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「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
☆ 私の早起きは、犬の散歩で始まります。雨や風でない限り4時30分には出かけます。それは、帰ってから娘に持たせるお弁当の仕上げと娘を起こして食事をさせ7時の電車に乗せるため、6時40分には家を出なければならないからです。それが習慣になり、日曜・祝日でも目が覚めてしまい、お昼ごろには睡魔の虜です。毎日、ああ~眠たい~を連発しています。写真を送ります。
☆ 子供たちの嫌いな小学校の運動会がありました。親たちの殆どがビデオカメラで撮影しています。家の子供たちはとても嫌がります。何時も転んでしまうか、後ろの方でそれが残るのはプライドが許さないようです。ところが、今回は三番目になったのです。お母さん、写真撮った!と言われたのですが、期待していないのでシャッターチャンスを逃してしまったのです。数人のお知り合いのお母さんに聞いて回ったのですが、ありませんでした。がっかりしていた数日後、子供が元気に帰ってきて、先生が撮ってくださった!と数枚の写真がありました。子供にとって大切な写真になりました。これからは、自分の子供専属カメラマンになることにしました。
☆ 夕食の時、高2の娘が学校でTVの半沢直樹のことで盛り上がっているんだそうですが、どうも娘には理解できないというのです。娘も私もTVは見ていませんが、「土下座」とか「倍かえし」とかが話題のようです。そういえば先日、スーパーで店員さんに大声で「土下座して謝りなさいよ」という声を耳にして、怖い感じと、何とも言えない不快な気持ちになりました。土下座して謝るほどのトラブルなんか起こりえない日常のスーパーなのに・・・と思いながら、後味の悪い思いがしました。
そういう自分も子供によく「謝りなさい」と感情的になっていたことを思い出し、美しくない母親の姿を子供に見せていたと反省しています。
店員さんに「土下座して謝りなさいよ」と言っていたあの方の姿や言葉使いは、あまり美しくありませんでした。娘はそんなことを感じて大人の醜さを見抜いていたのだろうか・・・と複雑な思いになりました。
☆ 元気に家事の仕事をしていた家内が、急病に罹り緊急入院になり慌てました。何もかも家内任せがそうでなくなり、娘に助けを求めましたが、これからは自分の身の回りは自分でしないと、退院のお母さんに負担をかけるからと、叱られました。言われて恥じいっています。家内依存から、支えあう夫婦になるためにと、心を入れかえて、毎日病院に行っています。
『ありがとうございます』
読書の秋、運動の秋、収穫の秋と言われていますが、今年の秋は、台風の秋と言う喜ばしくない秋です。その爪あとが冬を迎える人々に重くのしかかってきます。お見舞い申し上げます。今年一年を振り返る時節になりました。感謝なことに多くの方々に「つのぶえジャーナル」をお届けできました。沢山の写真メールやお便りも届けられました。悲しみの中にある方、子供の成長を感謝している方、思いがけない病に罹り戸惑われた心の内を吐露してくださり、共に祈ることも出来ました。何となく気ぜわしくなる日々です。ご自愛ください。
『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社』の活動のための寄付者
池田久子様 岡田千歳様 長津 栄様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
2013年9月16日から10月15日まで
『水琴窟』
裏山の木の枝の紅葉も残り少なくなりました。もう直ぐ初雪です。寒い冬です。秋に漬けた白菜やキャベツが美味しくなるのを楽しみにしています、と秋田のDさんがメールを下さいました。それぞれの人に冬が来て、それぞれの冬備えをしながら迎える初冬の景色があるのですね。田舎に帰った時、兄と母と3人で収穫した柿を干し柿用に風通しの良いところにつるして出来上がりを楽しみにしながら写真メールにしました。もう秋ですね。頑張って下さいとメールにありました。
都会は季節感が乏しいと言いますが、そんなことはありません。日々の寒さに備えた身支度もあります。街路樹も風に吹かれています。
今月のことば
なにゆえ、もろもろの国民(くにたみ)は言うのでしょう。「彼らの神はどこにいるのか」と。
われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。
=詩篇115・2~3=
私たちは悲しみの時、苦しみの時、また喜びの時、天を見上げ、天を見つめます。人は平和を求め言葉やペンや筆を用いたり、平和の名の下に数多くの砲弾、銃声を降らせ、平和の実現のための正しい手段と言います。地上に平和(天国)を建てようとする思いがそうさせます。それは、歪んだ姿です。
天と言われ地と言われるものについての光や理解や教示を聖書から得ている人は、地上の生活を楽しんでいる「もろもろの国民」から、様々な嘲りを受けることでしょう。この嘲りはキリスト者にとって苦痛ではありますが、信仰のゆえにである限り、光栄でもあります。
