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解説 ウエストミンスター信仰告白 (32)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第15章 命に至る悔い改めについて・・3・・
5 人は、一般的な悔改めで満足すべきでなくて、自分の個々の罪を個別的に悔い改めるように努力することが、各人の義務である(1)。
1 詩19:14(13)、ルカ19:8、Ⅰテモテ1:13,15
五 罪とは、原罪、すなわち性質の腐敗と現行罪とを含むものであるから、悔い改めもまた両者を含む悔い改めでなければならないのである。ここで特殊な罪をそれぞれに反省するとき、原罪を除外して、現行罪を具体的に反省するように、との意味にもとれるが、原罪が洗礼ですでに赦されたというような考えは誤っている。
それは聖化論で明らかにしたとおりである。わたしたちは漠然とした「悔い改め」ではなく、常に自己の性質の腐敗と腐敗した行為とをよく反省・点検することによって、深く悔い改めなければならない。もちろん自己の性質が自己の反省で改変されるわけではない。また原罪が残っている限り、わたしたちの行為が純正となることは不可能である。けれども、神がわたしたちに悔い改めを求めておられる以上、それはわたしたちの義務なのである。
6 各人は、自分の罪のゆるしを祈りつつ、神に対しそれを私的に告白すべきであり(1)、その上その罪を捨てることによってあわれみを得る(2)。だから自分の兄弟やキリストの教会をつまずかせた者は、自分の罪を私的または公的に告白し、またそれを悲しむことにより、被害者に対して自分の悔改めを進んで表明すべきである(3)。これによって被害者は、彼と和解し、愛において彼を受けるべきである(4)。
1 詩51:4,5,7,9,14(6,7,9,11,16)、詩32:5,6
2 箴28:13、Ⅰヨハネ1:9
3 ヤコブ5:16、ルカ17:3,4、ヨシュア7:19、詩51編
4 Ⅱコリント2:8
六 ここでは、神に対する懺悔のみでなく、公的私的な人間の間での悪事に対する形に現れた過去の懺悔の必要と、それによる和解がすすめられている。特に教会の秩序にための正規の手続きを遵守しなければならない(戒規、訓練規定の忠実な実施の重要性)。
*******
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
さんびか物語・・・11・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・10
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌119番
羊はねむれり
<神様のみ言葉>
「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」。
~ルカの福音書2章8~9節~
この讃美歌は主イエス・キリストの降誕を歌ったもので、1954年版の讃美歌にはイエス・キリストのご降誕を祝う歌が、24曲ほどあります。その内のあるものは、非常に古いものもありまして、94番の‘久しく待ちにし’の歌詞は12世紀のラテン語の讃美歌から訳されたものであります。面白いことに、このクリスマスの讃美歌の中で一番新しい二つの曲はどちらも日本の作曲家鳥居忠五郎によって書かれたものです。
1941年に作曲された119番の曲KORINもその一つです。このKORINは、日本人の手になる讃美歌の中で最高のものといえましょう。この曲は、フランスの古いキャロルに似た素朴な美しさの中にも、非常に個性的な曲であり、いかにも日本人の作品らしいものと言えます。
讃美歌119番の作曲者・鳥居忠五郎は、1898年2月4日に北海道の伊達紋別で生まれました。1921年に明治学院神学部を卒業し、1925年にさらに東京音楽学校の声楽科を卒業しました。同時に、彼は霊南坂教会聖歌隊の指揮者でもありました。
また、東京学芸大学の前身である東京府立青山師範学校時代から長い間、声楽主任教授を務めました。現在は、聖徳学園短期大学教授、キリスト教音楽学校理事、明治学院評議委員、教団子供さんびか委員などの要職にあって活躍されています。
