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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  IMG_4482.jpg  自閉症者のひとりごと

                    (54)

10月17日
久しぶりに実家にきました。
両親も元気そうでよかったです。ただ父は耳がかなり遠くなって、母が話しかけても聞こえなくて、怒ったように話します。母はそれでつい黙っていると言います。たしかにそんなふしがあります。老々介護ですね。わたしが母に対して怒っていた、子どものことについて、和解することが出来ました。といっても、母のことですから、また何度も同じことを言うかもしれませんが。7の7倍の許しか・・・・。
 
10月26日
今日は半日教科書を取り出して数学をやっていました。ようやく中学を卒業して、高校に入りました。文系だったせいか、こんな難しい因数分解やったかなぁ(数Ⅱは文系でもやる!)、と思いました。古い記憶をたどっても、出てきません。でも、新しいことを学ぶというのも、すごく大変ですが、楽しいものですね。
アスペの数学者は多いそうだけど、わたしの場合、国語と歴史で点数を稼いできた者にとっては(なぜか英語はやたらに出来ず、最後は英語の先生に見離された)、不思議ですが、ハマると止まらないのがアスペ。分かる気がします。
かといって、わたしが数学に目覚めたわけでもなく、関心を食べ物に向けないためのものでしかありません。


                                                                           加納さおり 
 
 
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 世田谷通信(98)
      猫 草
 
今回は晩秋のカマキリの話。家の1階の窓を開けると玄関脇には南天の木がある。そこに1匹のカマキリが何時の頃からか住みついていた。そしてある日、偶然洗濯物にくっついて家の中に入ってきたのだ。次男はカマキリ好きなので、さっそく虫かごを持ってきて捕獲。私は、「何であれ捕まえてしまった以上はもてなす」のがポリシーなので、庭にいたバッタを餌にあげた。カマキリおいしそうに食事。・・それがすべての始まりだった。
夕方にはカマキリを庭に放したが、2日後に洗濯物にぶらさがってまた中へ。次男喜んで虫かごへ、バッタをあげて、夕方放す。同じことの繰り返し、そしてなんと3日後洗濯物をみると同じカマキリがくっついている・・・そうなのだ。「ここに来れば餌がもらえる」と学習したとしか思えない行動である。まさか昆虫にそんな知能が?真意はわからないがそれは4回もくりかえされ、一生懸命カマを伸ばして洗濯物にとりつく瞬間を目撃したこともある。
確かに秋も深まるとバッタや蝶などの昆虫はめっきり減り、餌を捕まえるのは難しいのだ。人間の行動範囲とサイズならバッタぐらいみつかるが、カマキリは基本的に「待ち」である。自分の半径15cm以内の狩猟範囲に獲物が来るのを待つだけ。・・のはずなのだが、このカマキリのように自ら餌をもらいに来る個体もある?本当に?IMG_4763.jpg
とはいえ関東にも初霜の頃、私がバッタを探し回る義理もないので家に入るのはご遠慮いただくことにした、が、例のカマキリは相変わらず南天に住み着いたまま。洗濯物の出し入れのたびに、枝の上で物欲しそうにじーっとこちらを眺めるエメラルドグリーンの視線がどうにも気になる。「中途半端に飼おうとするからだよ」とかつて昆虫博士と呼ばれた長男に諭される始末。生き餌しか食べないとは思うが・・とピンセットの先に乾燥糸ミミズ(イモリの餌である)を刺してカマキリの口元に持っていくと、なんと!もぐもぐ食べた!よっぽどお腹が空いていたものとみえる、しかし人の手から人工の餌を食べるとはつくづく変わった個体である。
そしてよく晴れたある朝、ふと見るとカマキリは逆さになって南天の枝に産卵していた。シュークリームのようなふわふわした卵である。ちゃっかり「ごちそうさま。来年、こどもたちもよろしくね」と頼まれたような気がした。来年の春、たくさんの小さな子カマキリが洗濯物にくっついてきたらどうしよう?ちょっと不安になるのである。
  
  その愛のゆえに
   =時々の記=2011102915290000.jpg
    (69)
 
