2023年7月号
№193
号
通巻877号
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岡田 稔著
第四章 創造について(1)
1 父・子・聖霊なる神は(1)、ご自身の永遠のみ力、知恵、および善の栄光の現われるために(2)、初めに、世界とその中にあるすべてのものを、見えるものであれ見えないものであれ、六日の間に、すべてはなはだ良く創造すること、すなわち無から作ることをよしとされた(3)。
1 ヘブル1:2、ヨハネ1:2,3、創世1:2、ヨブ26:13、ヨブ33:4
2 ロマ1:20、エレミヤ10:12、詩104:24、詩33:5,6
3 創世1章、行伝17:24、ヘブル11:3、コロサイ1:16
一 神の聖定は創造と摂理の業によって、歴史の内に実現する。言い換えれば、神の歴史的行為を二分すると、創造と摂理とに分けることができる。創造は実に、有神論の根幹をなす大教理であって、大いに論ずべき問題である。
この信仰告白はごく簡単に取り扱っているが、少し詳細に解説したいと思う。ヨーロッパの思想史に理神論、汎神論などが登場したのは、主として17世紀以後であったので、本信仰告白が作成された当時は、決定論や偶然論が摂理論をおびやかしていたほどには、創造論に対する議論が沸騰してはいなかったのであろう。
本項で言及されている教理はおおよそ次の6つである。
1 創造という言葉の主語が三位一体の神であって、単なる父なる神のみの、み業ではないこと。
2 創造の目的が神ご自身の栄光をあらわすことにあったこと。
3 創造の時は、原始であり、6日の間のみ業であること。
4 神以外の一切のものが被造物であること。
5 完全創造の教理。
6 創造は無よりの創造であること。
① まず創造を父のみのみ業とすることの誤りが指摘されている。ウエストミンスター小教理問答では「その御力の言葉によって」(問9の答)創造されたとあるように、第二人格であるロゴスは創造者であり、聖霊も被造物ではなく、最初より創造の業に深く関係していたことが、創世記1章で明白である。
だから、使徒信条で「我は天地の造り主」と言われているのは、単に三位一体の第一
人格を指すものではない。コロサイ人への手紙1章にある通り、キリストは明らかに創
造主である。このキリストの宇宙論的意義の教えは、キリストの完全神性論を構成する
一大要素である。
② 創造の究極の目的が、神ご自身のご栄光にある、と言うことは、一切の人本主義
や自然主義を根底から覆すことが出来る唯一の原理である。神の一切の行為は究極的には自己目的的である。神が何か神以外のものを目的として行為すると言うならば、神の自己充足と言う原理は破綻する。自己充足者でない神は、真の有神論的な神ではない。
③ 創造の時に関しては、古くより二つの誤謬が広く行きわたっていた。一つは、永
遠創造説であり、他方は永続的創造説である。前者はオリゲネスなどの主張したものであって時間を摂理と不可離的に結合しているものと考えるところから、摂理と区別された創造は時間の中にないと判断するために、永遠における事柄と推論され、結局、創造と永遠の聖定が同一視され、混同されたのである。
ところが時間の対立語を、永遠と考えず瞬間と見るところから、瞬間創造説というものも現れてきた。そして永遠創造説と瞬間創造説とは、ともに時間に対する無時間または非時間という考え方をした。アウグスチヌスがこれらに対して「創造は時間の中においてなされたのではなく、時間と共に創造された」と説明したのは有名である。バルト神学でも創造の時を堕落の時と区別しようとして、創造即永遠と理解しているような印象を与える。
本信仰告白は、創造の時を「初めに」と主張するが、これは歴史の初め、時間の初めであって、永遠界の出来事ではないと言うことである。創造が時間に対する瞬間ではなく、一定の期限を持つことを示すために「六日の間」を主張している。もちろんこの六日間は、わたしたちの24時間と同一の時限と考えなければならないかどうかについては、創世記1章の註解上、定説と見るべきものは出来てはいなない。
太陽の回転速度が創造時と現在とで不変であるか、太陽の出現以前と以後とで一日が同じ長さであったか、考えて行くと断定困難な課題となっている。ただ、それが永遠界の出来事でもなく、やはり一定の過程を持って順序ある業としてなされたと見なくてはならない。
④ 神の霊は不可見物と同一ではい。サタンも一個の霊的存在者である。分けても精
