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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 『ありがとうございます』
2月の終わりになりますと北からも春の足音が聞こえてきました、と言うメールが数多く送信されてきます。苦労した大雪も今は消えましたとか、蕗の薹を見つけましたなどや春の花便りです。病床に有っても、窓越しに感じる季節の香りは、生きる鼓動のようですとも、お手紙にありました。春は希望の時なのでしょう。平和な日本に感謝しています。
     
s-P1270087.jpg『つのぶえジャーナル』のための寄付者
岡田千歳様 田中良子様 上河原献二様 飯田寿美子様 古屋愛実様 匿名3名様
 
 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
 
 
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『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
岡田千歳様 匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
 
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
‘11年2月15日現在
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   今月のことば2e8194b0.jpg
 
 「あなたがたがマッサでしたように、あなた方の神、主を試みてはならない」
(申命記6:16)。
 
 人は困難に出会う時、戸惑います。誰かに誘われて来たことが、思い掛けない出来事に遭遇いたしますと、どうしてこんなところに、こんなことに・・・と思います。冒頭の聖句は、モーセと言う人物に対して、エジプトで悲惨と失望の奴隷の状態から救い出された民がつぶやいたことへの警告の言葉です。希望を持って出立したはずが、そうでない困難に直面した時に陥るのが「神を試みる」ことです。信頼した」したがそうでないかのように思う時、人は、その時の指導者に不信を抱き、時には裏切られたと不満を持ちます。
 
 「神を試みる」ことへの警告をモーセは、神の慈しみを繰り返し経験しながら、それに信頼せず、どんな時にも疑念を抱いてつぶやく者は、神を侮辱する者であって、神の父としての慈愛を試し、最後には、神は無感謝な者から、その助けの手を引いてしまわれるかもしれないようなことまでしてしまうのです。日本人には「恩知らず」という言葉がありますが、信仰者にとって神を試みることは、それ以上のことなのです。
 
 「神を試みる」は、今までの神の愛や恵みをないがしろにし、その慈しみを弄ぶ危険な遊びになります。信仰を与えられた者でも、神の慈しみが十字架での厳しい中に示された救いを知りつつも、神を試みると言う危険な遊びに陥るのです。
 
 私たちの魂が、素直な真面目さ、困難に立ち向かう勇気を祈り求め、改めて自分自身を貧しい罪人として認め、主を試みるという危険な遊びに陥らぬような日々・人生でありたいと心から願うものです。
   小閑記
       
  それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。(詩篇27:5)
  
 
 人間の究極の願いは、人生の全ての謎を解くことと言えるでしょう。しかし、そのような人物は存在いたしません。人は、それで納得いたしません。むしろ謎が謎を生み、不安が増大するでしょう。聖書を通して知る人生の目的と神様の愛が全てであることを知り、信じるようにされたキリスト者には、それで十分なのです。
 
 けれども、多くの人々にとって、何よりも人生の道に暗い影を投げかけるものは、全ての妨害や不運であります。ある人々は、あちらこちらを虚ろな思いでさ迷い歩いたり、いろいろの宗教に走ったり、占いやそれに類するものに心奪われているのであります。そうしていっこうに良くならないばかりか、段々と悪くなるのです。そうして初めて疑問が生じるのです。なぜ、このように私の人生は不運に耐えねばならないのだろうか。なぜ、このような不幸に陥るのだろうか。このような疑問にぶつかるのであります。
 
 しかし「主を恐れることを知っている」人は、日々の積み重ねを通して、数多くの「なぜ」に答えを得られる経験をするのです。実は、不幸な日々は、最善を知る、探す機会になっていたのです。キリスト者が最も祝福された平安と、神によるこの上ない喜びを見出したのは、そういう時ではなかったでしょうか。
 
 キリスト者の幸いな時は、不幸な日々の中にあって、神の家の最も良い奥まった交わりの部屋で、自分を振り返り、改めて神の愛に触れ、神に感謝することが出来るようにされた今ではないでしょうか。
 「主は愛する者を懲らしめられる」お方でもあります。謙って主の懲らしめを受ける者は、神の御心に近く引き寄せられていることを覚えたいものです。
 
