2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
孫たちも帰りホッとした途端に、夫婦共々風邪で寝込んでしまいました。娘たちが予感したのか手料理を作ってくれたので、大助かりです。これから春までの間、雪との戦いになります。
新潟県 Y・Yさん
ニュースでご存知のことですが、思いがけない大雪で、今までの生活が乱れてしまいました。当り前に通っていた道が不通になり、買い物にも出かけられなくなり、村の職員さんの助けを借りることになりました。馴れた雪の生活でしたが、何より困ったことは除雪でした。自分の背丈の高さになり、改めて大雪を実感しています。それでも数少ない年賀状が届けられ、家内と食い入るように読んでいました。メールとはまた違った思いでした。・・・。「つのぶえジャーナル」毎月、楽しみにしています。
タイガーマスクさんの善意がニュースになっていますが、60歳前後の世代の人が一つの社会との繋がりを表わしているかのように思います。仕事中心で社会との接点を持たない者が、社会的孤立を味わう時、何か社会にお返ししなければという思いが、このような行動の連鎖に現われているように思いました。これも一つの居場所探しと自分に置き換えてみた時の心情です。分るなあ・・・・。
新潟県 B・Kさん
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『ありがとうございます』
南の方から梅の便りが届けられました。2011年も1ケ月が過ぎました。15年間仕事場として使って来ましたアパートが高齢者向けの住宅に改築されることになり、年末から引越し作業に追われましたが、一応、形は整いましたが、今少し時間がかかりそうです。文字通り「身辺整理」の時になりました。新住所・TEL番号は下記になります。今後ともよろしくお願い申し上げます。
また、幸いなことに御覧下さる方から、ご感想や身近な出来事を送信くださいます。本当に、ご意見・交歓の場と育てていただいております。十分に「つのぶえジャーナル」上でご紹介できませんが、どうぞ、お便り、メールをお待ちしていますので、お送りください。
465-0066
名古屋市名東区梅森坂西2丁目616
TEL: 052-893-9585
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つのぶえジャーナル
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
和田順一様 和田貴美子様 荒川小夜子様 島じづ子様 井上義昭様 中西加津子様 金田好美様 古屋愛実様 匿名3名様
小閑記
それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっている膝とを、まっすぐにしなさい。また足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。
(ヘブル12:12~13)
人は高齢者ばかりでなく、膝が弱ると、歩くことが出来ません。私たちの手が不都合や時には萎えると、働くことが出来ません。私たちキリスト者にとっても、大きな問題は(精神的な)力の問題です。
真にキリスト者らしい生き方をする力とは、すなわち「歩む」力のことです。また、キリスト者らしく「語る」力もあります。しかし、多くの者にとって、自分流なら、さほど難しいことではないと思うかもしれませんが、キリスト者らしく「生きる、歩む、語る」ことは、本当は難しいことです。そのためには、努力と熟練が求められるのです。
私たちは、そのためにキリスト者の(信仰)生活をいたずらに、制限をくわえ、口やかましく、必要以上に自己規制したり、本来持ち合わせているもの、信仰の喜びが冷たい冷えきったものになってしまうことがよくあります。生気のない、弱々しいものにしてしまっています。
しかし、本来、私たちキリスト者らしい生き方は、神のみ名を崇めることが、神様のご意思であり、この世の生き方に束縛されたり、邪悪な時代に左右されて生きるよりも、もっと生き甲斐のあることを知り、また、世に喜びとして示すことが生き方になるのであります。
