忍者ブログ
2023年7月号  №193 号 通巻877号
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

   今月のことば15fb443c.jpg
 
 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた」。
              (マタイ26:75)
 
 この冒頭の聖句は、私たち一人一人にいろいろのことを思い起こさせます。聖書の中にはそのような自分を鋭く見つめさせるみ言葉がありますが、それに出会うことはとても大切なことと言えます。
 ユダの時、カヤパの時、反キリストの時の中で、ペテロにとって、また信仰者にとって、いろいろのことが明らかになります。たとえば、剣や男らしい方法や英雄的な力は、神の国では相応しいものではないということ。そのために、キリストは、ペテロの挫折を惹き起こしています。ペテロが大祭司の邸の外で「激しく泣いた」ときには、まだ一人の男らしい男が泣いたのであり、ペテロが挫折したときには、まだ男らしい男が挫折したのです。
 しかし、そのようなペテロは死ななければならいのです。それは、彼自身が生きるのではなく、彼の中でキリストが生きるためなのです。ペテロは強くなるでしょう。しかしその前に、彼自身が生きるのではなく、ペテロの中にキリストが生きるためなのです。そのためには、彼は全く弱くならなければならないのです。それは、神の力は弱い者の中で力強いものとなるためです。
 ペテロは、地の果てに至るまで、神の証人となる人物です。そのために、先ず自分の義が完全に無に帰さなければならなかったのです。使徒として「豊な実を結ぶ」ためには、一粒の麦は地に落ちなければならないのです(ヨハネ12:14)。
 ペテロが大祭司の邸の塀のそばで、人間としての自分が打ちのめされましたが、この打ちのめされたペテロを再び立ち上がらせるのは、主がかつて自分に語られたあの冒頭の言葉を思い起こすことでした。
 主は、「わたしの子羊を養え」(ヨハネ12章)と再び任命するあの恵みは、神の言葉です。それは、ペテロに対する主イエス・キリストの「赦しの言葉」です。迫害と殉教の中で証し人ペテロを強め武装させるみ言葉です。
 神よ、どうか私をお用いください。あなたのお言葉の招きにお応えし、私をお用いくだい、と祈るペテロに変えられたのでした。
 
PR
   小閑記
       
 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
                   (マタイ16:26)
 
 戦争、人権侵害、殺人、自殺は人類の最も醜い姿です。それは、他の人や他所の国のことではありません。自分自身の心の国です。しかし、主イエスは違います。人間を高く評価しています。それが、このみ言葉です。主イエスは、一人の人間と全世界とを比較しています。そして、全世界を一人の人間の魂の価値よりも低いとされました。人が全世界を得ても、魂を失うならば全てを失うことであるといわれました。
 それほど高く人の魂を評価されるのです。
 
 このように大切な宝を授けられている人間とは、何でしょうか。人間自身は魂をどう値踏みしているのでしょうか。多くの人は自分がそのような大切な魂を持っていることを殆んど忘れているし、ある人々は人間には魂はないとさえ言い張ります。また魂があると信じている人々の中にも、それにどれだけの意味があるかを見いだしているでしょうか。
 むしろ、多くの人はその唯一の魂を粉々に引き裂き、砕いているこに気付いていないのではないでしょうか。この無神経さ、欲望人間はサタン(罪)に支配されているのです。人間の叡智、芸術、文学、学問は、魂の養いであるかのようにその座を得ようとしています。
 
 しかし、永遠を知っておられる主、魂の値打ちを知っておられる主は、「永遠に救われる」「永遠に失われる」という表現を用いて、私たちに決断を求めています。「失われた」と言うのは、神の招きの届かないところ、状態を意味しています。
 もし考え直す機会が与えられているなら、勇気を持ちましょう。希望を持ちましょう。迷える友がいるなら、キリストに生きることを示そうではありませんか。
 