                       上河原立雄 
 
 私と共に歩まれる主よs-IMG_0044.jpg
  
私と共に歩まれる主よ あなたの愛と真実を
私のものとして 今日も明日も歩ませて下さい
 
私と共に歩まれる主よ あなたの怒りと憂いを
私のものとして 今日も明日も歩ませて下さい
 
私と共に歩まれる主よ あなたの叫びと祈りを
私のものとして 今日も明日も歩ませて下さい
     水野源三「今あるは 神の恵み」より
  
 
82d9a088.jpg(ひとみ)
母の日課は朝5時には起きて、何時ものように2時間ほど聖書を読み、教会の方々や子供や孫たちのことを祈ることです。この姿勢は私の知る限り、40余年変っていないと思います。それから朝食、少し横になってから、今度はこれも変りませんが、信仰書と言われるものを自分が納得するまで読み返し、ノートに書き出しています。
母の信仰は、神様に従うこと、み言葉に従うこと、祈ることです。82歳ですがこの姿勢は変りません。いろいろの試練や問題にあっても、この3つの中で神様からお答えをいただいていました。口癖は「神様が愛して下さって感謝だね」です。田舎の片隅での生活ですから、田舎のしきたりや親戚付き合いの中で信仰に生きることはとても難しいものがあったと思いますが、試練があったから今があるのよ、と事も無げに言います母に、時に反発をしながら、尊敬もしています。
母がこの地に来た時は、クリスチャンはただ一人でした。その当時は、隠れて聖書を読む日々であったと言います。
それに比べ、何もかも恵まれて、自由に自分の時間を使って楽しんでいる私の姿は、母にはどのように見えるでしょうか。きっと、その内に分るよ、とでも言いたげですが、何も言いません。私には、母と言うより、信仰の先輩で、少しけむたいですが、感謝しつつ、元気でいてほしいと祈っています。
                岐阜県  A・Aさん
 
仕事のことで行き詰まり困っていた時、同僚のMさんと二人で残業していた時に、ふとつぶやいたことで、普段は余り話をしないM   さんと親しくなりました。無口で目立たないMさんが、良かったら私の行っている教会に来てみないかと誘われました。宗教には全く興味がなく、むしろ弱い者が宗教にのめり込むと思っていたので、お断りしました。その後、Mさんは教会の話はしませんでした。数ヵ月後でしょうか、少し落ち着いた自分でしたので、教会に行って見ようかと思っている、と伝え、行きはじめました。分かったことは、宗教とは、生き方を大切にすることなのだと言うことでした。強いとか弱いとかではなく、自分の生き方を真剣に考えることなんだと分かったのが、教会に行って4年目だったと思います。
人から見たら名ばかりクリスチャンに見える生活ですか、家族で礼拝を守っています。Mさんは転勤で海外勤務になりましたが、あの出会いがわたしを変えました。Mさんにはなれませんが、後輩を見る目はMさんをめざしています。
                東京都  K・Kさん
   自閉症者のひとりごと8d6a5443.jpg
(45)
12月19日
母教会でクリスマス礼拝を守り、愛餐会にも参加しました。洗礼を授けてくださった先生を彷彿とさせる伝統とでも言いましょうか、聖日厳守ぶりに思わず涙がこぼれました。主人にこのことを知らせるにはどうしたらいいのでしょうか。愛餐会で青年会が司会をしていた。あんなに小さかった子達が立派になって…なんだか親のような気になってしまった。
帰宅途中、庭木の山茶花が目にとまった。そういえば、母教会にも垣根にずっと山茶花が植わっていたっけ。掃除が大変だったけど、この季節の風物詩だったな。大きなセコイアもなくなってしまった。

 
12月20日
朝っぱらから病院に来ています。風邪気味ですが、それで来たわけではありません。周りが病人ばかりなので、こちらが病気になりそう。いっそインフルエンザにでもならないかな、現実逃避を妄想している現在です。
 
