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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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f0d5895c.jpeg眸(ひとみ)

仮設にいる母を一人にしながら過ごしていますが、横浜の生活より使い慣れている方言で話せるここが良いと言います。言われてみれば、ふる里に帰るとき私の中にもそれがあります。山や川も懐かしいですか、20数年間過ごしたふる里の言葉は、「おかえり」とあたたかく包んでくれます。
今は、母の一番望むようにすることが親孝行と思えるようになりました。最近は電話訪問が多くなりましたので、主人の運転で家族4人、ご近所の方々へのお礼も積み込んで連休を利用して、母の顔を見てきました。老いた母でしたが手作りの料理で迎えてくれました。何度も食べた母の味に、心の中で何時までも元気でね!と思いながら、気づかれないように涙を拭いていましたら、母に見つかりました。心配しないの・・・の言葉に今度は本当に涙がぼろぼろと頬を伝いました。
神様、母をお守り下さい、と祈りました。テーブルの横には聖書がありました。神様、感謝いたします。
                 神奈川県 Y・Mさん

 桜の時期の近付く春休み頃から、奈良公園や春日野園地に来られる観光客の方が増えてきます。近鉄奈良駅から興福寺も近く、参拝に来られる年配の方や、鹿にエサをあげたり自然を楽しむ家族連れ、あと、やはり多いのは修学旅行生でしょうか。
 グループ行動でお土産屋さんを散策する中高生の和気あいあいとした姿にこちらも気分が和みます。子供の頃、遠足は奈良公園や若草山が多く 当時を懐かしく思い出します。食いしん坊の鹿にお弁当を覗かれる事もあって、小さいながらに必死でかきこんで食べたのを覚えています。
そんな思い出も重なってのんびり出来る場所に感謝しています。
 平城京遷都祭が3年前に行われてからは、平城京の朱雀門などの施設も整備され、市民の憩いの場になっています。そういう場所に行くと、ふと色々な事から解放され、またがんばろうと元気をもらうので時々寄り道するのが日課になっています。
                           奈良県 N・Rさん 
PR
0991785d.jpeg   自閉症者のひとりごと
(72)

4月17日
体調が良くありませんので、殆ど家におります。外出の時は、陽射しがなくても眩しいため、サングラスにヘッドホンも必要ですね。そして、本を読みすぎたり、音楽をかけないことも大事ですね。この状態の治療は、日にち薬ですから、焦ってもしかたのないこと。
調子をみながら生活するのは、結構大変ですね。いつも待てなくて、突っ走ってしまう。そのほうが楽だから。でも、必ず後でつけが回ってくるのです。

4月19日
連休は実家に行くようです。でもわたしは自分の実家には行きたくないです。わたしが行くと、いろいろ捲き込んでしまうからです。母の感情やら父の気遣いやら、わたしの感情が爆発しそう。そもそもわたしには母に対して愛情飢餓の埋め難い渇きがあり、依存的な母の振る舞いや感情に恨みに近い感情を持っているからです。母が認知症だからではありません。母との長い関わりの中で、わかってきたことです。

4月29日
立ちくらみの毎日です。サングラスをしていても、目の前が真っ白で道を歩くのも危ない状態です。刺激に弱いため、外に出るのも思うようになりません。
母への愛情飢餓が起こるほど、わたしは母を求めていた。わたしの求めるところと違うところで母はわたしを頑張って育ててくれたのは、理性でわかっていたつもりなのだけど、それもはね除けてしまうほど(怒りが爆発しそう)、認知症の人と関わっていくというのはパワーがいるということだ。もはやこれ以上わたしは自分のコントロールは利かないと思う。