神を神と同一視してはならない。公同信条が表明したように、神は神以外の一切の見えるものと見えないものをお造りになったのである。人間は肉体のみでなく、魂もまた、被造物である。それは、あらゆる迷信を排斥する偉大な原理である。
⑤ 完全創造と言うことは、二つの点で大切な真理である。第一は、創造的進化論や
有限の神などと言う思想を排斥するために大切であって、神の創造のみ業は初めの六日間をもって完成したのであり、以後の神の業はすべて摂理のみ業である。
カルヴァンもそう考えていたと思うが、六日間の創造を、さらに二つに区分して、第一を絶対的創造、すなわち無よりの創造と、第二を相対的創造、すなわち六日間の形成とに分けるならば、後者は既に、ある意味で摂理的性質をおびている。無より存在させられるのは、創造の厳密な意味であり、既に存在している物が保持または変化させられるのは、摂理であると言える。
しかし、六日間で存在したものを、ある形に形成するみ業は、摂理的要素を含みつつも、やはり根本的には、そのものの固有な形態にまで作り上げるのであるから、創造のみ業であると言える。この意味で、六日間に一切の事物はその固有性にまで存在させられたのであって、無より一切のもの、質料としての無差別的な被造物が存在させられた事実のみに、創造という用語を限定するは当たらない。
第二に、今日私たちが見ている世界の悪、不合理、腐敗した性質と言う一切の矛盾的事実は、その起原をこの六日間のみ業の中に持つのではなく、それ以後、天使や人間の堕落に起因することを明白にするために、この完全創造の教理は大切なのである。
⑥ 最後に、最も重要な問題である「無より」という点を考えてみたい。創造するとは、すなわち、無より造ることだと書かれている。厳密には、まず万物の質料となるべき一切のものが、無より創造され、その後、この創造されたものを材料として一切の事物がそれぞれの固有性に形造られたと見るべきであるから、六日間の業が、そのまますべて無より創造されたと言われる訳ではない。
この「無からの創造」という教理は、私たちに、次の点を明らかにする。
1 神以外に永遠より自存したものは一つもない。 2 無とは、あるものの意味ではない。すなわり、無よりというものがあったのではない。 3 万物が創造される場合、神以外に何かこの創造の媒介手段、第二原因などと言うような役割を果たす何物かが万物に先たって存在したり、作られてあったのではない。 4 しかし、神の創造は突如として神の中に湧き立った偶発的意志や知恵の行為ではなく、永遠の聖定に基づく創造であった。
無は資材的に何ものもなかったと言う意味での無であり、聖定は叡知的根源と言う意味での創造の先行者である。神の内なる永遠は、世界の時間的先行者、または論理的先行者と言うようなものではない。創造論の核心は要するに、永遠と時間とに問題である。時間に対して無時間的世界というようなものを考える時、それはスピノザ的な論理に他ならない。永遠の相とは、単なる幾何学的必然界に過ぎない。時間に対して永遠性を持たない瞬間を永遠界と考える時、キルケゴール的非論理の世界を空想することになる。
これらは共に、非時間として時間の対立者ではあるが、決して時間としての真の永遠界を指示しないであろう。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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毒婦イゼベル
=列王紀上 18章以下=
イゼベルは、聖書に出てくる婦人たちのうち、一番の憎まれ者でしょう。彼女の名前を聞くたびに私は人間とはこんなに弱く堕落しやすく、罪深い者であるかをつくづく感じさせられます。イゼベルはジドンの国の王女で、イスラエル王アハブと結婚して、太陽崇拝の偶像バアルをイスラエルにもって来た人物です。彼女はこの偶像崇拝を国内に取り入れたばかりか、これを国民に強制しました。王アハブもこれに従ったために、神は3年半の間、雨を降らせたまいませんでしたので、イスラエル全国は、大干ばつとなり、飢饉のため国民は大変苦しみました。
この干ばつの終わり頃、エリヤはカルメル山に、イスラエルの全ての人と、バアルの予言者450人と、アシラの予言者400人を集めて、「あなたがたはいつまで二つのものの間に、迷っているのですか、主が神ならばそれに従いなさい。しかし、バアルが神ならばそれに従いなさい」(21)と言って、二つの祭壇を、一つはエホバのために、一つはバアルにために築かせ、捧げ物を供え、火をつけずに、「互いにじぶんの神の名を呼び、そして、火をもって答える方を神としよう」と言いました。