キリスト者の生活が、この世的な幸せのみと考えるなら、それは誤りです。この世と調子を合わせることで、キリスト者の生活が成り立つものではありません。キリストと共に、信仰者のゆえに苦難や苦しみも共にするものです。自分の信仰の未熟さ、弱さを持って生きていることを認めた上で、キリスト者の生き方を、生きる力をみ言葉(聖書)からいただくなら、そこから、新しい力、弱くなった心の膝は強められ、萎えた足のための道が備えられ、整えられると信じています。
上河原立雄
この道行きたいと願っても
御心でなければ行かれない
御心を成したもう御神よ
御心のままに行かせたまえ
試練を避けたいと願っても
御心でなければ避けられない
御心を成したもう御神よ
御心のままに助けたまえ
どんなに生きたいと願っても
御心でなければ生きられい
御心を成したもう御神よ
御心のままに生かしたまえ 水野源三 詩集「今あるは 神の恵み」
「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、闇のうちにとどまらないようになるためである」。(ヨハネ12:46)。
2011年の世界はどうなるのでしょうか。2010年のような年であって欲しくないと願っています。
光は、「この世にきた」。しかし、目を持つすべての人が、それを見ているのではありません。この光を見るためには、普通の視力を持つ目とは違ったものが必要です。この光を見ることが出来るのは、「信仰」です。ですから、光はこの世に来て、ずっと以前からそこにあって輝いているにもかかわらず、不信仰なこの世は、その光を知らず、認めないのです。しかし、神様の愛と恵みである信仰をいただいている人々は、それを見るのです。そうして、新たな発見をするのです。日毎の歩みの中でするのです。
「光」を見ると同時に、信仰は、自分自身を発見します。不信仰が重大であるのは、それが私たちを、そのありのままの人間を見えない者にすることです。信仰が目を開く場合には、私たち自身の姿を、人々や世界を暴き出すと共に、新しい何かを見るのです。それは、「希望であったり使命であったり」するのです。
「信仰」は悲惨や失望に対して無関心にはさせません。自分自身を含めて、日々、光が与えられなければ生きられません。幸いにして、不信仰な者が神様を認めなかった状態から、信仰者とされた者は、どのようにして人々に、世界に「光」を伝え、悲惨と悲しみから救い出せるかを真剣に考えさせます。キリスト者として、この世の苦しみや悲しみに無関心であることなど、あり得ないことです。もしそうなら、キリスト者の信仰の方が、どこか間違っているのです。
この世にきた光、命の泉、渇きを癒す水を飲んだ者は、その泉を示し、水を指し示せないことなどあり得ません。信仰者は、その責任を神の召しとして感謝して受け止めると共に、多くの人々に、「光のあることを知らせる」今年でありたいと思います。
主はわれを導きて
天の牧場へ連れたもう。
生ける水は静に流れ
ゆたかなる救いはそこにあふる。
眸
ある時、保存されている学校の友だちとメール交換している内容を読んでびっくりしました。不満と苛立ちと調子を合わせている自分がありました。何にイラ付いているんだろう。外ではわいわい騒いで大きな声で笑っている自分。ちっとも楽しくなんかないのに・・・。ある人のメールの中に、ありがとう、いただきますなんて言葉を言ったことがないとありました。わたしも同じだ!ある本に、思春期の心の特徴が書いてあった。思い当たるが、それでいいのだろうかと不安になる。
テレビで「あしなが育英会」?のことがあった。支えて貰えて高校を卒業できる感謝の言葉があった。自分には関係ないことと思って、それでお終いだったが、何か気持ちが落ち着きません。そんなこと、友だちにも言えないし・・・。
わたしの部屋には冷暖房が付いている。好きな音楽も自由に聞ける。携帯片手に食事。早くお風呂に入りなさい、と言われてハイハイの生返事で入る。暖かい寝心地のいい布団の中でメールの交換。
何だか恵まれ過ぎて、全てが当り前になっていて、何か変な感じ・・・・。両親がいて、妹がいて、学校にも行っている。お小遣いも貰える。何時も清潔な物を身に着けている。何もかも揃っているのに、何か物足りない。母に言ったら、ああそう・・・で終わり。
満たされることは、大切なものを忘れさせるんだ!