10月14日
先日、Mさんのところへ、お見舞いに行ってきました。びっくりしたのは、その日の朝から、39度3分の熱が出て、呼吸も苦しく、酸素吸入をされていました。看護師さんが出てこられ、お家の方ですか?といわれたので、はい、とそのような者ですと答えますと、このまま、熱が下がらなかったら、この施設に居ることはできません。でも、熱が下がれば、ここで、あづからせていただきます。そのような大切な判断は、やはり、子供さんに聞いていただかないとお答えして、Mさんと呼びかけても、息苦しそうにされているので、そのまま、車に戻って、神様どうぞ、苦しみを拭い去ってくださいとお祈りしました。その後のことが心配で、何もする気力も出ません。夕方まで待ってもう一度、施設に電話をいれましたら、熱が下がりつつあるとのことで、ほっといたしました。
その翌日は、H先生のお母様のところに、お見舞いにいきました。元気よく、挨拶をしてくださり、”私のところに来てくれようとする気持ちが何よりうれしい。”といってくださり、共に手を取り合って、涙の祈りになりました。
 
10月17日
15日は、今年が最後であるかのような寂しげな村祭りが雨の降りしきる中、行なわれていました。最年長の方は、86歳です。100段もの階段をふうふう言いながら、往復していました。もう来年は無理やなとつぶやきながら。若い者も、年老いた者も、明日への不安を抱えながら生きています。でも、キリスト者は、同じように、不安はありますが、明日のことは思い煩うな、と聖書のイエス様のみ言葉を信じて生きていける幸いを感謝いたします。私も、少し体調をくずしてしまいました。
 
10月20日
山添は、まだ紅葉はあまり進んでいません。でも、確実に秋が深まっていくのが感じられます。朝、5時からの犬たちとの散歩は懐中電灯なしでは前に進むことができません。この犬たちと一緒に過ごし始めて、10月でちょうど10年になります。先日、動物病院にワクチンを接種しに行きましたら、先生が皆、年をとりましたね。人間に置き換えればもう60歳ですよと・・・。そういえばどの子も、黒かった口の周りが真っ白になっています。
人間の白髪なのでしょうね。動物を飼っていると、やはり、飼い主として、責任を感じます。3日間体調を崩して寝込んでしまいましたが、犬たちの世話にだけは起き上ることができました。今日は、やっともとに戻りほっとしています。
秋の川瀬音響く哉バーベキュー
椿の実落ちて急坂転がりぬ
山の端の朝焼けしかと秋晴るる     馬場路哉
秋晴れも今日までとか・・・。
 
10月26日
今日、カタログにて、大阪キリスト教書店で、クリスマスカードやカレンダーを注文いたしました。昨日、体調が悪くなったので、今度は、寝ているだけではだめだと判断し、診療所へ出掛けました。若い研修医の先生でした。ちょっぴり頼りなかったのですが、いただいたお薬で、今朝は起き上がることができました。ほっとしています。
細き木にかりん大きく実りけり
木犀や忙しき中にゆとりあり
翠黛(エメラルドのようないろ。すいたい)の山よりの川澄みをりぬ
馬場路哉
今朝は曇っていますが、主人は朝の散歩だけではたりないと、上野公園まで車で行き、そこらへんを散歩すると言って出かけました。歳の割には、また大病を患った割にはとても元気です。感謝です。
 
11月7日
11月6日は、私の63歳の誕生日でもあり、父の天に召された日でもありました。私が生まれた誕生日のその日に父が亡くなって、早や10年が経ちました。時代は移り変わり、伝道の方法も変わってきています。やはり今の時代には、ジャーナルのようなパソコンを用いて、信仰を持ちたいと思っている方が多いように思われます。
今日は、主人が40年前に読売新聞に投稿した俳句が今また掘り起こされ、この月の俳句誌に掲載されましたので、それをご紹介させていただきます。
良心を説く襄(じょう)の碑へ落ち葉踏む    馬場路哉
この句の解説。
40年以上前、俳句を始めたころの句である。当時、青畝先生が選をしてくださっていた。
同志社大学の正門を入ったところに、”良心の充満したるますらおの来たらんことを”と書かれた碑がたっていた。卒業後も印象に残っていたので俳句を続けられた。この文言が新島襄の手紙の中のものであることが数年前、文庫本で知った。退職した頃の俳句は日記のようなものになった。日々の生活の中で、自然から、受けた印象や、感動を読めばよいのだと思っている。青畝先生はカトリックの信者であった。
今朝も、散歩からかえると、俳句手帳になにやら、作っていました。
 
11月8日
クリスマス礼拝は教会でを、願いつつ、一日一日歩んでまいります。
実を付くる朝顔のつる模様なす
城山に滋賀の秋嶺見はるかす
酔芙蓉眠る如くに萎れをり
白露の日に輝ける草を刈る
休耕田コスモス広く華やぎぬ          馬場路哉
 
