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「ローマ人への手紙」研究 (117)
第65課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (28)
「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
11:34~35
アルミニウス主義は今日の世界の福音主義的・根本主義的諸教会に広く浸透しています。この問題は、アルミニウス主義は純粋に学術的間題のものであり、実際上には大したことはないと言う人たちがいます。しかし、アルミニウス主義の考えによれば、悔い改めてキリストを信じるように決定する要因は、聖霊の有効召命と不可抗的恩恵の働きを受けていない罪ある人間の力の中にあることになります。このことは、更に、生まれながらの人間が事実上、全的には堕落していない、すなわち罪と罪科の中に死んではいないことになるでしょう。だから、アルミニウス主義は重大な結果をもたらすことが分かるのです。
人間は神を如何なる束縛の下に置くことも出来ません。何故なら、神ご自身こそ万物の根源、原因、目的であるからです。「万物が存在するのは、神の御性質が現されるためであり、被造物は神に比べるならば無に等しいのです。人間の知識も力も徳も、神の栄光の輝きの反映に過ぎないのです。
だから、この宗教体系、すなわちカルヴィン主義こそ、神の御性質、人間の性質、宇宙の目的に最もよく適合するものです。カルヴィン主義によれば、まさに万物は神からいで、神のよって成り、神に帰するのであり、それは直ちに人をして『すべての栄光は、私たちにではなく、神にある』と言われるものです」(ホッジ)。
ここで、私たちはローマ書のいわゆる教理部分の学びを終わるのです。ここまでの11の章で、神の救いの計画が提示され、聖書の他のどのような部分よりも完全に弁証されてきました。「すべてを貫く指導原理は、神がすべての良きものの根源であり、堕落した人間の中には如何なる功績も能力も無く、従って、救いはすべて神の恵みによるのであるということである。『万物は、神からいで、神によってなり、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン』」(ホッジ)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
今、我慢できなくておむすびを二つ食べました。コンビニのおむすびはおいしいです。あと4つぐらい食べたいです。外は雨で寒かったです。また野良猫のパミーが餌を食べにきていました。体調が悪く三日程、寝手てばかり・・・。お風呂も入っていません。不思議なものですね、それでも平気になります。その異常さに長い間気付かないのです。膠原病になって30年になりました。国から生活保護を貰っていますが、使い道がないのです。昔、私は純粋だったのでしょうね。まわりの女の子がお金持ちだったらどんなおじいさんでも結婚しちゃうなんて言っていたからびっくりしていました。そんなにお金のことは考えてなかったから、打算的に見えました。私は愛があれば貧乏でもいいと思ってました。でも貧乏がこんなに辛いとは思ってなかったです。唯一の支えは、祈りの本を読むこと、聖書を読むこと、こうして「ジャーナルさん」にメールすることです。もう何十年も礼拝には行っていません。クリスチャンなんだから毎週きちんと礼拝を守りなさいと言われた言葉が今も心にあります。
埼玉県 S・Kさん
こちらは稲刈りも終わりに近づきました。天候不順に悩まされましたが、丹精込めたお米の収穫をされている農家の方々の笑顔が素晴らしいと思いました。日々の家事の仕事に疲れたのか、「笑顔」のない日々に愕然としました。リフレッシュなどと言う言葉にも無反応・・・。何を見ても無関心・・・。主人や子供たちの会話にも、聞き流し・・・。そんな自分の今に気付かされました。
「モチベーション」と言う言葉を聞いたり読んだりすると、自己嫌悪を感じるのです。主婦業に「モチベーション」なんて似合わないし、持ちたくない!もっと何かがあるはずなのに・・・と考えると、今の自分がいやになるし、そんな自分が嫌いになります。結婚して17年目、心に「笑顔」を・・・と思っています。「ジャーナル」をお読みの皆さんには「笑顔」はございますか・・・。
秋田県 K・Kさん
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