この曲は、三輪源造の‘羊はねむれり’というキリストご降誕の歌詞に対して1941年に作曲されて、「青年讃美歌」に発表されたものです。
讃美歌119番の作詞者三輪源造は、1871年に新潟県に生まれ、同志社神学校を卒業し、その後、松山女学校の教師を経て、同志社女子専門学校の教授となり、晩年までその職にとどまりました。彼は国文学に造詣ふかく、明治版や昭和6年版の讃美歌の編集の委員、または顧問として力を尽くしています。また、この讃美歌集のために、幾つかの創作の歌を寄贈したそうです。
‘羊はねむれり’は、明治版「讃美歌」第2編、1915年に発表され、その後、「青年讃美歌」に1941年に納められました。彼は1946年に、この世を去ったのですが、私たちは、毎年クリスマスになりますと、この宝石のように輝く讃美歌を歌うことができますのは、神様が彼にお与えくださった才能と、神様のお恵みとを忘れることは出来ません。
<119>
1 羊はねむれり 草の床に、
冴えゆく冬の夜 霜も見えつ。
はるかにひびくは 風か、水か、
いなとよ みつかい うたうみうた。
2 まひるにおとらぬ くしきひかり、
み空のかなたに てりかがやく。
すくいをもたらす 神の御子の
うまれしよろこび 告ぐる星か。
3 「あめにはみさかえ 神にあれや、
つちにはおだやか 人にあれ」と、
むかしのしらべを 今にかえし、
うたえや、友らよ こえもたかく。
歌詞をお読みになってお分かりのように、この歌詞の場面は、ユダヤのベツレヘムの村の郊外にある牧場です。そこで羊飼いたちは野宿で、夜番をしながら、羊の群れを見守っていました。冴えたつめたい冬の夜でした。狼やほかの獣から羊を守らなければならない羊飼いたちは眠れませんが、羊はなんの心配もないかのように、草の床に眠っています。
なんと平和で穏やかな場面でしょうか!これを一つのたとえのようにお考え下さい。神様ご自身は、私たちの羊飼いです(詩編23:1)。また詩編95編7節には「主は、私たちの神、私たちは牧場の民、その御手の羊である」と記されています。しかし、私たちはみな、私たちの牧者である神様からさまよい出て各々自分勝手な道に向かって歩む愚かな羊であります(イザヤ53:6)。
そのために、不信仰と不安に陥り、いつも思い煩う不幸な日々を送っている者であります。このような私たちをいつも見守っておられるのは神様です。私たちの真の牧者は、決してまどろむことも、眠ることもありません(詩編121:4)。ですから、まことの牧者のみもとに立ち返ろうではありませんか!立ち返ることによってのみ、私たちははるかに響くみ使いたちの歌うメッセージを知ることができます。
ベツレヘムの郊外の牧場で、羊の群を見守っていた羊飼いたちに主のみ使いが現われ、「主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」と9節にあります。作者が2節で歌っていますように、そのくすしき光は、真昼のようにみ空のかなたで光り輝いていました。み使いが現われると、その光のあまりのまぶしさのために、羊飼いたちは非常に恐れました。
そこでみ使いは彼らに「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためにすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と知らせて下さいました。主イエス・キリストのご降誕は、この世の罪を取り除き、暗い世に光り輝くまことの入場であります。
また、この誕生の日は、彼を信じる全ての者にとりまして、罪よりの救いをもたらす、唯一の喜びの日でもあります。
作者が歌っていますように、「みすくいをもたらす、神の御子の生まれしよろこび」の日なのです。
2節の終わりの「星」は東の方から博士たちをベツレヘムまで導いた、あの不思議な輝かしい「星」を意味しているでしょう。ともかく、博士たちが幼な子イエス・キリストのみ前に、素晴らしい捧げ物を捧げましたが、あなたは何をもってみ子の誕生のプレゼントにいたしますか。
私たちが捧げなければならない「捧げ物」は、主の主、王の王であられるみ子のみ前に心からひれ伏し、礼拝することであります。
3節では、天の軍勢が現われ、神を讃美して歌った場面を歌い上げています。
「あめにはみ栄えが神にあるように。土にはおだやか、平和が御心にかなう人々にあるように」。
