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「ローマ人への手紙」研究 (111)
第63課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (23)
ここでパウロは贖いの計画の論述を終わりに導いています。次の4節(33~36)は神の知恵と知識、善と恵みの荘重な論述です。「神がすべてであり、人間はとるに足りないものであるという思想を述べる力強さと荘重さにおいて、ここの聖句に比肩する節は、全聖書の中に僅かしかない」(C・ホッジ)。H・アルフオードもこれらの4節について、「神の恵みと知識を目の当たり見て力づけられたパウロは、霊感された聖書の中にこの荘重きわまる聖句を語ったのである」と述べています。
ここで当然、一つの問題が起こります。すなわち、ローマ書の中でこれらの4節が占める位置は何であるかということです。これらの節は、9~11章、すなわち、神がユダヤ人を退け、異邦人を招かれたという事柄に特に関係しているのでしょうか。それとも、ここまでのローマ書の全体の教理に関係しているのでしょうか。または、ユダヤ人の未来における回心という特殊な事柄について、この言葉は語られているのでしょうか。ホッジは、直接つなげるべき文脈を指示するどのような指示もないので、これらの素晴らしい讃美と讃美の言葉は、ここまでに述べられたローマ書全体の救いの計画について語られているのであると結論しています。
33~36節で語られる三つの主要な思想は、次のとおりです。
1・・・神は御自身の存在と御業において、無限に偉大で善なる方であるのみでなく、人間の理解を超えた存在であられる。神は人間の理解を超越した方である。
2・・・神は人間から完全かつ絶対的に自立した自存者である。
3・・・神は一切のものを知っておられる全知者である。なぜならば、神は全ての存在の根源、手段、目的であられるからである。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
祈 り
何十年ぶりかで屋根から落ちてくる雪の音を聞きました。本当によく降りました。所によって未だに通行止めの所もあります。仕事のマンションの入り口の階段の雪かきをしてきました。スローブは、無理でした。何しろ道具がありません。 足とデッキブラシでしました。昨日1日中降っていましたので 解けたと言っても十センチくらいは積もっていました。使われない所は、解けるのも遅いです。私には久々の雪かきでした。息子は雪の落ちる音がうるさかったと言っていました。今日は大人しくしている方がいいと みんな休んでいます。。私はまた 不眠症です。身体を横たえてないともちません。主人は躁状態から鬱状態に変わる途中です。いつもお祈り感謝しております。支えていただいております。=2月14日撮影・雪の奈良 マンションから朱雀門を見つめて=
奈良県 T・Mさん
主の御名を崇めます。お便り有難うございます。名古屋も雪で大変のようでしたが、大丈夫だったでしょうか。お身体いたわってください。検査も大変だと思います。歳を取ると苦しみがかえって多くなりますね。私も目眩がひどく、車の運転ができなくなったりしますので、動きが制限されつつあります。その上。今度の雪は大雪で、毎日の雪片づけです。雪を捨てる所がないほど降りましたので、2メートルほど積み上がっています。ですから、今年はさらに大変です。五つのパンで養われる主により頼んで、牧師として生きて行きます。
祈っています。守られて日々のお仕事ができますように・・・。
OO県 0・0さん
************************
・・・・。 かあさんは、そのあと、サンタクロースについて、もうひとつあたらしいことを教えてくれました。サンタクロースはどこにでもいるだけでなく、いつもいるのだということを。
だれでも、自分のことよりもひとのためをまず第一に思う気持ちになれるとき、いつもそのにはサンタクロースがいるです。
クリスマス・イブというのは、みんながひとのためを思う時なのです。その夜こそは、だれもかれも、みんな自分勝手な考えをわすれ、ほかの人のためのしあわせを願うから
こそ、サンタクロースがあらゆる所に現れるのです。そして、朝になると、それが形になって見えるのです。かあさんは、そうはなしました。
