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解説 ウエストミンスター信仰告白 (20)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第九章 自由意志について(1)
1 神は、人間の意志にあの自然的自由を賦与された。それは善にも悪にも強制されていないし、また自然の絶対的必然で決定されてもいない(1)。
1 マタイ17:12、ヤコブ1:14、申命30:19
一 人間には被造物ではあっても、他の動物などに見ることのできない尊さが、いろいろ与えられている。その中の一つに「自由意志」または「意志の自由」と呼ばれるものが含まれている。人間のに意志は善または悪のどちらかを欲するのであるが、どちらを選ぶにしろ、何か外からそうさせられるのではなく、自分がそうするのである。
しかも、それは本能的な絶対的必然によるのではない。つまり、自分の中からであるどうにもならない衝動というようなことではない。他者からとか、環境とかに支配されるのではないとともに、内的な力に左右されるのでもなく、どこまでも自分で反対の方向にも意志できるのに、自ら好む方向を決定すると言うのである。
猫が魚に飛びつくのは、内からの本能的な絶対的必然であり、馬が汗を流しつつ荷車を引いて坂を上るのは、御者の強制によるのである。しかし、人間が寝転んで新聞を読むのも、礼拝のために教会へ行くのも本人の自由意志によるのである。
2 人間は無罪状態においては、善であり神に喜ばれることを意志し、行なう自由と力を持っていた(1)。しかし可変的であって、そこから堕落することもありえた(2)。
1 伝道7:29、創世1:26
2 創世2:16,17、創世3:6
二 無罪の状態とは、創造されたままの状態であり、エデンでの状態である。人間が神より与えられたものの中には、不変的賜物と可変的賜物とがあった。可変的とは、自然に変化するという意味ではなく、神との契約に基づいて、試験期間が終了するとともに、より良いもの、または悪しきものへと変化する賜物のことである。自由意志は、このような可変的賜物であったから、現在、わたしたちの持って生まれた自由意志は、アダムが創造された時に与えられていた自由意志と同一のものではない。
3 人間は、罪の状態に堕落することによって、救いを伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている(1)。それで生まれながらの人間は、そういう善からは全然離反していて(2)、罪のうちに死んでおり(3)、自らを回心させるとか、回心の方に向かって備えることは、自力ではできない(4)。
1 ロマ5:6、ロマ8:7、ヨハネ15:5
2 ロマ3:10,12
3 エペソ2:1,5、コロサイ2:13
4 ヨハネ6:44,65、エペソ2:2-5、Ⅰコリント2:14、テトス3:3-5
三 現在の人間は、まったく自由意志を持たないと言うのではない。ただ救いをもたらすための善を意志し、実行する力がないと言うのである。それが普通の人間には困難だというのではなく、一人も出来ないと言うのである。完成できないというのでなく、ぜんぜん準備することもできない。ただ、したいと思うのだができないというのではなく、したいとさえ思わない、むしろ、するものかと思うと言うのである。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
『旧・新約婦人物語』(53)
ユウオデヤとスントケ
=ピリピ4:1~3=
「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい」(1)。この力強い言葉は、ローマの牢獄に閉じ込められている老使徒パウロが、ピリピの町にある教会の、主にある兄弟姉妹たちに書き送った有名な言葉です。
これを読みます時、どんなに使徒パウロがピリピにいる兄弟姉妹を愛していたか、また彼らがどんなにパウロの喜びであったかが分かると存じます。ピリピの教会は、ヨーロッパでの最初の教会でありますし、その教会の信者は、ヨーロッパのクリスチャンの初穂であります。パウロがマケドニヤ人からの招きの夢に応じて、ギリシャに渡りました時、彼が最初に 十字架の福音を宣べ伝えたのは、このピリピの町でした。この町で数人の熱心な婦人たちが川辺に集い、祈りをしていることを聞き知ったパウロは、その場を尋ねてキリストによる救いの説教をして聞かせ、その人たちを真の神に導きました。その中に、テアテラ市の紫布の商人ルデヤと言う婦人がいまして、ヨーロッパでの最初のクリスチャンとなった物語は有名です。
その後のピリピの教会の発展は目覚しいもので、信仰に燃え、救われた証を語り、教会のための奉仕にと、大きな働きをいたしました。パウロは、「あなたがたは、よくわたしと艱難を共にしてくれた。ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣教し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった」(14~14)と、書き記しています。このように、ピリピの教会は、パウロと実に密接な関係を持ち、パウロもまた絶えず彼らのために祈り、手紙をもって教会員一人一人を正しく導き、励ましていたようです。
