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世田谷通信
(122)
私がぼんやりなのか、物の形や記憶が本当にあいまいなのである。家の外壁の補修をしようと思ってホームセンターで補修パテを買いに行く。毎日見ているのに、さあて、どんな壁?ベージュ、灰色、白?ざらざら、ツルツル?最近、ひび割れを見つけて確認したはずなのに、思い出せないので何も買えずに帰ってくる。家に帰ってよくみたら、ざらざらした黄土色でした。
バッグを忘れて、遺失物係りに問い合わせる。受け取りたい自分、引き渡したい係りの方。さて、ここからが問題。それが自分のであることを立証しなくてはならないのだ。で、「色や素材、大きさや特徴は?」改めて聞かれると、どんどん記憶が不確かになってくる。そういうときは必ず上を見てしまう。脳の中を見られるわけでもないのに。「黒か紺。布製です。たぶん。」「黒か紺で布製ですね。他には?」「ええと、確か雑誌が入ってるはずです。」「どんな雑誌ですか?」「・・表紙が、あの女優さん、ほら大河ドラマに出てる・・。」「綾瀬はるかさん?」「そう、それです!」って遺失物係りの方を連想ゲームにつき合わせるはめになる。
思い出せない、に加えてさらに悪いことに、思い出せたものが間違っていることもままある。記憶は都合よく、或いはゆがんで書き換えられているらしい。なんでだろう?
歯医者の予約を忘れないようにメモする。カレンダーに貼っておく。前日にあっ!と思う。しかしそのメモを書いた記憶はない。確かに自分の字なのに。もう自分を信じられないことこの上ない。ありがとう過去の自分。
でも大丈夫。脳から記憶をとりだせなくても、体は記憶しているのだから。風邪をひけば、免疫系が「あ、このタイプの風邪菌ね。ああなるほど、5年前にかかったやつに似てるわ。あの時は熱出ちゃったけど、今度は大丈夫、敵の型はわかってるから、免疫システム作動させるよ。」と頼もしく正確に機能してくれる。それは別に5年前の風邪を本体である私がすっかり忘れているのに、ちゃんとどっかに保存されている知恵なのだ。
さあ、こんなだけど、なんとか新しい1年もやり過ごしたい!
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
=時々の記=
(93)
11月12日
今日は、母が私が知っている範囲では初めて美容師さんに髪の毛を切っていただきました。いつも長い髪を束ねて一度も美容院という所へは行ったことがありませんでしたから、母がカットしてもらった顔を見て、もうびっくりしました。とてもかわいいお年寄りになっていました。靴も介護に必要ということで、ヘルパーさんにどうしたらこの母に会う靴を購入できるのですかとお尋ねいたしますと、いま履いている靴をお店へ持っていきなさい、と教えてくれたのです。ところが母は靴がありません。アメリカからララ物資(戦後間もない時に外国から支援として送られてきた医療・生活物資)で頂いた靴に何時も中身を詰めて一足だけ持っていました。ヘルパーさんもえー靴がないんですか?と皆さんびっくりされました。
主人が母の足の大きさを測ってくれて、靴を購入いたしました。履かせてみたらピッタリでした。介護用の靴はとても高いのでびっくりいたしました。
初めて自分の足にぴったりの靴が介護用の靴とは、あまりにもかわいそうな気がいたしましたが、本人は何も気にしていませんし、靴が履けてうれしいといって喜んでくれてこちらもほっといたしました。母のように自分に関しては一切無駄使いをせずに生きてきた姿に、娘として誇りに思います。私はとても母のようにはできませんから。
恐るべき十月台風再度来る。
介助して弾む会話や秋深し。
神の愛触るる小説夜流長し。
茶の花に鎮もる峡の日和かな。
冬近し犬を日向につなぎけり。 馬場路哉
11月27日
久しぶりに気持ちのよい、小春日和でした。母の食事の介助にも少し慣れてきました。施設の中で働いておられる方たちの姿が良くうかがえるようにもなってきて、感謝すると同時に、どのような仕事についてもやはり”愛”がなければむなしいものになってしまいますね。信仰が与えられ、神様の大いなる愛を知った者として、残りの人生を自己愛でなく、隣人や貧しい方たちへ愛を抱きつつ歩んで行きたいものと感じるのです。施設ではもうクリスマスの準備で忙しそうにされています。