民の者が皆、それがよかろうと言いました。バアルの予言者たちは、昼過ぎまで「バアルよ答えてください」と大声で叫びつつ、祭壇のまわりを踊りましたが、しかし何の答えもありません。エリヤは彼らをあざ笑って、「もっと大声で呼べ、バアルは旅しているか、眠っているのだろう」と申します。彼らは半狂乱になって狂い回り、果ては自分で自分の体を傷付け、血を流すほどでしたが、夕方になっても、何の答えもありません。
そこでエリヤは民たちを近寄らせて、祭壇に三度水をかけさせ、「主よ、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であることを知らせてください」(37)と祈りました。するとたちまち、エホバの火が下って、祭壇の上の供え物を焼きつくしてしまいました。民たちは、これを見て、「主が神である。主が神である」と叫びました。エリヤはバアルの予言者をことごとく捕らえて、キション川で殺しました。
王妃イゼベルはこのことを聞いて、エホバをまことの神と認めるかと思いましたのに、かえって非常に怒ります。そして、あすの今時分までにエリヤを殺そうと決心しました。エリヤは、またしても都を逃げ出さねばなりませんでした。彼はベエルシバの荒野から、ホレブ山に逃れ、神の預言者を殺そうとするイスラエルの不信仰を歎き、失望のあまり、エニシダの木の下に座って死をさえ願うようになりました。
この時、神はいろいろな方法で彼を力付け、励まし、「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」(19:18)と慰められました。
続いて、私たちは列王紀上21章で、イゼベルの極悪振りを見るのです。それはナボテのぶどう畑の話です。
王アハブは、自分の家の隣りにいるエズレル人ナボテのぶどう畑を手に入れようと、いろいろ交渉しました。しかし、ナボテは、これは先祖から伝わっている土地だから売ることは出来ませんと、交渉に応じません。王は怒って食事もせず、終日床の上に転がり、子供のようにだだをこねていました。
これを見た王妃イゼベルは、「あなたは今イスラエルの王ではありませんか。これしきのことが何です。わたしが畑を取ってあげましょう」と言って、ナボテの町の長老たちに命じ、ナボテを多くの民の前に立たせ、偽証人二人を送って、「ナボテは神と王とをのろった」と偽証させ 民を怒らせナボテを引き出させて石で打ち殺させました。何と言う非道でしょう。
イゼベルは王に、「あなたに金で譲ることを拒んだ、ぶどう畑を取りなさい。ナボテは生きていません」と申しました(15)。
王はぶどう畑を取ろうとした時です。神は預言者エリヤを送って、「犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめる」(19)と告げられ、また、イゼベルについて、「犬がエズレルの地域でイゼベルを食う」(13)と、厳しい預言をしました。アハブ王はそれによって悔悟いたしましたが、預言の通り、敵の矢に倒れました(22:34~35)。
夫である王の死により、イゼベルは悔悟するかと思いましたが、彼女は悔悟どころか、かえって彼女の悪事がつのるのみでした。
彼女は、新しい王エヒウがエルサレムに入場すると聞いて、美しく化粧し、窓際に立って新しい王を誘惑しようと試みたのです。イゼベルは、自分の容色をたのんで人を誘い、悪に陥れても自分は享楽しようとする、本当の毒婦型の女でした。
新しい王エヒウは、早くもこのことを見抜いて、人をやって家の中から突き落とさせて殺しました。その後、新しい王は、イゼベルは悪い人間であるには違いないのですが、もとは王妃ですから、その死体を収容させようとしました。その時、死体は堀の中で、犬に食われていました。エリヤの預言通りで、これが本当の犬死でしょう(列王紀下9章参照)。
このむごたらしい話にも、大きな教えがあります。
1 魔性の女の力強さ。
アハブは弱い性格であり、妻の力は実に大きいものでした。イゼベルの魔力に国中がひきずりまわされた観があります。私たちの注意したいのは、クリスチャンである夫がよい信仰をもっていても、不信仰な妻の力に、あっけなく負かされて、正しい信仰から脱落する実例をここに見ることが出来ます。
2 このイゼベルにも、まことの道に帰る機会が二度、三度、神から与えられていました。ことに、旧約史上二人といない大預言者エリヤに会いながら、その忠告に耳をかさず、悪に走り、ついに犬死したのです。
世の中には、相当長く教会生活を送っているクリスチャンでも、どうかすると、牧師の言葉に耳をかさす、自分の悪いことを棚にあげて、かえって注意する牧師を嫌う人がありますが、イゼベルもその例に漏れない人物でした。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
