2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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「ローマ人への手紙」研究 (74)
第46課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (1)
「聖書は、『すべて彼を信じるものは、失望に終わることはない』と言われている」(10~11)(イザヤ28:16より引用)。パウロはイザヤの書より引用することによって、今まで述べてきたことを確認しています。すなわち、二つの真理です。第一に福音による救いという方法は、全ての人に適する方法であること。すなわち、「すべて彼を信じる者」に適した方法なのです。したがって、イスラエル民族のみならず、ユダヤ人と異邦人の両方に同じく適応するのです。すなわち、それは普遍的なのです。それは民族の別、その他のどんな区別とも無関係に、全ての罪人の必要に応じているものなのです。
第二に、イザヤ書より引用の句は、信仰とは救いを確保する手段であることを教えています。しかし、特にキリストを信じる信仰を持つ者、すなわち、神によってシオンにすえられた隅の首石、確かな基礎を信じる者は失望に終わることはないのです。現代では、信仰というものを漠然とした曖昧なものと考える人が多いのです。救いをもたらす信仰とは、心理的態度としての信仰とか宗教一般とか、宗教を信じる信仰などといったものではありません。
私たちを救う信仰とは、明確にイエス・キリストを信じる信仰です。聖書は信仰を単なる心理的態度とか、一つの力であるなどとは決して見做してはいません。今日、多くの人たちが信仰を力、或いは信念などと見て、信仰をダイナマイトよりも強力であるなどと言います。実際は、信仰そのものは何の力でもありません。信仰は力ではなくて導管にすぎません。そうではなく、キリストが力を持っておられるのです。そして信仰は私たちとキリストとの間を結ぶ管なのです。信仰をそれ自体が心理的姿勢と見る近代の信仰観なるものはキリスト教を破壊するものです。
信仰が、私たちの救い主ではなく、キリストこそ救い主なのです。
救いをもたらす信仰は、その対象としてのキリストの上にその基を置いています。「彼を信じる」という言葉は、信仰とは、人格的な信頼を含んでいることを示しています。このことは救われるためには、福音の中に提供されているままにキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼むことを意味しています。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
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主婦にとって12月は、忙しい月です。家の大掃除、おせち料理の準備など一日中動いているのが、この月です。嬉しいことは、息子や娘たち家族が孫たちを連れて帰ってくることです。殺風景なわが家も孫たちの声で賑やかになります。何時もは何も手伝わない主人も、この時は買い物などに協力してくれます。畑の野菜や果物係りは主人です。一昨年は張切り過ぎて柿の木から落ちて怪我をしましたので、それ以来、慎重になりました。無事にわが家に来るのを楽しみにしています。
栃木県 Y・Tさん
不景気で給料カット、ボーナスなしという小さな町工場を経営しています。自分の給与はカットしていますが、従業員のものには心が痛むのでしないが、わたしの方針ですが、来年は今より少しでも良くなってほしいですね。
大阪府 S・Iさん
私の通院時間は仕事が終わってからの7時頃になりますが、こんなことがありました。バスに乗ろうとしたご高齢の女性が、乗車口に足が届かないのです。どうしたのだろうと周りの人は見ていました。とっさのことで、どうしてよいのか分からなかったのですが、女子高生がサット後ろから抱き上げて乗せてから、さりげなく自分も乗っていました。そうして、何もなかったかのようにケイタイを開いていましたが、あたたかい車内になりました。
東京都 S・kさん
