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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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2fdf7840.jpeg世田谷通信
 (116)
猫 草

このごろ詩人や俳人がつづった文章に出会うことが多い。あれっと思って奥付をみると「詩人」「俳人」「歌人」とあって、おお、やはり、である。うまく言えないが、ひとつの言葉への集中力が尋常ではない。きっと「ひとつの言葉」「一つの言葉」「一つのことば」の選択で、うーむ、と1時間ぐらい悩んでいるような気がする。推敲の結果たとえ「ひとつの言葉」を選んだとしても、文章全体を見渡してみて、もう一度「うーむ」と悩んでいるに違いない。いえ、実際の創作の現場は知りません。あくまでもイメージです。
言葉同士の響きが繊細かつ濃密、考え抜いたようでさらり、ふいと天から降りそそいだような驚きもある。あれ、この文章・・とひっかかると、アーサービナード、蜂飼耳、俵万智、穂村弘などで、ふむ、さすがと思う。
吟ずるという時点で時間がかかっている。吟味の、吟ですものね。言葉として発する前に心のうちで何度も転がしているのだろうと思う。それともモーツァルトのように、するする書き散らして完成形っていうタイプも居るのかなあ。それはやはり快いが軽いのだろうか。
テレビ俳句、という番組がある。朝は「教育テレビ」つけっぱなしという幼稚園時代の習慣からたまたま眺めていると、先生が「ここは『し』より『す』でしょうね・・」などと添削している。そうですかね?別に「し」でも構わないように思うけど。そんな、違いありますか?どっちもありでしょう。何々、次の俳句のお題は「籠枕」。ほほう。って挑戦したくとも「かごまくら とは」って、意味を検索している時点で問題外・・。レベル低いな自分。
あと言葉への感度の高い人種と言えば翻訳者。この人たちの言葉へのこだわりもまた独特。異国言語の社会・文化背景に思いを馳せつつ、自国の言葉とのマッチングをはかる作業は、詩作とはまた違った趣きがある。原作のイメージをできるだけ壊さずに表現する・・なんでしょう、金継ぎ?パッチワーク?大量の言葉の海から「これ」それとも「こっち」と貝を拾っては当て嵌めているような。すみません、これもあくまでもイメージです。
さて、言葉の感性・感度は如何にすれば磨かれるや。

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
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3605d31d.jpeg  その愛のゆえに
   =時々の記=
    (87)

5月27日
信友のTさんが神様によって今の苦しみが緩和されますようにと小さな者の祈りですがお祈りいたします。
  つつじ咲きふっと匂える朝(明日)かな。
  高々と枝を張りたる、桐の花。
   (今山添では桐の花が気品よく咲いていて、見る者は  はっとさせられるのです。)
  特別に出かける日なり明易し。
  高原の日光眩し、青葉かな。
  親ツバメ勤め果たして鳴きをりぬ。
  伊賀盆地、五月の空の果てに山。      馬場路也。

今日送ってくださった聖句は、私たちに最も大切なみ言葉です。いつも明日のことを思い煩い悩み苦しみ、悲しむものですがそのような中にあっても、神様の御言葉に触れ少しでも平安が与えられることは幸いなことですね。

6月11日
先日4日のワールドカップ出場をかけての試合は、息子と緊張しながら別の部屋で観戦していました。終了間際に得点され、あーもうだめかと思っていましたがPKで本田選手がゴールを揺らしてくれた時は我が家はもうやったあーの歓声で渦巻きました。嬉しい結果でした。サッカーで味わうのとは格段に違う大きな信仰とみ言葉の喜びに、日々感謝にあふれていたいものと祈っています。

