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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  『ありがとうございます』
 皆様お変わりございませんか。11月号をお届けする季節になりました。月々カレンダーも12月一枚になりました。今月は写真があまりありませんが、少し送ります。昨年は咲かなかった柊の白い花と紅葉です。柊の花は金木犀の花と形がよく似ています。里山の紅葉は下旬頃でしょうか。またお仕事場の玄関にあるコスモスの写真も送って下さる方もあります。このように「つのぶえジャーナル」は多くの人に支えられ、形作られています。だんだん「皆さんのつのぶえジャーナル」に成長していることはうれしい限りです。
身近な出来事や風景やお花などの写真を写メールなどで送信してください。歓迎いたします。
     
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
 
藤本千春様 和田貴美子様 藤掛朔生様 古屋愛実様 匿名様
 
 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
 
 
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
 

     ‘11年9月16日から10月15日まで
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    今月のことば
s-IMG_4385.jpg  
<あなたがたは>・・・神を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
                 (エペソ1:13~14)
 
 キリスト者の信仰生活は、祈り、讃美する。ほめたたえ、捧げ物をする。説教を聞き、献金をし、聖餐にあずかり、聖書研究の集まりに出席し、聖書日課を読み、食前のお祈りをする、というのが一般的です。しかし、このような宗教的規律?の日々にあっても喜びがなく、平安がないとするなら、キリスト者を取り巻く人々の目にどのように映るでしょうか。その生活を見て、共に祈ろう、そのような信仰(宗教)生活に憧れるでしょうか。
 このような言葉は適切ではないのですが、「死せる正統主義」であるなら、今一度省みることは大切です。
 
 パウロが私たちに紹介する世界は、それとは何と違うことでしょう。「あなたがたは神を信じた結果」の世界は、新しい世界の始まりです。人は「聖霊の証印を押され」「神の国をつぐ」保証を受けるといいます。聖霊は、私たちの生活・意思の中に深く関り、変化をもたらし始めるのでした。
 
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂を生きかえらせ、み名のためにわたしを正しい道にみちびかれ。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23:1~4)。
 
この証印・保証は、ただ人は信じることによって、宗教的規律ではなく、そうせざるを得ない者へと新たにされるとしたら、なんと幸いなことでしょう。喜びの宗教的規律になるのではないでしょうか。その日々の歩みは、周りの方々に大きな変化をもたらすことでしょう。
 
 我が魂よ忘れたのか
 
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日をs-IMG_0101.jpg
 
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を
 
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を
 
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの                                                                            
愛と安らぎのある御もとを   水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」   
                                                 
 富井悠夫著 「日の上からの知恵」 伝道者の書講解
 ご希望の方は、お近くのキリスト教書店でお求めください   定価1300円+税

    小閑記
       
 ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。
                 詩篇146:5 
 
 <さいわい>という言葉は、人にいろいろのことを想像させる言葉です。
 人がこの世から天に引き上げられることと思う人もいるでしょう。また苦しみや悲しみから解放されて、救いの確かさを感じることを意味すると思う人もおられるでしょう。
 
 <さいわい> このことばには、聖書の中では昇る段階-滅びの淵から、絶望の底から上の高い所へ、解放と平和を求める魂の最初の重い溜息から、ついに救われて永遠の命に入るまで、の意味を持っております。
 
<さいわい> それは、自分の全てを嘆き、罪よりの解放を願い、神との平和を願うことです。それは恵みの座にひれ伏し、憐れみと、神の子たる資格と平和とを受けることです。
 
<さいわい> それはまた、神の訓練のもとに生きることです。人生の激しい戦いに私たちは傷つき、罪とサタンに打たれ、打ちのめされたとき、こういうただ中にあっても、私たちは救い主である、父としての神に近くおり、悩みの日に神の宮にかくまわれるとき、本当に私たちは幸いであります。
 
<さいわい> それは傷をいやされ、全てのことを主イエスのみ名によって感謝し、新たな思いで人生の戦場に出て行き、おだやかな心と勇気をもって生き、力を持って愛し仕え、喜びとほほえみをもって死を迎えることでもあります。
 
イスラエルよ、あなたはしあわせである。                      s-IMG_4386.jpg
だれがあなたのように、
主に救われた民があるだろうか。
主はあなたを助ける盾、
あなたの威光のつるぎ、
あなたの敵はあなたにへつらい服し、
あなたは彼らの高きところを踏み進むであろう。  申命記33章29節
 