4月30日
新聞に、社会対向面で大きく取り上げていましたね。
もともとアスペは広汎性発達障害、自閉症スペクトラムのひとつと考えるのが主流ですから、大騒ぎすることではありません。 今、司法福祉の本を読みはじめていますが、受刑者の10%が知的障害があり、30%が何らかの発達障害を持っているそうです。社会から疎外されて、何の手立ても尽くされないまま、刑務所へ行くのです。確かにアスペだから支援サービスを受けている人たちは、アスペの診断がなくなってしまうと、サービスが受けられなくなってしまうことは考えられます。雇用から滑り落ちると、たちまち疎外されてしまうので、そうでない社会を築かなくてはならないし、教育やスキルアップなど支援サービスを受けられるように整える必要があります。アスペに対する理解は、Sさんに聞いてみたら、同じ学校現場でも、接する場面が多い学校ほど進んでいるそうです。アスペは自閉症の仲間ですから、対人関係の障害だといえるでしょうが、パッと見た目、聞き分けのないヤツとしか見えないんですよね。そして感覚が敏感なんです。だから端から見ていておかしな格好をしていたり、問題行動に映ることがあります。
そういうことが積み重なり、変人扱いされたり、社会常識が理解できなくなって、場合によっては犯罪者になってしまうことがあります。わたしは以前医師に言われたことがあります。よく警察の厄介にならずに済んだね、それはお父さんの愛情があったからだよと。
マイノリティってツラい。

5月2日
母との間には地雷のようなものがあることが分かりました。そして、それはわたしが依存症から回復すれば、母のことを受け入れられるということがわかってきました。でもそれには時間がかかります。その間はどれくらいの距離を置けばいいのかが分かりません。
第一のことは第一に。回復のプログラムを信じて(すなわち神様の声に聞き従う)歩んでいけばいいだけのこと。その習慣を身に付けるのには、どれほどの時間がかかるのだろう。
こんなときも信頼するのが信徒なんですよね。はあ・・・。

<おねがい> この記事を読んで下さる方々に感謝しています。何時も同じことの繰り返しで、つまらないとお思いと思っています。しかし、繰り返していること、同じところから抜け出さない状態が、この病気の特徴なのです。このような方が身近に居おられましたら、どうぞあたたかく見守っていて下さい。

加納さおり

5c37ba4a.jpeg世田谷通信
 (115)
猫 草

子供たちは高校、中学へと進学したが、自分は相変わらず小学校の図書室に勤務している。どんどん変わり流れていく先生方や子供たちの中で、ずーっと同じ場所に留まっている石のようだ。校長・副校長の管理職も長男小学校入学時から指折り数えると、10人近く異動がある。うーむ、そのうち生き字引とか言われるかも。
さて自分の子供のいない小学校はなんと客観的に観察できることか。今年のこの学年は落ち着いているなあ。こっちの学年は全体にうるさいから後半荒れるかも、など、自分の子供が在籍していたときには見えなかったこともみえてくる。
入学直後、小学1年生が昼休みグランドの隅で泣いている。通りかかって「どうしたの?」と聞くと「せんせいが・・いない・・」ぽろんぽろんと綺麗な涙があふれてくる。先生はグランドの反対側で他の子供と話している。もうそれで視界に入らないのか、この子まだ一人で教室に戻れないのかな?先生も大変だ。はやく教室の場所覚えようね。かわいいなあ。こっちではお迎えのお母さんを見つけて「ママ、いた・・!」と叫んで教室を飛び出してしまい、先生にしかられている1年生もいる。なんてかわいいの。
そうかと思えば反抗期か思春期の5、6年生が居たりする。何が腹立たしいのか、図書室の本をわざと床にばらまいて逃げていく。あまりひどいと先生に注意してもらうのだが「やってませーん」の一点張り。本に八つ当たりはやめてね、壊れるから。よくわからないがなにか必死に主張しているのでしょう。もう、かわいいったら。
こんなに穏やかに子供たちのあれこれを「かわいい」と受け流せるのは自分の子供が卒業している立場だからだと痛感する。
だって、長男などもう高校生なのに、未だに忘れ物はないか、遅刻してないか、お友達と仲良くしているか、など本気で気になるし。小言だって、早く起きなさい、宿題やったの、プリントと洗濯物を出しなさい、ゲームやめなさい、早く寝なさい、これ全部幼稚園からぜんぜん変わらないし、全く心穏やかではない。いつまでやきもきするのだろう。いい加減悟りたいが、そんな境地は訪れるのか。子育てにも卒業はあるのか。もしかして世話を焼かせていただいているのか。因果なものである。

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
b82fe02d.jpeg  その愛のゆえに
   =時々の記=
    (86)