6月13日
もう7月号の準備に入っておられるのでしょう。お働きに心から感謝いたします。
今、ご恵送いただいた「キリストへの時間」放送開始60週年記念誌を読んでおります。その中にあるCDでメッセージや讃美歌を毎日2回(午前と午後)聞いて悦に入っています。CDから流れるアナウンスのお声、メッセージ、賛美される高岡美千代さんのお声、合唱隊の賛美、515番を賛美されているお声、また金城学院高校生、大学生の若々しい、澄んだ賛美。どれをとっても最高の贈り物を頂いて、信仰生活に励みと慰めと喜びを頂いている日々です。母校の先輩として誇らしく、うれしく思いました。
外は台風の影響で、雨風が激しくなってきそうですが、今の私の心境は、とても強められています。
このような尊いご奉仕をなさってくださった多くの方々に心より感謝いたします。
そして、この尊い信仰を自分の中で満足しているのでなく、よき訪れを述べ伝えなければという思いに駆られています。メールで一生懸命上野の信友や親しい方々にキリスト教の信仰について伝えています。神様のお取り計らいを祈るばかりです。

  馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
f8001d0e.jpeg 解説 ウエストミンスター信仰告白 (13)
               
                    岡田  稔著
                  (元神戸改革派伸学校長)
第六章 人間の堕落と罪、および罰について(2)

5 この本性の腐敗は、この世にある間は、再生した者の中にも残存する(1)。それは、キリストによってゆるされまた殺されはするものの、それ自体もそのすべての活動も共に、まことにまさしく罪なのである(2)。

  1 Ⅰヨハネ1:8,10、ロマ7:14,17,18,23、ヤコブ3:2、箴20:9、伝道7:20
  2 ロマ7:5,7,8,25、ガラテヤ5:17


五 ここでは、聖化の地上での未完成と腐敗そのものが罪である(すなわち、原罪または性質罪)点を告白している。神との交わりより落ちた者が、キリストにつぎ木されて新しいいのちが育成されつつあるけれども、古い性質は死滅してはいないのである。地上の生活は、本来この古いいのちの源より生かされているものである限り、罪人の腐敗性は残存しているのである。
 罪はキリストにあって義とされている限り、それは赦させた罪であり、聖化の対象である限り、日々に死につつある罪ではあるが、それ自身が罪であることには変わりはない。そこが罪を行為としてのみ見る現代倫理学(観)と聖書との根本的な相違である。罪とは、罪の行為であるばかりでなく、罪の状態、罪の性質も含むのである。ローマ人への手紙7章20節で言われている「わたしの内に宿っている罪」は、この意味である。
 地上のいのちと永遠のいのちとは、同じいのちでも別な源を持つのである。すなわち、ヨハネによる福音書1章4節の「この言葉にいのちがあった」のように、永遠のいのちは、すべてキリストを源とし、聖霊の賦与者としてわたしたちに与えられているけれども、地上のいのちは、創造に起源を発し、一般恩恵に支えられたいのちであって、神の審判に服さざるをえないものである。すなわち、いつかは死ぬのである。
 キリストは創造と贖罪と審判の業をなされる。同一のキリストを源とするいのちも、創造の業に発する地上のいのちと贖罪の業に発する復活のいのちとは異なるものである。罪の性質は、その地上のいのちと運命をともにするものであるために、肉体の死、または、キリストの再臨に日まで生きている人間に残存するものである。減少はしても絶滅はしない。

6 原罪も現実罪も、罪はことごとく、神の正しい律法への違反であり、それに反するものであるから(1)、それ自身の性質上、罪人の上にとがをもたらし(2)、罪人はそれによって神の怒り(3)と律法ののろい(4)のもとにおかれ、その結果、霊的(5)、一時的(6)、また永遠的な(7)すべての悲惨を伴う死(8)に服させられている。

  1 Ⅰヨハネ3:4
  2 ロマ2:15、ロマ3:9,19
  3 エペソ2:3
  4 ガラテヤ3:10
  5 エペソ4:18
  6 ロマ8:20、哀3:39
  7 マタイ25:41、Ⅱテサロニケ1:9
  8 ロマ6:23