「もし、だれもかれもが、いつでも、ほかの人みんなのしあわせを願っていたら、いつでもクリスマスなの?」ローラがきくと、かあさんはいいました。「そうですよ、ローラ」
・・・・。
「インガルス一家の物語3」・・・プラム・クリークの土手で・・・「クリスマスの馬」(福音館書店)より
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
☆ 13年もこの町にいるのに、友達が一人もいないとは、寂しい話です。わたしは気楽なんだけど、時々、人と話したくなるのですが、こういうときに誰もいないのは、困ります。どうもわたしは、話題に乏しいのか、自分の世界で、音楽を聴いたり、本を読んだりすることで、十分満足してきた者ですが・・・・、娘に外に出なさいと言われています。花の季節ですから、スケッチブックを手提げカバンに入れて出掛けましょうか・・・。
☆ わたしの悪癖は無駄使いです。安いからと、ついリサイクルショップを利用したのが癖になり、いらない物まで買ったり、行きたくてしょうがなくなっ てしまいます。精神的な病気と医者から言われました。それでリサイクルショップ行きは止めて、これからは少し料理にお金をつかわなくちゃ・・・。今まで食生活は悪すぎました。病気なんだからちゃんとしなくてはなりません。お味噌汁も作ったことがないのです。
☆ 私って何!? 家政婦? それとも同居人!? お料理作っても美味しい・・とかの反応はなし、労いの言葉もない。主人が言う言葉は叱責か注意だけ!結婚してから30年、寝室に布団を敷く、布団を干したり、カバーを換えたり、寒い今は部屋を暖めてくれ! 気が向いて作った娘のスパゲッティには美味しいと言う。毎日散歩や病気予防の注射に連れて行く犬までも 他の家族にはとびついて喜ぶが私には素っ気ないなんて、どう思っているの・・・。
☆ 4月から新しいスタートを切る若者。希望に燃えているものもありますが、一方で、思うようにいかなくて、悩みの中にいる方も多くいることでしょう。
どのようなときでも、イエス様を信じて、天を仰いで、祈りつつ歩んで行きたいものです。息子は、単位不足で留年。初めてことの重大さ、深刻さが分かったようです。
『ありがとうございます』
皆様のお祈りに支えられて、4月号もお届けできますこと、感謝いたします。また、ご意見や感想も私の励み、エネルギーになります。お目にかかることのない名古屋の地からはなれた方でも、メールという手段では、身近な親しみを感じます。どうぞこれからも、遠慮なくメールで交流を深める「つのぶえジャーナル」に成れますように、よろしくお願い申し上げます。
『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社』の活動のための寄付者
大泉雅代様 小幡美智子様 長津 栄様
郵便振替口座
番号 00800-1-45937 つのぶえ社
2014年2月16日から3月15日‘まで
『水琴窟』
花木蓮、春一番、梅や桜の開花予想などと共に、今は選抜高校野球も春を告げる風物詩となりました。雪深い地にも、雪解け水の一滴が大きく陽に輝いて、流れのように時節を告げてくれることでしょう。今も変わらぬ農作業にいそしむ人、春の漁に海に出る人、それぞれの春があるようです。
『尋常小学唱歌(四)』大正元・12刊の歌詞
春の小川は さらさら流る。
岸のすみれや れんげの花に、
においめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く
春の小川は さらさら流る
蝦(えび)やめだかや 小鮒(こぶな)の群れに
今日も一日 ひなたに出(い)でて
遊べ遊べと ささやく如く
春の小川は さらさら流る
歌の上手よ いとしき子ども
声をそろえて 小川の歌を
うたえうたえと ささやく如く
メール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
=ローマ6:2=
この世の道徳は、「罪を犯してはならない」と言います。神の律法も「罪を犯してはならない」と言い、あらゆる宗教もそのように言います。しかし、甦られた方の証人パウロは、「君たちは罪に対して死んだ」と言います。罪からの命脈が絶たれ、力が奪われ、罪の息の根がとまり、その脈拍は途絶えたというのです。
