが後になって、出てくるのですね。これからは、自分の体力にあった、仕事を見つけていかなければと考えています。また、そして、一日一日神様の恵みに感謝できるようになりたいですね。先のことを考え過ぎないこと。また、起こってしまったことにくよくよしないようになりたいものです。信仰の弱さ、揺れ動く感情、このような者ですが、神様を見上げて、希望を持ち続けて、歩みたいものです。
伊賀の山 従えるかや 雲の嶺
しっかりと 塩を効かすや ナスを揉む
梅雨明けや 雀遊べる にわたずみ 馬場路哉
7月26日
日を追う毎に暑さが増してきています。自分の体がどこか悪いのではと思われるほど、気力ダウンです。最近になって、メールの便利さ、楽しみがわかってきました。どこかへ行かなくても、励ましあい、今の想いを伝えることができるのですから。
見るほどに 白きが伸びて 雲の峰
そよぎをる 木ぎを洩るるや 晩夏光 馬場路哉
明日の日曜日、教会はとても暑いので、氷を持って頭を冷やして行こうと考えています。暑さが少しでも衰えて欲しいものです。
8月1日
いよいよ8月です。暑さが、少しは衰えてくれるとよいのですが・・・・。
初なりの 小粒トマトや 朝の卓
油虫 滑り落ちたる 石の角
異なれる 蝉の音色や 夕餉とる 馬場路哉
8月6日
御言葉に じっと聴き入る 大暑かな
今年竹 均斉とれて 枝伸ばす
早暁の 夏空高く 鳥の飛ぶ
裏戸より 風を招きて 夏山家
ヒグラシや 新しき日を 与えらる 馬場路哉
8月12日
こちらは、まだ暑さが続いています。記録的な猛暑です。村の盆の行事の一つ、井戸替え、墓の草刈なども終わりました。田舎の付き合いは、主人がいなくなったら、とてもできない、と独りでぼやきながら、でも、顔には、微笑みをうかべて・・・。私って二重人格?なんて、思いながら・・・。
大汗の 引けるがままに 休むなり
万緑や 白鷺(さぎ)一羽 渡りたる
井戸替えや 猪(しし)に水路を 荒らされて 馬場路哉
雨が降って欲しいです。井戸の水もずいぶん減っていました。重い石を井戸の中に入って、きれいに水で洗い流します。そうしておかないと、土が水路をふさいでしまうそうです。主人の代わりに手伝いましたが、いまだに、胸が痛むほど重い石でした。弱い者は、田舎で生きていくのはとても大変です。小さいころから鍛えられ方が違うのですね。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
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水篶刈だより
…7…
信州の郷土食の一つに「おやき」があります。信州で母の味と言ったら、「おやき」を連想する人が多いでしょう。普段はお店から買ってきて食べることが多いのですが、私の実家ではお盆の時期になると、母はいつも手作りの「おやき」をご先祖様に供えています。嫁いで20年以上経った今でも、私は母の作った「おやき」を食べたいと思うことがしばしばあります。私も母に倣って、「おやき」を作りますが、母のものに比べると、皮が堅かったり、具をうまく包めなかったりで、満足するような「おやき」は未だに作ることができません。
「おやき」ってどんな食べ物なの?と思われる方もおられると思いますので、ちょっと説明しましょう。まず、小麦粉にぬるま湯を加え、生地がなめらかになるまでよく混ぜ合わせ、1~2時間ねかせて皮を用意します。野菜の具をこの皮に包んで、蒸したり、いろり(今はフライパン)で焼いたりします。仕上げの方法はそれぞれの地域によって特色があります。具になるのは丸ナスが多いのですが、野沢菜、切り干し大根、かぼちゃ、あんこなどを入れたものをお店では売っています。
私が母に倣って作る「おやき」は、丸ナスを4つくらいに輪切りにし、それに切れ目を入れ、味噌を間に塗ります。そして、ねかせておいた皮に包み、それを笹の葉に巻き、蒸します。笹の葉がない時は、庭の茗荷の葉に巻いて蒸すこともあります。「おやき」は私たち信州人には欠くことのできない郷土食として脈々と親から子へ、子から孫へと受け継がれていくことでしょう。
10年前に開催された長野オリンピックの際には、外国選手や外国人観光客にも人気を博した食べ物だったようです。現在、長野市内で「おやき」を販売しているお店は数多く、その製法も
様々です。「おやき」をまだ召し上がったことのない皆様も信州へお越しの節は、ぜひ味わってみてください。
写真は「丸ナスと私が作ったおやき(茗荷の葉)」。庭に咲いたカサブランカ・娘の描いたデッサン・私が編んだレース編みの三点のコラボレーションです。
信州の郷土食の一つに「おやき」があります。信州で母の味と言ったら、「おやき」を連想する人が多いでしょう。普段はお店から買ってきて食べることが多いのですが、私の実家ではお盆の時期になると、母はいつも手作りの「おやき」をご先祖様に供えています。嫁いで20年以上経った今でも、私は母の作った「おやき」を食べたいと思うことがしばしばあります。私も母に倣って、「おやき」を作りますが、母のものに比べると、皮が堅かったり、具をうまく包めなかったりで、満足するような「おやき」は未だに作ることができません。