12月23日
綾屋・熊谷著「つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく」(NHK出版生活人新書)の言葉を借りるなら、次のようでありたい。個人の差異はそのままに、差異を超えた共感と合意を立ち上げるには、自生してくるイメージを、他者と交わし合うところに生み出される。ひとりで傷を抱えこまないこと。差異を超えた共通感覚も同時に育むこと。差異の偶然性に気付くこと。それがつながりの基礎になる。
まぁ言いっぱなしの聞きっぱなしでもいいってこともありかな、という感じです。ゆるゆるでもいい。何もかも言葉にして、それに反応していたら、わたしは死んでしまうでしょうよ。何でも話し合う夫婦というのを、幻想していたわたしは、疲れて爆発しそう。それにしても腰、膝、股関節が痛みます。
 
1月5日
12/30~1/3まで互いの実家に行ったり来たり。主人の実家では、姪や甥がまだ小さいので、もううるさいうるさい動物園状態でした。わたしは耐えられず、寝室に避難をしたり、メールをしたりしていました。やっとのことで帰って、今日になって疲れが一気に出てきました。今から、また夏休みも同じ状態だろうし、今度こそ前もって病気になってやる!と真剣に思っています。
 
1月6日
今年に入って、飲酒欲求に悩まされています。昨日は思い切ってミーティングに行ってきました。精神的に辛かったので・・・・。その代わりに、夕食は弁当です。わたしの場合、怒りが飲酒欲求を招くようで、自転車のベルを鳴らされただけでかっとなって、呑んでやる!と思ってしまうのです。わたしの怒りって何でしょうね。わたしはそれに振り回されている感じです。
飲酒やむちゃ食いなどは、自分の思いを相手(とくに主人)に伝えられないから。恐れの感情があるからだろうなぁ。今まで人とのやりとりをした経験がないというのもある。否定されたらどうしようって思ってしまうのです。身近な人とのコミュニケーションって、わたしにはかなり難しい。
 加納さおり 
 
 
                   
 
 
 
 
 
 
 
s-IMG_0035.jpg世田谷通信
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猫 草
 
便利な時代になったと思う。「ミョウガとショウガは同じ?違うもの?」と気になった時にも、インターネットはすぐに回答をくれる。答え:同じショウガ科の植物ですが、全く別物です。「ラミパスラミパスルルルルル・・・」がなんの呪文だったか思い出せないときもしかり。答え:ひみつのアッコちゃんが変身からもとに戻るときの呪文。
こんなふうに、インターネットで検索すれば世の中わからないことはない!という気になってくるのだが、実は違う。一定レベルの回答は得られるが、それ以上深く追求しようとすると途端に大きな壁が立ちふさがる。あちこちのサイトを探しても結局最初の回答の周辺をぐるぐる回っているだけ。特に行政関係の調べものでは「情報操作」という言葉が浮かぶほどに情報が限定・誘導されている。ちょっと古い情報は削除されており、アクセスできなくなっている。広いようで狭い、つかみどころのなさを感じる。
さてこちらはもっと原始的な状態。学校の図書室である。この世でインターネットが最も普及していない場所の一つが公立の小学校だと思う。そのかわり図書室には大量の本がある、さあこの中から該当する資料を探せ!というわけだ。ネット慣れした子供たちにはつらい作業なのだろう、図書司書にその360度自由自在な質問を向けてくる。まるでパソコンで検索するように。たとえばこんな感じだ。「五右衛門風呂の写真ありますか?」「ままかりってどんな魚ですか?」「クツワムシは何を食べますか?」「えっと・・カライモ・・なんだっけ・・?」などと意味不明なことも多い。こちらはあいにく検索エンジンではないので「ちょっと待ってね、まずこのあたりの分野の本を探してみようか・・」と一緒に調べ始める。すぐには見つからないことも多い。それでも「ここかな?違う?こっちはどう?」と本をめくっていくだけで、それなりに発見はある。そのものズバリの答えは出なくても、こういう考え方をするのか、本はこういう分類で並んでいるんだ、こんな見方もあるんだ、とわかってもらえたらいいと思う。
この先電子書籍がどんどん発達していって、図書館にも「紙」「本」という媒体自体がなくなっていくのかもしれない。しかし、物事の考え方自体は古代に人がパピルスや竹や石に記した時代から超進化したとは思えない。質問すればパッケージされた答えが出てくる自動販売機のような世界は味気ないものだろうに・・と本とパソコンの間で揺れ動くのである。
 4b517caf.jpg その愛のゆえに
   =時々の記=
    (59)
 