パウロがこのように言うのは、ただイエスの十字架での死の働きに目を注ぐことによってだけのことです。あの十字架には、この世の罪がかかっています。あそこには、私たちの罪の身代わりとなられた方が、私たちに代わって、すべての憐れな罪人に代わって死なれたのです。イエスは、私たちの罪を、墓の中に携えて行かれました。それゆえに、パウロは大胆に言うのです。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)、また「わたしたちは彼と共に葬られた」(ローマ6:4)と。
私たちが、この救い主の死をそのあらゆる結果・結末に至るまで、真剣に考えなければならないということでもあります。すなわち、そこで死ぬのは、古いアダムであり、神の前に存続できない人間なのであります。ですから、罪に対して死んだ者―もはや罪の中に生きようとすることは出来ないという存在ということです。
罪を憎みキリストと共に生きることを赦された者として、キリストに生きよう! というこの招きの言葉は、なお、罪の残滓を持つ私たちに、生きる希望を与えます。私たちは弱く、貧しく、罪と戦う力のない者であることを認め、それゆえに「キリストと共に生きようではありませんか」。
この信じ難い招きこそ、福音なのです。
小閑記
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするようにイエスにあって造られたのである。
=エペソ2:10=
神がキリストにあって賜った救いは、罪が贖われ、負債が支払われたということのみでなく、私たちの過ちや怠惰のゆえに、なすことのできなかったところを全て、主イエスの完全なご生涯によって、私たちのためにして下さったのであります。主イエスのご生涯は、主ご自身だけのものではないのでした。
主イエスが、言葉に、業に、心に精神に、全ての義を果たして下さったのであります。
主が幼な子として、若者として、恵みと知恵に満ちて成長され、両親に従い、全生涯でなさったみ業は、ご自身のためではなく、それは全て、私たちのためでありました。主イエスの全生涯は、人間が新たに造られた姿として現されております。主は神の新しき人、第二のアダムであります。それゆえに、全てのよい行いは、私たちのために、キリストにあって備えられているのです。同じように、私たちの得るべき罪の赦し、命と平和も、主イエスのうちにあるのです。
信仰によって、キリストが私たちに宿られるならば、二つの宝を、主からいただくのであり、主のご好意をもいただくのであります。私たちの命を満たす平和は、キリストからのものであって、私たちの生活に現れます。よい行いも同様であります。神よりのもののみが、神のみ前に耐えられるのです。そのようにされるのは、神の愛の新しい証であります。
私たちが神の栄光に帰しまつることが出来るのは、私たちの全てにおいて、私たちは神の器であると悟った時であります。そうして、私たちはイエス・キリストの僕になるという、人生の大いなる奇跡によって、幸いな者になるのです。
まさに信じ難い出来事・奇跡であります。
上河原立雄
眸
私の町もシャッター商店街です。活性化とか、もう一度昔の賑わいを取り戻そうと商店主の集まりで話し合うのですが、妙案は出ません。若い人の意見を聞くということで、声をかけても参加者ゼロです。意見交換の機会はあったのですが、若者のアイデアについて行けず、意見の衝突になったことが参加者ゼロの遠因です。それでも、数名の中年商店主が集まり、地域の分担割りを決めて各家を訪ねて、昔の御用聞きスタイルで活動したところ好評のようです。持ち寄った注文を集めてそれぞれのお店に注文し、それを届けることで売り上げは好調です。今に合った方法もあるものですね。わたしは、教会ニュースを時々手渡しています。
群馬県 Y・Nさん
この時期になりますと田舎にいる父の家の雪下ろしです。日本有数の米どころですが、豪雪地でもあります。元気な時の父は一人で屋根や家の周りの除雪はしていましたが、数年前の骨折からは、私と息子とその友だちとで行きます。と言っても車は近づけませんので、途中にある友人の庭先に駐車させてもらい徒歩です。子供のころの通学の時を思い出します。家に着くと休む時間も惜しいので屋根の雪を下ろします。背の丈もある雪です。息子たちは遊び感覚でどんどん屋根からの雪を片付けます。若さですね・・・。