ヘルパーさんが母に「斉藤さんにクリスマスには独唱してもらいたいわ。」と言われましたら、母は「もうとてもそんなことはできないわ、と言いながらその場で、「諸人こぞりて」を歌いだしました。皆さんびっくりするやら、笑いの渦が広がりました。クリスマスまで頑張って生きてくださいねと言うと、そのようなことは神様の御手の中にあることですから、神様がすべてをお与えになっているのですから、人間がいうことではありません、と言い返されました。
クラシック曲にくつろぐ夜長かな。
別荘の主の植えしピラカンサ。
水車小屋なお残されて山紅葉。
秋草の中に憩える翁かな。
紅葉かつ散る施設にて朗らかに。 馬場路哉
12月4日
12月に入りやはり気忙しくなってきました。その上寒さが例年より厳しいです。毎日の母の食事介助が励みになってはいるのですが、疲れが出てきました。
でも施設の方たちや母が待っていると思うと、少し風邪気味なときもマスクをして出かけています。自分では何も食することができないものですから、施設の方は一回でも家の者が来て食べさせるととても喜んでくださいますし、また、母もやはりとても喜んでくれます。その時間がちょうど11時から12時過ぎまでかかりますので、礼拝にはいくことができないことを牧師や役員の方には伝えてあります。そう長くはない母とともにする大切な時間でもあります。神様がこの時をお与えくださったことと思います。最善を尽くして母のところへは通い続けさせてくださいと祈りつつです。
弓張月(ゆみはりつき)近景並べて(なべて)墨絵とも。
リズム良き、軽音楽に紅葉散る。
草紅葉、うす紫のもの混じる。
禽の声峡に鋭く冬に入る。
椿の実朱色をなせり垣の外。 馬場路哉。
施設の中へ入ってとても感激いたしました。一人一人のお部屋の名前が記されているところへ、手作りのクリスマスリースが飾られているのです。思わず、「わあー素敵なクリスマスプレゼントがとどいていますよ」と母に持って行って見せせてあげると母もとても喜んでいました。クリスマスというお祝いがもうすっかり日本中に溶け込んでいるようでとても驚いています。我が家にはまだ何もクリスマスらしきものが整っていません。
殺風景そのものですが、一鉢ぐらいは明るいお花でも準備してお祝いの気持ちをあらわしたいものです。
母のところへ電気こたつを持って行ってあげました。余りにも冷たい足ですし、その上はれ上がっていますので施設の方が特別にこたつの使用を許してくださいました。母に伝えると、「まあ嬉しい。でもあなたの暖かい手で冷たい足を触ってもらうともっと嬉しいわ」という元気な言葉が返ってきました。
神様を信じ切っている母の人生の最後はとても豪快です。
主人にそのことを伝えると”そうありたいものだ。”としみじみ言っていました。
12月9日
昨日から、母は調子を崩しています。施設の暖房で乾燥しすぎて喉をやられ声がガラガラです。その上今朝は鼻水が出ていました。食事はすべて頂いたのですがそのあと少し痰がからんでいるようでした。施設の方たちにすべてをお任せしてありますので、これが引き金で衰弱していったとしてももう神様のご計画の中にあると信じています。そのように声が出にくい状態でも母は今日は聖書を引用して、悲しみともとに喜ぶものになりなさいと、私に伝えてきました。
食事のあとも母の冷たい手を思い切りこすってあげて私のぬくもりを母に挙げたい思いでいっぱいになりました。すると母はそんなに頑張らなくてもよい、と言うのです。
12月11日
母は少し風邪気味ですが食事が食べられるので、まだ大丈夫かななどと思ったりしながら、でもやはり気になっていつも訪問する時刻より早めに出かけています。介護してくださる方たちのご苦労で日を追って良くなってきます。重労働に携わっておられるのですから、私も感謝の心を絶えず抱いて接しています。
軽そうな母でも自分で起き上がろうとしないのでとても移動させるときには重いのです。そのような大変なお仕事をしてくださっておられる施設の方に感謝しています。
上弦の月朝白く冬に入る。
峡の峯強くかぎろひ冬晴るる。
冬麗や遠くの山に風車見ゆ。
樫のみの良く転がるを掃きにけり。
紅葉す高原に合ふそばえかな。 馬場路哉
12月12日
母の様態が一昨日から急変いたしました。酸素が不足し、栄養分が摂取できない状態が続き、脚がパンパンに張れるほど心臓が弱っているとのこと。最後まで信仰の話ができた3か月の施設での生活に心から感謝いたします。
昨日は何も話すことができませんでしたが、今朝は私たちが行くと目を開けて、”私はあなたたちに信仰という宝物を残しましたよ”私のことは心配しないでよろしい。私はただ神様のことだけをしっかりと考えていますから”といって強めてくれました。
思わず涙がドッとあふれてきました。でも母の言う通りに信仰を与えられたことに私たちは心から感謝しています。