ここに牧師の本当のあり方を見出すことが出来ると存じます。もちろん、神学を研究することも、力に満ちた説教の準備をすることも、当然、牧師にとって大切な勤めでございます。同時に、一方において、パウロが実行いたしましたように、教会員一人一人の喜びや悩み、あるいは彼らが受けつつある試みを素早く見抜かなければ、牧師はどうしてパウロのように、一人一人を正しく主に導くことが出来るでしょうか。
パウロは絶えず愛する信者の名前も覚え、それぞれの教会内の問題について、自分の責任を強く感じていたことに、大変教えられます。
この信仰と実践に優れたピリピの教会にも、面白くない問題もあったようです。4章2節に、「わたしはユウオデヤに勧め、スントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい」とあります。このことは何を意味しているのでしょうか。別に難しいことではなく、この二人の婦人たちが、一つ思いになっていないで、意見が合わない、強く言えば争っていたようです。
ではこの二人の婦人は、どういう女性であったのでしょうか。3節によりますと、「真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、『いのちの書』に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである」と、パウロが語っています。彼女たちの教会生活は形式的なものではなく、また中途半端ななまくらなものでもなく、パウロが初めて伝道した頃から、クレメンスや他の同労者の時でも、十字架の福音のために戦ってきた、まことに信仰深い立派な婦人たちであったことを、パウロはここで語っています。
どうして、このような信仰ある婦人たちが、一致協力することが出来なかったのか、その点はっきり致しておりません。彼女たちの争いの原因が聖書には書いてないのです。パウロが記していますところは、この二人の婦人の間がうまく行っていないと言うことと、そのような問題をそのままにしておくのは良くないと言うことなのです。
このような問題は小さい事柄で、どうでもよいと放置されやすいのですが、実はこれが教会の一致と平和を破る問題にまで発展するのです。ですから、このような事柄は一日も早く解決しなければならないのです。
さて、パウロはこの問題をどのように解決しようとしたのでしょうか? 先ず二人の婦人に、自分を忘れ、隣り人を愛する主のみ言葉の精神にもとづき、二人が仲良くしてくれることを、勧めたのでありました。しかし、それはいい得てその実、まことに困難な、たやすい業ではありませんでした。それで、誰か他の人に、この二人の婦人を助け、和解するように依頼しました。「ついては、真実な協力者よ。あなたがたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい」(3)とございます。この「真実な協力者」とは誰なのか、その名前は、ここに記されていませんが、この手紙を見たピリピの人たちには、それがだれのことなのか、直ぐ分かる人であったと思います。
教会の信者たちの間に生じますいろいろの問題は、このようにして解決するのが、最も良い方法ではないかと思いますが、どうでしょうか。先ず、問題を問題として取り上げ、それを権威ある人に託して、一時も早く解決しなければ、これは教会の一致協力を乱し、発展を妨げる大きな障害となると存じます。
もし、あなたの婦人会の中で、ユウオデヤとスントケのような問題がございましたら、どうか謙虚と悔い改めと祈りとをもって、それを早く解決し、全教会員が力を合わせ、主イエス・キリストによる救いの福音の宣教に努め、教会員として走るべき道のりを、ひたすら走り続けてまいりましょう。そのためにも、わたしたちは、主イエス・キリストにあって、主より送られてくる聖霊の助けを頂くように、祈りつつ、待つように努力しようではありませんか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (35) 遠山良作 著
昭和22年
4月9日
―ハンストを計画―(1)
昨日夕方である。A軍曹と、その隣りにいるB上等兵とが話をしていたとの理由で、二人は房の外に出されて、英兵に殴打(5つ6つ)された上、罰として半減食にされた事件が起きた。
ここいる多くの者は、取調べ中に殴打したとの理由で裁判され、戦犯者の烙印を押されている。殴打されたB上等兵などは、捕虜を3つ叩いたとの理由で15年の刑を受けているのである。ただ話をしたからといって、殴打することは、戦勝国だからといっても許されないはずである。
敗戦以来われわれは英人に対して、自信を失い、どんな無理を強いられても、負けたのだから仕方がないと思って、言われるままに黙って従って来た。これで本当に良かったのかと、疑うことも、しばしばである。
今もこの獄房の片隅には沢山の蚊が昼でもいる。夜になると幾千の蚊が、私たちの血を求めて襲ってくる。この蚊を防ぐために刑務所は、防蚊油と「マラリヤ」の予防薬を毎日支給してくれる。夜になるとこの防蚊油を、露出している顔や手に塗って蚊を防ぐのである。防蚊油はいやな臭いがするので、蚊はぶんぶんと音を立てて、露出したあたりを飛び回るが決して止まることはない。しかしこの臭いも二時間位しか効力がないので、あとは上着や、じゅばんで顔や手を包んで防ぐのである。