雪は止むことなく降り続いていますので、早々に切り上げます。そうしなければ、今度は私の車が雪の中に埋もれて家に帰れなくなるからです。そんな父孝行が出来るのも父が元気だからです。父は信仰の先輩でもあります。・・・。
新潟県 N・Kさん
この町に来て6年になる。子供たちはそれぞれ自分の道に進んで活躍しているのがうれしい。妻を亡くして8年になる。その頃は、大学の病院で若い医師
の指導だったが、日々の患者さんを診ることは別の生甲斐でもあった。ある時、医者のいない診療所の話を聞き、残された人生を役立てて見たいと思い立ち、この病院に来た。医者の役得か地域の皆さんと顔なじみになり、何時しか土地の人の仲間入りができた感じがする。
若い学生が訪ねてくる。地域医療などと言うことではなく、町医者として終わりたいと思っている。先生、今日は何だか元気でないようで、と気軽に立ち寄ってくれる。待合室には誰が持ち込むのかお茶と駄菓子がある。外は寒いがここには爺さん、婆さんの温もりがある。
秋田県 T・Yさん
・・・。信仰の友から本当に長い間、静岡盲人伝道センターからの「つのぶえ」の録音テープを時々ダビングして送ってくれていまして、信仰の励ましや、キリスト教について学んできました。今は友の手を煩わすことなく、自分のパソコンで「つのぶえジャーナル」を楽しみに見させていただいています。これからも楽しい企画・編集、頑張って下さい。
大分県 A・Mさん
自閉症者のひとりごと
(81)
1月18日
連休中も布団の中で過ごしました。今日あたりから、ようやく少しだけ動けるようになりました。回復するのに人の3倍かかるので、そんなものかなあ~と思っています。寒さはわたしには大敵です。朝の風は冷たいですね。祈る気持ちが萎えたら、がたがたとすべてがダメになってしまうようで、気をつけていますが・・・。
1月19日
ここのところの不調をカウンセラーと話しているうち、たどり着いたのが、更年期!? 医者はそれだけではわからないけど、歳をとってきたことを踏まえたほうがいいとのこと。今日もどうにもならない辛さに堪えかねて、ドラッグストアで女性保健薬なるものを買って、夕食後飲んでみました。加齢には逆らえない。前は出来たことが、今はできる範囲が急激に狭くなって、愕然としています。今の自分を受け入れられないのです。同年代の人よりも、できることは少なくても、それがわたしなんだと思えるようになりたいのです。でないと、人と同じようにしていたら、倒れてしまいます。
1月29日
週の始まりが、礼拝ではなく休日になってしまっているのです。来週の主の日は、全国的に雨のようです。雪じゃなくて助かるわ。教会に行きやすいので。
礼拝に出ないと、わたしは枯れてしまいます。でもちゃんと時があるから、行けるように整えて下さると信じています。
2月5日
最近、眠れないので睡眠薬を飲むと夢を見ます。それで、前に医者に相談したら、その人にとって悪夢を見ることが多いと言っていたことを思い出しました。多分睡眠薬のせいでしょう。でも睡眠薬を飲まないと眠れません。私は病気なので痩せると病的な顔になります。だから痩せられません。
2月7日
ミーティングも週1にして、ゆっくり過ごしているので、礼拝には出ようと思っています。今日は室内はぽかぽかですが、まだまだ寒い日が続きます。健康が支えられるようにと、何時もお祈りします。
加納さおり
世田谷通信
(124)
猫 草
うちの生き物の話である。うちのウサギは6歳を超えたあたりで急に老化が進んだ感じがする。具体的には足腰が弱った。まっすぐ走る時はいいのだが、曲がるとふらつく。ウサギが寝る姿勢は、前脚をお腹の下に収納してうずくまった姿勢が基本なのだが、バランスがとれないようで、こっくりこっくり舟をこぎながら一歩、一歩と前進している。そのうち壁にぶつかってやっと止まり、寄りかかって寝ている。熟睡するとどさっと横倒しになる。時々心配になって呼吸を確かめたりする。
なのに食欲は際限ない。お皿が空だと、皿に手を突っ込んでこっちをじっと眺め、ドライフードをねだる。ドライが入っていると、立ち上がってこちらと皿を見比べ、パパイヤのドライフルーツをトッピングしろとねだる。ウサギのくせに牧草を食べるとお腹を壊すので、毎日私は柔らかな野草を採ってくる。一山あげてもあっという間に食べつくす。体重は相変わらず1kgジャスト。どんなに食べても太らないのは草食だからか?
