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今月のことば
イエスは彼らにむかって言われた、「きよめられたのは十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。」
=ルカ17:17=
十人のらい病人が遠くから主に呼びかけました。彼らは、悲痛な思いで、声を張り上げて叫びます。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(13節)と実に切実で卑下した調子で叫びます。私たちも、どれ程度々「神様、神様」と叫んだことでしょう。私たちが神様に何かをしてもらおうと願う時、神様は何時でも「神様」と呼ばれるお方です。
この十人のらい病人たちは、願っていたことを叶えていただきました。ところが彼らのうち一人だけが引き返してきて、その愛を真剣な思いで証ししています。他の九人は、自分たちの癒しを、何処か別のところで祝っていたのでしょうか。彼らにとってイエス様はどのような存在になったのでしょうか。
「きよめられたのは、十人ではなかったのか。ほかの九人は、どこにいるのか」と言われた主イエス・・・。残りの九人とは誰のことでしょうか。感謝を
忘れた九人の一人は、私自身でした。
私たちは日々、神様に請い求めています。あの叫びを悔い改めと呼ぶなら、切実に叫び、うめき、叫びです。その声は私たちの周りからも聞こえています。
しかし、感謝の方は、どうでしょう。らい病人は癒された時、またその苦しみから解放された時、また自分は救いの中に加えられていると思い、安全だと思った時、日々、私たちは感謝するでしょうか。神様に栄光を帰しているでしょうか。
信仰生活で、どう思うかこそ大切です。
小閑記
悲しんでいる人たちは、幸いである。
彼らは慰められるであろう。
=マタイ5:4=
人は貧しさよりも豊かさを求めます。貧しさを知っている人こそ、豊かさを熱望します。食物、衣服、その他日用の糧に属するすべてのもについて、事欠くより、豊かさを求めます。格差社会は人類社会の現実です。日用の糧とそれに伴う貧しさは不平や不満、心配の種でしょう。「働けど、働けど、わが暮らし楽にならず」に陥る時、生きる気力、働く意欲を削ぐものです。
イエスは弟子たちに言われました。「何を食べようか、何を飲もう可、何を着ようか、と思いわずらうな。これらのものは、異邦人がせつに求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。何よりもまず神の国と義を求めなさい」と。
では、キリスト者ばかりでなく、すべての人の悲しみは何でしょうか。日本人の倫理観では理解しにくい「罪」とそこから出てくる、心の醜さ、悲しみでありま
ます。また、救いのためになして下さった主イエス・キリストに対しての、感謝の思いの少ないことも事実です。しかし、私たちは、悲しみに留まるべきではありません。
聖書は、持っているだけの書物ではありません。読み、考え、そして、神の愛と救いを知る書物です。私たちの生活に神様のみ霊とみ力がもたらす道しるべです。
人は神なくしても生きると思っています。生きるでしょう。しかし,真の幸いを知らずに生きているとするなら、何とむなしい人生ではないでしょうか。
上河原立雄
=十字架の主を仰ぐ者よ=
十字架の主を仰ぐ者よ 主にあって喜べよ
主にあって感謝せよ 主にあって歌えよ
十字架の主を仰ぐ者よ 主にあって考えよ
主にあって決断せよ 主にあって歩めよ
主の十字架を仰ぐ者よ 主にあって心から
主にあって決心せよ 主にあって愛せよ
=水野源三作 「今あるは神の恵み」より
眸
夏の暑さはどこへやら、秋そのもの。朝晩は寒さを感じます。学生時代に知り合った主人のふる里は周囲を山に囲まれた山里。幼い頃から、コンクリートの中に育ち、虫除けの網戸が日常の私には、想像できないほどの異変そのものでした。そんな私も、今は土地の言葉に馴染み、土の中にいる虫の役割を知り、仲良く過ごしています。代々続く主人の家の仕事も好きになり、今は私たち