                上河原立雄 
 
 
 (ひとみs-IMG_4355.jpg)
携帯を見ていた娘が、突然、泣きながら外へ飛び出して行きました。大分時間が経ってから眼を腫らして、帰ってきました。それから数日の間に何時もの娘に戻っていたので安心していたところ、娘から友だちの携帯のことを話し出しました。家が壊れたため、横浜のおばあちゃんのところへ行き、そこの中学校に入りましたが、初めは福島からの転校生として迎えてくれたが、最近は、変な言葉、標準語を喋らないとわかんないといわれたり、汚い言葉で笑われたり、田舎者扱いされて悔しい。おばあちゃんはそのうち慣れるよ、と言うだけ。そんな嫌がらせを毎日受けていて、死にたいとメールにあったのだそうです。わたしのことばは変なのかな・・・と思うようになったら、誰とも口をききたくない、家はないけど福島に帰りたいと言う内容だそうです。私も東京に就職した時、電話ノイローゼになりました。私は福島弁が大好きです。この福島弁は山や川や田圃がくれたもので、人々の心が込められていて大好きです。
今は娘が夢中になってメール交換している姿が、少し大人になったみたいで、愛らしく、いとおしくてなりません。
                    福島県 K・Kさん
                  
よく「時間薬」などと言ってきましたし、そのことも事実ですが、逆の場合は「時間はより悲しみを深める」のも事実です。周りはだんだん落ち着いてきましたが、悲しみに悲しみが折り重なってきます。無事を感謝した時もありましたが、今は、生きるのが辛く感じてしまいます。み言葉が心に響いてきません。祈りは愚痴に代わっています。このような状態からの脱出も「時間」薬なのでしょうか。どの位の時間、何か召される時までの時間のように思えてしまいます。疲れきった妻の後ろ姿に、これからの不安を思わされます。感謝なことは、二人で、聖書を読み、祈る時が慰めであり、恵みの時になりました。私たちに信仰を下さった神様に感謝しています。
                    宮城県  G・Nさん 
 
月日の経つのは早いものですが、私の中では止まっています。頑固者で、短気で、怒りっぽくて、何でこんな人と結婚したんだろうと、勧めてくれた人を恨んだりしながら過ごした結婚生活37年、信仰生活40年でしたが、4年ほど前に主人が大きな病気になり、退院後は自宅療養という名の生活になりました。淋しそうに、無念そうに外を見つめる主人の顔には、我がままな面影はありません。ある時、ぽつりと俺も聖書の話が知りたいなあ、と言いました。思いがけない言葉に耳を疑いまして、今、何ていったのと聞き返したほどです。主人は、ぶっきら棒なことばで、聖書の話しが知りたいと言いました。嬉しくて嬉しく涙が止まりませんでした。取り合えず手元に持っていた「つのぶえジャーナル」を読みながら、教会のことや、自分の今までのこと等話し合うようになりました。
一年ほど経ってから、牧師先生に月一度の家庭訪問のお願いを申し出て、快く引き受けてくださいました。少し緊張していた主人でしたが、回数を重ねる内に、いろいろ質問したり、自分を振り返ることを話し出していました。私の知らない苦しみを口にして、私も驚きました。集まりも一回から二回になり、教会の方や親しい方も参加するようになりました。願っていた家庭集会になっていました。
毎月送られてくる「つのぶえジャーナル」を何時も待ち焦がれていました。枕元で少しずつ読んであげました。ある時、洗礼は、礼拝に行かない者はダメかな・・・と言うのです。心の中で、洗礼を受けたいと思っているようで、牧師先生に相談させていただこうと思っています。今までの不満ばかしの私の気持ちは、主人のひと言で消えてしまい、今は、神様に感謝する日を、主人と共に送っています。洗礼のための学びを近い内にして下さるのを心待ちにしています。主人は、教会には一度も来たことはありませんが、今は、主人の分の週報を頂いています。
                   佐賀県 I・Sさん
 