体のバランスも悪いので毛づくろいができない。そのせいか、やたらに撫でろと要求してくる。撫でてやるとぐいぐい手に体をこすり付けてくる。そしてほわほわと毛が抜ける。手足やお尻も汚れていてお湯で洗ってやる回数が増えたし。なんだか、介護ウサギになってきたなあ。
それに比べるといつまでもぴちぴちしているのはイモリである。もう10数年生きているが、見た目が変わらないのは脱皮のおかげだろう。相変わらずのマイペース、というか、意思の疎通はない。ものすごくお腹がすいていると水面すれすれからじっとこちらを見ている。お腹いっぱいの時は水底にいる。それだけ。長男は「こいつ本当に同じイモリ?何回か入れ替わっているんじゃない?」いやいやヤモリならたまに外壁にくっついていますが、アカハライモリはその辺にはいませんよ、仮にもし入れ替わっても見分けはつかないけど。
かくいう世話をする側の自分も老いているので、新しい生き物を飼おうとか、「挑戦」する気持ちにはならない。
なんで飼い始めたんだっけ?いつからいるんだっけ?と漠然としつつ、今日も共に生きているのである。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
その愛のゆえに
=時々の記=
(95)
1月21日
お祈りに支えられて、主人が今三重大学病院から帰ってきました。7年目ということでかなり厳しく考えていましたが、神様はもう少し生かしてくださるようです。結果は異状なしでした。本当に心から感謝いたします。今朝からはこの結果が出るまでは何か重たい気持ちでした。
日当たりのよろしき雑木山眠る。
過疎の村、花苗植えて春を待つ。
公園の池の氷の眩しかり。
音もなく一日を恵む冬の雨。
山下る寒の水音澄み亘る。 馬場路哉
こちらは今朝も氷点下。とても寒い一日でした。早く春が来てほしいなと毎年この頃になると春の訪れが待ち遠しいです。
2月8日
昨日の夜から雪が降り続いています。
今は雨ですがまだやみそうにありません。家の外には一歩も出ることが出来ません。犬たちとの散歩も今朝は取りやめにしました。犬たちには裏の山に放してやると嬉しそうに走って行きました。そして10分もたたないうちにちゃんと家に戻ってきました。賢いですね。
この状態では明日は礼拝出席は無理なようです。明日まで待ってみますが、一面10センチ以上の雪が降り積もっていますから。早くやんでほしいものです。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
祖母と最期にゆっくり話し合えてとても嬉しかったです。介護は今やどの人にも避けて通れない事となっていますが、その時には力を頂いて協力しつつ歩んでいけたらいいのですが、大変だとは想像します。
近所には八百屋さんや大型スーパーに何とか負けずに頑張っている小売店がまだ残っています。高齢のお客さんも多いからか、店員さんがお客さんとよく会話しています。「もうすぐ降りそうですね」など、スーパーではあまりなかった事です。美容院のおばさんも昨年ご主人を看取られました。都会的なカラーで建っている美容院にはない、ちょっとおせっかいだけれど温かみのある交流がそこにあります。沢山のお客さんと話される機会があるので、周りや親の世代からいい教えを教わっているのは有難いことです。信仰の道を与えられずにいたら、世俗的な思いに縛られていたかもしれません。
お互いの健康など気遣いながら生活できる温もりがまだ残っている事は有難いなと思います。
奈良県 中谷リツ子さん
解説 ウエストミンスター信仰告白 (21)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校長)
第九章 自由意志について(2)
