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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 世田谷通信

 (128)

 猫 草

受験シーズンは風邪やノロやインフルエンザには皆さん殊更に緊張感を持っており、その時期、小学校で給食の前にこんな全校放送が入る。「皆さん、牛乳の入ったカゴは床に置かないでください」「牛乳びんのフタは給食当番がまとめて開けず、自分の分は自分で開けましょう」ふむ。なるほど、感染予防、自己責任、というわけだ。

休み時間が終わる頃には「みなさん外から戻ったら手洗い、うがいをしてから教室に入りましょう」とまた放送がかかる。予防も万全の体制だ。

注意はしていても、嘔吐の風邪も流行っており、今年は誰かが教室で吐くと、他の子ども達は図書室に廊下に出されるのだ。寒いので図書室に避難しに来ることもよくある。そして本人と先生は保健室、後の処理は主事さんや副校長先生がバケツと雑巾と消毒液の大きなビンを抱えて出動となる。ご苦労様。隔離と消毒で二次感染拡大を防ぐ、というわけで、これまた、とても適切な処置。

アレルギーで食べられないものが給食で出たりすると、その子達はおにぎり等を持参してくることになっている。無理に食べさせショック症状が起きては大変なので、これも納得の対処。一昔前の「給食は絶対残しちゃいけません」「好き嫌いする子はだめ」とか、かなり強引に全員が全種類食べ終わるまで昼休みはなし、なんて時代は過去である。その頃は、アレルギーへの理解が得られずさぞかし大変だったでしょう。

夏の盛りには、保健室の先生がグランドに出て気温を測り、熱中症予報を出していた。休み時間の終わる頃には「必ず水分補給をしてから教室に戻りましょう!」と放送がかかり、あまりに暑い日はグランド使用中止となる。かつては部活の途中に水を飲むと余計に疲れるから、終わるまで水分禁止とか言われていたのに、よく脱水症状にならなかったわね。高校時代の自分を振り返る。

そんなわけで、今どきの小学校はもう本当に保健衛生的にもきちんと管理されているわけだ。そして間違った知識と民間療法と、適当でほったらかしで、転んだら唾つけときゃ治る、という時代よりもどんどん子供達が脆弱になっているのはどういうことなのだ。

*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

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  その愛のゆえに

   =時々の記=

    (99)

5月24日

 主人の俳句が出てきましたので送らせていただきます。良いお天気なので、さっそく主人は山添村を散歩に出かけました。また家の周りでは隣り近所の方が草刈り機で忙しそうに草刈りにいそしんでおられます。これからまた草との戦いになりそうです。

 あたふたと逃れる様に蝶去りぬ。

 代掻きの機舟の如進む。

 川沿ひの道は若葉をかぶりをり。

 峠道新樹明かりの葛(つづら)折。

 崇高な夢へ歩める端午かな。

 アカシヤの丘にあるなり農学部。     馬場路哉

5月27日

 我が家のツバメたちは無事に雛5羽が巣箱から落ちることなく飛び立つことができました。嬉しいよ~嬉しいよ~と言いながら、我が家の庭の電線に並んで挨拶してくれます。このように一つ一つの生き物が精一杯生き抜こうと努力をしている姿に感動しています。

5月29日

 こちらは、今日はくもり空でした。今にも雨が降り出しそうです。いよいよ梅雨のようです。今朝散歩の途中で一番賢いモモがマムシにかまれてしまいました。あっという間に顔がボールのように腫れ上がり、とても痛そうです。直ぐに犬猫病院に連れて行ってあげたかったのですが、まだ朝の5時。先生を起こすのも失礼だと思い、3時間、モモは我慢してくれました。8時になって先生に血清注射と痛みどめ、化膿止めの薬を頂いて、今は少し落ち着いてきました。急に熱帯のような暑さになったためマムシがあちこちで発生しているとのこと。毎日のように猫や犬たちが連れられてくると言っておられました。