私が母に倣って作る「おやき」は、丸ナスを4つくらいに輪切りにし、それに切れ目を入れ、味噌を間に塗ります。そして、ねかせておいた皮に包み、それを笹の葉に巻き、蒸します。笹の葉がない時は、庭の茗荷の葉に巻いて蒸すこともあります。「おやき」は私たち信州人には欠くことのできない郷土食として脈々と親から子へ、子から孫へと受け継がれていくことでしょう。
10年前に開催された長野オリンピックの際には、外国選手や外国人観光客にも人気を博した食べ物だったようです。現在、長野市内で「おやき」を販売しているお店は数多く、その製法も
写真は「丸ナスと私が作ったおやき(茗荷の葉)」。庭に咲いたカサブランカ・娘の描いたデッサン・私が編んだレース編みの三点のコラボレーションです。
…キリスト教…
キリスト教公認後の貧しい人々への救済(7)
中世教会の貧困問題の対策の基本原則(5)
さらに、中世共同体の特異性といわれるもの、また、現代社会との相違点を考える必要があります。13世紀は、近世産業化以前の社会的標準からすれば、比較的安定した社会が存在していたとされています。それは、貧困者の大部分は農民でしたが、彼らは、小さい村落に住み、自分の土地に根を下ろした生活であったため、集団的失業は見られなかったからです。
貧しいと言えども、一般的には健康な人はもし働く意思さえあれば、自らを扶養することは出来ました。しかし、負傷して農作業が出来なくなったり、長期の病気や老衰によるものであったり、また、世帯主が死亡して、幼少の子供を抱えた未亡人が残されるようなことも当然起こりました。
このような種類の貧困に対する救済を主とした慈善の弊害、と指摘する人々もおりますが、一体何をもって言うのでしょうか。また、一時的な困窮の状態であるならば、組織的慈善に頼ることなしに、しばしば解決されていました。また、家族的結合あるいは家族的忠誠は強固であって、隣人同士は、しばしばギルドによって結ばれていたからです。
このような事態を考慮するならば、「自分の家族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」(Ⅰテモテ5:8)という教えも民衆の意識の中に広まっていたと考えても良いでしょう。
また中世の農民は、教区司祭の監督の下で生活し、「わたしたちは、働きたくない者は、食べてはならない」(Ⅱテサロニケ3:10)と教えた聖書の戒めも知らされていたに違いありません。当時の農民は、その領主の土地で要求された仕事をしなかった場合には、ただちに執事の棍棒でその義務を思い知らされたであろうし、或いはもっと適切な方法としては、領主裁判所へ正規の手続きで召喚され、厳しい罰金を課せられたりすることによって、その義務を要請されたであろうと思われます。
それでも、自分の土地で働かなかったならば、その家族は生命の維持が困難な家族の生活扶養の重荷は、第一義的には親戚か隣人に係わってきました。したがって、このような行為は中世農民の社会形成をしていた小さい共同社会全体から、激しい非難攻撃を受けたに違いありません。
全体的には、農民各人に少なくともその扶養家族を養うに必要な労働をするように強制するきわめて強い社会的圧力があったに違いないのです。すべての事情を考慮してみるならば、国内の村から村への間にある修道院で、無料の食事が得られる可能性が13世紀の社会一般に、道徳的腐敗をもたらすほど影響力が有り得たと推測することは当を得ていないように思われます。
事実、中世社会の生活の現実の姿に心を留める時には、甚だしい慈善の乱用も比較的無害で、特殊なあの歴史的機構においては、むしろ有益でさえあったと判断されている面もありました。
アッシュレーを憤慨させた慈善の形式の一つに、恩人の霊魂の安息のための祈りに集まる貧しい村人たちにご馳走をするという習慣がありました。中世紀の一般農民は、生命を維持するに足るだけの生活必需品をいくらか余分に所有しているというだけで、毎日単純な変化のない食事をしていて、厳しく管理されて、潤いのない型にはまった生活を送っていたのです。
このような事情にあっては、持てる者が持たない貧しい隣人たちを、一年に一度か二度招いて、美味しい食物や飲み物で腹一杯にするように配慮することは、恩人の霊魂のために益がある、すなわち供養になるという宗教上のまた精神上の大きな慰安になったと考えられていたことです。
もちろん、中世法学者は、このような見解はおそらく取らなかったし、またこうした折々のご馳走は、長期間の貧困の問題に対しては、有効な回答を与えるものではありません。しかし、中世期の人々が、慈善のために大きな遺贈をしようと思うときには、教会か或いは慈善的機関に、それを寄進していたのです。教会や慈善的機関によって貧民救済とその管理は、結局、中世教会の慈善理論に支配されていたので、その弊害、あるいはその欠陥といえば、現代福祉国家の公的扶助にまつわる弊害や欠陥に類似のものであったと想像しても大過ないものです。
