2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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(110)
猫 草
寒くなり、木々の葉も落ち、なんだか無彩色な風景になると、せめて花壇に鮮やかな色彩が欲しくなる。寒さに強い植物もいろいろ店頭に並んでいるので、そろそろ植え替えだな・・とプランは頭を駆け巡る。しかしその前にやるべきこと。枯れかけたコスモスや伸び放題の千日紅、くすんだ色合いのケイトウの処分である。この作業はいつも気が重い。
ガーデニングというのは自分の好きなように植物を配置し育て、いわば小宇宙を形成できる。これをこっちに、あれをあっちに、生殺与奪の権利はこちらにある。仮に失敗してもだれが文句を言うわけではない。丁寧に世話をすればそれだけ理想に近づく。
とはいえ、どんなにプロセスを頑張ったとしても、最終的には植え替えとなる。そのたびに「あーあ、また葉っぱも病気、つぼみのまま枯れて、ひょろひょろ茎だけ伸びてバランス悪い・・」と思いつつ、まだ生きている植物を引っこ抜く。根っこは必要以上に元気なのに滅入る。そのまま捨てるのは辛いので駐車場脇の10cmほどの細長い地面に穴を掘って植える、いや埋める。日当たりは悪いし、そこに植えたら基本的に手入れしないので、単なる責任の先送りである。とはいえ地力を得て奇跡的な復活を遂げることも稀にあるので一縷の期待はかけている。
そして空いたプランターのために、性懲りもなく新しい植物群の夢想を始めるのだ。本来は古い土は全部ふるいにかけて入れ替えるべきだが、面倒なので半分ぐらいかき混ぜて良しとする。もしこんなオーナーに向かって植物が話しはじめたら?何を言われるか想像するだけでぞっとする。例えば、紫と黄色のビオラ。あのパタパタした花、小さい声で一斉にきゃらきゃら話しそうな気がしませんか?「ねえ、こんな場所で無理なんですけどー、前の根っこが残ってるしー、肥料足りないしー、日当たり悪いしー、水忘れるしー、で、時々やりすぎるしー、枯れた葉っぱとかも気が向いた時しか手入れしないしー、基本ずぼらっていうかー、何様ーって感じ~?」みたいな。いや、植物の声が聴こえなくて本当に良かった。
次はもう少し長く咲かせよう、多年草で丈夫な品種なら春まで持つかも。学習しないまま次の季節の美しい姿を思い描けるのは、素人ガーデナーの甘え。誰にもとがめられない気楽さである。儚いのは承知だが、スクラップ&ビルドは世の常と割り切ろう。だって次の構想を練る時が一番楽しいもの。さあ寒空を明るくするような紅白ピンクのガーデンシクラメンをたくさんと紫のグラデーションが華やかなハボタン、小さなコニファーやアイビーで緑も添えよう。一緒に小さなウサギとリスの置物も飾ろう。箱庭のような世界を構築する瞬間はささやか。でもままならぬことの多い日常の中での確かな現実である。「幸せ」や「夢」と呼んで差支えないと思う。
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その愛のゆえに
=時々の記=
(81)
11月14日
木枯らしが吹き荒れ、もう師走なみの寒さとか。名古屋はいかがでしょうか?奈良では、金剛山に初冠雪が見られたとか。とても寒いです。ストーブなしでは過ごすことができない寒さです。
今年の冬は暖冬傾向にあると予測されていたのですが、今は例年より寒さは厳しいです。
これから半年あまり寒さに耐えて行かなければなりませんから、少しずつなれていくしかありません。
早いもので、二か月続きのカレンダーではもう最後のページになりました。ここまで支えられていますことに感謝したいものです。
谷深くせせらぎ奏づ秋の山。
湖を見下ろす所秋日濃し。
山陰に清楚に並ぶ男朗花。(おとこへし)
早朝やほほかぶりして犬散歩。
峻険な平家の里に冬日差す。
引っ越して病を得るやつわの花。
立冬やひと際光る明けの星。 馬場路哉
11月15日
毎年のことですが寒さがやってくると、冬眠状態になります。あまりの寒さに何かをする気力が失せてしまうのです。家の中でも、古い家なので、ヒューヒューと隙間風が冷たくほほを撫でていきます。
布団から顔を出すとしもやけになってしまいます。ですから、もぐりこむか、スカーフを頭にして休まないととても寒くて何度も目が覚めてしまいます。まるで、信州なみです。幼いころ、信州では皆で、掘りごたつを囲んで寝ました。朝、足元がとても暖かいので、なんだろうと思って足先を見ますとその掘りごたつの中に足を突っ込んでいるのです。もちろん足の先は、水膨れです。やけどをしているのも知らないでいたことが今懐かしく思い出されるのです。今日からはしっかり厚着をしておなかにはカイロを貼って何とか動き回っています。
11月19日
ちょうど、6年前、主人が悪性腫瘍のために三重大学病院に入院したことを思い出しています。
どうぞ、無理をなさらずに・・・。
立冬や、かぎろひを見る、犬散歩。
朝日映え油光りの冬の川。
銀髪の如く日を浴ぶ枯れすすき。
犬小屋に敷物入れて冬支度。
句会場出ればほんのり時雨けり。 馬場路哉
神様が長村さんの、入院・手術が無事に執り行われますように切に祈っています。
11月27日
急に真冬並みの寒さです。今朝は3度まで、下がりました。
カイロを背中とおなかに二つ貼って、犬たちとの散歩に出かけます。行きは寒いのですが、20分の散歩を終えるころになると、ホカホカしてきます。犬たちは白い息を吐きながらも、この唯一の楽しみを待っていますので、雨が降っても雪が降っても、欠かすことのできない日課です。
12月9日、山添村でパイプオルガンの演奏会が開かれます。パイプオルガンといっても小型のもので、膝の上に載せて、机に置いてのものだそうです。山添村に住んでいる方が20年前から、パイプオルガンの制作に取り組まれ、それが最近になって専門家の方たちに認められてきたそうです。
演奏してくださるのは東京芸大卒の武久源造氏という方だそうです。
今からその演奏を聴くのを楽しみにしていますが、今年のささやかなクリスマスプレゼントになりそうです。
11月28日
先程、12月号が届けられました。今月の言葉を読ませていただいています。