雨期前のビルマの暑さは日本の夏と比較出来ない。その上、風通しの悪い独房であるから、たまったものではない。むし風呂に入ったようである。こんな日が幾日も続く。どの友を見ても、目に見えて痩せて行くのがよく分かる。私も不眠のためだと思うが食欲が減退して、15オンスの給与の食事も半分位しか食べることが出来なくなった。
この状態を刑務所側に再三訴え改善を要求した。また外部にいる部隊も、独房にいるわれわれに対する待遇改善について、交渉してくれた由であるが、一向に改善してくれないのみか、むしろ厳しくなるばかりである。
こんな状態が続くなら死んだほうが楽なような気さえする。捕虜収容所で捕虜の待遇が悪かったとの罪で所長であった田住大尉は無期の刑を受けている。この非道としか 思えない英軍に対して、これでもじっと耐えるべきか、それとも自らの力で何とか打開するかである。残された道はただ一つである。それは「ハンガーストライキ」で抗議する以外に道はない。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・14
問13 聖霊は祈れば与えられると聞きましたが、どう祈ればよいのでしょうか。(2)
答 (続き) イエスは聖霊のことを「別の助け主」と言われました。それは、イエスが地上に弟子たちとともにいる間は助け主であるわけですが、この世を去られたら助け主はいなくなります。
それに対して、イエスは「わたしはあなたがたをみなし子にはしない。いつまでもあなたがたと共にいる」と言われました。それは「共にいる」という仕方が、今まではこの地上においての見え触れる仕方であったのが、これから先は見えたり触ったりは出来ないが、別の助け主として、またそうであるだけに永遠の助け主としてあなたがたと共にいると約束されたのです。それが聖霊です。
ですから聖霊を受けるということは、自分の内に、また自分の傍らに、助け主としてのイエス・キリストがおられることが確信出来ると言うことなのです。ですから、聖霊を与えられた人は、目には見えず手で触ることによって確かめなくても、それよりも確かなこととして共におられるイエスを信じて「主よ」「イエス様」と言うことが出来るのです。
この生きておられる主イエスにものを言うことが「祈る」ということです。そういうわけですから、祈るために特別な場所へ行かなくてはならないのとか、祈祷師のように祈れる人間になるために特別な修業をするとか、秘伝を授けられなくてはならないとかいう必要はありません。いつでも、どこでも、どんなことについても、今いるところで、あるがままの自分で、「イエス様」と呼びかけて祈ることが出来るのです。
こういうわけですから、無風状態にいるヨットマンが「風よ吹いてくれ」と願うように、固定化された地上と人間の世界に閉じ込められている者が「聖霊よ来たれ」と願うのは、時間と空間に中にいて、その中だけでしか考えたり行動する以外にない人間が、これを超えた永遠の世界に漕ぎ出し、そこに息づき、または羽ばたくことが出来る秘訣をイエスから、その世界の消息を聞かされているからです。
こうして、風にもなぞらえられる聖霊によって、神の支配される世界へと船出した者は、その船出をしたあとで、停泊中に聞かされていたことの一つ一つが「ああ、聞いていたことはこのことだったんだなあ」と確認するに至るのです。その停泊中に聞かされていたことというのが、聖書に記されている内容なのです。
そういうわけで、聖書に書かれていることは真理だなあと確認されるのです。従って聖霊を求める祈りは「聖書に記されている真理を分からせて下さい」と言う願いでもあるわけです。聖霊の方でも、それをわたしたちに分からせようと願っておられるのですから、われわれの願いが聞かれないはずはありません。目に見えず手で触れなくても、もっと確かに信じるに値する方として、聖霊は、祈りに応じて、われわれに最もふさわしい仕方で、来てくださるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
2月放送予定
2日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
9日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
16日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
23日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究 (109)
第62課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章28~29節 (21)
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについていえば、父祖たちのゆえに、神に愛される者である。神の賜物と召しとは変えられることがない」(11:28~29)。(2)
「選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている」。神の愛に対する敵意は持っており、福音について神の敵であるとして取り扱われている一方、彼らは別の違った意味において、神に愛されている、すなわち、彼らは選びについて言えば、祖父たちのゆえに神に愛されていたのです。福音について神の敵であったそのユダヤ人たちが、なおも神によって注意深く見守られ、集団としてメシヤであるイエスに回心するその日まで守られているのです。