                上河原立雄 
  便りa3722445.jpg
 
信州は
 まだ雪が降り
 風が吹いているだろうと
野辺でつんだルリ色の春を
送ってくれました
 
主にある友よ
その優しさに
わが胸に
ルリ色の花
美しくほほえむ    水野源三 第四詩集「み国をめざして」より 
  
 
s-CCF20110219_00001.jpg(ひとみ)
年々少なくなっていた雪の量、それが当り前になっていた生活や気持ちが、今回の大雪で、改めで「雪国」を実感しました。子供の頃に比べれば、それでも少ない方です。屋根には雪の滑り止めがついているのが普通でしたが、わが家も改築と共に無くなっていました。雪でガラスが壊れない様に板を打ち付けていたのもありません。そんな生活への一撃でした。
私の集落も私を含めて高齢者は8割、その内の6割が一人で生活しています。持病を抱え、通院が日課です。送り迎えのデーサービスの日々で、それなりに楽しく過ごせましたが、今回の大雪で、日用品の買い物、暖房用の灯油、通院できない不安、雪の重みで軋む音、心細い気持ちで見るテレビは、雪の被害のニュースばかりです。
村の人のことが気になり、毎日、朝晩の二回、私の集落全員に電話をしています。日々の様子は役場の係りの人に連絡して、お互いの安否を正確に確認してきました。除雪できない人、手持ちの薬が少なくなっている人、食料品が不足している人などの声を伝えることで、地域が支え合っています。時には、離れている親族にも支え合っている様子を伝えて上げてきましたが、普段は疎遠の若い人との係わりが生まれたり、お互いに安否を伝え合うことで、普段と違った村本来の共同意識が生まれたように思いました。「災い転じて福と為す」と言うものを体験しました。大雪の思わぬ贈物と家内と話し合っています。
テレビで「無縁社会」ということが言われていましたが、私の感じでは、よい意味での「地縁・血縁」の内、地の上に生活している者には、「無縁」の気持ちは少ないと思いました。停年退職して15年になりますが、元気な間は、村の皆さんのお役に立ちたいと思っています。それが、私の今の生き甲斐です。大雪もまた良いものです。
                      秋田県 Y・Tさん
 
   自閉症者のひとりごとs-CCF20110219_00002.jpg
(46)
1月17日
今日も雪。病院の予約日なのでタクシー会社に何社も電話したけど通じず、主人の仕事が休みになったので、病院に送ってもらいました。病院は、さすがにいつもより幾分すいていました。それでもタクシーがひっきりなしにきました。新薬が出たというので、処方してもらいました。痛みが少しでも和らぐらしいのですが、どうなるか。
祈ること、聖書を読むことを習慣付けなければなりません。ついつい食前感謝だけになってしまいがちです。ほんとに信仰薄き者だなぁ。常に神様を見上げて生きるということがわかっていないのでしょう。毎日みことばカレンダーをめくっているだけでは何もなりません。
 
1月22日
新薬は副作用のほうが強く出てしまい、服薬は中止しようと思っています。自転車に乗っていたところ、急ブレーキをかけなければならなくなり、頭から転倒していました。幸い(わたしのせいじゃないので立腹)頭を軽く打って、脚を擦りむく程度ですみました。とっさに頭をかばったせいか、変なふうに体をひねってしまい、腰が痛みます。
最近はわたしから母に電話することはなくなりました。実際に会って話をしないと、とんちんかんなまま電話を切ることになり、気分が悪いからです。ご機嫌伺いのつもりで電話をしても、気になることがあると、ついムキになってしまいます。だから、母からかかってくれば相手はします。こちらからというのは、最近ないですね。祈りか・・・、どう祈ったらいいんでしょう。
 
1月27日
例によって例の如く、夜中に目が覚めてしまいました。天地創造のところを思い出しています。いつも変な時刻に目覚めてしまう。でも、この夜、両親に安らかな眠りがありますようにと、また、みことばを聞く機会が与えるようにと、自然に祈れました。
 
2月3日
AAにはセクシャルマイノリティの人もいます。その人は生まれは男性ですが、恰好や考え方は女性で、キリスト者であることもあり、わたしはウマが合います。どこの世界でもそうですが、受け入れられない人はいるもので、ミーティング会場でも、その人が来ると帰ってしまう人もいます。それを怒っている人もいるし、いろいろです。
性同一性障害や性的趣向など生まれつきどうにもならないことを理由に受け入れられないのは、辛すぎると思います。社会は時間がかかるでしょうが、教会は理解を深め積極的に受け入れることこそ大事なのでは、と思います。
 
2月4日
「らしさ」を求められるところが嫌いで、この言葉にずっと馴染めずに過ごしています。アスペは「らしさ」から外れているのですから。うんざりなんです。世の中で女性らしくというのは、子育てをし、男性のフォローをさせる。台所は女の仕事。会へ行けば婦人らしく、おとなしくしていましょうみたいな。それと違ってもいいはずなのに、何故か許さない。
 
2月6日
今日は実家に来ています。母は相変わらず同じ話を繰り返していますが、それもまぁいいかって感じです。主人が母の好きなお茶を買ってくれたので、一緒に飲んでいます。母は一日寝ていることが多いそうです。刺激のない生活はよくないと思い、母と話をするのですが、起きてこなければ、どうすることも出来ません。
 
