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「ローマ人への手紙」研究 (106)
第60課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (18)
この問題に関して、取り上げられるもう一つの聖句は、ルカ21:24「・・・そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らは踏みにじられているであろう」です。この聖句はユダヤ人の回心または回復について述べているとする考え方に対し、これは異邦人の時期が満ちるまで、エルサレムが踏みにじられているということを教えているというだけであって、その後に変化がおこるということまで意味するものではないと主張されています。
この主張は正しいかもしれないが、他方において、その意味が単に、エルサレムが世の終わりまで異邦人によって踏みにじられているだろうというだけのことであるとすれば、そのことを異邦人の時期が「満ちる」という表現で言っているのは、特異であると見られるべきでありましょう。通常の読み方をすれば、この聖句は「エルサレムは異邦人の時期が満ちた後は、もはや踏みにじられることはないであろう」と言う意味になります。しかし、この聖句は、エルサレムの未来について語っているのであって、ユダヤ人のキリストへの回心について述べているのではないから、私たちが今論じている問題には、あまり意味をもっていないものとして、退けられるべきでしょう。
しかし、この問題について、決定的な意味をもっていると考えられるイエスの御言葉があります。すなわち、マタイ23:39「わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」です。言うまでもなく、ここでイエスは、イエスを軽蔑し拒んで、やがてこの後で、彼を十字架につける不信仰なユダヤ人のことを語っておられるのです。
イエスは彼らに、「主の御名によってきたる者に祝福あれ」という時まで、再びイエスを見ることはないと告げられています。このことは個々のユダヤ人が、教会の歴史を通して、個別に行う回心のことを言っておられると取ることができるでしょうか。これらの言葉は確かにユダヤ人が集団的にイエスをメシヤとして受け入れる時がくるということを意味しておられると考えるべきでしょう。
もちろん、この聖句はユダヤ人がそのように言う時がいつであり、どのような状況の下であるかを明らかにはしていません。しかし、いずれの時にか、彼らがそのように言う時が来るという事実について、この聖句は明らかに告げているのです。従って、これはユダヤ人の未来におけるキリストへの回心のことを語っている預言と言い得るのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
祈りください。両親は間もなく90歳と88歳になります。健康であった父は定年退職後12年程、嘱託職員として働き、老後のために私たちの近くに戸建を購入して、孫たちや曾孫に囲まれて過ごしていましたが、数年前に母が痴呆症になり、父の介助とヘルパーさんの支援を受けておりましたが、その父も昨年のインフルエンザA型に罹り、急に心身ともに老いを口にするようになりました。最後は家を処分して有料老人ホームに夫婦で入ろうと決めたと、相談されました。私たちも来るものが来たという気持ちで居りましたところ、友人から在宅ホスピス病院のあることが分かり、早速、申し込みました。キリスト教関係の病院で、現在は、週に一度、女医さんか院長が、土日曜日には看護師さんが交替で来てくださることになりました。教会の礼拝は、私たち夫婦の車で行きますが、最近、神様に見守られていること、そうしてみ国に迎えられることは、本当に信仰の恵みと神様の愛を感謝している、言います。その言葉に折れそうになる心に、感謝させられています。『つのぶえジャーナル』をご覧になる方の中にも、私たちと同じような方が居られるとか思い、住まいも、名前も伏せる約束で投稿としました。希望と備えはあります。諦めないで、よき途を諦めずにお探して下さい。
主人Sの家内です。8月11日、心不全のため55歳で急死しました。あまりにも突然のことで、私も子供たちも現実を受け入れることが出来ません。しかし、悲しんでばかりいては、主人に叱られそうですので、前を向いて歩んで生きます。主人は病弱のため外に出る時は私の運転で病院に行くだけで友だちもいない生活でした。数年前にCBC「キリストへの時間」の放送がご縁で、長村さんを知り、お手紙の交換が始まり、月に数回送られてくるお便りを楽しみにし、返事の葉書を書いては200メートルほど先にある郵便局まで歩く姿を見ていた自分を思い出します。新聞など余り読まない方でしたが、送ってくださる「つのぶえジャーナル」を本当に隙から隙まで読んでいました。