の仕事として、新しい地域起こしのハウス栽培の仕事を始めて5年目に成りました。農業系の大学で学んできたものを実際に活用出来ますことはうれしいことです。これからの夢は、学生時代に語り合った農村伝道の幻を実現することです。今は幸いにも車で1時間少々のところにある教会に夫婦でお世話になっていますが、これからのために小さな集会でも良いので、我が家を開放して集まりを始めようと祈っています。この「つのぶえジャーナル」を通して、祈りに覚えていただけるとうれしいです。
群馬県 T・Mさん
退院してからの主人は、家では歩行器を使用し、努力して動いています。スポーツ大好きが、この状態になってから一時は落ち込んでいましたが、孫がはいはいから立ち上がる姿を見てから変わりました。外出も嫌がっていたのが、車椅子ですが一緒に散歩するようになりました。意志が強いとか、頑張り屋さんではないと思いますが、孫の姿に勇気付けられたようです。その内に、私の下手な運転で礼拝に行くのを楽しみにしています。
大分県 S・Kさん
虫の声、風に揺れるススキ、色づく遠くの山、秋の到来。毎日衣類の入れかえに忙しい日々。家族も健康で感謝しています。人付き合いの苦手な私には、家事の仕事に夢中になっている時が一番落ち着きます。一つ片付けが終わるたびに、窓越に行き交う車を眺めています。夕暮れが早まり、何時も8時に家族揃っての夕食、他愛のない一日の出来事の会話も何時もと同じ。10時には、聖書を開き、前日の続きを読み、感謝の祈りの時を持ち一日が終わる。平凡、平安、そして感謝。
徳島県 A・Wさん
自閉症者のひとりごと
(89)
10月2日
タイの義妹一家に持って行く土産やらなんやらを用意しているうちにくたびれてしまいました。男性はそういうところに疎いから。それに実の妹だから、別に気を使わなくていいという感じなんだよなあ。ホテル代わりに宿泊させてもらうわけだから、何かと気を付けなきゃいけないんだよね。変にテンションが高くなり、じっとしていられなくて、グッタリしてしまうという状態です。
10月5日
胃のあたりがムカつき、頭痛に襲われました。風邪かと思い、熱を計ったが、平熱だったので、風邪ではないようです。そのうち気持ち悪くなって、おう吐してしまいました。食べ物とは思えないし、どう考えても、神経性胃炎。夜も具合が悪くて、眠れませんでした。今日も当然調子が悪いです。
加納さおり
「お知らせ」
エネルギーは有限であり、環境汚染も大きな問題としてニュースで知ることはできますが、その理解を深める入門書として、皆様にご紹介いたします。その主なテーマとして、たとえば「エネルギーって何?」「太陽光発電って何?」「再生可能エネルギーを暮らしに取り入れる」など、身近な問題を取り上げた本です。個人ばかりでなく学校や市民サークルなどでも活用できる本です。
「ゼロから始める・・・暮らしに生かす再生可能エネルギー入門」
法政大学地域研究センター
編著 田中 充 白井信雄 馬場健司
執筆協力者 遠藤はる奈 北風 亮 杉山範子 中島恵理 畑中直樹 平澤 和人 増原直樹 松田直子 松本 明
発行所 社法 家の光協会
定価:本体1400円+税 ISBN978-4-259-54750-9
世田谷通信
(133)
猫 草
いろんなスポーツをみていると「元気」「勇気」「感動」を「もらった」、あるいは「あげたい」「届けたい」というコメントの多さに気がつく。いつから「元気」「勇気」「感動」は、やりとりするものになったのだろう?まるで贈り物のように。
元気になる、勇気が出る、感動するのは相手側の立場なので、元気になって、勇気出して、感動してというのが押し付けがましく感じられるし、相手に負担になるのが良くないとの配慮なのだろう。「がんばれ」も同じ。気持ちを汲んだ上で、頑張れと相手に求めるのではなく、こちらが頑張っている姿を見せることで、婉曲的に頑張っていただけたら嬉しい。強制じゃなく、こちらで勝手にやっているので、お気になさらずと。受け取る側も、自分のために頑張ってくださいというのはプレッシャーになるので、あくまで通りすがりにいただきましたありがとう・・という・・。なんとも奥ゆかしき心持ちである。