この12月、一年のしめくくりを神様にしっかり目を向けて、希望を持って歩んでいきたいと切に願っています。黙示録の御言葉にあるように、「恐れるな。私は初めであり、終わりであり、またいきている。」この御言葉のように、神様は生きて働いて、私たちを支え導いてくださっていることに感謝します。しかし、時にはあまりのこの世の不条理に絶望、落胆、悲しみに明け暮れることもありますが、そのような時であっても、神様の憐みを信じて生きていきたいものです。
12月6日
犬の掘るモグラの土や冬初め。
掃き寄するクヌギ落ち葉の音たてり。
ローカル線半時(はんとき)待てる小春かな。
名を持てる湖を秘む紅葉山。
黄落(こうらく)やピアノのタッチ強きこと。
樫の実の半ば混じれる落ち葉掃く。 馬場路哉
明日にかけて、この冬一番の寒さの到来とか。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
=時々の記=
(81)
11月14日
木枯らしが吹き荒れ、もう師走なみの寒さとか。名古屋はいかがでしょうか?奈良では、金剛山に初冠雪が見られたとか。とても寒いです。ストーブなしでは過ごすことができない寒さです。
今年の冬は暖冬傾向にあると予測されていたのですが、今は例年より寒さは厳しいです。
これから半年あまり寒さに耐えて行かなければなりませんから、少しずつなれていくしかありません。
早いもので、二か月続きのカレンダーではもう最後のページになりました。ここまで支えられていますことに感謝したいものです。
谷深くせせらぎ奏づ秋の山。
湖を見下ろす所秋日濃し。
山陰に清楚に並ぶ男朗花。(おとこへし)
早朝やほほかぶりして犬散歩。
峻険な平家の里に冬日差す。
引っ越して病を得るやつわの花。
立冬やひと際光る明けの星。 馬場路哉
毎年のことですが寒さがやってくると、冬眠状態になります。あまりの寒さに何かをする気力が失せてしまうのです。家の中でも、古い家なので、ヒューヒューと隙間風が冷たくほほを撫でていきます。
布団から顔を出すとしもやけになってしまいます。ですから、もぐりこむか、スカーフを頭にして休まないととても寒くて何度も目が覚めてしまいます。まるで、信州なみです。幼いころ、信州では皆で、掘りごたつを囲んで寝ました。朝、足元がとても暖かいので、なんだろうと思って足先を見ますとその掘りごたつの中に足を突っ込んでいるのです。もちろん足の先は、水膨れです。やけどをしているのも知らないでいたことが今懐かしく思い出されるのです。今日からはしっかり厚着をしておなかにはカイロを貼って何とか動き回っています。
11月19日
ちょうど、6年前、主人が悪性腫瘍のために三重大学病院に入院したことを思い出しています。
どうぞ、無理をなさらずに・・・。
立冬や、かぎろひを見る、犬散歩。
朝日映え油光りの冬の川。
銀髪の如く日を浴ぶ枯れすすき。
犬小屋に敷物入れて冬支度。
句会場出ればほんのり時雨けり。 馬場路哉
神様が長村さんの、入院・手術が無事に執り行われますように切に祈っています。
11月27日
急に真冬並みの寒さです。今朝は3度まで、下がりました。
カイロを背中とおなかに二つ貼って、犬たちとの散歩に出かけます。行きは寒いのですが、20分の散歩を終えるころになると、ホカホカしてきます。犬たちは白い息を吐きながらも、この唯一の楽しみを待っていますので、雨が降っても雪が降っても、欠かすことのできない日課です。
12月9日、山添村でパイプオルガンの演奏会が開かれます。パイプオルガンといっても小型のもので、膝の上に載せて、机に置いてのものだそうです。山添村に住んでいる方が20年前から、パイプオルガンの制作に取り組まれ、それが最近になって専門家の方たちに認められてきたそうです。
演奏してくださるのは東京芸大卒の武久源造氏という方だそうです。
今からその演奏を聴くのを楽しみにしていますが、今年のささやかなクリスマスプレゼントになりそうです。
11月28日
先程、12月号が届けられました。今月の言葉を読ませていただいています。
この12月、一年のしめくくりを神様にしっかり目を向けて、希望を持って歩んでいきたいと切に願っています。黙示録の御言葉にあるように、「恐れるな。私は初めであり、終わりであり、またいきている。」この御言葉のように、神様は生きて働いて、私たちを支え導いてくださっていることに感謝します。しかし、時にはあまりのこの世の不条理に絶望、落胆、悲しみに明け暮れることもありますが、そのような時であっても、神様の憐みを信じて生きていきたいものです。
12月6日
犬の掘るモグラの土や冬初め。
掃き寄するクヌギ落ち葉の音たてり。
ローカル線半時(はんとき)待てる小春かな。
名を持てる湖を秘む紅葉山。
黄落(こうらく)やピアノのタッチ強きこと。
樫の実の半ば混じれる落ち葉掃く。 馬場路哉
明日にかけて、この冬一番の寒さの到来とか。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
岡田 稔著
第三章 神の永遠の聖定について(2)
3 神の聖定によって、神の栄光が現われるために、ある人間たちとみ使たち(1)が永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている(2)。
1 Ⅰテモテ5:21、マタイ25:41
2 ロマ9:22,23、エペソ1:5,6、箴16:4
三 物質は水と火であれ、究極的には同性的であると言えるが、善と悪は被造界に関し
て最も究極的な二元性を示している。それによって生じた究極的区別の根源は、結局、神
の聖定以外に求めるべきではない。この予定論、選びの根本問題であり、聖定論はもとも
と、この問題の包括的論議に他ならない。ルター派は永遠のいのちへの選定のみを告白す
るのに対し、改革派教会は双方予定論を保持している。
4 このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、増し加えられることも、減らされることもできない(1)。
1 Ⅱテモテ2:19、ヨハネ13:18
四 これは双方予定論の当然の結論であるが、この教理に対する温和化が試みられた中で、一つは集団的予定論という考え方であって、選びも放棄も個別的でなく、グループ的であるという説(ローマ人への手紙9章以下をこのように註解する者が多い)に対する排斥と思われる。ウオーフイルドの「救いの計画」を見るとよくわかる通り、カルヴァン主義は個別救済論を主張している。