4月23日
気温の変化が激しく、体調管理がとても大切な時です。
教会での礼拝では、会う方たちが私の顔がやつれてきたのか、声をかけてくださいます。
 畑隅にひそやかにあり、花しきび。
 散歩好き犬の死にたる春惜しむ。
 春嵐谷をまたぎて、わたりけり。
 大枝の揺れて桜の散り急ぐ。
 代掻きの水引き込めば音立つる。       馬場道哉
主人の咳はようやく収まってきました。およそ3週間も続きましたから大変でした。裏山を見渡すと早や、すっかり若葉に移り替わっています。

5月7日
こちらはまさに、緑にかこまれてとても気持ちの良い朝散歩となっています。山の木々を眺めながら、この木はなんという木なの?と主人に訊ねるとさすがに幼いころから山に親しんでいるので即答です。これは樫の木、あれは椎の木。向こうのはクヌギ。樹齢百年は経っているということも教えてもらい、とても楽しく散歩をしています。5月12日は、母の日ですね。母のために祈りました。

5月11日
今日はこちらは、真夏日でした。奈良の橿原まで車で行ってきました。主人に路を教えてもらって行きましたが、やはり間違えてしまいました。はらはらドキドキの一日でしたが、何とか無事に帰ることができ夕ご飯は主人が仕上げてくれてあり、とてもうれしいでした。器用なところがあるのだなと改めて良いところを発見いたしました。
私も最近、この近所の方と話す機会がありましたが、私には信仰が与えられていることに感謝したところです。そして、この私がクリスチャンであることを最近になって隠さずに証するようにしています。
み言葉にあるように、目に見えるものは滅びゆくだけですが、信仰は朽ちることなくこの私の中にあって永遠に生きて働く恵みに感謝しています。信仰こそ我が身の助けとなり、杖となっていることに、ただ感謝するものです。暑くなってきました。ツバメはひなが巣立とうとしています。早いものです。
午後から、元教師の会の役員会があり夕ご飯は主人が代わりに作ってくれてありましたがが、とても色合いもよくびっくりしました。台所に入って私の仕事を手伝うようになって3年あまり、とても見事に上達していました。

   馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
8ece9a13.jpeg 解説 ウエストミンスター信仰告白 (12)
               
                    岡田  稔著
                  (元神戸改革派伸学校長)

第六章 人間の堕落と罪、および罰について(1)

1 わたしたちの始祖は、サタンの悪巧みと誘惑にそそのかされ、禁断の木の実を食べて罪を犯した(1)。神は、彼らのこの罪を、ご自身の賢いきよい計画によって、ご自身の栄光に役立てる目的をもって、許容することをよしとされた(2)。

  1 創世3:13、Ⅱコリント11:3
  2 ロマ11:32

一 これは罪と聖定との関係を明らかにすることである。

1 人間の責任と悪魔の誘惑との関係
悪魔の存在や活動も、神の許容する限りにおいて悪魔自身の自由意志に基づく事柄であって、神が悪魔を創造したのではなく、悪魔が永遠より存在したのでもなく、天使のある者が自己の自由の悪用によって悪魔と化したのである。アダムたちはこの悪魔の活動によって、罪を犯す機会を与えられた。しかし誘惑は、必ずしも犯罪の父ではない。キリストは荒野での試みに負けはしなかった。誘惑すること自身は悪であるから、その責任を神は問うであろうけれども、それによってアダムたちの犯罪の責任が少しでも軽減されるものではない。
今日、児童教育に関して、教唆罪が重視され、児童本人の責任は軽くみられていて、むしろ児童は謝った教育の被害者であるかのように呼ばれているのは、はなはだしい誤りではないだろうか。

2 悪魔の誘惑とアダムたちの犯罪とは、ともに神の聖定との関係から考えると、三つの点を明確に知らなければならない。
  ① 神の聖定以外に何事も何人によっても発生しないこと。もし、そういう事件が起きるとすると、神の世界支配権が犯される。
② 聖定の目的は、すべて神の栄光のためであって、人の利益や神の恥のためになされたものではないこと。 
③ 罪に関する聖定は、特に許容であって、強制または黙認ではない。行われてからの事後承認でもない。許容という用語は、一方では物理的には神の意志が原因でありつつ、他方倫理的には人の責任が問われることである。わたしたちがこの告白文を見て、悪魔を憎み、アダムに同情したり、神に同情するならば、それは、自己とアダムとを無関係であるとしているとともに、神の支配を客観的に眺めているという誤りに陥っているのである。