人は言うでしょう。「あなたの神はどこにいるのか」と。この悲惨な地上の出来事に対して、神はどのように答えるのか、と問われる時、戸惑い、言葉を失う実に恥ずかしい自分に気付くのです。どのように答え、どのような言葉が適切かと思うなら、それは誤りです。
人は神を証明することなど不可能です。試みへの思い悩みは無用です。むしろ、単純率直に、何にも頼らずに、「われらの神は天にいらせられる」と告白しようではありませんか。神を示すことは、私たちには出来ません。しかし、キリスト者・信仰者には可能なのです。神は自らご自身を示し証明される、と証し、告白することです。
もろもろの国民のこの悪意に満ちた、「彼らの神はどこにいるのか」と言う問いかけに、神ご自身が証明されるのです。
それを告白し、信じ、生きるのがキリスト者・信仰者なのです。
我が魂よ忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの
愛と安らぎのある御もとを 水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
小閑記
心おののく者に言え。「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
=イザヤ35:4=
キリスト者は、心が恐れと憂いにおののくとは、どのようなことであるかを、聖書から学び知っております。人生の困難な道は、たびたび襲いかかることに戦わせ、恐れさせ、多くのことが、私たちの生活に激しい力で迫り入ってきます。しかもそれらは私たちの不意を打ち、予期せぬ時にやって来て、心を不安と恐れにおとしめるのです。
しかし、それよりも真面目なキリスト者の心を最も不安にするものは、魂に罪を負わせる傷であり、霊の、信仰の熱心をしばしば消そうとするような、巧みで巧妙な落とし穴であります。
人は、重い病になる時、冷酷な死の力が襲い掛かって来ます。そのような時、人の弱さのゆえに神の救いの力が与えられているのに、心の恐怖に慄くのです。死の恐怖もあるでしょう。
しかし、本当の恐怖は、神の裁きの恐怖を心に思う時の恐れです。この恐怖からの救いは、人の信心ではありません。ただ神の救いの恵みのみです。神は、全ての弱い、慄く魂に、慄く者に、最も強く関わって下さるのです。神の愛と救いは、最も恐れ慄く者に、真の慰めである永遠のいのちの約束を保障して下さるのです。それは空約束ではありません。気休めや願望ではありません。
神は言われました。心おののく者に言え。「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
この約束に信頼する時、主は約束を果たしてくださいます。その確かさこそが、「主イエス・キリストの十字架の死とよみがえり」にあるのです。
このキリストへの信仰こそ、キリスト者の力なのです。
上河原立雄
眸
「つのぶえジャーナルさん」、毎月の更新・発送ご苦労様です。毎月、楽しみにしております。今は、体調に心配なくお過ごしのご様子を紙面から推察させていただいております。今年の夏の暑さは辛いものがありましたが、一年の区切りになります、
残暑は疲れが出る時です。ご自愛ください。
愛知県 音友さん
もう一度訪れてみたいと願っていた京都の嵯峨野・祇王寺。深緑の風情の夏の今とそれぞれの季節では趣を異にしていましょうが、涼しげな緑の香を含んだ美味しいいただき物を胸の奥で味わいました。何十年も前に訪れた時は、雪の時です。歳を重ねますと景色を味わう思いも変わるのですね。今度訪れるのは何時になるのでしょうか・・・・。
和歌山県 昔乙女さん
昨日の礼拝中、教会の周りの田んぼから虫の音が聞こえてきました。深まり行く秋の気配を感じます。講壇の端に、赤く色づいたほおずきの実が枝葉ごと飾られていました。
子どもの頃、ほおずきの実の中身をくりぬいて、口に入れ、キュッ、キュッと鳴らして遊んだことを思い出しました。すぐに皮が破れてしまい、がっかりした気持ちと共に。
「鬼灯(ほおずき)の口つきを姉が指南哉」一茶
小林一茶のふるさと、
長野県 みどりさん
(みどりさんから、そばの花など4枚の写メールをいただきました)
自閉症者のひとりごと (76)
8月21日
この夏の暑さに元気なしです。洗濯物を干すのにベランダに出たり、体調を崩しトイレに入ったり、ゴミを捨てに行ったりするだけで、やられてしまっています。足腰も痛い。これも自分なんだと受け入れるしかないのだけれど、これも自分ではできないので、神様に受け入れられるよう、お委ねするしかないですね。受け入れるとか、お委ねすること事態、自分には重い信仰的負担になってしまいます。
8月24日
暑さに負けています。精神科から今帰宅して、あれこれ用事を済ませたところです。足腰が痛くて悲鳴をあげそうになったので、横になっています。ツラいなあ。月曜日にでも、また麻酔科に行ってくるか・・・。
加納さおり
<先人の祈り>
ただひとあし、主に近づきて、信じなば救われん。
愛に満ちて、主は待ちたもう。罪許さんとて。