5 人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって(1)、それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく(2)、すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである(3)。
1 エペソ1:4,9,11、ロマ8:30、Ⅱテモテ1:9、Ⅰテサロニケ5:9
2 ロマ9:11,13,16、エペソ1:4,9
3 エペソ1:6,12
五 前半は、救いは選ばれた者の選びが、その目的、その原因、そして、その経過のすべてについて、神によるものであることを示し、後半はその選びが、決して選ばれた人間自身の何ものにもよらないことを示している。すなわち、業による選びではないのみか、信仰というものを、何か信者の自力と考えることの誤りとともに、第二項の予知論の方向に目を向けることの非を教えている。
6 神は、選民を栄光へと定められたので、神は、み旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた(1)。だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによってあがなわれ(2)、時至って働くそのみ霊によってキリストヘの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ(3)、み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる(4)。他のだれも、キリストによってあがなわれ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選民だけである(5)。
1 Ⅰペトロ1:2、エペソ1:4,5、エペソ2:10、Ⅱテサロニケ2:13
2 Ⅰテサロニケ5:9,10、テトス2:14
3 ロマ8:30、エペソ1:5、Ⅱテサロニケ2:13
4 Ⅰペトロ1:5
5 ヨハネ17:9、ロマ8:28-39、ヨハネ6:64,65、ヨハネ10:26、ヨハネ8:47、Ⅰヨハ ネ2:19
六 これは選ばれた以上は、かならず一定の経路を経て救いが完成されるのであって、中途で未完成に終わるということのない点を力説したものである。
7 人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた(1)。
1 マタイ11:25,26、ロマ9:17,18,21,22、Ⅱテモテ2:19,20、ユダ4、Ⅰペテロ2:8
七 ここでは、二つの点を注意するように教えている。第一は、罪のために、永久に棄てられる者は、どこまでも神の主権的判断によって、そうされるのであるから、人間が「なぜだ」と神に抗弁する権利はないこと。第二は、五項の終わりの「恵みと賛美に至らせるため」と七項の終わりの「正義を賛美させるために」とを対照すること。前者は「あわれみの器」で、後者は「怒りの器」で、ともに「器」であり、神の栄光をあらわす器であることである。
8 予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう(1)、特別な配慮と注意をもって扱われなければならない(2)。そうすればこの教理は、神への讃美と崇敬と称賛の(3)、また謙そんと熱心と豊かな慰めの材料を、すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう(4)。
1 Ⅱペテロ1:10
2 ロマ9:20、ロマ11:33、申命29:29(28)
3 エペソ1:6、ロマ11:33
4 ロマ11:5,6,20、Ⅱペテロ1:10、ロマ8:33、ルカ10:20
八 (結び) 予定論ほど不思議な真理はめずらしい。信仰をもって学ぶ者を慰励するとともに、好奇心をもって軽蔑する者の心を混乱させる。まさに「とげのある鞭をうければ、傷を負うだけである」(使徒26:14)。だから、初心者には、刃物のように危険だと言う人もいるが、私は弊害を恐れるよりも、その利益を信じて大胆に、しかも、忠実、そして謙虚に学んでほしいと思っている。
1618年~19年、オランダで世界中の改革派教会の代表が会議を開いてドルト信条を作った時、英国王ゼームス一世は これを読んで「予定論は誠に真理であるが、余りにも奥義だから学識や経験の未熟な下級教職が説教することを禁止する」という法令を出した。しかし私は、パウロのローマ人への手紙をもらったローマ教会の会員たちに、それが有益だったと信じるから、同様に聖書に即してよく読み、学べばかならず大きな益を受けると確信している。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
『旧・新約婦人物語』(40)
テモテの母ユニケ
=使徒行伝16章1節・テモテへの第二の手紙1章5節=
皆様方がご存知のように、テモテの母ユニケという婦人は、先に学びましたロイスの娘にあたります。彼女は、若くて熱心な伝道者テモテのお母さんです。新約聖書の中に出て来ます多くの婦人たちの中で、ことに感激させられる女性は、このユニケのお話であると思います。
ユニケの家族は、小アジアのルステラという町に住んでいました。使徒行伝16章1~2節を見ますと、そこに「彼(パウロ)はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシャ人を父としており、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった」と記されています。
先ず、ここで分かりますことは、ユニケがユダヤ婦人であって、ギリシャ人の主人と結婚していたと言うことであります。当時は、多くのユダヤ人が商売やその他いろいろの事情のために自分たちの国を去り、異邦の国々に住んでいたのです。ユニケは小アジアで結婚したのか、それともユダヤで結婚して、主人の仕事のために小アジアに移住したのか、その辺の事情を聖書ははっきり語っていません。いずれにしましても、ユニケと彼女の母ロイス、そしてギリシャ人の主人と愛する息子のテモテの一家族が、ルステラに住んでいたことには、間違いがありません。