この讃美の調べを、今こそ、私たちも声高らかに歌いたいものです。主にある人々も、そうでない人も、共にクリスマスの本当の意義を知ってください。神様が私たちのために与えたもうたみ子、また、み子が与えようとしていらっしゃる救いの恵みを心から信じ、受け入れ、共にこの讃美の歌声を神様のみ前に捧げますようお勧めいたします。
******************
この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
ビルマ
戦犯者の獄中記 (47) 遠山良作 著
昭和22年
6月19日
―同期生―・・1・・
北支那憲兵教習隊第4期卒業の同期生たちが「つばくろ会」を結成した。会の目的は「戦争犠牲者の遺家族及び戦犯者の留守家族を救済し、相互に助け合って、新しい祖国の建設に邁進する」ことを綱領に掲げての発足である。
今までの独房にいる私たちのために残り少ない私物を監視兵とタバコに交換しては差し入れてくれた。また寄せ書きをして激励もしてくれた。いま家族まで援助してくれるというのである。思えば部隊から十数名の憲兵志願者の内か ら高井君と私が合格し、昭和十年十二月北京の憲兵教習隊に入隊した。当時の生活が今も走馬燈のように思い出となって瞼に浮かぶ。
冬の北京は寒く、零下二十度以下になる。寒さと、厳しい訓練のために私はついに急性肺炎で倒れ、意識不明のまま北京陸軍病院の重病棟の個室に入院した。担当医師は山野軍医と看護婦は村崎恵都子という、若い看護婦さんであった。病院側の手厚い看護のお蔭で、四十度以上もあった熱が五日目には三十八度まで下がり、婦長さんは「もう大丈夫です」と言われた。死の一歩手前をさまよい続けた私の命は助けられた。
入院一カ月、退院する日のことである。村崎看護婦は私に次のことを話してくれた。「私は今までに五人の肺炎患者の兵隊さんを看護しました。二人はこの病棟で死亡しました。二人は全快せぬまま病院船で内地に帰る途中、その一人は病気で帰ることは軍人の恥である、との理由で病院船から玄海灘に身を投じて自殺しました。全快してこの病棟から退院できたのはあなた一人です」と言って、泣いて退院を喜んでくれた。
退院する私は、まだ上衣を着る時などは胸のあたりが痛くて我慢出来ないほどであったが、無理をして退院したので体力も十分でなく、実技(武術等)の訓練などは二ヶ月ほど免除された。疲れのためか教室でもよく居眠りをし、隣のS君が「教官が見ているぞ」と膝をつねって注意してくれたこともしばしばであった。だが入院の遅れを取り戻すために懸命に勉強した。
消灯後に頭から毛布を被り外部に灯りが漏れないようにして、懐中電灯の光で支那語の勉強もした。ある時は寒さを耐えて、床から抜け出して便所の薄暗い豆電球の光を頼りに法律の条文を暗記したこともあった。そのために、すっかり眼を悪くして眼鏡を掛けなければならなくなったのもそれからである。
(写真は青島隊当時の筆者)
*この文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・26
問20・・4 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
<答えの続き> 詳しいことは省きますが「十戒」の第一戒は、神が「わたしのほか何者をも神としてはならない」ということです。こういう戒めを聞くと「聖書の神は随分独占欲や支配欲の強い神様だなあ」みたいに思う人がいることでしょう。特に日本人の多くがそうであるように、多神教世界と言われるように多神であることが自明の前提のようになっているところでは、「わたし」とはっきり自己表明をするような一神を知りませんから、こういう戒めとして聞こえないのは当然だと思います。
しかし、聖書において人間に語りかける神は「わたしはあなたに言う 」という風に、人格的に関わって、その関わりの中において人間を生かそうとする神ですから、この神との関係を破ることがないように求めてやまないのです。聖書の中には、神が「わたしは妬む神である」と言っているところがあります。「神が妬むなんてみっともない」という人がいるかも知れませんが、夫や妻の不倫行為に対して妬むのは、相手を愛しているからです。
