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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (14)
               
                    岡田  稔著
                  (元神戸改革派伸学校長)

第七章 人間との契約について(1)

1 神と被造物とのへだたりはまことに大きいので、理性的被造物が創造主としての神に対して服従しなければならぬ義務があるとはいえ、彼らが自分の祝福や報いとして、神を喜ぶということは、神が契約という方法で表わすことをよしとされた神の側のある自発的なへりくだりによる以外には、決してできなかった(1)。

  1 イザヤ40:13-17、ヨブ9:32,33、サムエル上2:25、詩113:5,6、
    詩100:2,3、ヨブ22:2,3、ヨブ35:7,8、ルカ17:10、行伝17:24,25

一 道徳には二つの原則的な主張がある。一つは、善は絶対的になすべきもの、ということであり、二つは、善をなす者には善き報酬がある、ということである。前者のみを強調
すると厳粛主義になり、後者のみになると功利主義となる。キリスト教は両面を共に肯定している。
 前者は、神は創造主であるから、絶対主権者である、という信仰を基礎としており、後者は、ここで告白されている神の契約ということを基礎としている。
 イエスの倫理思想は、もっとも高遠な純粋なものであるにもかかわらず、一般に「山上の垂訓」と言われている教えの内にあって、報酬の観念が根本的になっており、ローマ人への手紙の倫理も、この点まったく同一のものと言える。
 聖書で否定されているのは、功績の観念であって、報酬の観念ではない。恩恵の思想と矛盾するのは功績思想である。すなわち、人間が自力で善をなすことができる。神はその善に対して、救いとか永遠にいのちとかを代償として与える義務を負うという思想である。
 しかし、報酬ということは否定されてはいない。神は公正な審判者である限り、善には善の悪には悪の公正な報酬を与えるのである。ところで、このような観念は造り主なる神という信仰とは調和しにくい。ここに契約という別の関係が存在しなければならない。契約はその事柄に関する限り、当事者間に一定の対等関係が存在する意味であり、この限りで神の側の謙遜ということが前提となる。
 キリスト教倫理は、第一に人が神のかたちに造られたという事実、第二に神が人間の線まで降下されて契約関係をお立てになったという事実の上に成立していると言うべきである。

4d1e0be4.jpeg2 人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって(1)、それによって、本人の完全な服従を条件として(2)、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された(3)。

  1 ガラテヤ3:12
  2 創世2:17、ガラテヤ3:10
  3 ロマ10:5、ロマ5:12-20

二 この契約は、まずアダムに対して与えられたもので、わたしたちはそれを、「業の契約」と呼んでいる。神がこの契約にそういう名称をつけられたというわけではないから、場合によっては、これを「いのちの契約」とも呼ぶ。
 この契約の成立事項を記すと、
1 アダムとの契約であり、アダムをかしらとする全人類との契約である。
2 永遠のいのちを与える約束である。
3 自身の完全服従を条件とする。
4 その条件を果たさない場合は死をもって罰する。
5 神の律法への完全服従は、この場合「善悪を知る木の実を食べてはならない」という命令として試された。また、その期間は神のよしとされた一定の期間であったと理解されている。
 わたしたちは、このような第一の契約の存在を創世記2、3章からのみ断定するのではな
い。むしろ聖書全体からの推論としてであって、それは第二の契約の成立から逆に断定さ
れるものである。また、前項で言ったように、道徳における報酬性という点から断定され
る。
 すなわち、約束は契約なくしてはありえないのである。約束のあるところには、かなら
ず契約がある。永遠のいのちというものは、単に人間が空想し、自力で獲得しようと努力
して手に入れる、というようなものではなく、その始源において、人間への神の約束とし
て与えられた観念であると断定せざるをえない。

3 人間は自分の堕落によって、自らを、この契約によっては命を得られないものにしてしまったので、主は、普通に恵みの契約と呼ばれる第二の契約を結ぶことをよしとされた(1)。それによって、神は罪人に、命と救いを、イエス・キリストによって、価なしに提供し、彼らからは、救われるためにキリストへの信仰を要求し(2)、そして命に定められたすべての人々が信じようとし、また信じることができるようにするために、聖霊を与える約束をされた(3)。