                                                             馬場暁美
                      (上野緑ヶ丘教会員)
 
 
 
P2070093.jpg                   キリスト者の生活綱要  (28)
               
                                             ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
  11 十字架はわれわれの救いに必要である
 
 1 さて、十字架を負うことの理由が何よりも神の意志であることを示したので、最後に哲学者の忍耐とキリスト者の忍耐との相違を、簡潔に指摘しなければならない。われわれが苦しみを受けるのは、神の御手によるものである、という崇高な理解に達するとか、神の意志に服従するのがわれわれの義務である、という結論に達した哲学者は、極稀だからである。
 そしてそこまで達した者たちでさえ、諦めが必要である、という以外の理由を口にしない。これは、神に逆らう努力は、してみても虚しいから、神に服従しなければならない、と言っていることに過ぎない。
 もし必要からだけ神に従っているのであれば、神から逃げ出すことが出来るや否や、われわれは従わなくなるであろう。
 
  2 しかし、聖書はわれわれに、異なった光の中で、神の意志を考えるように命じている。すなわち第一に、(神の)正義と公正とに一致するものとして、第二に、われわれの救いの完成を意図したものとしてである。
 したがって、キリスト者がもたなければならない忍耐への勧めは、次の通りである。貧困、追放、入獄、非難、疾病、親族の死、あるいはこの他の同じような苦しみに合っても、これらのどれ一つとして、神の意志と摂理なしには起こり得ないこと、さらに、神が何時もの正義を用いずに、なにもなさらないということを、われわれは思い起こさなければならない。
 神が恵みのために、われわれに科す懲らしめよりも、日ごとに犯す数限りないわれわれの罪は、もっと厳しく重い多くの懲らしめに価するのではなかろうか。肉の衝動が、われわれから最善のものを奪い、われわれを放縦の中に追いやらないために、肉が抑えられ、軛に慣れさせられるのは、至極当然のことではなかろうか。
 神の正義と真実は、われわれの罪のために、保つ価値がなくなっているのだろうか。われわれが呟いたり反逆したりすれば、必ず不義を伴う。必然性には従わなければならない、という哲学者の冷たい決まり文句を、これからは聞かずに済むであろう。そしてその代わりに、反逆することは悪であるから、服従しなければならない、という生意気に満ちた効果のある提言を聞くことなのである。短気は神の正義に反抗することであるから、忍耐をもって忍ばなければならない。
 
  3 自分の利益となり、自分の繁栄に役立つことしか、われわれは喜ばないので、最も憐れみ深い天の父は、われわれに十字架を与えて、救いを促進させると教えて、慰めてくださるのである。逆境がわれわれにとって明らかに益であるのに、なぜそれを、感謝と平和に満ちた心で忍ばないのか。
 逆境を忍耐をもって忍ぶなら、必然性に服しているのではなく、われわれ自身の益のために服しているのである。
 以上の考察の結論は、われわれが十字架によってしめつけられれば、しめつけられるほど、霊的な喜びはそれだけ満ち溢れるということである。そして、この喜びに感謝が必然的に伴う。
 主に対する讃美と感謝は、快活で喜びに溢れた心からだけ生じることができるのであれば─そして、そのような感情を制すべきは何もないが─明らかに神は、十字架の苦しみを、聖霊が与える喜びによって、和らげてくださるであろう。      
 
            (つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
 『旧・新約婦人物語』 (28)

カヤパの二人の女中
    (マタイ福音書26章69~75節)
 
