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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  あなたに聖書を
 
 イエス・キリストが語られた話で「『実のならないいちじくの木』のたとえ」というのがあります。それは、葡萄園にいちじくの木を植えておいて、実がなるのを待っていた人が、普通なら植えて2年経てば実るところが、3年経っても実らなかったものですから、その人は、土地の管理を委ねていた人に「これでは土地を遊ばせておくだけで何にもならないから、切り倒してしまえ」と命じました。
 ところが、このいちじくの木の世話をしていた人は、「ご主人様、今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでも駄目なら、切り倒してください」と言ったという話であります。
 
 この話は、わたしたちにも、それぞれ、様々な分野で、様々な人から、期待されているものがあることを語っている話であります。そして、期待されているような成果が挙げられなかったら、配置換えさせられたり、辞めさせられたりすることをも語っている話であります。
 
 ところが、幸いにも「私が責任持って面倒みますから、結論を出すのはもう少し先のことにして下さい」という人がいて、しかも相手に信頼されているとすれば、執り成しが効くというものでありますし、そうすれば、執り成しを受けた人は、「なんとしてもがんばらなくちゃ」と思うに違いありません。
 
s-IMG_0086.jpg ことは、わたしたちの人生そのものにも関わる話であります。1年を振り返って、自分の1年の歩みをどう評価するか、どういう実りがあったと言えるか、これは採点基準を何によって決めるかという問題にもよりますが、当然、実るべきものが実らなかった場合には、自分でも嫌になります。
 この話は、キリストは、そういう時でも、諦めないで、「もういっぺんやってみましょう。わたしがついていますからね」といって下さる方であることを告げています。
 新しい年を、この方がおられることを知って励む年でありたいと願います。
 
篠田 潔
 
(参照聖句・ルカ福音書13:6~9)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 
12月5日  西堀 則男  (日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師)
    12日  西堀 則男  (日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師)
    19日  望月  信  (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
    26日  望月  信  (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
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 「ローマ人への手紙」研究 (73)
 第45課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否s-IMG_0087.jpg
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
       10章1~10節(続き)
 
キリストに対する信仰が本物であるためには、キリストについての真の教理を受け入れることだけでなく、それが「心におけるもの」でなくてはならないのです。感情とか知性におけるものであるだけでなく、「心における信仰」でなければなりません。「心」という言葉は、ここでは、感情・情緒のみでなく、内なる人間全体を指すものです。キリストに対する真の信仰は、いろいろな教理を知的に承認するだけでのことでは決してありません。それ以上のものです。そのような知識だけなら、悪魔でさえも所有しているものです(ヤコブ2:19)。
救いに至る信仰には二つの要素があります。この二つの要素が共になければ、真の信仰であるとは決して言えないのです。第一の要素は、知識、すなわち、真理を知ることであって、これは絶対に必要なものであります。しかし、それだけでは不十分です。第二の要素は信頼、すなわち、救いと永遠の生命とを求めて、自らキリストを信頼し、自らをキリストに委ねることです。信頼は知識がなければ存在し得ないのです。私たちはキリストが信頼するにたる方であると知ることがなければ、キリストを信頼することは出来ません。この心において真にキリストを信じる者は、キリストについての真の知識を持っているのみでなく、救い主としてキリストを本当に信頼している人なのです。

信仰についてのこのような理解は、現代の安っぽく薄弱な信仰主義と比べて、なんと違っていることでしょう。多くの人々は伝道集会において手を挙げ、キリストを救い主として受け入れると書いてある決心カードに署名するのです。しかし、その人々は真の心からのキリストに対する信仰の証拠を全く示さず、世の前にキリストを主と告白することをしないのです。幾千人もの人々が、伝道集会において、キリストを受け入れたから、自分たちの永遠の救いは確かであると考えています。しかし、彼らはキリストを彼らの人生・生活における主として受入れ、承認することを、少しもしていないし、また、そうしようと願ってもいないのです。
彼らはまた、彼らの罪の業や欲望の行動から離れることも、自分に十字架を負うことをも、少しも望んでいないのです。彼らは決心カードでキリストを受け入れたから救われていると主張します。ただ、それだけのことです。
使徒パウロが私たちの前にローマ書10章で述べていることとは、全く違うのです。しかし、それは最も単純なことなのです。それは少しも巨大なことも含んでいませんし、何も不可能な業をも必要としません。それは、宇宙と私たち人生全般におけるキリストの全面的主権性を告白し、私たちが全てを挙げて、親しくキリストに信頼すること、すなわち心からの信頼を求めているに過ぎないのです。これを欠く者は純粋のキリスト者ではないのです。