また、聖書の中には神の「怒り」が随所に示されています。これも「神が怒るなんて神様らしくない」と言われそうですが、神が怒るのは人間に対して真剣に関わっているからです。相手に真剣に関わろうとしない人には怒りなんてものは出てきません。
以上のことから言って、聖書の神は多神教世界で言うところの神とは違うのです。断っておきますが、これは優劣比較というような次元のことではありません。神は唯一の神としてわれわれに語りかけられるというのが、聖書において明らかにされている啓示の神である、ということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2月のラジオ放送予定>
2月 1日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
8日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
15日 小室尚子 (金城学院宗教主事)
22日 小室尚子 (金城学院宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究 (121)
第67課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・4・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・4・・・
「聖潔の根源」・・12:2
12;2は聖潔の根源についての秘訣を教えています。第一に、この世にならうことによって、聖潔を得るのではありません。(and be not conformed to this world)「この世にならうものとなってはいけない」「この世と調子を合わせてはいけません」。実際において、この世の性格、すなわち世の人々、キリストによって救われていない人々の性格は、この章に述べられているキリスト信者の性格の正反対であります。この世の性格は不潔、自己中心、傲慢、不親切、その他であります。
キリスト者たちが、間違っていると知っていたり、有罪であるとする事柄を、この世の人たちは正当であると考えるのです。例えば、主の日の聖別ということを例に取っても分かることであります。キリスト者が正当と考え義務と考えることを、世の人たちは愚かでばかばかしいことと見ます。例えば、敵を愛するということは、キリスト者の義務であります。しかし世はそれを愚かなことであると見なすのです。私たちは世にならったり、世の標準に従って、それに甘んじたりすることによって、聖潔を獲得するのではありません。
もし私たちが善悪についてのこの世の標準を受け入れるならば、神に対して罪を犯すのであり、私たち自身を傷つけることになるのです。行為と良心の問題について、世は大きく誤っているのです。もし私たちがこの世に従うならば、神の不興と正義の裁きを受ける危険にさらされているのです。宗教と道徳の問題について、大多数の意見に従うならは、それは正しいことでも安全なことでもないのです。
2節は更に進んで、私たちがどうすれば聖潔を獲得することが出来かを示します。この世にならうことによってではなく、心を新たにする、自己を一新することによって、それは可能となるのです。しかし、これはどういうことなのでしょうか。それは次のように理解することが出来るでしょう。「あなたの生活をこの世の仕方にならわせないで、新しい心を与えられることによって、あなたの人格と生活を一新しなさい。そうすれば神の御旨に従って生活を送ることが出来るようになるでしょう。
「あなたがたの心を新たにする」、すなわち、「新しい心を持つこと」とは、新生、新たに生まれかわることと同じことです。心の一新ということは、一回的なことではなく、生涯を貫いて継続することです。それは新生に始まり、キリスト者の生涯を通じて継続することです。新生は人の一新に始まりであり、聖化は人間の心の一新の継続です。生物の生涯と同じように、キリスト者の生涯も新生または再生に始まり、成長がそれに続くのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
犬と散歩の時に、まだ厳しい雪がちらつく中でしたが、ふと土手を見ると関西に春を告げるといわれている、野生の水仙が固いつぼみを付け始めていました。その姿を見るとけなげで、寒さに耐えて頑張っていますよ、とでも言うように凛としていました。神様は自然の中からも私たちに励ましをお与えくださっているのですね。