主治医はあと一週間持てばよいのですが、とのことでした。
最後まで、イエス様の愛を伝えてくれ続けている母です。
12月20日
本日、雪がちらつく寒い中、母の葬儀を無事に執り行うことができました。家族葬で、心から母に一人一人が感謝と想い出を述べてお別れすることができ、とても神様に守られてのお別れでした。老衰でしたので、何も苦しんだ様子もなく、語りかけたら何か返答が返ってくるかのようでした。皆がそれぞれに好きな花束を母に捧げ見送ることができました。13人で、最後に405番の「かみともにまして ゆくみちをまもり あめの御糧もて ちからをあたえませ。 また会う日まで また会う日まで かみのまもり 汝が身を離れざれ」を賛美し、その後、母の大好きだったバッハの「主よ人の望みの喜びよ」をCDで流して天へ見送ることができました。
すべてに時があることを知らされた母の最期でした。皆それぞれに感極まって涙しました。今まで本当に母のためにお祈りくださったこと、心から感謝いたします。
牧師先生にもすべてが終わってから電話にてお伝えいたしました。
クリスマスにはまだ礼拝に行く気力が出ませんが、また新しい年から、母の熱い信仰を受け継いで行きたい旨をお伝えいたしました。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第八章 仲保者キリストについて(4)
7 キリストは、仲保のみわざにおいて、両性に従って行動される。それぞれの性質により、それぞれに固有なことをされる(1)。しかし人格の統一性のゆえに、一方の性質に固有なことが、聖書ではときどき、他方の性質で呼ばれる人格に帰されている(2)。
1 ヘブル9:14、Ⅰペテロ3:18
2 行伝20:28、ヨハネ3:13、Ⅰヨハネ3:16
七 ここは一つの注意書きの性質を帯びた章であり、四項と関連する告白である。神観において神格と三位の人格と神の属性との関係を区別し、混合しないことが必要であるように、キリスト論において、人格と二性との関係を正しく区別することが大切である。
二性一人格のキリストは、人格という点からすれば、どこまでも三位一体の唯一神の第二格、すなわち、み子ロゴスである。人格は受肉によって変化を生じたのではない。ただ、この唯一の神である人格が受肉によって、神性と人性とを完全に自己のものとされた。
つまり、神性の持つ一切の属性と共に人性の持つ一切の属性を自己の属性となされたのである。すなわち、神性と人性とを混同したり、一方が他方に変化したりして一致を保つようになったのではなく、唯一の人格の下に、人格的に統一されたのである。
ペテロの第一の手紙3条18節で「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。・・・」と言う時、わたしたちは、神の死とか、三位一体の神の第二人格の神の死、ロゴスの死というように考えてはならない。
神は不死である。ただキリストの人間性はその肉体のみでなく、霊魂も十字架によって一度死を経験したのである。「神の痛み」とか「神の死」などと言う表現は正確ではない。
8 キリストがあがないを買いとられたすべての人々に対して、彼はそれを確実有効に適用し、伝達される(1)。それは、彼らのために執成しをし(2)、救いの奥義をみ言葉において、み言葉によって、彼らに啓示し(3)、みたまによって信じ従うように有効に彼らを説得し、み言葉とみたまによって彼らの心を治め(4)、彼の不思議な、きわめがたい配剤に最もよく調和する方途で、彼の全能の力と知恵により、彼らのすべての敵を征服することによってである(5)。
1 ヨハネ6:37,39、ヨハネ10:15,16
2 Ⅰヨハネ2:1,2、ロマ8:34
3 ヨハネ15:13,15、エペソ1:7-9、ヨハネ17:6
4 ヨハネ14:16(*)、ヘブル12:2、Ⅱコリント4:13、ロマ8:9,14、ロマ15:18,19、ヨハネ17:17
*ヨハネ14:26が正しい。
5 詩110:1、Ⅰコリント15:25,26、マラキ3:20,21(4:2,3)、コロサイ2:15
八 この一項は、神学体系上の区別からすると、むしろ、聖霊論、つまり信者がキリストの贖罪の恵みにあずかることに関する議論に入れるべきであり、第十章の「有効召命について」と直接関連し、第十章以下十五章への序論とも見るべきことが出来る。しかし、このことをキリスト論の一部として取り上げていることは、決して不適切なことではなく、むしろ、非常に巧みな、また改革派神学の主張を立派に提示するものである。