六 この項は前述の諸項の要約であり補いである。ウエストミンスター小教理問答では「堕落は人類をどのような状態にしたか」(問い7)の問に対して、「・・・罪と悲惨の状態にした」と答え、罪の方に原義の喪失と性質の腐敗をかぞえ、悲惨の方で交わりと喪失と死とを教えるのみでなく、罪責の転嫁を前者の方に、怒りと呪いを後者の方に記している。この項での告白では、このような二分法を用いず、罪と悲惨とを統一的な事柄として、そのより根源的なものから論理的順序で、より現実的なものへの関連を示そうとしている。
 この論理的順序から見ると、死と性質の腐敗とは、同一事の過程と終局と考えられる。しかし、二項で言われている「罪の中に死んだ者」と六項の「すべての悲惨を伴う死」とは、やや意味が異なる。二項の方は、再生において回復されるところの霊的死であり、六項は、最後の審判で復活体としての人間が、捨て置かれる死の状態を指している。従って、それよりの救いは、義とされた者の最後の審判での永遠のいのちへのよみがえり以外にない。

<結び>
 この第六章は、ごく簡単であるが、聖書的罪観をよく表現した名文である。罪の責任が人間にあって、神にも悪魔にもないということ(悪魔は彼自身の罪の責任を負う)、罪は人間によって犯された事実でありつつ、神の聖定が混乱したのではなく、神はすべてにおいて絶対的主権者であること、罪は対神、対世界、対自身の三つの面に深い結果を及ぼしていること、アダムの罪が全人類に転嫁と遺伝の両方式で波及していること、行為のみが罪ではなく、罪を生む性質そのものが罪として、罪責、罰にあたいすること、こうして、罪人の救いが如何に重大事であり、従って、自力救済が望みのないことであるかを、また、キリストの贖罪と聖霊の活動がいかに大いなる恩恵であるかを、明瞭にするのである。 
  
 
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛

『旧・新約婦人物語』(46)

プリスキラ(プリスカ)
 =使徒行伝18・2,26==ローマ16・3=

 夫婦がクリスチャンであると言われる家庭の少ない日本では、パウロとともに働きました同労者のプリスキラとアクラのお話などは、珍しく目立ったケースで、学ぶところが多く、教訓に富んでいると存じます。
 使徒行伝18章2節以下を読みますと、アクラとプリスキラ夫婦はユダヤ人でありました。彼らは小アジアのポント生まれで、ローマに住んでいたのです。そこで商売に励んでいたのですが、紀元50年、クラウデオ帝によるユダヤ人追放令にあい、彼らはローマを追われてギリシャのコリントに移り住むようになりました。ちょうどこの頃、ギリシャ伝道の途中にあった使徒パウロもこのコリントの町にやって来たのです。パウロはアクラとプリスキラ夫婦の家庭を訪ねます。幸いなことに、彼らは天幕造り同志という、同業者でした。それで、パウロは彼らの家庭に共に住ませていただき、共に天幕を造り、安息日毎に会堂で熱心に伝道に励んだのであります。
 私が想像いたしますのに、アクラとプリスキラとは、パウロのこのときの説教に心打たれまして、キリストによる救いに全く入れられたと存じます。しばらくして、パウロはコリントを去り、小アジアのエペソへ行きました。この時、アクラとプリスキラとは、パウロに同行していました。その後、パウロはまたアンテオケに帰りましたが、アクラとプリスキラの夫婦はエペソに居残り、一生懸命に十字架の福音・キリストによる救いの道を伝道いたしました。
 1c8af305.jpeg彼らの伝道方法は、いろいろあったと思いますが、その一つの方法は家庭での集会でありました。コリント人への手紙の第一・16章19節をご覧下さい。「・・・。アクラとプリスカ(プリスキラ)とその家の教会から、主にあって心からよろしく」とあります。この言葉によって、パウロがコリントの三人のクリスチャンに、挨拶を送っております。この「・・・家の教会」という言葉が、大切なキーポイントで、何と親しみのあるあたたかい言葉ではありませんか。商売人であったこの二人は、何時も、自分たちの家庭を教会の集まりに開放していたことは、実に尊いクリスチャンの奉仕であったと思います。
 最近、日本の多くのクリスチャンたちも、彼らと同じように、自分の家庭を開放し、神様のみ栄えのために提供しておられます事実を多く見聞きいたしまして、非常に嬉しく思います。そのような家庭こそ、暗黒の世の中に輝く灯火であると存じます。
 使徒パウロがアンテオケへ帰ってきてからのある日、アポロという使徒がエペソへやってまいりました。彼は会堂で大胆にキリストのことを語り始めのです。しかし、彼はただヨハネのバプテスマしか知っていなかったのです(使徒18・25)。そのことを知りましたアクラとプリスキラは、アポロを自分に家に招き、さらに詳しく神様のみ言葉と、十字架の道を解き聞かせました。やがてアポロがアカヤにわたりたいと申しました時、彼らはアポロを励まし、アカヤのクリスチャンに親切に迎えるようにと手紙を持たせてやりました。
 アクラとプリスキラ夫婦のまことに親切な態度に、わたしたちは心打たれます。アポロの間違ったところを、彼らは遠慮なく、しかし注意深く祈りをもって彼を正しきに導き、彼を励まし、正しい信仰と確信に立たせ、彼を生き生きとした者にしたことと思われます。その後、アポロがクリスチャンの方たちの中で、大きな力となられたことは、アクラとプリスキラの導き、彼らの力の結果であったと言っても、間違いではないでしょう。
 新約聖書に登場いたします、アクラとプリスキラのクリスチャン夫婦の記事は、以上のことだけであります。しかしその中に、彼らの人格が十分に表わされ、表現されております。しかし今一つ見逃してはならないことがあります。
 ローマ人への手紙16章4節をご覧下さい。パウロはここで、「彼ら(アクラとプリスキラ)は、わたしたちのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである」と、感激の言葉を記しております。同時に、どんなところで、アクラとプリスキラとが、パウロのために自分たちのいのちをも捨てようとしたのでしょうか。それは分かりませんが、パウロはそのことを決して忘れたりなどはいたしませんでした。
 「人がその友のために自分のいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15・13)と、イエス様のお言葉にもございます。プリスキラは本当に、幸せな婦人ありました。主人のアクラも、彼女と同じ信仰を持っていて、彼女は主人と共に、一緒に神様のみ国のために奉仕することが出来ました。このことは、彼女の大きな喜びでもあり、また彼女の生涯の神様から託された使命でもありました。
 プリスキラは、主人のアクラよりも前に出ることはせず、何時も、主人の陰になり、日なたになって、主人を助け、協力し、神様のみ国のために熱心に励み、前進して行ったクリスチャン婦人でありました。このアクラとプリスキラ夫婦こそは、わたしたちに理想的なクリスチャン夫婦の良き模範を残して下さったと言えましょう。
 
 ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
5ed6f4ec.jpeg ビルマ
  戦犯者の獄中記  (29)  遠山良作 著

昭和21年

12月15日
―いやな噂話―
 
「戦犯調査委員会は、戦犯容疑者の捜査を終了し、近く容疑のない者は出所するらしい」との嬉しい噂があったかと思うと、食事を運んで来た友から次のような情報もあり、との噂を聞いた。「戦犯容疑者として収監されている田島少佐(熊本県出身)なる人物は英軍のスパイである。一昨日、戦犯調査官と共に「モールメン」憲兵分隊員の補助憲兵、A曹長とS軍曹(時に名を匿)を伴いタキン党事件の捜査のためにモールメン方面に赴いた由である、との噂がある」と話してくれた。
戦犯調査委員たちが必死になって捜査を続けているタキン党事件は、昨年、モールメン刑務所で行った首実検で、ビルマ国軍将校は、「遠山がタキン党の幹部二十数名を刑務所から連れ出したまま彼等は帰って来なかった」と証言している。行方不明になった二十数名は殺されたと推定し、その鍵を握る者は私であると考え、繰り返し繰り返し何回も取調べを受けたが、私は知らないの一点張りで今日まで押し通してきた。私ばかりではない。東大尉以下全員もこの事件について取調べを受けたが、誰一人としてその真実について証言した者はいないはずである。
誰が何処で殺したのか証拠もなければ証人もいないのである。彼等はビルマに於ける憲兵の行った最大の事件であると言っているので、不起訴にするとは考えられないが、どのようにこの事件を処理するのか、われわれは重大な関心を持って見守っている、と共に彼等とわれわれとの戦いでもある。
噂の通り、もしこの事件の真相が発覚したなら東大尉以下、否、憲兵司令官をも含めてモールメン分隊員に多数の犠牲者が出ることは間違いない。