 先生が人間でなくて、良かったですねと言ってくれました。モモは痛くてもしんどくても何も言わずにじっと耐えています。その様子を見るとよけに可愛そうに思えるのです。早く元気になってくれることを願っています。

 万緑の山に囲まれ一団地。

 末生りの小粒の苺甘かりし。

 大木となりて孤高の桐の花。

 畑中の麦わら帽子手の動く。

 万緑の山を越え来て津の海へ。     馬場路哉

6月3日

 やはり6月ですね。これからじとじとした季節になっていきますが、気持ちだけでも清々しく過ごしたいものです。犬たちとの散歩から帰ると汗が噴き出てきます。散歩の途中で草花が目に留まります。今はアザミの花が暑さの中、緑の隙間からきれいな薄紫の花をのぞかせています。アザミの美しさにはっとさせられるこの頃です。

6月11日

 今朝は霧雨が降っています。やはり梅雨を迎えたなと感じるのは、庭の花が皐月からもう、アジサイへと移り変わろうとしています。サッカーワールドカップブラジル大会まであと5日となりましたね。強豪コートジボワールとの第一戦ですから今からハラハラドキドキです。空を見上げるとツバメたちが二度目の産卵のためにあちこちから巣作りのための泥やストローなどを集めて忙しそうです。ツバメがなぜこのように人間に好かれるのかを主人に初めて聞きました。ツバメの背中は黒いのですがお腹は真っ白です。“腹黒くない”ことからツバメがやってくるのを好むのだそうです。なるほど。そういわれれば一層ツバメを見ると気持ちが穏やかになってきます。

 メタ セコイア若葉の脇のレストラン。

 貸農園老い度地励む夏野菜。

 トユつまり夜中に直す緑雨かな。

 子ツバメの飛び交へりをり門の前。(さき)

 この池と引き立て合へるカキツバタ。

 小石原眩し早瀬の夏の川。       馬場路哉

 19日の連合婦人会の奏楽のために、必死になってオルガンに向かっています。若いころはそれほど気にならなかったことが年を取るにつれて臆病になってきたように感じられる心境です。

       馬場暁美

     (上野緑ヶ丘教会員)

 

 

 

 解説 ウエストミンスター信仰告白 (25)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

  第11章 義認について・・2 

4 神は、永遠の昔から、選ばれた者すべてを義とすることを聖定された1)。またキリストは、時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らが義とされるためによみがえられた(2)。とはいえ、聖霊が時至って実際にキリストを彼らに適用されるまでは、彼らは義とされない(3)

  1 ガラテヤ3:8
ペトロ1:2,19,20、ロマ8:30
  2 ガラテヤ4:4
テモテ2:6、ロマ4:25
  3 コロサイ1:21,22、ガラテヤ2:16テトス3:4-7(*)
    *テトス3:3-7が正しい。

四 これは義認の時期をはっきりさせているところである。み旨のうちにあって、わたしたちは永遠よりすでに義とされているとも言える。また、キリストが客観的にわたしたちの罪のための完全な償いをなされたのは、すでに二千年前のことである。しかし、わたしたちが義とされたのは、召された時、信仰が与えられた時なのであると考えなければならない。

   
      5 神は、義とされる者たちの罪をゆるしつづけられる(1)。それで彼ら
は義とされた状態から決して落ちることはできないのではあるが(2)、それでも彼らは自分の罪によって、神の父としての不興をこうむり、彼らが自らへりくだって、自分の罪を告白し、ゆるしを乞い、自分の信仰と悔改めをもう一度新しくするまでは、神のみ顔の光をとり戻せないこともありうる(3)

    1 マタイ6:12
ヨハネ1:7,9ヨハネ2:1,2
    2 ルカ22:32、ヨハネ10:28、ヘブル10:14
   3 詩89:31-33(32-34)、詩51:7-12(9-14)、詩32:5、マタイ26:75
コリント11:30,32、ルカ1:20

 