長村さんから「聖書は毎日読んで下さい」と言われているとかで読んでいました。その聖書はお棺の中に入れてやりました。
主人とお付き合い下さり、ありがとうございました。
愛知県 S・Aさん
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
☆ 昨日、娘の検査結果を聞きに大学病院へ行きました。娘の検査結果は、症状とは裏腹にレントゲンも血液検査も大丈夫でした。心配していた膠原病でもリュウマチでもなかったみたいです。娘が、パフェ+ケーキを食べに行こうと言うので歩いて行きました。美味しかったです。お祈り感謝です。良いことで食べるケーキの味は格別でした。
(先月号の手作りの和菓子と今月号のパンの写メールはお嬢さんの作品です)
☆ 今朝も空を見上げると、鰯雲です。天高く・・の秋を感じさせられます。
とてつもなく暑かった分、感謝の思いと共に天を仰ぎます。道のあちこちにススキが風に揺れています。夕方になると軒先では虫たちの合唱音楽祭が始まります。
☆ 「反則ギリギリでも勝ちにくる相手だったので、自分も負けずに強い気持ちで戦った」。柔道・世界選手権の選手の発言や柔道の美しい業の一本で勝ちの言葉から、先日までの全柔道連の切ない報道から解放された思いにさせられました。アメリカの友人とTVで高校野球を見ていた時、試合開始前に選手が整列して挨拶してからプレーボールになるのを見て、日本人って不思議な民族だと言っていましたが、そんな言葉に何だかうれしい気持ちになった自分にまた不思議な民族なんだと思った次第です。
☆ 久し振りに信仰の友を訪ね、懐かしい話もし、教会に行け無くても、毎日聖書を読んでいると言っている友人の顔は輝いていました。ああそれに比べ、私の日々は・・・と反省させられた一日でした。お母さんと二人支えあって生かされていると言う姿でした。
☆ 丹波の実家へ向かう途中に咲いていた彼岸花3枚とみょうがの花や丹波の田舎を送信します。もうすっかり秋でした。台風の被害もなく感謝でした。
『ありがとうございます』
澄みき切った秋空、お米を作っている方には、丹精込めた結晶の稲刈り、秋の果物を栽培されている方々には、たわわに実った果物の収穫の時を迎えました。「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」は、「つのぶえジャーナル」の表題聖句ですが、秋は、その思いを深くさせます。今月号の写真は、送ってくださったものを掲載いたしましたが、一枚一枚には、何かしらの深い思いが込められ、「つのぶえジャーナル」が、「思いのひろば」に変貌している感じが致します。これからも、皆様の自由参加の「つのぶえジャーナル」に成長させて下さい。
『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社』の活動のための寄付者
小幡伸幸様 小幡美智子様 島田祥子様 藤沢徳治様 馬場暁美様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
藤沢徳治様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
2013年8月16日から9月15日までの報告です。
『水琴窟』
9月の終わりになりましたが、紅葉が始まりましたので、冬の支度をしています。今も裏山から釜戸に使う木を主人と二人で準備しています。何時まで続けられるか分かりませんが、元気な間は頑張ろうと思っています。山深いところですから、灯油を買いには行けません。そんな心配のいらない裏山の木を燃料や料理の煮たき用のために、段取りをつけておくのです。秋の夜空は星また星です。今は、便利になり4年ほど前に習ったパソコンで楽しく過ごしています、と大分の阿南さんからメールをいただきました。穏やかに流れる人々の営みがあるのですね。
お便り用にこの電子メール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
わたしたちは、その栄光を見た。それは、父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまことに満ちていた。