★ おはようございます。先週は台風、今週は風邪で礼拝休みました。実家から村の奥の方で堤防決壊があり 実家は 床下浸水、奥の方の家は床上浸水の被害にあったと連絡が入りました。幸い長兄が帰っていたのでなんとかしたみたいで良かったです。ばあちゃん一人だから心配してますが、高齢者の村なので奥の方の方々はどうしておられるのでしょう。何も出来ませんが 祈るのみです。
★ 62歳の主婦です。「ジャーナル」にメールする人は、皆さん幸福そうです。しかし、今までの私には楽しかったことは一度もありません。夫は私を女中か奴隷扱い。怒鳴る、切れる、物をぶつける。壁には沢山の痕がある。死にたいと何度も思った。でも生きるということは大変なことなんだよ、言われる。頑張るしかないんだよ、頑張るんだよ、とエホバの証人の人に言われました。本当にそうだなと思いました。幸せになりたいのです。主人からありがとう、て言われたいのです
★ 長かった夏休みも終わり、急いで仕上げた宿題を抱えて登校した娘と息子、娘は来年から中学生、衣替えで押入れの整理をしていたら、私の中学生のころのアルバムが出てきた。懐かしく見入っていたら、病気で亡くなった友の顔に涙が出ました。アルバの顔は、時が止まっています。この頃、何を考えていたのだろうと振り返っても思い出さない。そうだ、今の娘を見つめなおして、そのときを思い出そう。アイドルに夢中になっていた!クラスの男友だちが好きだった。意地悪もした。・・・。そんな私を母は見守ってくれていたと思う。
母の祈りに支えられていたと思った。お母さん、ありごとう!と今はいない母を思い出しました。さあ、生意気は娘と息子の夕食を考えよう。ああ、ごめん、ごめん、お父さんを忘れてはいけませんね。
★ 朝5時に起きましたが痛かったのでまた寝ました。今も痛いです。やはりリュウマチの場合、朝がとても辛いです。生活が不規則で、周りの人は怠けていると言います。人の痛みや病気の辛さも知らないのに、勝手なことを言うな!と部屋の中で今も叫んでいます。聖霊派の婦人には、あなたには悪霊がついているから、悪魔祓いをしてもらいなさいとか、言われ続けてきました。そんな私に悪態をメールさせてくれるので、そういう「ジャーナルさん」の存在に感謝していますよ。これからも、毎日、毎日、何度も何度も何度も「悪態メール」します!今はお祈りを忘れるくらい不安で不安で・・・。
★ ふるさと就職を希望して4年目になりました。じいちゃんやばあちゃんのことを考えて決めました。私たち若者世代は、一度は親元を離れて生活することはよい経験になりますが、ふるさと就職を考えたとき、クラスメートのいないことに驚きました。地方の衰退が言われていますが、安易な都会思考が大きな原因ではないかと、考えています。おじいちゃんや親の職業を引き継ぐためではなく、自分の可能性を持ってふるさと就職を考えたらいいのになあ、と考えた結論なので、今は毎日が充実しています。
『ありがとうございます』
猛暑と災害の夏でしたが、今も天災・人災・企業災が未解決の現実を受け止めていたいと思っています。中部日本放送を局をキー局にした、ラジオ伝道を行うと共に、文書・活字を活用した、月刊「つのぶえ」(57年3ヶ月後に廃刊)を刊行したものをホームページ「つのぶえジャーナル」(7年2ヶ月)として継続してまいりました。お読みくださっている方には月刊「つのぶえ」時代の方もおられます。同時に、ラジオを聞いてお便りくださった方には、従来通り、3ケ月間贈呈させていただいております。放送の声は消えますが、文字は消えません。読み返すことも出来ます。その長所を用いて、活動してまいります。今後共よろしくお願い申し上げます。
『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社』の活動のための寄付者
川島みゆき様 武知 隆様 馬場暁美様 宇都宮真様
2014年8月16日から9月15日まで
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
『水琴窟』
溝そばと赤のまんまと咲きうづみ 虚子
秋は収穫を感謝する祭りが世界の各地にあるようです。苦役の報酬を共に祝う喜びの時節を、人々にお与えくださったのが「感謝祭・祭り」なのでしょう。
平和の祭典とか、科学・文化・芸術に優れた業績を称えることも、その恵みを共に分かち合う時、それを誇りに思える。