いくら就活しても全てだめで、焦っています。友達の中には円形脱毛症や体調を悪して就活どころではなくなりましたが、私もそうなりそうで、とても不安です。私のために家の中も会話がなく、暗いです。何でこんな時期に生まれたんだよ!と恨んでしまいたくなります。もう直ぐ、弟もそうなります。家には迷惑かけたくないので、職探しを頑張ることとバイトで小遣いはかせがなくちゃあ・・・が今の私です。
東京都 A・Cさん
クリスマスをお祝いいたします。毎月の「つのぶえジャーナル」は身近な信仰生活に参考になることを書いてみえるので大変役に立っています。今後も楽しみにしています。頑張ってください。
岐阜県 K・Aさん
主人の仕事は、電力会社の現場で働いていまして、一般の皆さんのようなお正月休みはありません。逆に事故や災害時に備えて、何時も緊張しています。子供たちの不満は家族揃って遊びに行けないことです。子供たちには、皆さんのお役にたっている仕事をお父さんはしているんだよ、と話しています。そのような方々が日本を、世界を支えているんだと思うと、私にはとっても誇りです。そんなことを思いながら、主婦業をしています。
福岡県 O・Tさん
『ありがとうございます』
2010年も神様のお導きと皆様のお祈り、ご支援を頂き感謝の内に2011年を迎えることが出来ました。心より感謝いたします。沢山のメールやお便りも頂きました。ご紹介出来ませんでしたが、幸いにも「つのぶえジャーナル・メル友」として交わりをいただいております。小さなホームページですが、そのように用いられていることを、感謝しております。
また、この事業への支援として寄付金や暖かい励ましの言葉も頂きました。有り難うございます。
「石川啄木歌文集」を読んでおりましたが、その中に「クリストを人なりといへば、妹の目がかなしくも、われをあはれむ」(悲しき玩具 抄)という一句がありました。 (長村 記)
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
稲田喜水様 太田敏子様 宇佐神正武様 島田祥子様 山本 充様 加藤敦雄様 森谷千文様 宮川眞澄様 石黒功三様 古屋愛実様 西口義昭様 馬場伸直様 馬場暁美様 藤本千春様 匿名2名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
稲田喜水様 宇佐神正武様 山本 充様 加藤敦雄様 石黒功三様 匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
‘10年12月15日現在
今月のことば
いつも感謝していなさい。
(コロサイ3:15)
感謝は、誰もが求めるものです。キリスト者にとってのそれは、何か礼儀正しい生活を送るための一つの指針・規範や立派な道徳のように考える人はおりません。またそれは、美しく細やかな感情のようなものでもありません。それ以上のものです。
感謝と言うものは、極めて平凡で、日常的で、実際的なもので、尚且つ、私たちの行為の原動力です。キリスト者にとって、感謝は、生活の全てでもあります。その源は、私たちの側にはありません。神様が私たちのために与え、備えてくださったものです。キリスト者は、神様が、私のために何をなしてくださったかを知り、信じる者です。もし仮に、感謝できないとするならば、改めて、神様が私のために何をなしてくださったかを、時間を用いて捜し求めなければなりません。その営みを、朝ごとに、夕べに行うことです。
感謝の思いは、人間の都合や尺度でとらえるものになる時、感謝は私利私欲や打算が優先する時、その思いは汚れ、祈りは小さく貧しいものになるのです。
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」(Ⅰヨハネ4:9)。
私たちのクリスマスはとても人間的です。自分を楽しませるものです。しかし、本当は神のクリスマスなのです。神のクリスマスは、いつまでもクリスマスであり続けます。
クリスマス草
小さな鉢に 咲いた紫の花
その名前を 姪たちも 義妹も知らない
イエスさまが お生まれになった日が近いから
クリスマス草と呼ぼう
その花言葉は まことの愛 水野源三「み国をめざして」第4詩集より
小閑記
客間には彼らのいる余地がなかったからである。