=ヨハネ1・14=
心に残る絵画や音楽は、何時までもその時の感動は消えません。そうしてその思いを誰かに知らせたい、伝えずにおれないものがあります。
希望の光を見出せない日々、悩みの中にある心、その繰り返しの人生に、想像も出来ない「神の愛」という出来事を知った時、人は素直に感動し、受け入れることはしません。圧倒される「神の救いの恵み」を示された時、戸惑い、時に疑いすらするのです。小さなぼんやりとした光なら、その明かりを求めて進み出すでしょう。
この「わたしたちは、その栄光を見た。それは、父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまことに満ちていた」。という光は眩い栄光の光だったでしょうか。
聖書は、そのひとり子の栄光を、「彼にはわれわれの見るべき姿もなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」(イザヤ53・2)と証言しています。しかしその姿は、復活の日以降、一変しました。その変貌の輝きは、栄光に満ちた姿でした。「父のひとり子としての栄光であり、その姿は、めぐみとまことに満ちている」というのです。
道に迷い、光を求める者には、その姿は神の栄光の輝きであり、人を滅びと絶望から恵みへと導く救い主の輝きです。闇の中をおぼつかない足取りで歩むことはもうないのです。
私たちの前に、光り輝く主イエス・キリストがおられるのです。
このナザレのイエスを知る人生にはもはや闇は存在しないのです。
<121>
4 この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる。
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活(い)ける神なれ。
心おののく者に言え。「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
¬ ¬=イザヤ35:4=
キリスト者は、心が恐れと憂いにおののくとは、どのようなことであるかを、聖書から学び知っております。人生の困難な道は、たびたび襲いかかることに戦わせ、恐れさせ、多くのことが、私たちの生活に激しい力で迫り入ってきます。しかもそれらは私たちの不意を打ち、予期せぬ時にやって来て、心を不安と恐れにおとしめるのです。
しかし、それよりも真面目なキリスト者の心を最も不安にするものは、魂に罪を負わせる傷であり、霊の、信仰の熱心をしばしば消そうとするような、巧みで巧妙な落とし穴であります。
人は、重い病になる時、冷酷な死の力が襲い掛かって来ます。そのような時、人の弱さのゆえに神の救いの力が与えられているのに、心の恐怖に慄くのです。死の恐怖もあるでしょう。
しかし、本当の恐怖は、神の裁きの恐怖を心に思う時の恐れです。この恐怖からの救いは、人の信心ではありません。ただ神の救いの恵みのみです。神は、全ての弱い、慄く魂に、慄く者に、最も強く関わって下さるのです。神の愛と救いは、最も恐れ慄く者に、真の慰めである永遠のいのちの約束を保障して下さるのです。それは空約束ではありません。気休めや願望ではありません。
神は言われました。心おののく者に言え。「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
この約束に信頼する時、主は約束を果たしてくださいます。その確かさこそが、「主イエス・キリストの十字架の死とよみがえり」にあるのです。
このキリストへの信仰こそ、キリスト者の力なのです。
上河原立雄
今朝早く何時ものように雨戸を開けるとその窓枠の下に一匹の虫が横たわっていました。ぴくりともしないので網戸にぶつかって死んだのだろうと思いながら見ていると、小刻みに足が動いています。ああ~生きている!何とも言えない感動に襲われました。陽が昇りあたたかくなると、横たわっていた虫は、元気よく大空に向かって飛び立ち、近くの公園の方に去っていきました。いのちの素晴らしさを虫が教えてくれました。
東京都 K・Kさん
季節の便りです。
礼拝後、教会の近くのブルーベリー園でブルーベリーの摘み取りをしました。制限時間は90分です。夫と二人でこっちの実は甘い、あっちの実は酸っぱいと夢中になって摘んでいたら、一時間で入れ物にいっぱいになりました。摘み取った分は全部買い取り願いたいとのこと。なんと2・7kgでした。家で直径33cmの皿に入れたら山盛りいっぱいになりました。お裾分けしたとしても大変な量です。庭のブラックベリーと一緒に冷凍して毎日少しずつ自家製のフルーツジュースに入れて使うことにします。わが家のブルーベリーは何故かいつまでも青いままです。