12月16日
今朝は、真冬並みの寒さです。朝、犬たちがいなければ起きられないほど、冷え込みます。これから、ますます厳しい寒さとたたかっていかなければなりません。北国では、雪がもう何十センチと降り積もっているとのこと。まだ雪が積もらないのが、幸いです。
さざんかの白き数片今朝も掃く
掃き掃除気分を晴らす年の暮れ
ツワブキも街に移して咲かせけり     馬場路哉
 
今、空をみあげると、雲の動きから、雪になりそうな様子です。雪が降りませんようにと、わがままな、お願いをしているわたくしです。今年の喪中のはがきの中で、胸が痛くなったものが一枚あります。矢尾中学校の教え子の子供さんが、27歳の若さで亡くなられたとのこと。生まれつき心臓が弱く、移植を待って懸命に行き抜かれたと、書かれてありました。もっと、感謝して生き続けなければと、謙遜にさせられました。
 
12月26日
今朝は一面真っ白です。うっすらとですので、車は急な坂道でも降りていくことができます。病院もいろいろですね。ある精神科の先生は一人ひとりの患者に寄り添って、診察してくださりマザーテレサのように、悩めるもの、悲しんでいるものの立場になって、最も良い方向を、考えてくださる病院には、遠くからでも来られるとか・・・。人との出会いも大切ですね。そしてそれ以上に大切なことは、イエス様との出会いですね。お会いしていてよかった!
合流点V字型なし山眠る
入院す病棟に映ゆ寒茜
雨催う枯れ木のカラス鳴きをりぬ 馬場路哉
 
1月3日
新年あけましておめでとうございます。
こちらは、年末、30日から雪が降り始め、1日の朝は20センチほどの雪が積もっていました。そんな中、犬たちの散歩は欠かせません。長靴は膝までの男性用のを履いて、靴底にわらをまいて、滑らないように厳重に警戒して出掛けました。犬たちには、下り坂では、決して急いではいけないと注意をして出掛けました。新雪でしたので、思ったより滑らず、何とか無事に、すませることができました。ほっといたしました。
そのような大雪の中、年賀状が配達されていました。永年郵便局で働いていましたので、主人も、わたしも、郵便の配達には、ずいぶん苦労しましたので、お疲れ様とひとこと声をかけて受け取りましたが、バイクと歩きとで、山道を下っていく姿を、気を付けてとじっと見守り続けました。
たぶん、この大雪のせいでしょう。新年号のジャーナルは、まだ届いていません。
明日ぐらいかなと楽しみに、待っています。
着ぶくれて老のゲイトボール打つ
さざんかの枝を揺らせて鳥潜む
この淵に伝わる悲話や冬紅葉        馬場路哉
 
 
 
 
馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)
 
b66da8a8.jpg                 キリスト者の生活綱要  (18)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
 1 十字架を負うことは自己否定より難しい
 