2 この罪によって、彼らは原義と神との交わりから堕落し(1)、こうして罪の中に死んだ者となり(2)、また霊魂と肉体のすべての機能と部分において全的に汚れたものとなった(3)。

  1 創世3:6-8、伝道7:29、ロマ3:23
  2 創世2:17、エペソ2:1
  3 テトス1:15、創世6:5、エレミヤ17:9、ロマ3:10-18(*)
    *ロマ3:10-19が正しい

二 これは罪の人間に及ぼした結果についての告白である。「堕落し、死んだ者となり、全的に汚れたもの」とは三つの結果である。「・・・ものとなった」と言うことは、神の律法との関係を基準にしてのことであるから、律法の下にありつつ神のかたちをもち、神との交わりにあづかっていた者が、今や神の怒りと律法の呪いの下に落ちたということである。
 その当然の結果は死(霊的)である。あるいは死という状態の中へ落ち込んだとも言える。そして全機能が破損し、汚れたのである。破損がひどかったから死んだと言うよりも、死の状態に落ちたから汚れたのである。罪は人間に、神との関係と環境と内部構造(性質)との三つの面にその結果をもたらした。この三つは同時的に生起したことであるとともに、論理的には一は二の、二は三の原因というべきものである。

3 彼らは全人類の根源であるので、彼らから普通の出生によって生まれるすべての子孫に、この罪のとがが転嫁され(1)、また罪における同じ死と腐敗した性質とが伝えられた(2)。

  1 創世1:27,28、創世2:16,17、使徒17:26、ロマ5:12-19(*)、
    Ⅰコリント15:21,22,45,49(**)(***)
     *ロマ5:12,15-19が正しい  **Ⅰコリント15:21,22,49が正しい
     ***創世1:27,28と創世2:16,17と使徒17:26を、ロマ5:12,15-19および
       Ⅰコリント15:21,22,49と比較
  2 詩51:5(7)、創世5:3、ヨブ14:4、ヨブ15:14

三 ここはアダムたちとわたしたちとの関係についてである。前項の犯罪の結果である三つのものが、ここでは罪のとが、死、腐敗と言われている。原義と神との交わりは今や罪のとが(罪責)にとってかわったのである。すなわち、単に失ったと言うことではなく大いなる負債を負ったのである。そして罪責は転嫁という方式をもって、死と関係している。「罪責における死」とは悲惨であり、全性質の腐敗とは、原罪のことである。この二つは遺伝によってわたしたちに関係してくる。しかし、罪責は義認により、死は再生により、腐敗は聖化によって回復させられるのである。

4 わたしたちをすべての善に全くやる気をなくさせ、不能にし、逆らわせ(1)、またすべての悪に全く傾かせている(2)ところのこの根源的腐敗から、すべての現実の違反が生じる(3)。

  1 ロマ5:6、ロマ8:7、ロマ7:18、コロサイ1:21
  2 創世6:5、創世8:21、ロマ3:10-12
  3 ヤコブ1:14,15、エペソ2:2,3、マタイ15:19

四 この項は、原罪と現行罪との関係についてのものである。三項でのように、罪責と死と腐敗とは同時的でありつつ、因果関係を持つものとして考えると、現行罪の生じる根元は、性質の腐敗であるとみなければならない。
 同時に、その腐敗が聖化されるためには、さらに根元にさかのぼって、再生と義認がこれに先行しなければならない。ローマ・カトリック教会の注ぎの恩恵という教理は、現行罪と性質罪の関係のみを考えて、性質罪の根元を問わない誤りといえよう。  
 
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛

86d5f855.jpeg『旧・新約婦人物語』(45)