ただひとあし、主に近づきて、罪より恵みに進まば足らん。
いかに心定めしや、時は飛び去りゆくに。
世田谷通信
(119)
猫 草
もう10年以上、正確には何年生きているのか判然としない家のイモリ。最近盛んに脱皮を繰り返す。その脱ぎ捨てた皮をよくみたら、なんと手と足の指の形が綺麗に残っているのだ。指の先端部分の吸盤の形もわかる、極小で半透明の手袋と5本指靴下のようだ。通常は石などに体をこすり付けて脱皮し、すぐに自分で食べてしまうので、こんなのを見るのは初めてだった。早速横に居た長男に「ねえねえ、この脱皮、スマホで撮ってツイッターにアップしてよ!」と言ったが「ウケねーよ」と即座に却下された。そうかなあ。けっこう貴重だと思うのに。面白いと思うのは私だけ?残念な。
そしてうちのウサギ。日々せっせと毛づくろいをするのだが、ネザーランドワーフという種は耳が短い。加えて高齢のためか体が固い。骨格構造上、前肢が短い。以上の条件だと自分で耳の後ろに手が届かない。顔の横まで必死に短い手を伸ばし、耳と首を曲げても、むなしく空を掻いている。何度も挑戦して仕舞いにバランスを崩して後ろにひっくり返る。情けないことこの上ない。一生懸命な姿がいじらしく可愛い。これもぜひ動画でアップして欲しい素材だが、実現していない。これ投稿したら面白かろうに・・と思っても、よくわからない、面倒くさい、でそのまま素通りしている状態なのだ。しかし普段から何か投稿ネタを探している人はチャンスを逃さない。ご飯を食べても、道を歩いても、すぐにアップである。話をしていて「あれ?どうだっけ」という疑問もすぐに検索で中断される。これでは話が深まる気配が無い。
この文章、この写真を投稿したら、「ウケるかも」それだけが判断基準だと、熟慮も校正も推敲もそこにはない。客観的に多角的にみたら、という視点が常にあればよい。しかし自分の瞬間の判断にそこまでの自信は無い。なにせイモリの脱皮に「なんと精巧な!これ大発見!?」と興奮する感性だし。ネット上には真偽入り乱れ錯綜する情報が文字通り氾濫しているので、濁流に泥の一掴みぐらい投げても問題なかろう、と思ったら、たちまち日の光の下にさらされてつるし上げられるのも最近の怖さだ。今日もウサギが届かない耳掃除をしている。なので私もエアー「いいね」を押してみるのである。そして誰とも共有されないけど、自分だけのお宝映像、というのもいいんじゃないか、と思うのである。
・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
その愛のゆえに
=時々の記=
(90)
8月14日
母を見舞いに来ていた姉も今日東京へ帰りますので娘と三人で母のところへお見舞いに行きました。昨日は昏々と眠り続けていたので、今朝は元気が出ていました。讃美歌515番「十字架の血にきよめぬれば,来よとの御声をわれはきけり。主よ、われは今ぞいく、十字架の血にてきよめたまえ」と最後まで、メロディーも正確にしっかりとした口調で賛美いたしました。その場にいた三人は胸がいっぱいになり、母として、牧師の妻として神様の御手に守られて、天国へ行くのだと確信いたしました。
きょうまでの祝福思ふ夕端居。
教会に扇子使へる翁かな。
夕暮れの雨山峡を冷房す。
一途なる思ひは今もねじれ花。
三匹の鹿緑陰へ逃げ込みぬ。 馬場路哉
8月15日
今から母を見舞ってきます。身体全体が栄養不足状態であること。手術のために貧血していること。食欲がないこと。これらが合併していますので大変ですが、母の言うとおりに神様が守ってくださっていますから、召されるまで平安でいることができますようにと、心から感謝して祈っています。
8月19日
いつもお心のこもれるお祈り、お励ましに感謝しています。昨日は主人が私に代わって礼拝に行きました。私は疲れが出てしまいお休みいたしました。
母は今日もそうでしたが、私の顔を見るなり、オルガンのご奉仕をしているんでしょ、としつこく言ってきます。もうしていないの、と答えるとちょっぴりさびしそうにしますが、何も言いません。礼拝後、信友が母のところに駆けつけてくれたと連絡が入りました。
感謝でした。病院の方からは早く次に施設を探すようにと急がせます。今日も、私は伊賀上野の施設申込みに出かけました。とても大変なことです。施設に入るには簡単にいかないことも思い知りました。多くの方が待機している状態だとのことです。21日には、伊賀市の方が介護認定のために母の様子を調べに来てくれます。せっかく入院して手術が終わってまだ1週間だというのに、もう次に行くところを決めなければならないのです。
高齢者で、あふれかえっている状態なのです。母にそのことを伝えると、小さな声で、家に帰りたいと言うのです。
苦しい決断ですが施設が空くのを待つしか方法はないようです。
8月26日
昨日、娘たちが夏休みが終わりだということで、母のお見舞いに上野まで来てくれました。
母はとても喜んでくれました。皆で讃美歌515番を賛美し、お祈りをして帰りました。
午後から伊賀市の方から電話が入り、退院後の居場所が見つかりそうだとの連絡でした。
8月30日にその方たちと面談をして入所が決まるそうです。