不信仰の中にある者はすべて滅びなくてはなりません。しかし、或る意味で、彼らはその子孫が来るべき日に、メシヤに回心する民族として、神になおも愛されているのです。
「神の賜物と召しとは変わることがないからである」。これは、罪人が救われるためには、その罪を悔い改める必要がないといった意味ではありません。「変わることがない」と訳されている原語の直訳はwithout repentance であるからです。Repentqnceとは「悔い改め」の意味ですが、ここでの意味は「神の側におけるみ心、あるいは目的の変化」ということです。
パウロは神の恵みの目的は変わることがなく、取り消されることがないということを述べているのです。Calling(召し)は、ここではelection(選び)と同じ意味です。神が永遠の生命にお選びになった者は、確実に救われるからです。しかし、もし神がある民を特別な民とするためにお選びになったのならば、彼らはそのような民として残るのです。神の恵みの目的はかわることがないからであります。
集団としてのユダヤ人の選びは、その集団の中の特定の個人の救いを意味するものではありません。神がユダヤ人の大部分が救いに与ったという意味ではありません。神がユダヤ人をご自分の民としてお選びになった時、それは旧約の或る時代のユダヤ人の大部分が救いに与っていると主張する粗雑な謬論が現代も存在しています。もちろん、これは全く根拠がなく間違った論です。
神が或る人たちを民としてお選びになることと、個人を選びお救いになることとは別のことです。何れの場合においても、神はその目的とみ心を変えられることはありません。しかし、私たちは或る民族が選ばれて諸関係や特権に与ることと、個人が選ばれて救いと永遠の生命に与ることとを混同してはならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
瓦礫も取り除かれ、あの悲惨な姿は白い雪のおおいの中にあって見えません。多くの人の気持ちも、おおいをかけ、作り笑顔であることがわかります。誰もがだんだん無口になります。時間は残酷です。悲しみを心の奥へと閉じ込めて、
時々、言い知れぬ寂しさとして心を支配します。忙しく仕事をしていなければやり切れません。やり場のない悲しみと悔しさ・・・・。私たちには風化は無縁です。
岩手県 T・Tさん
孫が高校受験です。母親の代わりに暖かい夜食を作っています。つい口に出したくなる、頑張ってね!の一言・・・・。娘から言ってはいけないと注意されているのですが、孫の姿を見ていると言い出しそうになります。そんな日々の受験生を持つ親御さんたちは多いことでしょう。
がんばれ!親御さんたち!
山口県 H・Kさん
昨年一年間もお世話になりました。苦しい中にも主のために、祈りつつ「つのぶえジャーナル」を発行し続けられ、主の祝福がありますように。今年も送られて参りました。すみません。今年は何としても教会の伝道費のために、神に祈り、支えを戴くべく、経済のためにも神に求めて行かざるを得ないこととなりました。伝道し、受洗した若者は都会に出ます。それでも会員に生活力・経済力のある時は教会維持は可能でしたが、今は70歳以上の人だけの小さな群れになりましたので、現実は厳しく神は助けをくださると信じて、歩んで来ました。今年も祈って行きます。祈ってください。
長村兄も、大変だと思います。どうぞ主が恵みを備えてこの働きをお守り下さるように、お祈りします。それで、これまで今までも切手代も送れなかった状態ですので、しばらくお休みしたいと思っています。今までの長い間、無料で送って下さって、本当にすみません。神様に祈って何としても、この中からでも救いを求めている方のおられることを信じ、伝道者として残りの生涯を終わりたいと思います。よろしくお願いいたします。
00県 0・0さん
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
☆ 勤めている娘も主人も年末年始は休みで家に居ります。大分前に流行語に、「粗大ゴミ」と呼ばれていた世のご主人方も、家事の手伝いなどをするようになったのでしょうか、その言葉は忘れ去られていますが、我が家では今も健在です。日曜祝日もそうですが、この忙しい年末と年始の数日間は、私の生活リズムが乱れに乱れで、今から心労が始まりました。先が思いやられますので、つい愚痴メールしてしまいました。主人が健康であることに感謝していますが、主婦の皆さんはどうなさっているのでしょうか・・・・・。
☆ 今年の3月で94歳になるおばが、去年交通事故にあったので「難を転じるように願いを込めて」庭の南天を入れて、贈ってくれました。また、梅の木も復活して豪華な玄関になりました。キリスト者には迷信でしょうが、おばの気持ちがわかりますので、素直に受け止めています。おせちは、今春嫁ぐ娘との最後の家族だけのお正月で「鯛」があり、こちらもいつになく主人の気合が入っているようです。周りの応援が、ありがたいです。つのぶえジャーナルも感謝です。
☆ 1月2日に娘の希望でディズニーランドに行きました。娘以上に私が楽しんでしまいました。その時の様子です!