    五 義認は、このように主観的に信仰が与えられることと、深く関係しているから、そして信仰とは、神の聖霊の働きであるから、一度与えられた義認は、一回で完了するのであるけれども、信仰が主観的に弱まることはたびたびあり、それに応じて、義認の自覚が弱まり、神との平和と喜びの自覚が消えることがある。そうであるから、悔い改めは、常になされる必要がある。しかし、義認は一度でよいのである。


6 旧約のもとでの信者の義認は、これらすべての点から見て、新約のもとでの信者のと同一であった(1)

  1 ガラテヤ3:9,13,14、 ロマ4:22-24、ヘブル13:8

   六 ローマ人への手紙4章で明らかなように、アブラハムは信仰の父であり、従って義認された者の父でもある。旧約時代のまことの信者は、わたしたちと全く同様に、その信仰が与えられた当時から、すでに義人であった。ローマ・カトリック教会のように、キリストの復活の日までは、リンブス・パトムス(煉獄)におかれていたわけではない。

 

(補記) 昔のペラギウス主義は、自力救済を主張し、アウグスチヌス主義は、ただ恩恵主義を説いたが、中世カトリック教会は両者の中間をとって、セミ・ペラギウス主義を教えた。宗教改革期には、唯信仰、唯恩恵を説くルターやカルヴァン派に対して、セミ・ペラギウス的な後期メランヒトンやアルミニアンが現われ、それと呼応して、反律法主義とペラギウス的ソシニアンが出現した。近代主義は原理的にはこの反律法主義(神は愛であって、万人は救われる)という真宗的な安易な宗教観と、自力救済(カントのような倫理至上説)の外に救われる道はないという考え方が、主流をなしていると私は思う。そうであるだけに改革派信仰の正しい義認論が、今こそはっきり教えなければならない時ではないだろうか。

   **********

 この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。

単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500

465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛

 

 

さんびか物語 (4)

    (広く愛唱されている50曲)・・・3     

 ポリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌39番

 日くれて 四方はくらく

<神様のみ言葉> 

「それで、彼らが『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりましすし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼等といっしょに泊まるために中にはいられた」。

             =ルカの福音書24章29=

 

 讃美歌39番日くれて四方(よも)はくらくは英語讃美歌中、最もよく歌われる夕の歌であるばかりでなく、チャールズ・ウェスレーの讃美歌273番のわがたましいを愛するイエスよについで英米でも広く愛されているものの一つでございます。

 

 この素晴らしい夕べの歌の原作者は、ヘンリ・フランシス・ライトで、イギリスの陸軍士官の子として1793年6月1日、スコットランドのケルソの近くに生まれました。彼は小さい時に孤児になり貧乏と戦いながら、アイルランドのダブリンのトリニテー大学で教育を受けました。

 一時医学を志していましたが、生まれつき体が弱かったために、それをあきらめ神学に転じ、21歳で国教会の聖職となりました。そうして、アイルランドの各地の教会でしばらくの間、牧会を続けました。ちょうどその頃、ライトの同労者の一人が急に重い病気に罹りました。牧師でありながらも、死が近づくにつれて、自分の心の不安と赦されていないのではないかという、自分の罪の重荷に耐えられなくなったのです。それで友人のライトを呼び、神様よりの罪の赦しの道を教えられたいと、熱心に願ったそうです。

 この友人の真剣な願いをうけたライト自身この出来事によって、自分の信仰をかえり見て、その信仰の弱さを始めて認識させられ、友人と二人で一生懸命に聖書を学び、熱心に祈りました。この熱心な求道と神様の愛によって、主イエス・キリストの贖いによる罪の赦しの確かさを、恵みによって痛感させられました。

 この出来事はライトの信仰生活の大きな転換期となったといえましょう。それと、よき助け手としての妻の与えられたことです。彼女は牧師の娘でありましたが、たまたまお金持ちでもありましたので、ライトは生まれて初めて金銭的な苦労からも解放され十分に才能を発揮することが出来るようになったことと思います。