時は主イエス・キリストが十字架にかかられる前の晩のことです。舞台は大祭司カヤパの中庭、中心人物はイエスの弟子ペテロと、大祭司に仕える二人の女中です。
主イエス・キリストが、ゲッセマネの園で、祭司長や民の長老たちから送られて来た大勢の群衆に捕らえられました。その時、イエス様の弟子たちは卑怯にも皆、主を見捨ててちりぢりに逃げてしまいました。(マタイ26:56)。この臆病な弟子たちの態度を見る時、わたしたちはいろいろと批評したくなります。もし自分がそこにいたなら、自分はまさかそんな態度は取らなかったのに、と思うかも知れません。
しかし、自分を反省して見ますと、わたしたちは毎日のように、イエス様を見捨てて裏切っているのではないでしょうか。クリスチャンでありながら、世の人たちの批評に気兼ねして、氏神さんだのお稲荷さんにまいったりして、世間の人々に妥協したり、同調することは、キリストを裏切ることであり、クリスチャンの取るべき態度ではありません。
s-2011102915250000.jpgイエス様を捕らえた群衆は、大祭司カヤパの公邸に、イエス様を引っ張ってまいりました。イエス様は自分の弟子たちに見捨てられ、ただ一人で大祭司の法廷に立たされ、律法学者や長老たちから、律法に反した裁きを受けられました。この時のイエス様のお気持ちは本当に寂しい限りであったことでしょう。
しかし逃げ去ったと思われた弟子たちの中に、愛する先生の身の上を案じて、危険をおかし、遠くからイエス様を慕って着いて来た二人の弟子がありました(ヨハネ18:15)。それは、シモン・ペテロともう一人の弟子でした(もう一人のはヨハネ福音書を書いたヨハネだと言われています)。ヨハネは大祭司の知り合いであったので、イエス様と一緒に大祭司の家の中庭にまで入りました。しかし、ペテロは建物の外に立って、家の中の様子をうかがっておりました。すると、ヨハネが家から出てきて、門番の女中に話し、ペテロを家の内へ入れてやりました。
夜中の寒い時ですから、カヤパの僕や下役たちが、炭火にあたって暖を取っていました。ペテロもその中に混じって立っていました。すると、門番の女中がペテロの所に来て、炭火の明りで彼を見つめながら、「あなたも、あのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言いました。
多分、彼女はペテロが門を入る時から、それと気付き、この人は怪しいぞ、と思っていたのでしょう。ペテロはそれを聞いて、ハッとしましたが、知らぬ振りをして。直ぐそれを打ち消し、「あなたは何をいうのですか、わたしは知りません」と言って、入口の方へ出て行こうとしました。するとまた、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々に、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と叫びました。ペテロはびっくりして再び、「そんな人は知らない」と誓って言いました。
 しかし、そこに立っていた人たちは、これはどうも変だと思ったのでしょう。彼らはペテロのそばに近寄ってきて、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」(73)と、言いはりました。ペテロは、「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめました。その時、鶏の鳴く声が聞こえて来ました。ペテロはイエス様が、「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」(75)と言われたことを思い出し、たまりかねて外へ飛び出し、激しく泣きました。
ペテロは自分こそイエス様の忠実な僕であり、弟子だと自負していながら、ついにイエス様を裏切って否んでしまいました。わたしたちが、ここで深く考えねばならないことは、わたしたちは如何に弱い者であるか、どんなに誘惑されやすい者であるかということです。わたしたちの弱さの原因がどこにあるのでしょうか。
その一つは、自分の力に頼っているところにあります。今一つは、イエス様からはなれ、自己中心になり、果ては、イエス様を否むようになることです。
 
この話によって特別に学ぶことは、カヤパの二人の女中さんの言動であります。彼女たちは何故ああまでペテロを陥れようとしたのでしょうか。きっと彼女らは、ペテロを困らせてやろうと思ったかもしれませんが、或いはもっとひどく言えば、ペテロもイエスと同罪にしたかったのかもしれません。
わたしたちも知らずの内に、隣人をいじめたり、困らせてはいないでしょうか。わたしたちの生活もよく検討して見たいものです。姑は嫁を、夫は妻を、兄は妹たちを思いやりのある態度で接しているでしょうか。ペテロの場合、彼は嘘をつき、その上、こころにもない嘘の誓いをして、ついに、イエス様を否む罪に陥りました。これは二人の女中さんの言葉の結果です。
女の小さな弱い言葉の内にも、この様に大きな力があることを覚えましょう。どうか、わたしたちは絶えず気を付けて、自分の口を守り、人の悪口や、井戸端会議は止めて、人を神に導く言葉だけを語るようにしたいものです。
 