2月10日
愛の心が持てるよう、祈っていきたいです。新しくAAに来る人というのは、危うい人が多いです。だから来るのだけれども、自分から明かさない限り、名前を明かすことも連絡先を教えることはないし、もちろん、ここで会った人のことも話をしてもいけません。よって、どんなにメンバーのことが心配でも、こちらからアプローチ出来ません。ただ出来ることは、祈ることのみです。待つことです。これが愛なのかもしれない。神様の計らいに委ねるという意味が、いろいろなことを通して教えられます。ミーティング会場の帰り、両親がもっと年老いて、老老介護で、両方倒れて・・・、そうなったらわたしはどうしたらいいのだろうと考えていました。でもそのときハッとしました。大切なことは両親が救われることだ!と思いました。そのためにわたしは祈り、何をすべきか教えていただく必要があるのです。祈ることです。
 
 加納さおり 
世田谷通信s-CCF20110219_00003.jpg
(87
猫 草
 
家の水槽にはイモリとタニシたちが仲良く(というかお互いに無関係に?)暮らしている。夕方1回餌をあげるのが日課だ。イモリは最近目が悪いのか、餌をあげても見当違いのところをぱくっと食べて、あれっ?という顔をしている。タニシは20匹ほどいるのだが、水面すれすれにくっついて並んでいることが多く、そこにぱらぱらっと乾燥赤虫や乾燥糸ミミズを撒いてやる。すると彼らは最初「敵?攻撃?」という感じでびくっと身をすくませる。そして「餌だ!」とわかると「わーい、ごはーん!」とばかりに口と触角をびよーんと広げてもぐもぐ食べ始める。さらに満腹になると「おなかいっぱーい!」と脱力し、水槽にくっついている力もなく、ふわーんと水面下に落ちてゆくのだ。なんとも単純素朴で愛らしい。
そんな愛すべきタニシにも脅威が迫っているらしい。その生物の名はスクミリンゴガイ、通称ジャンボタニシである。通常のタニシが1~2cmのところ、ジャンボタニシは8cmにもなる。ものすごい勢いで水田の稲をバリバリ食べる。そして繁殖しショッキングピンクのプチプチした卵を大量に田んぼ周辺に産み付ける。日本の風景にはあり得ない鮮やかなピンクの卵はまるで子供のお菓子のようだ。もともと外国から九州に食用で輸入されたが、食用に向かず寄生虫もいて断念、逃げて野生化し繁殖し、九州全体に広がり今や静岡や千葉でも・・・というどこかで聞いたようなよくある話である。ウシガエルやアメリカザリガニと経緯は一緒。どうして何度も同じ過ちを繰り返して人は学習しないのかとため息が出る。
もちろんジャンボタニシにもウシガエルにもアメリカザリガニにも悪気はない。単に今日も元気だご飯がうまい、と暮らしているだけだ。故郷と景色が違うとすら思っていまい。ここ世田谷の里山にも、見たこともない珍しいカブトムシや色鮮やかな蝶が生息しているらしい。ペットの外来種と在来種の雑種だそうだ。
生物の多様性、というのはどういう意味なのか、環境に適応するとはどういうことなのか・・お前たちはここで幸せか?と、小さな水槽で暮らしているタニシたちを眺めつつ思うのである。
 
  その愛のゆえに
   =時々の記=
    (60)
 
1月15日
こちらは、この年に入って、非常に寒い日が続いています。毎朝、五時半に起床するのが、気合をいれないと起きることができません。主人と二人で、ルターによる「日々の御言葉」、「聖書」を読み、祈って家を犬の散歩にために6時に出発です。夕方は、ずいぶん日が伸びてきて明るさが出てきましたが、朝は、少しも変りません。真っ暗です。
はやく、温かい春が来てほしいと、いつもこの季節に、同じことを考えてしまいます。
特に、今年の寒さは特別きびしいので、その思いは強いです。
老二人白菜畑にいそしめる
広大な谷の高きに冬の月
シンビジウム良き色放ち去年今年    馬場路哉
今、外を眺めると間もなく、また雪になりそうな気配です。明日にかけて積雪注意報が出されています。各地で、センター試験が行われています。この時期、雪で受験生は大変でしょう。息子が張り切って、センター試験を受けに行ったころが、懐かしく思い出されます。
 