次にはっきりしていますことは、ユニケは実に熱心なキリスト教信者であったと言うことです。主人は未信者ではありましたが、ユニケは実に熱心な偽りのない信仰をもっていました。それは曖昧な、なまぬるい信仰ではございませんでした。
テモテへの第二の手紙1章5節をご覧になりますとよくわかります。すなわち、「また、あなた(テモテ)がいだいている偽りのない信仰を思い起こしているこの信仰は、先ずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している」とございます。
偶像崇拝や迷信に満ち溢れています小アジアにおいて、真の神を信じ、キリストだけを信じて、キリストによる救いにあずかり、この唯一の福音を先ず自分のものとし、次ぎにこれを愛する子供に教え、その上、多くの人々にも信仰の証をしたのは、正にこのユニケでした。彼女の境遇はある意味では、今日の日本のクリスチャン婦人の境遇にもよく似ているように、私には思えます。彼女が迷信と偶像に満ちた国の中に置かれていましたように、現代の日本のクリスチャン婦人も異教と偶像と迷信の内に包まれ、囲まれているのです。また多くのクリスチャン婦人は未信者と結婚しているのです。その良し悪しは別としましても、そのためにいろいろと大きな問題が起こってまいります。
第一は、日曜日の聖日礼拝の厳守が、非常に難しい事情に陥りがちです。奥さんの方が礼拝を守りたいと望んでおられましても、サラリーマンの未信者の主人は、せっかくの日曜日だ、朝ぐらいゆっくり寝たいといって、なかなか頭をあげてくれません。もしも主人が起きた時、奥さんが教会に行って留守にでもしてしまいますと、それは大変です。
そこで、どうしても自然と礼拝に足を運ぶことが億劫になり、礼拝に欠席するのが習慣となってしまいます。ご主人の協力が得られるか、得られないかは、信仰生活にとって、極めて大切なポイントであると申せましょう。
第二に家庭礼拝を守ることも困難だと思います。クリスチャンの奥さん一人だけで、家庭礼拝を守ることは、なかなか勇気のいる仕事です。また日本の習慣で、クリスチャンの奥さんが教会の集まりなどにしげしげと足を運んだり、外出いたしますと、近所の人たちの話題の材料とされ、良くは言われないで、とかく悪い評判を立てられます。今では日本の国情も随分と変わり、大都市ではそのような傾向がなくなりつつあるようですが、一歩田舎に足を入れますと、まだまだ封建的な思想や習慣が残っていまして、昔と少しも変わらぬものが非常に根強いと言われています。
こうして実際問題を、目の先に見せつけられています日本のクリスチャン婦人は、どうしたらよいのでしょうか? ここで、ユニケのあの確固不動の強い確信に満ちた信仰態度に学ぶべきだと存じます。
先ずクリスチャン婦人は、自分の置かれている周囲の環境に妥協しないことです。静かに子供たちを集め、毎日聖書を読み、讃美歌を歌い、神に祈りましょう。子供と共に聖書を読むことと、祈ることは、クリスチャンであります母として、一番大切な役目なのです。多くのお母さんたちは、子供の学校における成績が気にかかり、健康状態には実に神経質過ぎるほど敏感で骨をおられます。けれども、子供の根本的なこと、精神の成長と進歩につきましては冷淡なほどまでに実に無関心でおられるようです。
第三には、家族のために祈ることであります。あなたの熱心な祈りによりまして、聖霊が頑固一徹な家族の人たちの心を砕いて下さいます。お母さんの祈りによって、神様に導かれました青年の例などは、数えますなら限りがありません。
さらに、クリスチャン婦人たちは、洗礼を受けました時、神様の前でいたしました約束を絶えず思い出して、その約束を守るべきであります。その内の一つが教会の集まりに熱心に出ることであります。
よく祈って、謙遜な態度で、このことをあなたのご主人に説明し続けられますなら、必ずご主人は理解して下さることでしょう。このような努力こそ、偽りのないキリスト者の取るべき態度であると存じます。妥協のない、偽りなき信仰生活を守り続けるクリスチャン婦人こそ、日本のキリスト教会の土台となる方々であろうと存じます。
「・・・神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、ちからと愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主の話しをすることや、わたしが主の囚人であることを決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい」(Ⅱテモテ1:8~9)。
わたしたちは臆病な態度を捨てて、偽りのない信仰生活を守り抜こうではありませんか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
=使徒行伝16章1節・テモテへの第二の手紙1章5節=
皆様方がご存知のように、テモテの母ユニケという婦人は、先に学びましたロイスの娘にあたります。彼女は、若くて熱心な伝道者テモテのお母さんです。新約聖書の中に出て来ます多くの婦人たちの中で、ことに感激させられる女性は、このユニケのお話であると思います。
ユニケの家族は、小アジアのルステラという町に住んでいました。使徒行伝16章1~2節を見ますと、そこに「彼(パウロ)はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシャ人を父としており、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった」と記されています。
先ず、ここで分かりますことは、ユニケがユダヤ婦人であって、ギリシャ人の主人と結婚していたと言うことであります。当時は、多くのユダヤ人が商売やその他いろいろの事情のために自分たちの国を去り、異邦の国々に住んでいたのです。ユニケは小アジアで結婚したのか、それともユダヤで結婚して、主人の仕事のために小アジアに移住したのか、その辺の事情を聖書ははっきり語っていません。いずれにしましても、ユニケと彼女の母ロイス、そしてギリシャ人の主人と愛する息子のテモテの一家族が、ルステラに住んでいたことには、間違いがありません。
次にはっきりしていますことは、ユニケは実に熱心なキリスト教信者であったと言うことです。主人は未信者ではありましたが、ユニケは実に熱心な偽りのない信仰をもっていました。それは曖昧な、なまぬるい信仰ではございませんでした。