あなたに聖書を
篠田 潔
私たちには、様々な苦しみがあります。牧師である私は、「どうして、わたしがだけこういう苦しみに会わなくては成らないのか」と言う質問を受けることがよくあります。「そのわけが分かればこの苦しみに対応できるのに・・・」という気持ちが込められてのことです。が、はっきり言って、私には、こういう質問に対して、その方に納得出来るような答えを出せる自信がありません。
それは、基本的には、私は、その人の苦しみを理解出来る主人公ではあり得ないからです。
一般的には、苦しみにはその原因があることが考えられますし、何らかの意味があることも考えなくはありません。そういう点で、旧約聖書の中の「ヨブ記」の主人公であるヨブという人は、一瞬にして子供の全てを失い、財産も奪われ、健康も損なわれて、苦しみのどん底に突き落とされました。
こういうヨブが受けた苦難に対して、ヨブの友人たちは、この苦難の原因はヨブの側にあるのではないかとか、ヨブを鍛えるための試練ではないかとか、考えられそうな解釈や意味づけを代わる代わる述べました。しかし、ヨブには、どの説明も納得出来ないので、友人たちに「もう黙っていてくれ」と言いました。そして遂には神様に対して「わたしがこんな苦しみを理由もなくて受けなければならないのはどうしてですか」と問うた、というのです。
この問いはイエス・キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と言われたのと相通じるものがあります。
「そうしてわたしがこういう苦しみを受けなくてはならないのですか」という問いは、出口のない部屋のなかに閉じ込められているのと同じで、自分の側から答えを見いだすことは出来ません。外から、誰かが、その部屋をぶち破って、出口を作ってくれるしかありません。或いは、ひょっとすると、出口は既に設けられているのに、自分の目が悪いために、見えていないのかも知れません。
この短い時間の中での答えとしては、キリストは「わたしは戸の外で叩いて待っている。わたしの声を聞いて戸を開ける人があれば、わたしは中に入って、一緒に食事をしよう」と言われている方ですから、このキリストに聞くところに、問題解決の糸口があるというのであります。
(参照聖句・ヨハネの黙示録3:20)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「ローマ人への手紙」研究 (46)
第35課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
A 神がユダヤ人を退け、異邦人を召されることは神の約束と矛盾するものではない。
9章1~24節(続)
「ユダヤ人の兄弟たちに対するパウロの愛と関心の表明」
9章1~5節 (続)
「肉によれば、キリストもまた彼らからでられたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン」。
5節は明らかに対比を構成しています。パウロは、キリストは肉に関する限りイスラエルの子らの子孫であったと述べています。しかし、パウロがキリストの人間性に言及しているのは、キリストは人間性以上のものがあることを意味しているからです。人間性よりも高度な性質、すなわち、神性をもっておられることを言おうとしているのです。
ここで、なんたる名誉と栄光が、私たちの主イエス・キリストに帰せられていることであろうか!キリストは万物の上にいます神であると言われています。神が万物の上にいますという事実は、その主権性の事実です。神ご自身を除いて一切の存在するものは全て、神の創造の所産です。そしてそれら全ての上に神は至高の力と支配を持っておられます。この絶対的主権性が、ここの5節において、イエス・キリストに帰せられているのです。
現代の神学界において、「キリストの神性」という表現は、金本位制を離れてしまったお金のようなものです。このような言葉はキリストが神であることを全く信じない人々の敬虔を装うカムフラージュとして用いられているのです。これらの人たちはキリストの神性を能弁に語ります。そうすることによって、現代の神学界の状況についてよく知らない純真な多くのキリスト者たちを欺くのです。
しかし、よく問いつめてみると、彼らがキリストの神性と言っている時、実は彼らの意味している意味でそう言っているに過ぎず、キリスト教会が歴史と共に意味してきた意味で、この言葉を用いてはいないことが分かるのです。