1月17日
昨日から、また、一層厳しい寒さがやってきました。我が家の水道管は破裂してしまいました。業者の方に頼んでいますが、どこもかも、このようなことが起きているのでしょうか。なかなか来てもらえません。普段、当り前に出てくる水が出ないとなると、水のありがたさと、一滴の水を大事にしていなかった生活をせめてしまいます。家から数百メートル離れた山に井戸があり、その井戸から主人がバケツで汲み上げてきてくれました。お皿は、水をつかわずティッシュでふき取って、水を倹約しました。何とか、一日は過ぎましたが、あと一日このような生活をしろと言われると、お手上げです。便利な生活に慣れた人間は、我慢ができなくなっています。昔のひとは、もっと不便な生活に耐えていたのでしょう。
 s-CCF20110219_00004.jpg
1月22日
水道管の破裂も、ようやく業者さんに来てもらって直していただけて、もとの生活にもどりはじめました。こんどは、破裂しないように、電熱線をしっかりまいてくれました。
我が家の隣も、きちんと防備してあったそうですが、水道管が地下で、破裂してしまったとのことです。みな、あまりの厳しい寒さに、身も、心も、震えあがっています。
庭の梅は、しっかりこの寒さの中、つぼみを付け始めています。
讃美歌にありましたね。「忍びて、春を待て、雪は解けて、花は、咲かん・・・」。
この寒さに耐えなければ、春は、こないのですね。何か人生と、似ていますね。
新雪や踏みしめてみる通学路
辛抱のよき犬傍(そば)に春を待つ
雪嶺を望む施設を訪ひぬ(とぶらいぬ)
走るもの歩くものあり冬日和       馬場路哉。
主人の母が、この31日で、93歳になります。ところが、最近、食事が進まなくなってきました。わたしたちは、毎週見舞いにいきますが、行く度に小さくなっていて、とても、さびしいです。主人の母は、口癖のように言っていたことが、頭の中をかけめぐります。人間は、自分の口から食事ができるあいだは、大じょうぶや。どんな良い点滴よりも、この口で、物をかんで食べられているあいだは、生きてられると。
一日でも、長く生きて欲しいというのが、こどもたちの願です。
 
2月1日
今朝、散歩の帰りに、郵便受けをみますと、2月号のジャーナルが届いていました。
1月31日。今日で、一月がおわりですね。アッという間のひと月でしたが、寒さとの戦いの月でもありました。二月号のジャーナルを、こんなに早く手にすることができ、感激して、読み続けています。
読み進めていくうちに、遠山さんの、「ビルマ戦犯者の獄中記」が目にとまりました。
遠山さんの思いが伝わってきて、読んでいるわたしも、涙があふれでてきました。よくぞ、本国に帰ることができたものですね。
神様のお守りと、お導きによって、遠山さんを日本に帰していただけたのですね。
マイナス5度の寒さです。寒いというより、頬にあたる風は痛さを感じます。
眩しかる一月の日の沈みけり
風の中凛と上向き花やつで
枯れ芝を踏みてリハビリ散歩しぬ
福音は御子の啓示と読み始む     馬場路哉
今朝もまた水道からの水が出ません。先日、寒さ対策として電熱線を水道管に巻いてもらって直したところですのに。一日、また、井戸からの水で、我慢しなければなりません。
でも、雪国の方を思うと、これぐらいのことは、我慢しなければなりません。
先日、羽野先生のお母さんをお見舞いに行ってきました。94歳になられているのに、こちらのほうが励まされて帰ってきました。枕辺には、聖書が置かれてありました。
毎朝聖書を読んでいるの?とたずねると、読んではいないけれど、お守りと思って置いているのやでと。お別れに、二人で、手を合わせてお祈りをしてきました。
笑顔で、見送ってくださいました。温かい気持ちになって家に着くことができました。
 
2月4日
昨日から、日中は、温かさを感じられるようになってきました。一昨日の病院行きの疲れが出たのでしょうか。今朝は、この犬たちを飼い始めて十年になりますが、朝の散歩に起きることができませんでした。昨夜から、頭がいたく早くやすんだのですが、今朝は、どうしても、頭があがりません。主人が、どうすればいいの?と心配してきますので、犬たちは、賢いから、全部、放してやって。絶対、きちんと、かえってくるからと。
外で、犬たちが、早く起きなさいと何度も、吠えてくれるのですが、今日はだめ。ごめん。ちゃんと帰ってくるんだよと伝えて、放してやると、嬉しそうに、一目散にいつもの散歩コースをかけていきました。20分経過。次々と我が家に帰ってきてくれました。みんなそろったのは、6時半でした。やれやれ。
主人は、枕元まで、朝の食事を持ってきてくれました。温かいお茶、おかゆ、リンゴ、チーズ。削りカツオに梅干し。有難う。私が主人にこのようにしてあげることは、何度もありますが、ここ最近、寝込んだことのないわたしでしたから、感激してしまいました。
それからも、ずーと寝ていようかと、思ったのですが、外をみると、日差しが明るく、気持ちよさそうなので、起き上がり台所へいくと、後片付けは何もできていません。やはり、主婦って、丈夫で家族を支えることが大切なんだと感じました。
2月に入って、春を感じさせられる日がでてきました。でも、これから、冬の寒さの疲れが出やすい時ですから、どうぞ、お大事になさってください。
 