面談のためにいったん外出をせねばなりません。
介護タクシーを予約し、母は車のまま、病院から車で5分のところへ出かけます。
体力、気力がとても弱っているのでそれができるか心配していますが、すべてを神様の良いようになさってくださると信じて、無事にその一日が予定通りに終わりますようにと祈っています。いつもお祈り有難うございます。
9月号のジャーナルが昨日更新されたと娘から電話連絡が入りました。
お届けいただくのを楽しみにしています。残暑が厳しい中での発行、お疲れ様です。
<お嬢さんのお便り>
日曜には警報が出て、祖母のお見舞いに使う電車も不通になりましたが、月曜には病院へお見舞いに行けました。手術の時は覚悟しましたが、ニコニコ笑って話が出来たのです。記憶を辿って私を思い出してくれました。身内だから思うのでしょうけれど、嬉しい気持ちになりました。 寝ている日もあれば、話せる日もあり、その繰り返しの様です。祖母の孫で幸いだと、ずっと思っていますが、その思いは強くなるばかりです。
オリンピック開催都市に東京が選ばれるといいなあ、と7日を待っています。震災を乗り越え、力強く前へ一歩踏み出している日本を世界の方にも見て頂きたいと思います。
戦後から今へ繋がれてきた命のバトンに注目して欲しい。若い人や子供達にも日本でのオリンピックを見せてあげたいと願う夏です。
まだまだ暑い日が続くでしょうけれども、御身体御自愛下さい。
主の御守りがあります様にと祈ります。
8月31日
母は、ベッドで休んでいました。小さな母が一層小さくなっていまして、ああ~もうそう長くはないと直感いたしました。人の死ぬのも生きるのもすべて神様の御手の中にあり、ご計画の中にあると信じるものです。
散歩をしていると、秋の気配が感じられえるようになってきました。あちこちで、稲刈りの準備です。また、ススキの穂がちらほら見え始めました。今になって暑い夏の疲れが出てきました。
母は施設の方との面談を無事にすませ、いよいよ9月2日から、伊賀市ゆめが丘にある老人保健施設に入所です。これからも神様のお守りがありますようにと祈るものです。
9月2日
今日、雨が降りしきる中でしたが無事にゆめが丘へ転院できました。兄も私もバタバタとしたひと月でしたので、ほっといたしました。母は落ち着かない様子でしたが、兄に励ましてもらい、このように早くに施設に入所させていただき感謝です、と言っていました。びっくりするほど素晴らしい施設で、兄も私も母が最期に神様の御手に導かれ、このような良い場所で過ごすことができることに感謝の気持ちでいっぱいです。
皆様のお祈りに支えられていますことを感じた一日でした。
ジャーナルをこれからは母に読み聞かせようと考えています。(個室ですので。)
病室の冷房のよき白寿かな。
この園の広場は少し花野めく。
今日一日声を絞れる蝉ならむ。
逃げし犬探して歩く残暑かな。
秋立つや目標確と掲げたる。 馬場路哉
今日、母の入所した施設は、7年前に主人の母も入所したところです。
その時のことが重なって複雑な思いになりました。
9月9日
上野までは高速道路の名阪を利用して、私が安全運転で行っています。名阪を使うと大よそ20分ぐらいで行くことができます。でも私は運転が下手なのでちょっと疲れます。
これからは母には悪いのですが、一日おきに行こうと考えています。
洗濯物がたまらないように気を付けながら行きます。
今日は母と葬儀のこと、献体のことなど話し合うことができました。
葬儀は子供たちだけでします、と言いますと、もちろんそれでよいですと言ってくれました。また献体についてはこのように歳を取っているので医学的に研究材料にならないかも知れないといいますので、それは三重大の方が決めるのです、と言いますと献体したい旨を伝えくれました。20年ほど前から三重大学病院に申し込んであるのです。母の気持ちを聞くことができて感謝でした。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
解説 ウエストミンスター信仰告白 (16)
岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第八章 仲保者キリストについて(1)
1 神はその永遠のご計画で、ご自身のひとり子主イエスを、神と人との間の仲保者(1)、預言者(2)、祭司(3)、王(4)、神の教会のかしらまた救い主(5)、万物の世嗣(6)、世界の審判者(7)に選びまた任ずることをよしとされた。彼に対して、神は永遠の昔から、ひとつの国民を彼のすえとして与えて(8)、彼により、時至ってあがなわれ、召命され、義とされ、聖とされ、栄光化されるようにされた(9)。
1 イザヤ42:1、Ⅰペテロ1:19,20、ヨハネ3:16、Ⅰテモテ2:5
2 行伝3:22
3 ヘブル5:5,6
4 詩2:6、ルカ1:33
5 エペソ5:23
6 ヘブル1:2
7 行伝17:31
8 ヨハネ17:6、詩22:30(31)、イザヤ53:10
9 Ⅰテモテ2:6、イザヤ55:4,5、Ⅰコリント1:30