また、日頃、なかなか感謝の言葉を言い出せない人のために、生活や周りの人に感謝の思いを伝える日となったら、心豊かになるだろうに・・・。「感謝祭」Thanks(ありがとう)をgive(与える)・・・日が世界の隅々にまで広がクコとを願う「祭り」を、虚子の詩を読んで物思いにふけるひと時・・・。
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です。
=詩篇89:7=
「集い」には、その集まりの雰囲気、独特の臭いとでも言うべきものがあるでしょう。私たちもその雰囲気・臭いで参加することがあります。音楽会、同好の集い、政治的な集い、上品であれ下品であれ、雰囲気を感じます。今流で言えば異業種の集い、宗教的な集いもあります。その集まりの雰囲気でこれからの参加・不参加を判断する人もいるでしょう。
キリスト者の雰囲気・臭いがあるとすれば、クリスチャンは、鈍感より敏感であるべきでしょう。聖書の中には「聖なる者の集い」について語られています。そうして、その「集い」の中心が「恐るべき神」であるというのです。もし、楽しい雰囲気であるならば、気軽に集えるでしょうが、「恐るべき神」の「集い」であれば、心を整え、身支度して参加することでしょう。
教会の入り口に「お気軽にお入りください」という案内を掲示したら、教会をどのように見るでしょうか。そこに集う人々をどのように想像するでしょうか。病院の入り口に「お気軽にご利用ください」と案内されたら、信頼できるでしょうか。
「教会」が気後れする場所、敷居の高い所、「聖なる集い」であるなら、そこに集う一人一人もまた、神の招きを受けた喜びと畏れを抱いて集うでしょう。
信仰者であっても弱い人間です。疑い迷う者です。言葉では「信頼いたします」と言いつつ、心乱す者です。無気力が次の無気力になります。
「今月のことば」の「主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神」は、弱さに慄き、信仰の乏しい心を知って集う者に対して恐れ慄かせる神でしょうか。「教会」に集う者の願いは、自分の崩れそうな信仰に新しい力を求め、神の愛によって立て直していただく希望をもって集うのです。「教会」は「集い」の場です。ただ一人で神のみ前に集っても、そこに祈りの友、支えてくれる人がいるのです。
孤独になり、友のいることを見失っている時、あなたの隣りに、愛に富みたもう「恐るべき神」のおられることに感謝したいものです。
小閑記
もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理はあなたがたに自由を得させるであろう。
=ヨハネ8:31~32=
神と共に生きる生活は、私たちが神のみ言葉のうちにとどまっていなければ、続けることは出来ません。聖書を捨ててなお自分はキリスト者であると思う人は、うそ偽りの生活をしているのです。地図も目的地も知らずに旅する人はおりませんし、ましてや人生の旅が出来るなどと思う人は、自分を偽っているのです。
神のみ言葉にとどまるということは、単に聖書を読むということばかりを意味するものではありません。それはまず徹頭徹尾、心に神のみ言葉のために、場を与え、それに基づいて生きることであります。
また、イエス様の弟子である人々の特徴は、何かを要求し、裁きを宣告したがり、道を示す言葉のみを研究し、考え、自分に当てはめることを好みますが、恵みと許しのみ言葉については触れずにおります。また他の人々は、慰め、励まし、幸いにする言葉のみを知りたがります。
こういう見方は両方とも、一方的であって危険をはらんでいます。もし真理が私たちに自由を得させるならば、要求や審判や慰めはすべて私たちの心に場所を見出すはずです。もし私たちのまわりの真理がすべてであるならば、心も自由を得させる真理に対して閉じられるでしょう。
キリスト者の生活を支配する根本的な掟は、罪と恵みについてのみ言葉でありま す。罪の認識の欠けるところに、恵みはもはや働くことは出来ません。しかし、人が恵みの扉を叩く時、神は恵みに恵みを加えられるのです。こうして真理は私たちを自由にします。
この点で、私たちがイエス様の弟子であるならば、キリスト者として、清く幸いな生活を送ることが出来るように、真理は私たちを自由にし、力となるのです。
上河原立雄
眸