2月11日
来週、三重大病院へ、検査結果を聞きに行きます。ここまで生かされていることに感謝して、すべてを、冷静に受け止めようと、祈りつつ、過ごしています。
老い散歩杖つきながら着ぶくれて
廃れ屋の脇の八朔あからみぬ
風に乗りトンビ笛吹く冬日和
句会より戻る夕餉や笹鳴きす     馬場路哉
きょうは、主人の叔母がなくなって、一年になるので、仏教でいう一年忌の日でしたが、この大雪のため、中止となりました。下の道路を走る車も少なく、静かな朝です。
 
2月15日
昨日からの激しい雪で、こちらは、およそ35センチ積もりました。そのため、三重大病院へ行くことができそうにないので、キャンセルをしてきょうは、止めておこうと思っていました。すると、少し日が差してきたように感じられましたので、思い切って行くことにしました。何とか家の前の坂道を、滑りながら、広い道路に出ることができ、名阪も午前7時半に通行可能となり、三重大まで、行きつくことができました。
検査の結果、先生から、経過は順調ですね。はい、大腿部すべて、異常なしですよ、と言っていただき、雪道の中、やはり無理してでも来てよかった、と心から感謝いたしました。お祈りに支えられ、ここまで、生かされていますことに、改めて感謝いたします。
これからも、どんなときも、全能の神様がともにいてくださることを、信じて、「たとい、死の影をあるくことがあっても、わたしは、禍を恐れません。あなたが、私とともにおられますから」。と讃美した詩編の詩人のように、神様を仰いで、歩んでまいりたいと、願いつつ、帰路につきました。
まだまだ、家の周りや、坂道は20センチの雪で長靴なしでは、歩くことはできません。
感謝して。
 
馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)
 
 
 
s-CCF20110217_00003.jpgキリスト者の生活綱要  (19)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
 2 十字架はわれわれを謙虚にする
 
  1 ただ父なる神への従順を証しするために、われらの主は十字架を追われた。しかし、われわれが間断ない十字架の下に生きなければならない理由は多くある。何よりも先ず言えることは、われわれは生まれつき、すべてのことを肉に帰す傾向があるため、自分の愚鈍さについて、いわゆる実物教育を受けないと、容易に自分の力を誇張し、どんな困難にも挫折しないのは当然であるかのように考えるからである。そして、愚かで空しい肉的な確信でふくれ上がり、神の恩恵がなくとも、自分の力だけで十分であるかのように、神に対して傲慢になり、誇るようにのぼせ上がる。
 こうした虚栄を抑制するのに最もよい方法は、われわれが愚かであるだけでなく、非常に脆弱(ぜいじゃく)であることを、神がわれわれに経験させ、立証してくださることである。そこで神は、屈辱や貧困、肉親を失うこと、病気やその他の災難によって、われわれを苦しめられる。
 そこでわれわれは謙虚になり、苦難の重荷に耐えさせる、唯一の力である主の力を求めて呼ぶようになる。
 
  2 偉大な聖徒たちは、自分自身ではなく、神の恵みによってしか強くなり得ないことを知っているのに、彼らですら、もし神が人生の試練によって、自分をいっそう深く知るように導かれないなら、自分の勇気と堅忍について、過大な確信をもつようになる。
 この自尊心が、ダビデをさえ、「わたしは安らかな時に言った。『わたしは決して動かされることはない』と。主よ、あなたは恵みをもって、わたしをゆるがない山のように堅くされました。あなたがみ顔をかくされたので、わたしはおじ惑いました」と言わせたのである。
 彼が頼っているのは神の恵みを軽視し、その代わりに自分自身に頼り、自分は決して倒れることがないと思ってしまったほどに、繁栄は彼を愚かにし、その感覚を鈍らせてしまっていたからである。
 