  1 ガラテヤ3:21、ロマ8:3、ロマ3:20,21、創世3:15、イザヤ42:6
  2 マルコ16:15,16、ヨハネ3:16、ロマ10:6,9、ガラテヤ3:11
  3 エゼキエル36:26,27、ヨハネ6:44,45

三 神は人間の堕落によって、第一の契約の罰則を発効した。しかし、神の無限のあわれ
みといつくしみとは、人類のすべてがこの堕落のうちに滅亡し去ることを求められなかっ
た。第一の契約の約束ごとであるいのちを与える第二の道を開かれた。この告白文をよく
読むと、いのちの約束としてではなく、むしろ、約束されたいのちの附与という新しい方
法として述べられていることが特色である。
 第二契約を「恵みの契約」と呼ぶのも、かならずしも聖書にそのように名づけられてい
るからではなく、わたしたちの習慣である。なぜそう呼ぶかと言えば、第一に、すでに第
一の契約で失格したわたしたちへの再度の神の側の謙遜に基づくものであり、しかも、私
たちの側の行為を要求するのではなく、まったく神の自由な提供として与えてくださるの
であり、ただ信仰を条件としてくださるのであり、その信仰すらも神の賜物なのである。
 すなわち、信仰するために己れの聖霊を与えるという約束なのである。いのちを与える
約束と言われる代わりに、いのちに定められた者に、聖霊を与える約束だと告白されて
いることは、大いに注意を要するところである(ルカ11:13を参照)。
 
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛

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『旧・新約婦人物語』(47)

アタリヤとエホシバ
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=列王紀11章・歴代志下21章=

 ここでは、二人の女性について学びましょう。その一人はユダの王アハジヤの母アタリヤであり、もう一人は、アハジヤの妹エホシバです。この二人は性格が正反対でアタリヤは毒婦型、エホシバは信仰的な賢婦人でした。
 先にイゼベルについて学びましたから、読者は覚えておられると思いますが、このお話のアタリヤは、そのイゼベルの娘です。
 ユダの王ヨシャパテが王子ヨラムの嫁に、どうしてこのような女性を妻として迎えたかは、はっきりわかりませんが、多分ユダ、イスラエル両国の政略結婚ではなかったでしょうか。このアタリヤは、母イゼベルの悪い性格をそのまま受け継いだといってもよいほどです。彼女は自己中心主義者で大きな罪を犯しました。歴代志下21章6節を見ますと「彼(ヨラム)はアハブの家がしたように、イスラエルの王たちの道(偶像崇拝)に歩んだ。アナブの娘を妻としたからである」とあります。
 ヨラムと、イスラエルの王の娘アタリヤとの結婚は、大変な失敗でした。この聖書の言葉は、ヨラムの政治の失敗が、アタリヤとの結婚に基づくことを明らかにし、未信者または異教徒との結婚が信者の家庭に、どんなに悪影響を及ぼすかを示しております。
13-8-tao.jpg 当時、イスラエルはイゼベルによって持ち込まれたバアル崇拝により、国の風紀が乱れ、そのうえ外患があって民は塗炭の苦しみをなめていました。この恐ろしい罪が、アタリヤによって、ユダの国にも取り入れられたのです。ユダの国のために惜しんでもあまりあることでした。イスラエルの王アハブが、イゼベルの願いによって、国中にバアルの宮を建てたようにユダ王ヨラムも、アタリヤの要求に従って、国中にバアルの宮を建てたばかりか、「彼はまたユダの山地に高き所を造って、エルサレムの民に姦淫を行わせ、ユダを惑わした」(歴代志下21・11)と聖書にあるとおり、国民に偶像崇拝を強要したのです。しかも、それだけではなくヨラムが自分の兄弟をも殺すに至ったのは、アタリヤの悪だくみと言われます。
 預言者エリヤは、この大きな罪を黙って見過ごすのに忍びず、王に手紙を送って、彼の偶像崇拝と殺人の罪を責め、「主は大いなる災いをもってあなたの民と子供と妻たちと、すべての所有物を撃たれる」(歴代志下21:14)と、預言いたしました。
 その預言は、直ちに現れて、ユダはぺリシテ人の襲撃を受け、ヨラム王家の財産は奪われ、妻子は捕らわれてしまい、王は悪病に倒れてしまいました。
 ユダはその子アハジヤが王となりましたが、この悪い性質を父より受け、王に感化され、偶像に走っております。この大罪は決して許されるはずがなく、彼は在位僅か一年でイスラエル王エヒウに滅ぼされてしまいました。この戦乱でアタリヤの悪女振りはいよいよ露骨となり、彼女はアハジヤ王が滅ぼされたと知らされると、この子たち(自分の孫)をことごとく殺して、自分が王位につこうと決心したのです。
 世の中に自己中心主義ほど、罪に陥りやすく、恐ろしいものはありません。アタリヤは自分の栄華のためには、孫たちを殺してもはばからないのです。この危機に出てくるのが、アハジヤ王の妹である、賢婦人エホシバです。
 彼女は、アタリヤの悪だくみを見破って、王子のうち未だ幼いヨアシを、殺されようとしている王子の中から救い出して、乳母とともに一時、王宮内の寝室に隠し、その難を逃れさせました。その後、彼女は幼いヨアシを自分の夫である祭司エホヤダの家に匿いました。聖書には、「ヨアシは乳母と共に6年間、主の宮に隠れていた」(列王紀11:3)とあります。死の危険にある王子を敵の手から救い出すエホシバの行動は、機知と勇気を必要とする仕事で、まことの神を信じる者だけが出来ることです。
 ヨアシがエホヤダのもとに隠れて7年目、祭司エホヤダは、近衛の将軍たちを集めて、アタリヤの王位を奪った不法と、残忍な彼女の非行を厳しく責め、王子ヨアシを示して、彼に王位回復の誓いをさせ、いろいろの計画を授けました。この計画は間もなく実現して、安息日に各将兵は決起いたしました。アタリヤは難を逃れようとしましたが、近衛の将兵のために、路ばたで討たれてしまいました(11:13~16)。ここにおいて、エホヤダは若い王子ヨアシに油を注ぎ、王であることを宣言し、民は王の万歳を叫んだとあります(11:12)。
 