いつから?震災あたり?いやもっと前か。長男に聞いたら、「ドラゴンボール」あたりじゃね?とのこと。確かに主人公、「オラにみんなの勇気をくれ!」とかよく言う気がしますね。でも勇気をくれ、っていうのは、自分が勇気を出すきっかけをくれ、ということですので、勇気を「もらった」という思いがけない感じ、贈り物感とはちょっと違うような・・。いや、現状なんとかしなきゃ、でも一歩を踏み出す勇気がないな、というベースラインがあってこその「もらった」なのか。
多分、ツイッターとか、ブログみたいに、不特定多数の人たちに匿名のまま、気持ちを発信するチャンスが各段に増えたこと、そして「いいね」と共感することで、双方が匿名で社会やしがらみにとらわれないまま、気持ちを醸成できるようになったことも大きいように思う。
誰かへという特別なベクトルがなくても、なんとなく全体的に勇気や元気は送れるし、受け取る側も特に自分宛じゃないけど、エールとしてもらっておくね、という新しい形のコミュニケーションなのかもしれない。ガラス瓶に詰めて海に流す手紙よりももっと、空気に溶ける、風や波のようなメッセージの応酬である。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
その愛のゆえに
=時々の記=
(103)
9月26日
テレビで
今の時代もっとも求められていることは、この苦しみや困難さを理解して、生きる力が欲しいと思っていることです。それを支えてくださっているのがこの「ジャーナル」なのでしょう。大変なお働きですが、多くの方が励まされていることでしょう。
見はるかす伊賀の盆地を霧隠す。
布引の山の高きに望(もち)の月。
爽やかや朝のフルート伸びやかに。
千人草山を開きし農場に。
今日一日懸命ならむ法師蝉。 馬場路哉
庭の金木犀がとても良い甘い香りを放って咲き始めました。金木犀の香りに癒されています。
10月4日
10月に入り、今年も秋祭りの笛の練習する音が夜遅くまで聞こえてきます。宗教に関係なく、農耕を中心としていた村では収穫を終えての祭りの行事はほっと一息つくものだったのでしょう。神輿を担ぐ若者がいなくなり、今年からは新しく去年までの500キロから30キロのものへと大変身するとのことです。時代の移り変わりをこのようなところにも感じるのです。
日の影や丘にて聞きぬ秋の声。
ヘレンケラー胸に輝く星月夜。
鄙楽し風に答ふる草の花。
玉虫の道に果たる日照雨(そばえ)かな。
巡らなる木々伐り払ひ(きりはらい)爽やかに。 馬場路哉
家の周りの大きな木を伐採してもらいました。木を切ってくださる方たちは60過ぎ、70過ぎの方たちです。今の若者たちはこのような危険な仕事をする人は誰もいないとのことでした。十メートルをこす高さに命綱をかけてチェーンソーで、バリバリ音を立てて切っていかれます。木がどちらの方向へ倒れるかを計算しておかないととても怖いものだと言っておられました。思いもよらないところへ倒れるときがあるので、一日が無事に終わるとホッとすると言っておられました。我が家での仕事も怪我されることなく無事に終えられ、疲れた様子でしたが、笑顔で帰って行かれました。こちらもやれやれという所です。
自然との共存、戦いがこのような山奥では大変に感じるときがたびたびです。
10月6日
18号台風も何とか過ぎ去りましたが、19号がまた来るとのこと。御嶽山での亡くなられた方の一人に奈良県の32歳の男性がおられました。息子と同じ年齢です。ご両親ご家族はどんなにかつらく悲しいことでしょう。戦後最大の被害と言われています。自然の厳しさを強く感じさせられているこの頃です。何もないときには、あのように美しい山が一気に何十人もの命を奪うものへと変わるのですね。
ところで、一人住まいの彼女への対応についての助言、ありがとう御座いました。本当に一人でどうにもならなく不安になり、電話してくるのでしょう。電話代は携帯からですと高くなりますので、これからはメールにしてもらうようにすると値段的にも、またいつでもお互いに好きなときにメールを開くことができますから、より良いお交わりができるのですね。彼女にさっそく伝えたいと思います。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