捕虜になったイスラエルの少女
   =列王紀下 5:1~14=

 預言者エリシャの時代、イスラエルは北方のスリヤという国から常に侵略を受けていました。そのスリヤの将軍にナアマンという人がおりました。この人は立派な人で、聖書には、「ナアマンはその主君に重んじられた有力は人であった」(1)とあります。
 当時の習慣で、戦いに勝った国は、敗戦国の財産を没収するだけでなく、その国民の一部を捕虜として連れ帰り、奴隷として使ったのです。
 この少女も、そうした捕虜の一人で、将軍ナアマンに使われていたのです。彼女は懐かしい故郷から、知らぬ他国へ連れてこられた可愛想な身の上でした。しかし、良い主人の下に使われ、その主人の侍女として仕え、主人たちに愛されたことは、せめてもの幸いでした。ナアマン一家は理想的な家庭であったようで、彼女には奴隷によく見られるひがみもなく、主人や女主人に信用され、勤勉であったようです。
 しかし、この幸福そうな一家にも大きな悩みがありました。ナアマンには多くの財産もあり、高い地位、栄誉もありましたが、それらではいやされない、ライ病に罹っていたのです。この病を思う時、明るいはずのこの家庭も、憂愁に包まれて暗く、さすがに猛き将軍もこれには施す術もなく、諦めていたようです。一家の悩みに心を痛めていこの優しい少女は、ある日、女主人に、「わたしの故郷サマリヤに神の人エリシャがおられます。そこへお出になればいやされることでしょう」と言いました。それを聞いたナアマンは、少女の言葉を信じて、王に話し、王の許しをいただき、イスラエルへ出発しました。
 ここで私たちの、愉快に思いますことは、この少女のまことの神に対する信仰と、将軍ナアマンが一少女の言葉を素直に信じて、エリシャのところへ旅立ったことです。
 この少女はエリシャが神の人であり、神から与えられている能力をよく理解して、エリシャは今まで一度も、ライ病をいやしたことを聞かなかったのに、彼は神の人であり、神はこのような病気もいやしたもう能力があると信じて、預言者のことを自分の主人に進言したのです。
 誰でも、奴隷のような不遇の身に置かれますと、希望を失い悲観して、望郷の思いにかられるものです。まして多感な少女時代においては、なおさらです。彼女にはそのようなところもなく、信仰によってこの不遇のうちにも光明を見出し、主人を愛し、主人の幸福を自分の幸福だと考えたりするあたり、大いに学ぶべきです。
 さらに、おもしろいのは将軍ナアマンが、位も、身分もきわめて高い地位にありながら、あわれな奴隷の一少女の信仰を見て、その一言の言葉を信じました。スリヤ王もまた、このことを聞いて喜んでナアマンのために、イスラエル王に紹介状を書いたことです。一少女の言葉が、国王を動かした例はあまり類のないことです。
 将軍ナアマンは王よりの手紙をいただき、金銀、衣類など立派な贈物を携え、イスラエルの王のもとへ急ぎました。彼はイスラエルの王にスリヤ王の手紙をささげました。その手紙には、「わたしの家来ナアマンを、あなたにつかわしたことを御承知ください。あなたに彼のライ病をいやしていただくためです」(6)と記されていました。
 これを見た王は非常に驚き、「わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか・・・」(7)。これは多分難題を持ちかけて、戦争の口実をつくるのであろうと、イスラエルの王は思い込み、衣を裂いて歎きました。
 預言者エリシャは、王の嘆きを聞いて使いを王に送り、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか、彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」(8)と言いました。
 そこでナアマンは家来を引きつれてエリシャのもとへ行き、その門前に立ちました。その時、エリシャは召使に「ヨルダン川へ行って身を七度洗え、そうすればあなたは清くなる」と言わせるだけで、自分は出て行きませんでした。
 ナアマンは、自分が有名な将軍ですから、一野人のエリシャはきっと敬意を払って、玄関まで出迎えるであろうと思っていたのです。ところが出て来ないのみか、この一見愚にも等しい命令ではありませんか。彼は意外でもあり、怒りました。この時のナアマンのことばは、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、ライ病をいやすだろうと思った。ダマスコの川アパナとパルパルはイスラエルのすべての川にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」(11~12)と聖書に記されています。
 この言葉には、彼の傲慢と不信がよく出ております。彼は自分が位の高い軍人であるのに慢心して、エリシャの治療の方法が余りにも馬鹿らしく感じられたに違いありません。エリシャが自ら出てきて、彼に手を置いて祈るとか、他の特別な方法でいやしてくれると思ったのにヨルダン川で身を洗えとは、あまりにも将軍を馬鹿にした話だ、自分の国には、ヨルダン川よりも美しい河が流れているのに、何も頭を下げてイスラエルまで来る必要はなかったではないかと彼は身を翻して帰ろうといたしました。ナアマン将軍のこの態度には非常に考えさせられる所があります。実は、私たちにも、彼の態度によく似た、短気から来る軽率なこのような態度がよくあるものです。
 「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」(ルカ16・10)と、聖書にあります。
 人がつまらないと思うようなことにも、忠実であるところに神のお恵みがあるのです。ナアマンがつまらないことだと思った川の水で身を洗うことも、これを信じて行うところに神の恵みがあったのです。私たちも大きなことにのみ心引かれて、人目を引かない小事をなおざりにいたしますと、せっかくの神の恵みに恵まれる機会を失ってしまいます。
 ナアマンは愚かにも傲慢と怒りのために、神の恵みの機会を逃すところでした。しかし幸いにも賢い僕たちがいました。
 「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言ったわけではありませんか」(13)と諌めましたので、彼はヨルダン川にくだり、身を洗いました。ところが、預言どおり、彼の全身が清くなりました。