コスモスの花の公園(わたしの勝手な命名)が見えました。秋の大きな花籠をプレゼントしてくれています。東北地方の震災地ではヒマワリが各地に植えられているニュースは沈みがちな気持ちを明るくしました。広々とした畑に誰が植えたのでしょう沢山のコスモスが咲いているのを偶然見ることが出来ました。1メートルもの背丈に見える花々。ガソリンスタンドの方に聞いたら、今年がはじめてだそうです。広々としたところに植えられた何万本もの花が、この台風12号が過ぎ去り一気に花が開いたのだそうです。爽やかな蒼空と秋風に揺れる花は、けなげにも見えます。近所の方でしょうか、ご家族で散策しておられる姿に、ほほえましい気持ちを頂きました。車で見た一瞬でしたが、帰宅しても心に残っています。
                     山口県 I・Tさん 
自閉症者のひとりごとs-2011091113570001.jpg
    (52)
 
8月18日
今年の8月はわたしがお酒をやめて4年目になります。今日はそのバースデー・ミーティングです。スポンサーに言わせれば、ただ飲んでいないだけで、次のステップに進んでいない。わたしもそれは痛感しています。霊的成長が何もないのです。神様との交わりが薄いのです。要は生き方が変わっていないということです。それでも、昼から酔っ払っていないだけ、ましではありますね。
 
8月29日
公同の礼拝に出なかったのは、わたしも同じ。でも、主人が聖書を読んでいる姿や祈る姿を見たことがない。わたしが寝てから行っているのか、そんなことわかりません。毎日主人と礼拝できますようにと。いつかは来るんですかね。わたしがそんなことを言ってはいけないのでしょうが、主のお導きとみ力を信じます。今日も病院通いでした。あっけないほど、早く済みました。
 
9月2日
風が強くなってきました。午前中はしんどくて寝てしまいました。朝4時起きですから。5時までは布団に、5時からは片付けとゴミ出し。お茶をヤカンいっぱいに沸かして(それでも足りない)、また横になって、7時に起きて朝食の用意をし、テレビをつけて、横になっていましたが、落ち着かないので、パソコンやiPodをいじっていました。そのうち主人を起こす声かけをする時刻になる。この早起き、なんとかならないかなあ。昼間眠くなるのよね。
そういえば、高校生だった頃、早朝補習に出ていたので、いつも母がわたしより早起きで、弁当を欠かさず作ってくれました。その後、少し母は横になっていました。わたしが進学できたのは、母のおかげだなぁと今更ながら思います。母との思い出は、いつもお箏のお稽古にまつわることです。わたしにとっては、母である以前にお箏の先生だったのです。それでも、出稽古先に呼んで、おやつを食べさせてくれたり、会で東京に行ったときは、流行りの人形を買ってきてくれたりしました。わたしが留守をするとき、ご飯だけは作っておくのは、母がそうしていたからかもしれません。
子どもの頃から、世話をし、遊んでくれたのは父(今でいうイケメン)でした。だからわたしはお父さん子。父との思い出はたくさんあります。でも、母との記憶もあります。


9月6日
爽やかな日ですね。久しぶりに万年床をあげました。といっても、腰の痛みのことがあるので、布団を半分上げるだけです。朝食を一口食べた主人が、変な味がする、傷んでいると言って食べませんでした。わたしもいつもと味が違うと思いつつ、全部食べました。そしたら、案の定、調子が悪くなりました。朝食の材料を全部捨てました。食あたりには注意。
わたしは臭い、味音痴なので、頼みの綱は主人です。感覚過敏の人は多いですね。すぐに味や臭いに反応する人は多いです。逆にあまり感じない人もいます。
だから、食べ物の好き嫌いが激しく、わがまま扱いされる人が多いようです。


9月13日
プツンと糸がきれたように、目につくあらゆるものをバクバク食べました。信じられない量です。その後、お腹の不快感と罪悪感で、主人が帰ってくるまで、ずっと臥せっていました。アディクション(註・嗜癖・「止めよう止めようと思いながらも止めることのできない悪い習慣に耽ってしまうこと」)です。だから仕方ないですね。身心共に苦しいです。もう二度とやるものかと思っても、またある日突然やってしまいます。治らない病気ですから。
                      加納さおり 
 