ある人は「キリストの神性を主張することによって、私はキリストが完全な人間であることを意味する。キリストは完全な人間性は、他のどの人間よりも彼が神的であることを示すのである」と言います。また他の人は「キリストが神であると言うことによって、私はキリストが神であろうと努力した最初の人であったことを意味すると言う。私はキリストが真に神であるとは思わない。しかし、キリストは私たちにとって神に匹敵する価値を持っておられるのである」。
これらの言葉は現代の神学的な二枚舌的な発言の数例に過ぎない。しかし、ここには現代の神学界の情勢を集約した姿を見ることが出来ます。このような言い方をする人々は実際のところ、不正直であり非倫理的であるといえましょう。お金が経済界の通貨であるのと同じく、言語というものは思想の媒体なのです。これらの言葉を広く受け入れられている意味と異なった意味で用いながら、その異なった意味を明らかにしない者は不誠実であると言わなければなりません。権威者と見られている多くの神学者たちがこうしているのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
自分の罪を認め告白する勇気をお与えください。神のみ下に帰るために。
素直な心で自分の罪を告白する神への信仰をお与えください。救われるために。
狭い道を通らせてください。あなたのみ国に帰るために。
いつでも誰にも
いつでも誰にも 偽りを言わない主よ
偽りが満ちたこの世に 真実の愛をば満たしたまえ
いつでも誰にも 偽りを言わない主よ
偽りを計る心を 真実の道へ導きたまえ
いつでも誰にも 偽りを言わない主よ
偽りを言う唇に 真実の言葉を与えたまえ
水野源三 第三詩集「今あるは 神の恵み」より
******************
憲法第25条(国民の生存権と国の保障義務) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
「切支丹灯籠への思い」(6)
「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
提灯(ちょうちん)
童謡「おさるのかごや」に♪エ~ッサ エッサ エッサホイ サッサ おさるの かごやだ ホイサッサ 日暮の山道細い道 小田原ちょうちん ぶらさげて ソレ ヤットコドッコイ ホイサッサ ホーイホイホイホイサッサ~♪ という歌があります。江戸時代には、あちこちに腰から小田原提灯をぶら下げて籠を担いでいたのでしょうか。当時、江戸から小田原まで籠に乗って行こうと思ったら12時間以上かかったといわれています。
光は、その歴史、民族をこえた無くてはならない大切なものの一つです。日本独特のあかりである提灯も素材、製法で様々の特徴がありますが、光源は油からロウソクに変わって大きく変化しています。用途も変わり広まりました。室町時代に生まれた紙や布を貼った竹篭や藤篭から江戸時代中期には、馬上提灯、御神燈提灯、高張提灯など現在に見る形のものが出来ていました。有名な産地としては良質な竹と紙のきれいな水が産地となっています。長良川の清流と豊富な竹、和紙の本場とされる美濃紙を産出する岐阜は岐阜提灯として有名です。その他、福岡県の八女提灯、山城、丹波、丹後では良質な竹と神社仏閣とのかかわりの深い京提灯などがあります。
日本で一番古い提灯の文献は応徳2年の「朝野群載」に見ることができるといわれていますが、それが現在の提灯と共通しているかはよく分かっていないとされています。
日本のキリスト教では神父たちによって天正の昔に礼拝用として燈籠(提灯)が御光を捧げるために使われていました。
=記=
「…」内の文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。 長村
契約の継承」(51)
第7章 キリスト教教育のための方策
神の契約にそって生き、そして教える
神学的な一貫性と組み立ての調和(1)
もし私たちが誠実な心をもって、神の意志の全体を教えようとするのであれば、
神学的一貫性が不可欠です。神学の基礎と展望がないとき、奉仕の働きはあっという間にイベントや駆り立てられたプロジェクトとなってしまいます。イベントやプロジェクトでは人々のエネルギーを長期間維持しません。キリストの勝利と契約は神学的な誠実さを与え、神の民から永続的な献身の思いを引き出します。
もし私たちが英知に満ちた手で神の意志の全体を教えようとしているのであれば、神学の基礎と展望の構造的な調和が不可欠です。キリストの勝利と契約はすべての私たちの計画とその実行において、最も優れた価値あるものです。キリストの勝利と契約は神の超越性を気づかせるので、畏敬と驚異の感覚を引き起こさせます。
わたしはこの章を飛行機の中で書いていました。隣にいた若い男の人がわたしの腕をトントンと叩いて、「美しいですね」と言われて、はじめて眼下の景色に気がつきました。彼はその眺めを指差しました。彼の声に、子どものような驚きぶりを感じて、わたしは彼に飛行機に乗ったのはじめてかどうかを聞きました。空高く飛んでいるときに、私たちは神の世界観について話し始めたのです。彼は専門教育課程で卒業準備している大学四年生であることがわかりました。また、クリスチャンであることも解りました。わたしは仕事に熱中していたため、もう少しで見過ごすところだった美しい光景に気づかせてくれた彼に感謝しました。この驚きと畏れの感覚を持ち続けるためには、心が高揚しなければならないのです。
