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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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   今月のことば  

 

わたしたちは神の同労者である。

  ­­=Ⅰコリント3:9=

 

 同労者! 最高の雇用主の同労者! この上もなく尊い事業の同労者!

私たちは、単に、私たちの主にして救い主である方によって、自分の罪と恥と汚辱をあらわにされ、取り除かれるように召されている、というだけではありません。神は、和解を与えられ清められた人間を、神と共に働くようにと召されるのです。そして、私たちを有能に働くことによって、その働きをもって、神様に栄光を帰し、ほめたたえることを、お許しくださるというのです。この神様の召しの事実は、言葉に尽くせないほどの幸いです。

 

 そのことで迫害を受け、侮辱されると共に、自分の汚れに打ちのめされても、神様は、神ご自身の召し(雇い主)のゆえに、助け、支えつつ用い続けて下さるというのです。

私たちはそれぞれ、十タラントなり五タラントなり一タラントなりを与えられています。

そして、それを地の中に埋めておく権利を持っていません。ですから、神の同労者であるか否を選ぶことは、誰にも出来ないことでもあります。

 

 しかし、私たちは、誠実な同労者であることもあれば、また怠惰な僕であることもあります。道具として神に使用される者もいれば、神のみ業の中での有害な者・無能な者もいるのも事実です。しかし私たちは二種類の人間ではありません。第一に、私たちは、事業の支配人ではありません。かつて私たちは自分が支配人だと考えて自分で選んだ重荷のために苦しんでいた時に、次の言葉を聞かなかったのです。お前は支配人ではない。お前は同労者なのだ。静かに自分の本分を務めなさい。自分に与えられたささやかな働きの場にいて、謙虚に仕事に対する心づかいを、すべて支配人に任せなさい、との声を・・・。

 

 しかし私たちは今一つのもの、すなわち雇人ではないのです。放蕩息子が帰宅して、「雇人の一人と同様にしてください」と言った時に、父はその放蕩息子を、子または相続人として扱っている」(ルカ15章)のです。

 

 主よ、今日、子また同労者でありたいと心から思います。 アーメン

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   小閑記

       

 

 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわされると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

        =Ⅱコリント5:1=

 

 聖書の言葉には、私たちの身体を何時かは取り壊される家、幕屋にたとえています。それによって神様は、内なる真の人は、全く独立したものであり、住むべき地上に家はなくなっても存在することが出来るのだと教えられています。

 確かに、こんなに美しい建物が土の中に埋められなければならないとは悲しいと思う人もいるでしょう。しかし落胆する理由はありません。なぜなら神は、私たちのために新しい家を建てる備えをして下さったので、誰も変化をくやまなくてもよいのです。

 

 パウロはこのことについては、何の疑いも持っておりません。そしてこの深い確信は、彼が常に勇気を持っていた原因であり、彼が身体を脱け出して、天より賜る住処を着て(Ⅱコリント5:2)、主と共に住むことを望んでいたのです。

 

 最も美しい、最も深いキリスト者の希望は、天国に行き、神と共に住み、救い主にお目にかかることであります。神は信じる者に天国を約束して下さったのですから、キリスト者は一人一人、毎日をこの確信を十分に持って、その慰めの中に生きるべきであります。

 

 それは希望に確かな錨をつなぎ、信仰に悩みつつも、耐える勇気を与えます。これを信じる者にとって、生きるは良く、死ぬるはなお良いであります。

 

<賛美歌 337番>

 

1 わが生けるは 主にこそあれ  2 富も知恵も みな主のため

  死ぬるもわが益 また幸なり    力もくらいも また主のため

 

3 迫めも飢えも みな主のため  4 主のためには 十字架をとり

  うれいも悩みも また主のため   よろこび勇みて 我はすすまん。 アーメン

 

 

                          上河原立雄

 

  

(ひとみ)

 

  天候等、心配していた運動会も無事 終了しました。今年は6年生で組み立て体操や騎馬戦で子供や若い世代の親に人気のテーマソングが使われていて、それも楽しく過ごせました。カメラが得意な祖父が 写真を撮ってくれて感謝な一日でした。

 附属中学などに受験するクラスメイトも多い様で4つの小学校卒業生の集まる中学校に入学すると友だち関係等も変化しそうだね、と話しています。

 今月末には修学旅行で原爆投下された広島へ行く予定です。夏休みには「平和ノート」を仕上げました。子供にニュースが分かり易いように小学生新聞を取っています。

親にも子供に説明しやすいような内容になっているのでスクラップして、主に自分の勉強にもなっています。

 遠山さんの手記も 後世に戦時中の時代を伝えていく貴重な読み物になっていますね。戦争の悲惨さから目をそむけないで、敗戦国の日本が今までどうやって世界の国々と助け合いながら成長してきたか、し続けていかなければならないかをしっかり話し合って修学旅行に送り出したいと思います。