クリスマスの話で盛り上がる。でも一人になると淋しく不安になる。これって青春、思春期だから?まあゆっくり考えます。気まぐれ高校生から「ジャーナル」さんへ。
兵庫県 気まぐれさん
(44)
11月22日
わたしの中には優しさはありません。何に対しても気弱、人に対しては、理由のない後ろめたいものがあります。それだけです。それが全ての行いの基盤にあります。だから、どこまでもこれでよしとするところがないのです。疲れます。
11月26日
主人は休みです。紅茶を入れてくれた後、2台のパソコンに向かっています(主人のパソコンは働き過ぎて悪くなってしまい、最近新しいのを購入)。そういう時は助かります。わたしは隣の部屋で寝転んでいます。音楽でも聴いていようかな。優しさが欲しい。優しく見守る眼差しが・・・。わたしの仕事は、見守ることだと思うから。
12月3日
精神科の帰りに、ようやく毎年使っている2011年用の手帳を買いました。お年玉の袋もクリスマスカードも買わなきゃならないし、クリスマスのご飯は何にするか考えなきゃいけないし、そもそも現金を下ろしてもらわないと何もできないし、帰省土産も準備しなければならない(この辺は主人は疎いんだ、嫁は手ぶらというわけにはいかないの!)し、大掃除はあるし。
たかだか夜が来て朝が来るだけのことじゃない。何で何時もと同じじゃダメなの?。変わったことは嫌いなの!わたしは、いつものように独り休む時間が欲しいの。何で皆集まらないといけないの?クリスマスや正月ほど静まりたいの、わたしは。
12月15日
最近、興味をそそる本を見つけました。
綾屋・熊谷/つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく/NHK出版生活人新書
アスペの当事者と脳性麻痺の当事者の当事者研究についての本です。社会とどのように関わっていくか、AAの12の伝統やべてるの家のことなども述べています。それにしても腰、膝、股関節が痛みます。それと同じくらい帰省のことが気になっています。あ~あ、年末年始くらい独りでゆっくり過ごしたい。
加納さおり
(85)
猫 草
家の近所で犬の散歩をさせている方々によく出会う。飼い主どうしも親しくなるのだろう、足元に犬をつれたまま話をしている姿をあちこちでみかける。犬どうしが退屈して吠えたりじゃれたりすると、すぐに「吠えちゃだめ!」「お友達にやさしくしなさい!」噛んだりしたら「なんてことするの!謝りなさい!」と大変な剣幕で叱っている。子供にではない。犬に対してである。叱られた犬の方もしゅんとして「俺ってだめなやつ」という顔をしているから、見ているこちらもなんだか不思議な気持ちになる。
ペットや植物、インテリアや子どもでも、とにかく自分の身近にあるものを、自分の好むように作り変えたい、自分の思う方向に向かせたいという自分勝手な欲求は尽きないものなのだろうか。そして高齢や病気、あるいは引っ越しをする、しつけができない、飽きたなど、飼い主にとって都合が悪くなると捨てたり、殺すことに躊躇しない飼い主が多いという。壊れたものや不用品を処分するのと同じ、たとえ生き物であっても例外ではないということなのだろう。
動物病院を経営している友人が言っていた。コーヒー店の紙袋を捨てるふりをして目もあかない子猫を入れて置いていく人がいる、よぼよぼになった犬を病院の門柱につないで捨てる人がいる。だから病院前に監視カメラを設置したと。そして改築の際に「カウンセリングルーム」を作ったと。動物のためではない、責任を放棄して簡単に処分を願い出る飼い主とじっくり時間をかけて話し合うためだと。治療の時間と相談や説明の時間を比べると後者の方が長いかもしれないと。
「もし、わたしが、あなただったら」というのはどこかの会社のモットーなのだそうだ。自分の利益や理屈ではなく、相手の立場でものを考えて行動せよということなのだろう。他者や他の生き物と共存することは、基本的に困難で摩擦の多いやっかいなことなのである。トラブルやとまどいがあって当然なのだ。「私にとって正しい選択」「自分にとって最善の判断」ではなく、「相手の気持ちになる」ためのほんの少しの想像力があれば、世の中もずいぶん変わるだろうに・・と思う。
その愛のゆえに
=時々の記=
(58)
11月19日
老若の喜ぶバザー文化の日
病得て一筋となる菊作り
萩の実のズボンの裾に数多(あまた)付く
秋川の瀬音盆地にしずもりぬ 馬場路哉
朝の冷え込みは、厳しくなってきました。5時に起床していたのも、15分遅らせています。暗闇に電灯を持って出掛けるのは、野生の動物にあったとき、危険だからです。犬たちとの散歩を終えるころ、ようやく暖かくなりだします。