一 聖書は厳格に唯一神教の立場を示しているので、神を世界や万物と区別することが、絶対的な第一の主張であり、神と世界を混同することは汎神論であるばかりでなく、一切の偶像教への入り口を開くことである。しかし、キリストを神の側に置くという、第二の絶対的主張を、これに加えることなしには、キリスト教は成立しない。
神は世界の創造者である、というのに対して、キリストは神と世界の仲保者であるといえる。三一神の第二人格である点は、すでに第二章の「神について、また聖三位一体について」で明白に規定されており、また、次項で詳しく論じられるのであるが、本項では、この三位一体の神の永遠の聖定(第三章)についての、み子の持っておられる被造物との関係を問題としており、それは次の4つの分類に従って語られている。① 神と人間一般 ② 神と教会 ③ 神と万物 ④ 神と世界
① 人間は道徳的、宗教的、政治的存在者として、特に神の知と聖と義に関係を持つ。
② 教会は選ばれた者の集いとして、キリストと特別に緊密な関係に置かれている。
③ その万物と④の世界との区別に対応する。世界という語は、聖書では世と訳される場合が多いが、その責任を問われなければならない被造物の総称であって、審判の対象となるものである。
この告白では「神は永遠の昔から」以下で②の点、すなわち、教会との関係を特に詳しく述べている。
2 三位一体の第二人格である神のみ子は、まことの永遠の神でいまし、み父とひとつの本質でまた同等でありながら、時満ちて、自ら人間の性質を(1)、それに属するすべての本質的固有性と共通的弱さもろとも取られ、しかも罪はなかった(2)。彼は、聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質をとって、みごもられた(3)。そこで十全なそして異なった二つの性質、すなわち神たる性質と人たる性質が、移質、合成、混合なしに、ひとつの人格の中に、分離できないように結合されている(4)。この人格はまことの神またまことの人で、しかもなお、ひとりのキリスト、神と人との間の唯一の仲保者である(5)。
1 ヨハネ1:14(*)、Ⅰヨハネ5:20、ピリピ2:6、ガラテヤ4:4
*ヨハネ1:1,14が正しい。
2 ヘブル2:14,16,17、ヘブル4:15
3 ルカ1:27,31,35、ガラテヤ4:4
4 ルカ1:35、コロサイ2:9、ロマ9:5、Ⅰペテロ3:18、Ⅰテモテ3:16
5 ロマ1:3,4、Ⅰテモテ2:5
二 ここではカルケドン信条に告白された二性キリスト論が述べられている。キリストの人格が三一神の第二人格であること。そのために、父と同質、等位であること。その人間性が被造物に固有な有限性と律法の下にある弱さを持ちつつ無罪であること。処女降誕、神性と人性との結合の正しいあり方が、転化、合成、混合、分離という4つの異説に対して弁明され、特に人格的統一が強調されている。
「この人格はまことの神、またまことの人で、・・・」の表現は、誤解されやすい。キリストをその人格について言えば、ロゴス、すなわち、三一神の第二位であられるが、このことは受肉によっても変化しない永遠のロゴスでいます、ということである。しかし、その性質について言えば、このロゴスは受肉以前には、ただ神である性質のみを持っておられたが、受肉によって、その上に人間の性質もおとりになったのである(神である性質を捨てて、その代わりに人間性を取られたのではない)。
そして今や、二性のキリストとなられたのである。しかし、このことはキリストの人格が神的人格と人的人格を備えたという意味にはならない。「ひとりのキリスト」である、といの結びの言葉には、このことを明言するものである。人格と性質とを混同しないようにすべきである。
3 主イエスは、このように神性に結合された彼の人性において、限りなく聖霊をもってきよめられまた油そそがれ(1)、ご自身のうちにすべての知恵と知識の宝があった(2)。み父はすべての満ち足れる徳が彼のうちに宿るのをよしとされた(3)。それは、きよく傷なく汚れなく恵みとまことに満ちて(4)、仲保者と保証人の職務を遂行するために完全に備えられるためであった(5)。この職務は、彼が自らとられたのではなくて、み父の召命によるのであり(6)、み父が彼の手に一切の権能とさばきを委ねて、彼にそれを遂行するように命じられたのである(7)。
1 詩45:7(8)、ヨハネ3:34
2 コロサイ2:3
3 コロサイ1:19
4 ヘブル7:26、ヨハネ1:14
5 行伝10:38、ヘブル12:24、ヘブル7:22
6 ヘブル5:4,5
7 ヨハネ5:22,27、マタイ28:18、行伝2:36
三 これはヨハネによる福音書3章34節などの主張を骨子とする聖書の教えを、体系づけたものであって、キリストが三一神論にあって存在論的には父と同等であるということで、三位一体論での従属説(子を父より下位とみる)は堅く排斥されなければならないのであるが、その仲保者として、メシヤ的職能を果たすことに関しては、その任命、その任務の遂行など、すべて父の命令に従い、父の与える恵みと賜物によって、これを果たすと言うのであって、普通にこれを、メシヤ職能的従属の教理と言っている。この点に関して、キリストは神としてわたしたちの主であるとともに、新人類のかしらとして、わたしたちの長兄であられる。ローマ・カトリック教会が「われらの兄弟なるキリスト」と呼ぶのは、この点に関しては正しい。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