すなわち、聖霊の事業は、本来キリストが遣わされる聖霊の事業である。み言葉による救いということが、改革派信仰の大きな主張である。わたしたちが救われるのは、聖霊のみ業であり、恵みであることを十分に正しく認識するには、その聖霊、その恵みが、死にてよみがえり、神の右にいますキリストの聖霊であり、恩恵であることを知るまでは成立しない。
ヨハネの福音書16章7節「しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(新改訳)とあるように聖霊を信じる者は、主イエスの復活、昇天、父の右にいますことを信じるのが前提である。
いけるキリストと言う信仰は、こうした意味でのみ正しいのである。聖霊のみ業をそのまま地上のいけるキリストのみ業であると考える時、それは、誤った神秘主義であり、また復活のキリストをあたかも幽霊的存在と考えている誤りでもある。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
テアテラのイゼベル
=ヨハネの黙示録2:18~28)
テアテラにあった教会は、小アジアの七つの初代教会の一つで、原始キリスト教会として有名な教会であったようです。先にわたしたちは使徒行伝6章より、ルデヤについて学びましたように、このテアテラは彼女の故郷で、有名な紫布の産地でありました。ルデヤはその特産品の商人でギリシャのピリピで商売をしていたのです。
さてヨハネの黙示録2章18~19節以下を読んでみますと、当時のテアテラの教会には、いろいろと良い点があったようです。「神の子が、次のように言われる、わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めよりもまさっていることを知っている」と聖書にある通りです。
このようにテアテラの教会は神に大変なお褒めをいただいていますが、わたしたちはどうでしょうか。ここで個人としてまた教会員として、わたしたちは、静かに自己反省をしたいと思うのです。わたしたちが歩んで来た過去の歩みはどうであったでしょうか。善き業に富んでいたでしょうか。愛と信仰と奉仕に満ちていたでしょうか。また忍耐をもってすべてのことをなして来たでしょうか。わたしたちの教会の過去の歩みはどうでしたでしょうか。
神様がテアテラの初代キリスト教会に向かってお用いになったお言葉は、わたしたちの教会にも当てはまるでしょうか。神は、怠けているところ、愛のないところ、不信仰なところ、忍耐と奉仕の足りないところを知っていると仰せになるのではないでしょうか。
しかし、このような神様から、お褒めに与りながらも、テアテラの教会には、尚欠けている点があったと言うことが20節以下で示されています。
「しかし、あなたがたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像に捧げたものを食べさせている」とあります。
アブラハム・カイパー博士の言葉によりますと、当時のテアテラの町の外には、有名な女占者が美しい宮殿を作り、その内に坐って占いをしていたということです。この占者の本当の名前は何と言うのかわかりませんが、彼女の残酷な性質と悪魔のような性格が旧約聖書に登場する、あの悪事で有名なアハブ王妃イゼベル(旧約聖書列王上18章参照)の行いによく似ていたために、彼女をイゼベルと呼んだのかも知れません。とにかく、そのような不倫の女が、テアテラにいたということは、歴史の面からも確かなことでありました。
テアテラの教会の人たちは、何故、こんな女性を、そのなすがままに任せていたのでしょうか。そのわけが、ここにははっきり書かれてはいませんが 、その理由の一つは、教会の信者のある一部の人が彼女の悪い教えに惑わされて、これに妥協していたからに違いありません。彼らは預言者と自称するイゼベルに全く欺かれ、偽預言者の教えを神のみ言葉だと信じていたようです。
わたしたちはこれを読んで、どうして彼らがたやすく偽預言者に欺かれたのでしょうかと、疑問さえも起きるのであります。しかし静かに自分の心の内を反省してみますとき、わたしたちもこれによく似た愚かな態度を時々とっているのではないでしょうか。
たとえば、教会の一致を守っていない教会員、あるいは教会がもっている信条を割引している教会員らの、なすがままにまかせているような場合が少なくないと思います。また教会に対する責任を少しも考えていない教会員や、勝手に礼拝その他の集会に出ない教会員はいないでしょうか。