テモテへの第二の手紙1章5節をご覧になりますとよくわかります。すなわち、「また、あなた(テモテ)がいだいている偽りのない信仰を思い起こしているこの信仰は、先ずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している」とございます。
偶像崇拝や迷信に満ち溢れています小アジアにおいて、真の神を信じ、キリストだけを信じて、キリストによる救いにあずかり、この唯一の福音を先ず自分のものとし、次ぎにこれを愛する子供に教え、その上、多くの人々にも信仰の証をしたのは、正にこのユニケでした。彼女の境遇はある意味では、今日の日本のクリスチャン婦人の境遇にもよく似ているように、私には思えます。彼女が迷信と偶像に満ちた国の中に置かれていましたように、現代の日本のクリスチャン婦人も異教と偶像と迷信の内に包まれ、囲まれているのです。また多くのクリスチャン婦人は未信者と結婚しているのです。その良し悪しは別としましても、そのためにいろいろと大きな問題が起こってまいります。
第一は、日曜日の聖日礼拝の厳守が、非常に難しい事情に陥りがちです。奥さんの方が礼拝を守りたいと望んでおられましても、サラリーマンの未信者の主人は、せっかくの日曜日だ、朝ぐらいゆっくり寝たいといって、なかなか頭をあげてくれません。もしも主人が起きた時、奥さんが教会に行って留守にでもしてしまいますと、それは大変です。
そこで、どうしても自然と礼拝に足を運ぶことが億劫になり、礼拝に欠席するのが習慣となってしまいます。ご主人の協力が得られるか、得られないかは、信仰生活にとって、極めて大切なポイントであると申せましょう。
第二に家庭礼拝を守ることも困難だと思います。クリスチャンの奥さん一人だけで、家庭礼拝を守ることは、なかなか勇気のいる仕事です。また日本の習慣で、クリスチャンの奥さんが教会の集まりなどにしげしげと足を運んだり、外出いたしますと、近所の人たちの話題の材料とされ、良くは言われないで、とかく悪い評判を立てられます。今では日本の国情も随分と変わり、大都市ではそのような傾向がなくなりつつあるようですが、一歩田舎に足を入れますと、まだまだ封建的な思想や習慣が残っていまして、昔と少しも変わらぬものが非常に根強いと言われています。
こうして実際問題を、目の先に見せつけられています日本のクリスチャン婦人は、どうしたらよいのでしょうか? ここで、ユニケのあの確固不動の強い確信に満ちた信仰態度に学ぶべきだと存じます。
先ずクリスチャン婦人は、自分の置かれている周囲の環境に妥協しないことです。静かに子供たちを集め、毎日聖書を読み、讃美歌を歌い、神に祈りましょう。子供と共に聖書を読むことと、祈ることは、クリスチャンであります母として、一番大切な役目なのです。多くのお母さんたちは、子供の学校における成績が気にかかり、健康状態には実に神経質過ぎるほど敏感で骨をおられます。けれども、子供の根本的なこと、精神の成長と進歩につきましては冷淡なほどまでに実に無関心でおられるようです。
第三には、家族のために祈ることであります。あなたの熱心な祈りによりまして、聖霊が頑固一徹な家族の人たちの心を砕いて下さいます。お母さんの祈りによって、神様に導かれました青年の例などは、数えますなら限りがありません。
さらに、クリスチャン婦人たちは、洗礼を受けました時、神様の前でいたしました約束を絶えず思い出して、その約束を守るべきであります。その内の一つが教会の集まりに熱心に出ることであります。
よく祈って、謙遜な態度で、このことをあなたのご主人に説明し続けられますなら、必ずご主人は理解して下さることでしょう。このような努力こそ、偽りのないキリスト者の取るべき態度であると存じます。妥協のない、偽りなき信仰生活を守り続けるクリスチャン婦人こそ、日本のキリスト教会の土台となる方々であろうと存じます。
「・・・神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、ちからと愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主の話しをすることや、わたしが主の囚人であることを決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい」(Ⅱテモテ1:8~9)。
わたしたちは臆病な態度を捨てて、偽りのない信仰生活を守り抜こうではありませんか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
戦犯者の獄中記 (23) 遠山良作 著
昭和21年
11月8日
―松岡大尉たち三名絞首刑になる―
大切な蚊帳を取り上げられてから二日目である。「チヤイトー」事件の松岡大尉、鈴木曹長、加藤曹長の三人の絞首刑が確定した。執行のために三名は、西独房に移されるために、この独房から出て行った。
「皆さん、いろいろ有難うございました。皆さんも元気で、さようなら」の言葉が西の方から聞こえて来た。死刑執行の前日には必ず西独房に移される。この独房の人たちと、最後の会話も許されて、一夜を過ごすのである。夜も明けきらない今朝、君が代を歌い、万歳を唱えて絞首刑の露と消えて逝かれた。三人の最後を見届けた西独房の人々は、その立派な堂々たる態度に感嘆すると共に悲痛の涙を流したとのことであった。
松岡憲郎大尉の辞世
断頭の 台に進みて 君が代の 弥栄寿ぎて吾はゆくなり
益良雄の 道を励みて 今更に 何をか言わん 罪問わるとも
鈴木喜代司曹長の辞世
敷島の 桜花ともなりて 武士の 散り行く時は さやかなりけり
加藤広明曹長の辞世
陰膳を 供えて待たるる 父母は 今日の処刑を いかに聞くらん
松岡大尉は私たちに言い残された言葉は、
「我々は武人としての最後を飾るに相応しい。我々は皇国の再建を祈り、七生報国を期す、君たちはあらゆる苦難に堪えて、無事祖国に帰還されんことを、あの大空で見守るであろう。そして俺の墓場で歌を唄ってくれ」と言い残された。
痛恨歌 松岡大尉作
1 如何で忘れむ我戦友よ
太平洋上波荒れて
妖雲襲う大八島
涙ととも益良雄が
矛を治めし痛恨は
ああ永久に尽きはせぬ
2 亜細亜民族解放の
高き理想の旗の下
使命半ばで死散りて
南十字の星影に
ねむれる友の痛恨は
ああ永久に尽きはせぬ
3 誉れも高き武士が
口に平和の米英と