(ルカ2:7)
この世では、イエスがおられる場所や部屋は何時も足りないようです。またその状態がよくなる様子も見えないのであります。かえってそれがますます進むかのようです。聖書を通し、あるいは書物を通して、多くの人はイエスが良い方であると知っているのではありますが、余りにも気高く良すぎる存在と思うのです。そのためにイエスは近づき難いお方なのです。
自分の姿、日々は欲望のままに生きることを選び、傲慢な姿では、私はイエスのところに行くのは相応しくないと思うのであります。
その様な自分の姿でイエスのみ前に立つ時、ともすると、自分からイエスの居場所を閉ざしてしまうのであります。しかし、そこから再び、イエスにあって、人生の真の目的は、イエスとの関係を持ち、イエスが開く道を歩む人生へと引き戻されるとしたら、何と幸いなことでしょう。そうです。何とかして、イエスをお迎えする部屋を狭くする全てのものから遠ざかり、困難なことではありましても、キリスト・イエスのための場所を見出すべきであります。
イエスの道は、居場所のない道、罪人を救う十字架の苦難の道でした。同時に、迷える羊に救いを拓く道なのであります。このイエスに出会った者が、主イエス・キリストを救い主と信じ、告白しイエスに接木されたのが、キリスト者であります。しかし、この真理・事実を深く知るのは、「死と生」とに向き合う時です。永遠の命、神の国に約束されている居場所を知る人生は何と幸いなことでしょう。キリストのご降誕を考えるこの月をそのように迎えたいものです。
貫ぬく 光
はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかったのです
ひかりは ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたえました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福(いわわれ)れながら 八木重吉 信仰詩集「貧しき信徒」
上河原立雄
眸
定年退職を機に都心の生活から、緑深い山里の民家に夫婦と越して3年になります。庭に花や家庭菜園で土に親しみたいと二人で楽しみにしていた生活も、それまでの疲れか、二人とも「ゆっくり隠居生活者」になってしまいました。日々の不便さは都心とは比較になりませんが、古い振子の時計は何とも言えない時間の充実を感じます。四季折々の草花や鳥や虫たちに、命の愛おしさと尊さを感じます。お近くの方々とも親しくなり、この地の苦労話や昔話を聞くのが楽しみになりました。黄色く色づいた柿の実が家々の庭や畑にあります。鳥たちがついばみ、人も食べ、眺める生活が当り前の日本の地域には、過疎化、高齢化は都会からの視点で、ここには「無縁社会」なる言葉はありません。最近、家の近くには猪が出てきます。息子家族が孫たちと一緒に月2回程様子を見に来ます。ハイこれ!と言って、月初めに「つのぶえジャーナル」を渡してくれます。息子は写真は拡大して別にくれますのでそれを見るのも楽しみです。
兵庫県 T・Kさん
「つのぶえジャーナル」を読み終えて時計を見ました。午前1時40分でした。「今月のことば」を手帳に写し書きしました。時々、親しい方々やS先生も訪ねてくださいます。信仰者の祈りに支えられながら信じる幸いを感じています。長い間、ゆっくりでしたが聖書を読んできて、よかったなと最近よく思います。わからなくても読んできてよかったと思いました。罪深く、偽善者ですが、感謝して、喜んで、アーメンと神様のご栄光をほめたたえるために。
高知県 I・Kさん
(43)
10月18日
母とのわだかまりは溶けたわけではありません。辛い育ちをしてきた母が、わたしの育ち方が歪んでいるのは当然なわけで、それをズバッと母に言うのはせんない気がして言えなかったのです。本当は気付いて欲しかった。けれど、それによって母が深く傷付いてしまったら・・・それを引き受けるだけの強さが、わたしにはないのです。でも、これから、母とは少しでも近い関係を築いていきたいのです。
10月20日