11月30日
一日はやいのですが、カレンダーを12月にかえました。今年も、いろいろ苦しみ、試練の一年でしたが、このように、試練にあいながらも、生かされていることに、感謝いたします。外は寒い、冷たい風が吹き荒れています。源三さんの詩集の中にあるように、病の苦しみにまけず、イエス様が、この世にお生まれになったクリスマスを家族で、静かに、お祝いしたいものです。
外に出る入院患者小春の日
山峡や漆紅葉の先駆けぬ 馬場路哉
主人は、肩こりがひどい、中途失明され友人のところに、マッサージに行っています。その方は、大学在学中に失明され、一時、自暴自棄になられ、何度も、死を考えことがあるという。お互い、病の種類は違っても、若い頃、思いもしない出来事に出くわしたとき、相当、悩み続けたことでしょう。主人に希望の光を下さったのは聖書であり、その方を救ったのはクラッシック音楽だったということです。今は、本にも興味をもたれ、録音テープの朗読を聞いているそうです。そのような理由で、二人は、気が合うようです。
12月1日
十二月号のジャーナルが待ち遠しく、一日に何度も、ポストを開けにいっています。
神様の大いなる愛が満ち溢れたジャーナルは、まさに、多くの病める方、教会に行けなくなったお年寄りの方、日々忙しくされている方に、ほっとするひと時を与えられていることでしょう。昨日、北海道の叔父(父の一番したの弟)から、電話がありました。もう雪が積もって、とても冷え込んでいるとか。寒さの厳しいなかで生活している方たちは、地味ですが、生き抜く力強さを感じることができます。「今月のことば」は、パソコンからプリントして、部屋に掲げていつも読めるように、そして、士気を高めることができるようにと活用させていただいています。
12月3日
今朝は、12月にしては暖かな朝でした。何時ものように冬衣装で、散歩に出かけたら、汗ばみました。12月に入って、家の天井や、窓ガラスを見る、汚れのひどさに、仰天しています。わたしたちの心の中は、見ることができませんが、この一年でたくさんの汚れた思いで、満たすのでなく、ミセス・マカルピン先生が言っておられるように、乾くことのない、いのちの水で、あふれ出る素直な、気持ちで、心の中を満たしたいものです。
娘から、「世田谷通信」を読んで、小さな生き物でも、一緒に生活していたものが、いなくなると、とてもさびしくなるもので、息子さんがたいせつに、最後の、穴を掘ってあげたところを読むと、我が家の愛犬たちも、また、いつか別れなければならない日が来るのだなあと、悲しくなりましたが、たくさんの思い出も、一緒に出来たのだからと、気持ちをきりかえようと、務めています。
驚いたことに、我が家の隣りの家に、クリスマスのイルミネイションが飾られていました。ちょっと不思議な気持ちにさせられました。
12月6日
犬たちの誘導に任せて、霜柱を踏みながらの散歩でした。これから、少し暖かさがましてくるのでしょうが、今はまだパソコンのタッチも指先きが冷えてきます。
長編の小説借りる冬支度
蜘蛛の糸ちらちら光る冬入日
手作りのこんにゃく買ひておでんとす 馬場路哉
12月10日
12月もはや10日が過ぎ去りました。寒さが一段と厳しくなってきました。今、朝の散歩には、月灯りがまったくありません。それは、上弦の三日月だからです。その暗闇の中、懐中電灯のあかりは、あまり明るくし過ぎると野生のイノシシや、狸などが光に向かってきますので、ほんのり照らす程度にして、注意深く散歩に出掛けています。今朝は、冬だというのに珍しくムササビに出合いました。犬の一匹が勇敢にも、ムササビに飛びかかろうとしました。ムササビには、羽根がついているので、犬の追いかけにも、びくともせず、隙間を狙って、空高くに、飛んでいきました。ムササビは、独特の鳴き声を放って、ほかの群に、注意しろ犬がいるぞ、とでもいうように、逃げて行ってくれました。
日の入りの山を移りし冬至前
二羽の鴛(おし)水尾を広げて来たりけり
風よけの中で子供らあそびけり
マラソンの紅葉の山のすそに伸ぶ 馬場路哉
明日は、山添のマラソン大会が開催されます。子供たちが小さかったころには、一緒に走ったものですが、今は坂をゆっくり上るだけでも、息がきれかかります。
今年もクリスマスは、我が家では、ささやかなファミリークリスマスとなりそうです。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
10 神はそのすべての道において正しい