裁きの庭に戦えど
驕る彼等の専断に
- れし友の痛恨は
・・・以下略
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
あなたに聖書を
「キリスト教百話」・・・1
問1 教会ってどんなところですか
答 文字からいうと、何かを「教える会」という印象を受けますね。勿論教会においては「教える」ということが無くはありません。しかし、「教える」ということに重点をおいているわけではありません。
「教会」と訳されている原語(ギリシャ語)のもともとの意味は「集会」ということです。ただその集会というのが、キリストからの「わたしのところへいらっしゃい」との呼びかけを聞いて「それではわたしも行くか」と、その招きに応じて集まった者の群れ(集団)となったのが、「キリストの集会=教会」というわけです。
勿論、その呼びかけに応じて群れに加わったものの「これは自分が期待していたものとは違っていた」というので、この群れから離れた人もいます。しかし、その反対に、「この招きこそわたしが本当に求めていたものであった」と気付いて、キリストを信じる者となったのがクリスチャンであり、この集まりが「キリスト教会」と呼ばれている集団なのです。
このことから明らかなことは、キリストの呼びかけは一人一人に対してなされると同時に、それが群れとなること、即ち教会となることが求められていることと、呼びかけ人がキリストですから、教会の主人公はキリストであるということです。また、そのことから明らかなように、教会というのは建物のことではありません。集団としての集まりの場としての建物を必要としますが、それは教会堂であって、教会そのものではありません。教会が教会らしくあるのは建物ではなく、キリストが正しく主人公として存在しておられるか否かにかかっております。
その主人公であるキリストのことは別の機会に譲りますが、前述のことから言って、教会において欠かせないことは、呼びかけの主であるキリストとの交わりであります。そのためにはキリストに聞くということと、その聞いたことに対する応答が必要であります。そのためにキリスト教会は、当初から聖書によってキリストに聞き、応答としての懺悔、感謝、賛美、献身などを共にする群れとして存続してきました。それは、具体的には、キリストの復活日を「主の日」として、この日に礼拝を行うことによって、なし続けてきました。
「礼拝」のこともまた別の機会に述べますが、要するにキリストの呼びかけを受けて、このキリストとの交わりを喜び、その喜びを共にしている者たちの群れがキリスト教会というものであり、更に、すべての人がこの喜びに与って欲しいと願っている(伝道とはこのための働きです)集団です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
1月
6日 後藤 公子(日本キリスト改革派高蔵寺教会会員)
13日 後藤 公子(日本キリスト改革派高蔵寺教会会員)
20日 青山昭一郎(日本キリスト改革派犬山教会会員)
27日 青山昭一郎(日本キリスト改革派犬山教会会員)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・1
問1 教会ってどんなところですか
答 文字からいうと、何かを「教える会」という印象を受けますね。勿論教会においては「教える」ということが無くはありません。しかし、「教える」ということに重点をおいているわけではありません。
「教会」と訳されている原語(ギリシャ語)のもともとの意味は「集会」ということです。ただその集会というのが、キリストからの「わたしのところへいらっしゃい」との呼びかけを聞いて「それではわたしも行くか」と、その招きに応じて集まった者の群れ(集団)となったのが、「キリストの集会=教会」というわけです。
勿論、その呼びかけに応じて群れに加わったものの「これは自分が期待していたものとは違っていた」というので、この群れから離れた人もいます。しかし、その反対に、「この招きこそわたしが本当に求めていたものであった」と気付いて、キリストを信じる者となったのがクリスチャンであり、この集まりが「キリスト教会」と呼ばれている集団なのです。
その主人公であるキリストのことは別の機会に譲りますが、前述のことから言って、教会において欠かせないことは、呼びかけの主であるキリストとの交わりであります。そのためにはキリストに聞くということと、その聞いたことに対する応答が必要であります。そのためにキリスト教会は、当初から聖書によってキリストに聞き、応答としての懺悔、感謝、賛美、献身などを共にする群れとして存続してきました。それは、具体的には、キリストの復活日を「主の日」として、この日に礼拝を行うことによって、なし続けてきました。
「礼拝」のこともまた別の機会に述べますが、要するにキリストの呼びかけを受けて、このキリストとの交わりを喜び、その喜びを共にしている者たちの群れがキリスト教会というものであり、更に、すべての人がこの喜びに与って欲しいと願っている(伝道とはこのための働きです)集団です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
1月
6日 後藤 公子(日本キリスト改革派高蔵寺教会会員)
13日 後藤 公子(日本キリスト改革派高蔵寺教会会員)
20日 青山昭一郎(日本キリスト改革派犬山教会会員)
27日 青山昭一郎(日本キリスト改革派犬山教会会員)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (9)
私たちのローマ書の学びは、今やオリブの木の比喩まで至りました。これはデイスペンンセーショナリズム(契約期分割主義)と呼ばれる聖書解釈法を検討する鍵とたる極めて重要な喩えです。この聖書解釈法はJohn.N.Darbyの書著やスコーフイールド引照付聖書やピルグリム版聖書などによって一般化されている解釈法です。このオリブの木の喩えが、契約期分割主義の聖書解釈法に対して、どんな意義を持っているかを考えてみましょう。
「しかし、もしある枝が切り去られて、野性のオリブであるあなたがたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたがたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである」(11:17~18)。