昨日からの神経痛が、今日はひどくなって朝から寝ています。耐えるしかありません。 こんな日もあるさ・・・。 依存症だ。何が満たされないのか。何を甘ったれているのだ。昨日の過食で具合が悪い。アルコールはAA で、タバコは薬で何とか止まっている。止まっているだけだ。根本的には何も解決になっていない。依存症者の会にも通わなければならないのか? 認めて、信じて、おまかせ出来ないのだ。自分ではどうにもならないのにどうにかしようともがくくせに、神様の御手に委ねることを拒んでいる。 霊的に成長したい。
10月23日
自我を手放すことを、自覚していることが、解決の道だと思っています。自我が無くなるわけではありませんが、きっと自我が少なくなると恵みが増え、天秤ばかりの上下の繰り返しをしでも、自然に恵みが多くなっているのだと思います。信仰書を書いている人や学者さんは、我が強そうですね。それをきっと、個性とか言うのでしょうね。むかし流行った「ノンポリ」だって、「ノンポリ」と言う自我・スタイルですものね。
ところで、「つのぶえジャーナル」の中身が濃いですね。楽しみに待っている人たちの多いのは、よくわかります。
ところで、「つのぶえジャーナル」の中身が濃いですね。楽しみに待っている人たちの多いのは、よくわかります。
11月5日
今年のクリスマスはどのように過ごすのか、はっきりしていません。我が家にはドアの上を見上げると、年中かかっているリースがあります。今年もまたちっちゃい電飾を壁にかけ、人形をテレビの回りいっぱい飾るのだろうなぁ。今はスピーカーの上にハロウィーンのペーパークラフトがのっかっています。全て主人の仕業。わたしはそういう演出は嫌い。最近の教会の門のクリスマスの飾り(力作なんだけど)は、なんか変です。教会なんだから、サンタは関係ないじゃん。まだ降誕劇の人形のほうがまだましでないかえ、って感じです。
11月8日
依存状態に陥っているときの感覚、それは無。それが至福なのだ。自分がなくなってしまうこと、自己否定(宗教・哲学ではなく)の極み。しかし、わたしは現実に生きているわけだから、もう自己否定は許されない。楽しいこともやりきれないことも、いろいろなことを引き受けていかなければならない。イエスは重荷を下ろせと言ってくださる。また、わたしの軛は軽いからそれに繋がれとも。わたしにはまだその声に従えていないけれど、いつかそれが分かる日が来ると思う。わたしは生きていかねばならないのだ。生かされている限り。
加納さおり
T きょうは、元気?
O うん元気 あんたは?
T あかん、死んでる(落ち込んでいる
O だから、最近静かなんやね
T うん
O 人にはいろんな時が必要なんやて、その時に学ぶことも多いし、その時にしかできないこと
も あるし
O 人にはいろんな時が必要なんやて、その時に学ぶことも多いし、その時にしかできないこと
も あるし
T そうかなぁ
O だからこそ、こうして話せるようになったやん
T そうやなぁ、そやなかったら、こもってるもんなぁ
アル中になっているかもねぇ
O だったら、私ら畑依存症やなぁ 畑が、あるから出ることがあり、話すことがあるもんね
T そうやなぁ、よかったなぁ、出るところがあって
O そんじゃあね、はようご飯食べて畑に行かんと、たまねぎ500本植えな あかんねん
O そんじゃあね、はようご飯食べて畑に行かんと、たまねぎ500本植えな あかんねん
T そう、私は今日内視鏡したし、ゆっくりするわ
O 私、歯医者行って来た
T じゃあね
ご近所のお姉さん(農婦)と話すことができました。お姉さんは、お母さんの介護を15年くらいされていたらしく、勤めもし、50歳からいとこの畑を借りて(400坪位)、ブルーベリーやイチジクなどを作られています。猿といのししとの知恵比べをしながら 作っておられるとか・・・。私が、畑を借りて野菜を作るまで、話をすることはなかった人です。畑を始めて関係が広がり、鬱のしんどさをわかりあえる人が、できたことは、私には良かったことです。
世田谷通信
(84)
秋の夕方、いつも通り水槽をのぞいて、息を呑んだ。ウーパールーパーは腹を上にして水面に浮かび、体が風船のように膨らんでいた。「死んでいる。」そう思ったら、わずかに手足を動かした。まだ息がある。仰向けの姿勢でもがいて、クフっと喉が鳴った。
一体どうしてこんなことに?数日前からなんとなく食欲がなかった。この夏が暑かったから?水が汚かった?病気?20cmを超える、堂々たる体格に育っていたのに。いつも小さな丸い目で水槽からこっちを見ていたのに。