                                                             ポーリン・マカルピン著
       (つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
 
  ビルマ
  戦犯者の獄中記  (11)  遠山良作 著
 
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・3・・・
 
次は中島軍曹である。彼は8月5日より12日の間看守についた以外に、刑務所の内に立ち入ったことがない。一週間に看守は二名ずつ勤務するのである。彼は四津上等兵と看守についた。勤務は24時間で日夜を二つに割って1名が仮眠している時には他の一名は定地を離れることは出来なかった。検事は中島軍曹が仮眠している時、東大尉が刑務所に来たことについていろいろ質問した。これは大体1年前に行なわれた事件で、はっきりと日時を思い出すことは出来ない。
中島軍曹の言によれば、彼は証人を取調べに行ったことはない。通訳もしくは、取調官が留置場に連れて来るのである。中山少尉はこれを確言する。証人の中の誰一人も留置場から取調室へ看守が連れて行ったという者はない。本人を無罪とすることを願う。
次は小川上等兵です。彼は運転手(自動車)であり、(特に分隊長の)またときには伝令もしていたので他に勤務は与えられていなかった。もちろん刑務所の看守の勤務にはつかなかった。「エデゴン」に検挙の部隊を転送したのは彼であった。彼は遠山軍曹、塩田軍曹及び小林曹長を「エデゴン」村から連れ戻さなかったことを覚えている。彼は検挙には参加していない。帰隊してから4、5回刑務所に運転して行った。(その中3回は井出籠(ごもり)准将を同所に連れて行った)しかし刑務所の中には入っていない。-中略-右事情を考慮して予は本人の放免を主張する。
残る三人即ち、小林曹長、塩田軍曹、遠山軍曹は証人の取り調べ期間中は殆んど「モールメン」に不在であった。出田大佐及び小川上等兵と同様に彼らは完全な「アリバイ」を有するものである。他の人物(証人)が如何なることを言うとも疑う余地は全くない。彼らは現場にいなかったのである。
先ず小林曹長と塩田軍曹の行動を検討しよう。彼らは共に「チャイマロ」にいた。7月28日の夜、前日の爆撃その他の連絡のため「モールメン」に帰隊している。次の日彼は「チャイマロ」に帰らねばならなかった。そして中山少佐が「エデゴン」に行く予定になっていたので便乗し、「エデゴン」村に到着したら中山少尉は彼らをして、1、2名検挙せしめたのである。それが終わると彼らは馬車で「チャイマロ」に向って出発したのである。8月5日頃塩田は「マラリヤ」のため発熱していたので「モールメン」に戻った。そして軍医の命で約一週間寝た。その後も「ブラブラ」した病人であったので確かに刑務所には行かなかった。
小林曹長は「チャイマロ」に残り14日頃分隊に1回立ち寄ったのみで、終戦まで「モールメン」には帰っていない。
 
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
   あなたに聖書を
 
 聖書には、キリストの誕生は、家畜小屋でなされた、と記されています。泊まるところがなかったからでした。暗くて、家畜の臭いもしたことでしょう。出産の用意など全くないところでしたから、最低の出産状況でした。
 人は皆眠っていて静かな夜の暗さの中で、この誕生を祝う人はいませんでしたが、ルカによる福音書によれば、この時、天には神の栄光が輝いて、数知れない天使と天の軍勢が現われ、神を讃美した、といいます。キリストの第1回の誕生祝は、このように天の側で、つまり神様の側で盛大になされました。
 子供が生まれる時、先ず大喜びするのは親であります。また、その親の身内の者や親と親しい人たちであります。どういうことかと言いますと、キリストの誕生が天の側で大喜びとなったと言うことは、キリストの親は天の神様であり、その神様の喜びは、神様と共にいたもろもろの天使たちの喜びであったからであります。そのことは、キリストが祈る時には、いつも天に向って「父よ」と呼びかけたことによって明らかにされていることであります。
 
 地上で、人間によってクリスマスが祝われるようになったのは、天で行なわれた第1回のクリスマスからおおよそ400年経った、ローマでのことでした。そして、2000年余経った今では世界の各地でクリスマスが祝われています。しかも、そこで大切なことは、キリストを信じる者が、祈る時に「天にまします我ら父よ」と呼びかけていることであります。
 最初、地上から天に向って「父よ」と呼びかけることが出来たのは一人キリストだけでした。しかし、今や何億人と言う多くの人が「天の父よ」と呼びかけています。それは、「キリストの天の父と呼ばれた神様」と「地上にいるわたしたち」の間に、妨げるものがない道が開かれているからです。
 その事始めがキリストの誕生ですから、神様の喜びを、わたしたちも喜び祝うのであります。聖書によって、このクリスマスの喜びがあなたのものでもあるようにと願っています。
 