ここでパウロは、異邦人キリスト者が、ユダヤ人に対して誤った態度を取っていることに対して警告しています。ここまでのパウロの教えを考慮すると、異邦人キリスト者である読者が、ユダヤ人に対して優越感や勝ち誇ったような感情を持つことは当然と見えます。神はユダヤ人を拒否して異邦人を救いに召された。しかし、このことは如何なる意味においても、霊的にも肉的にも誇ることを許す根拠ではなく、むしろ謙遜と神への感謝と霊的慎重さとに向かわせる根拠なのです。17節に始まるパウロの言葉は、異邦人キリスト者がユダヤ人に対して、傲慢な考えを抱くことがないように警告しているのであります。
パウロは良く栽培されたオリブの木について述べています。ある枝々が切り去られて、その切られた所に野生のオリブの枝が接木された。すなわち、本来の枝をもった良いオリブの木があり、また枝をもった野生のオリブの木があった。良いオリブの木から幾つかの枝が切り去られて捨てらえた。野生のオリブの木から幾つかの枝が切り取られて、その良いオリブに接木されたのです。
先ず第一にここで考えるべきことは、良いオリブの木とは何かということです。それがユダヤ民族を指している筈はありません。なぜならば、パウロは不信仰の故にある枝が切り去られ(20節)、信仰の故にある枝(異邦人)が接木されたと教えているからです。明らかに、イエスをキリストとして受け入れることを拒んだユダヤ人たちも、ユダヤ民族の中に一体とはされはしませんでした。それでは良いオリブとは一体何でしょうか。
それは真のイスラエル、すなわち、神との真の契約関係にある人々、神の恵みの約束が与えられていた人々、真にイスラエルと言う名を持つ権利を持っている人々を指しているに相違ありません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
神様のみ言葉は、頭の中に受け入れるだけでなく、いのちの中に受け入れなければならないと言うことを、はっきり理解するまでにどれだけ多くの時間がかかったことでしょう。そして、それを理解した後でも、それを信じて実践するまでにどれだけの祈りと信仰の戦いが必要であることでしょう。改めて、神様のお導きを謙虚に乞い願うことは、これも信仰の歩みと言えるでしょう。そんなことを、家内との家庭礼拝で語り合える今に感謝しています。
神を求め、神に耳を傾け、神を待ち望む幸いは、被災ですべてを失ってしまった今でこそ、言えることなのです。虚しさや悲しみは消えません。時間が、「主にあって」思うようにさせてくださいました。信仰が与えられている幸いを、お伝えしたくメールしました。
宮城県 G・Tさん
神を求め、神に耳を傾け、神を待ち望む幸いは、被災ですべてを失ってしまった今でこそ、言えることなのです。虚しさや悲しみは消えません。時間が、「主にあって」思うようにさせてくださいました。信仰が与えられている幸いを、お伝えしたくメールしました。
宮城県 G・Tさん
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
☆ うれしいことですが、小学校一年生の孫は、年齢に関係なく上級生とも仲良く遊ぶタイプでとても友達が多いです。学校の帰りに近くの公園で元気よく遊び、お腹がすくと遊び友達を連れて我が家に来ます。何時もメンバーが違いますが4、5名で来ます。家ではルールがあります。家に入る時には『お邪魔します』、帰る時には、コップなどを片つけてから、『お邪魔しました』と言うことです。トイレを使う時も、『おばさんトイレ貸して下さい』もあります。これが当たり前になって、道で出会うと大きな声で『こんにちわ』と挨拶します。私の願いは、大きくなっても、この『挨拶』をし合うことです。
愛知県 O・Yさん
愛知県 O・Yさん
あなたを呼んでおられるから
キリストが昼も夜も あなたを呼んでおられるから
あなたの心を静かにして キリストのみ声を聞けよ
キリストが愛をこめて あなたを呼んでおられるから
あなたの心を空しくして キリストのみ愛を受けよ
キリストが細き声で あなたを呼んでおられるから
あなたの心の向きを変えて キリストのみもとへ行けよ
=水野源三著「み国をめざして」=
主の2013年が、み国に向かう大切な、尊い歩みでありますように、お祈り申し上げます。貧しい者ですが、多くの方々に支えられて、この「つのぶえジャーナル」刊行に献身いたしたく、願っております。今年も、ご加祷、ご支援のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。
「つのぶえジャーナル」刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
どうぞ、お友達などにこの『つのぶえジャーナル』をご紹介下さい。またメールアドレスをご利用くださり、お気軽にご投稿下さい。大歓迎です。
電子メール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
岸上とし子様 森谷千文様 馬場暁美様 島しづ子様 匿名3名
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
2012年11月16日から2012年12月15日‘まで
今月のことば
「恐れるな。わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である」。
=黙示録1:17~18=
12月と言う月は、自分を振り返り、歩んできた日々に心を向けさせます。特に12月31日は、この一年の歩んできた日々の積み重ねの思いを感じさせます。
大きさに無関係に、建物でも、その土台がどのようになっているかを見ることは出来ません。私たちの歩みも、決して安定したものではありません。挫折や失敗、失望や悲しみの土台の上で営まれてきました。
その土台も、年々の重みで支えられなくなっているとするなら、新しい年を迎えるこの12月はいろいろな意味で大切にしたいものです。