『旧・新約婦人物語』(49)
エステル =エステル記=
紀元前400年ごろ、ペルシャの国はアハシュエロス王が治めておりました。この時代はペルシャの全盛期で、領土はインドからエチオピアまで127州におよんでいました(1:1)。王の治世3年に、王は各州の大臣、貴族、将軍たちを集め、180日にわたる大宴会を催し、王の大きな富と、盛んな威光を示しました。その後で都シュシャンにいる大小すべての民のために、更に7日間の宴会を開き、王の后ワシテは王宮にいる女たちのために別に宴席を設けました。
当時の習慣によりますと、特にペルシャでは、女性は公の席へ出ることが許されず、外出するにもベールをして顔を見せないようにしておりました。かつてはトルコでも、女性はすべてベールをして外出したそうです。かつての日本でも婦人たちはあまり公の席へ出ないことにおいて同じようです。
さて、この宴会の終わりの日、王は酒に酔って、后に皇后の冠をかぶって宴席に出るように命じました。これは、その美しさを集まっている人たちに示すためでした。しかし、王の后は昔からの習慣を破る行為だとして、命令に従わず、王の前に出ませんでした。王の命令に背いた罪は放っておくわけにはゆきません。
王は怒って、その処置を知者に相談しましたが、彼らは后が王の命に背いたのは、律法を犯したもので(専制の昔は王の命令は何事も法律となりました)、これを許しますなら王は国を治めても、王妃を治めることは出来ないと国民は笑うでしょうと答えました。そのため、ワシテは王の后の地位より退けられ、他に王の后を選ぶことになりました。
ここに、神の摂理により選ばれたのがユダヤ人のエステルでした。彼女は早く父母と死別して従兄のモルデカイに育てられた身も心も大変清い女性でした。彼女は、他のユダヤ人と共にネブカデネザルの時、捕らえられ奴隷にされてジュシャンの都にいたのです。
王の后に推されたエステルが、ユダヤ人であることをモルデカイのほか、誰も知りません。愛するエステルが王の后になったことを、王の門衛をしていたモルデカイは、もちろん喜んでおりましたが、その喜びはしばらくして破れてしまいました。
ここに、王の権力を傘にきた大臣でハマンという人がいました。彼はよくない人で口先がうまく、王に取り入り、王の次の位にありました。彼は心おごり、彼が通行するときは、国民は皆、彼を拝するようにと、王の名をかりて国民に命令いたしました。門衛のモルデカイは、「神のほか何物をも拝むな」という十戒を守って、この命令に従いませんでした。
ハマンは、王門を出入するたびに、自分を拝まないモルデカイを見て非常に怒りましたが、モルデカイ一人を殺すのは小さいことだが、むしろ彼の属しているユダヤ人全部を殺すべきだと決心しました(3:6)。それから、彼は王に対して、「国の各州にいる諸民族のうちに、散らされて、別れ別れになっている一つの民がいます。その律法は他のすべてのものと異なり、また彼らは王の法律を守りません。それゆえ彼らを許しておくことは王のためになりません。もし王がよしとされるならば、彼らを滅ぼせと詔をお書きください」(3:8~9)と、王の命令を願い出ました。その許しを得て、その年の12月13日に国内にいるすべてのユダヤ人を殺すよう各州の知事に命令いたしました。
これを聞いた全国のユダヤ人は、「大いなる悲しみがあり、断食、歎き、叫びが起こり、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった」(4:3)と聖書にあります。モルデカイも衣服を裂き、麻布をまとい、灰をかぶって王門にて泣き叫びました。
王の后エステルは、モルデカイの嘆きを聞いて驚き、使いの者をつかわし、どうしたのですかと問わせました。モルデカイは事の次第を詳しく語って、ユダヤ人のために王のあわれみを乞うよう頼みました。エステルは、男でも女でも王から召されないのに、王の中庭に入るものは殺されるという法律を恐れて、初めはなかなか承知をいたしませんでした。しかし、「あなたが、もしこのような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救いがユダヤ人のために起こるでしょう。しかし、あなたと、あなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」(4:14)、との二度目の願いを聞いて、エステルは意を決しました。そして、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください・・・。わたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死ねばならないのなら、死にます」(4:16)とモルデカイに申し送って、彼女は王の前に立ったのです。