解説 ウエストミンスター信仰告白 (29)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第14章 救拯的信仰について・・・2・・・
2 この信仰によって、キリスト者は、み言葉において語られる神ご自身の権威のために、そこに啓示されてあるすべての事柄を真実であると信じ(1)、そのそれぞれの個々の章句が含んでいる事柄に応じて異なって行動する。すなわち命令には従い(2)、威嚇にはおののき(3)、この世の命と後の世の命への約束は信じる(4)。しかし救拯的信仰のおもな行為は、義認と聖化と永遠の命のため、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、受けいれ、寄り頼むことである(5)。
1 ヨハネ4:42、Ⅰテサロニケ2:13、Ⅰヨハネ5:10、行伝24:14
2 ロマ16:26
3 イザヤ66:2
4 ヘブル11:13、Ⅰテモテ4:8
5 ヨハネ1:12、行伝16:31、ガラテヤ2:20、行伝15:11
二 この一項は特に重要である。改革派教会で言う信仰の意味、み言葉の意味がここによく説明されているからである。たとえば、へブル人への手紙4章12節の「神の言は生きていて・・・」を、どのように理解するかであるが、アウグスチヌスは「福音」と解釈し、ルターは、「律法」と解釈したが、カルヴァンは「聖書」と解釈したが、カルヴァンによると、信仰は聖書(神の言葉)によって生じるが、それは「福音」に 限るのである。しかし、いったん信仰が生じると、この信仰は一切のみ言葉を真理として、これに従うようになる。第4章「創造について」の二項にあるように旧約の時代から、すでに福音は存在していたのである。また信仰は、神への服従であるとも解釈されている(ローマ1:5)。
カルヴァン的理解が、このウエストミンスター信仰告白が採用している見解であり、その意味の神の言葉と信仰との関係はへブル人への手紙が、最もよく示しているところである。この信仰の一番大切な任務は、キリストを救い主として受け入れることであって、「・・・。わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか(へブル4:14)といわれているとおりである。
3 この信仰は、程度に強弱の相違があって(1)、しばしば、またいろいろと攻めこまれたり、弱くされることもあるが、勝利を得(2)、多くの場合、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者である(3)。キリストによって、全き確信に至るまで成長するものである(4)。
1 ヘブル5:13,14、ロマ4:19,20、マタイ6:30、マタイ8:10
2 ルカ22:31,32、エペソ6:16、Ⅰヨハネ5:4,5
3 ヘブル12:2
三 この項は第13章「聖化について」の三項とまったく表裏の関係にある。聖化と信仰とは、結局、信仰と悔い改めの関係に置き換えてもよい問題であり、常に並行するものである。従って、救いの確かさと信仰の確かさとは、ともに手を携えて進行して行くものである。
ルカによる福音書11章1~13節に、イエスが弟子たちに教えた祈りが記されている。まず主の祈りを教えた後で、イエスは友人関係を例として、求める側の必要からくる熱意を、また、父子関係を例として、与える側の親心を述べて「どうして聖霊を下さらないことがあろうか」と言われている。
この二つの例話は、祈りの内容(何を祈るべきか)ではなく、どのような心がまえで祈るべきかを、示されたのである。つまり、熱心と期待をもって祈れと言われているのである。父はかならず私たちの必要を満たしてくださる方、と言う信仰をもって祈るべきであるが、その信仰を生む聖霊をくださる方であることを期待して、主の祈りを祈れと教えられたのである。救拯的信仰とは、このような信仰のことではないだろうか。
**********
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
さんびか物語 (8)
(広く愛唱されている50曲)・・・7
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌79番