4 神が罪人を回心させて恵みの状態に移されるとき、神は彼を、罪のもとにある生まれながらの奴隷のきずなから解放し(1)、彼を恵みによってのみ、霊的な善を自由に意志しまた行為することができるようにされる(2)。そうであっても、彼の残存している腐敗のゆえに、彼は完全に、あるいはもっぱら善だけを意志しないで、かえって悪も意志する(3)。
1 コロサイ1:13、ヨハネ8:34,36
2 ピリピ2:13、ロマ6:18,22
3 ガラテヤ5:17、ロマ7:15,18,19,21,23
四 人間が神の恵みによって、有罪の状態から恵みの状態に入れられる時、初めて救いに至る霊的善を意志したり、行ったりする自由が回復される。つまり神の救いの恩恵によってのみ、人は救いに至る善を自由に意志することが可能となる。しかしながら、罪人はたとえ新生しても、地上では肉(罪ある人間性)のゆえに、完全には善のみを意志せず、依然として悪を意志することを止めない者である。ローマ人への手紙7章15節以下にあるように、二つの自分は一つの住宅に同居しつつ、内なる自分は神の律法を喜び、肉なる自分は罪の律法に従う現象をあらわしているのが、これが地上にあるキリスト者の姿である。
5 人間の意志は、ただ栄光の状態においてのみ、善だけを行為するように、完全かつ不変的に解き放される(1)。
1 エペソ4:13、ヘブル12:23、Ⅰヨハネ3:2、ユダ24
五 人間の状態には、エデンと罪と恵みと天国という4つの異なった状態があるように、意志の自由ということにも、4つの別々な状態がある。そのどの状態であっても、意志がまったく自由を持たないと言うのではない。罪の状態にあってもある意味での意志に自由はある。ただ救いに至る善への無能力という制限があるだけで、地上的善や悪への自由はある。一項で定義されたように、人間に意志が与えている限り、それは、無意志の被造物と異なり、他からの強制や本能の必然的衝動で行動するのではない。従って四項で言及した内なる自我が、神の律法に従う場合、恵みによると言ったところで、恵みに強制されたわけではなく、新生した自我の本性の必然的決定と言うわけでもない。どこまでも、自分の意志の自由な選択的行為として、それを行うのである。また、肉なる自分が罪の律法に従ったとしても、罪の律法の強制ではく、肉(罪ある人間)の本性的必然の決定でもなく、やはり自分の自由な意志の行為としてである。もし、それが恵み、または肉の強制や本性的必然的決定と言うならば、罪の責任を神に帰する大きな誤りに陥るばかりでなく、救いの恵みが機械的暴力と見なされることになる。この点に関しては、特に第三章の「神の永遠の聖定について」の一項を参照してほしい。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
『旧・新約婦人物語』(54)
執事フイベ
=ローマ16:1~2
使徒パウロが書きましたそれぞれの手紙の終わりの所を、よく調べてみますと、そこに多くの人々の名がのっていることにお気づきと思います。パウロがこのように、一人ひとりを覚えて彼らの奉仕や信仰を感謝して個人的に挨拶を送ったことについて、非常に教えられるところがあります。
特に、ローマ人への手紙16章におきましては、そのような人々の名が20人以上も出ております。その中には、既に取り上げました「ローマのマリヤ」とか、「アクラの妻プリスキラ」も出ています。それのみでなく、滅多に聞かない、「主にあって労苦しているツルパナとツルポサ」(12)とか、「主にあって一方ならず労苦した愛するペルシス」(12)といった名前もあります。
そのように、ローマの教会には、神様のために大きな奉仕をしていた婦人たちが多くおりましたが、教会の執事と言われましたのは、このフイベだけだったようであります。しかしローマ人への手紙16章の1~2節によりますと、フイベはローマ人ではなく、ケンクレヤ教会の会員であったとあります。このケンクレヤというのはギリシャのコリントの町の東にある港町です。