 1823年、ライト一家はイギリスのデブンシャーに移り、そこの漁師たちのために24年間牧師として出来得る限りの働きに没頭しました。彼は牧師としての働きのほかに、讃美歌を81曲ほど作っていますが、その中の一つが讃美歌336番の主イエスよ、十字架をであります。また、いろいろの本を出版したり、生徒が800名ほどの教会学校を建てたり、70名ほどの教会学校の教師を養成したりと、広く活動いたしました。

 ライトは喘息を患っていまして、結核に近い病にも罹っていたようですが、1844年まではどうにかその任務をはたしてまいりました。しかし、この期を境に寒い冬の数ヶ月を、暖かいフランスの南の方で静かに過ごさなければならないようになりました。

 彼はいつも夏には懐かしいデブンシャーに戻り伝道に励んでいましたが、1847年9月、静養のためニースに戻ることもなくそこで亡くなりました。彼はニースのイギリス人墓地に葬られました。

 讃美歌39番については、二つの節があります。その一つは、1847年、彼がニースに旅立つ前の最後の日曜日の夕べに、作者が庭に出て海岸まで降りて、そこから日没をじっと眺めながらこの作品をメモにし、書斎に戻って仕上げてから、この歌を親戚の一人に渡したそうです。

 いま一つの説は、ライトがまだ若い牧師であった1820年に、瀕死の老人のために書いたものであるということです。いずれにいたしましても、私たちにとって大切な点は、この歌の中心的なメッセージが何であるかということであると思います。

 私は、この讃美歌が一日の終わりを告げる夕べを歌っていることよりも、人生の夕べをテーマにして、ライト自身が死を心に感じつつ書き上げた、彼自身の素晴らしい信仰の告白であったと思います。

 

 讃美歌39番の作曲者ですが、イギリス人のウィリアム・ヘンリー・モンクで、1823年3月16日にロンドンで生まれ、1889年3月1日ロンドンで召されました。モンクはキングス・カレッジの聖歌隊長、オルガニスト、声楽教授をつとめながら賛美歌の編集や出版に活躍し、英国教会音楽の発展に大いに貢献いたしました。

 このメロデー(EVENTIDE)の作曲は、ある日非常に悲しい事件が起こったとき、モンク夫妻が外に出て散歩していた時、二人で地平線に沈み行く輝かしい夕日を眺めていたときに浮かんできた曲であったと言われています。

 この曲は、日本ばかりでなく、広く英米の人々にも愛唱されている傑作の一つと言えましょう。

 

<39>

1 日くれて四方はくらく  わがたまはいとさびし

  よるべなき身のたよる  主よ、ともに宿りませ。

2 人生のくれちかずき  世のいろかうつりゆく

  とこしえにかわらざる 主よ、ともに宿りませ。

3 世の闇おしせまりて  いざないの声しげし

  時のまも去りまさで  主よ、ともに宿りませ。

4 死の刺いずこにある  主のちかくましまさば

  われ勝ちてあまりあらん 主よ、ともに宿りませ。

5 十字架のくしきひかり 閉ずる目にあおがしめ

  みさかえにさむるまで 主よ、ともに宿りませ。

 

 この讃美歌のテーマは、各節の4行目にある主よ、ともに宿りませであります。もちろん背景にあるのは、冒頭のみ言葉であるのは当然です。

 エマオという村に行く二人の弟子は、目がさえぎられていて、彼らとともに道を歩いておられたのが主イエスご自身であることは分かりませんでした。イエス様は彼らの願いに従って家に入り、食卓に着きパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された時に、初めてイエス様であることがわかったと、ルカの福音書24章13節~31節に記されています。

 この二人の弟子と同じように世の多くの人々は、霊的には盲人ではないでしょうか。

 

 讃美歌39番の1節では、人の心の寂しさ、孤独、身を寄せる所のない者のやどり木、支えになって下さいと求めている祈りのように思えます。

 2節では、この世の生滅流転と人生の終わりという有限に対して、永遠に変わらざる主がともにいたもうて、変わらざる永遠のいのちへと導き給えという、人類の切なる願いの歌であります。