 たまたまテレビを見ていたら、東京オリンピックで最終ランナーとして聖火を灯した青年は原爆投下された日に生まれた青年だったということです。

 汚染水問題も抱える日本ですが、意義あるオリンピックになります様にと願います。

  人生の年輪を積み重ねた方々の言葉を拝読できるジャーナルは とても勉強になっています。

                    奈良県 N・Rさん

 

 「ジャーナル」に大切に飼われている犬の記事がありますので、私もメールしました。

私のところは、ねこちゃんです。私の耳には「パミ~」と聞こえるので、そのままパミ~と呼んでいます。寒がりやさんで、私の大きな枕を仲良く使っています。おりこうさんです。

「世田谷通信」を書いている人のペンネームが「猫草」なので、ねこ好きさんなんだと親しみを感じています。時々メールしま~す。

                    埼玉県 S・Kさん


勤め先の改築のため、他の場所に移ったのは、ちょうど2年前の10月の初め、キンモクセイの匂う頃でした。今年は工事が終わり、再び元の場所に戻ることができました。一列に並んだ20本近いキンモクセイの大木は今年も甘い香りを漂わせています。二年ぶりに胸いっばいキンモクセイの香りを吸い込むと、季節が巡り、この場所に戻って来れたという幸せ感に包まれます。
主日礼拝で歌った讃美歌21223番の歌詞(アッシジのフランチェスコ作)を思い出しました。「祝福うみだす 実りの大地は、主をほめ、ハレルヤ、花咲き、実をつけみ栄えを示す。主をほめたたえよ。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」。

 主に感謝し、主を讚美できることはなんと幸いなことでしょう。
                    長野県  みどりさん

   自閉症者のひとりごと

 

(77)

 

9月13日

今年の夏の暑さに心身ともにやられてしまいました。今ですが、しんどいからと言って、ズルズルと礼拝を休んでいますね。ここのところ、自分が抱えているしんどさの中身が分かりはじめてきて、その疲れが堰を切ったように出てきて、朝から晩まで眠っています。

 

9月21日

 秋晴れの中を歩いていたら、日焼けして顔が真っ赤になってしまいました。外に出ると、目がくらんでしまいます。やっとのこと、生きているって感じます。 最近、人の会話を聞きながら、あるいは自分が話していることから、必要な言葉を話すことの難しいかが頭にあります。というのは、わたしは、人の何気ない言葉が自分を非難しているようで、怯えてしまって、極度に緊張して頭も体の身動きがとれなくなってしまうからです。

10月2日

今年の暑さで、生活も、信仰の歩みも乱れてしまいました。こんなにも暑さが身体に負担になったのは初めて。最近ようやくどうにか生活を軌道にのせようとしています。しかし、日中はまだ外に出られません。夏の疲れはなかなか取れませんね。つくづく思いますよ、健康が第一だと。でもそれが与えられていないときは、まだ時ではないのだと思うのですが、いい加減イライラしてしまいます。

                            加納さおり

 

  十字架の愛

 

主イエスが歩まれた道は

昔も今も誰も歩いたことがない

主イエスが歩まれた道は

私をまことの道へ導くため

歩まれた十字架の道 

 

  主イエスが語られた言葉は

  昔も今も誰も語ったことがない

  主イエスが語られた言葉は

  私を罪の中から救うため

  語られた十字架の言葉

 

主イエスが示された愛は

昔も今も誰も示したことがない

主イエスが示された愛は

私の心に愛をみたすため

示された十字架の愛     水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」

 

世田谷通信

120

猫 草

 

お店に入って自分が客の立場になったときに、店内のサービスが良いと気持ちがいいものだ。飲食店ならフロアから厨房にスムーズに意思が伝わっているか。良い関係があればそれはとても快いサービスとなる。そこに何かひずみがあると、不協和音として空間を不快なものにしてしまう。それは会社や学校や行政や、とにかく人が係る以上は同じだと思う。目の前の「お客様」と「自分の仕事」にどれだけ集中できるか。ひとつのパーツを担当する人たちがそれぞれ矜持を持ってことに当たれるか。

少し前だが、アルバイト中に投稿した写真が社会問題になっていた。いずれも不衛生、不謹慎、調子に乗った悪ふざけの域を出ないものだが、店の側への影響は大きかった。さらに不思議なのは続々と模倣する人がいたことだ。勤務中って仕事モードスイッチ入りませんかね。