長野県 みどりさん
7月28日
礼拝の恵みに与ることが出来、感謝です。礼拝前の黙想の時にみことばを読んでいた時、涙がポロポロ溢れてきました。肉的には無価値な者でも、何も恐れることはないのだ。神様の選び、導きは確かなのだ、という約束の与えられていることを思い知らされたからです。自分の領域の中で、自分を捨て、神様に従って生きる方向をとればいのだ、と改めて心で感じた時に神様からの恵みに溢れるみことばに感謝できました。
加納さおり
TJ(つのぶええジャーナル)さんに勧められ、投稿することにした者です。高校、大学、就職とさしたる挫折もなく過ごしていた。希望のIT会社で働き、仕事仲間にも恵まれていたと思う。そんな時、一人の女性に出逢った。楽しかったが、動機は分からないがある時から、何か自分の中に変化が起きていた。このままで良いのか?と言う疑問である。それまでマイペース、普通に言えば自己中で、適当に過ごしていた。
焦った。何をどう考えてよいのかさっぱり分からない。悶々と数年過ごしているうちに、今まで周りにいた仲間や友人がライバルのように思い始めて、仕事に集中できない。そんな時に、HP・TJとTJさんを知った。あれから3年半になる。そうして、今になる。そんなことを、日常のことと合わせて、投稿することにしました。気まぐれ人間なので、何時まで続くか分からないが、宜しく。
喜多方章二
(118)
猫 草
今の高校の生物資料集を見ると、そりゃあ楽しい。試験を受けなくて良いからいたって気楽なのである。遺伝子分野なんて発見ラッシュ。自分が高校時代に習ったところから、遥かに進んだ研究内容までカバーされている。ま、30年もたっていたら研究も進んで当然だが。
ところで、論文のデータ捏造だの、他人の論文のコピーだのといった学問の不祥事も時々ニュースをにぎわせている。学問の世界では、どんなチェック機能があるのだろうか。
まずは先行研究をどれだけサーベイできるかが重要となる。その上で自分のやったところを積み重ね、くっつけ、発展させ、次の研究者にバトンを渡すのだ。
学会に「査読」というシステムがあり、投稿された論文が掲載に値するか間違いやごまかしはないかを同じ分野の研究者が匿名複数で審査する。そのとき同じ研究室出身の人は差読者にならないとか、「身内」を省く作業もあるそうだ。もちろん学会側もすべての人間関係を把握できるはずがないので、自己申告もあり。掲載可にせよ否にせよ、複数の観点から非常に詳細なコメントと評価がついて投稿者に返却される。
そうは言っても、計算ミスは指摘できてもデータ自身が捏造だったら確認のしようが無いし、そもそも学会自体が狭い研究者コミュニティでお互い顔見知り、同じ研究プロジェクトに入っていたりするので、相互チェックも限界はあるだろうなあと推測する。
まったく違う分野からのアプローチ、すごく革新的で、斬新なアイディアや「異端」といわれそうな論理、目からウロコの大発見を「理解の範囲外」「評価できない」と排除するのではなくて、「何かとてつもなくすごいもの・・かもしれない??」コーナーに集めておけたら・・大半は単なる思い付きだろうけど、一粒ぐらい砂金が混じっているかも?そういうのは研究者が個人的にブログで発表するのかな。田中耕一氏のノーベル賞受賞のきっかけは、ある学会のポスター発表で別の分野の大御所研究者が「この技術本当?本当だったら凄いことなんだけど!」と目を留めたことだったとか。ここに載るまでの知識の蓄積と淘汰ってすごいんだろうな。それでも玉石混交なのかな、さらに30年後どうなっているんだろう?と最先端の理科資料集を眺めながら思った。
・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
=時々の記=
(89)
7月16日
今、主人が三重大学病院から無事に帰ってきました。今回も検査の結果異常なしといっていただき喜んで帰ってきました。感謝です。
7月26日
この暑さです。クーラーは必須です。朝顔たちから元気を少しだけ貰っています。最近は、讃美歌第二編でよく賛美するようになりました。その中でも、「キリストには変えられません」(讃美歌第二編195番)に目が止まりました。この讃美歌は40年前、私が教会音楽研究会で、東京の明治学院のチャペルで講習を受けに行った際、大きなチャペルでうたったものです。「キリストには変えられません。世の宝もまた富もこのお方が私に代わって死んだゆえです」。これを賛美しているとはらはらと涙が零れ落ちてきました。周りで賛美している方たちの声も震えていました。