 3節の原作は、日本語訳より直接的で明確です。即ち、神様のご臨在はいつも必要であり、神様の恵みがなければ、到底、悪魔の力には打ち勝ち得ないと歌っています。また、神様の他に誰が何が私たちの正しい案内人や助け手に成り得ようか、と言っています。曇りがちの時にも、日が照り輝いている時にも(順境にも逆境にも)私たちとともに宿ってください、となっています。

 4節は、申すまでもなく、使徒パウロの有名な言葉に基づいています。それはコリント人への手紙第一、15章55節~57節であります。

 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」。

 主イエス・キリストの十字架の贖いこそほむべきかなであります。

 5節でライトは、主イエス・キリストの十字架の贖いによる、永遠のいのちの保証とそれへの確信を高らかに歌っています。

 み栄えに、眠れる信仰が目覚めるまで、主よ、ともに宿りませと歌っています。この確信と希望に満ちた言葉は、昔も今も多くの人々の励ましとなり力となってきました。

 キリストの十字架と復活の上にある信仰、これこそがライトの私たちに対する素晴らしいメッセージと言えます。

  ***********************

この掲載には「つのぶえ社」の許可を得ています。

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (40)  遠山良作 著

昭和22年

4月13日

ー橋本氏ハンストに入るー

 私は昨日断食闘争を書面を読んで、直ぐに、今は耐えていくべきであることを書いて二回も彼宛に送った。彼からは何の返事もないので心配していた。もし彼が断食闘争すれば、死ぬかも知れない。私は彼をどうしても死なせてはならない。彼の刑期は軽くあと二年か三年で釈放される身である。

 彼こそ新しい祖国再建に必要な人物である。こんなことで彼を死なせることはできない。どうしても中止しない時は、われわれも彼のために断食して、彼一人を死なせないと心に誓いつつ、田室兄(同房)に私の真意を打ち明けた。彼は何の返事もしない。深い思いにひたっているようである。しかし彼の頬に白く光る一すじの涙を見た。長い沈黙の後ペンを執って何か書いている。橋本氏宛である。

 私も橋本氏宛に断食を中止すべきことを書いている時、一名の英人が懲罰者三名を呼び出しに来た。それから十分位後に三名は帰って来た。その後である。橋本氏より次の手紙が届けられた。

 「兄等は私のために流してくれたその涙が嬉しくもあり、また、怖くもある。私の人心は世間並みの生活を求める。道心は、大義の生活を要求する。そうして、道心を鞭打つのは、故松岡大尉(処刑さる)あり、桑原中佐あり、また兄等が加わった。そして兄等は私の将来を決定ずけんとしている。私は自己を裏切りたくない。そうして弱い一人の人間でしかない。その私に兄たちは私のために尊い涙を流してくれた。

 私は4月12日に断食抗争を決意した時、或いは死なねばならぬぞと思った。若し自分の主張が通らず、おめおめと生きていたとしたら日本人の恥晒しとなる。中略

 内地にはお前を待っている女性もいるぞ、また親や弟妹が待っているではないか、まだ誰にも「ハンスト」を宣言した訳でもあるまい。止める口実は幾らでもある。お前の同志は我慢しろと言っている。若しお前が斃れたら同志二名も死ぬかも知れない。それを口実にしろと人心はささやく。だが道心は叫ぶ。予定の行動ではないか、中略

 「今度の抗戦は日本人が正直か、英人が正直かの戦いでもある。決して小さな意地ではない。例え他に迷惑がかかるとしても死によって償われるだろう」。だが同志は留めようとしている。「明日からパンを差し入れるとも言っているではないか。お前が死ねば同志も死ぬかも知れない。万一同志が行動を共にしないとしたら、友もお前のために汚名を受けるであろう。