2階の水槽を1階の洗面所に運んだ。どうしていいかわからず水を減らす。そうすれば腹這いになるかと。でも横倒しになるだけ。水を足す。浮かんでくる。体を支える。でも手の中でまた仰向く。PCで「ウーパールーパー 病気」と検索する。浮遊病?ウィルス?カビ?体が溶ける病気?治療法は?・・ガスの溜まった体を押すとよいという説もありますが素人には無理・・。塩水浴?塩水を水槽に混ぜてみる。もっと早くにやるべきだったのか?どうしていいかわからない。ときどき手足や頭が動く。
・・もうそっとしておこう・・。どうしようもなくただその場を離れる。
夜になり塾から長男が帰ってきた。「ウーパーが」と水槽を指差すと「なんで?なんで急にこんな?」という。「急にじゃない!ちょっと前、数日前から食欲なかった。」そう。おかしいとわかっていたのに何もしなかった。でも声は誰かを責める口調になっていた。長男は黙って硬い表情で水槽をみていた。なんの世話もしなかった自分に何か言う資格はないというように。
翌朝、動かないウーパーを長男と二人で玄関わきのつゆ草の下に埋めた。「猫やカラスに荒らされないように深く掘ってね」というと長男はうなずいてスコップを動かした。
今、2つの水槽は1つに減り、残された8年目の長寿イモリが元気に泳いでいる。イモリの横の空間が、空虚なことがつらい。生き物を亡くすたび、そこにあった存在の不在に耐えかねる。そしてまた新しい生き物でその場所を埋めようとする。イモリの水槽にタニシをたくさんいれてみた。せめてタニシが水を浄化してくれるかと、おまえは長生きしてくれるかと願いつつ。
=時々の記=
(57)
10月19日
今、無事に、三重大病院から帰ってきました。皆様のお祈りに支えられ、今回も、何とか、異常なしの診断をいただきました。感謝です。
私たちには、たくさんの試練が与えられ、苦しむことが多いのですが、このように、苦しみの中にあって、少しでも、生きながらえさせていただいていることに、喜びを感じます。
神様は、苦しむ者とともにいてくださる。そして、時にかなって、癒してくださることを、感謝しつつ、秋の山の色鮮やかな風景を、帰りは少し、ゆとりを持って眺めることができました。
10月20日
異常なしと診断していただき、きのうは、ほっとしてゆっくり、休むことができました。本当に、感謝しています。ちょうど、丸4年になります。8時間に及ぶ大手術を受け、執刀された先生は、こんなに生きられると言ってくださいませんでした。
でも、先生も、主人が元気で生きていることを、知らされて、驚いていることでしょう。私たちには、考えられない、試練、絶望・・・の連続の人生ですが、全能の神様のなさる業を信じて、日々、過ごすことができることは、幸いです。
神様がいつも、ともにいてくださる。このことを、信じて、一日、いちにちを感謝して、残りの歩みを過ごしたいものです。
10月26日
急に、冬の寒さがやってきました。もう、10月も終わろうとしています。私は丸4日間、寝込んでしまいました。夏の疲れだけではないのでしょうが、弱ったものです。ようやく、今朝から、台所に立つことができるようになりました。
田舎の方たちと一緒に仕事をすると、何時もダウンしてしまいます。田舎の方たちは、鍛えられていらっしゃいますので。
過疎進み老いの笛吹く村祭り
朝まだきコオロギのなお鳴けるなり
日を受けてダイヤと見ゆる芝の露
小康を保ちつつあり秋日和 馬場路哉
10月30日
ようやく元気になりました。冬が近づいてきたのか、朝、夕の寒さが身にしみます。
参道の掃除されたる村祭り
山の北通える路に女郎花
枕辺の読書用なる秋灯 馬場路哉
夜が早く暮れるようになってきました。読書の秋、芸術の秋、夜長をたいせつに、過ごしたいものですが、一日の疲れで、本を読みながら、居眠りばかりしています。これも歳のせいでしょうか。12月号の写真も、楽しみです。
11月2日
主人は、毎月たくさん俳句を載せていただいて、とても機嫌がよろしいです。今朝、産経新聞の編集者の方から、電話がありました。主人の俳句をどこかで、読んだらしく、ぜひ、産経新聞に、常載させてほしいとのこと。もちろんお断りしました。ついでに、ジャーナルを宣伝しておきました。ジャーナルには、毎月、載せてもらっていますからと・・・。