 特に注目すべきことは、この時、エホヤダが将兵に誓わせて、バアルの像を打ち砕かせたことです。このお話は多くの教訓を与えます。
1 神の変わりなき摂理について。
 エホシバに信仰と機知と勇気がなければ、奸婦アタリヤの計画は成功し、ダビデの血統は中断して、メシヤの来たりたもうことはどうなったでしょうか。神はエホシバに信仰と能力を与えて、これを用い、御自分の変わらない摂理を成就なさったことを覚えましょう。
2 神は、神を愛し、神に仕える人々を用いて、御自分の御計画を成したまいます。
 エホヤダとエホシバの宮と祭壇を打ち砕かせたのは、神の御計画でした。私たちも、このエホシバと同じく、神の御用に用いられるよう、身も心も、神に捧げたいものです。
3 神の義は、時の力よりも大である。
 アタリヤは、その時、王位にあって、大きな政治力をもっていましたが、エホヤダ夫婦の信仰に基づく正しい態度と、神の義には敵すべくもなく、はかなく滅亡してしまいました。この世の現状を見ますと、無神論の力が世をおおっているような観があり、失望せざるを得ませんが、最後の勝利は神の義にあることをこの話は物語っております。神を信じて進みましょう。

 ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
 ビルマ
  戦犯者の獄中記  (30)  遠山良作 著

昭和21年
12月25日

残された容疑者は約400余名と共にクリスマスを迎えた。
キリスト教国である英国にとっては1年中で最も盛大にお祝いをする祝日である。私たちも何か「プレゼント」があるのではないかと期待をしていたが、平日と少しも変わらない。やはりこの刑務所にはキリストも、サンタクロースも来てくれない淋しい一日であった。
クリスマス 英兵の声は 高くして 獄房に響き 今日は暮れゆく

昭和22年

1月1日

西独房で敗戦後2回目のお正月を迎えた。私たち6名は宮崎閣下の音頭で天皇陛下万歳を唱え、東方に向かって宮城遥拝をする。そして戦死した将兵と絞首台で逝った戦友の英霊に対して黙祷を捧げて新しい年を迎えた。
祖国出て 9年経ちたり獄舎にて 父母を恋ひつつ
来し年も 心新たに いざゆかん 己が力を ふりしぼりつつ
我希望 唯一なり いのちもて 祖国に帰らん ことのみ思う