      ***********

この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・19

問17 キリスト教でいう自由と一般的にいう自由とは違うように思いますがどうでしょうか。

答   自由というのは、何か拘束するものがあることが前提になっています。その拘束するものはさまざまですが、それが何であるにしても、人間が考えている領域においてのことです。これに対して、キリスト教の場合はイエス・キリストによって示された神との関係においてのことです。これはキリスト教に限りません。宗教が人間を超えたものとの関係で人間を問題にしている限り、どの宗教においてもことは同じです。

 アダムとエバの話はご存知でしょう。禁断の木の実を取って食べたのでエデンの園という楽園を追い出されてしまった、という話です。あの場合「園のどの木からでも取って食べてよろしいが、園の中央にある木からは取って食べてはならない」という命令が与えられたのは神様でした。神様がいらっしゃるということが前提としてあったのです。

 ところが、この二人は、その命令を無視し、この命令に背いて、禁断を犯しました。それは、神様に従うよりも、禁断の木の実を取って食べたいという欲望の方が勝ったからです。この自分たちの欲望が勝ったということで、これは実質的な神喪失です。神様の戒めとしてあったものを自分たちで破ってしまったのですから、自分たちで神様を無きに等しいものにしてしまったのです。

 こうして「失楽園」という事態になりました。「あらゆることをやってみたいし、出来たらいいがなあ」という思いは誰の中にもあります。そして、それが出来ることをあらゆることについての自由だと考えます。しかし、人間が「出来ることは何でもやれる」と思っている自由というものは、自分を知らなさ過ぎます。その証拠に、何でも出来ることで高慢になったり、したいと思っていることが出来ないことで不満を覚えたりします。ことの判断をする主人公が自分でしかないからです。

 「それくらいのことでいい気になっている自分」や「そんなことで不満になっている自分」を冷静に客観的に眺めることが出来ることが、自分に自由であるということです。そして、「よし、もっと本気で取り組むことに取り掛かろう」となったら、今までの自分を超える生き方へと変わることになります。

 その「本気で取り組め」という声は自分で自分にかけられるものではありません。それは、自分を超えたものからです。その自分を超えたものを消すなら、人間は自分の位置を見失います。アダムとエバが禁断を犯して結果はそれです。神が厳としておられ、神の戒めが聞こえているところに人間の自由が確保され、楽園にいることが保証されるのです。 

   篠田 潔

 (日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

7月放送予定

  6日 楠本 茂貴 (名古屋高等学校・中学校聖書科主任)

 13日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学校宗教部長)   

 20日 高見伊三郎 (名古屋学院大学宗教部長)

 27日 葛井 義憲 (名古屋学院大学法学部教授)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 =お知らせ=

 サッカーWカップの試合の放送ため、時に放送休止の場合がありますが、その時は、順次繰り下げ放送で対応いたしますのでご了承ください。

 

  「ローマ人への手紙」研究 (114)

 

 第65課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否

       9章1~11章36節(続)

F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。

      9章1~36節 (26)

 「神は完全に、また絶対的に人間から自立しておられる」。

         (11:34~35) 

 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。

       11:34~35(1)

 これらの2節の中で、34節は、そのご計画と目的における、神の絶対的独立性または自立性を教えています。主の計画とは神の計画であり、如何なる意味においても、被造物の中の何者にも依拠するものでは断じてありません。「だれが主の心を知っているか。だれが主の計画にあずかったか」という問いは、勿論、反語であって、「誰もない」という答えを含んでいます。

 従って、この節の教えは、神はその計画と目的において、絶対的に自立自存であり、そのどの点においても被造物よって制限されたり、限界づけられたりすることは決してないことです。

 これが神の主権の教理なのです。この教理は聖書の中においては、「神はそれらをよしとされた」、「主はそれをよしとされた」(It pleased od)とか、「神の御旨のよしとされることに従い」(According to the good pleasure of his Will)というような言葉で表現されています。ウ信仰告白や小教理問答書にも、同じような表現で繰り返し神の主権が述べられています。神の御計画と目的において、神は絶対的な自立性と至高の権威を所有しておられるのです。