満月の明りに風呂に入りけり
無住寺の裏の谷なるほととぎす
白壁の土蔵や柿の実りおり
野のものに音立つるなり秋時雨 馬場路哉
俳句を作ることによって、老化を防いでいるようですが。最近はお互いに、あれ、それと名前が出てきません。老化が急速に進んでいます。
きょうは、木枯らしが吹きました。寒さがやってきます。
11月6日
今日は、私の60ウン歳の誕生日です。また、くしくも、父の亡くなった日でもあります。
三人の兄弟の中で、私だけが父に名前を付けてもらったのです。兄や、姉は、植村環先生につけて頂き、私は、この11月の夜明けに生まれ、その時、見上げた空に、あまりにも、輝き渡った星が印象に残り、暁のように美しくと暁美と名づけられたそうです。
私は、この暁という字が大好きですので、父には、感謝しています。ちょっと、名前負けしていますが。
父は、皆の誕生日には、一年にいちど本を買ってくれました。早く夜になってしまう、さびしい、季節に生まれましたが、本を買ってもらうのだけは、嬉しくて、父が本屋さんに行こうかと誘ってくれるのを、朝から、楽しみにしていたものでした。厳しい父でありましたが、私には、特別、甘かったように思われます。そして、尊敬できる父でした。
11月9日
今朝も、冷たい、木枯らしが吹き荒れています。今の私にとって、日曜日は、休養日になってしまいました。精神的にも、肉体的にも、気力も負けています。多くの人に会いたくない。そんな中で、唯一続けられていることは、このジャーナルさんの交信です。
空高く地デジアンテナ上げにけり
ゆっくりと歩く夫婦や秋祭り
介護用ズボンを買ひぬ冬用意
早朝の散歩床しき野菊かな 馬場路哉
先日、一年に一度のお便りをゴタート先生(米国南長老教会女性宣教師)にお送りしました。中学生の英語力しかない手紙なのに、2時間余りかかって、やっと、何とか書き上げることができました。長村さんが、マカルピン先生の遺志を受け継いで、今もなお、文書伝道にご奉仕してくださっていることを中心に、お知らせしました。この、ジャーナルも、ゴダート先生のもとまで届いていると嬉しいですね。
河川敷和やかとなる泡立ち草
木枯らしや帽子三度も飛ばされぬ
一列に、路肩に並ぶ、落ち葉かな 馬場路哉
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
9 富と名誉のために夢中になるべきでない
1 願わしい繁栄はすべて神の祝福のあるところにだけ見出され、神の祝福なしには、ただ悲惨と不幸しかないことを信じているなら、自分の勤勉さや知恵に頼り、他の人の好意にすがり、あるいは、幸運を期待して富みや名誉のために、熱心になるべきではない。われわれのために備えて下さった運命に、神が導いて下さることを、常に期待すべきである。
したがって、まず何よりも、禁じられている行為、不正直で罪深い欺き、隣人から奪ったり、隣人を害することによって、急いで富や名誉を得るべきでない。むしろわれわれは、汚れのない道から誘い出されないような事柄だけを追求するよう、自制すべきである。というのは、詐欺や強奪やその他の悪行には、だれも神の祝福を期待できないからである。
2 神の祝福は、思うことが清純で、行いの正しい人にだけ来る。そのようにして神の祝福は、非行や腐敗を避けようと勤める人に及ぶ。また、金持ちになりたいと言う切望や、名声を得ようとする誤った野心を持つべきではない。というのは、一方において、み言葉に反することを要求しながら、同時に神の助けを期待するということは、恥ずべきことだからである。
神が口をもって呪うものを、祝福をもって繁栄させようというようなことは、まことに神にふさわしくないことである。
3 最後に、われわれは、自分の希望どおりに成功しなくても、短気になったり、自分の状態を嫌悪したりしない。というのは、そういうことをすれば、富みと貧しさ、名誉と侮蔑を思いのままに分け与える神に対する反逆になるからである。結局、前述したような方法で、神の祝福を得ている人は、一般に人が欲するものを情熱的に求めず、またなんの利益も期待できないような下劣な方法を用いない。