和歌山県 W・Rさん
フランスのテロ事件に衝撃を受けました。許せない行為ですが、何だか「いじめ」の論理に似ていて、後味が悪いのです。「風刺画」はフランスの文化と言います。それは、内向きの場合には通用するでしょう。共通の価値観を持っているからです。しかし、世界にはそうでない文化や価値観のあることもまた事実です。親を馬鹿にされて良い感情は持てないでしょう。力の強い者(国)が自分の
文化・価値観だからと肯定するのは、強者の傲慢ではないでしょうか。「自由・平等・博愛」の国フランスが、「他者の尊厳」に裏打ちされた「自由・平等・博愛」ならと思った。
山口県 S・Kさん
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
★ クリスマス おめでとうございます。大変、寒い中ですがお元気でしょうか。名古屋が雪が降っているのをテレビで見て驚いています。年末は、結婚した子供達夫婦が来て賑やかでした。来年はきっと孫が増えることを楽しみにしています。
★ 8日から今日まで入院生活でした。今回はドレイン治療が入って4日間寝返りはOKでも起き上がりはダメの寝たっきりの生活を体験しました。立ち上がりができない、歩くのもぎこちなく自分でも怖いです。 またメールします。
★ 今年も残り僅かになりました。特に決まった予定はないので、たぶん、超気を使う帰省になるでしょう。最近、否、年々が本当に日曜日が安息になっているわたしです。今日一日をいかに過ごすかって、とっても大事だと思います。神様が示される方向を知り、従うこと、自我を打ち砕いて下さいと願うこと、自我が優先してしまうと、ろくな結果にならないですね。
★ 最近、新聞やテレビのことばについていけません。年齢や時代差もあるのでしょう。情報も多くて処理能力を超えています。易しく言い換えることは、難しいですが、通訳者は大和ことばを鍛えるそうです。「ジャーナル」さんも気を使っているのが分かります。頑張って下さい。
★ 主人は何時も、どたどたと歩きながら、ぶつぶつ不満を言っています。どうして、内顔が悪いのだろうと思う。美味しいともいわない。ありがとうもいわない。ただ、ぶつぶつと短気の日々で40年。特に定年になって家にいると、よけい気になる。近くの精神科に行ったら、ご主人とよく話し合ったらと、不可能承知のアドヴァイス。私の気持ち、誰も分かってくれない。「ジャーナル」さん、来年も愚痴らせて下さい。お願いしますね。
★ 京都に来て3年になりますが、雪の京都に感嘆しています。ふるさと沖縄では、想像も出来ない雪景色・・・。早速、写メで友人に送信しました。
★ 「美しい朝に」を読んだ者です。いろいろの病を負っておられることを「ジャーナル」で知ります。年末に血液検査を受けた時、血糖値が高くなっていた。今までの最高値だった。過食と運動不足が原因。心して体重を減らせば改善します、と言われ、反省しての生活。「美しい朝に」さん、お祈りしています。
『ありがとうございます』
大きな災害が起こるたびに、「風化させてはいけない」という文字が、新聞やテレビの見出しになりますが、1月17日以前の数日は、マスコミが競うかのように報道されますが、不思議なことに一週間も経たないうちに、次のニュースにバトンタッチ!出来事に私たちも追い回されて、新しい出来事に関心が移る。「風化」とは「移り気」のようになっていないだろうかと自戒する。自分のこととして、深く覚える感性・知性が求められているのでしょう。
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『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社』の活動のための寄付者
笹森 肇様 藤澤徳治様 井上義昭様 和田順一様 和田貴美子様 横田岳人様 横田雅美様
2014年12月16日から2015年1月15日まで
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
『水琴窟』