 
                   
s-2011091113310000.jpg 世田谷通信
(96
 
猫 草
 
睡眠というのは不思議なものだと思う。現在中2の長男はよく眠る。学校に部活に塾に宿題とTVも・・と多方面に多忙な生活だが、隙を見てよく寝ている。そして起きてくるとなんだか背が伸びている。成長期なのだと思う。次男もよく眠る。ちょっとでも明るいと起きてしまうので真っ暗にして。夏場は朝日が射し込まないように東側は二重の遮光カーテンで覆っているほどだ。
睡眠中に脳は何をしているのだろうか。目玉は動き、夢をみて、寝言を言い、まるで記憶を反芻しているようだ。情報の整理をしているとか、身体の疲労を解消しているとか言われるが、こんなに毎日毎日、長時間まとまって睡眠をとる生き物は珍しいようだ。コアラやナマケモノのように一日の大半を寝ている動物もいるが、あれは無駄なエネルギーをつかわないように活動自体をセーブしているのであって、人間のように活動時間と休止時間がはっきりしているのとは違うように思う。
コンピュータが時々「ハードディスク記憶領域の整理をしたい」と訴えてきて(そういうメッセージが出る)、どうぞ、とOKをクリックすると何時間も或いは丸一日そのモザイク状にばらばらになったデータを移動してまとめて整理して・・・というのをやっている。きっと人間の脳内も適当に記憶されてぐしゃぐしゃなのを睡眠中に関連付けて整理しておくのだろうなと思う。また、ある時はパソコンが「十分な記憶容量がありません、新しいストレージを購入してください」と訴えてくる(これにOKをクリックすると即、購入手続きに入ってしまうから、簡単には押せない)。人間は新しい脳を追加購入するわけにはいかないので、あふれそうな情報は忘れることで一定の記憶容量を保っているわけだ。しかし「忘れる・覚えておく」の判断が本人の意思に反していることもある。もう忘れたいことにずっととらわれ続けたり、忘れてはいけない大事なことがすっぽり抜け落ちてしまう。だから大切なことは紙に書いたり、写真やビデオに撮ったり、パソコンや携帯に記憶させたりして管理するわけだ。
脳は情報の整理と統合、削除だけではなく想像力、創造力もつかさどっている。この創造の部分がコンピュータにはまねのできない、最も不可思議な機能だが、睡眠が深くここにかかわっている「らしい」程度にしか解明できていないようである。
まだまだ脳と睡眠には未知と謎が多いが・・秋はうたた寝するのに心地よい季節であることは間違いない。
   その愛のゆえにs-2011091113570000.jpg
   =時々の記=
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8月25日
こちらは大変蒸し暑い日です。台風と梅雨前線の影響でしょうか。どんよりとした曇り空です。名古屋は、激しい雨のようですが、どうぞ、足元にお気をつけてください。
長かった夏休みも、あと5日で終わろうとしています。今頃は、どの子も宿題に追われていることでしょう。蝉の鳴き声がツクツクボウシとないています。夏の終わりを告げる声です。夜は、すっかり、虫たちの大合唱です。とくに、今年は、クツワムシの鳴き声がひときわ耳につきます。
いくつかの星飛ぶを見て寝ねんとす
ほおづきの日に濃くなれる犬散歩
この盆地満月聳ゆ雲の峯
椿の実日にてらてらと垂れており      馬場路哉
 
8月29日
昨日、九月号のジャーナルが届きました。ありがとうございます。
二日ほど前、娘から電話がはいり、九月号のジャーナルを読んでいるとの連絡でした。
世田谷通信に感動し、マカルピン先生の姑と嫁の関係にも信仰を持っている二人は、かくも麗しい関係を保ち続けることができたことにも、心うたれているとのことでした。
私も、同感です。
ナオミの信仰の深さにより、ルツをみちびきました。ナオミは多くの困難の中にあって、一層神様に目を向け信仰を強めて、苦しみから信仰によって立ち返り、恵みと喜びに感謝していったことを学び、ナオミのような信仰をこの私にもお与えください、と祈りました。
「今月の言葉」にもありますが、人間にしかできないことを神様はあたえてくださいました。その賜物をいかされて、日本中、いえ、世界中の方を信仰的に強め励ましてくださるジャーナルにこころからの感謝をいたします。
 
9月7日
台風の影響をうけて、こちらは、4日間大雨です。ノアの方舟を思い出しています。
奈良県でも大きな被害を受けている村があります。山添村では、大木が路に倒れこんで、小さな道が通行止めになっています。昨日の犬たちとの散歩中、風にとばされて、竹の枝がびゅんびゅん飛んできましたが、犬たちが身をかわしてくれたので、それに助けられて、何とか、怪我をせずにすみました。自然の力の大きさに心砕かれるものです。
 