友人のカフェの手伝いを、時々頼まれることがある。ランチタイムメニューはカレー等の簡単なものだし、お客さんも常連が多く、席数も少ないので、それほど忙しい訳ではない。それでも自分がフロアに居る間はずっと緊張する。店内だけでなく、自分の爪や髪も清潔に、ミスのないように。「ようこそ、いらっしゃいませ」と迎え「ありがとうございました」と送り出すのに全エネルギーが注がれる。できるだけ快適にお客様にはすごして欲しいと思う。キッチンに立つ友人もそう。お客様が居るときの彼女の料理の手際はまったく無駄なく、スピーディで的確。繊細で丁寧。美しい舞のようで惚れ惚れする。一期一会、という言葉が浮かぶ。私はその彼女の「皿」を大事に、素早くお客様のテーブルに届ける。「ごゆっくりお過ごしください」の気持ちをこめて。

きっとそういう経験はいろんな場面で役に立つと思う。何か仕事をするとき、人と接するとき、自分と周囲の間合いをとれるか。その場に適切な言葉や態度。ほんの少し、視点を上にもって空間全体を見渡すことができるか。アルバイトで学ぶことは多いと思う。投稿ネタ探しではない、社会と人間という複雑奇妙で不可思議なものを探すのにそれは役に立つ。

 

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

  その愛のゆえに

   =時々の記=

    (91)

 

9月12日

母の献体は、長兄が医学部に入るときに、とても金銭面で苦労したといっていました。母が働いて兄の学費を工面したこと。父親は養蚕業を営んでいたが、破たんして塩尻から上田まで、家族7人で出てきたのです。母親は父に代わって仕事に出て働き続け、弟が小児まひでなくなるその日にも勤めに出かけて行き、子供の死に目に会えなかったと私たちに漏らしていました。そのような幼青年期を質素倹約で貫き通した母は、我慢することを知ったといいます。そして、母の姉が神経の病になってからはキリスト教に救いを求め続けたといっていました。父親もお前の信じているキリスト教が病を治してくれるなら耶蘇教に反対はしないといって、教会へ行くのを許してくれて、とてもうれしかったと言っていました。その姉は母のあとを追ってキリスト教へ入信いたしました。でも兄は信者になりませんでした。

母が学費を兄に仕送りするたびに、兄からお礼のはがきが届き、その中に、献体をしてくれる人のおかげで、勉強がはかどるといっていたとのこと。その兄の遺志を継ごうとしているようです。

そして自分が死ぬときに、もし医学のお役にたてるなら、献体をしたいと言い続けてきました。ですから母の意思を尊重して私たちは献体をしようと考えています。貧しさに耐え続けた母ですが、天に召されようとしている今、とても明るいのです。イエス様が共にいて下さるんだから、何もこわくないのよ、とお世話してくれるヘルパーさんに話しかけていました。

母は、10年ほど教会の礼拝には出られませんが、いつも心の中で祈り、賛美し続けていたことがよく理解できます。そのような母の姿をジャーナルに載せてやってください。一人の信仰者の証になると思います。

 

9月13日

母と讃美歌515番を賛美していると、私たちの後ろで一緒に賛美されている声が聞こえるではありませんか。ふと見上げると、施設のケアマネージャーさんです。この讃美歌ご存じなのですか?とお尋ねすると、私は東京のミッションスクールの短大を出ています。讃美歌は折にふれ、思い出しては口ずさむのです、と答えられました。誰も知らない施設の中に小さな賛美の輪ができたことは神様のお恵みと感謝いたしました。

このことを兄に知らせると兄もとても喜んでいました。

 

9月14日

こちらは台風の影響で、雨風が激しいので、今日は名阪を通るのを休みました。教会の三人の長老さんたちの門安を受けたとのことでした。

教会では70歳以上の方たちに敬老の日のお祝いを下さるということです。主人もあと一年で70歳ですからその群れになります。

 葛の花、零るる雨のあとの道。

 秋雨にノアの方舟ふと思ふ。

 朝顔のあまた咲きたる、日数かな。

 風の萩小形の蝶を通ひをり。

 一病で得し息災や百日紅。       馬場路哉

 

9月19日

施設から兄が呼び出されて私も一緒に行きました。母はどこも内蔵が悪くないのだけれど、高齢で、まさに老衰そのものです。いつお亡くなりになられてもこちらで最後までみとらせていただきますとのこと。ほっといたしました。具合が悪くなったり何も食べられなくなったりすると違う病院へ転院させられることがあるそうですから。

私たちは、神様がともにいてくださって召されるその日まで、平安でありますようにと祈っています。

昨日姉とも電話で話しましたが、信仰を与えられたことに感謝するねと。兄も口にはしませんが心の中で信仰を持って生きることができたことに感謝していることと思います。

今朝散歩で昨日までは気が付かなかったのですが、彼岸花が土手に真っ赤に咲いていました。

自然は季節の移り変わりを私たちに教えてくれています。コスモスも咲いて、もうすっかり秋の気配の山添です。

 