☆ 少し元気が出てきましたので畑に行きましたら、中国野菜が花を咲かせていましたので 写メールします。
☆ 近くの公園を乳母車に乗せて散歩にでるようにしています。暖かい日には顔なじみになったお母さんたちと子供の様子を話し合い、情報交換しています。育児ノイローゼに陥らないためにも、気分転換のためにも、子供のためにもお母さんたちを話す時を持ちなさいと母からもよく言われました。最初は、体調も良くないために引き篭もっていましたが、元気になると自然に外に出たくなり、お話しすることも苦にならなくなりました。今は貴重な時間になりました。
春浅い日々です。 今月号も蝋梅や葉牡丹など、季節を告げる写真メールで飾ることが出来ました。メールの送信ばかりでなく、写真メールでも「つのぶえジャーナル」作成に参加して下さることは、編集子としてはうれしいことです。今年は各地の雪国は寒さと大雪で被害のニュースが報道されています。買い物や通院に不便を感じている方も多いようです。神様のお守りを祈っています。
このように2月号のために更新し、お届けできる幸いを改めて感謝いたします。お祈りとご支援をいただきました。
この「つのぶえジャーナル」はCBCラジオ放送を聴いてお便りくださった方にも、3ヶ月間贈呈しています。 CBCラジオ放送の聴ける範囲は東海地区に限られていますが、インターネットは限り無く広いことを思います。日本以外のところでも、ご覧いただいています。うれしいことです。
『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社』の活動のための寄付者
阿部保雄様 和田順一様 和田貴美子様 井上義明様 田尾 茂様 田尾ますよ様 様 匿名様2名
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
2013年12月16日から2014年1月15日‘まで
『水琴窟』
広い公園は一面冬枯れの芝生。池の岸辺には薄氷。誰もいない公園に好きな音楽でも聴いているのか、ベンチに座っている人の姿。周りの高層ビルに間に駆る陽だまり。行き来する車の喧騒・活気もまた人の営み。ぽっかりと空いた静かな陽のぬくもり憩う場所。
孤独や寂しさを噛み締めながらの笑顔、希望と不安がまぶしい若者たち。この二月は、飛躍と希望と光り輝く生き物たちの内に秘めた生命力。混沌とした力は何かを語り方伝える時。「混沌」は混迷ではない。無秩序ではない。漲る力がそのなかに確かにある。そんな二月がそこにある。
メール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。
=Ⅱテサロニケ3:16=
人は戦争や醜い争いを願い求めてはいません。しかし、現実には、全世界の中で戦争のない時はなかったでしょう。誰もが平和を願い、様々な仕方で、様々な人が努力してきたのも事実です。しかし、「平和自体」は存在しませんでした。クリスマスの恵みを思う時が与えられて、キリストが世界に平和をもたらされたという事実と切り離された平和は存在しないことを、改めて深く知ってほしいものです。キリストは平和をもたらされたのですが、私たちはそのような平和を受け入れなかったのです。救いをもたらすキリストを十字架にはりつけにしたのです。
私たちは自分だけの平和・平安を求めてはいないでしょうか。私たちは、平和でないことの結果として生み出される現実に対する解消法としての平安を求めていないでしょうか。自分の苦しみから逃れるだけの平和・平安と言う自己愛であるなら、それは偽りの快適さを過ごす方便です。
神は私たちに平和を与えようとされます。神の平和は、神との平和です。私たちの罪深い心の中に、真の平和を与えようとされます。考えて見ましょう。では、私たちは神とどれほど不和の中に生きているでしょうか。この神との不和がある限り、人との平和もないのです。
神が与えて下さる平和は「神との和解」です。その道を神は福音として人類に、歴史の中で示して下さいます。私たちは人との間でイライラし、またそうさせる存在であることを、深く知るべきです。
神は「いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように」とキリストにおいて差し出されています。
主の2014年が平和であるために、主イエス・キリストにあって祈り求めましょう。
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
ローマ4:5=
大変立派なキリスト者にも、すべての事が落胆の種となるような時期があります。そのような時、自分の心に、なす行為に、自分を責めることがあります。そして、すべてが苦痛で、罪で、偽善であるようにさえ思ってしまいます。こうあるべきだと装っているのではないかと心は呻きます。
私たちは幼児のように父のもとへ行くように、神のみもとに行っていただろうか。今は救われているのだろうか、神様を父と呼んでいいのだろうかとさえ思うのです。
確信と、自由をもって、キリスト者が生活していた多くの人が、このように嘆きます。
このような「信仰の暗闇」の中に踏み込んだなら、「もしあなたが子供としての権利を実際に失ったとしても、なお、あなたには一つの権利が残されて持っていることを思い出していただきたいのです。すなわち、罪深い者の権利です。あなたは罪深い人以上に悪い者にはなれません。すべてのものがあなたを見捨てても、あなたにはなおこれを持っているのです。すなわち、不信心な者を義とするおかたを信じうるということです。
この権利に心から信頼すべきです。あなたが、打ち砕かれた時、あなたは、その権利によって救われ、義と認められるのです。
この権利を信じて生きようではありませんか!