10節はもう一度、心からの信頼と公の告白の重要性を強調しています。公的告白は信仰の正しい証拠です。恐れや困惑や恥じ、その他の如何なる理由にせよ、キリストを公に告白することを躊躇する者は、密かに信者であるにしても、キリスト信者とは言えないのです。もしその信仰が本物であるならば、彼は必ずその弱気と恐怖を克服して、聖書が命じるように、人の前でキリストを告白するはずなのです。

 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)

 
 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」s-IMG_0089.jpg
 
名古屋で開催される国際会議なんて、私の生活には無関係と思っていましたが、ニュースで、生物多様性とか、環境問題とかなので、友達を誘って展示会場に行ってきました。世界各国のNGOのコーナーがあり、日ごろの無関心を反省しました。日本の若い人たちが生き生き活動しているのを見て、頼もしく思いました。行ったことでたくさんのことを知りましたが、あちこち見て回ったら、足がくたくたになってしまった。 疲れたのは足だけではなく、頭も疲れましたが、これから新聞を読んでも少しは理解出来そうで嬉しい気分です。
                         愛知県 T・Tさん
 
月初めの一週間は「つのぶえジャーナル」をPCで見ています。皆様のお声や様子を想像しながら楽しんでいます。昨晩も主人が使わない時間、秋の夜長をジャーナルで過ごしました。主人は、「今月のことば」に何時も感心することしきりと言っております。横浜に近い郊外に住んでいますので富士山がよく見えます。教会から離れた所になりましたので、二人共どうも名ばかり信者ですが、夫婦で朝晩聖書を読み、子供や孫たちのこと、教会の皆さんのことをお祈りしています。皆さんのお声を楽しみにしております。ジャーナルさん、有難うございます。
                        神奈川県 M・Mさん

私は2週間程前にまた5年前のような締め付けられる痛みに襲われ、一瞬気持ちが恐怖にもっていかれてしまい、息苦しい痛みに辛い時期を過ごしていました。また最初に戻ってしまうと思い、余計に身体の締め付けが激しくなってしまいました。
お医者さまには疲れていた所に突然辛い痛みでパニックになっただろうけど、必ず良くなるからと言われ、この2週間は痛くても大丈夫と念じながら過ごしました。今は激しい痛みからは解放され、夜も少し眠れるように落ち着きを取り戻しつつあります。
無理をせずに焦らずまた進んで行きたいです。取りとめのないメールで、ごめんなさい。
                        愛知県 F・Mさん 
 
仕事を休んで夫婦でビデオ持参で、娘の保育園の運動会に参加しました。見慣れている子供も、皆さんの中にいて成長し楽しんでいる姿に、ジーンときました。未熟児で生まれ、病気ばかりの娘に、夫婦で感謝・感動してしまいました。
                         兵庫県 A・Tさん
 