9月20日

上野緑ヶ丘教会から、H牧師のお母様と母に(同じ施設に入所)敬老の日のお祝いとして、お花が届けられました。母はやはりとても喜んで、牧師先生が来てくださったと伝えますと、まあうれしい・・・と喜び、実はまったく食欲がなく、主治医が案じていたのですが、今日は少し食べられるようになっていました。

教会って聞いただけで頬がポッと赤くなり喜びを表現いたします。教会からのお見舞いがよほどうれしかったのでしょうね。私はそのお礼を言うために、礼拝に駆けつけ、みなさんに感謝の気持ちを述べました。

母は、この10年余り礼拝に出ることはできませんでしたが、神様にいつも祈りを捧げ賛美をしていました。そして牧師夫人として子供の私が言うにはおこがましいのですが神様と教会に仕えた人生でした。教会での葬儀は本人と私たち子供たちの意思でいたしませんが、神様がいつも私たちをおそばにいてくださるから、形式にこだわらなくてよいといっていますと、これだけのことを言うだけですのに、なぜか、母の労苦が私の頭をよぎって言葉になりませんでした。

 

9月27日

施設の入り口にコスモスが花瓶いっぱいに飾られていました。そのコスモスに目をやるだけでも、優しい気持ちになることができました。お花にこのような力があるのだとはっとさせられたひと時でした。

 草の葉の露から露へ蝶移る。

 萩ススキ眺めし後の月見かな。

 椿の実照りて天気の定まりぬ。

 伊賀よりの道八方に草紅葉。

 アべリヤの花取り囲む施設かな。       馬場路哉。

 

10月9日

台風の影響は大丈夫でしたでしょうか。こちらは非常に激しい雨が午前中降り続けました。

母のところへ行くのをやめようかと躊躇いたしましたが待っているだろうと安全運転で行ってきました。やはり、いつも他人の中でいるので、身内が行くととてもリラックスできるのか嬉しそうです。今朝は、大雨が降りだし、あわてて洗濯物を取り入れようとして転んで顔面を打撲してしまいました。年のせいでしょうか、この頃足がまったく思うように上がらずに転ぶことが多いです。施設へそのままの顔で行きますと、親切な看護師さんが痛々しいからといって、消毒をして、リバテープを張って処置をしてくださいました。このような親切を受けて感激いたしました。

帰りの高速の名阪で前の車が急に横転し左側にひっくりかえってしまいました。運転されていた方は少しのけがでしたが、やはり雨はスリップするのでよほど気を付けないといけないと思わされた一日でした。

 

  馬場暁美

(上野緑ヶ丘教会員)

 解説 ウエストミンスター信仰告白 (17)

               

                    岡田  稔著

                  (元神戸改革派伸学校長)

   

 

第八章       仲保者キリストについて(2)

 

4 主イエスは、最も快くこの職務を請け負われ(1)、それを果たすために律法のもとにおかれ(2)、律法を完全に成就された(3)。その霊魂において、最もひどい苦しみを直接的に忍び(4)、その肉体において、最も苦しい痛みを耐え(5)、十字架にかけられて死に(6)、葬られて死の力のもとに留まられたが、朽ち果てなかった(7)。受難されたのと同一のからだで(8)、三日目に死人の中からよみがえり(9)、そのからだをもって天に昇られ、み父の右に座して(10)、執り成しておられる(11)。そして世の終りに、人間とみ使をさばくために再来される(12)

  1 40:8,9(7,8)、ヘブル10:5-10(*)、ヨハネ10:18、ピリピ2:8
     *40:8,9(7,8)をヘブル10:5-10と比較
  2 ガラテヤ4:4
  3 マタイ3:15、マタイ5:17
  4 マタイ26:37,38、ルカ22:44、マタイ27:46
  5 マタイ26,27
  6 ピリピ2:8
  7 行伝2:23,24,27、行伝13:37、ロマ6:9
  8 ヨハネ20:25,27
  9 コリント15:3,4
  10 マルコ16:19
  11 ロマ8:34、ヘブル9:24、ヘブル7:25
  12 ロマ14:9,10、行伝1:11、行伝10:42、マタイ13:40-42、ユダ6ペテロ2:4


四 これは謙卑と高挙(栄誉)の二状態についての、仲保者としてのあり方を対照的に語っているところである。「律法のもとに置かれ、律法を完全に成就された」は、積極的服従であり、「最も苦しい痛みに耐え、・・・十字架にかけられて死に、葬られて死の力のもとに留まられたが」までは、消極的服従ともいわれるものである。