上河原立雄
眸
最近、「つのぶえジャーナル」の「その愛のゆえに」の中にお母様のことが載っていることに気がつきました。そうして改めて、自分を見つめることが出来ました。私も老人専用の施設で職員として働いて14年目になりました。年の瀬には念入りに施設の掃除をして新年を気持ちよく迎えたいと毎年思っています。この一年の間には、召された方もおられました。そのお顔は時間と共に記憶から消え去ります。今おられる方に気持ちが向くからです。しかしそれは言い訳でもあります。
同時に、職業病の腰痛に悩まされてもいます。皆さんからは本当に重労働ですね、と言われますが正直そう思います。ご家族に代わって、日々の生活一切のお世話ですから・・・。そのことをご理解下さるご家族が施設へ頻繁に訪れて、感謝のお言葉を述べていただける時、私も喜びと誇りを感じるのです。健康である限り、このお仕事をさせてくださいと祈りつつ、今日も頑張ります。
沖縄県 N・Nさん
歳末助け合い募金から、数年前に送迎用の車をいただきました。そのありがたかったことが利用されている方の姿、はじめて試乗された方の感激は今も覚えています。こんな田舎のNPOにも温かい眼ざしがあったことは喜びでした。12月になると、車を見ては思い出します。
広島県 W・Kさん
何年も前に一緒に働いていた方と久しぶりに話をする機会がありました。
チームで仕事をしていて、これはいいよと認められたり、忠告されたり、時には言い合いになったり、思い出深い上司でした。
あの時は、私のどこにこんな意欲があったのだろうかと思うくらいやる気満々ででした。今思い出すと、1・5倍くらいの力が出せたことが不思議です。元上司に会った時、「やる気を引き出してもらったことをとても感謝している」と伝えました。その元上司によると、それは『ミックスアップ』というのだそうです。一人ではできないことも何人かで力や知恵を結集すると想像以上のことができるとのこと。
教会の伝道においても、一人でがんばるのではなく、ミックスアップできたらすばらしいと思いました。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」マタイ 18章20節 の掲示文の写真も送ります。
長野県 みどり
(79)
12月27日
街はクリスマスの音楽、この3日連続で外出したら、日曜日にダウンしてしまい、月曜日はまだしんどかったけど、用事を済ませたら、今日もまたダウン。
体と脳が弱い。外出は週に2回が限度なのでしょうね。外を歩くのは、音や光や人の声など、わたしには刺激が強いので、家の中で運動する器具を買いました。主人はそんなもの効くの~、歩けばいいのに~と言いますが、やはり分かれって言うのが無理なんだろうなあ・・・・。あああ~。
加納さおり
(その2) 仕事に夢中の頃は、楽しくて、朝早くの出勤電車の中でもアイデアをメモしたノートを見ながら、それぞれの項目に分類してから、駅でサンドイッチを食べるのが日課であった。与えられた仕事のテーマに対して自分なりの蓄積してきたアイデアが次ぎの考えのヒントになるのが面白く、次の企画会議までが楽しみでもあった。そんな日々が数年続いた。外資系の友人から金融のノウハウを伝授され、興味本位に始めてもみた。一度に、一ヶ月の給料よりも多いお金がパソコン上の画面を見て操作しているだけで入ってくる。氷河期と言われていた時のことで、自分にはまったく別のことであった。それがある日、言いようのない不安に陥ってしまったのである。
喜多方章二
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」