これは、王の許しがないのに王の前に立つことで、死にあたる罪です。本当に命がけの仕事で勇気がなくては出来ません。彼女は、モルデカイや全ユダヤ人たちの背後よりの祈りに支えられ、この犠牲的な行為が出来たと思います。祈りの力のいかに偉大なるかを覚えましょう。
王がその夜、寝られないままに家臣に命じて、記録を読ませていましたが、その中に、モルデカイが王を殺そうとする反逆を探知し、これを報告して王の難を救った記事を発見しました。王はこのためにどんな栄誉をモルデカイに与えたかと家臣にたずねました。家臣たちは、何も彼に与えていませんと答えました。そこで夜中にもかかわらず、ハマンを召して、「王が栄誉を与えようと思う人には、どうしたらよかろうか」(6:6)と尋ねました。
ハマンはそれがモルデカイのためであることを知らずに、王が栄誉を与えようとする人物は自分より他にあるはずはないと、うぬぼれて、「王が栄誉を与えようと思われる人のためには、王の着られた衣服を着せ、王の馬に乗せ、王の貴い大臣に手綱をとらせて、王の栄誉を与えようと思う人にはこうするのだと呼ばわせて、町々を通らすがよろしい」(6:7~9)と言いました。
王は、それがよいと、ただちにモルデカイを召し出し、自分の衣を着せ、自分の馬に乗せて、ハマンにその手綱を取らせて町々を廻れと命令しました。ハマンは王の命令にそむくことができませんでしたので、そのとおり行いました。「ハマンは憂い悩み、頭をおおって急いで家に帰った」(6:12)と聖書にあります。彼の憤りのさまが目に見えるようです。
さて、王の后エステルは意を決して王の庭に入り、王とハマンとを自分の宴席に招きました。王は喜んでハマンをつれて宴に臨んだとき、エステルは二人の面前にて、「わたしとわたしの民は売られて減され、殺され、絶やされようとしています」(7:4)と、歎き、王の恵みを願いました。王は驚いてその悪い企てをしたのはだれかと尋ねました。エステルは大胆に、「それはハマンです」と、目の前にいるハマンを指さしました。
ここで、すべては明らかにされました。王は怒って王の命令だといって、ユダヤ人を滅ぼそうとしたハマンは罰せられ、ユダヤ人は助かりました。
このエステルのお話で、私たちは何を学びますか。
1 すべてのことが相働いて益と成となること。
酒に酔った王、王の命令に従わないワシテと、ハマンの悪計などの行いが、相働いてユダヤ人の救いの原因となっていることに注意しましょう。私たちは常に襲う悲しみ、悩みなど、いろいろの問題も神の摂理のうちあると信じます。
2 エステルの犠牲的行動。
自分が王妃という栄誉ある地位にありながら、同胞ユダヤ人を救うために、自分が嫌われ者の奴隷であるユダヤ人の一人であることを、王の前でハッキリ打ち明けることは、到底、普通の女ではできることではありません。
現在、日本のクリスチャンの数は、全人口の1パーセントにも及びません。その数は、ぺルシャに住んでいたユダヤ人の数によく似ています。しかし、この少数のクリスチャンのすべてが、エステルのように自分の信仰を明らかにし、神の軍勢の一人であることを自覚して、神のみ旗のもとに戦って、自分の受けた神の恵みの証を立てましたならば、多くの同胞を救いに導くことが出来ると思います。
<今月号をもって、旧新約婦人物語の旧約のシリースは終わります>
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (32) 遠山良作 著
昭和22年
3月31日
何も読むものもなく、退屈でしかたがないので、今日も聖書を開いてみるが、理解できないことばかりである。マタイ、マルコ、ルカ、同じようなことが書いてある。何故だろう。私のような学問のない者にはわけがわからない。どうも私には不要の本の様な気がする。 運動の時間が来たので本を閉じて外に出る。すでに東大尉も運動に出ておられたので、歩きながら次のことを東大尉に話した。
「私は日本の勝利を信じて戦って来たが、敗戦というこの現実の前に悲しみと無念で一杯である。だけど大和民族がこの地球上に生存している限り、五十年先か百年先か分からないが、この仇を討って、私たちの悲願である「八紘一宇」(はっこういちう)の理想の世界をこの地球上に実現することこそ、民族がなさなければならない使命であると思う」と話した。
東大尉は「なあ遠山、お前のような考えを持っていたら、この世界から戦いは絶えないぞ。これからの日本は軍備もない、平和な新しい日本を作ることが、敗戦日本が生き残れる唯一の道である。そのためには日本が総ざんげをする時である。そのときに新しい平和な日本が生まれるのだ」と諭してくださった。
今まで何一つ悪いことをした覚えもない。また間違ったことをしたとも思っていない自分である。今晩はゆっくりこのことを考えてみよう。
4月2日
運動の監視に来た今日の英兵はうるさくない。死刑囚を除いて全員を一度に出してくれた。時間も何時もより長い。お陰で林大尉と、歩きながら話が出来た。林さんは「モラロージジ」の創立者広池博士の門下生で、千葉の道場で修業し、また岡谷で製糸工場の経営をしていた部隊の将校である。彼は英語を勉強するために、英語の聖書を読んでいる。