9月8日
今はどうか分りませんが、私の時には奈良県では、新卒の教師は、たいてい十津川に赴任させられます。また、現職でも、管理職になると、十津川に行かされる場合があります。今回の被害を受けられた方の中にも、十津川の若い女性の先生が亡くなられていました。奈良県の山は、ヒノキ、杉が多くそれらの木は、根が横に伸びて、土砂災害をもたらす危険があると主人に教えてもらいました。
ブナ、コナラ、などの木は水をよくすってくれるそうです。
今年は、東では大地震の復興がまだ進まない中、西では伊勢湾台風よりひどい雨の被害を受け、大変です。どうぞ、被害にあわれた方が、一日も早く普通の生活ができますようにと祈っています。
内閣が新しく発足されましたが、今の厳しい日本の緊迫した情勢を何とか知恵と力を出して、改善してほしいものです。あまりにも格差社会になりすぎです。
大小の忍者の歩く夏まつり
さまざまな虫聞くうちに寝ねにけり(いねにけり)
鮮やかな新梅干しを直売す
朝霧に伊賀の山並み隠るなり       馬場路哉

 
                                                                馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)
 
 
s-2011091113160002.jpg                   キリスト者の生活綱要  (26)
               
                                            ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
  9 十字架はわれわれを無感覚にしない
 
  1 忍耐と節制を身につけていくなかで、悲しみから生じる、信者たちの生まれつきの感情との戦いを、パウロは次のように十分述べている。「わたしたちは、四方から艱難を
受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない、迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない」と(Ⅱコリント4:8~9)。
 十字架を忍耐深く負うということは、われわれが無感覚になったり、悲しみを感じなくなったりすることではない。ストア派の哲学者たちの古い考えによれば、偉大な人とは、人間らしさを捨てて、逆境にも幸運にも心を動かされず、喜びや悲しみにすら左右されない、冷たい岩のような人のことだそうである。このような高慢な知恵に、何の益があるだろうか。
 彼らは、人間のうちに、まだ見い出されたこともないような、存在することさえ出来ないような忍耐について、空想を描いているのである。至高の忍耐を見い出そうとして、それを人間生活から遊離させてしまっているのである。
 
  2 現今のキリスト者のなかにも、呻いたり、涙を流したり、孤独な中に悲しむことさえ、罪悪と考える新しいストア派がいる。そのような乱暴な考えは、通常、夢想家から出るのであって、実際的な人からは出てこない。したがって、そうした者たちは、幻想以外のなにものも生み出すことが出来ない。
 
  3 主であり師であるイエスが、言葉と模範によって罪と定めたところのこのような過酷で厳しい誓言とは、われわれはなんの関係もない。というのは、主は、自らの不幸も、他の人々の不幸と同じように、悲しみ、涙されましたし、弟子たちに、それ以外の道を教えなかったからである。
 主は、「あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう」と言われた。そして、だれも悲しみを悪と呼ぶことのないように、悲しむ者に祝福を宣言された。
 
  4 これは少しも奇異なことではない、もし主が、すべての涙を罪であると言われたのであれば、ご自身の身体から血の涙を流された主ご自身を、われわれはどう裁くべきなのであろうか。すべての恐れが不信仰という烙印を押されるなら、イエスを気落ちさせ、恐れさせたあの不安のことを、どう呼んだらよいのか。
 全ての悲しみが好ましくないと言うのであれば、その魂は、「悲しみのあまり死ぬほど」であった、というイエスの告白を、われわれはどう認めることができるのだろうか。
ヨハネ16:20、マタイ5:5、ルカ22:44
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
 
 
 『旧・新約婦人物語』(26)
  ヘロデ王の妻となったヘロデヤs-2011091113110001.jpg
      マルコ6:14~29 
 
 ヘロデヤという婦人は、旧約聖書に登場します女王イゼベルに、実によく似ているところがあります。この二人の女性ほど残忍な性格を持った婦人は、聖書全体を通して他に見当たりません。二人とも、地位も同じく、非常に勝気でありました。自分の地位を利用して国の政治を思うままに左右し、彼女等の気に入らない者は、邪魔者として圧迫を加えられていました。
 それはもはや死の宣告を受けたのも同然で、国内では生きて行けないほどでありました。ヘロデヤの気に入らない邪魔者は、誰だったでしょうか。皆さんもよくご存知のバプテスマのヨハネです。
 