冬の冷たい風の中に咲く水仙は、気高い気品と生きる強さを持つ花のように思えて、近づき難い感じがするのはどうしてだろう。水仙は地中海沿岸地方の原産で、室町時代から安土桃山時代に日本に渡来してきた史前帰化植物といわれている。房咲きの日本水仙や大輪のラッパ水仙、色あざやかな口紅水仙など今では品種も豊富にあり、花屋の店先にあるが、寒い時期に咲く早咲き水仙は、春の近きを告げている。
花言葉より、春告げ花の日本水仙は早や咲きの梅と共に季節の移りを感じさせるのがよい。
春めくややぶありて雪ありて雪 小林一茶
天地(あめつち)の間にほろと時雨かな 高浜虚子
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。春めくややぶありて雪ありて雪 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
=Ⅰヨハネ5:12=
「御子を持つ者」と、ここに極めて大まかな言い方がなされていますが、私たちは、御子を持ったり持たなかったりすることが出来るのでしょうこか。また、自分は御子を持っていないなどと言うことが出来るでしょうか。言い換えれば、誰が神の民であり、誰が神の民ではでないと判断できるでのしょうか。
その答えは、次の言葉で分かります。「羊飼いの声を聞いて」他の者の声を聞かない者。神に呼びかけられ、召し出される者。神のみ言葉を聞くために来て、そのもとに身と魂と霊をもって立つ者。端的に言えば、聖書を読む者。それを、ちょうど命を保つための糧・パンを食べるように読む者。神のみ言葉が命の養いとなっている者。
これが「御子を持つ」とすること。それに生きる者とも言うことが出来ます。
そうして、神を持つことを信じ、公に告白し、洗礼を受けた者。それを、単なる儀式・形式として軽んじない者。そのような人は、「御子を持つ者」と言えます。
また、信仰を告白し、主の教会の聖餐への招きに応じ、謙虚に加わる喜びを感謝する者。すなわち、「単純さと純粋さを持ってみ言葉と聖餐に与ることを喜びとする」者が、神の御子イエス・キリストに覚えられていること。
それを知て、とこしえの命へと力づけられ、保たれることに感謝をもって祈り求める日々でありたいと願うことです。それを今年も大切にし、「御子を持つ者」になっていただきたいと切にお祈りいたします。
<讃美歌332番>
1 主はいのちを あたえませり
主は血しおを ながしませり
その死によりて われは生きぬ
われ何をなして 主にむくいし。
2 主は御父の もとをはなれ
わびしき世に 住みたまえり。
かくもわがために さかえをすつ
われは主のために なにをすてし。
3 主はゆるしと いつくしみと
すくいをもて くだりませり
ゆたけきたまもの 身にぞあまる
ただ身とたまとを 献げまつらん。 アーメン
小閑記
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするようにイエスにあって造られたのである。
=エペソ2:10=
神がキリストにあって賜った救いは、罪が贖われ、負債が支払われたということのみでなく、私たちの過ちや怠惰のゆえに、なすことの出来なかったところを全て、主の完全なご生涯によって、私たちのためになして下さったことにあります。主が、言葉に業に、心に精神に、全ての義を果たしてくださいました。
主が幼な子として、若者として、恵みと知恵に満ちて成長され、両親に従い、全生涯でなさったみ業は、ご自身のためではありませんでした。それは全て、私たちのためでした。
イエス様の全生涯は、人間が新たに造られた姿としてあらわされています。主は神の、新しき人、第二のアダムであります。そのゆえに、全てのよい行いは、私たちのため、イエスにあって備えられているのであります。私たちの得るべき罪の赦し、命と平和も、主のうちにあるのです。
そこで信仰によって、キリストが私たちに内住されることによって、二つながら、主から頂くのであります。主の善い行いをも頂くのであります。私たちの命を満たす平和は、キリストからのものであって、私たちの生活に現れます。よい行いも同様です。神からのもののみが、神のみ前に耐えられるのです。
管が水を通すように、私たちはよい行いを通す管であります。それは、私自身の力や努力はなく、神による行いであります。
私たちは日々、神の愛の新しい恵みを頂いて、神の器として、イエス・キリストの僕としての人生を歩みたいものです。
上河原立雄