1 神を畏れる人々の平静と忍耐深さを示す事例は他にもある。彼らは、生涯のあらゆる状況の中で、そのように生きる努力をすべきだからである。自分自身をまったく神に服従させ、どんな些細なことでも、神の御旨に喜んで委ねない限り、正しい自己否定をしていることにはならない。
このように心がけるなら、どんな事が起こっても、惨めと思ったり、自分の運命のゆえに、誤って神を非難したりすることはない。
2 われわれがさらに多数の事故のことを考えてみるとき、このように自分自身を訓練することが、必要であるかが明らかになる。あらゆる種類の病気が次々に生じ、悪疫が襲うかと思うと、戦争の災害がわれわれを悩ます。時には霜や雹が作物を倒し、われわれは欠乏と貧困で脅かされる。
しばしばわれわれの最も親しい者、夫、妻、父母、子供たち、あるいは親族が死によって急に連れ去られたり、家が火で焼き尽くされたりする。このような出来事のために、人々は、人生と誕生の日を呪い、太陽と星を責め、そしてあたかも神が凶暴で不正であるかのように非難したりする。
3 しかし信仰深い者は、こうした状況の中でさえ、神の憐れみと父としての愛を想う。たとい身内の者を取り去られて、家族が淋しくなったとしても、神を崇めることを決してやめてはならない。むしろ、家庭に住んでくださる神の恩恵が、家庭を淋しいままにしておかない、というように考える。
あるいは、穀物畑が霜や雪でめちゃくちゃにされ、飢えに脅かされることがあっても、失望したり不満に思ったりしないで、かえって、神の守りの中にあり、自分たちが「神の牧場の羊であり」、神は必要な食物を備えてくださるという、固い信仰を持ち続けるであろう。たとい病気で苦しめられても、苦痛に打ちひしがれて、忍耐を欠いて神につぶやくようなことをせず、かえって、永遠の父の正しさと愛とを思って、懲らしめられ正されるなかで、忍耐を学ぶのである。
4 要するに、何事であれ、神の定められたことが起こることを知って、信仰深い者は、それを平和と感謝の心で受け止める。それは、自分自身とすべての所有物とをひとたび献げた神の支配に、高慢にも逆らう罪を犯さないためである。
運命を呪い、逆境を考えまいとする異教の哲学者たちの考える、愚かで誤った慰めを受け入れることなどと言うことは、キリスト者は到底思ってもみないことである。この世では、有用な人であれ、そうでない人であれ、誰にでも打撃を加える見えない凶暴な力があるといって、こうした哲学者たちは、自分の運命に腹を立ててみても、しかたがないと考えたのである。
しかし、まことの信仰の原理は、神だけが、あらゆる繁栄と逆境の導き手であり支配者であること、そして神は決して無思慮に急ぐことなく、すべての善いことも災いも、最も公平な正しさをもって与えてくださるということである。 詩篇79:13。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
「書籍案内」
伝道者の書講解
富井悠夫著
定価 1365円(税込み)
ISBN978-264-02880
-2C0016
キリスト教書店か書店でお求め下さい
遊女ラハブ
ヨシュア記 2章
私たちは、旧約の婦人たちを研究して、遊女ラハブの物語にまで進んできました。
ある人々は、とかく批判のある遊女の物語などをなぜ学ぶのか、これはそのまま見過ごして出来るだけ隠しておいた方がよいのではないかと言われるかもしれません。しかし、ここに聖書の特徴があり、真実さがあります。
つまらない遊女も、神様の御用に用いられる時、神様のご計画の一端にたずさわるものであって、私たちは決して見逃してはなりません。
聖書の中でも、特にヘブル人への手紙11章31節に、「信仰によって遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に、滅びることはなかった」と記して、遊女さえも、いにしえの信仰高いイスラエルの人たちと並べて称讃されており、マタイによる福音者1章5節には「サルモンはラハブによるボアズの父」とあって、その名をとどめるほどです。私たちは、彼女を見過ごすと大きな損失を招くでしょう。
では一体このラハブはどこでどうして、この信仰を得たのでしょう。聖書はこの点に関して何も記していません。
彼女の物語は、ヨシュア記2章に、初めて現われています。神様はご自分の計画によって、ヨシュアがエリコに放った二人のスパイのために、町の人々に見つからないような、安全な隠れ家を備えられました。それがこのラハブの家でした。2章全体をよく読んでみますと、ラハブは二人のスパイを見た瞬間、これは悪い目的で来たのではなく、真の神の使いだと見抜いたのでしょう。そしてエリコの王が、この二人を引き渡すよう命じた時、王の命令をも恐れず、二人を隠し、窓から釣り降ろすなどの機知をもって、彼らを他の道から逃れさせ、その危機を救いました。