祈りの人々は心を高く揚げ…神のみ前に生き…神の輝きに浴し…神のご存在を映し出します。英知に満ちた手とまったき心が祈りの場所に相応しいのです。ヨシャファトは高揚しました。彼が学んだことは、奉仕の働きを補強するという教えです。
讃美せよ。畏れるな。(1)
歴代誌下18章で、ヨシャファトは人の目線による作戦に頼りました。彼は預言者の警告を拒んで、独自に行動し、アハブと同盟関係を結び、かろうじて死を免れました。明らかに、彼は、私たちみなが知っていなければならない教えを学びました。
「これが主の言葉である…『武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって』と
万軍の主は言われる」(ゼカリヤ4・6)。歴代誌下20章ではヨシャファトは新しい高さに登りました。神に信頼をおいて契約の共同体の一部として行動しました。
ヨシャファトは大軍が攻めて来ていることを告げられた時、恐れてはいましたが、今回は軍事力による恐れを、人の目線による見方で見ませんでした。また単独で行動することもしませんでした。
ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。
ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての
町々から人々が出て来て、主を求めた。
歴代誌下20・3~4
これは、契約に基づいた集会でした。
ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたち
も共にいた。
歴代誌下20・13
ヨシャファトは契約に忠実な神に祈りました。これは聖書のなかでも最も偉大な祈りの一つです。
ヨシャパテは、主の宮にある新しい庭の前で、ユダとエルサレムの集団
の中に立って、言った。
「私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神であり、また、あな
たはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手に
は力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者
はありません。 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラ
エルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに
賜わったのではありませんか。 彼らはそこに住み、あなたのため、御名の
ために、そこに聖所を建てて言いました。 『もし、剣、さばき、疫病、き
きんなどのわざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちはこの宮の
前、すなわち、あなたの御前に立って――あなたの御名はこの宮にあるから
です。――私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、
あなたは聞いてお救いくださいます。』
ところが今、アモン人とモアブ人、およびセイル山の人々をご覧ください。
この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそ
こに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イス
ラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。
ご覧ください。彼らが私たちにしようとしていることを。彼らは、あなたが
私たちに得させてくださったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして
来ました。私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。
私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちには
ありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あな
たに私たちの目を注ぐのみです。」
歴代誌下20・5~12
スーザン・ハント著
WIC委員会訳
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