 
  1 「自分の十字架を負う」よう、キリストが召しておられるという、いっそう高い水準にまで、一人びとりの弟子が上がることは、敬虔なキリスト者に相応しいことである。主に選ばれ、聖徒の交わりの中に入れられた者は、困難で労多く、骨が折れ、数知れぬ悲しみに満ちた人生のあることを覚悟すべきだからである。
 このような方法で聖徒を鍛えるのが、天の御心である。
 神は、長子であるキリストから始めて、この方法をすべての子らに用いられる。キリストは、神の最愛の子であり、父が常に喜んでおられた方であったが、気ままに甘やかされることはなかった。むしろキリストは、いつも苦悩の中にあっただけでなく、その全生涯が、間断のない十字架であったと言える。
  2 使徒は、その理由を説明して、「さまざまの苦しみによって、従順を学ぶ」ことが必要であったと言う。われわれのかしらであるキリストさえ従わなければならなかったのであれば、われわれがそれから免れることはとてもできない。まして、主の服従が、われわれのためであり、われわれに忍耐の模範を示されるためであるなら、なおのことである。
 そこで使徒は、「御子のかたちに似たもの」とされることが、すべての神の子らのあるべき姿であると教えている。
 天の栄光に至るために、主はあらゆる悪意の深みを通られた。そのように、われわれも各自の異なる苦難を通り抜けて行くために、不幸や災難と呼ばれる多くの悲しみに耐えるとき、キリストの苦しみに与るのを知る。そしてそれは、われわれにとって真の慰めである。
  3 そこで聖パウロは、われわれが「キリストの苦難にあずかっている」のを知るなら、それは「キリストの復活の力」を知ることであり、「キリストの死にあずかっている」のであれば、その復活の栄光をも共にするようにされている、と言う。
 これは十字架の苦しみを軽くするのに、どんなに役に立つことだろう。不幸によって苦しめられれば、苦しめられるほど、キリストとの交わりは、ますます堅くされるからである。
 この交わりによって、不幸そのものがかえって祝福となるばかりでなく、われわれの幸福と救いを促進する大きな助けとなる。
マタイ16:24、3:17、17:5、ヘブル5:8、ローマ8:29、使徒4:22、ピリピ3:10。 
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
『旧・新約婦人物語』(18)s-IMG_0051.jpg
   
  ベタニヤのマリヤ
      (ルカによる福音書10章38~42節) 
 
 新約聖書に、マリヤという名の婦人が6人出てまいります。イエス様の母マリヤ、マグダラのマリヤ、クロパの妻マリヤの三人に付きましては、すでに学んでまいりました。それで、ここではベタニヤのマリヤのお話しに移りましょう。
 皆様もご存知と思いますが、ベタニヤという町は、都エルサレムから約3km程離れたオリブ山沿いの小さな町です。このベタニヤの町とイエス様とは関係の深い所で、そこはイエス様を愛し、イエス様と密接な交わりを持った家族が住んでおりました。それが、このマリヤの家族です。
 ルカによる福音書10章38~42節や、マルコによる福音書14章、ヨハネによる福音書11章を見ますと、この家族には3人の兄弟がおりました。姉のマルタと妹のマリヤ、そして弟のラザロの3人でした。
 イエス様がベタニヤの町においでになりました時、マルタはイエス様を喜び迎えて、いろいろとおもてなしのために働きました。けれども、妹のマリヤはイエス様の足もとに座って、じっとイエス様のお口から出るお言葉に聞き入っておりました。弟のラザロにつきましては、ヨハネによる福音書11章によりますと、彼は一度死んだのですが、イエス様によってよみがえらされた青年であることが記されています。また、この二人の姉妹マルタとマリヤの性格を、よく調べてみますと、おもしろいことに、彼女たちは姉妹でありながら、二人の性格は、全然正反対でまったく違ったものでした。マルタは実際的で、活動家であるとしますならば、それに反してマリヤは瞑想的であり、精神的であって、信仰生活を第一としていたと言えるでしょう。
 ルカによる福音書10章39節を見ますと、イエス様がベタニヤの町においでになり、マルタとマリヤの姉妹の家の客となられた時、マリヤはお掃除や食事のことなどに少しも気を配らず、もっぱらイエス様の足もとに座って、イエス様のお言葉に耳を傾け、この機会を逃すまいと努めています。この妹のマリヤの態度は、いろいろと考えさせられ、教えられるところがございます。
 日本の婦人の方々は、家事のことやいろいろな仕事に追われて、精神的な修養の時間がないとよくいわれています。イエス様はそのようにいわれます婦人の方々に、こう言われることでしょう。「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(41~42)と。
 グループ活動や、サークルの集いに出る時間は、何とかやり繰りして作りますが、聖書を読む時間とか、真の神を礼拝するため、神のみ言葉を聞くために、教会へ行くための時間を作り出せないようであります。また、ある人たちは、洋裁を学んだり、お茶やお花をたしなむ時間や、レジャーを楽しむ時間が十分ありましても、真の神のことを学ぶ時間は全然なさそうです。
 イエス様は、すべての心ずかいをすてて、真理を追求するマリヤの態度を、何といわれれましたでしょうか。ルカ福音書10章42節によりますと、「マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」とおおせになっています。永遠に続くものは何でございましょうか。それは魂の賜物であります。花は散り、木は枯れます。同様に、この世の物はすべて消え失せてしまいます。けれども、精神的・霊的なものだけは、決して消えません。あなたがたは、この永遠に続く賜物を、今、お持ちになっておりますか。
 ベタニヤのマリヤのお話を読んでいく内に、もう一つ、非常に麗しい出来事に出合います。イエス様が十字架におかかりになる6日前のことでした。イエス様が、今一度、ベタニヤの町においでになり、マルタとマリヤの家の客となられました。ご馳走がならべられ、夕食が始まりました。彼女たちの弟で、先に死からよみがえらされたラザロも加わっておりました(ヨハネ12:12)。その時、マリヤは価の高い純粋なナルド(註1)の香油を300グラムもって、イエス様のみ足にぬり、自分の髪の毛でぬぐい始めました。
 これを見ていたイエス様の弟子で、後にイエス様を裏切ったユダが、「なぜこの香油を300デナリ(註2)に売って、貧しい人たちに施さなかったのか」と咎めました。するとイエス様は、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。・・・。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マルコ14:6~9)と言われました。
 このイエス様のお言葉で、最も注意をしなければなりませんところは、「この女はできる限りの事をしたのだ」と、おおせいになったところです。わたしたちは、お互いに神様のために、できる限りの奉仕をしているでしょうか。怠けてはおりませんでしょうか。あなたは、教会員で重症の病気の方をお見舞いしたのは、何時のことであったでしょうか。また信仰問題で心に悩みを持っている青年を励まし、語り合って、イエス様のみもとに導こうと努力したのは何時のことでしょうか。
註1・・ナルドはネパール、ブータン、チベット原産、おみなえし科の多年生草木で、根茎の部分から優秀な香料が採れます。
註2・・デナリはイエス様の在世当時のローマの銀貨で、約17セントに当ります。1デナリが農夫1日の賃金に価しました。     
 