戦犯者の獄中記 (24) 遠山良作 著
昭和21年
―松岡大尉たち三名絞首刑になる―
11月8日
鈴木喜代司曹長は判決を当日の日記に(原文のまま)
8月27日。運命を決する宣告の日だ。身を清めて如何なる判決にも動じない心の準備をして外に出る。何時もと変わらぬ英兵に迎えられて自動車に乗る。僅かな隙間から見る街の風景も当分、いやこれっきり見られないかも知れない。法廷に行く最後の階段を昇り乍ら、「お前は覚悟は出来ているか、最悪の場合の心構えは出来ているか」と何処からかささやく、ふと眼の前を母の幻が飛んでくる・・・・」(中略)
論告が終わった後、休憩があり。再び2時30分より開廷され、第一、第二告発別に福田上等兵を除き、全員に有罪を言い渡される。福田上等兵は先に帰される。彼のみ無罪になったのは喜ぶべきだ。このあと吾々を代表して、松岡分隊長が吾々の立場を陳べる挨拶があった。実に堂々たる立派な挨拶であった。そして十分の後、ついに断が下された。
分隊長、加藤と共に私も絞首刑を宣告された・・・中略
この死の宣告を受けた瞬間さしたる心の動揺もなかった自分が不思議であった。しかし、これが死の宣告を受けた者の自然の姿かも知れぬ。自分はこの死の宣告を下されることを予期していなかったし、勿論覚悟もできていなかった。ただ最悪の場合も考えていなかったが、それ程深刻に考えなかった・・・中略
ぐっと裁判長を睨んだ目、悲痛な面持ちで裁判長を見つめる弁護人(相門大差、斉藤通訳)を見た瞬間、これまで戦い、あれ程の努力が水泡に帰し、がっかりし、唖然とした姿に見え感情が高まると共に、己が身よりこの人に申し訳なく気の毒に感じられた。
8月28日。 昨夜はまんじりとも出来なかった。それは死刑の宣告を受けた者の感ずる悲しみからか・・・、寂しさに捕らわれて抜けきらぬためか・・・。そうではない、今はそのような感じでもない。故郷に残る母を思い兄を思い、友を思いか、それも確かにある。それは未練から来る思いでもない・・・中略
ただ私の最後を知ったとき、その人たちは如何に歎かれるだろうと思うと何とかして今の平静で少しも悔いない気持を伝えたい。そして少しでも悲しませたり、苦しませたくない今の気持である」。
と判決当日の気持を日記に残している。事件に関係なかった鈴木曹長はきっと口惜しいことであろう。(事件の内容は8月27日に記す)
三名の友を絞首台に送り、静かな夜を迎えた。小川軍曹が松岡大尉の残した痛恨歌を唄う。私は頬から流れる涙を拭いつつ共に歌った。
戦友だちは 天つみ空の 神となり 皇国護ると 和歌に残して
断頭の 露と消えにし 友がらを 偲ぶ今宵は 月も曇りて
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
「キリスト教百話」・・・2
問2 教会ではどんなことがなされていますか。
答 お寺や神社へは「お参りに行く」と言いますね。そして、お参りしている姿は、外から誰にでもよく見えますし、多くの人は子供の時からそういうことになじんでいますから、とくにこのことについて疑問を持つことは無いでしょうね。中には、教会に行く人に「今日はお参りですか」と尋ねられる人もいますが、こういう人は、教会の中でなされていることがどういうことかは分からなくても、「お参り」に変わりがないことと思っておられることでしょう。
「お参りに行く」ということが「拝みに行く」ということであるなら、教会へ行くことも神様を拝みに行くことと言ってもよろしいでしょうし、事実、教会でなされていることも日曜日の「礼拝」でありまして、これを行っていないなら教会とは言えません(なぜ「日曜日」かについては、別の機会に述べます)。
そういう風に、教会では神様を礼拝することを一番大切なこととして行っておりますが「礼拝」という字が「礼をして拝む」ことを意味していると言いましても、教会での礼拝では形の上で手を合わせたり頭を下げると言うことはありません。そういう形でなされていることを意図的に退けているわけではありませんが、キリスト教会での礼拝は、神様に向き合ってのこととして言えば、懺悔をし、感謝をし、お願いをし、そして何よりも神をほめたたえることを、讃美歌を唄い、祈りを献げることによって、行っているのです。