眸
毎月の更新日を楽しみにしています。12月号の「美しい朝に」を見ました。信友に大阪府のK・Aさんと同じ経験をされている人がいますので、祈りつつ読ませていただきました。お元気になられますようにお祈りいたします。先日の地震は横揺れが強くとても怖かったです。阪神淡路のことを思い出しました。長野の友人のメールでは二階のスチールの本棚が倒れ、重いタンスが15センチもずれました。棚の上の物がドサッと落ちていました。食器棚の中で茶碗がぶつかり合い割れましたとありました。友人の住んでいるところは高齢者が多いところですが、幸い住んでいる地区では怪我や倒壊はなく、よかったとありました。私もこれから枕元に懐中電灯と携帯、ヘルメットを置いて寝ようと思います。
兵庫県 W・Wさん
こんにちは。早いもので、今年も あと一ヶ月を残すところとなりました。 お変わりございませんか?12月号を送っていただきまして ありがとうございます。一週間前の土曜日に、クッキーが死にました。 17年半、我が家にいてくれました。一ヶ月まえから ほとんど食べられなくなり、水だけ飲んでいました。日中は日なたぼっこをして、よたよたしながらもトイレはいつもの場所へ移動して過ごしました。段々と弱っていきましたが、ニャーニャーの泣き声だけは 変わらず、なつっこい猫だったです。(写メは、元気なころのクッキーです)
いなくなると、寂しいですね。北風が冷たくなりました。風邪などひかれませんよう、ご自愛くださいませ。
静岡県 H・Tさん
自閉症者のひとりごと
(92)
11月19日
毎年のことですが、この季節になると、精神的に不安定になり、いろいろのところが痛んでくるように感じて、つい病院巡りになっています。今日も午前中、婦人科に行っていました。エコーの検査を受けてきました。異常なしでした。でも帰ってきてから、疲れて布団の中をゴロゴロしています。人ごみや、人の目が怖い。どうしてこんな病気になったのだろう~と思うと、とめどなく涙が出てしまう。神様、助けて!もうイヤだ~。
11月21日
今10時20分、先週から昨日までの疲れが出たのか、横にならずにいられない状態です。今月末まで用事が入っていて、大丈夫かしらと思いますよ。陽の暖かい日ですが、お加減はいかがですか・・・。自分がどういう状態かわかりました。頭は過活動になっているけれど、身体は限界になっているのです。やれやれ。度々メールしてすみません。もう五回目ですね・・・。今、17時40分やっと頭が静まってきました。よかった・・・。
11月26日
また日曜日にダウンしてしました。今日も一日寝たり起きたりしています。
更年期かしら、前より疲れて、何もしたくない・・・。お腹の薬が変わったせいか、余計おかしな感じがします。アトピーがひどくて、人に見せられる顔ではありません。まだ本調子ではないのかなあ。家で主人と静かにシュトーレンでも食べながら、アドベントを迎えたいです。
「つのぶえジャーナル」は待ってて下さる方がたくさんいらっしゃるから、遅らせるわけにはいかないですよね。更新、お疲れさまです。
痛いのは辛いですよね。歳を重ねて、いろいろな人の痛みが身をもって感じられるようになりました。明日はごみ捨て日だから、ちゃんと起きなきゃ。おやすみなさい。
11月28日
まだアトピーで顔がひどい感じ。人前には出れない日々です。薬を塗って治るのを待つというのが、対処法ですね。あと心身の疲れをとることですね。今日は麻酔科の受診日。腰と脚がひどく痛んで、動けないので、キャンセルしました。こんなおかしなことはあまりありません。はあ~。何もかも辛抱。辛抱。とは言うものの、保健所の手続きは誰も代わってもらえないから、無理をしてでもしなければならないのが現実。辛いなあ~。私の身体は、長年の薬の副作用で、骨粗しょう症のように脆いし、内臓のあちらこちらにも、障害が出ていると医者に言われた。でもどうにもならない~。
12月9日
結局、保健所には行けませんでした。熱が少しありましたから。自立支援医療証の期限が迫っているので、そろそろ申請しなければなりません。今週中にも行きたいのです。わが家は保健所から不便なところにあるので、ちょっとした用事でもササッとはいかないのです。はあ~。
加納さおり
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」