私は「林さん、聖書に書かれている奇蹟は、全く信じることができないけれども、倫理の書物として読むならば、価値のある読物だと思います。だが内容には難しいことがたくさん書いてありますね。例えば「人が右の頬を打てば左の頬を向けよ」と書いてありますが、私にはその意味がよく分かりません。林さんはどう思われますか」。
林「俺にもよく分からないので、学者(いつも本を読んでいる英兵にあだ名)が来たら聞いてみたいと思うが、やはり「目には目、歯には歯」というのが自然だと思うよ。だがね君、聖書にはすばらしい言葉がたくさん書かれているよ。
あの片隅に小さな花が咲いているだろう。あの花をじっと見ていると、実に美しいことに気が付く。聖書の中に「ソロモン王が着飾っていた、美しい飾り物も、野に咲いている草花の美しさには及ばない」と書いてある。
人間がどのように精巧に作った飾り物でも、自然に咲いた花の美しさとは比較できないと言う意味だと思う。自然の花には生命があるから美しいのだ。聖書から学ぶことが多くあるが、奇跡や神話の記事も多く書かれている。「クリスチャン」になるには、聖書のすべてを信じなければ「クリスチャン」にはなれないよ、と言われた。
私はとてもクリスチャンにはなることは出来ないし、その気もないが、クリスチャンである加納衛生兵の優しい笑顔を思い出す。
註 「八紘一宇」=全世界を一つの仲の良い家とする。戦中、時刻の海外浸出を正当化するために用いた標語。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
あなたに聖書を
「キリスト教百話」・・・10
問10 イエス・キリストによって啓示された神がまことの神であるという言い分は分かりましたが、すべての人に通用するのか、キリスト教の排他性・独善性ではないかと思います。
答 日本に初めてキリスト教が伝えられた時、仏教の僧侶とキリスト教の宣教師との間で、論争が交わされたことがあります。この論争が、お互いの特徴を披瀝し合うという意図にとどまっていたのであれば、それなりに意義があったでしょうが、それぞれの宗教の優劣を争う意図が潜んでいた限りにおいて、これは無益な営みに終わったとしか思えません。
というわけは、こと信仰に関する限り、比較対象が出来ないからです。例えば、結婚している人が、自分の配偶者以外の異性の方が結婚相手として良い等という比較は、出来ることではないからです。それは相手を信頼して人格的関係にある者にとっては出来ないことであるからです。
結婚という関係は排他性を本質的に持っています。そうであることを前提として、この排他性を脅かさない限り、より広い交流関係を結ぼうとする夫婦のありようは、望ましく喜ばしいものであると言えます。
ただし、その場合、「信じていると言うが、それは騙されているのではないか」という問いがありますから、これにどう答えるかという問題もあります。これはなかなか難しい問題でありまして、今日では「マインドコントロールされているものをどう解くか」という問題でもあります。
この点、例えば親鸞は弟子から「師は『南無阿弥陀仏』と称名念仏すれば救われるとおっしゃるが、それは本当か」と聞かれた時「わたしは師の法然からそう教えられ、そう信じているのであって、この教えが瞞しごとであって、そのため地獄に落ちるとしてもそれは本望だ」という旨の答をしたと聞いていますが、信じるということがそういう性格を帯びていることは否定できません。
そういうことを踏まえて言えば、キリストによって神を信じてきた人たちは、騙され続けてきたのではないか、という問いが発せられそうです。しかし、その正否を断定する根拠は自分の側にはありませんので、答えようがありません。あるのはこの2000年にわたってキリストによって神を信じて生きてきた多くの人がいたし、今もいるという事実です。キリストを信じると言いながら、キリストの意図に反することを繰り返してきた事実もありますが、キリストを信じるが故に愛に生きた人が大勢いたことも事実です。
見物席からの批評はいくらでも出来ます。ただしクリスチャンはキリストという人生の名監督に出会い、その父である方を神と信じることが出来た者として、このように生きているのです。見物席から降りて、舞台を共に踏むことから、ことは始まるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
6日 橋谷英徳(日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
13日 橋谷英徳(日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
20日 相馬伸郎(日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
27日 相馬伸郎(日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」