 ヘロデヤの出身地はイスラエルではなく、その南のエドムの国から来た婦人でありました。歴史を調べてみますと、ヘロデヤは、ヘロデ王の兄弟ピリポと結婚して、ローマに住んでいたのです。ヘロデがローマに行った時、初めてピリポの妻ヘロデヤに出会って、彼女の美貌に心引かれ、彼女に誘惑されてついに人妻と姦淫を犯す大罪をしでかしてしまいました。
 ここで二つのことが、はっきりわかります。その一つは、ヘロデ王とヘロデヤの道徳観念がいかに低いかと言うことです。姦淫が身を滅ぼす恐ろしい罪であり、ことに自分の兄弟の妻とそのような罪を犯すことが、どんなに大きな罪であるかと言うことが、彼らに分からないほど道徳意識が低すぎたのです。
 今一つの点は、ヘロデ王の意志の弱さです。自分の身が一国の王でありながら、自分の情欲を抑えきれず、ヘロデヤの誘惑に負けて姦淫の罪を犯し、彼女と彼女の娘サロメを連れてユダヤに帰ってしまいました。彼女もまた、平気で主人ピリポを捨てて、ヘロデ王とユダヤに帰ったのです。そしてそれのみでなく、彼女はヘロデ王の正妻であるアラビヤの王女を、王妃の地位より退け、国に追い返し、自分が王妃として栄華な生活を始めようとしたのです。
 この時、彼らの前に現われたのがバプテスマのヨハネです。彼は厳しく勇敢に、彼らの不道徳と不倫を責め、兄弟の妻を妻に迎えることが誤りであることを戒めたのです。忠言耳に逆らうとは、古今東西同じことで、これを聞いたヘロデヤは非常に怒り、ヨハネを恨み、ヘロデ王に訴えて人をヨハネのものに送り、捕らえて獄似につなぎ、彼を殺そうと思いました。事実、ヨハネは捕らえられ獄に入れられました。しかし、ヘロデヤはヨハネを殺すことだけは出来ませんでした。
 何故かと申しますと、ヘロデ王がヨハネは正しく聖なる人だと知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、彼の教えを聞き、大変悩みながらも、喜んで彼の言葉に耳を傾けていたからです(マルコ6:20)。
 
さてヘロデヤはヨハネに対する恨みを捨てず、彼を殺す機会の訪れるのを、密かに待っていたのです。その機会は意外にも早くやって来ました。ヘロデ王の誕生日のお祝いに、娘のサロメが王と彼の客人の前で、巧みな舞で、非常に王を喜ばせました。そこで王はこの少女に、「ほしいものは何でも言いなさい。ほしければこの国の半分でもあげよう」と、軽々しくも誓ったのです。
サロメは、急いで母のヘロデヤに何を求めればよいかと相談しました。ヘロデヤは、「バプテスマのヨハネの首を」と教えたのです。サロメは王に、母の教えたままを願い出ました。ヘロデ王は、彼女等の意外な願いを聞き、ひどく驚くと共に、非常に困りました。しかし一旦誓った限り、簡単にこれを退けることも出来ず、彼は心ならずも衛兵を送って、ヨハネの首を切らせました(マルコ6:26)。
 
この嫌なお話は、私たちに何を物語っているでしょうか。クリスチャンは、罪に対して、はっきりした態度をとるべきであると言うことです。ただ罪に対して目をふさぎ、知らん顔をしているような消極的な態度は、クリスチャンらしくありません。ことに、このような道徳的罪悪に対しては、私たちは積極的にこれと戦って、国の道徳的水準を引き上げなければならないと思います。
全てのクリスチャンは、地の塩となって、社会を清め、世の光として罪の暗黒を照らし、すっかりこれを吹き払う尊い義務を、神より託されているのです。もっとはっきり、この義務と責任とを、クリスチャンは自覚し、実行すべきでありましょう。
 
  ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
  ビルマ
  戦犯者の獄中記  (9)  遠山良作 著
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昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・1・・・
 