 

 現代において、神の主権性と自立性という教理は、強く反対されています。第一に、有限なる神を信じる自由主義神学者や近代主義神学者たちによって反対されます。無限者なる神のみが、その計画において自立的ありうるのです。第二に、神は人間を創造されたときご自身を制限されたので、創造後はもはや至高の存在でも自立的存在でもないのだと主張する人たちによって反対されます。

 これらの人々は公然と、神は被造物の自由意思によって限定され束縛されると主張します。彼らは「神の御手は縛らている」とか、「神はあなたを救おうとされているが、あなたが決心をしないかぎり、何ともなすすべがないのだ」とか、「神にチャンスを与えよ」などと平然と言います。人間が先ず最初に行動を起こすのです。

 「神は御自身なしうることは全てしてしまわれた。今やあなたが決心するときである」などと言う大衆伝道者がいます。これらの言葉はすべて生まれながらの人間に迎合することです。その背後には神の自立性と主権性の否認があり、神の栄光と尊厳が傷つけられているのです。

 J.G.ヴォス著

 玉木  鎮訳

(日本キリスト改革派引退教師)

 

  祈 り

 願っていた高校の制服で元気に登校する姿を見るたびに、それまでの闘病の日々を思い出します。未熟児で生まれ、生育も遅れ、小児病棟の生活が娘の世界でした。病院の先生やスタッフに励まされて、中学からは病気一つしない子になりました。夢であった合唱部に入り、先輩たちの厳しい指導で体力や意欲が自然に娘のものになりました。頑張る性格でしたが、病院の先生には「絶対に無理はしません」と約束させられたのが良かったのでしょう。娘の夢は、「小児病棟専門の先生になるか、病室に来て下さった学校の先生」とか・・・。

                    大分県 S・Kさん

 メールありがとうございました。

娘はディにでかけ、空いた時間をめがけて週に何度か孫が来ます。ここぞとばかり、新米母親は羽を伸ばす休憩時間です。とはいえ、私もいろいろと用事があるので、子守はひいじいちゃん、ひいばあちゃんがみてくれるので、助かってます。ひいじいちゃんは、ひ孫を見ると、とても元気になります。

あとでつけがまわってくるようですが・・・

 娘は今までのところから来月からは、週2回新しいデイサービスに通うことにしました。今年からショートステイでもお世話になっているので安心です。、新しい環境でどうなるかと心配しましたが、結構楽しんで行っているのでホッとしてます。というのも利用者が2名でマンツーマンー以上で、いたれりつくせりです。来月から通う木曜日は、8名の利用者さんと聞いているので、少し楽しみとうまく馴染んでくれることを願ってます。

 だんだんと暑さも増して、過ごしにくい季節がやってますね。

                    山形県 N・Yさん

 

 

 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」

★ 実家の母が気がかりで、兵庫の山奥まで様子を見にいています。認知症が進んでいるし心臓も弱くなりつつ有り、心配です。手入れのされていない母の畑には、どくだみの花が 綺麗に咲いてます。認知症も進んでいるし心臓も弱くなりつつ有り 心配ですが どうも出来ません。お祈りください。

★ 人の喜びを共に分かち合うことができるのは家族だけだということを思い切り知らされているこの頃です。近所のおばさんと話していましたが、人の悪いことばかりをたらたらと言ってくるので気分が悪くなりました。人の弱さを理解していくことがこの世の中を渡っていくのには大事なのだと反省した一日でした。

 

  『ありがとうございます』 

 外国から来た人が不思議に思うことは、ゴミの分別、決まった日に家族の誰かが、集って家の周囲や公園を掃除することでした。どの町に行っても街路樹は手入れされ、公衆トイレは綺麗なことも同様です。町の中には自販機があり、そこにはお金が入っているのに、ほとんど被害に合わない日本って不思議な国だと言うのです。日本人には当り前でも不思議に思うことは沢山あるようで探してみるのも楽しいことです。そんな探しものもまた楽しい日本再発見、自分再発見になるのではないでしょうか。今月も「つのぶえジャーナル」の働きを支援する寄付金をいただきました。感謝いたします。