ローマからは随分遠い所の町であるにもかかわらず、ケンクレヤの教会の執事が、ローマに行って、この手紙によってローマ教会の人々に紹介されたのであります。パウロのこの親切な取り扱いには、わたしたちも大いに学ぶところがあります。と言うのは、クリスチャンは他のところへ移る場合、必ず自分の教会から推薦状をいただいて、行く先の同じ信仰にある教会と早く関係を持つべきだと存じます。
お互いの母教会は懐かしいものですが、もし移った町に、同じ信仰の教会がありますなら、その教会に加わって生きた信仰生活と奉仕を続けることがもっとも必要な、大切なことなのです。それでパウロは、よろこんでフイべをローマの教会の人たちに紹介して、「どうか、聖徒たるにふさわしく、主にあって彼女を迎え、そして、彼女があなたがたにしてもらいたいことがあれば、何事でも、助けてあげてほしい」(2)と言っているのです。
わたしたちは、このようにして他の教会から移ってくる人たちを、主にあって聖徒たるにふさわしく、また暖かく歓迎しているでしょうか。余りよろこんで教会に受け入れないようなことはないでしょうか。こういう新しい信者が教会の礼拝に出た時、わたしたちは礼拝が終わってから暖かく挨拶するでしょうか。あるいは知らん顔をしていないか、またその人の家を訪問して、この町に来られたことを本当に歓迎するでしょうか。このような点は大いに反省すべきところだと思います。
ローマに移住したフイベについて、僅か2節にしか過ぎないこのところに、何が書いてあるかを調べてみましょう。まず彼女はケンクレヤの教会の執事であったということです。初代キリスト教会の時代から現代に至るまで、婦人の執事があるということは非常に愉快なことであると同時に、実に意義のあることだと思います。
彼女が執事になるためには、どういう資格がいるでしょうか。テモテへの第一の手紙3章11節を見ますと、「女たちも(と言うのは、女の執事たちの意味)、同様に謹厳で、他人をそしらず、自らを制し、全てのことに忠実でなければならない」とあります。このみ言葉のように、婦人の執事は、特に教会にある他の婦人たちに対する責任があると思います。泣くものと共に泣き、よろこぶものと共に喜び、絶えず他の姉妹たちの信仰生活のために祈り、また励ます責任があります。また新しく教会に来られた方々を訪問して、彼らの信仰を強め、導き、教会に関係のある方々で病気の人があれば、その方の病床を見舞い、共に聖書を読み、共に祈ることは執事の大きな義務でもあり喜びであります。
フイベはこの勤めを良く果たしたでしょうか。2節の後の部分を読んで見ますと、直ぐ分かります。「彼女は多くに人の援助者であり、またわたし自身の援助者であった」と彼女のケンクレヤに於ける働きを賞賛しています。このようにフイベは、使徒パウロのみならず他の多くの人たちの本当に良い援助者でありました。
この本をお読み下さっている読者の皆様、あなたはフイベのように暖かい愛を教会の皆さんに差し向けておられるでしょうか。主にある兄弟姉妹を励ましておられるでしょうか。病人や、老人や、教会から遠ざかっておられる兄弟姉妹を訪問し、主にある者としての慰めを語り、礼拝へのお招きを話しているでしょうか。どんなに貧しくても、主イエス・キリストを信じて救われている者の信仰のともし火は、悩み苦しむ世の人たちを照らすものであります。
どうか日本の全てのクリスチャン婦人の方々、あなたが主なる神様から与えられていらっしゃいます大いなる救いの恵みを、同胞の姉妹たちに分かち与えて下さいますように、心からお願いいたします。
愛する日本の国が神様の祝福のもとに、立派なキリスト者たちの国となる日が、やがて訪れて来るように、私は心から祈って、ペンを置くことにいたします。 =完=
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」