さらに、まことのキリスト者は、どんな繁栄も自分の知恵や努力や幸運のせいにせず、ただ神がこれらの作者であることを認める。他の人々が前進している時、自分の進歩が小さく、挫折して苦しむことがあっても、この世の人が、普通の成功や期待に反して、成功しない時に持つ感情よりも、ずっと平静に謙虚に自己の貧しさに耐える。
4 まことのキリスト者は、巨大な富や権力にも勝って、安らかな満足を与える慰めを持っている。つまり彼は、自分に起こることは、救いの促進のために、神が支配しておられて起こると信じているからである。
これこそ、神に従い、神の律法に服し、「乳離れしたみどりごのように、わが力の及ばない大いなる事と、くすしきわざとに関係しません」と断言したダビデの心境である。詩篇13:1~2。
サマリヤの女
(ヨハネによる福音書4章5~41節)
主イエス・キリストの住んでおられたパレスチナ地方は、まれにみる雨の少ない土地でした。もちろんその当時のことですから、便利な水道などあろうはずがございません。しかも、井戸そのものもこの地方には非常に少なかったのです。ですから、たいていの村の女性たちは、水がめを頭にのせて、遠いところから、水を運ばねばならなかったのであります。
ヨハネによる福音書4章5節に出て来ます、サマリヤのスカルという町も、やはりそうした水の便の悪い町で、町外れに町の人々のために井戸がありました。それはヤコブの井戸と言って、イスラエルの先祖ヤコブが大昔に、その子ヨセフのために掘りました有名な井戸であります。この井戸は深さが約32mもあるもので、ヨセフも彼らの子孫も、この井戸で生活をしていたのです。
ある日のお昼のこと、イエス様がこのスカルの町においでになりました。旅のお疲れで、イエス様は、この井戸の傍らでお休みになっておりました。たぶん、のどが渇いておられたのでしょう。ちょうどそこへ一人のサマリヤの婦人が、水がめを頭にのせて、井戸水を汲みにやってまいりました。イエス様はその婦人に、水を一杯飲ませてくれるようにと、お求めになりました。
さて、ここで私たちが不思議に思うことがあります。それはなぜ、このサマリヤの女が一人で、しかも熱い真昼間を選んで、水を汲みに井戸へ出て来たのでしょうかということです。当時の習慣によりますと、たいていの婦人たちは朝早くか、夕方の涼しい時を選んで、大勢が連れ立って来て、しばらく井戸端でいろいろな話に花を咲かせるのが、普通のことでした。いわゆる井戸端会議というものです。
彼女らにとって、これは一日の最も楽しい一時でもあったにちがいありません。それにもかかわらず、この女性は真昼間にただ一人、なんだか淋しそうにやって来たのです。このことから、この女性は他の村人に嫌われ、非難されていることが分ります。何故、他の女たちがこの女性に対して非難めいた気持ちを持っているのでしょうか。それには、次のような理由がありました。ヨハネによる福音書4章18節を見ますとよく分ります。「あなたには5人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない」とイエス様は強くこの女性の貞操観念の欠けていることを指摘しておられます。
このことから彼女は正式の結婚もせず、次々と男をかえ、今もまた次の男と一緒に住んでいる様子で、このために村の人たちから冷たい目で見られていたのであります。
今日という時代にも、この女性と同じような堕落した生活に身を沈めている人が、どんなに多いことでしょう。自らの情欲を満たすために、あるいはまた経済のためと言った理由で、社会人が当然守らなければいけない道徳を乱し、さらに神が守ることを強く求めたもう戒めを破って、そのような人たちは害毒を世間に流し、神様のみ心を痛めているのです。そのような人々の罪にキリストは、どういう態度をとられるでしょうか。
キリストはそのような人たちに対し、自分のなしつつある罪を自覚して、目覚めることを求めておられます。その上で、自らの犯した罪が、どんなに大きく深いものであるかを、はっきり知り、心に痛みを感じることを求められるのです。ここに救いへの第一歩があるのです。自分の犯した罪を懺悔し、心から深く悔い改めて、神様のお許しをいただかなければ、永久に罪からの脱出・救いはありませんし、心の渇きを癒していただくことは出来ません。