あなたの教会では、いわゆるクリスマス信者はいませんか。これらに対する教会の処置はどうしていますか。責むべきことがあるにもかかわらず、それを放置しておいて、良く指導することをしない教会は、身体に重い病のある病人と同じで、病毒が全身に回わって滅亡するより外はないでしょう。
もう一つ大切なことがあります。それは、教会員は、すべての間違った迷信を捨てることです。ご承知の通り日本にはいろいろの迷信が満ちています。卑近なところでは、お日柄が良いとか悪いとか、方角が良いとか悪いとか、結婚の場合、干支によって相性をどうのこうのといったり、全く根拠のない迷信があります。これらの迷信は、人々の毎日の生活に入り混じって、何が真で、何が偽りなのか、少しも分からないようにしてしまいます。
しかしクリスチャンはすべての迷信に対して、はっきりした態度をとり、これらは断固捨て切らねばなりません。また、占者等との関係を持ってはならないのです。このテアテラのイゼベルと、現代の占者とは、皆同じ偽者なのです。彼らがもっともらしく行う占術は、特別な神様から与えられた力でも何でもありません。ただ、金をとって人を惑わすだけのことであります。
すべてを神に任せるクリスチャンは、迷信も占いも全くその必要がなく、むしろそれらは、聖書の信仰の敵であります。
わたしたちは真心をもって神を愛し、主イエス・キリストを救い主と信じて、与えられたこの人生を、真直ぐに神様に従って生きたいと存じます。そこに人生の意義もあり、また暗黒の時には光明を見出すことが出来るのです。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
ビルマ
昭和22年
4月7日
―過去の社会に思う―
敗戦は、大和民族が初めて経験する屈辱と悲しみに満ちた出来事であった。焦土と化した焼け跡の中に立って、国民の一人一人が過去に犯した罪について考えなければならない。
封建的な日本の社会は、地主と小作、金持ちと貧乏人、権力者と被権力者、支配者と被支配者等、秩序正しく保たれていたかのごとくであった。その実は、お互いの心の中は、不満と、不平に満ちた社会でもあった。敗戦の苦しみを通して、お互いが反省する時、敗戦の原因も自然に解明出来ると同時に、新しい日本を創造する鍵でもある。
明治維新から西洋の文明、文化を輸入して、西洋に追従し、西洋の真似による文明を築いて来た。そして富も力も世界の強国の仲間入りするまでになった。この著しい発展を遂げた物質文明は、物が全てであると信じるような風潮に陥り、精神面、心の問題が忘れられていた。
華やかな「アメリカのジャズ、ダンスホール」の隣りに神聖なキリスト教会があることに気付かなかった。金儲けをすることが人生の目的であり、幸福を得る唯一の手段であるとさえ考えていた人々も決して少なくなかった。私もその一人でさえあった。
正直でコツコツ働く奴は馬鹿者のやることだ、一攫千金の夢を見て大陸に渡った人、純粋で勤勉な農民の中にも、苦しい農村の生活を捨てて、華やかな都会にあこがれて堕落していった青年も少なくなかった。
明治政府は素早く、村々に学校を建てて学力の向上に努めた。その学問もいつしか生活の手段となり、能力、知識のみを尊しとして心の問題、人間性が無視された社会が生まれた。
そのように物質的なもの、目で見えるもののみを欧米から学びとり、その背後にあるキリスト教は欧米の宗教であると排斥して受け入れなかった。
中国の教えである儒教の教えを国是とし、国粋的な、排他的思想は間違った愛国主義へと駆り立てて戦争への悲劇の道を辿った。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
「キリスト教百話」・・・13
問13 聖霊は祈れば与えられると聞きましたが、どう祈ればよいのでしょうか。(1)
答 誰かに何かを「下さい」と願う場合、その願いの相手が、自分の願っているものを与えてくれる人であると信じているからお願いするのですね。それと、その願う事柄が分かっていてのことですね。聖霊のことが何も分からず、「下さい」と願う相手のことも分からずにお願いするというのは、「下手な鉄砲でも数打てば当たる」とはなりません。「当たる」のは的があってのことですから、的が定まっていないのにむやみやたらに打つのでは何をしているのか分かりません。
ですから、聖霊を求めるには、求める相手が、この求めにちゃんと答えてくださる方であるという信頼がなくてはなりません。それと聖霊というものがどういうものであるかが分かっていなくては「下さい」ということ自体がおかしなことになります。それでは、まるで空中に訳もわからず拳を振り回していることになります。