                                                                                             篠田 潔
 
(参照聖句・ルカ2:8~21)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 
    s-2011102915280001.jpg  12月
           4日  横山良樹  (日本基督教団半田教会牧師)
          11日  横山良樹  (日本基督教団半田教会牧師)
     18日  井ノ川勝  (日本基督教団山田教会牧師)
     25日  井ノ川勝  (日本基督教団山田教会牧師)
    
             CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
             毎週日曜日朝6時30分~45分放送
  「ローマ人への手紙」研究 (85)
 第51課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
       11章1~10節 (4)
 
 「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなるからである」(6)。
 これはパウロが5節で述べている「恵み」という言葉の説明です。彼はここで二つの原則、すなわち恵みと行ないとは互いに対立するものであることを指摘しています。人々の選びは恵みと行ないの両方に基づくと言うことは有り得ないことです。というのは、この二つの概念は相互に相容れない矛盾概念であるからです。
 選びは恵みによるか、或いは行いによるかの何れかであり、両方では決して有り得ないのです。恵みが、もし行いによるのであれば、それはもはや恵みではなくなるのです。恵みという概念は、「行いによるのではない」ということです。予め知られた、すなわち予知された行いというものは、他の行いと同様、選びの概念からは全く排除されているのです。アルミニウス主義の選びの教理理解は、選びが予め知られている行いに基づくとするものです。
 すなわち、神はある人がやがて悔い改め、キリストを信じるようになることを予め知っておられるから、その人を救いにお選びになったのだとするのです。もしアルミニウスの神学が正しいとすれば、選びの教理は恵みによるのではなく、行いによるものになってしまいます。何故なら、アルミニウス主義は、神は人の悔い改めと信仰を予知することに基づいて、彼をお選びになるとするからです。この考えによると、悔い改めと信仰とは、選びがそれらに基づいてなされる根拠、すなわち、行ないとみなされるのです。そのような選びは断じて恵みによる選びではありません。
 
 パウロの選びの教理から人間の行いや功績と言う要素を完全に排除することを、極めて重要なことと見ていたことは明らかです。彼は恵みと行いについて強調するために、ユダヤ人と異邦人の問題の論述を11章6節において一時中断しています。今日、多くの人々が選びの教理を、聖書に教えられている通りに信じると言いながら、この点について余り注意を払っていません。彼らはそれを余り語らないし、またそれを避けようとしています。
 あるいはこの点について何か遠慮がちに語ろうとするのです。パウロが神の主権的な選びの教理について、決してそのようには考えていないことは明らかです。彼はこの点についてこそ福音の主要点と考え、それを一貫して強く教えています。私たちもそのように教えなければなりません。もしそれが神のみ言葉の真理であるならば、それを恥とするどころか、堂々と述べなければならないのです。
 (人間中心的な要素が時と共に増大する傾向のある現代キリスト教界にあって、神の主権性、主権的な選びの教理こそ、ぜひとも私たちが擁護しなくてはならない保塁であり、それなくして教会は真理の柱とはなりえないのです)。
 J.G.ヴォス著
              玉木  鎮訳
            (日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
IMG_3226.jpg   祈 り
♡  老人介護の仕事をして10年になりました。職業病の腰痛も慢性化してつい弱音が出てしまいます。そろそろ引退かな・・・と思う時があります。子供たちに生き甲斐なんだから、今少し続けたらと言われて、ついその気になって、頑張ろう・・・と思っています。
♡  ニュースなどで、若い人ばかりでなく、中年の人も携帯を見ながら人ごみを歩いているとか、自転車に乗っているとか、デパートやスーパーで買物をしていると報道されていますが、それは都会目線でしかないのではないかと思います。報道も都会目線、意識や関心事も都会目線が中心ですが、私たちの周りにはそのようなことはありません。畑を見たり、草花を見たり出来るからです。季節の情報も環境が教えてくれますし、生活が自分のリズムで過ごせるのです。携帯と向き合うことから少し解放されたら良いのになあ・・・と思いました。         
♡  長い入院になりました。焦る気持ちから今は主治医を信頼して任せております。同じ病棟の友も出来て、入院前の仕事の話も出来るようになりました。「心の病」という社会悪のような病気の患者が増加していると聞きますが、今はまだ個人の性格のこととされて来ましたが、社会病です。そう言う理解が欲しいです。
♡  あの悲惨な出来事からもう少しで8ヶ月になります。落ち着いてきたのではないのに、母への電話が少なくなっています。何だか取り残されているような孤独感、閉塞感が孤立感へとなっています。いけないと思いながらの自分がなさけないです。・・・。  
♡  寒さとストレスと疲労で風邪の人が多くなりました。病院までは1時間以上もかかり、車のないお年よりは心配です。弱者と言われる人には、これから生きる希望が持てないのはもっと深刻です。時々、もう死にたいという言葉を聞きますが、そこまで追い詰められています。・・・。
 