それと、その「神のみこころ」が何であるかが分からなければ、懺悔も感謝も見当違いになりますから、神の言葉としての聖書が朗読され、その内容が解き明かされることとして、牧師による(牧師だけに限りませんが)「説教」がなされます。要するに、「礼拝」ということは、神様がどういう方であるかがその都度明らかにされ、それに対する人間の側での応答がなされることとしてなされているわけです。
教会が何をする所であり、教会へ行くことが何をするためであるかと言うなら、することとしては以上のことでありますが、但し、これはすること自体を目的としてのことではなく、神様がどういう方であり、その神様との関係において、自分がどんなに祝福されているかを知り、従って、このことに応じて、自分がどう生きることが最もふさわしいことであるかをその都度確認して、自分の歩みを新しくしていくことが、神の側からも人間の側からも求められていることとして、日曜日ごとの礼拝をし続けているのです。
礼拝のほかにも、聖書を学ぶ会、祈り合う会、婦人会、青年会、日曜学校など様々な会がありますが、どの集まりも、キリストよって明らかにされている神のみ心を、より深く知り、生きる方向が正しくされることを願ってのことであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
2月
3日 深井智朗 (金城学院大学宗教主事)
10日 深井智朗 (金城学院大学宗教主事)
17日 落合健仁 (金城学院大学宗教主事)
24日 落合健仁 (金城学院大学宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (10)
良いオリブの木は一つしかありません。枝が切り去られ、他の枝が接木される。しかし、その一本に良いオリブに木は生きているのです。地上には唯一つの契約の民しかいません。そしてその民が旧約・新約を貫いて続いているのです。良いオリブの木によって象徴されている真の契約の民は旧約の教会であり、また新約のイスラエルでもあるのです。良いオリブの木という象徴は、新約の教会が旧約のイスラエルと本質的な統一性と連続性をもっていることを示しているのです。
近代の契約期分割主義(デイスペンセーショナリズム)は、教会とイスラエルとの間に鋭い区別を置いて、「イスラエルはイスラエル、教会は教会である」と主張します。-すなわち、新約の教会と旧約のイスラエルとの間の統一性と連続性を否定してしまう。-しかし、契約期分割主義はパウロのこのオリブの喩えを正しく説明することが出来ません。
実質的にここの箇所は契約期分割主義の人々にとっては正にやっかいな箇所なのです。
契約期分割主義者は、イスラエルなどに対する旧約の諸約束は新約の教会に帰属するものではなく、厳密にユダヤ人にのみ帰するものであり、未来において文字通りユダヤ人に成就されなければならないと教えています。これらの諸約束をキリスト教会に適用することは、それらをユダヤ人から盗むことに等しいと言う人がいます。しかし、パウロはオリブの木の喩えに照らして考えるとき、私たちは純粋なイスラエル、すなわち、約束がなされた真のイスラエルは、旧約と新約の両時代を貫いて一つであり、一つの良いオリブの木によって示されている契約の民の集団であると主張しなくてはならないのです。従って、キリスト教会は旧約において神の恵みの約束が与えられた真のイスラエルなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
母と私とで楽しみにしていた「つのぶえジャーナル」1月号が届きました。毎月、楽しみに待っているのは私以上に母です。私が読んでから母に届けます。車で40分くらいのところで独りでいます。山の中です。買い物は携帯で言ってきて、毎週、礼拝後に届けています。健康でいてくれるので感謝しています。渡した、「ジャーナル」が届くと、先ず全体を読みます。そして母に届けます。それから自分のパソコンでゆっくり読んでいます。母は、時間をかけて読んでいるみたいです。身勝手な母と娘ですが、これからもよろしくお願いします。「ジャーナル」愛好者の皆様が、神様からのお守りを頂いてお過ごしください。
和歌山県 M・Nさん
******************
憲法第25条(国民の生存権と国の保障義務) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
☆ 今日は、今年もよろしくお願いいたします。何時も思っていたのですが、どうも文章と写真がアンバランスなことでした。普通の読み物やホームページは文章と写真には関係あるのに、どうしてかなあ・・・と思っていましたが、最近、やっと気付いたのですが、写真を送ってくれる人は、文章や内容には無関係に送られるのだということで、納得したら、写真を送ってくださる方の気持ちが分かって、親しみを感じてしまいました。印刷の写真よりパソコンで見るととても温かみがあって、「ジャーナル」全体には大切なことなんだと思いました。これからも楽しい写真を期待しています。カメラマンさん有難うございます。