夜になると、宮崎閣下は今日も大きな声を張り上げて、自作の詩「恨みは深し」を歌われた。

ed280c9e.jpeg 恨みは深し
1 恨みは深しアノソ連野郎
  ソレモソウジャナイカ
  不信不法
  不侵条約踏みに破り
  火事場泥棒を
  アア忘れられようアントナント
2 恨み重なる洋鬼野郎
 ソレモソウジャナイカ
  原子爆弾
  無辜の同胞打ち☆る
  暴虐無道を
  アノ忘れよかナントナント
3 恨み積る英国野郎
 ソレモソウジャナイカ
 苛飲朱求
 蛾に泣くのを
 アノ見てられようかナントナント
4 恨みは深し皇国削減
  ソレモソウジャナイカ開国以来
  幾多先輩血を流し
  アノ忘られようかナントナント
5 恨みを晴らせ御国の敗戦
  ソレモソウジャナイカ有事以来
  まだ受けない大恥辱
  仇討たづに
  アノ済ませれようかナントナント
 
 老将軍の 恨みは深しの 歌声は 獄舎ゆさびり 闇に消えゆく

今宵は初夢を見る晩である。昔より一富士、二鷹、三茄子といって、この夢を見るとこの一年は良い年であると昔からの言い伝えがあるから、願いごとを書いて枕の下に敷いて寝ると良いと、林大尉の言葉に従って、せめて夢くらい良い夢を見たいものだと眠りについた。
見た夢は、銃殺されることになった私を縛って広い野原に連れて来た。英兵は銃を向けている。どうやら刑場のようである。いよいよ銃殺されると思い、先に処刑された戦友のように、天皇陛下万歳を叫んだが未だ発砲しないのでひょいと後ろを振り返ると、そこには父と母が立っている姿を見たので、今度はお父さん、お母さん万歳と叫んだが、まだ発砲しない。今度は大日本万歳と叫んだ時、はっと夢から醒めた。窓の外は既に朝日がさしている。全身盗汗をかき寝苦しい一夜であった。

この文章の転載はご子息の許可を得ております。
13-8-1-kawabata.jpgあなたに聖書を

「キリスト教百話」・・・8

問8 イエス・キリストによって神を知るってどういうことですか。そういうことによってしか神を知ることは出来ませんか。また本当にそうだと言い切れる根拠はありますか。
答  「分け上る麓の道は異なれど同じ高嶺の月を見るらん」と歌った人がおりまして、世にはいろんな宗教があっても、最終的には一つのところに至るというこの考えには、多くの人が賛意を表しています。そうであったら良いがなあとは誰もが思うところでしょう。
 が、それは願望ではあっても、未だそれを確かめた人はいません。第一、麓の道の違いがあっても必ず高嶺に到着するものやら分かりようがありません。ひょっとすると硫黄谷へ落ち込むことになるかも知れないのです。
 ここで、問題は信仰に関わることであることが、予想されるでしょう。イエス・キリストによって神を知るということは、イエスが「わたしを見たものは父を見たのである」と言われたことによっています。人間の場合でも、子供を見ればその親を知ることが出来ます。子供のことを見ないで、また知らないで、その子の親を知る手がかりはありません。場合によっては、親の代理として子が遣わされることがあります。そういう場合は、その子によってその親のことがよく分かります。
 勿論、顔と顔とを付き合わせて分かるという分かり方にまでは至りませんが、子供が、見えていない顔を知る唯一の手がかりであることは確かです。イエスは神のことを「父よ」
と呼ばれました。「お父さん」「父上」ということです。その父からこの世に遣わされたものとして、父の代理としての役目を果たされました。
 その代理としての役割がどんなものであったか、また、どのように果たされたかは 、イエスの生涯、即ち、語った言葉と、なされた行為によって、示されています。イエスが地上に生きておられた時は、直接イエスに出会った人にはそれが分かった筈です。今のわたしたちはそれと同じ仕方では出来ませんが、聖書の中のイエス伝とも言うべき福音書によって、イエスが伝え、また与えようとされたものにふれることが出来ます。
 ただし、そこにも問題があります。それはこれが信仰に関わることであると先述したことであるからです。それはどういうことかと言いますと「わたしを見たものは父を見たのである」とイエスが言われたものの、その通りイエスに接してイエスの父を神として信じた人と、イエスを見たがイエスが父と呼ばれた神を知ることなく終わった人がいたからです。
 「見てみた人」と「見ても見えなかった人」とがいたのです。この違いはどう説明したら良いでしょうか。各人の宗教的資質の違いみたいなものによるのか、見方がたりなかったことによるのか。ただここで注意すべきは、弟子を含めて、生前のイエスに触れた人のすべては、イエスにおいて神を知った人はいなかったということです。

篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
  
    
178ee568.jpeg
 8月放送予定

   4日 梶浦 和城 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
  11日 梶浦 和城 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
  18日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
  25日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)

        (放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送



 「ローマ人への手紙」研究 (104)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (16)

 「一部のイスラエル人が頑なになったのは」。この言葉は二つの点で真実です。イスラエル人の頑なさは全体的ではなく一部なのです。というのは、幾世紀にもわたる教会の全歴史を通じて、いくらかのユダヤ人たちもキリストへの回心は間断なくあり、従って、頑なさが全体的であることはないからです。何故ならば、それが永遠に続くことはなく、散在している個々のユダヤ人のみでなく、ユダヤ人社会がキリストに回心する時が来るからです。
 パウロは頑なさの度合いについて述べているのではありません。頑なであった人々は徹底的に頑なであったのです。しかし、彼が言及しているのは、すべてのユダヤ人が真理に頑なであった時は一度もなかったという事実とユダヤ人社会の頑なさが終わるという時があるという事実なのです。
 「異邦人が全部救われる至るまでのことである」。この言葉の前述の二つの形態の解釈によって、各々異なった解釈がされています。異邦人たちが救われている間は、ユダヤ人たちの一部は頑なままで、ただごく少数のユダヤ人たちが回心するに過ぎないという意味であり、異邦人が全部救われた後のユダヤ人の回心については何も意味していないと考える人たちもいます。
 この考え方によると、この言葉の意味は、パウロの時代に存在した状態は、不変のまま世の終わりまで継続し、その後(異邦人が全部救われた後)にキリストの再臨と審判の日が続くということに過ぎません。この解釈はパウロがこの言葉を重大な奥義として述べている点を考慮していません。

40282ce2.jpeg この言葉のもう一つの解釈は、パウロは異邦人が全部救われるに至った後にユダヤ人の頑なさは取り去られて、彼らがキリストに回心することを意味しているのだとします。「・・・まで」(until)と訳されているギリシャ語は、その後に不定過去接続法の動詞が来ており、従ってuntilという訳語は正確です。ギリシャ語新約聖書の用法からすれば、ここの言葉を「異邦人たちの回心が継続している間に」と解釈するという考えは適当ではありません。
 このことは聖書の他の箇所にあるこのギリシャ語の用例を参照すれば判ることです。例えば、黙示録15・8「・・・七人の御使の七つの災害が終わってしまうまでは、だれも聖所にはいることはできなかった」(七つの災害が終わってしまった後、再び聖所には入ることが可能となった、の意味)。黙示録17・17「神は御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである」。(神の御言が成就された後は、獣はもはや支配権を持つことはない、の意味)。

 この第二の解釈が正しいものであると思われます。イスラエルの頑なさは異邦人のすべてが救われてしまう時まで継続し、その後、彼らの頑なさは取り去られ、彼らはキリストに回心するのです。ここで「異邦人が全部救われるに至る時まで」という言葉の正確な意味は何かという問題が残ります。
 最も考えられ易いのは、異邦人の中に神の選びの民全部と言う意味です。ある学者たちは、「異邦人が全部」とは、世界のすべての民族からキリストに回心する異邦人の意味であると主張します。いずれにせよ、異邦人の救いに関する神の主要目的が達成されてしまう時、ユダヤ人の頑なさは取り去られ、彼らの回心がそれに続くのです。

 私たちが銘記しておかなければならないことは、ここで私たちは時が満ちるまでは決して完全には明らかにならない預言の言葉を取り扱っているということです。その成就の時期と仕方について、種々の疑問が生じるけれども、これらの疑問には答えることはできないし、また答える必要もないのです。ただ、今の段階でわかるのは、ユダヤ人たちの極めて急激、また迅速なキリストへの回心が起こるということだけです。異邦人の全部が救われる時期も正確には言うことはできません。それらは奥義であり、私たちには定かには啓示されていないのです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
39ca75eb.jpeg  祈 り