若いころに触れた讃美歌。今だに同じ思いで新鮮です。どうしてもこの世の目に見えるものにとらわれてしまうことの多いものですが、しばし讃美歌に触れ、そのことを忘れることのない様にと願っています。信仰の弱さを祈る毎日です。
8月3日
明日は日曜日ですが山添村の全体の墓掃除、午後からは草刈り、火曜日には井戸掃除、金曜日には村の道の草刈と忙しい日が続きます。どうしてもこのような田舎では仏教行事のかかわりが強く、盆が来るのに、草を刈っていないととても非難されます。田舎で暮らしていく厳しさをいつもこの時期になると感じさせられるのです。主人と、地域社会との絆を保つことは信仰の戦いの中で、キリスト者として証しの場として、出来ることと出来ないことをきちんとしつつ、出来ることには一生懸命、社会奉仕としてやりたいね、と話し合っています。背を向け孤立するのは簡単ですが、無責任はいけませんから・・・。
8月5日
真夏の到来を予感させる大気の状態が非常に不安定で、午後からつい先ほどまでおよそ4時間にわたって激しい雷、雨がバケツをひっくり返すほどに降りまして、停電もしてしまいました。家の中は真昼だというのに真っ暗。ご飯もうまく炊けませんでした。
当たり前に思っている生活。電気が切れるだけでこのように不便な生活になってしまいます。蝉たちが、雨が上がってうれしいというように鳴き始めました。今年のセミたちの鳴き声は少し悲しげです。あまりにも暑くて異常な天気で苦しいのかもしれませんね。
悲しい原爆投下のニュースが私たちに平和の尊さを教えてくれます。私たちの力は弱く小さいですが、訴え続ける責任があります。
早々と、わが背丈なるミニトマト。
丈をなす、草の深きに夏アザミ。
森の精現るるかの合歓(ねむ)の花。
一団地包み、万緑広ごれる。 馬場路哉
8月14日
10日、兄の介護を受けて生活していた母が、倒れて骨折、救急車で搬送されました、手術を受けなければならない状態でしたが、様子を見るために入院を申し出たのですが、ここは治療を前提に受け入れる病院で、様子を見るなら、いったん帰宅してくださいとわれ、手術を前提に入院手続きをしましたが、主治医から非常に危険な状態であると言われました。正直、ショックでした。主にある方々のお祈りに支えられております。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第七章 人間との契約について(2)
4 この恵みの契約は、聖書で、しばしば遺言という名で表わされている。それは遺
言者イエス・キリストの死と、それによって譲渡される永遠の遺産とに、それに
属するすべてのものも含めて関連している(1)。
1 ヘブル9:15-17、ヘブル7:22、ルカ22:20、Ⅰコリント11:25
四 契約という語には、二つの意味または種類を含むところの、相互契約と一方的契約とがあり、一方的契約は特に遺言にその特色がよく現れている。聖書はこの遺言の方の意味で用いている。テスタメントは、この意味である。恵みの契約は、神と子の契約と同時に、キリストと選びの民との契約である。特に後者の観点から、遺言という言葉が適合する。
本告白第八章で学ぶのであるが、キリストは実に、この恵みの契約において、一方、神に対して契約の受益者であると同時に、選びの民に対して契約者の立場に立たれる。恵みの契約は、実に神にして人なるキリストにあって、神と人との間に結ばれているものである。かつ、それが恵みの契約であるのは、実に、キリストの死による血をもって贖われたことによって、遺産付与が一方的約束ごとであるというところにその根拠がある。
5 この契約は、律法の時代と福音の時代とで異なって執行された(1)。律法のもとで
は、それは約束、預言、犠牲、割礼、過越の小羊、その他ユダヤの国民に与えられ
た予型や規定によって執行され、それらはすべて来たるべきキリストを予示(2)して
いて、約束のメシヤヘの信仰に選民を教え育てるのに、その時代にとっては聖霊の
働きによって十分で有効であった(3)。このメシヤによって、彼らは完全な罪のゆる
しと永遠の救いを得ていた。それは旧約と呼ばれる(4)。
1 Ⅱコリント3:6-9
2 ヘブル8-10章、ロマ4:11、コロサイ2:11,12、Ⅰコリント5:7
3 Ⅰコリント10:1-4、ヘブル11:13、ヨハネ8:56
4 ガラテヤ3:7-9,14