福井県 J・Kさん
☆ 今年一年も愚痴友達、痛み友達としてよろしくお願い致します!と言い合える友達がいます。心を許し合えて、泣きごとを言って、大いに笑える友がいるは有難いことです。電話代節約をお互いに考えて、メール交換になりましたが、それとなく声が聞きたくなったら、双方通話?も楽しんでいます。
兵庫県 中年専業主婦さん
風はまだまだ冷たいですが、木々の梢には小さなふくらみが沢山ついているのを見つ けました。お花屋さんには色とりどりのチューリップがありました。皆さんのところにも春を知らせるものがあることでしょう。
2月号もお届けできました。皆さんのお祈りに支えられ、励まされて、作業することが出来ました。ありがとうございました。
どうぞ、お友達などにこの『つのぶえジャーナル』をご紹介下さい。またメールアドレスをご利用くださり、お気軽にご投稿下さい。大歓迎です。
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『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
藤沢徳治様 匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
2013年1月16日から2013年2月15日‘まで
「つのぶえジャーナル」刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です。
=詩篇9:7=
「集い」には、それぞれの雰囲気があります。それは、そこに集う人によって作られますし、その会の目的・趣旨によって決まるものです。今では、都会では、異業種間の交流、また趣味などの場合もあります。
詩篇の詩人は「聖なる者の集い」は恐るべきものと言います。それは、その主催者にある方が、普通の集まりと根本的に違うということでしょう。人の集いには、人間の目的を持って集いますし、たとえその集う趣旨がどうであれ、決して「聖なるもの」とはいえません。
教会は、主の主催によって集う所です。言い換えると、神のご支配の中にあって集い、集えるところです。しかし、そうであるにもかかわらず、なぜ私たちが神のそのような強さ、憐れみの招きに与っているのに、子供のようになれないのでしょうか。神のみ手が短じか過ぎるかのような、また、気持ちはどうしてなのかという思いになるときもあります。言葉では、神様への信頼を口にしながら・・・。
謙虚に自分を振り返ってみる時、「神への信頼」の不十分・不徹底さ、無気力や、無感動という罪がそうさせているのです。しかし、このみ言葉の中に希望があります。「主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です」と示されています。
私たち一人一人の人間は、自分が信仰において弱いことを知る場合にも、「聖なる者の集い」の中で、この崩壊している信仰が新たに立て直してもらうことが出来るということであります。
今年、この「主は聖なる者の集いに」集い続けましょう。そのような日々の一年でありますようにお祈りいたします。
=詩篇9:7=
「集い」には、それぞれの雰囲気があります。それは、そこに集う人によって作られますし、その会の目的・趣旨によって決まるものです。今では、都会では、異業種間の交流、また趣味などの場合もあります。
詩篇の詩人は「聖なる者の集い」は恐るべきものと言います。それは、その主催者にある方が、普通の集まりと根本的に違うということでしょう。人の集いには、人間の目的を持って集いますし、たとえその集う趣旨がどうであれ、決して「聖なるもの」とはいえません。
教会は、主の主催によって集う所です。言い換えると、神のご支配の中にあって集い、集えるところです。しかし、そうであるにもかかわらず、なぜ私たちが神のそのような強さ、憐れみの招きに与っているのに、子供のようになれないのでしょうか。神のみ手が短じか過ぎるかのような、また、気持ちはどうしてなのかという思いになるときもあります。言葉では、神様への信頼を口にしながら・・・。
謙虚に自分を振り返ってみる時、「神への信頼」の不十分・不徹底さ、無気力や、無感動という罪がそうさせているのです。しかし、このみ言葉の中に希望があります。「主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です」と示されています。