 子供たちもそれぞれ自分の家庭を持ち、子育てに苦闘しておりますが、夫婦の仲がよく親としてそれが一番うれしいことです。主人も元気に勤めを終えて、時間をもてあますと思いきや、狭いべランダにお気に入りの鉢を買い込んで楽しんでおります。健康に恵まれ、車好きの主人と遠くに、近くにとミニ老人旅行を楽しんでおります。旅先にある教会の場所を調べて、主の日にはその地で礼拝を守ってきましたが、その恵みとして、親しくなった方とのメール交換が出来て、主にあることの幸いを感謝しております。お土産品は一つと決めておりましたが、その土地土地の味を伝えて下さる物があり、店先の様子を写メールで楽しんでおります。お互い、健康が与えられていること、信仰が与えられていることを感謝しております。
                              東京都  I・Tさん

 ・・・脳梗塞で入院している母も、日を追って意識も戻り娘として、本当に神様に感謝しております。最近は、笑顔が多く成りました。それには主治医や看護師さんの手厚い治療とお世話があってのことです。孫くらいの看護師さんの優しい声掛けの姿を拝見し、胸が熱くなりました。仕事とはいえばそれまででしょうが、それ以上のお仕事への誇りと使命感を感じます。それに比べうちの娘は、と思うのですが、親の前では未熟でも外では頑張っていると思って見ると、どこか大人に見えてくるのです。親バカですね。
                              岩手県 P・Oさん
eaa6a2fe.jpeg 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」

☆  私の居ります最北端の町は、7月といっても寒い日があります。暖房の設備をしまうことはありません。旅行で来られる方は、セーターやカーディガンなどで重ね着した方がいいです。長袖のシャツで十分な日もあります。旅の思い出が、寒かったでは地元の者は残念ですから、ちょっとインターネットで調べておいで下さい。お待ちしています!

☆  参議院議員挙期間中なのに、何時の頃からかは知らないが何かの予想屋の様に新聞やテレビで当選者数まで出ていては、選挙に行く意欲も薄れてしまう。世論調査もどうして、どの調査も似たような数字が出ているのか不思議である。何もかも、予想・予告・世論調査病に侵されているのではないだろうか。
パキスタンの少女まマララ・ユスフサイさんの国連総会での訴えに深い感動と衝撃を受けた。
「・・・1本のペンと一冊の本が世界を変える。教育こそが唯一の解決策です。・・・」と。

☆  家の中は、蒸し風呂です。暑さでクラクラめまいがします!!クーラーが欲しいし冷蔵庫も・・・。もう冷やす機能がなくなり物がすぐ腐ります。非常に困ってます。売り出しに37800円の冷蔵庫がありましが買えません、クーラーも最低で560000円します!!買えません。運動性の発作が頻発に出るのでクーラーで空気を冷やさなければいけなくて辛いです。お腹から水が出ているので尿とりパッドをあてなければいないのに、残り半分しかありません、傷を止めるテープもありません。何にもありません、死ぬしかありません。こんな人間もいるのです。   
  『ありがとうございます』

日本の進路が大きく変わるといわれた、参議院選挙も終わりました。国民の選択の結果ですが、その責任を後世に負うための責任を、いろいろの形で世界に証明していかなければなりません。平和であるゆえの国の進路への無関心はもう許されません。
そんな思いを致しております。

13-8-kawabata-2.jpg『つのぶえジャーナル』・『つのぶえ社」の活動のための寄付者
中谷ルツ子様 馬場伸直様 藤本千春様  匿名1名様 

 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社

2013年6月16日から7月15日‘まで

 『水琴窟』
『つのぶえジャーナル』をご覧の皆さま、お元気にお過ごしでしょうか。病床におられるAさん、お一人で生活されているBさん体調は如何ですか、部屋にいるC君、遠慮しないでメールして下さい。何時も祈りに覚えております。
雨の日、自分の背丈と同じ傘をさし、ぶかぶかの雨具を着た園児の姿がとても頼もしく感じながら、仕事場に向かいました。好奇心と感嘆のこころに嫉妬さえ覚える時があります。経験や知識が幼い心を失う代価なら、大きな損失のように思えてしまいます。