 積極的服従は、無罪者としてのイエスが業の契約の完全履行者として、その約束の永遠のいのちを受けられることを示し、消極的服従は、アダムとその子孫によって犯された人類の罪の罰として、この世と次の世における肉体と霊魂の双方に対する受苦、すなわち、律法の呪いとなられたことを示し、肉体も霊魂もともに受肉によって、マリヤより得た人間性であって、神性が受難にあわれたのではないのである。神の痛み、などと言う表現は、文学的には許される余地があるかも知れないが、神学的には不適切な表現であると思う。

 

 

5 主イエスは永遠のみたまによって、ひとたび神にささげられたその完全な服従と自己犠牲により、み父の義を全く満たされた(1)。そして和解のみならず、天国の永遠の嗣業を、み父が彼に与えられたすべての者のために買いとられた(2)

  1 ロマ5:19、ヘブル9:14,16、ヘブル10:14、エペソ5:2、ロマ3:25,26
  2 ダニエル9:24,26、コロサイ1:19,20、エペソ1:11,14、ヨハネ17:2、ヘブル9:12,15

五 前項にある通り、わたしたちはキリストがわたしたちのためになされたみ業を、単に贖罪(和解)、罪の赦しという面に限定せず、もっと積極的な面、すなわち、永遠のいのちの獲得と言う点をも含むものであることを主張している。

 罪の赦しが義認によって成立すると考えるなら、永遠のいのちの獲得を子とされること、また、世嗣(相続者)と呼ぶことができるが、改革派神学では、むしろ義認そのもののうちにこの両面を含め、さらに義認とは別に、子とされることの恩恵を教えるのが普通の論じ方のようである。

      ********************** 

この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。

単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500

465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛

 

『旧・新約婦人物語』(50)

 

 誘惑に負けた

  ドルシラ

 

 =使徒行伝24・24~25=

 

 エドムの国王ヘロデ・アグリッパには、二人の娘がありました。姉の方は、ベルニケといってあまり美しい方ではありませんでしたが、妹のドルシラは絶世の美人でした。このドルシラは、15、6歳の頃、エメサの王と結婚させられました。その結婚の時に、一つの条件がつけられていました。それは、王がドルシラと同じようにユダヤ教の信者になるということでした。けれども、これを承知の上で結婚したエメサ王は、この約束を無視して妻の宗教を受け入れませんでした。

 現在の日本でも、こういう実例は沢山あると思います。信者の女性が未信者と結婚する時、大抵は、結婚後も教会生活をすることを承知してくれるよう約束いたします。がさて、新しい家庭を作られると、だんだん、教会に来なくなってしまうのは、よくある例です。神様のみ前でこういう守れない約束をすることは、本当に懺悔すべきだと存じます。

 さて、ユダヤ教の信者でない王と結婚した美しいドルシラは、その後、どうなったでしょう。ある日、ユダヤの総督ペリクスが宮殿の宴会に招かれ、美しい王女ドルシラに会い、その美しさに魅了されました。その時からローマ人であるこの総督は、何とかしてドルシラを自分の妻にしようと、道ならぬ決心を致しました。

 一方、ドルシラは、「姦淫してはならない」という自分たちの宗教の大切な十戒の戒めを知っていながら、ペリクスの不道徳な誘惑に負けて、自分の夫であるエメサの王を捨てて、ペリクスのところに行き、彼の内妻となったのです。使徒行伝24章24節にある、「ユダヤ人である妻ドルシラ」というのは、この女性のことであります。

 彼女は自分の本当の夫を捨てて、姦夫のもとに走り、自分の宗教をないがしろにして罪の栄華に生涯を送ったのです。神を恐れず、不道徳な生活をほしいままにした女性こそドルシラであります。

 ドルシラは、総督から使徒パウロの裁判の模様を聞かされましたとき、彼女はパウロに対し、またその説くキリスト教に対し幾分かの好奇心を持ったようです。彼女は総督である主人に頼んでパウロを牢獄から呼び出してもらい、ペリクスと共に、パウロからキリスト・イエスに対する信仰のことを聞きました(24・24)。そこで総督とドルシラの不倫な関係をよく知っているパウロは、大胆に、正義、節制、未来の審判について語ったのです。

 放埓な生活をしているドルシラとペリクスは、パウロの話を聞いているうちに、自分の罪がどんなに深く大きいかが分かってきました。その上、やがて人類の上に来る審判の日の話になりますと、二人は、心の底から恐れおののいたことでありましょう。彼らは余りにも不安に感じたので、「きょうはこれで帰るがよい。よい機会を得たら、呼び出すことにする」(25)と言って、パウロを帰しました。この時のペリクスとドルシラの態度は、人間の弱さをよく現わしており、私たちの中にもよく見られる実例ではありませんか。