『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社』の活動のための寄付者

小林麻里子様 佐々木清様 稲田喜水様 工藤亜佐美様 長津 栄様 吉田良雄様 匿名様3名 

    郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

2014年5月16日から6月15日‘まで

 

お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

 

 

  今月のことば

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

            =ヨハネ15:5=

 ぶとうの木は実をつけなければ何の役にも立ちません。預言者は言います。

「その木は何かを造るために用いられるか。また人はこれを用いて、器物を掛ける木釘を造るだろうか」と。

 木は実を結ばねばなりません。そうでなければ燃やされます。ぶどうの木の枝で実を結ばないものは切られ、集めて火に投げ入れられます。

 神を信じる人々は、この世にあって、実を結ばなければなりません。「あなたがたが実を豊かに結び、それによってわたしの父は栄光をお受けになるであろう」とイエスは言われます。

 「実とは何でしようか」を考えてみましょう。イエスは何の実のことを言っておられるのでしょうか。それは、私たちの生命の中のすべては神に造られたものですから、神の力を離れては、何も出来ない存在です。

 聖書は、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」あると言います(ガラテヤ5:22~23)。 

 これらの実はキリストにある者に与えられるものです。私たちがキリストにあれば神の力は、私たちのうちに流れ注がれ、神のために実を造るのです。

 また自分の「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」(5:19~21)。

 私たちが求めるもの、神から求められているものは、神のみ旨・み心を持つことであります。そのための訓練を熱心に求めたいものです。

 

 「心には静けさが満ちる」

御神の限りない愛に 包まれているから 包まれているから

牢獄にとじこめられても 心には静けさがみちる

御神の限りない愛に 包まれているから 包まれているから

拷問の鞭に打たれても 心には静けさがみちる

御神の限りない愛に 包まれているから 包まれているから

命をも奪い取られても 心には静けさがみちる

        水野源三 第三詩集 「今あるは 神の恵み」より

 

 

 

   小閑記

 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

          =イザヤ55:6=

 恵みのときの続く限り、主にお会いすることが出来ます。キリストによって、神がお開き下さった扉は、全ての者に開かれております。この扉は、神以外誰も開けることの出来ない扉でもありますし、誰も閉じることも出来ない扉でもあります。主が死と黄泉の国の鍵を持ち、主のみが開き、そして閉じられるのです。

 しかし、主はまた、扉を閉じる時が来ると語られました。そこで「主にお会いすることのできるうちに」救われたいと願い求める者は、主を尋ねよ、と言われるのです。誰も自分の悔い改めの時を決めることは出来ません。天国に行きたいと願う者は、受け入れられる時を手にしなければなりません。

 もし、神が、私たちを先ずお求めにならないならば、誰一人として神を尋ねる考えを持つことは出来ません。もし、神の霊が私たちをゆさぶらない限り、私たちは、罪のうちを黙して歩かなければならないでしょう。ただ主が語られる時、もし私たちが聞こうとすれば、初めて扉は開かれます。

 私たちは、心から、本当に救われて神のみ国へ行くことを望んでいるでしょうか。そう願うなら、自分の悔い改める時を決めている限り、それは、悲しいことですが、サタンの騙し事に乗せられているのです。このような状態では、決して救いの恵みの道を歩むことは出来ません。私たちが主を尋ねることが出来るのは、主が私たちを尋ねておられる時のみです。

 それが今日、今であるとするならば、何と幸いなことでしょう。同時に、悲しいことですが、信仰が与えられているにもかかわらず、「お会いすることのできるうちに」を忘れてしまうことです。もし、神の恵みから後退したり、軽んじたりするなら、私たちの扉は閉じられる危険が潜んでいることに気付き、信仰の心、霊的まなざしを開いていなければなりません。それが信仰生活の道なのですから・・・。

                         上河原立雄

 

   

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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