 これによって、私たちが特に教えられますことは、
1 人は神の言葉に素直に、子供のように従って行くべきです。ナアマンがエリシャの言葉に従って、身をヨルダン川で洗って救われたのは、その例です。
2 人は神の義を知らず、自分の義を立てようとするところに、傲慢があります。キリストによる義のみが、私たちを救いにいたらせます。
  
 ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
5cc5278d.jpeg ビルマ
  戦犯者の獄中記  (28)  遠山良作 著

昭和21年

11月27日
―友軍の情―

この頃より給与は、改善され5オンスの米の量が12オンス(340グラム)に増加された。衰弱していた体力も回復して空腹の苦痛から免れることが出来たことは有難かった。この満たされた給食も刑務所側の厚意ではなく、外部にいる日本軍がわれわれの給与があまりにも悪いことを知って、各部隊にその実情を訴えて拠出し、差し入れていることを知らされた。
かつて無敵を誇り、連戦連勝のビルマの日本軍も、最後は物量と強力な英印軍の前に、兵器も弾丸もなく、食物すらなく、ボロボロの軍服をまとい、裸足でモールメンまで敗走してきた友軍の姿を思い出す。あの当時彼等にどれだけ親切にし、温かく迎えたことであろうか。統制を失った兵隊たちは、隊から離れ、民家に宿泊して隊に帰ろうとはせず、ぶらぶらしている兵隊を取り締まったのみであった。全てを失った彼等に慰めの言葉すらかけてやらなかった私は、本当に申し分けなかったとの自責の念で一杯である。
この部隊は今、各地区に別れてキャンプを張り、焼け付くような暑さと戦い、厳しい英軍の監督の下に強制労働に従事しているはずである。恐らく私たちと同様に充分な給与とは思われない。
温かい友軍の情に感謝して今日の夕食のはしを取った。

11月29日
-30歳の誕生日を迎えて-

 昭和13年に祖国日本を後にして、中国そしてビルマの戦場に転線して8年が過ぎた。その間、自分の誕生日すら忘れ、否、考える暇さえなかったのかも知れない。戦いの明け暮れであったが、今静かに牢獄で、祖国を思い、父母を思う時、今日という日が自分の誕生日であることに気付いたのである。

 戦犯の 烙印押され 吾れは今日 30の歳 獄で迎えり

 隣の房にいる小川軍曹は、「遠山さん今日は誕生日だそうだがおめでとうとは言えないね。まだ一つ次の裁判が待っているから大変だね、きっと頑張って下さいよ」と励ましの言葉をかけてくれるとともに次の歌を一首贈ってくれた。