今月号も奈良のT・Mさんから、高松に居られる友人と神戸の花の公園に行った時の写メールを送ってくださいました。また、実家で初めて「ごぼうの花」を見て写メールしてくらました。お友達とお互いの思いを語り合えた恵まれ時を過ごされたとのこと。それは好かったですね。

大阪の川畑さんから送られた写真メールです。今日、耳鼻科の帰り「ひまわり」が咲いていましたと。季節は、夏なのですね。夜の花を写したくなりましたともありました。

長野のY・Yさんから、信濃町はブルーベリーの収穫の時期になりました。我が家のブルーベリーはまだ青いです。庭の半夏生(はんげしょう)です。夏至が過ぎた頃白くなります。白い部分が涼しげです。毎年行く佐渡のゆりです。球根を庭に植えたら、年々、咲く数が増えています。礼拝後、斑尾山麓のタングラムでラベンダー摘みをしました。また、10万本のラベンダーが一斉に開花しています。百合園には100万輪の百合が咲いているようですが、リフトで行くようなので行きませんでした。その時期ごとの自然の恵みを満喫できること、感謝ですとのメールもありました。

この電子メール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。


 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
   つのぶえ社代表   長村秀勝



   今月のことば
 
 17cb049f.jpeg肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である。
                  =ローマ8:6=

 このみ言葉は、誰にとっても大切であります。神様は私たちに「肉の思い」であるか「霊の思い」であるかを問うています。それは、私たちが、いのちと死を、自分の手の中にもっているということではありません。また、私たちが「肉の思いを懐く」か「霊の思いを懐く」かを、選ぶことが出来るでしょうか。死といのちについての責任をも持ち得るでしょうか。

 パウロは、もしそうでなければ、個人的決断の可能性の前に私たちを立たせはしないでしょう。しかし、一体いつ、私たちは、霊の思いを懐き、いつ肉の思いを懐くのでしょうか。大切なことは、むしろ、霊に基づいて自分の今の肉の思いに気づき、そのことについて悔い改め、神の赦しを必要とする自分に気づいた時、実は霊の思いを懐いているのです。

 その思いは、自分で自分自身を助けるのか、それとも他に私の助けを必要としているか、に気づいているかという点でもあります。私自身が強いか、あるいは神の力と援助を必要としているか、神を救いの主を信じ、認めることが出来るかです。
 
 パウロは「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)と語ります。たとえ「敬虔な肉」であろうと、精神力豊かな肉であろうとも、すべての肉が歩む道の歩みは、滅びの死の道を歩むのです。
 キリスト以外に、いのちに至る道はないのです。
            
 「狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そこにはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない」(マタイ7:13~14)。

イエス・キリストによって

生かされているのに
生かされていることを知らない人よ
御子イエス・キリストによって
御神に生かされていることを知れよ

愛されているのに
愛されていることを知らない人よ
御子イエス・キリストによって
御神に愛されていることを知れよ

赦されているのに
赦されていることを知らない人よ
御子イエス・キリストによって
御神に赦されていることを知れよ   水野源三

 13-7-ruriko.jpg  小閑記

 
 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
                =ピリピ:4=

 主にあって喜ぶことは、必ずしも幸福に感じることと同じではありません。聖書は、私たちが常に喜ぶように勧めて、喜びは私たちを強めると言っているのは確かですが、また悲しみや、常に恐れを感じている人も幸いであると言っております。そこで、主にあって喜ぶとは、ただ幸福に感じるということとは、何か異なることでなければなりません。

 私たちが悲しみや、不幸や、悩みに耐えている事実でさえも、私たちが主にある喜びを失っていることの証拠にはなりません。かえって、しばしば最も大きな悲しみに耐えている時こそ、主にある喜びは最も深く強いものであり得るのではないでしょうか。私たちが非常に不幸の中にある時、行くのは私たちのもっとも愛する人のもとではないでしょうか。まさにそのような時に、人は誠実な振興の友の心に学ぶのです。