よく考えてみますと彼女のこれらの行動は、単に旅人に親切であったという理由だけでなく、真の神とその能力を信じ、二人を神の使者として救ったのです。このことは彼女が二人のスパイに語った言葉の節々によく表れております。ヤコブの手紙2章26節を見ますと「同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出したとき、行いによって義とされたではないか」とある通り、ラハブの特徴は信仰を行いで現わしたことです。
ここで、私たちが特に注意しなければならないことは、彼女のこれらの行為が、彼女の信仰から出ているもので、人の救われるのは、業ではなく、ただ信仰によるということです。
私たちがこのラハブの物語から学びますことは、第一に、罪の恐ろしさです。
神は愛であられますが、それとともに、無限の聖なるお方であります。どんなに小さい罪でも見逃すとか、犯してもよい、というような態度は決してとられません。しかし、ここで考えますことは、人がいかに悲惨な罪のうちにあっても、失望することはありません。神は愛ですから、人を罪から救うために、ひとり子をこの世に送って下さったのです。神は罪あるラハブさえも、御用のためにお用いになったように、私たち罪ある者をも、神は御用のためにお用い下さることを深く教えられます。
第二に、神に用いられるには条件があること。神の御用を務めますには、神のみ声を聞いて、自分の罪を懺悔し、告白して、神様に罪を赦され、救いに与るのがその条件です。神は、私たちの過去をもお赦しくださるばかりか、これを潔め御用のためにお用い下さいます。
例えば、蓮池の泥の中に眠る蓮の根も、春とともに暖かい太陽の光を受ける時、地上に可愛い芽を吹き、育っては美しい花をつけ、私たちを慰めてくれます。そのように私たちも、罪の生活から神に帰り、導かれ、救いを受けて信仰に入る時、罪の泥の中に咲きにおう蓮のように、自分の周囲の人々に信仰のゆかしい香を放つことができます。
第三に、私たちの絶えず気を付けるべきことは、自分が罪人であるということです。ローマ人への手紙3章10節を見ますと、「義人はいない、ひとりもいない」、また22節を見ますと、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」とあります。
そのように、世の中には完全な人は、一人もおりません。私たちクリスチャンは罪赦された罪人であり、神の力によって潔められなければ、神の前に立つことのできない者です。私たちの絶えることのない願いと目的は、自分をキリストにくらべて、自らの醜さと、足りなさを自覚し、一層、信仰に励まねばならことです。
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中日記 (1)
中日新聞昭和61年(1986年)1月30日(水曜日)
(記事掲載・変更横組みのみ)
元日本兵が「獄中記」でつづる・・恵那市の遠山さん
ビルマ軍事裁判秘話
「恵那」 第二次大戦のBC級戦犯として8年間の獄中生活を送った旧日本軍憲兵、遠山良作さん(68)=岐阜県恵那市大井町54、牛乳販売業=が、体験に基づきビルマでの英軍事裁判の実態をつづった反戦の書「ビルマ戦犯者の獄中記」を出版し、大きな反響を呼んでいる。外地における軍事裁判の実態は、これまでほとんど明らかにされていなかったが、遠山さんは、極秘に書きとめた日記を基に、裁判のズサンさ、無実の罪に泣いた戦友の姿を克明に描き出し、「戦勝国がいかに敗者を裁いたか、戦争がいかに人をくるわせるか、知ってほしい」と訴えている。
遠山さんは、昭和13年応召、17年にビルマへ赴任し、そして終戦を迎えた。憲兵軍曹だった。敗戦と同時に、遠山さんらは、イギリス軍によって武装解除され、戦争犯罪容疑者として、ビルマ・モールメン刑務所に監禁された。筆記用具は一切取り上げられたが、遠山さんは、水虫の薬を溶かしてインクを作り、僚友がこっそり差し入れてくれたペン先で、トイレットペーパーに、監視の目を盗んで日記を書き続けた。
遠山さんは、二つの事件で現地の英軍事法廷に起訴された。一つは、エデゴン村民20人に対する拷問容疑。まったく身に覚えがなく、拷問に立ち会った憲兵仲間も「遠山は無関係」と証言してくれたが、判決は、禁固6年。取り調べ時間20分。被害者が「この男も」と指さしたのが決め手で、無実の罪をきせられた。