 
 
 
 
 ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)ーリン・マカルピン著
この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
 ビルマ
  戦犯者の獄中記  (1)  遠山良作 著
 
昭和20年
8月15日
 -終戦を迎えて-
“敵の落下謀者潜入せり”との情報により「エデゴン」村(モールメン北方15kmにある部落)に出張、その捜査に当たっていたが、東分隊長(東(ひがし)登大尉)より、“捜索を中止して至急帰隊せよ”との命令を受けて帰隊した。分隊の庁舎は爆撃されて丘の上にあるパゴダ(仏塔)の寺院に引越していた。
 
 分隊長より「日本軍は無条件で連合軍に降伏した。陛下よりは詔勅を賜り、祖国日本に帰るまでは軽率妄動してはならない」旨を伝達された。
 一瞬、目の前が暗くなる思いである。決して負けることのない神州不滅の日本が負けた!最後まで祖国の勝利を信じて死んで逝った多くの戦友は、きっと地下で慟哭しているだろう。これからの日本は一体どうなることか。そして俺はどうすべきか、と不安と悲しみが脳裏をかけ巡る。
 
 敗戦の 詔勅ききて 泣きの得ず 空を仰ぎて唇噛みぬ
 忍べよと さとし給える 大君の詔勅の声 つつしみてきく
 
 じっとしてはいられない。モールメン市が一望できるパゴダの丘に一人登る。市街は静かで平日と少しも変らない。ただ敵機がバラまいた宣伝文があちこちに落ちている。まだ日本軍の降伏を報じるビラは一つもない。雨期というのに今日は珍しく空は青い。遥か東の空をじっと見つめる。祖国日本のこと、父母は如何に、と心は祖国へと走る。
 悲しみよりも憤りともつかない涙が急に頬に伝わる。拭えども拭えども流れる涙はどうしようもない。今まで祖国のために戦って死ぬことは当然と考えていたが、戦いに敗れたと知ると、生きて故郷に帰りたい。一日も早く日本に帰りたいとの思いでいっぱいになる。
 