本格的な暑さになりました。今日は仕事が休みで、畑で収穫したものを少しですが送ります。召し上がってください。毎月、「つのぶえジャーナル」楽しく拝見しています。「その愛のゆえに」の馬場さんの記事はとても教えられるところが多いです。牧師家庭に育った方の信仰の姿は違います。家庭礼拝のこと、大切なことは分かっていますが、なかなか守れません。聖書のみ言葉を心に留めているのに、感情が先走ってしまい、言いたいことをついいってしまう成長していない自分が恥ずかしくなります。馬場さんのご主人の俳句や、若者には若者の悩みを知り、その人のことを思いお祈りしています。・・・。(7月24日)
岐阜県 K・Mさん
神戸市 O・Hさん
はじめまして、いよいよ8月です。暑さが、少しは衰えてくれるとよいのですが、まだまだ30度を超える暑さです。神経の弱い私はこの時期疲れが出ると、うつ状態になり苦しみます。そんな繰り返しですが、神様に支えられ、発病して15年がたちました。結婚して7年、子供がちょうど1年生になりました。ある人に薦められて俳句を作くりだしました。それが新人賞として、ある本に掲載されました。以下がその時の3句です。
ランドセル 背に弾ませて 入学子
まっさらな 上靴並ぶ 入学子
囀り(さえずり)に 5感目覚むる 朝(あした)かな
「つのぶえジャーナル」に俳句が載っていましたので、私もお便りしてみました。自分で言うのも変ですが、何か人とは違った感性があり、発病するまでは自分で童話を創ったり、ピアノも、ショパンの曲を弾いたり楽しんでいました。でも、ちょっとしたことで、刺激を受け、眠れなくなったり、悩んだりしながらの日々です。
奈良県 N・Rさん
「地域リポート」の「みすず刈だより」は、母のふるさと信州の方言が詳しくかかれてあり、これまた、幼いころ、母から、ずくをださなきゃだめだよ。とよくいわれたものでした。そして、私のことを、いつも、ずくがない子と言っていました。やはり、いまだに、ずくのないままです。写真の鳩車は、私にとって、とても大切なものです。主人と婚約中に長野へ旅行に行った主人のわたしへの初めてのプレゼントでした。その愛くるしさに感激し、今も大切にしています。
奈良県 B・Aさん
主の御名を崇めます。
地震のお見舞感謝いたします。いつも主にあってお交わり戴くこと感謝です。地震の被害は壁のひび割れ、土台の亀裂などあります。かべは壁紙をはがしてやることは難しいのでゆっくり考えます。タイルのひび割れなどは、なんとか自分でやれると思います。貧乏で慣れていますので、器用ですから大丈夫です。
青森県 F・Tさん
『ありがとうございます』
今月号の写真は桒原 茂さん、廣子さん(日キ教団金城教会員・CBC「キリストへの時間」アナウンサー)と門馬 享さん(犬山教会)の作品を使わせていただきました。感謝です。
数日前の集中豪雨に被害に遭われ方々に心からお見舞い申し上げます。「つのぶえジャーナル」をお読みくださっている方から愛知県の被害のニュースでお便りお便りのメールを頂きました。本当に感謝です。幸いに豪雨でしたが守られました。今日の名古屋は入道雲で秋を教えてくれます。風鈴の音色が夏の涼しさとは違っています。虫たちの鳴き声が、暑いですねの挨拶言葉を変えました。季節の変り目です。皆様のご健康が支えられますように、お祈りいたします。
私の様な者の健康を心配してジューサーを贈ってくれた信友がおりました。私より20も年上ですが、心配して支えてくれます。有り難いことです。りんごとニンジンとレモンのジュウスを飲んで頑張ります。そうして、何よりの喜びは、「つのぶえジャーナル」を親しい方に紹介してくれていることです。
今後ともご支援をよろしくお願い申し上げます。
編集・発行人 長村秀勝
『つのぶえジャーナル』のための献金者
島田祥子様 和田順一様 和田貴美子様 羽野浩雪様 羽野 環様 吉原富士見教会様 匿名様
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『クリスチャン音楽家を支える会』のための献金者
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アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
08年8月20日現在 編集・発行人 長村秀勝
朝の目覚めを迎える時、たとえ困難が待ち構えていても、そこに「希望と喜び」を見出すことが出来たらどんなに幸いなことでしょう。病の床に「治療」という戦いがあっても、そこに「祈り」があるなら、自分ひとりだけの力で立ち向かうのではありません。
毎日だらしなく生活している自分に、生きる価値が有るか無いかという疑問すら忘れてしまう時、また、あの阪神大震災の以降、「孤独死」という言葉が大きな問題の一つとなって来たが、「孤独」の中に時を過ごしている自分を見る時、「希望と喜び」と言う言葉が虚しく通り過ぎて行く。
声をかけてください!振り向いてください!