15年程前からボランティアでお年寄りの話し相手に行っておりました。そこでは、仲間に入りゲームや老人体操をする人もいれば、頑なに興味を示さない人もいました。今は私もお話し相手を待つ身になりましたが、やはり参加しない人もおります。大笑いをしていても、ふと寂しさが表に出ます。職員さんが、ここを出るときは亡くなる時と恐れているんです、と言われました。そうなんです。私はここを出るときは、神様のみ国へ行く時なんだと、当り前のように考えて生きてきましたので、とても不思議な感じがいたしました。信仰が与えられて60年以上になりましたが、本当の平安は神様からクリスチャンお一人お一人に、神の国の約束を下さっていることをだと思い、感謝しています。個室に戻るとCDで讃美歌を聞き、聖書を読み祈り、またPCおばあさんになって「つのぶえジャーナルさん」のお世話になっております。毎月、楽しみにしています。
愛媛県 D・Kさん
中学時代のクラス会があり、埼玉から初めて参加しました。昔の面影のない駅前は寂しい限りでした。行く前に中学生時代の写真を見ていたのですが、目の前にいる人の面影はわかるのですが、名前が出てきません。あのあの・・・、ええ・・・との言葉がお互いの最初の挨拶になり大笑いでした。うちとけると昔の呼び名になっていました。会も終わり、いくつかのグループになり、一人がカラオケに行こうと言い出したがMちゃんはクリスチャンだからというのに、むきになって参加しました。全く初めてのことで何だかよく分かりませんでしたが、少女時代の歌を歌いました。もう会う機会の無い友と楽しく過ごしました。うれしかったことは、私がクリスチャンであることを知ってくれていたことです。・・・。
埼玉県 T・Mさん
自閉症者のひとりごと
(87)
7月19日
すぐにというわけではないですが、緑内障の進行を、毎日の点眼薬で食い止める治療をしています。定期的な検査も欠かせません。普段は市内の眼科に行き、半年に一度は大学病院の眼科に行って、投薬処方と検査をしてもらいます。この大学病院は、緑内障を得意としているからです。ここで高眼圧症が見付かったという、腐れ縁みたいなものです。しかし、しばらく通院出来ずにいたので、薬が切れているので、また大目玉を喰らうことでしょう。あちこち悪いのは本当に困ります。
8月6日
私のような病気持ちは、暑さに弱い、眩しい太陽はもっと苦手だ。どちらも防ぎようがない。気持ち的には、ストレスなんて言うものでなく、イライラして何かを壊したくなるような抑えきれない衝動に駆られる。自分で自分が怖い。
薬は「毒」でもある。一つを抑えると、逆の副作用が出る。今は、無性に頭の毛を引っ張ったり、掻き毟って傷だらけだ。ああイヤだ!!
加納さおり
木
お花がちって 実がうれて、
その実が落ちて 葉が落ちて、
それから芽が出て 花が咲く。
そうして何べん まわったら
この木はご用が すむかしら。 金子みすゞ
世田谷通信
(130)
猫 草
長男と一緒に漢文や古典を読むことがある。彼は数学大好き根っからの理系人間なので、行間を読む文系科目は苦手、でも試験前にはなんとかやっつけなくてはいけない。翻って私は文章ならなんでもござれ、の活字中毒。短時間で解説してくれ!と頼まれればやぶさかではない。そんな事情である。
私もそういう機会でもなければ平安時代の古典などひもとかない。いわんや漢文をや、である。しかし1000年のときを超えて残ってきた文章は珠玉。切り刻まれて教科書に載せられている短文程度でもなお輝きを失わない。素朴で無駄がない。大河の下流の河川敷でみつけることのできる、長期間流れに洗われて、すべすべになった小さな丸い小石のようである。
先日、友人と「徒然草」展を見に行った。インターネットどころか、印刷やコピーの技術のなかった時代に、あれだけ大量の随筆が多くの異なる人間の筆跡で丁寧に書きうつされ、美しい表紙で綴られ、豪華な箱の中に収められて、現在まで完全に保管されている。まさに「言葉は宝」だったのだなあと思う。人の手になるものなので、どうしても異本がでてくる。どれが最も原本に近いものなのか、種々雑多な本を引き比べて、系統を整理し、底本といわれるベースラインを決めていくのも文学研究の一分野である。
今の電子書籍や書店や図書館にあふれかえる大量の本をみたら、1000年前の人たちはなんと言うだろう。「わろし」と一言いわれそうな気もする。
使い捨てられる言葉、書き捨てられる紙、読んだつもりで目の端からこぼれおちていく情報の中で私たち自身が流れにまかれて磨り減っては居ないか。
毎日一体何通のメールや文章を書いては送信し、書いては修正しを繰り返しているのだろう。それは磨かれず、単に澱のように沈殿していくだけのものである。本当に自分の気持ちとむきあった一言を探したい、そんな気持ちになる。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