 遥かなる 東のかなた 見放けつつ 故郷を思えり 敗戦の夕べ
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10月11日
-モールメン刑務所に入る-
憲兵全員(ビルマ派遣)はモールメン市より約30km東北にある、モン人の部落に分宿し、帰還船の来る日を心待ちにしていた。新しい日本に帰ったらこんな仕事をしようなどと、将来のことを友と語らう毎日の生活であったが、突然「ムドン町に移動せよ」との命令が出た。イギリス軍の指示である。
朝早く英軍が準備したトラックに分乗してムドン町(モールメンより東方13km位)の学校の広場に集められた。広い校庭に並んだわれわれを、武装した英軍が四方から囲んでいる。持っていた小銃、拳銃、軍刀等の一切は取り上げられ、一定の場所に積み上げられた。
武装解除が終わると直ぐに20名ごとにトラックに乗せられた。トラックには英兵が数名ずつ分乗し、前後左右から銃口をわれわれに向けている。どこへ連れて行かれるのか、外部が見えないので分らない。このままどこかで殺されてしまうのではないか、とさえ思えた。
数十分の後、自動車が止まり、下ろされた場所はモールメン刑務所の前である。入口では一人一人の身体検査が行われた。パンツまで脱ぎ、肛門まで調べる厳しさである。所持品として認められた物は毛布二枚、水筒、飯盒、衣類のみである。時計、書籍、筆記具等は全部取り上げられた。ここの警戒は実に厳重である。高い塀の監視所には機関銃が据えられている。全ての銃口は刑務所内のわれわれに向けられている。
私物検査をしている途中で通訳が久米憲兵司令官、東分隊長(私の上官)、藤原准将(モールメン隊付)たち6名の者を呼び出し独房に移した。おそらく戦犯容疑者として取調べるためであろう。
私は木造二階建ての格子戸のある雑房(60名位入れる)の1階に入れられた。入獄した憲兵は全部で372名である。この刑務所は私が所属している、モールメン憲兵隊が終戦の日まで留置場として使っていた場所である。敗戦とともに、戦争犯罪容疑者として監禁されるとは・・・。勝者と敗者の違いをこれほど身近に感じたことはない。昨日まで日本に帰ることを夢にまで見て、帰還する船を待っていたというのに、と思うと、前途は不安でいっぱいである。
 
われらみな 背に銃口を 感じつつ モールメン獄の 門をくぐりぬ
 
この文章の転載はご子息・遠山信和師の許可を得ております。
  あなたに聖書を
 
 昔から、「死んだらあの世へ行く」と言われてきました。「あの世」というのは、「この世」に対してのことでありますが、しかし、「あの世」というものが、「本当にあるかどうか」は、確かめようがありません。
 また「地獄」や「極楽」の世界のことも語られてまいりました。最近では「死んだら天国へ行く」みたいなことが言われますが、これだって「天国」という世界が本当にあって、そこがどういう所かよく確かめた上でのことではありません。大体、こういう言葉はあまり詮索しないで使われているように思います。
 
 しかし、例えば、温泉に浸かって「ああ、極楽極楽」と言う人がいます。逆に「この世は地獄だ」と言う人もいます。ということは、「極楽、または天国」といい「地獄」といい、いずれについても、そういう世界のことがある程度捉えられているから、そう言えるのではないかと思います。その場合、「極楽または天国」という世界は、一切の重荷から解放されて自分が自分であることを取り戻すことが出来ている自由な世界のことであり、「地獄」という世界は、一切の重荷を背負い込んで、それから抜け出したいと願っても抜け出せないままの不自由に閉じ込められている世界のこととして、捉えているように思いますが、如何でしょうか。
 