 人生で最も嘆き多い時、キリスト者は神の心に最も近づくことが出来ます。そして人は、特にそういう時に、悲しんで主を求める者に、扉を開いて下さる主を愛することを学ぶのです。ですから、キリスト者はいろいろの変化や苦しみの中にあっても、主にあって喜ぶことが出来るのです。
 
 私たちは、心が世を愛している時、口で歓声を上げることは出来ます。しかし、悲しみが訪れる時、主にある喜びが最も大きいことを、実にたびたびあったことを知るのです。
 =悲しみつつ、なお喜んでいる= これがキリスト者の見出した信仰の奥義です。


                               上河原立雄
 
  <讃美歌361> 

 1 主にありてぞ われは生くる、      3 生くるうれし 死ぬるもよし     
   われ主に、主われに ありてやすし。     主にあるわが身の さちはひとし。

 2 主にありてぞ われ死なばや       4 われ主に、主は われにありて、
   主にある死こそ いのちなれば。       天こそとこよの わが家となれ。

08895c76.jpeg眸(ひとみ)

はなれている娘から紫陽花の鉢植えを誕生日のお祝いといって、カードと一緒に届けられました。紫陽花の名所などが各地にありますが、私のとっての紫陽花の名所は、この鉢植えの二輪です。学校を卒業し、新人として必死で働いている娘の様子を思いながら主人と言葉の要らない恵みの時を過ごしました。
私は、亡き母にそのようなことをした記憶がなく、娘のあたたかい心配りに、心をちくりとさせられてしまいました。そして主人と娘のために祈りました。・・・・。
                     大分県 T・Kさん

小学5年の娘がお世話をしていたミニウサギが突然死んでしまいました。一人娘の娘には妹のように大切にしていましたので、その落胆に私たちも驚いています。代わりにまた同じ種類のミニウサギを買いに行こうと、つい口に出そうに成りましたが、こらえています。気持ちの整理がつくまで、すべてそのままにしてあります。生き物の大切さ、命、そして死を感じているようです。このことを通して、娘はきっと何かを感じ、成長することを願っています。
                     新潟県 K・Bさん
13-7-2ruri.jpg   自閉症者のひとりごと

(73)

5月19日
わたしのパワーは少ない。それなりに生きようとすると、ストレスがかかってきます。
あることに参加すると次の日動けなくなってしまうので、人並み以下の活動量に情けなく、今もイライラするのです。毎日、ほとんど家の中で過ごしている状態です。外へ出れば、目が眩むし、体が大変疲れる。けれど、それをわかってくれる人は、わたしの周囲にはいません。

5月20日
眠剤の薬は0時に飲んでいます。それでも、朝の4~5時には目が覚めてしまうのです。今週受診するので、聞いてみます。体を起こしているのもしんどいです。外へ出ると目が眩むので、危なくてしかたがない。暑さのせいでしょうか。情けないです。寝ていては生活がなりたっていかないので、最小限のことだけして、あとは寝ています。一日も早く寝てることが退屈になりたい。

5月22日
今日は3時起きでした。しばらく布団の中にいましたが、4時過ぎに洗濯機を回しました。
そのときはなんともなかったので、今日はミーティングに出られるかなと思っていたら、部屋で何度も立ちくらみ、50㍍あまりの商店に買い物に出たところ、目の前が見えなくなって、怖い思いをしました。血圧低いしなあ、別に病気じゃあないとは思うけど、しんどいです。やはり今日はミーティングは止めておこう。

5月31日
主治医でもあり、AAのスポンサーでもある人に、普通の人なら、立ちくらみがしてもだるくても仕事に行きます、と言われてしまいました。えっそういうものなの!?とショックを受けました。わたしは朝早くから洗濯をして、疲れ果てて、立ちくらみがして眠ってしまいました。今日受診予定だった眼科も行かず、夕食も作らずです。
確かに行動に起こしてないから、重要視していないと言われればそうかもしれませんが、気力がついていかないのです。パワーがないので、1日一つのことしかできません。
何だか誰に対してだかわからないけど腹が立ってしまいます。

6月5日
今朝も立ちくらみがひどく、うんざりしています。早朝の覚醒を予防するため、最近、アイマスクをして寝ています。それなりに効果はあるのでしょうが、睡眠不足だと立ちくらみが起きやすいです。何故神様を信じて委ねられないのだろう。苦しいです。病的な自我の強さにとらわれています。


加納さおり

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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