その愛のゆえに
=時々の記=
(101)
7月14日
これからいよいよ夏本番ですね。この熱帯地方のような蒸し暑さはやはり異常な気がいたします。あちこちで夏祭りが催されています。京都で通信教育を受けていた夏の4週間を思い出しています。
昼間はスクーリングで暑い運動場で陸上競技のテストです。午後からは室内で音楽の授業です。仕事に就きながらのスクーリングはきつかったけれど、若さで乗り切ることができたのだと懐かしく思い出しているこの頃です。その時に京都、「五山の送り火」を見ることができ、同じ通信教育生たちと暗い夜空に広がる大きな文字を見入りながら、京都での夏の生活を無事に終えることができたことに感謝した40年前の出来事です。
7月15日
今日、私宛に見慣れない文字のはがきが届きました。誰からだろうと思って表を見ると、ブドウ屋さんからでした。亡き母が果物の中でブドウを最も好んでいましたので、いつも一番乗りにブドウを買い求めて届けていたのです。母はブドウを持っていくととても喜んで、いつも聖書の7”私はブドウの木、あなた方はその枝である”を引用して、ほおばっていた姿を思い出しています。
7月17日
汗がじっとしていても噴き出てきます。いよいよ梅雨明け間近かですね。じっと座っているだけでも汗が流れてきます。風がなく暑さがこもっているのです。
草刈り機止めれば鳥の声ありぬ。
過疎進み原生林の茂りをり。
畔刈られ黒き程なる青田かな。
下草の刈られ笹百合そこここに。
道作り里へ帰りて草を刈る。 馬場路哉。
昨日から朝6時30分から主人がラジオ体操をしているので、私も何十年ぶりかでしてみました。第一と第二を続けて凡そ十分。結構きつく感じました。若いときには平気だったちょっとした運動が堪えました。今日は足が痛みます。三日坊主になりそうな気がいたします。あまり無理をしないでおこうと考えています。
7月22日
主人は6ケ月の定期診察からつい先ほど、三重大学病院から無事に帰ってきました。皆様のお祈りに支えられ、今回も異常なしと言っていただいて帰ることができました。神様はこの様な私たちを憐れんでくださり、またしばらくの間御用をさせていただけますことに心から感謝いたします。何事もなければ、次回の診察は来年の1月20日まで神様のご用ができますことは、本当に嬉しいことです。
7月30日
こちらは蒸し暑い一日でしたが、先ほどからとても激しい夕立でした。おかげで、ちょっと涼しくなり恵みの雨で草花が喜んでいます。
奥まるる吹奏楽部緑さす。
ねじ花のねじり具合に個性あり。
山の上の萩一株の走り咲く。
田の面波打てるなりハスの花。
しもつけの咲くや礎石の廃寺跡。 馬場路哉。
今週は佐世保の事件でとても考えさせられました。神様の愛をいつも覚えて生きて行かなければと。私たちは無力なものです。そして想像もしていなかったことに出くわしては戸惑い、慌てます。イエス様を信じる者はそのような不条理な試練に出くわしたとしても、神様にもう一度目を向けて、祈ることができますから幸いです。そのことに感謝したいものです。
8月6日
宝塚におられるTさんご一家とはもう58年も前にさかのぼります。Tさんのお母様Sさんは、私たち家族を快くご自宅を開放してくださり、日曜日の夕拝を始めることができたのでした。その前の路傍伝道もTさんご一家6名と牧師一家5名だけのものでしたが、次第にその輪が広がり、15名ほどで
こちら山添では、夏の行事が目白押しにやってきています。そんな中、今日、信友のお母様が倒れられ、老健施設に入所されたとの連絡がはいりましたので、合間を縫って駆け足でお見舞いに行ってきました。96歳になられていても認知がなく、しっかりとされていました。でも腰が圧迫骨折されているとのこと。
安静を余儀なくされているので、足腰の筋力が弱ってしまうと信友は心配していました。お別れするときに、私に‘あなたの御恩は一生忘れませんよ’といってくださり、何だか尊い遺言のようにさえ感じとることができた一瞬でした。
明日はまた年に一度の井戸替えの行事です。皆年齢を重ねて次第に井戸の水をくみ出す力がなくなってきました。できる範囲のことにしておこうと話し合っています。次は
8月11日