私たち一人一人の人間は、自分が信仰において弱いことを知る場合にも、「聖なる者の集い」の中で、この崩壊している信仰が新たに立て直してもらうことが出来るということであります。
今年、この「主は聖なる者の集いに」集い続けましょう。そのような日々の一年でありますようにお祈りいたします。
小閑記
ある安息日のこと、食事をするためにあるパリサイ派のかしらの家にはいっていかれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
=ルカ14:1=
イエス様の敵たちは常に、イエス様を不利にする材料を見出そうとうかがっていました。私たちにも、この種の人々はキリスト者に向かって何か落ち度はないかと注意深く見ています。自分で考えているよりはるかにひどく、私たちの欠点を探し出して、キリスト者の生活と信仰に非難の目を向けているのです。それは、自分の罪をキリスト者の欠点、不完全さ同一視して自分を正当化しようとしている企てのようです。「他の人に勝っていると主張するこの人々と同じように、わたしたちも善良である」と思い、他人の欠点で自分を慰めるという愚かさに気づいていないことは、悲しいことです。
しかし、それはそれとして、私たちキリスト者は、しばしば非難や嘲笑の原因となってもおります。また、キリスト者にされる前の姿や思いを忘れやすい面もあります。また、自分の責任を忘れやすく、キリスト者の視点ではなく、人の目線で見るとき、危うい道を歩いているともいえます。
ふと立ち止まりませんか! 祈りを忘れていませんか? み言葉に心を向けていますか?
見られている時は、証しの時でもあります。不完全であるために、謙虚に。心弱いために、み言葉に学び、感謝の思いを大切にするために、神様を思い、感謝と賛美の時を礼拝に求めるなら、人々は、きっとあれがキリスト者の生き方であると認められる歩みでありたいものです。
「あなたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」とイエス様は言われています。
上河原立雄
ある安息日のこと、食事をするためにあるパリサイ派のかしらの家にはいっていかれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
=ルカ14:1=
しかし、それはそれとして、私たちキリスト者は、しばしば非難や嘲笑の原因となってもおります。また、キリスト者にされる前の姿や思いを忘れやすい面もあります。また、自分の責任を忘れやすく、キリスト者の視点ではなく、人の目線で見るとき、危うい道を歩いているともいえます。
ふと立ち止まりませんか! 祈りを忘れていませんか? み言葉に心を向けていますか?
見られている時は、証しの時でもあります。不完全であるために、謙虚に。心弱いために、み言葉に学び、感謝の思いを大切にするために、神様を思い、感謝と賛美の時を礼拝に求めるなら、人々は、きっとあれがキリスト者の生き方であると認められる歩みでありたいものです。
「あなたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」とイエス様は言われています。
上河原立雄
今年も大雪、外は吹雪いています。残り柿も僅かになりました。小鳥たちも風が止むのを何処かの木の茂みで待っていたのでしょうか。厳しい冬の到来です。新しい年が皆様にとって恵み豊かでありますようにと祈っています。
新潟県 T・Tさん
4月から小学一年生になる娘は、おばあちゃんから贈られたランドセルを毎日背負って、楽しみに待っています。産まれたときは未熟児で、よく病気をしていましたが、今は、健康そのものです。親として、これにまさる喜びはありません。支えた下さった病院の関係者の方々、そして、何時もお祈りくださった教会の皆様に感謝しております。子供の成長って素晴らしいと思いました。
山口県 K・Iさん
日々を振り返って気付いたことがあり、驚いてしまいました。新聞やテレビの暗いニュースに囲まれて、自分の心が鏡に映し出された自分の姿には笑顔が見えないことです。ただ時間が過ぎて一日が終わる日々に、何の違和感も感じていない無感動な心には、笑顔なんてありませんよね。そんなことに気付いてから、日常の繰り返しが、実は感謝であることに気付いたのです。笑顔は戻るのですね。
愛知県 J・Oさん
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円