暗闇と淋しさが待ち受ける夜。気持ちが悪くなるくらいの不安な夜。「祈り」のあることを伝えたい。目覚めていても、眠っていても、何時もあなたと共にある方の居られることを伝えたい。小鳥が目覚めの声になり、みどりが、風が、人の声が「希望と喜び」になってほしい。
神にのみ「希望と喜び」があります。救いがあります。
あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、あなたの聖なる山と、あなたの住まわれるところに、わたしをいたらせてください。その時わたしは神の祭壇へ行き、わたしの大きな喜びである神へ行きます。神よ、わが神よ、わたしは琴をもってあなたをほめたたえます。(詩篇43:3~4)
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「今月号の写真は桒原 茂さん、廣子さん(日キ教団金城教会員・CBC「キリストへの時間」アナウンサー)からの提供です。感謝です」。PCでHPをご覧の方は拡大写真でご覧下さい。尚、皆様も歓迎いたします。
小閑記
私たちを感動させる1つの聖句があります。私たちはペテロに対するキリストの執り成しを思い出します。キリストはご自身、ペテロがキリストを否む真の脅威がペテロの人生に影を落とす前に、この執り成しを示されました。
「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22:31)。
私たちは聖徒の堅忍の教理について思索する時、キリストの執り成しが信仰の恒久性の理解にとって如何に重要であるかを理解するでしょう。実際に、聖徒の堅忍において、私たちは特別な永続と関係があります。ペテロに対する執り成しは、ペテロの以前の信仰生活からは誰もこの結論を導き出すことは出来ないでしょう。
この時まで、ペテロは輝かしい多くの経験をしてきました。多くの者がキリストと共に歩もうとしなかった時に、突然、キリストはペテロに問われました。「そこでイエスは12弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところにいきましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。」(ヨハネ6・67~68)
これは危機の時でした。キリストがご自身との交わりの深さを語られた後、民衆がキリストを彼らの王としようとする熱心が冷めて、キリストを捨てた時でした。ユダヤ人たちはキリストの説教に躓いて、多くの人にはひどいものとして受け取られたので、彼らは非難の態度を示して「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、これは、ひどい言葉だ。だれがこんなことを聞いておられようか」(ヨハネ6・60)。
彼らの心の態度をはっきりと示さなければならない時でした。ペテロは全ての者の代表として「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言を・・・」と答えました。イエスは再び弟子たちに問われます。「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。再びペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と信仰の告白をしています。
しかし、ペテロがこのように実際に告白したとしても、彼の信仰は不動で平安でなかったことも事実です。
カルヴァンは、ペテロについて彼の自信は、彼の弱さであり、あらゆる人々は自分のもろさに気付いていること、あらゆる時に聖書に助けを求めて生きることが何よりも大切である、と語っています。
偽りの確信は、ペテロの自信のように、自分を誇り、自分を信頼し、自分の信仰にすがる誤りを犯すと共に、キリストのペテロに対する執り成しのみを生涯の拠り所とすべきです。
(ベルカワー著「聖徒の堅忍」より
上河原立雄撰
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円