山添は台風が大きな被害をもたらすことなく過ぎ去ってくれました。ほっとしています。大雨が降っている最中ですのに、遠くで鳩が鳴き出しました。それを聞いて主人はもうすぐこの雨が小雨になり、止むはずだというのです。昔から田舎ではそう言い伝えられているらしいのです。それを聞いて、私はノアの方舟のことを思い出しました。ノアも雨が止んでいるかどうかを確かめるために鳩を外へ放し、オリーブの木の葉っぱを鳩が持って帰ったのを見て雨が止んでいることに感謝したあのお話をです。これ以上降り続けられると家の裏山が土砂崩れに会うのではと案じていましたが。無事で神様に感謝いたしました。名古屋はどうでしたでしょうか。テレビの映像ではとても激しく雨が降っていました。
ゴロゴロと岩従へり夏の川。
白鷺の雨の浮き洲を動かざる。
草刈りやぬた場に足を取られつつ。
荒梅雨やカラスぴょんぴょん歩きけり。 馬場路哉。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
解説 ウエストミンスター信仰告白 (27)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第13章 聖化について
1 有効に召命され、再生された者たちは、自身のうちに創造された新しい心と新しい霊を持っているので、み言葉と彼らに内住するみたまで(1)、キリストの死と復活の力によって、実質的に人格的に、さらに聖とされる(2)。罪の全身にわたる支配が破壊され(3)、そのいろいろな欲情は段々に弱められ、殺されていくし(4)、また彼らは、それなしには、だれも主を見ることができないところの真の聖潔の実践にむかって(5)、すべての救いの恵みに段々生かされ強くされていく(6)。
1 ヨハネ17:17、エペソ5:26、Ⅱテサロニケ2:13
2 Ⅰコリント6:11、行伝20:32、ピリピ3:10、ロマ6:5,6
3 ロマ6:6,14
4 ガラテヤ5:24、ロマ8:13
5 Ⅱコリント7:1、ヘブライ12:14
6 コロサイ1:11、エペソ3:16-19
一 聖化の恵みは、要するに腐敗している性質(原罪)の聖化のことである。それは具体的には、悔い改めという形を通して戦いとられる、わたしたちの罪ある性質の滅殺であり、十字架を負うこととカルヴァンが言うところのものである。古い自分の肉的性質を克服させる聖霊のちからある働きに外ならない。主を見ることは最上の祝福であるが、それは自己否定と相関的に与えられるものである。
この聖化は、新生によって創造された新しい心と精神の成長であり、活動であって、キリストの死と復活との結合(洗礼はこのことのしるしである)によって与えられるものであり、み言葉を手段とし、み霊の活動によって生じる事柄である。
聖化は、キリスト者の善行によって与えられるのではなく、聖化によって善行が生まれてくるものなのである。また、どこまでも聖霊の活動であるけれども、同時にみ言葉を手段として与えるという限り、わたしたちのみ言葉への聴従を必要とするが、み霊の働きは密かなふだんの活動であるから、目に見える事柄ではない。
2 この聖化は、全人に行きわたるけれども(1)、この世にある間は未完成である。どの部分にもなお腐敗の残部が残っている(2)。そこから、絶え間のない和解できぬ戦いが生じ、肉の欲がみたまに反し、み霊もまた肉に反するのである(3)。
1 Ⅰテサロニケ5:23
2 Ⅰヨハネ1:10、ロマ7:18,23、ピリピ3:12
3 ガラテヤ5:17、Ⅰペテロ2:11
二 堕落が全的腐敗であるように、聖化も全的聖化であって、人間を構成するすべての部分に及ぶのであるが、同時に地上の生活での完全聖化はありえない。だから、クリスチャン生活のあるところ、常に霊と肉との戦いは絶えないのである。従って、悔い改めの必要も絶えないはずである。そこには進歩はあっても休戦はないし、あってはならない。
ただ一つ注意したいことは、ペテロの第二の手紙1章4節に「神の性質にあずかる」という句があるので、聖化とは、神性を分与されること、または人性が神性に変化することだと誤解する人々のあることである。人間性は罪がなくても被造物であって、神性とはまったく異性(質)的なものである。
聖化とは、罪性がきよめられることであって、罪なき本来の人間性に回復されることでなければならない。聖化が、主イエスのかたちに似せられるというのは、どこまでも無罪なイエスの人性に近づけられることであって、神の子と同性質のものとされるという意味ではない。
3 この戦いにおいて、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが(1)、それでもキリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る(2)。それで聖徒たちは、恵みに成長し(3)、神をおそれて聖潔を完成して行く(4)。