12月22日

戦犯容疑者として収監されている役1500名中、容疑のないもの者約1000名が出所した。容疑は晴れて多数の友が出所することは本当に嬉しいことであるが、私の心の奥にある一抹の寂しさを隠すことは出来ない。浅ましい己の心を見るような気がする。
しかし、新しい祖国再建のために必要な人たちである。無事祖国に帰って頑張ってくれることを祈るのである。

出所する 友の行く末 守りませ 祈りつつ仰ぐ 空の青さよ

この文章の転載はご子息の許可を得ております。
あなたに聖書を

「キリスト教百話」・・・7

問7 人間の認識力ではとらえることが出来ない神様をどうやって知ることが出来ますか。
答  自然宗教という言葉を使わなくても、またそういうことを考えていなくても、古来人間は自然を神とし、また、自然の中にあるものを神として崇めてきました。これはお互いに何の説明も無しに、無前提の共通理解として抱いていたものであったからです。
 しかし、これは、人間の側から、人間を越えたものに対する畏敬の念によって発せられたものであって、神様の側から「わたしはこういうものであるぞよ」と言われて、「はい、分かりました」というような、人格的関係においてのことではありませんでした。この点、釈迦は、生老病死という人生の四苦からの解脱(げだつ)を得る道を探るために出家した人でしたが、それは自然を対象としてのことではなく、この問題を抱えている自分に対して、自分を超えた所からの究極的な答を得ようとしてのことであったと思います。
 わたくしは仏教に関しては門外漢ではありますが、釈迦が得た「悟り」というものは、前記の問題に対する答を得たことにほかならないのではないかと思っております。しかも、その場合、「悟りを得た」というのは、悟りを得る力を本来自分がもっていたからそうなったというより、「悟りを得させる何者かが働いた結果、得させられた」という性質の事柄ではなかったか、と思っております。
 こういうことを言うのは、わたしがクリスチャンであるからに外なりませんが、キリスト教の場合、神様を信じているということの前提は、神様の方から「わたしはこういう者であるよ」という自己紹介があります。これを「神の自己啓示」と言います。「啓示」というのは、「開いて示す」ということで、今まで隠されていた顔が、ヴェールを外すことによってはっきり見えるようになることです。
 旧約聖書に出てくる人物として有名なモーセの場合、神は「わたしは「有って有るもの」という名前のものである」という神の名の紹介を受けました(これがもと「エホバ」と訳され、今「ヤハウエー」と正され「主」と日本語に訳されています)諺に「名は体を表わす」と言います。名前はその人の本質を言い表すものであるということです。
 「有って有るもの」という名は、「どんなことがあっても存在する。たとい天地が失せ去ろうとも有る」という存在の確かさを示している名前です。名前を聞いて安心する例は少なくありませんが「有って有るもの」という名を聞くなら、これくらい心安まることはありません。モーセがエジプト脱出という難事業に取り組む力を得たのは、この神の名前を知らせてもらえたからに他なりません。
 神の方から、それまで隠されていた神の名前を自己紹介されたことが、神名啓示と呼ばれることで、モーセの場合この神名の秘儀を知ることによって、神そのものを知ったわけです。キリスト教では、この神を「イエス・キリストの父なる神」として知らされ、信じ
ているのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
  
Scan0008.JPG皆様のお祈りと献金で続けてまいりました「キリストへの時間」の60年の歩みをCD添付で「放送伝道開始開始60周年記念誌」としてまとめた本を刊行いたしました。部数には限りがございますが、一冊¥1500で販売することにいたしました。ご希望の方は465-0066 名古屋市名東区梅森坂西2-616-E号「キリストへの時間」事務所宛にお便り下さい。記念誌と振替用紙を同封いたしますので、それでお支払い下さい。

尚、トラック1(1965年)+トラック4(1964年)放送分は、その当時の技術では1個のマイクロフォンで収録した音を1個のスピーカーで再生すること(モノフォニック)しかできませんでした。そのために、今の機器で再生すると右のスピーカーでしか再生されません。右のスピーカーが故障で聞けない状態で再生しますと、無音になります。その場合イアホンなどで聞いてみて確認して下さい。