ほめたたえよ、つくり主を
<神様のみ言葉>
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」。
~詩篇107編1節~
この讃美歌79番は父なる神、大能の神を歌っているもので、ここで素晴らしい感謝の歌を考えてまいりましょう。この讃美歌は、米国では感謝祭の礼拝でかならず歌われるものの一つです。この讃美歌にみられる深い感謝の心は、感謝祭の時ばかりではなく常に持ち続けなければなりません。
讃美歌79番の曲の方は、非常に古いもので、16世紀の中頃のスペイン、ホルトガル、オランダにはいろいろな愛国の歌が広く歌われていました。その時の有名な音楽家の一人が、アードアヌス・バァレリウスと言う人でした。
バァレリウスは、その愛国の歌を一つの聖歌集に納めて、1626年、彼の死後間もなく、ハーレム(Haarlem)で発表されました。彼の発表した聖歌集の中で、特に有名なものが、“われら主なる神に祈りまつる”という感謝の聖歌でした。
この歌のメロデーが讃美歌79番の曲の原旋律であり、そのもと歌は、古い民謡の旋律でした。このようなわけで、私たちの讃美歌には、“古いオランダの旋律”と記されているのであります。
残念なことに、この歌集が発表されて後、200年もの間この聖歌集は忘れ去られていたのですが、幸いにもウイーンに住んでいた音楽家エドワード・クレームザーによって発見され、1877年に男性合唱曲としてドイツに紹介されました。クレームザーの編曲によってドイツで普及し、更に他の国々に広まりました。讃美歌79番の曲名は、この歌を初めてドイツに紹介したクレームザーの名前KREMSERと呼ばれるようになりました。
79番の歌詞の方は、あまり古いものではありません。原作者ジュリア・B・ケディ・コリーは1882年ニューヨークの有名は建築家の娘として生まれました。ミス・ケディはニューヨークのブリック長老教会の教会員でした。後に彼女は、ロバート・H・コリーと結婚してから、イングルウッドに転居しました。1904年コリー夫人は、ブリック長老教会のオルガニストをしていた、J・アチャーギブソンから依頼されて、新しい歌詞をクレームザーの曲に合わせて、この素晴らしい讃美歌を作りました。
彼女自身の話によりますと、この讃美歌の言葉は16世紀末、オランダが解放された時に歌われた勝利の歌とは、全く別の言葉を用いて、新しいオリジナルな詩であるということです。ここでコリー夫人がお書きになった、素晴らしい言葉を共に学びましょう。
<79>
1 ほめたたえよ、つくりぬしを、
きよきみまえにひれふし、
ささげまつれ、身をも魂をも、
たくいなき御名をあがめて。
1節で、私たちにすすめていますことは、造り主なる神様をほめたたえることであります。“ほめたたえよ、造り主を、きよき御前にひれふし”とあります。私たち人間は、今日、何を神として崇めているでしょうか?偶像の神々でなないでしょうか。持ち物ではないでしょうか。
私たちひとりひとりを造られた主、よろずの物を造られた主をほめたたえるのは当たり前のことではなでしょうか。しかし、事実多くの人々は、神様をほめたたえるのではなく、己をほめたたえています。神のきよきみ前にひれ伏すどころか、欲の奴隷になり、富にひれ伏しています。しかし、私たちの神様の類いなきみ名を崇め、身も魂をも捧げ全き服従に生きる時、まことの平安と喜びを知ることが出来るのであります。
2 くすしきかな、かみのちから、
あらぶる波をしずめて、
あやうきより御民を守り、
この世のなやみに勝たしむ。
2節では、神様のくすしきみ力を歌っています。そのみ力は、荒ぶる波を静めることがお出来になり、私たちをあやうきより守って、この世の悩みに勝たしむみ力であると記しています。
詩編107編の作者ダビデも‘主があらしを静めると、波はやんだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。’(107:29~30)と歌っています。あなたも、主のくすしきみ力をご自分のものとなさいませんか。あなたを、その望む港へ導かれる主を、お求めになりませんか。