 自分の罪に耳をふさいで、神のみ言葉を聞かず、悔い改めようともしないで、またいつかよい機会を得たら、このことを考えましょう、と言うような口実で、その日逃れの生活態度を続けておられるのは普通一般の人々のやり方です。

 こうしてペリクスとドルシラは、パウロの話を聞いたとき、なるほどと感動させられましたが、その後直ぐに忘れてしまった様です。彼らと同じように、この世の多くの人々もキリスト教の様々なお話を聞いて、一時はなるほどと感動はしますが、直ぐ頭から抜け出してしまうようです。聖書をもっと熱心に学びたいと思っても、その機会が来ないといったり、教会に行って信仰を養われたいと思っても、その機会や暇がないというのです。

 何故、その機会が来ないのでしょうか。彼らは、折角与えられている今の機会を逃しているからです。教会の門はいつも、あなたのために開かれています。

 パウロの話に感動させられたドルシラは、その時直ちに悔い改めて神に立ち返りましたなら、彼女の生涯は全く変わったものになったと思います。しかし、事実はそうではなく、悲しいことには、神様が差し向けて下さった、このまたとない好機を無駄に逃してしまいました。神が、パウロを通して彼女に与えようとされました救いの福音にも、いのちの言葉にも耳を傾けず、今までの罪の生活を、更に続けたのであります。

 歴史によりますと、彼らは20年後に、実に恐ろしい罰を受けています。ドルシラとその一人息子のアグリッパの二人は、イタリヤのポンペイへ行く途中、歴史上に記録されているあの有名なヴェスヴィオ山の大爆発に遭遇して、ポンペイ全市民と同じく、火の河となって流れてくる溶岩の下に埋もれて、あえない最期を遂げてしまいました。

 キリストの再臨と審判の日は、聖書が教える真理であります。どうか皆様方一人一人が、この世の最後の日のためによき心の準備をし、今からキリストの再び来たり給う日を喜んでお迎えすることの出来ますよう、主のみ心にかない、キリスト者にふさわしい、神の喜び給う日々を送られるようお勧めいたします。

<ポンペイ>

ヴェスヴィオ火山の大爆発による、ポンペイ市の埋没は紀元79年のことです。

 

 ポーリン・マカルピン著

(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (32)  遠山良作 著

 

昭和22年

4月4日

―反省―(1)

 

 東大尉は「もっと反省しろ」と言われる。林大尉は「かつての軍隊も、社会も、道徳的に全く腐敗していた。敗戦の原因はここにある。これからの日本人は、道徳が生活中心でなければならない」と言われる。聖書は、「義人なし、一人だになし」。「罪ある人間は、悔い改めよ」との言葉がくり返して書いている。今までなに一つ間違ったことをしていないと思っていたが、心のどこかで私に問いかける。お前は本当に今日まで大東亜民族のために生命を捧げて働いて来たのか・・・。 貧困にあえぐ、貧しい多くの現地の人々の姿を見て来たのに、優しい言葉や、救いの手を差し伸べたことがあったのか・・・。

 酒に溺れ、女遊びに夢中になった。あの自堕落なお前が本当の姿ではないか。支那人やビルマ人に対して、己が出世のために人を人とも思わない行為も平気で行ったではないか・・・。と過去の罪の数々が思い出される。次から次へと、醜い自分の姿が心の鏡に映るようである。

 9年前に応召を受けて、熱狂的な国民の歓呼の声で送られて出征した。祖国のため、陛下のために命をささげることが与えられた使命であると考えたこともあったのに。

 憲兵を志願して北支那の張店分隊に勤務していた当時のことが思い出される。

 「或る部落に共産党の地下組織(非合法であったため)があるとの情報があった。分隊は地区に駐屯している部隊の応援を得て、共産党員と思われる村民30余名を逮捕したことがあった。その取調べを、当時兵長であった私は、宇野伍長と担当した」。

 憲兵を拝命して、初めて体験する事件である。連日厳しい取調べを行ったが、どうしても、容疑の事実が浮かんで来ない。首謀者はすでに逃亡したらしい。取調べの責任者である宇野伍長に「逮捕者の中には容疑者はいないようだから釈放する以外に道はない」と言った。宇野伍長は「俺もそう思うけれども長山曹長(仮名・分隊の責任者)は、(1)部隊の応援を得て多数逮捕したことと (2)大庭分隊長(仮名)がこの容疑者を逮捕する際、負傷(本当は病気)したので入院している等の理由があるから、2名でも3名でも軍法会議に事件送致しなければならない」と言う。