この点について、イエスは聖霊について、弟子たちに「それはあなたがたを真理に目覚めさせるものであるから、それが与えられるまで待っていなさい」と告げられました。弟子たちはこのイエスが言われたことを信じ、それが実現することを祈りました。その結果、聖霊を与えられました。
それは、十字架につけられて殺されたイエスがキリスト即ち救い主であることを真理として受け止めることが出来たということです。その場合、弟子たちは、イエスが言われた聖霊のことを聞きはしましたが、それが与えられた時の内容体験ではありません。ただ彼らは自分により頼むものを持っていなかったため、イエスの言葉に従って、イエスが約束されたものを待つしかありませんでした。
ここが非常に大切なところですが、自信満々の人は、祈るなんてことはしません。自分の内側は自分のもので詰まっていますから、それ以外のものを必要としません。ことは自分だけで済みます。その自分は動きません。何かを待つということもありません。当然祈るなんてこともしません。ところが、祈って待っている人というのは帆を上げて風が吹いてくるのを待っている人と同じです。
風はいつどのように吹いてくるのか、こちらで思うように操作できるものではありませんが、吹いてくれば、舟は動き出すのは確実です。今まで停泊していたところから、別のところへ動き出すのです。動かなかった自分の位置から、違うところへ動き出すのです。このことが自由を得るということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
1月放送予定
5日 中村 仁(日本基督教団金城教会員)
12日 中村 仁(日本基督教団金城教会員)
19日 ヨシダ ゴウ(日本基督教団金城教会客員)
26日 ヨシダ ゴウ(日本基督教団金城教会客員)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
第62課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章28~29節 (20)
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについていえば、父祖たちのゆえに、神に愛される者である。神の賜物と召しとは変えられることがない」(11:28~29)。
この二つの節は、パウロがユダヤ人の拒否と未来における彼らのキリストへの回心について、ここまで述べてきたことの要約です。「文脈全体から見て、パウロはユダヤ人の個々の人について述べているのではなくて、集団としてのユダヤ人の拒否と回復について述べていることは明らかであるから、パウロが今ここで考察している召命と選びも同様に、集団としてのユダヤ人について言われていることであって、個々のユダヤ人の救いについて言われているのではないことも明らかである」(ホッジ)。
このことを銘記しておかないと、この二つの節の正しい意味を把握することはできないのです。もし、召しと救いと選びとが個人について言われているとすれば、ここにあるように同じ人が福音については敵であり、神の賜物と召しは変えられることがないので、同時に愛されているものであるということは言えなくなってしまうのです。しかし、パウロが集団としてのユダヤ人の拒否と未来における回心ということを述べているということを念頭に置けば、すべてが明瞭になるのです。
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされている」。ユダヤ人たちは不信仰のために退けられたのです。彼らは良いオリブの木からは切り取られた枝でした。このように彼らは切り取られることによって、救いは異邦人のところへもたらされました。異邦人を救うために、神はユダヤ人たちを敵と見做し、そのように扱われました。もちろん、このことは罪の中に死んだ人々が永遠に滅びたことを意味します。彼らは唯一の救いの方法を拒否した。すなわち、メシヤであるイエスを拒んだのです。
使徒行伝とパウロの書簡から私たちはユダヤ人がキリストの福音の手厳しい敵であったことを知ることが出来ます。しかしながら、「彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされている」という表現は、多分、彼らの父祖のゆえに愛されるのが神の御旨であるからには、彼らは神の敵であるという意味であろう。神の敵であるから、彼らは福音の敵であり、福音の忠実な宣教者たちの敵でもあったのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