1 ロマ7:23
2 ロマ6:14、Ⅰヨハネ5:4、エペソ4:15,16
3 Ⅱペテロ3:18、Ⅱコリント3:18
4 Ⅱコリント7:1
三 この聖化の増進はかならずしも、一定の速度に従って進展するのではなく、場合によっては、一時的に停滞または後退を示すかも知れない。黙示録の繰辺法的注解(アウグスチヌスの考えたもので、歴史的直線的に終末に至る物語と見ないで、教会史の中で幾度も出現する現象として受け取る)に従う人たちは、個人としても教会としても、このような一進一退的な波乱のある戦況がクリスチャン生活の本来の姿であることを示すものと考える。
旧約の歴史に現れるイスラエルの荒野の生活や、カナン入国後の状況などは、実にこうした信者の生活の姿を具体的に絵画的に教示するものである。旧約の歴史で描かれている戦争は、実にこのような霊と肉との戦いの図に外ならないとも言えよう。
しかし、最後は神のはじめられた業がついに勝利するのである。一度救いに選ばれた者は決して恵みより落ちることはない。聖化は根本において、選ばれた神の意志の実現であるから、神を畏れて聖潔が成就するように祈り、(Ⅱコリント7:1)畏れおののきつつ自己の救いの成就することを祈り(ピリピ2:12)、信者自身の意思の力によるのではなく、自己の祈りと努力を自由意志的第二原因として用いることにより、神ご自身がわたしたちのうちに完成してくださるみ業なのである。
**********
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
さんびか物語 (6)
(広く愛唱されている50曲)・・・5
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌62番
主イエスのみいつと みめぐみとを
<神様のみ言葉>
「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います」。
=詩篇9編1節、2節=
この讃美歌は礼拝の時に歌われるもので、讃美歌62番の作詞者チャールス・ウェスレー(1707~1788)は、英国教会聖職者サムエル・ウェスレーと妻のスザンナの18番目の子供としてエブウォスで生まれました。チャールスは8歳の時、兄サムエルが教えていたロンドンのウエストミンスター・スクールに入学し、そこからオックスフォード大学へ進みました。卒業後兄のジョンとともに、伝道のためにアメリカに渡りました。しかし、事志しと反して、再び、イギリスに帰ってきました。
1738年、ジョンと一緒にモラヴィア派の集会で回心を経験いたしました。それ以来、この二人の兄弟はイギリスの信仰復興のために、各地で信仰運動を熱心に続けました。ジョンの方は、国教会から分離してメソジスト派の有力なリーダーになりましたが、チャールスは母教会にとどまり、特に社会から見捨てられていた哀れな人々に向かって、熱心に神の愛とキリストの救いを宣べ伝えたのであります。
また、開拓伝道を行い、多くの人々に福音を伝えた彼は、説教者としても兄に劣らなかったそうです。
しかし、彼の本来の才能は詩人として素晴らしい花を咲かせました。彼が回心の結果、真の信仰に目覚めてから、彼の心には泉のように詩が湧いてきて、毎週数編の讃美歌を作り、一生の間に作った数は、6,500以上と言われています。
彼はメソジスト運動の代表的歌人であるばかりでなく、英語讃美歌作者の中での王とも言われ、この運動の成長、発展に大いに役立つところがありました。
1954年版の讃美歌には、彼の作品が14曲ほど収められています。その中かでも一番有名なものとしては273番の“わがたましいを愛するイエスよ”であります。その讃美歌は世界中の国々の言葉で歌われている、あつき信仰に満ちた素晴らしい歌です。
62番の讃美歌も、彼の5本の指に数えられるものの一つで、この歌は、彼の回心1年を記念して、1739年に作られたもので、初めのもは19節から成っていましたが、今日では原作の7節から12節だけが歌われています。英語の初めの行“O for a thousand tongues to sing my great Redeemer’s praise”(千言万語を費やしても、神への讃美を言い尽くせない)は、ウェスレー兄弟を回心に導いたモラヴィア派の伝道者ペーター・ベーラーの表現にもとずいていると言われています