3 めぐみの神、さかえの主を
もろごえあげてたたえよ。
つよき手もてみちびきたもう
主にのみみさかえつきざれ。
3節で作詞者の讃美は、素晴らしいクライマックスに達します。‘もろごえあげて恵みの神、栄えの主をたたえよ’と歌っています。詩編の作者も‘主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。’と歌っています(2、8)。また「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた」と6~7節に記されています。
神様が‘強き手もて導きたもう’まっすぐな道は、永遠のいのちへの道であります。私たちの住むべき永遠の町、天国に行き着くまで導きたもうのは、生けるまことの神様であられます。あなたもこの強きみ手に依り頼み、この世の荒海から守られて、住むべき永遠の町に着くまで、まっすぐに進んで下さい。
=「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
ビルマ
戦犯者の獄中記 (44) 遠山良作 著
昭和22年
4月29日
―天長節を迎えて―
灯のない夜の牢獄は長い。それだけに朝は待ち遠しい。まだ薄暗いと言うのに隣りの房から掃除をしている音が聞こえてくる。夜中、無数に飛び交っていた蚊も夜明けとともに何処かへ飛んで行き爽やかな朝を迎える。
今日は天長節(天皇誕生の日)。昨日から今朝のために汲み置いた水で洗顔をし、残された唯一着の軍服を着ると、急に身が引き締まる思いである。高級部員出田大佐の指揮に従って、各房から一斉に「君が代」を歌い、そして東方に向かって遥拝と万歳を三唱して天長節を祝った。
かつては大空に日章旗を掲げて陛下に弥栄をお祝いしたものである。今日は牢獄で祝う行事に感慨無量である。陛下も祖国の惨状を見てどんなにお嘆きになっていられることであろう。
明けやらぬ ひとやゆさぶり 万歳を 今日の佳き日に 我等唱えり
4月30日
―現地人の友情―
果てることもない苦しみの日々ではあるが、同房の田室さんは笑顔で、弁護士と次の裁判の打ち合わせから帰って来た。彼が戦争中に親交の厚かった「ユーセイ」(ビルマ人)は今も昔と変わることなく、彼のために協力を惜しまない。
前の裁判(シャユワ事件)にも証人として証言台に立ち、彼のために弁護してくれた。今度の事件も弁護士側の証人として立つためにモールメンよりわざわざラングーンに来ている由である。我々敗戦国、しかも戦犯者の証人に立つことはビルマ国や占領国英軍にたて突くことを意味する。よほどの覚悟がなければ出来ない。当然、報復も予想されるからである。我々の仲間でさえ自分のために友を裏切ることさえ平気で行われている現状である。
人間が落ちぶれて誰も相手になってくれない時、救いの手を差し伸べてくれるほど嬉しいことはない。現地人の証言のみを採用裁判であるから田室さんの公判もきっと有利になることと思う。「ユーセイ」よありがとう。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・23
問20・・1 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
しかし、そのほかに法律違反でなくても「悪いことをした」とか「罪なことをした」とかいう場合があります。その場合には、法律上の適用対象にはならなくても、その人の内に、ということはその人が生きている社会において共通して「そういうことはしてはならない」と認められている規範があるからです。俗にいう「人の道」というものがあるわけで、倫理道徳と称せられているものはそれに該当するものでしょう。
上のように「してはならないことをする」ことが「罪」であって、この罪を犯した場合に法的に刑罰を受け、人々から非難され、自分で自分を責めるなど、罪に対する罰が課せられます。ただしそうは言っても、その規範が自分の内に規範となっていない場合には、罪が意識されることはありませんから、罪意識も無ければ罰せられて当然と思うこともないでしょう。それと、規範と言っても、時代と社会(国家、民族、ムラ社会など)における共通の価値観が認められていない状況においては、罪の内容理解も異なってきます。