五 第二の契約はいつ成立したのだろうか。それはアブラハムの選びと召命の時と見てよいであろう。この契約には、二つの明白な時代の区別がある。わたしたちが旧約時代・新約時代と呼ぶのはそれであるが、ここでは律法の時代・福音の時代と呼ばれている。ここで、律法時代と呼ばれているものを旧約すなわち律法、新約時代すなわち、福音と受け取ってはならない。旧約時代にも福音があり、新約時代にも律法が存在するが、旧約時代を律法の時代と呼ぶのは正しい。ここでは、もっぱら福音の時代との相違点を述べている。
それは主として、契約の執行に関する相違である。執行とは、約束の恵みを与える方法、すなわち、恩恵の手段と呼ばれているものであるが、また同時に、それに与る人間の相違も問題になる。けれども、恵みそのものは別ものではなく、まったく同一のもの、三項で言われたところの(いのちと救い及びそのための唯一の条件である信仰を与えること、また、信仰を生む唯一の有効な力である聖霊を与えること)ものにほかならない。また、旧約時代といえども、すでにキリストによる救いが与えられていて、従って、キリストの教会が地上にも天上にも存在していた。その意味でアブラハムこそ最初のクリスチャンであると言うことがこの告白であり、改革派教会の主張である。
6 本体であるキリスト(1)が現わされた時代である福音のもとでは、この契約が実施される規定は、み言葉の説教と、洗礼並びに主の晩餐の礼典の執行である(2)。それらは数が少なくなり、より簡単に見栄え少なく執行されてはいるが、それでもなお、この契約はそれらの中に、ユダヤ人にも異邦人にもすべての国民に(3)、一層十分に明確に、そして霊的効力をもって提示されている(4)。これが新約と呼ばれる(5)。だから本質上異なった二つの恵みの契約があるのではなくて、違った時代のもとに、同一のものがあるのである(6)。
1 コロサイ2:17
2 マタイ28:19,20、Ⅰコリント11:23-25
3 マタイ28:19、エペソ2:15-19
4 ヘブル12:22-27(*)、エレミヤ31:33,34
*ヘブル12:22-28が正しい
5 ルカ22:20
6 ガラテヤ3:14,16、行伝15:11、ロマ3:21-23,30、
詩32:1、ロマ4:3,6,16,17,23,24(*)、ヘブル13:8
*詩32:1をロマ4:3,6,16,17,23,24と比較
六 聖書には三種の宗教が記されている。偶像教(異教)とユダヤ教とまことの宗教である。異教は悪魔的宗教であり、ユダヤ教は次の二つの点で誤っている。
第一は、恵みの契約の下にあるのに、依然として、業の契約の条件で救いを得ようとしているという点と、第二は、福音の時代であるのに、依然として、律法時代の執行方式に固執している点である。へブル人への手紙やパウロ書簡で言われている旧約時代と新約時代の比較は、決して異教とキリスト教、またキリスト教とユダヤ教の比較ではない。旧約時代が神の啓示の宗教であることを肯定しつつ、新約時代が執行方式に関して勝ることを主張し、律法時代が今や終わったことを教えているのである。
(補注)
恵みの契約の始期については(1)創世記3章15節のいわゆる原福音 (2)律法時代の始期については、モーセによるシナイ契約(出エジプト記)と見ることもできるであろう。けれども、一般には、原福音は予言であって、歴史上アブラハム契約(創世記12章以下)が実際上その最初の発動であり、契約を聖定論の見地からみれば、永遠の契約、摂理論の問題とすればアブラハムから始まり、モーセの律法に対して、これを約束と呼ぶことは使徒行伝7章やガラテヤ人への手紙での呼び方である。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
アテネのダマリス
=使徒行伝17:32~34)=
ダマリスという婦人の名は、聖書の中にただ一回だけここに現れています。使徒行伝17章34節に、「しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かはあった。その中には、アレオバゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、またその他の人々もいた」。
この聖書の言葉の中の「彼」というのは、皆様がご存知の大使徒パウロのことです。所はギリシャの都アテネのアレオパゴスにある評議所です。パウロは多くのアテネ人に連れられてアレオパゴスの小山にある評議所のまん中に立たされて、彼を取り巻くアテネの人たちに向かって熱心に真のいける神について説教を致しました。今、わたしがここで皆様方とともに考えようと致しますことは、パウロのお話が終わってからの様子です。