生けるまことの神様を信ずることについて、このサマリヤの婦人は、他のサマリヤ人と同じような誤った考えを持っておりました。また神様を礼拝することについても、多くの間違ったところがありました。イエス様はその点について、「あなたがたは自分の知らないものを拝んでいる・・・」(22)と、誤りを指摘しておられます。
このお言葉は、今日の日本の方々の信仰状態に、ピッタリ当てはまると存じます。偶像に満ち溢れた国、様々な怪しげな新興宗教もはびこっています日本、大多数の人々がサマリヤ人のように、自分の知らないものを神のように思いこんで拝むか、または何も拝まない無宗教であります。
このような人々に、イエス様は、「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(24)と、はっきり教えておられます。人の魂に満足を与えるのは、人の手で作った像ではありません。また人間の想像で出来た何々教というようなものでもありません。それらは決して、私たちに永久に渇くことのない命の水を与えてはくれません。渇くことのない生ける水を与えるのは唯一の生ける霊の神のみであります。
聖書によって、神がおつかわし下さった、主イエス・キリストを知りますなら、私たちはキリストを信じる信仰に導かれ、キリストがお与え下さる霊的な生ける水を飲むことによりまして、私たちは何時までも、渇かないばかりか、その水は私たちの内に泉となって湧き出て永遠の命に至らされるのであります。
このサマリヤの婦人の良いところは、イエス様によって自分の罪が指摘されました時、直ぐに罪を悔い、キリストの与えようとされています、生ける水を喜んで受けたことであります。私たちも、キリストの与えようとされています生ける命の水をいただき、永遠に渇くことのない人となりたいものであります。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
…キリスト教…
社会福祉活動のあゆみ(41・最終)
明治維新後のカトリックと社会福祉(5)
カトリックの救ハンセン事業(2)
テストヴィド神父は1890年の復活祭後の巡回宣教の後に、衰弱が極限に達し、香港の病院に送られて、療養に専念するようにされましたが、しかし、病院へ到着して間もない8月3日に僅か43年の生涯を閉じて召天しました。以来4人のフランス人院長を経て、ドルワール・ド・レゼー神父、その後を代理院長として継いだのが岩下壮一師です。神山復生病院は、クリストア・ロア宣教修道女会の経営となっていきます。
熊本では、イギリス聖公会の宣教師として来日したハンナ・リデルが、1895年救ライ施設回春病院を設立しています。熊本の本妙寺は、日蓮宗の熱心な信者であった加藤清正の菩提寺で、清正もハンセン病(性病?)であったと言う伝説もあって、特に多くのハンセン患者が集まっていました。寺院を囲んで周囲にハンセン者集落が出来ていましたが、何の治療もなされず、ただ放置されたままという悲惨な状態であったのです。
このような状況を見てパリ外国宣教会のコール神父は、ハンセン病院設立の必要性を痛感します。そこで、救ライ事業に携わる修道会をローマに求め、これに応えたのが「マリヤの宣教者フランシスコ会」であったのです。同会は、「御苦難のマリヤ修道女」によって、1877年、インドのオータムンドに設立された宣教修道女会でありました。創立者が、コール神父と同郷というよしみであったかもしれませんが、このような形でハンセン事業が開始されてまいりましたが、その歩みは、差別と偏見と言う悲しく暗い歩みであったことを、歴史の教訓として忘れてはならないことです。
今回をもって一つの区切りといたします。神様が聖書を通して示してくださった愛の業のあるべき姿と歴史の流れの中で、人々の営みの中でなされたこと、国家、社会に対して教会の中で、特に修道会(院)の役割を見つめなおす機会となりました。同時に、人々の祈りとこころざしに感動いたしました。このシリーズに取り掛かってから多くのカトリック教会の関係者、信徒の方々から助言や史料を頂きましたが、それを十分に生かし切れなかったことを感謝し、またお詫びいたします。
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円