  3 こうした事が、この偉大な預言者に起こったのであれば、われわれのうち、誰が心配も注意もせずにいられるであろうか。繁栄している時、多くの聖徒たちは、自分の堅忍を自負しているが、ひとたび不幸が彼らの抵抗力を砕くと、自分自身を欺いていることに気づく。
 自分のそうした霊的欠陥の証拠によって戒められて謙虚になると、信者は益を受ける。肉に対する愚かな確信を取り去られて、神の恩恵のなかに隠れ家を得ることになる。そうしてはじめて、彼らは、強固な砦である神の守りが自分の近くに有るのを経験する。詩篇30:6~7。
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
s-CCF20110217_00002.jpg
『旧・新約婦人物語』(19)
   イスラエルの母と呼ばれるデボラ
        (士師記4章~5章)
 
 士師デボラはイスラエルの母と呼ばれ、女傑といってもよい婦人です。ある人々はこの人を、フランスのジャンヌ・ダルクになぞらえているほどです。
 デボラは私たちが、先に学びましたモーセの姉ミリアムと同様、有名な女預言者であったとともに、音楽家でもありました。彼女がミリアム以上の地位を得ていたというのは、彼女がイスラエルの裁き人・士師の中のただ一人の女性であるところを見ても分ります。
 デボラの伝記を知るために、当時のイスラエルの国情をかいつまんでながめてみましょう。ヨシュアがカナンの地を治めて暫くの間、イスラエル人は神の律法を守り、唯一の神を崇めて正しい道を歩み、清らかな生活をしていました(士師記2:7)。しかし、その時代の長老たちが、だんだん亡くなりますと、彼らは神を捨てて、その地の偶像を拝むようになりました。これは神に対する反逆であり、大きな罪であり、当然の罰としてイスラエルはいろいろな苦難にさらされました。すなわち、内には民の風紀が乱れ、異教徒の女を妻とし、外には外敵の侵入があり、民の生命財産は危険におちいって、外国の奴隷となることがたびたびでした。
 そのような時、神はイスラエル人の叫びに耳を傾けられ、力ある指導者、よき裁き人を送って、迷えるイスラエル人を自らのもとに導き返らせました(2:16)。しかし、その指導者が亡くなると弱いイスラエル人は、またもとの偶像に走るのでした。これらは私たち人間のもろく弱い性質をよく現わしています。このような状態が300年も続いたのです。
 士師デボラの時代には、イスラエル人は、カナンの王、ヤビンの奴隷となり、苦しい叫びをあげていた時でした。その王には勇将シセラがおり、その下に鉄の戦車900輌もあって、イスラエルを圧し、彼らを奴隷として酷使していたのです。このように何の希望も持てないイスラエルの暗黒時代に、神から遣わされた預言者デボラは、緑も深いエフライムの彼方、ラマというところで、しゅろの木の下に座って、イスラエルの人々の訴えを聞いていたのです。
 彼女は、神の言葉によって、バラクという人を呼び、「イスラエルの神、主はあなたに、こう命じられるではありませんか。『ナフタリの部族とゼブルンの部族から一万人を率い、行って、タボル山に陣をしけ。わたしはヤビンの軍勢の長シセラとその戦車と軍隊とをキション川に引き寄せて、あなたに出あわせ、彼をあなたの手に渡すであろう』」(4:6~7)と告げました。
 バラクはその責任のあまりにも大きいことを恐れてか、敵将シセラに怯えてか、しきりにデボラの同行と、彼女の指揮とを求めました。そこでデボラは、バラクの軍に加わり出発いたしました。神はイスラエルを救い、大勝利を得させ、奴隷の苦境から解放されました。
 士師記5章の初めを御覧下さい。これはその時、彼らが神に捧げた讃美であり、凱旋歌です。
 「もろもろの王よ聞け、
もろもろの君よ、耳を傾けよ。
わたしは主に向って歌おう、
わたしはイスラエルの神、主をほめたたえよう。
主よ、あなたがセイルを出、
エドムの地から進まれたとき、
地は震い天はしたたり
雲は水をしたたらせた。
もろもろの山は主の前に揺り動き、
シナイの主、すなわちイスラエルの神、主の前に動いた。
デボラよ、ついにあなたは立ちあがり、立ってイスラエルの母となった」(士師記5:3~7)と歓びの歌をうたっております。彼らの感激のさまが目に見えるようではありませんか。
 