その土台を神に置き、み言葉を支え柱とし、希望をこの神に見出す人生かどうかを、もう一度、確認してみようではありませんか。山を越え、谷を渡り、荒地を通り、暗いトンネルを抜けて進むその先頭に、この「恐れるな。わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である」。お方を仰ぎ見るなら、どれほどの荒涼とした人生の大地も、底知れぬ孤独と不安の今夜の寂しさも、かならず、朝へと導かれます。過ぎ去った日々には、死んだような日もあり、空虚な日もあったとしても、それが私の初めであり、終わりであって、神様の初めではなく、終わりでもないのなら、神様をしっかりと土台に据えた日の備えを目指す12月なら、なんと素晴らしいことでしょう。
主イエスの御手をわが上にいただき、恵みと赦しをもってお支え下さることを感謝し、隣人に、この社会に、世界にまことの光を証しする2013年を迎える備えとしたいものです。
=黙示録1:17~18=
12月と言う月は、自分を振り返り、歩んできた日々に心を向けさせます。特に12月31日は、この一年の歩んできた日々の積み重ねの思いを感じさせます。
大きさに無関係に、建物でも、その土台がどのようになっているかを見ることは出来ません。私たちの歩みも、決して安定したものではありません。挫折や失敗、失望や悲しみの土台の上で営まれてきました。
その土台も、年々の重みで支えられなくなっているとするなら、新しい年を迎えるこの12月はいろいろな意味で大切にしたいものです。
その土台を神に置き、み言葉を支え柱とし、希望をこの神に見出す人生かどうかを、もう一度、確認してみようではありませんか。山を越え、谷を渡り、荒地を通り、暗いトンネルを抜けて進むその先頭に、この「恐れるな。わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である」。お方を仰ぎ見るなら、どれほどの荒涼とした人生の大地も、底知れぬ孤独と不安の今夜の寂しさも、かならず、朝へと導かれます。過ぎ去った日々には、死んだような日もあり、空虚な日もあったとしても、それが私の初めであり、終わりであって、神様の初めではなく、終わりでもないのなら、神様をしっかりと土台に据えた日の備えを目指す12月なら、なんと素晴らしいことでしょう。
主イエスの御手をわが上にいただき、恵みと赦しをもってお支え下さることを感謝し、隣人に、この社会に、世界にまことの光を証しする2013年を迎える備えとしたいものです。
小閑記
すべての人を救う神の恵みが現われた。そしてわたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活しなさい。
=テトス2:11~12=
すべての人を救う恵みは、キリストの中に現れました。恵みは、ある別の所に、あるいは宇宙のどこかに、または思想や人間の意見の中に見出されるはずのものではありません。恵みは、キリストの中にあります。それは、そこにかくされ、すべての人のために啓示されているもの、そこにおいてであります。
キリストにあって、すべての人に十分な恵みと、あらゆる罪人たちに十分な恵みをお持ちの神としての神に、お目にかかるのであります。恵みは罪人に与えられる義であります。恵みを受ける罪人と同様に、それは力のない者にとっては力を与える恵みであります。恵みは不真面目なものを真面目にし、高慢で冷酷な者を柔和にし、不信心な者を信心深くし、悪い者を善い者とし、軽はずみな者を賢くし、短気な者をおとなしくさせます。
神の恵みによって、私たちは許す者となり、迷惑をかけぬ者となります。恵みはもの惜しみするものを、与える者にし、弱い性格の者を強くし、罪の奴隷から神を畏れる者として、勝利のキリスト者とします。恵みは私たちを罪の支配から自由にし、悪を憎み、善を愛する心と力を与えます。それは新しい命となり、平安と平和を人々に与えます。
キリストにある恵みによって強くしていただき、恵みに恵みが増し加えられましょう。その恵みの源なるキリストの誕生をクリスマスとして迎え、神の愛に感謝する時でありたいものです。
上河原立雄
我が魂よ忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの
愛と安らぎのある御もとを 水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
すべての人を救う神の恵みが現われた。そしてわたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活しなさい。
=テトス2:11~12=
すべての人を救う恵みは、キリストの中に現れました。恵みは、ある別の所に、あるいは宇宙のどこかに、または思想や人間の意見の中に見出されるはずのものではありません。恵みは、キリストの中にあります。それは、そこにかくされ、すべての人のために啓示されているもの、そこにおいてであります。
キリストにあって、すべての人に十分な恵みと、あらゆる罪人たちに十分な恵みをお持ちの神としての神に、お目にかかるのであります。恵みは罪人に与えられる義であります。恵みを受ける罪人と同様に、それは力のない者にとっては力を与える恵みであります。恵みは不真面目なものを真面目にし、高慢で冷酷な者を柔和にし、不信心な者を信心深くし、悪い者を善い者とし、軽はずみな者を賢くし、短気な者をおとなしくさせます。
神の恵みによって、私たちは許す者となり、迷惑をかけぬ者となります。恵みはもの惜しみするものを、与える者にし、弱い性格の者を強くし、罪の奴隷から神を畏れる者として、勝利のキリスト者とします。恵みは私たちを罪の支配から自由にし、悪を憎み、善を愛する心と力を与えます。それは新しい命となり、平安と平和を人々に与えます。
キリストにある恵みによって強くしていただき、恵みに恵みが増し加えられましょう。その恵みの源なるキリストの誕生をクリスマスとして迎え、神の愛に感謝する時でありたいものです。
上河原立雄
我が魂よ忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの
愛と安らぎのある御もとを 水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
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[PR]Samurai Sounds
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円