そういうわけで、一口に罪といってもすべての人が共通して認める「してはならないこと」とは何かがはっきりしなければ、その違反も確定できないことになります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<11月のラジオ放送予定>
11月2日 志村 真(岐阜済美学院宗教総主事)
9日 志村 真(岐阜済美学院宗教総主事)
16日 笠井 恵二(中部学院大学特任教授・宗教主事)
23日 笠井 恵二(中部学院大学特任教授・宗教主事)
30日 西島麻里子(済美高等学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究 (118)
第66課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・1・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・1・・・
「神への献身」
この章の以下において語られる言葉は、キリストを信じる人々に対するものであって、非信仰者に対するものではありません。救われていない人たちは、ここで述べられているような種類の生活を始めることさえできないのです。そのような生活を送ることは未信者にとっても義務です。しかし、彼らは神の恵みによって救われ、そのように生きることを願うようになり、そのように生きる力を与えられるまでは、そうすることは出来ないのです。故に、救われていない人々に対して、キリスト者の生活やキリスト者の人生を生きるように呼びかける現代のいわゆる福音伝道はまことに愚かであると言わなければなりません。このような伝道活動は、その中に福音を含むのではなく、単なる倫理的教訓の形を採った助言ないしは忠告の類に過ぎないのです。
使徒パウロはここでキリスト者の生活における実践上の多くの義務を挙げています。この章はほぼあらゆる種類のキリスト者の義務を含んでいます。しかし、それらは無関係な事柄の単なる羅列ではありません。それらはキリスト者の人格と行為の特質として、相互に関係をもっています。
これらのキリスト者の人格の特質は共に考えられるべきであって、個々の一つだけ切り離して考えるべきではありません。どれか一つだけ抽出して強調し、その他のものを省略したりすることは出来ないのです。例えば12:16a
「互いに思うことをひとつにして」と言う言葉は、12:9aの「悪は憎み退け、善には親しみ結び」を打ち消すものであってはならないのです。これら二つの義務は共に取り上げられなければならず、常に相互にバランスを保つようにして守らなくてはならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
反抗期の娘と勉強嫌いの息子に悩まされています。何を聞いても無視の娘。好きなゲームに夢中の息子。主人は無関心。ああ・・どうなるんだろう~と母に愚痴を言ったら、あら~そう・・・、やっぱり親子だね。娘と息子を一つにしたのがあんたそのままよ!親子ってそういうところは似るものなのね・・・と笑われました。そういえば、机の上も教科書と漫画の山、枕もとは汚れた着替えの山。片付けなさいといわれても無視・・・・。そんな反抗期の自分を思い出し、娘を見て苦笑い。私そっくりで、一安心。何とかなるんだよね。
福井県 S・Kさん
暑い夏も過ぎ、気がつけば町中が金木犀の甘い香りに包まれていました。広い田んぼも稲刈りが終わり、空き地の草むらではススキの穂が風に揺れ、コスモスも色優しく秋風にそよいでいます。季節は時に詩人にするようです。年甲斐もなく感傷的になりました。
岡山県 S・Kさん
三年ほど、仕事上のストレスで家におられたお嬢さんが、近くのコンビニで働いているお姿を拝見しました。活発なお嬢さんでしたが、少しお痩せになっていましたが、元気そうでした。きっとこれからご自分を見つけられるでしょう。自分探しの時だったのだと思いました。
長崎県 K・Aさん
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」