    
        放送予定
7月
  7日 楠本 茂貴(名古屋高校中学聖書科主任)
 14日 大藪 博康(名古屋高校中学宗教部長)
 21日 大宮 有博(名古屋学院大学商学部准教授)
 28日 高見伊三男(名古屋学院大学スポーツ健康学部教授) 

          (放送開始1952年10月)
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送


97f25181.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (103)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (15)

 「兄弟たちよ、あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われることに至る時までのことであって、・・・」(25節)。

 ここの箇所をめぐる大問題は、これが未来におけるユダヤ人の集団的な回心を語っているかという点です。C・ホッジは、ここの解釈には多くの見解があることを述べてから、しかし要するに二つの見解に還元されると言っています。
(1) 第一の見解は、この箇所はユダヤ人の未来における全体的な回心を述べているのではなく、彼らの盲目性は全体的なものではなく、異邦人が救われつつある間は、かれらユダヤ人のうちのいくらかが継続して回心していくことを述べているに過ぎないとするものです。
(2) 第二の見解は、パウロはここで、将来、ユダヤ人たち全体のキリストへの回心があるが、それは異邦人があまねく救われるまでは起こらないだろうと言っているのだとするものです。

 ホッジは、前者は宗教改革の頃まで、一般に行われていた見解であり、当時の千年王国論者たちの極論に反駁しようとした学者たちが、反対に極端な論をとるに至って、この箇所の預言的性格をまったく無視してしまっていると述べています。ユダヤ人の心は極端にかたくなになっていたので、その回心は不可能であると断言し、さらに「ローマ人への手紙からこのような行き過ぎを捏造するものである」と付言したマルチン・ルーテルの言葉をホッジは引用しています。

 ホッジは、後者の見解は宗教改革の時代を除けば、キリスト教史のすべての時代において、あまねく取り上げられた見解であると断言し、この見解こそ正しいと述べています。この見解を支持し、ホッジはこの解釈は最も文脈に合致しているとして、ユダヤ人たちは拒否されたと同じ意味において、すなわち、集団として回復されるべきことは明らかであるとしています。
 このことは異邦人と並行して回心する少数のユダヤ人たちだけで成就されることではないのです。パウロが「この奥義を知らないでいてもらいたくない」という言い方をして、このことが重大な出来事であると述べていることは明らかです。もしパウロが何か新しい特に重大なことを語っているのでなければ、彼はこのような言い方を取らないからです。
 「少数のユダヤ人たちのじょじょの回心であるならば聖書的な用法における「奥義」(mystery)では決してない」。ホッジは「奥義」と言う語は、新約においては、一般に近代的な意味では用いられていないと言っています。すなわち、「私たちの理解を超えた事柄」の意味ではなく、「或る隠されたこと・知られていないこと」の意味です。神が啓示されていない御意図であるからであろうと、未来のことであろうと、また、私たちの理解を越えているからであろうと、とにかく「隠れた事柄」というのが、この意味なのです。
 パウロは「一部のユダヤ人が盲目でかたくなになっているのは、異邦人が全部救われるに至るまでのことである」ということを「奥義」として述べているのです。何故かと言えば、このことは神の特別啓示によってのみ、知れることであるからです。だから、11・25におけるパウロの「奥義」という語の用法は、彼の時代に既に起こりつつあるユダヤ人の個人的な回心より、はるかに重大なことを語っていると言うことを示しているのです。

「あなたがたが知者だと自負することのないために」。これがパウロが述べようとすることの理由です。彼が異邦人キリスト者に対して、彼らが傲慢になって、神がユダヤ人を永久に退けられたのだと考えることのないように警告しているのです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 514791be.jpeg 祈 り