 戦地ではありがちなことであるが、何一つ物的証拠はないので、どうしても本人の自白によってのみこの事件は出来る。逮捕した容疑者が自白しないので情報にある容疑事項の内容を調書に書いて三人を軍法会議に送致した(三人は死刑になる)。10名の者は上司に申請して、現地処分(死刑)にし、残りは釈放したことがあった。

 この事件のことを思い出すとき、今自分が戦犯者としてこの裁判が不当な裁判だと声を大にして叫ぶ資格は私にはない、と気がつく。長い戦争の間に、ただ勝つことのみを考え、戦場で犯した数々の間違った行為があった。何と言うバカな自分であったのか、その恐ろしさに目の前が真暗になり、頭がぎりぎり痛む。

 間もなく2回目の裁判を受けなければならない。起訴される理由は「一人のビルマ人を取り調べに際して拷問して死亡せしめた」との、事件である。この事件で死刑になるかも知れない。その時人は、私のことを犠牲者だと言うかも知れないが、既に死刑になった先輩や友の死とは違う。悪の限りを尽くしてきた俺の死は当然の死に値する。

 天皇陛下万歳を叫んで死んでいった友の名を汚すことになるのではなかろうか・・・。

 不安と焦燥で眠られない一夜は明けた。曙を告げる鳥の声も聞こえて来る。拭っても、拭っても流れる涙は頬に伝わる。

 

仰みきで、聖書(ふみ)読む独房(ひとや)の 天囲に やもりが二匹 蚊を喰みておる

   *********************** 

この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

あなたに聖書を

 

「キリスト教百話」・・・11

 

問11 イエス・キリストによって啓示された神をまことの神と信じるのがキリスト教の信仰だと言われますが、その信仰ということがどうして人間の内に起こるのでしょうか。

答   これは「問7」で、神が人間の想念によって作り挙げられるものでないのであれば、神の方から「わたしはこういうものだよ」といって自分を紹介してくれなければ知りようも信じようもない、ということを述べました。事柄はまさにその点にかかっているものでありまして、例えば目の前に神が現れたとしても、その方を神だと認め、かつ信じることが出来る認識力を人間が本来持っているか、ということが問題なのであります。

 キリストの第一弟子のペトロは「あなたは活ける神の子救い主です」とキリストに対する信仰を告白しましたが、そのあとで、キリストから「悪魔よ、退け」と叱りつけられました。それは、ペトロの考えていた神の子キリストは、当時のユダヤ人を占領下においていたローマ帝国の支配から開放する力ある王であったからです。そういう王の出現はユダヤ人のすべてが期待していたものでした。

 キリストの力ある話や奇跡的な力を発揮しての業を見た人たちが、そういう期待を寄せたことは、よく理解出来そうです。しかし、そういう考えは、キリストの側からすれば、悪魔のそそのかしであって「父」から出たものでない故、これをサタンの割り込みと見て取って「退け」といわれたのでした。「見ても見えない」というのは、こういう人間の側の先入観や思い込みがあるからに他なりません。

 では、どうしたら「見たら見える」のか、また「今まで見えていなかったものが、どうして見えるようになるのか」ということになります。答は「聖霊によって」であります。「聖霊」というのは「神の霊」のことです。これは、言い換えると、神に関することが分かるようにさせられる・神から与えられる認識力というべきものです。

 知性、理性、悟性、感性等は人間が生来持っているものですが、神認識を可能にする霊性は持っておりません。全く無いとは言えなくて、多少は残っていると言っても、全然役に立たないのが事実であると言えましょう。

 パウロは聖霊を受けた時、「目から鱗のようなものが落ちた」と言っています。今まで自分の内にあって、自分の考えや行動を律して来て自信満々であったものが、音を立てるようにして崩れ落ち、今まで全く気付かないでいたことが見えるようになった、という体験が、こういう表現で言い表されているのです。

 「松のことは松に学べ」とは明言です。こちらの計らいを主にしないで、先方から語りかけてくるのを待つ姿勢が求められるというわけです。神のことは神の側からの働きかけとしてのイエス・キリストを、聖霊によって知らされることが、信仰と言うものも、自分で獲得するものでなく、聖霊によって与えられるものであるということが分かれば、聖霊を求める祈りの大切さが分かろうと言うものです。

 

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

  

11月放送予定

  

   3日 笠井恵二 (中部学院大学宗教主事)

  10日 笠井恵二 (中部学院大学宗教主事)

  17日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)

  24日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)

   

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 「ローマ人への手紙」研究 (106)

 

 第61課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否

       9章1~11章36節(続)

F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。

       11章11~36節 (18)

 

「こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう・・・・」(26節)

 