入院して50日経ちました。しんどいです。体力も消耗してます。気持ち的にもしんどくて辛いです。ベランダの花や鉢植えの水やりが気になっています。
私の慰めと楽しみでしたから・・・・。もっと専門の病院に転院も考えなければと言われています。お祈りください。
大阪府 K・Aさん
毎朝5時から落ち葉掃きです。車の通りが少ないうちに病院の先生と二人でします。先生も腰より上に両方シップを貼って頑張っておらおれます。一昨年までは80をこえたお母さんがいつもされてました。今更ながらに凄い体力の持ち主と戦前戦後生まれの差でしょうか?大きな屋敷も大変です。でも この老木 のケアキの葉が散った時は絵のように美しいですが、後が大変です。今は行きかけた体操教室は、お休み続きです。まだ木には葉っぱが残ってます もう少し頑張って掃きます。
奈良県 M・Yさん
特定秘密保護法の危険性が日夜ニュースに登場しますが、反対や危険視する人の発言は多いのですが、賛成の人の意見はなぜテレビや新聞に登場しないのでしょうか。個人のプライバシーの尊重は、全ての権利の根底をなすものですが、守る義務も共にあるものではないでしょうか。スクープとは、スコップで掘り出すことと記憶していますが、何でも暴露は、特定秘密保護法はその裏返しのように思えてなりません。
国民一人一人が、真のスクープする責務を持ちたいと思います。戦中の戦争賛美の新聞の多くは、今の大新聞であります。また、特定地域の利益・権益の意見を取り上げる地方紙もまたその見識を疑います。国民は今こそ見抜く見識が問われていると思う次第です。
宮崎県 Y・Kさん
☆ 昨日犬の肛門洗浄と爪切りに行ったら、後ろの左足の爪とお肉の間を間違えて切ってしまった為、少し出血しました。一応トリーマーさんは止血の薬を塗っておいて下さいました。もしまた出血するようであるなら来店下さいと言って、止血の薬は家で塗る薬を頂いて来ました。今の所は異常はありませんが、思いがけないことも起きるのですね。
☆ 毎月送られてくるジャーナルの「今月のことば」に励ましを受け、慰めてくれるとても大切なものです。そうして順番に読んでいきます。娘もジャーナルを非常に楽しみにして更新日を待っているようです。ありがとうございます。それにしても、世の中騒がしすぎますね。国会も、中国の言動にも不安を感じます。
☆ 何事にも意欲的であった主人が、半月ほど入院、退院後もう2ヶ月にもなるのに、最近は、今日はしんどいとかで布団の中です。好きな散歩にも行きたいと言いません。医師からは、今まで通りの生活でも大丈夫と言われているのですが、意欲が出ません。こればかりは、本人次第ですから難しいですね。入院がとてもショックだったようです。私も好きな美術館めぐりが出来なくなりました。
☆ 朝晩の冷え込みで、それでなくてもスローモーな私ですから主婦失格。加齢かなあ~なんて思いながらの日々。今日はヤル気なし、なしで寝ていました。何もかも投げ出してしまうのはなんでだろう。こういう時もあるんだろう。ヤル気があるときは、スムーズに過ごせるのに・・・・。できないとすごく自己嫌悪になる。それもイヤなのです。60歳になりました。
☆ 大きく育ち手元から離れた子供たちの幼い頃の写真がテーブルの横の棚に何枚かあります。その一枚に、クリスマスプレゼントを手にして喜んでいる笑顔があります。靴下を枕の横に置いて、薄目を開けて見ているうちに眠ってしまった子供たちから、お正月には帰るよ、とのメール。うれしいクリスマスプレゼントのメッセージに、大きく育てて下さった神様に感謝しながら、夜の家庭礼拝(夫婦礼拝)を守りました。
古里(札幌)の姉から、家の窓から見える手稲の山々は、白い衣をまといました。17歳になる猫が日々弱っていく姿に自分と重ね合わせています。それでも好きな読書は続けていますとありました。名古屋は雪がなくて羨ましいと三重に育った姉のことが、冬の寒さと雪のと戦いの思いが込められていて、その苦労の重さを感じました。
娘が、滋賀の紅葉を写してきました。あまりの美しさに感激です。
手作のパンと南天のものも送りします、とありました。多くの方々が写真をお送りくださり、感謝して使わせていただいております。
『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社』の活動のための寄付者
山本 充様 森谷 千文様 馬場 暁美様 西口 義昭様 宮川真澄様
喜田川聡様 菊池すみ子様 金田 好美様 宇和島さとみ様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