 ところで、聖書の中で、キリストは、「天国はあなたがたのただ中にある」と言われています。「天国」というのは「神様がいらっしゃる世界」のことですが、キリストは「わたしを信じる者は今天国にいる。つまり、神様があなたと共におられるのですよ」といわれているのであります。
 生きている今が「天国にあるのです」ということです。わたくし共は、今地上のこの世に生きていますが、同時に、今日という日を、神様がいつも共にいてくださる天国に生きているという、自由と喜びに生きる秘訣を、聖書は語っているのであります。
 
 あなたも、どうか聖書によって、今が天国に生きている今として生きられるよう、キリストとの出会いがなされるようにと祈っています。  
 
篠田 潔
 
(参照聖句・ルカ17:20~21)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 
s-P1070060.jpg2月   6日  後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
         13日  後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
         20日  沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)
         27日  沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)
 
 
 
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 「ローマ人への手紙」研究 (75)
 第46課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
       10章11~21節 (2)
 
「ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼びもとめるすべての人を豊に恵んで下さるからである」(10:12)。この言葉は11節の「すべて彼を信じる者」を説明しています。すなわち、救いについてユダヤ人と異邦人との差別はないのです。確かに、ユダヤ人と異邦人との間には多くの相違があります。しかし、彼らが共に救いを必要としている罪人であるということと、彼らが救われる方法については、全く差別はありません。
彼らは共に同じ立場にあるのであって、等しく罪人であって、救いを必要としており、彼らは全く同じ方法で救いに与るのです。すなわち、万物の上に主であるキリストが価なしに与えてくださる恵みによって救われるのです。
 
12節の「主」(Lord)が神を指すのか、キリストを指すのかを決定することは極めて難しく、ほとんど不可能と言えます。どちらを指しているにしても両方に理由があります。しかし、これはたいして重要な問題ではありません。「教理的には、どちらの説を採っても大した差はない。神を信じる信仰は、すなわち、キリストを信じる信仰である。なぜなら、キリストは神であるからだ。このことは認められなければならない大切な真理である。福音の下における救いの条件は、キリストを神として受入れることである」(C・ホッジ)。
 
「主の御名を呼び求める」(call upon)という表現は聖書の中にしばしば見られます(創世4:26,12:8、イザヤ64:7、使徒2:21、9:14、22:16、Ⅰコリント1:2、Ⅱテモテ2:22)。「主を呼びもとめる」とは「彼に対する真の信仰」を意味します。「全てを信じる者」と「主の御名を呼びもとめる者」とは、要するに同じことの違った表現に過ぎません。s-P1010043.jpg
 
「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(10:13、ヨエル2:32より引用)。この引用は11節におけるイザヤ書からの引用と、意味においては殆んど同じであります。ヨエルの預言はメシヤの来臨とメシヤがもたらす祝福の時期を示しています。この時期においては、主を呼びもとめる者はすべて-ユダヤ人と異邦人の区別なく-救われるのです。この同じヨエル書の言葉がペンテコステの日にペテロによって引用されていることに注意したいものです(使徒2:21)。
パウロはここで、キリストを信じる者はすべて救われるということは、パウロ自身が教える教理であるばかりでなく、ヨエルやイザヤの言葉が示しているように、旧約の教理でもあることを示しているのであります。
 
 
この真理は、旧約に極めて明瞭に教えられているのに、パウロの時代のユダヤ人たちはそのことに無知でありました。使徒ペテロでさえそれを理解するのに困難を感じたのです(使徒10章、ガラテヤ2:11~16)。イスラエルは特別な立場を持っているという考えはユダヤ人の心の中に深く刻み付けられていたので、彼らは神と民と言うこの特殊な地位というものが、それ自体が目的ではなく、実は目的への手段であることを理解できなかったのです。すなわち、アブラハムの末によって地上のすべての民が祝福を受けるという目的への手段であることを理解できなかったのです。そして、彼らはまた、イスラエルの特殊な地位を永遠的なものではなく、メシヤが来る時までの一時的なものであったことが理解できなかった。だから、彼らの特殊な地位を永遠的であり、それ自体が目的であると考えていたから、彼らは異邦人の救いについての旧約の預言に無知であり、それらの預言を真剣に考慮して考えることが出来なかったのです。
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
 
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
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…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
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おすすめ本

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ポーリン・マカルピン著
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讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
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