 何度も転倒を繰り返していた主人は、歩くことを諦めて一日中、布団の上に横たわっていましたが、ある日、町の避難訓練の時に、ご近所の方に運んでもらうことを嫌い、最近、歩行器を使い歩く練習を始めました。食事も進まず、笑顔も失い、虚ろな表情の毎日でしたが、今は、元気な時の半分近くまで回復しているように思います。人に指図されるのを極端に嫌う主人でしたが、親しい方への迷惑や負担になることを嫌って、自分で動きだしました。こうと決めたら実行する頑固さが、こんな時役に立つのですね。今年のクリスマス礼拝は揃って参加できるのではないかと思い、神様に感謝しております。頑固には本当に泣かされましたが、今は、それもまた恵みと思っている日々です。
        
                        神奈川県 T・Rさん

 この異常な暑さで田んぼの蛙の声が、あついよう~ あついよう~と聞こえてくる感じがいたします。生駒の山間に囲まれてる盆地のようなところですから、当然といえるでしょうが、緑に囲まれた土地柄でしょうか、昔はどの家も縁側の戸は開け放たれていましたから、風の流れを感じ、軒先につるした風鈴でのどかな日々を過ごしていました。今はどの家も窓はアルミサッシ、冷房が活躍していますが、我が家は昔からの自然派生活。虫たちも夜な夜な訪ねてきます。これから、つぎの多い古くなりましたが、蚊帳のお世話になる夏を迎えようとしています。「つのぶえジャーナル」のご覧の皆様、熱中症に気をつけながらお過ごし下さい。私は直ぐに伸びる畑の草取りに、頑張ります。

                        大阪府 H・Lさん
 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
 
94505f3d.jpeg☆  大阪市の橋下市長の一連の発言がニュース紙面を独占していましたが、発言内容についてよりも、方法・言葉使いに批判がありましたが、私は個人的には、日本人としてきちんと考えてこなかったことを、反省しました。事実は、今後のこととして、事柄の責任を他国から求められるなら、道義的な事柄・感情の問題ですから、きちんと謝罪し続けたいです。七の七十倍赦しなさい、とイエス様が言われましたが、この思いで謝罪を求める国や人々に対する姿勢とおもっています。
                    島根県 R・Tさん              
     
☆  愛ちゃんは、冷たいマットの上で寝ています。とても気持ちよさそうです。
15歳(76歳くらい)で、眼も白内障で良く見えないみたいです。
膝も力がなくなり、つるつるすべり水を飲むのも苦労しています。
人間と同じく老化をかかえています。
                    大阪府 K・Aさん
 
☆  今日は曇り空で少し肌寒いです。母から相変わらずふくらはぎがおかしいけど何とかやっているよと電話が来ました。毎日同じことを伝えてくる母の声が手に取るようにその日の健康状態がわかるようになりました。一人で手料理を作っています。自分家の体調を考えた品揃えで、さすが・・・と思っています。それに比べ私の夕食の献立のなんと手抜きなこと・・・。
                    静岡県 A・Mさん 
                      
 『ありがとうございます』

 長野のY・Yさんから黒姫山の麓のスキー場の芝桜10万株開花したゲレンデと斑尾(まだらお)の写真、宇都宮のK・Eさんから近くの山里の写真、大阪のK・Aさんの愛犬の写真などをいただきました。感謝です。
 「つのぶえ社」は米国南長老教会ミッションの文書伝道事業として、ラジオ放送伝道と共に神様のお導きと皆様のお祈りに支えられて歩んできた60年でした。その歩みの一つの『「キリストへの時間」放送伝道開始60周年記念誌』を刊行いたしました。これを一つの区切りとして、新たの幻に向かって歩みたく願っております。どうぞご加祷ください。

お友達などにこのメールアドレスをご紹介ください。大い歓迎です。
電子メール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

     
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
富井悠夫様 馬場暁美様 稲田喜水様 匿名1名様 

 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社

2013年5月16日から6月15日‘まで

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
   つのぶえ社代表   長村秀勝
ee4ad395.jpeg  今月のことば