2013年11月16日から12月15日‘まで
『水琴窟』
不思議に思ったことの中に、「和食」の紹介の中に沢山の季節の言葉のあったことです。横文字商品、カタカナ文字が当り前になっていた日々に、何ともいえない感動を覚えました。「春」の言葉を調べて見ました。
初春 二月 睦月 旧正月 寒明け 立春 早春 春浅し 余寒 うりずん(琉球方言)などがありました。春を告げる草花にも馬酔木(あしび)堅香子(かたかご) 茎立(くくたち) 三枝(先草)などなどで、お時間があれば春のことば、花探しもまた季節を楽しむことではないでしょうか。
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「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
=使徒行伝16:31=
この言葉には、実に単純ですが限りない希望があります。この言葉が語りかけられたのは、自殺しようとした男に向かってのものでした。人はその極限まで追い詰められると、物事に対して単純になるといわれます。生きることを諦めた人の結論も単純であれば、生きることを求める人への対応もまた単純であることが、このみ言葉が示していると思えます。溺れかかっている人に、一本の棒を差し出して、これを掴め、確り握ぎれ、助かるんだ! 激しい飢えにある人に、手を伸ばして取って食べなさい!と言う言葉は単純です。
イエス・キリストの招きも究極的には単純です。どのように信じ、どのようにキリスト教を理解しなければならないのかも、重要なことです。しかし、その知識・理解もこの「イエス様の単純な、しかし、愛のこころ」への単純に導く過程なのです。人生の複雑さ、社会の醜さ、自分自身の汚れを前にした時、人は悩み、混乱し、その複雑さの中に飲み込まれてしまうのです。この複雑さを解きほぐすために、人は考え、より複雑さの中に落ち込んでしまうのです。
このみ言葉を聞いた男はただ一人ではありません。父親としての彼の自殺は、その家族を不幸に落とし入れることでもありました。同時に、この父親への招きは、彼個人ではなかったのです。一家の父親が救いに与ることは、その家族全体への救いでもあったのです。
神の愛は、あなたとあなたの家族全体を、祝福しようとしておられるのです。あなたがそれをするのではなく、神がその業をして下さるというのです。その祝福の源である主イエス・キリストのご降誕を讃美し、お祝いするのがクリスマスなのです。神からの贈り物・プレゼントは、この「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」なのです。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げなさい。
=ピリピ4:6=
私たちが神様との和解をいただき、イエス・キリストにあって、罪の許しの宣告を受け、それを信じていることは、本当に感謝そのものです。しかし、私たちは、父なる神としてよりも、救い主としての神を信じる方が安易で信じやすいという人がおりました。また、私たちは救われていることを勇敢に証することもありますが、日々の生活に起こる多くのことのために心重く、いらいらとしてしまう実に弱く愚かな者でもあります。
父親は、自分と家族のための食べ物、着る物の心配をします。母親はキリストにある自由を喜び感謝しつつも、子供の将来を思う時、不安になります。青年は神との平和を見出して幸福を感じつつも、未来への不安に陥るのです。
神は問います。あなたは罪の許しを信じ神に委ねていますか。あなたは生と死とを通って永遠の命へと連れていって下さることを信じていても、食べ物、着る物を神様が備えて下さっていることを信じきっていますか。
そんな時の励ましと希望がこのみ言葉に込められています。
神が私たちに望まれるのは、これをなすことです。主は私たちが祈りによって、すべての小さいことまでお委ねすることです。この神への信頼を新しい年への心備えとしたいものです。
クリスマスになると思い出すことがあります。歳若いときでしたが、ある信仰の先輩が「わたしはイエス様が馬小屋で産まれようが、飼い葉おけに寝かされていても、事実としてああそうでしたか、としか思えないのですが、わたしにとって最大の喜びは、イエスがキリストとして来られたと言う事実そのものに、何とも言いがたい喜びを感じて生きてきました」と言う言葉でした。
上河原立雄
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」