前課において、26節の「イスラエルはすべて」の意味について種々の見解を見てきました。未来におけるイスラエル民族の回心について、イエスが何も語っておられないと考えられるから、この言葉はイスラエル民族を意味するものではないとする主張をも考察してきました。そのように主張する人たちが挙げている聖句(マタイ1928、ルカ2121)は実は、未来におけるイスラエル民族の回心という当面の主題とは無関係か、あるいは大いに疑問視されるべきものです。しかし、マタイ2339は、決定的にユダヤ人たちのキリストへの回心を預言している聖句なのです。

 

「文脈から見て、ここのイスラエルはユダヤ人たち、すべてのイスラエル人、ユダヤ民族全体を意味していなくてはなりません。民族としてのユダヤ人は今は拒否されています。しかし、彼らは民族として回復されるのです。彼らの拒否は民族としてであったけれども、それは各個のユダヤ人の拒否を含むものではないように、彼らの回復も同じく民族としてであるが、各個のユダヤ人の救いを含むものととる必要はないのである」(c・ホッジ)。

ホッジはさらに、「イスラエルはすべて」とは、(1)すべての神の真に民を指すのでも、(2)恵みの選びによる残りの民を指すのでもないと主張します。このホッジの見解こそ正当であると考えられています。

 

未来におけるユダヤ人たちの回心という考えを拒む人たちは、この節の初めにある言葉、すなわち、“And so”(口語訳では「こうして」)を重視します。彼らは、パウロは“And so”といっているのであって、“And then”とは言っていないのだと指摘します。彼らによれば,ここの意味は「異邦人は悉く救われる間に、イスラエル人は救われる」であると言います。私たちは、勿論、“And so”と“And then”との間に相違があることは認めますが、“And so”と訳されている原語は、必ずしもユダヤ人の未来におけるキリストへの回心という考え方を排除するものではありません。

この原語は“And then”と訳することも十分出来るからです(口語訳ではそのように訳して「こうして」としています。アルフオードはこの言葉を、「この条件を満たされた時」、「25節で述べられている条件が完成する時」、すなわち「異邦人がことごとく救われる時」の意味で説明しています。これはこの言葉の最も正当で筋の通った解釈です。  

 

 J.G.ヴォス著

 玉木  鎮訳

(日本キリスト改革派引退教師)

  祈 り

 

やっと夏の暑さから解放されて、秋の空になりました。「ジャーナル」さん、お元気ですか?毎月更新をありがたく思っています。先日、友人からメールが来ましたが、その要旨をご紹介します。

「・・・3・11の出来事をTVで見て、とにかく何かをしなければと思い立ち、有給休暇を取って現地に行き係りの指示に従い、バスで移動したところが海岸から離れていたが津波や地震の被害を受けていた地域でしたが、ある一軒家の瓦礫の片付けを数人のグループで行った。疲れと不安の中にある方々でしたが、お茶でも飲んでくださいと不揃いの食器に注いでくれたお茶が美味しかった。数日の片付けボラの終わりに、住所とお名前を教えて下さいといわれたのが縁で、近況報告が始まって今も続いています。

あれからお訪ねすることなくの日々でしたが。お互いの健康や近況のやり取りは続いていて、9月の連休に私たち家族4人でおたずねしました。家の前の手入れのいきとどいた畑には夏野菜が育っていました。日帰りのつもりが、会話と酌み交わすお酒で、泊まることになりました。あの壊れていた建物には想像もしなかったことだが、昔から客間があり、奥さんが手際よく私たちの居間をしつらえてくれました。帰りには沢山の野菜を頂いて帰ったが、ふと考えたら、マンション住まいの綿口たちには客間もない、野菜を植える畑もない、皆で囲むテーブルもないの、ないないつくし・・・。

お招きすることなど出来ない住まいに、心寂しいものを感じた。・・・・」という内容でした。

 

東京オリンピック招致で滝川クリステルさんが「おもてなし」の5文字で日本を世界に紹介しましたが、私は「おもてなしのこころ」と「おもいやりのこころ」の9文字を思い出していました。昨年までのテレビや新聞には「絆」という文字が沢山登場していました。私の「絆」は「気綱」の心を大切にする日本人でありたいと思うのです。

                              神奈川県 G・Tさん

 

                                      

福岡の病院火災のニュースは他人事でないと思いました。1年ほど前に骨折で2ケ月ほど入院した時のことを思い出しました。整った病院でしたが入院患者の殆どが高齢者で、自分では動くことは無理な方々ばかりでしたから、万が一にもあのような火災にあったらと想像するだけでも、悲しくつらい出来事と思いました。無責任なようですが、心から関係の方々お一人、お一人に神様のお慰めが与えられますようにお祈りいたします。病院の関係者の方々複雑な思いでしょう。神様の励ましをお祈りいたします。       

                              大分県  Y・Oさん

 

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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