 君が行く 山路は更に 遠ければ ひたにみからだ 愛(いと)ひまつらせ

 友は有難い、まだ次の裁判が待っている。何日の日か分からないがその日に備えて頑張っていなければならない。
  
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
b05f06f4.jpegあなたに聖書を

「キリスト教百話」・・・6

問6 まことの神様と言うのはどのようにして知ることが出来ますか。キリスト教ではこの点についてどう考えていますか。
答  その場合、先ず「知る」と言うことがどういうことかという問題があります。例えば、子供は、おもちゃが動くのを不思議に思って、分解することがあります。ところが、もとのように組み立て直すことは出来ません。「知る能力」が備わっていないからです。大人は分解した後、組み立てることが出来ます。構造を知ったからです。「知る」とは、そういう風に、物事を分析し統合することが出来る能力があってのことです。
 この知的能力は、科学的面においては、非常に高度に発達してきました。月の世界にまで飛ぶ知識を得て、「兎が餅をついている」神秘性は剥ぎ取られています。昔神様の働きだと信じられてきたことも、神様の働きではないことが明らかにされてきました。男女の生み分けから遺伝子の組み換えさえも出来るようになってきました。こうして、神様のヴェールは剥ぎ取られ、人間の認識能力の中のこととなりました「知る主体」としての人間の知的能力は、分析総合することが出来る能力として、これからも更に豊かなものとなっていくことでしょう。
 そこで、もし「神様を知る」と言うことが、人間の認識能力や理解力で分かる神様と言うことになりますから、崇められる方ではなくなります。そこで出て来る問題は「神様は、いったい、人間の認識能力で捕らえることが出来る方か?」と言うことになります。
 これは何も神様のことに限りません。ソクラテスが「汝自身を知れ」と言ったように、人間は自分が何者であるかという問に答えることが出来ません。それは、自分を知るには自分を超えた視点を持っていなくてならないからですが、人間は自分で自分を超えた視点を持つことが出来ないからであります。
 「自分のことは自分が一番よく知っている」と言うものの、その「一番よく知っている」と言える根拠の正当性が自分にあると、どうして言えるでしょうか。「それは単なる錯覚か思い上がりではないか」と問われたら、答に窮するのではないでしょうか。人間は、自分の内に、自分を正しく知ることが出来る客観的な認識力をもっていないからです。古来、多くの人が「自分は何者であるか」「人間とは何か」を問うてきました。それに対する答はまだ出ていません。出した人がいないわけではありませんが、その正しさを保証する鍵を共有出来ないからです。
 「理解する」という言葉を、英語では「アンダースタンド」と言います。直訳すれば「下に立つ」ということです。事柄を「上から見る」のではなく、その「下に身を置く」ことには、知る秘密がありそうです。神様を知るということも、この視点が大切では・・・。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

「キリストへの時間」放送予定
 6月
    2日 沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)
    9日 沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)
   16日 沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)
   23日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
   30日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
 
       (放送開始1952年10月)
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 
503a3318.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (102)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (14)

「しかし彼らも不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐちからがある」(23節)。

 異邦人が教会の中にあって継続してその特権にあずかっているのは、ひとえに彼らの信仰によるものであるように、ユダヤ人たちが拒否されたのは、とりもなおさず、彼らの不信仰によるのです。異邦人たちがその信仰を止めれば、彼らも退けられることになるし、ユダヤ人たちが不信仰であることを止めれば、彼らも再びつがれるからです。
 何故ならば、「神には彼らを再びつぐ力がある」からです。神の力が制限されたり、弱められたりすることはありません。したがって、障害はユダヤ人自身の中にあるのです。もし神の測り知ることのできない摂理によって、この障害が取り除かれることがあれば、ユダヤ人が再び良いオリブの木につながれることを妨げるものは何もないのです。

 「なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然の良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつながれないであろうか」(24節)。

 ここに自然のままの木の枝と、野生の枝が人工的に(自然に反して)接ぎ木されたこととの間に対比があります。ユダヤ人たちはその木が産出した自然のままの生育であり、異邦人は自然の性質に反して良いオリブの木にされたことは、自然の性質に反する、ありそうにもないことです。異邦人の接ぎ木ということが実際に起こったとすれば、自然のままの枝であるユダヤ人が再び接がれるということも充分ありうることです。
 自然の性質に反したことであり、ありそうにもないことが実際に起こったのである以上、自然の性質に合致した事柄が、未来において生起することはありうることです。すなわち、本来の枝であるユダヤ人が、再び真のイスラエル、すなわち、神の契約の民である良いオリブの木に接がれることは大いにありうることなのです。
 パウロはそれを「元のオリブ」と呼んでいます。ユダヤ人たちはその不信仰のために、それから引き離されました。しかし、彼らが属していたオリブの木そのものは健在のままです。不信仰の中にいるユダヤ人たちが、そのような地位を要求する権利を持っていたというのではなく、神の摂理がそれを可能とするのです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
0afd0f67.jpeg  祈 り