この使徒パウロの大説教を聞いていた人々の中にはギリシャに住んでいたユダヤ人や、信心深い人もいたことでしょう。当時のアテネは、世界の文化の中心で、エピクロス派とか、ストア派とかいう哲学が流行して、アテネの人たちは、毎日、会堂や広場で議論していたのです。パウロもアテネに着きますと直ぐに、これらの人たちと論じ合ったことが、17章の記事を見てわかります。
21節にありますように、「アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていた」と言うことでも分かります。
ダマリスがどういう動機で、アレオパゴスの山へ、パウロの話を聞きに行ったのか、はっきりいたしませんが、肝心な点は、彼女がパウロの説教に感動して、信仰生活に入ったと言う事実です。
ここで非常に不思議に思うことは、昔から真の神を信じて救い主の来られるのを待望し、期待していたユダヤ人が、パウロのこの時の伝道によって救われなかったことです。また神や世界についていろいろな哲学上の問題を想起する哲学者たちも、パウロと議論はしましたが、遂に彼らは満足するに至らなかったようです。
同じく数限りなくある多くの偶像に囲まれ、これを拝んでいた一般のギリシャ人たちも、初めはパウロの新しい教えに耳を傾けてはいましたが、死人の甦りという新事実を聞かされた時、彼らは我慢が出来ず、ある者は嘲笑し、ある者はいずれまたついでの時にでも、このことについて聞きましょう、と言って去ってしまいました。
けれどもこの時、救いの恵みを得た人たちもいるのです。その人たちは、心へりくだって、真面目にパウロのお話を聞いた僅かな人たちだけであったのです。この事実に注意して下さい。現代の多くの人たちも、パウロの話をアレオパゴス山上で聞いたギリシャ人と同じような態度をとっているのではないでしょうか。
偶像崇拝はやめよ! 神を人間の技巧や空想で、金や銀や石などに刻んだものと同じようにみなすべきではない、と言うパウロの大胆率直な言葉を聞いても、多くの現代の日本人は、相も変わらず偶像崇拝を続けております。
真の神に対して無知であって、別に神様の存在を問題としないのです。悔い改めて神に立ち返りなさい。裁きの日のための準備はよろしいですか。審き主なる蘇りのキリストを信じなさいと何度言われても、キリストの十字架による救いの唯一の信仰の道には入ろうとはせず、またの時に話しましょうと、軽く断るのが普通ではないでしょうか。
パウロを取りまくアレオパゴスの多くの不信仰な人々の群れの中から、少数ながらもパウロに従って、キリストを信じた人々があったことは、言うまでもなく神様のお恵みでした。
ダマリスの誇りはここにあるのです。多くの人たちが、自分のことを何と思おうとも、自分は真の神に従い、救われたキリスト者としての道を、これからもただひたすら歩むのだと決心したのです。この決心、決定は、なかなかたやすいことではありません。
昔から伝わった間違った宗教と習慣を捨てて、人が何と言おうとも真の神に従っていくことは茨の道でもあります。ことに偶像崇拝の多い日本においては、女性として、このようなキリスト者の道を選ぶことは、実に勇気と決断が要ることです。にも関わらず、ダマリスがパウロの説教を聞いて直ぐに、決心したのは教えられる点があります。彼女がこのまたとない機会を逃してはならないと自覚した時、他の少数のものと一緒にパウロの教えに従った決断力を、ここに特に覚えていただきたいと思います。
パウロは彼の長い伝道旅行中ただ一度だけ、アレオパゴスの評議所で説教を許されたのです。その日、その時、悔い改めて神に立ち返った人々は、どんなに幸いであったことでしょう。
愛する読者の皆様、あなたは、どんな信仰の道を歩んでおられるでしょうか。金や銀で作ったいのちのない偶像を拝んだり、または人間の限りある知識や、能力では解決できない哲学的な問題に悩まされて、自ら自由を失ったりしておられるのではないでしょうか。あるいはこの世的ないろいろの珍しいことや、世俗的な興味に心を奪われて、真の神に帰る決心をにぶらせているのではありませんか。どうか、ダマリスにならって真の神を求め、信じて、神の示し給う道に進まれるよう願ってやみません。
<アレオパゴス>
アレス神の丘と言う意味で、アテネのアクロポリスの西にある、軍神アレスの名を持つ低い丘の一つです。この丘に裁判をするためにあったのが、アテネの評議所です。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」