      
  「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
 
 私の住む東京でも、高濃度の数値を示す汚染のニュースで福島の原発事故を他人事としていた私に、「身近」なことと思わされました。変な言いかたですが、原発事故と今回の東京の問題は、根本的に違うのは、都民の有志が計測して分ったことで、ある面では何十年も知らずにいたという恐怖感です。きっと東京に限ったことではなく、全国的なことで、良い意味で、日本全体の総検査をして見ることの方が安心ではないかと思うこの頃です。
                   東京都 T・TさんSH3J06920001.jpg
 
「つのぶえジャーナル」をご覧の皆さんお元気ですか。先日、家内と金沢を訪ねた時、ちょうど、日本三名園の一つの兼六園で1日、冬の降雪に備え木々の枝に縄を張る「雪づり」が始まっていました。北陸の湿った雪の重みで木が折れないように支える恒例の作業だそうで、この季節の金沢の風物詩に出会いました。園内でも枝ぶりの良い樹齢約190年の「唐崎松」で作業を開始し、幹に沿って立てた地上約15メートルの柱に登ったベテランの庭師が、手際良く放射状に縄を張り巡らせる姿を写真に撮ろうと、観光客らがしきりにシャッターを切っていましたが、残念ながら、私の脳裏に写すだけで、その代わりに絵葉書を買いました。
                   佐賀県 N・Mさん
IMG_3311.jpg 『ありがとうございます』
店先のショウーウインドーには、クリスマスツリーが飾られ、イルミネイションはすっかりクリスマス満載です。ここ数年、名古屋では派手な電飾の家が見られるようになりました。「つのぶえジャーナル」の写真は、皆さんが送ってくださったものが多くなりました。
お昼のサラダとか身近な日常の食卓の写真。庭に咲いたお花などで、送ってくださる方々のお気持ちがとても嬉しいです。PCでご覧の方は是非、「拡大」でご覧ください。
寄付金も頂きました。本当に有り難うございます。生活にお困りの方や就職活動に懸命に頑張っている若者空のお便りやメールには、「つのぶえジャーナル」でご紹介できませんが、祈りなくして読めないものが多くあります。そのようなの方々を思いを大切にし、有効に使わせていただきます。今後共、よろしくご支援をお願い申し上げます。
     
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
羽野 環様 宮川眞澄様 馬場暁美様 古屋愛実様 匿名様
 
 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
 
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
 
‘11年10月16日から11月15日まで
s-P1002024.jpg    今月のことば
 
 まことにわたしは、その事のそのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。よし彼と争おうとしても、千に一つも答えることができない。
            =ヨブ記9:2~3= 
 
 キリスト者であるなら、一度ならず繰り返し「ヨブ記」を読まれたことでしょう。人間ヨブは、たったの一日で、自分の全財産と子供たちを失った人です。皮膚は腫れ物で覆われ、灰の中に座っている人。敬虔な友人たちや、腹立たしい慰め手たちや、そのような命を終りにすることを勧め求める妻などに囲まれている人です。
 また、自分の言葉では言い表せない苦しみを、長さ、広さ、深さを用いて探求し、長い時間を用いて友人たちと激しい議論を戦わせる人。天に向って様々な問いを神に発している人です。
 
 このヨブに神は、不思議な静けさ、様々な問いが自分の魂の祝福になっていることを記しているのもヨブ記です。
 ヨブの結論に感動します。「よく分っている。人はどうして神の前に正しくありえようか。よし彼と争おうとしても、千に一つも答えることはできない」という告白です。
 人には人生の成熟期というものがあって、そこでは私たちは、この「よく分っている」という言葉は、性急には語れません。それは、人は何ほどのことをも知っていないかを「知って」いるからです。
 ヨブの告白(結論)は「わたしは知ります。あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。・・・。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
 
 私たちの信仰が、「よく分りました」と言えるならば、何と幸いなことでしょう。わたしは道を知らないが、あなたはそれをよくご存知であることを告白する時、魂に平安が与えられ、静まることでしょう。
 ヨブ記は、私たちにいろいろのことを考えさせる書と言えます。
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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