お久しぶりです。娘は無事に4月19日に男の子が産まれました。5月末頃まで家にいる予定です。 
隣りの部屋で赤ちゃんが休んでいるので、夜中もよく泣き声で起こされるので,寝不足気味です。
妹もミルクをあげてくれたり,一緒に布団で横になってみてくれたりして嬉しそうにしてくれてますが、それでも我慢しているので、時々私には爆発します。 
ゴールデンウィーク中は来客があったりで、どこにも行きませんでしたので、落ち着いたらどこかに行こうかなと話し合っています。
おばあちゃんの実感は、まだまだです。今は目の前にあることを毎日こなしていくだけで精一杯です。元の生活に戻って、自分にも余裕が出てきたら実感がだんだんとわいてくるのかなと思ってます。
                        佐賀県 T・Rさん

娘には知的障害がありますが、近くの作業所へバスで毎日出掛けています。今まで行っていた教会では、幼児扱いでXXちゃんは素直で天使のような心を持っているみたいとか、よく出来たわねとか、普通の子には言わない言葉を掛けてきて、とても悲しく思ってきましたが、今回、8年通っていた教会でしたが、思い切って別の教会に行きました。とにかくメッセージが良かったです。「何時も喜んでいなさい」と言うメッセージでした。私たちが、嫌だなと思うことにでも喜びを感じ、また発見すること、神様に祈ることが出来るとか言うお話しでした。今までの教会では、悪霊とか悩みの霊、また不信仰の霊、恐れの霊などの様な言葉ばかり聞かされてきましたので、そのような言葉はありませんでした。牧師夫人をはじめ信者さんも、そんなことは全く話しませんでした。メッセージも交わりも神様中心でした。今までの教会はサロンみたいで、礼拝後の会話も女性週刊誌の記事のような話をコーヒーを飲みながらしていて、これが交わりと思ってきましたが、そのようなものは一つもなく、娘に対して幼児語で話かけたり、差別的な態度はなく、メッセージも交わりも素敵でした!私の願いは、普通の娘としてではなく、知的障害を持つ一人の娘として接してほしいだけです。

                         京都府 C・Lさん
  
f3700c0b.jpeg 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」

☆  今までは保育園に毎日送り迎えをしていましたが、今はご近所の上級生と一緒に学校に行っています。手が掛からなくなって良かったはずが、何か物寂しくなりました。子供は成長しても私の成長にはまだまだ時間が掛かる気がしています。一日が長く感じている5月病?の私です。
                    山口県 R・Tさん              
     
☆  私の団地にはいろいろの国から来られた方がおります。生活習慣の違い、言葉の壁などがあり、回覧板が滞ったり、定例の掃除や分別ゴミの厳守など、何時も嫌な思いをしていました。それが保育園の子供の中に同じ棟の子供がいて、元気な声で「おはようごぜいましゅ」みたいでしたが声を掛けてもらいました。それから、道で出会うと声を掛けて
くれるようになり、今はお母さんとお話が出来るようになりました。心も気持ちも閉じていたのは私であることに気づき、挨拶の大切さを知りました。
                    大阪府 M・Nさん

23ec9ee5.jpeg 『ありがとうございます』
皆様のお祈りと励ましをいただき、6月号をお届けいたします。皆様からのメールやお手紙で、名古屋に居ながら各地の様子を知ることが出来ますことは、編集子のお恵みと感謝しております。
長野にお住まいのY・Yさんから「善光寺花回廊」というゴールデンウイークの催し物の写真が送られてきました。善光寺に通じる道路に、色とりどりのチューリップの花びらを使い、絵を描く「花キャンバス」。球根栽培用に刈り取られた花、約10万本を100名以上の市民ボランティアが丁寧に花びらを重ねていきます。これはブレーメンの音楽隊の絵(にわとり、ねこ、ろば)の一部です、と説明がありました。クンシラン9鉢のうち、5鉢が咲きました。室内で越冬し、今満開とのこと。
 大阪の川畑さんからは春らしいお花と平野区の夕焼け写真メールをいただきました。

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匿名1名様

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2013年4月16日から5月15日‘まで

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
   つのぶえ社代表   長村秀勝

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緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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