二つ目は、拷問致死事件。英軍スパイをかくまった疑いでビルマ人セヤオンバーを取り調べた際、拷問で死なせたとして、死刑を求刑された。「拷問したか」「しない」。「縛ったか」「縛った」。それだけのやりとりで、拷問とされた。判決は禁固15年。遠山さんを慕っていたビルマ人5人が「遠山は拷問する男ではない。セヤオンバーは病死だ」と証言してくれたので極刑だけは免れた。
この間、遠山さんの上官や戦友たちの多くが、拷問や殺人容疑で裁かれた。証拠はなく何人もが、銃殺や絞死刑を宣せられ異国の土となった。
遠山さんは厳しい獄中生活を詳しく描き、処刑を待つ人たちの生きざまを書きとめた。辞世の歌も、可能な限り集めた。「みすずかる信濃の春の咲く桜花(はな)は散りてぞ清く思わるるかな」。銃殺された長野県出身の柳沢泉大尉の辞世である。
遠山さんは有期刑となり、昭和28年釈放された後、戦友らのために、本にしようと心に誓った。完成した「ビルマ戦犯者の獄中記」はB5版、かつての戦友、戦犯者やその家族等に無料で配った。
この本を読んだ元名古屋地裁所長の山口正夫弁護士(76)=名古屋市名東区=は「大変感動しました。今の司法制度では考えられないような、一方的な裁判で、処刑される。それを従容として受入れ、悠々と死に就く。立派な人たちがたくさんいたんですね」と激賞している。
=平和の大切さを知ってほしい=遠山良作さんの話 勝者によって敗者を裁くところに軍事裁判の愚かしさがある。英軍の裁判のズサンさも、戦争ゆえのことだと思う。平和がいかに大切かを知ってほしい。
=註記=
この本は、月刊「つのぶえ」に3年半連載したものです。出版当時の遠山良作さんは、恵那教会の長老として活躍されておられました。
あなたに聖書を
亡くなった坂本九の持ち歌の一つに「上を向いて歩こう」というがありまして、よく歌われてきました。これは、そのあとに「涙がこぼれないように」と続くところがよろしいのでしょうね。つまり、生きていく上では、涙がこぼれるようなことがあるけれども、その涙がこぼれないように上を向いて歩こう、というのですから、そこに一つの心意気があるわけで、その心意気に多くの人、特に若者が共感し、また共感するものがあって、よく歌われたのではないかと思います。
ただし、この場合、上を向くのは、寂しさやつらさに耐えかねて溢れてくる涙がこぼれない様にするためだけではないのでありまして、その上、つまり雲の上・空の上に、幸せがあるからであり、また星のかげ・月のかげに悲しみを知ってくれる者がいるからだと歌うのであります。
この地上では、涙が流れ落ちるしかないけれども、上には幸せがあり、悲しみを知ってくれるものがあるから、「上を向いて歩こう」、というのが、この歌の作者の、人生についての見方であり、生き方であろうと思わされます。
ところで、新約聖書の中の「コロサイの信徒への手紙3章1節」という箇所には「上にあるものを求めなさい」という勧めがあります。「上にあるもの」というのは、地上にあるものではありません。また、人間が考えたり造りだしたりすることが出来る範囲のものでもありません。そういうものを超えたもののことであります。聖書全体が伝えようとしている言葉で言いますと、それは、「神の国」と呼ばれるものでありまして、神様が主人である世界のことであります。
それは、イエス・キリストによって示される世界であります。わたしたちを本当に生かすものは何でしょうか。それは「上にあるものです」というのが、聖書の答えであります。どうかあなたにも「上にあるもの」が、聖書によってはっきり示され、それによって歩まれるようにと願っております。
篠田 潔
(参照聖句・コロサイ3:1)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
(放送開始1952年10月)
1月 2日 牧野宏章 (日本キリスト改革派浜松教会会員)
9日 牧野宏章 (日本キリスト改革派浜松教会会員)
16日 三輪祐子 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会会員)
23日 三輪祐子 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会会員)
30日 伊藤治郎 (日本キリスト改革派四日市教会会員)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
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〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円