公判による各証拠の詳細を検討する前に、この弁論を如何になすかについてその概要を説明せんとするものなり。
まず公判にあらわれたる「小事」につき、次いで各被告に対するいろいろの証拠について、公判において述べたる、九名の証人の証言の確度につき、最後的観察を述べんとするものなり。自分は弁論を時間的に短くせんとすることをもって法廷は御安心ありたし。最初に検事の所謂「小事」に関し検事は証人は何処にて検挙されし被告の服装、各証人を誰が検挙し、各被告が何国証を用いたりやかに相当手数を費やしたり、加うるに友人「エイリー」大尉(検事)は「モールメン」刑務所の構造につき異常なる興味を払いたり。現在被告席の各人は「エデゴン」及び「ナングロウ」部落のある人間に対する虐待行為のみに依り告発せられたり、被告が何国語を語りまた、如何なる服装をせしやは被告の告発理由に関し、全く無意味なりと断言する。予は、再び繰り返す。被告の起訴の理由は虐待行為のみなり。
さて若しあるとせば果たして如何なる証拠か各被告を有罪化すべく表れたりや。まず出田大佐より。出田大佐は法廷が知る如く「モールメン」に所在せし憲兵司令部の高級部員にして彼の主任務は司令部内の業務にあり、また彼は司令部の次の単位たる第一、第二司令部(東南部)の連絡にも任じたるものなり。粕谷中佐は第二司令部の指揮者(隊長)にして、東大尉の「モールメン」分隊はその指揮下たり。法廷は既に知る如く、司令部(出田大佐の所属)は直接分隊を指揮せず、また出田大佐は直接分隊に命令を与え且つ報告を受けず、出田大佐も現地人の検挙、尋問の命令を与えたることは勿論、報告を受けたことなしと証言せり。この高級部員が下級の任務たる尋問、ましてや拷問を自ら行ないたると言う証言は笑止の至りなり。特に証人「ノルシー」氏は、出田大佐は検挙隊員の一員なりしと言においや。最後に出田大佐は「刑務所は勿論分隊に赴きたることなし」と証言せり。右両人は容易に責任を同大佐に転嫁する証言を為し得る者なり。予は法廷が前記をよく考慮し彼に無罪の宣告を与うることを要求するものなり。
 
次に東大尉。彼は検事の第二の目標なり。東大尉は後記の行動を為したる分隊の長にして彼は職務上留置人に対し左記のことをなしたると言う。
1 食事不十分
2 設備不良
3 医療を与えず
4 拷問をなす
ビルマ政府が留置人を収容するに適当なりと認めたる場所に、憲兵隊が借家としてその中に収容せられたる者は、彼ら自国の一般容疑者より待遇を期待し得ず、交戦国(日本)借家人は改善を要求する必要なきものなり。
この点一般に「占領地区住民に対する交戦国の義務」に関し軍刑法には、二頁の第364項を参照せられたし。法廷の証人は捕虜にあらず、しかして彼らの取扱法は捕虜に対するが如く判然かつ、整然たるものでなきことを考慮にいれられたし。即ちビルマ国自ら標準を定めたるもので日本がそれを採用せりとて責むることを得ず。証人は刑務所内の他の囚人と同じく、毎日二回十四「オンス」の米飯を含む食事を与えられたり。かつ食事は他の囚人と同じ炊事場において調理せられるものなり。
これ以上のものを東大尉に要求するは、果たして妥当なりや、寝具は与えざりしを認む。東大尉はこのことについて努力せしも成功せず。よって留置人寝具(食事も)を自宅より差し入れを許され、現に寝具の差し入れを受けたるものもあり。一般ビルマ囚人は寝具及び蚊帳を支給なきなり。医療に関し予は二点につき論ぜんとする。
     この文章の転載はご子息の許可を得ております。
   あなたに聖書をs-2011091112530000.jpg
 
 キリストの弟子になった人たちの中には、ガリラヤ湖という湖での漁師だった人たちがいました。ある日、彼らが夜通し漁をしても、一匹も取れなかった時に、その漁師の一人ペテロにキリストが声をかけられました。それは「船を漕ぎ出して網を降ろして漁をしなさい」という指示でした。
 
 この時、ペテロは、一晩中働いても獲物がなかったのですから、「今日はこれで終りだ」と思って、船から上がって、網を洗っていたのでした。そういうペテロに「もう一度漁をしなさい」と言われたのは、漁の素人である人から、しかも陽が昇ってから「船を漕ぎ出せ」と言われたのですから、普通なら彼らは「そんなことをしたって無駄なことです」と言いたいところでした。
 
 しかし、キリストの言葉には、何か逆らうことが出来ない力が感じられました。それで、網を降ろして漁をしたところ、なんと、網が破れそうになるくらい魚が取れました。この時、ペテロは、キリストの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。罪深いものなのです」と言いました。
 