 「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。
             =詩篇90:12= 

 私たちには大切なことがあります。過ぎ去ったことを忘れるのではなく、かえって、生き抜いて来たことを覚えておくべきです。思い出したくない思いを抱く時、そこに神の赦しがなければ、過去は忘れたいと思うものです。しかし、今ある自分が、神がお許しくださっての今であると思う心には、喜びがあります。
 幾多の困難や挫折、忘れ得ぬ罪の日々であっても、そこに主の赦しを見る時、絶望はありません。
 人が、だいぶ歳を重ねてから、その歩んできた道を振り返ることは無益ではありません。若者が過ぎ去った年月を思う以上に、歳の進んだ人はもっとはっきりと見るべきです。そして、その人生が、神の祝福と愛に満ちていたことを、伝えるなら、その役割を担うことは、時代の宝です。
 
¬ キリスト者が神によって、おのが日を数えることを教えられる時、その人は知恵を得るのです。長生きすればするほど、感謝にあふれるのは、何と幸いなことでしょう。
 今、生を受けている私たちの今を感謝して過ごしたいものです。
 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」というようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに。そのようにせよ」。(伝道の書12:1~2)。

=若人の祈り=    W・バークレー著

神様、私の生活の中に愛の実をあたえてください。
あなたが私に与えてくださっている全てと、私のためにしてくださっている全てのことを忘れないで、あなたを深く愛するよう助けてください。あなたが私に生命と、その生命を価値あるものとする全てのものを与えてくださったこと、また、イエス様を私の友とし、主とし、救い主として与えてくださったことを、何時も覚えさせてください。
 主イエス・キリストによって祈ります。    アーメン
 
 
神様、私の生活の中に喜びの実を与えてください。
何時も愉快に元気よくいられますように、物事がうまくいかない時でもなお、微笑んでいられますように、何時も物事の明るい面を見、そして最悪の時にもなお、その中に感謝すべきことがあることを、何時も覚えさせてください。
泣き言や不平を言わないように、悲観主義者になったり、けちをつけたりするような者にならないようにさせてください。
そして、自分のしたいことをするのでなく、あなたの望まれることをし、自分のことを考えるのでなく、他の人々のことを考えることに、喜びを見出す者とならせてください。
 主イエス・キリストによって祈ります。    アーメン
           

f2636ed9.jpeg   小閑記

「神さま、罪びとのわたしをおゆるしください」。
        =ルカ18:13=

 私たちを神より離し、全てのものの上に災いをもたらすものは、罪であります。罪の見出されないところには、神と私たちの間を隔てている壁はありません。神はそのみ言葉を通して、私たちが罪より離れ、命に至る道をお示し下さいました。
 それはカルバリの道を通り、墓を通ります。キリストは、私たちの神に対する罪の代価の借用証書を十字架につけ、私たちを義とするために、よみがえられました。この命の奇跡によって、私たち全てに、救いと恵みが与えられたのです。

 しかし、実に完全に、これは私たちが関与することなく整えられたと同様に、私たちはどうしても、罪人としてキリストのみもとに行かなければなりません。神の前にキリストを罪ある者としたのは、私たちの罪という負債があったことを認めなければなりません。
 罪から離れる道は、罪の告白をしなければなりません。私たちは何者であり、何をしたかを告白しなければなりません。神殿の中のこの取税人と共に、神の前に出て、「神さま、罪びとのわたしをおゆるしください」という人、その人は救われるのです。神はこの罪人の心が、義としたもう神の恵みに対して開いているので、彼を義として宣言されるのです。

 イエス様は、私たちの罪のために、ご自身をお与えになったのですから、私たちも全ての罪を主に取っていただかねばなりません。そうすればキリストのお流しになった血は、神の前に私たちの罪、咎の支払いをして下さるばかりでなく、命の書の中で領収書となり、信仰によって心がきよめられているのです。そしてこの二つの命の歌は、力強い一つの和声となります。
 「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」。
 このようにして、罪の道より遠ざかり、神へと導くのです。

<賛美歌 515番>

1 「十字架の血に きよめぬれば、
  来よ」との御声を われはきけり。
 
  (おりかえし) 
  主よ、われは いまぞゆく、
  十字架の血にて きよめたまえ。

4 ほむべきかな わが主のあい
  ああほむべきかな わが主のあい。

                               上河原立雄
    
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緑を大切に!
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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