讃美歌AZMONの原作者カール・G・グレーザー(1780)はドイツのラィプッィヒの聖トマス学校で法律を学んでいましたが卒業後、ブレメンで楽器店を経営しながらピアノ、バイオリン、声楽などを教え、合唱団を指揮し、合唱曲や独唱曲の作曲などをしていました。
編曲者ロウエル・メイスン(1839)は、独学で音楽を学び、20歳までにあらゆる楽器の奏法を習得しました。20歳の時ジョージヤ州のサヴァナ市に行って、銀行員になりましたが、夜は音楽の勉強を続け合唱団を指揮し音楽を教えていました。
1822年、彼はボストンに移り当時の人々に好評を得た聖歌集を出版しています。その後、G・J・ウェブと共に、ボストン音楽学校を設立し、「アメリカ讃美歌の父」「アメリカの音楽教育の父」と称せられるほどの著名な人物になりました。
彼は、特にヨーロッパの讃美歌を多く編曲し、アメリカの人々に親しまれる作品へと生まれ変えさせました。
AZMONもその一つで、原曲はグレーザーのどの曲であったかは不明ですが、1839年にメイスンの出版した讃美歌集で、この曲が初めて編曲され発表されました。
<62>
1 主イエスのみいつと みめぐみとを
ことばのかぎりに たたえまほし。
2 とうときわが主よ たかき御名を
ひろむるこの身を たすけたまえ
3 うれいをなぐさめ おそれを去る
み名をばつみびと 聞くうれしさ。
4 くらきのちからを イエスはくだき
血をもてあがない すくいたもう。
5 死にたるこころも 活きかえらせ
のぞみをあたうる み名をたたえん。
1節では、神様を讃美する言葉ではじまり讃美する言葉で終わっています。讃美歌は神様を讃美するために書かれたものですから当然といえますが、その言葉の一つ一つに神様の聖名と救いのみ業と私たちに対する愛とが歌われ、信仰の喜びと感謝の心が表現されていなければ、讃美の歌とはなりません。“主イエスのみいつとみ恵みとを、言葉の限りに”たたえなければならない、と作者は教えます。
私たちも、いつも信仰の喜びに満たされて、心から讃美の歌声をもって、主をほめたたえたいと思います。
2節では、伝道者の唯一の責任を中心にして歌っています。私たちクリスチャンには、イエス様がマタイの福音書28章19節以下に示されていますように「あらゆる国の人々に」尊き主イエス・キリストのみ名と福音を宣べ伝えなければならないという、偉大なそして大切な役割があります。
それは、「この方(主イエス・キリスト)以外にはだれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と記されているからです。
この尊い責任を十分にはたし得るためにも、私たちは、主イエス・キリストのもとに助けを求めることを2節で教えています。
3節から5節では、うれいの中にある人、恐れをいだいている人、罪に打ちひしがれている人、暗闇の中にとじ込められている人、望みを失っている人、死に直面している人々に向かって、主イエス・キリストのみが与えてくださる慰めとみ力、十字架の尊い血しおによって獲得なさったみ救いを、その人その人の必要に答えて、豊かにお与えくださることを力強くあかしされています。
そうして、再びキリスト(救い主)であられる神様のみもとに立ち返ることをすすめています。時代が変わり、歴史が移りましても、この尊い福音のメッセージは永遠に変わることはありません。
イエス様が、バプテスマのヨハネの弟子にお語りになられたみ言葉を、今一度、ここでお読み下さい。
「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、耳の聞こえない人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(ルカ7:22~23)。
皆さまも、このキリストのお与え下さる幸いを味わい知るために、自分のものにするために、自分の罪を神様のみ前に告白し、悔い改めて、十字架のもとへ行かなければなりません。
どうぞ、自分のこの世の肉の人間的なプライドを捨てて、主イエス・キリストにつまずくことなく、キリストに立ち返ってください!
=「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、
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東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」