 ということは、ペテロが自分の考えや判断でもう一度網を降ろしたのであれば、大漁と言う結果に大喜びしたことでしょう。しかし、今回は、自分の考えではなく、キリストから声をかけられたことでした。しかも、その結果に期待と確信を持ってしたがったのではありませんでした。そこで気付いたことは、「このキリストという方はどういう方だろう」という驚きと、この方を信じて網を降ろしたのではない自分であったことについての申し訳なさでした。
 
 この話は、ルカ福音書5章に記されているいわゆる奇跡物語の一つでありますが、ここで言えることは、キリストの語りかけに従うことによって、全く予想を超えた出来事を体験するここと、同時にキリストというお方がどういうお方であるかということと、それによって自分がどういう自分であるかを知らされるということであります。
 あなたにも、聖書から、そういうメッセージを聞き取っていただきたいと願っております。
 
篠田 潔
 
(参照聖句・ルカ5:1~11)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
=ご報告=
この度の台風12号の影響による豪雨のため三重県熊野市にあります熊野送信所が水没したため、9月4日(日)午前5時頃から断続的な停波状態に陥り、お聞きくださっている皆様に、ご迷惑をお掛けいたしましたことをお詫びし、ご報告いたします。
 
「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 
10月
         2日  望月 信  (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
         9日  望月 信  (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
    16日  長谷川潤  (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
    23日  長谷川潤  (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
    30日  長谷川潤  (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
 
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
  「ローマ人への手紙」研究 (83)
 第50課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
s-s-IMG_4505.jpg       9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全体ではなく、残される者はやがて救われる。
       11章1~10節 (2)
 
 「神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった」(2)。この言葉を解釈するに当たって、その強調点がどこにあるかが問題になります。もし強調点を「その民」に置くならば、そこにも一つの解釈ができ、また「あらかじめ知っておられた」に強調点を置くならば、もう一つの解釈が可能になります。第一の場合には、「その民」とはイスラエルを指すことになり、その意味は、神はイスラエルの民をお捨てになってはおられない。神は予めおられたその民を捨てることはされなかったということになります。
 しかし、第二の場合には、その民はイスラエルではなくて、選びの民、すなわちイスラエルの中の選ばれた者たちの意味となり、永遠より愛と慈しみをもってあらかじめ知っておられたイスラエルの中の真のイスラエル、霊的イスラエルを指すことになります。第二の意味が第一の意味に比べて、より優れていると考えられます。
 第一の場合には、2節は1節の繰り返しに過ぎなくなってしまいます。しかし、第二の場合には2節はそれ自身の意味を持ってくることになります。更に、9:6~8節においてパウロはすでに、外的イスラエル(肉のイスラエル)と霊的イスラエルという核となる者との区別を明らかにしています。この考えはこの書簡において、今新しく登場して来たものではありません。
また、第二の解釈は11章の後にある部分と最も良く適合するのです。すなわち、11章においてパウロは恵みの選びによって残された者があることを語っています(5)。これらの理由から、第二の解釈の方がはるかに優れているのです。この解釈によりますと11章2a節の意味は「神はその選びの民をお捨てにならなかった。神は特にあらかじめ知っておられたイスラエルの民の中のある者たちを捨てることはされなかったのだ」となります。
これはローマ書全体の文脈に適合するばかりでなく、聖書全体の教理、すなわち、外的な目に見える社会とそのメンバーたちは罪の中に捨てられ滅びるかもしれない。しかし、神の選びの民たちは、決して捨てられないし、滅びることはありえないという教理にも適合するのです。
 
「あらかじめ知る」という語は、聖書では一つ以上の意味に用いられています。11章2a節に用いられているように、単に「先に知る」という意味以上のことを意味するのです。「あらかじめ知る」、あるいは「永遠より知る」という意味において、神のあらかじめの知識、すなわち、神の予知は全ての被造物と出来事を一切包含しているのです。この意味において、神はユダヤ人と同じく異邦人をもあらかじめ知っておられたのです。したがって11章2a節の「あらかじめ知る」という言葉が、単に「先だって知る」という意味に過ぎないならば、神がユダヤ人をあらかじめ知っておられると言うとき、ユダヤ人について何の特殊性も独自性もないことになってしまいます。しかし、「神はあらかじめ知っておられるその民」という言い方においては、「あらかじめ知っている」という言葉は、イスラエル人を「神の特別な配慮と慈しみを永遠より受けている」という意味にとることが適切であります。神がご自身の民としてあらかじめ慈しみと愛顧をかけておられる人々は、決して捨てられることはあり得ず、永遠に神との交わりの中に生きるのです。
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
 
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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