私たちは、ここで教えられることがたくさんありますが、主なことは次のことです。
1 偶像崇拝がいかに大きい罪であるか。またこれは必ず神の裁きを受けるということ。イスラエル人が、偶像崇拝に陥るごとに、彼らは外敵の侵入を受け、非常な苦しみをなめているのを見ても分かります。ここで日本の現状を振り返ってみて下さい。30余年前の日本は偶像に頼って、あの大きな戦禍を受けました。戦後、偶像崇拝は衰えたかのように見えたのも束の間、またこの頃、復古調とかいって、国民は元の偶像に心を傾けるようになりました。私たちクリスチャンはこの際、はっきりした態度をとらねばなりません。
2 神は弱い女でも御用のためにお用い下さることです。もちろん、私たちが、このデボラのような目立った特徴を持ってはいませんが、信仰のために勇気を現わすことは、クリスチャン婦人の務めです。
デボラの勇気と、彼女の知識、機を見るに敏であったことに教えられ、私たちはもっと勇気を出して、積極的に家族の人々、周囲の人々を神に導こうではありませんか。
 
 ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
 ビルマ
  戦犯者の獄中記  (2)  遠山良作 著
 
昭和20年
10月23日
 
ビルマは乾期である。今日も強烈な太陽の直射を受けて所内の草むしりである。一列横隊で広場の小石を拾ったり、草を抜き取る作業である。流れる汗で上衣はすぐに水をかぶったようになる。草むしりのない日は、穴掘り、牢獄の格子戸や床板を光るまで雑布で磨くのである。入所して10日位しかたたないのに誰の顔にも疲労と日やけのため別人のように見える。
今日も幾人かの友が病で倒れた。これらの病人を収容するために獄の一部を病棟に当て、収容した。すでに30数名のものが入っていると聞く。馴れない苦しい作業を終えて夕暮れになると、千羽、幾万羽の鳥の群がどこかの寝ぐらへと飛んで行く。今日もやっと一日が終わったと東の空を眺めては故郷を思う。
疲れた身体に鞭打って監房に帰り、英兵の点呼を受けて“ガチャン”という施錠の重苦しい響きは自由の響きでもある。真っ暗な牢獄で友と体をくっつけてのゴロ寝である。隣の友のかすかな寝息すら聞こえてくる。
 
 英兵に 指し図されつつ 作業する われらに還る 望みありせばs-CCF20110219_00000.jpg
 
 キラキラと 光る太陽 面に受け 作業するわれら 休むことなし
 
10月24日 
 
10時頃、作業の途中、全員広場に並ぶように指示がある。一列に並んで首実験である。われわれの前を英兵に付き添われたインド人、カレン人、ビルマ人たち11名が一人一人の顔をのぞき込むようにして通る。時々、止まってはゆびで指し、指さされた者は、一歩前に出る。私は「マメサリ」(印度人)から指された。一瞬頬が硬張する思いである。終戦直前に通敵容疑者として、彼を逮捕したことがあった。マメサリは、私の他に、永田大尉、石沢曹長、塩田軍曹をも指名したが、事件とは関係ない者たちで、間違えて指名したものと思う。
 マメサリはインド語で英人に何か話していたがわからない。私たちの他に、終戦直前に弓部隊が行った「カラゴン村」せん滅作戦に応援のため参加したモールメン分隊の小林曹長、野本軍曹、森本伍長は、カラゴン村民より指された。また、コーカレー地区に降下した空挺部隊を援助していたインド人から指された。私はコーカレー分隊員等、指された17名と共に独房に移された。
 
10月25日 
 
 この獄房は雑居房とは別棟になっている。終戦を迎える日までモールメン憲兵分隊が留置場として使用していた棟である。二階建てでまん中が廊下になっていて、その両側が独房になっている。部屋数は60、扉は鉄である。食事の時のみ開けてくれるが、終日一人で寝転んでいる。作業がないのがありがたい。
 写真:出版記念会・筆者ご夫妻とご子息夫妻とそのお子さんたち
 この文章の転載はご子息の許可を得ております。
  あなたに聖書を
 
 わたくしたちは、教えられ、養われ、自分の中に造り上げられたものによって、物事を受け止め、それについて考え、判断しています。聖書の内容やキリストの教えについても、そういう仕方での理解は出来ますし、現にそうしています。
 しかし、どうしても引っかかる部分があります。特に、キリストが復活された、ということがそうです。この話は、キリストの弟子たちでも聞いても信じられなかった、と言いますから、恐らく、すべての人にとってすんなりとは受け入れられないことであろうと思います。それは、復活ということが、わたしたちの持っている合理性や、経験や伝統的なものの考え方の中には、納まらない事柄であり、躓きとなる事柄であるからであります。
 
 では、キリストの復活ということをどう考えたらよいかということですが、わたくしは、わたくしたちが今までも今も、考えたり判断したりしていることがすべてではなく、またそれですべて終わり、と言うのではなくて、それとは全く違ったもの、それを永遠の命といっても神の支配される世界と言ってもよろしいのですが、そういうものが、キリストの復活という出来事において示されているのではないかと思うのであります。
 
 死んだ者が復活する、というのは、全くのどんでん返しであります。しかし、そこには、わたしたちやこの世の今までがどうであろうと、またこれからのことをどう思っていようと、それがすべてを決めるものではなくて、またそのまますべて終わりというのでもなく、それを超えた力の働きがあることが示されているのであります。
 そういうことを示されて、パウロは「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と言っています。キリストの復活が示していることは、神による新しい命の展開がある、ということであります。ですから、今日という日を新しい日、新しく生きる日とすることが出来るのであります。あなたも、聖書から、その命を得ていただきたいと願っています。   
 
篠田 潔
 
(参照聖句・コリントの信徒への手紙二、5:17)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
s-CCF20110217_00001.jpg「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 
3月6日田口 博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
    13日  田口 博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
    20日  船水 牧夫 (日本基督教団御器所教会牧師)
    27日  船水 牧夫 (日本基督教団御器所教会牧師)
 
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 「ローマ人への手紙」研究 (76)s-110205_1508~02.jpg
 第47課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
       10章11~21節 (3)
 
 パウロはユダヤ人であることを問わず、すべての人間の必要に対して、福音による救いに適応するものであることを明らかにし、また、旧約が異邦人の救いと召命を預言していることも明らかにしました。これらの真理は、福音とはすべての人間に宣べ伝えられねばならないことを教えているというべきです。従って、パウロは次に進んで、宣教という方法によって、福音が伝えられなければないことを論じています。
 
 「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣ベ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』」と書いてあるとおりである」(10:14~15)。これは福音を全人類に宣べ伝える宣教の必要性と義務とを論証する論述です。
 
神がある目的を持たれるとき、神はまたそこへ至る方法をも意図しておられるということは聖書の真理です。神がノアとその家族を洪水による破滅から救おうと意図されたとき、神は箱舟を建造して、彼らがその中に入ることをも同時に意図されたのです。ヨナが海中で死ぬことから守られることを神が意図されたとき、同時に巨大な魚によって彼が呑みこまれることも意図されたのです。神がコルネリオを救おうと意図されたとき、神はペテロを遣わして福音を彼に伝えさせました。
 この真理は私たちが神のご計画や命令について語ることにあたっても言えることです。奇跡やその他の特別な場合を除いて、神は目的を達成されるのに適切な方法手段をお用いになるのです。
 
 このことは異邦人の救いの場合には、特に真理です。私たちはイザヤやヨエルの預言を通して知ったように、彼らの召命と救いは、古くから神によって定められて、計画されていたことであるからには、彼らの召命と救いの方法手段が存在するということも、神の御意図にちがいないのです。パウロが指摘するように、主のみ名を呼び求めることは、主イエス・キリストを信じる信仰を意味するように、主を信じる信仰をもつことは、主についての知識をもっていることを意味します。これらのことから当然出てくる推論は、すべての人類に宣教師を送ることが、教会が神より与えられた仕事であり義務であるということです。 
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
 
 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」s-2011011721530000-1jpg.jpg
 
お元気ですか?名古屋は雪が降って大変だったみたいですね。ここ奈良は、そんなに降りませんでした。実家の丹波は、大雪だそうです。ディサービスに行くための通路だけは除雪され空けているそうです。久しぶりの大雪とのことです。春を待っていると母からの電話がありました。私は、整形外科でまた椎間板ヘルニアが見つかりました。今後のことは、前の先生と相談してと考えております。お祈りに覚えてください。・・・。
                 奈良県 T・Mさん 
 
s-2011011721450000-2jpg.jpg1月は私の誕生月で、娘がマトリョーシュカのバースデーカードを贈ってくれました。マトリョーシュカは私が小さい頃、ロシアに出張した父がお土産に買ってきてくれて、亡き父を思い出し、胸に迫るものがあります。こけしのような木製の人形の体内にだんだん小さな人形が3つも入っていて、一つずつ開けていくとあったかな気持ちになっていきます。
                 長野県 Y・Yさん 
 
2月8日は、わたしの51歳の誕生日で、主人から貰った花束です。嬉しくてメール写真を送ってしまいました。
                 大阪府 K・Sさん s-P2070108.-3jpg.jpg 
ブログ内検索
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
217ff6fb.jpg 








「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

b997b4d0.jpg
 









「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
 a0528a6b.jpg









「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
4008bd9e.jpg
われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

0eb70a0b.jpg








さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

Copyright © [   つのぶえジャーナル ] All rights reserved.
Special Template : シンプルなブログテンプレートなら - Design up blog
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]