わたしは、うつ病からひきこもり生活11年目になります。原因を思い出すと怒りや一つ一つの言葉が頭の中を駆け巡ってパニック状態になります。県内、市内にある病院やカウンセラーのところへ何回行ったか忘れるくらいです。話しを聞いてくれる人ととの出会いもなく、ただ与えられるのは薬だけで、今は両親の助けで生きています。希望を持って働いていた頃の写真見るのが正直怖いです。友人から「つのぶえジャーナル」の中に「自閉症者のひとりごと」と言うのがあるから・・・と教えてもらい、2年ほど前から見ています。加納さんの状態もわたしのようですが、違うところは、外に出ていることです。同じことの繰り返し、これから先のことを考えるととても不安ですが、外には出られません。出るのは薬を貰うための通院だけです。死んでしまいたい、消えてしまいたい、そうしたら両親の心労もなくなるのに、それができない。そんなことを考える時、「自閉症者のひとりごと」を読みかえしています。加納さんは、わたしたちの代弁者のようです。
                        愛媛県  39歳の意気地なし
 『ありがとうございます』
今年最後の12月号をお届けいたします。多くの方々に支えられたことは本当に感謝でした。この「つのぶえジャーナル」を通して、沢山の方からメールやお便りを頂きましたことも感謝です。ご覧下さる方へ、また印刷物としてお渡し出来ましたこの事業は、ご寄付くださったお金を用いて運営できました。どうぞ今後とも、この小さな事業を、支え、育てていただきたく願っております。ご寄付を心よりお願い申し上げます。 
       
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
 馬場伸直様 馬場暁美様 藤本千春様 匿名2名様s-PB100032.jpg
 
 
 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
 
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『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
 
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
‘10年11月15日現在
   今月のことばc9518434.jpg
 
(あなたがたは)神を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
(エペソ1:13~14)
 
 キリスト者の生活は、そうでなかった時の生活とでは根本的に変り、新しい生活になります。日々の生活の中に祈り、感謝し、讃美することがごく自然のこととなります。また、ほめたたえ、捧げ物をいたします。説教を聞き、献金をし、聖書研究の集まりに参加したり、時間を作って自分の学びをなし、教会の礼拝では聖餐に与り、食前の祈りをするのです。これら一つ一つは、日々の生活に喜びがなく、平安がなければ行えないでありましょう。
 信仰者の生活が、隣り人の目に無意味で何の喜びもない姿であるなら、言葉で、愛、希望、救い、永遠の命など、何の意味もなさないものになるでしょう。ましてや、一人静にひざまずいて祈ることなど想像すらできません。死せる信仰もまた存在するのです。
しかし、信仰者の生活は変えられます。「神を信じた結果」「主はわたしたちを緑の牧場(まきば)に伏させ、いこいのみぎわにともなわれ、・・・、わたしの魂をいきかえらせ、・・・。わたしたちはとこしえに主の宮に住む」(詩篇23編)者に変えられるのです。
人は、信じることによって、主イエスの命に与り、キリストに生きる者に変えられるのです。信仰生活は、約束を目指して生きることでもあります。しかし私たちはどうでしょうか。新しくキリスト者として生きているだろうか。聖霊の証印を押された者として信じているだろうか。私たちは神の国の相続人なのだろうかと、戸惑う思いに陥るのも事実です。
見せかけの信仰であることを認め、それを打ち砕かれ、「私」を取り去り、神の私に変えていただく歩みを挫折の日々であっても、繰り返し、繰り返し祈り求めたいものです。
 (写真・ツユクサ)
 
 
   小閑記
       
  教会の平和s-IMG_0158.jpg
 
 神はどのようにして、教会に平和を与えて下さるのでしょう。神は私たちが考えるように、平和を乱す人々を相手にされるだけでなく、更に、根本的に、平和を覆すサタンを打ち破られるのであります。神とサタンとの戦いということは、すでに、いく度となく、聖書の中に語られています。
 これは私たちの目には見えない戦いであるかも知れません。或いは、ヨブ記のはじめ(1:6~12)に書いてあるように、天上の戦いであるかも知れません。しかし、どちらにせよ、神が、諸悪のもとであるサタンを滅ぼしてくださることなしに、私たちの罪の問題は解決しません。罪はそれほどに底が深く、強力なものだからであります。
 ここを読んで直ぐに思い出されるのは、創世記に書いてあることであります。はじめの人間を誘惑した蛇が、神に呪われた時に、神は「彼はおまえの頭を砕き」(3:15)と言っておられます。サタンが神に滅ぼされたと言うのも、このことに関係があるかも知れません。そして創世記には、神が直接蛇の頭を砕くと言わないで、女のすえが、蛇の頭を砕く、と言っています。
 同じように、ここでも、神は、信仰者たちの足の下にサタンを踏み砕かせるのである、と書いてあります。神とサタンとの戦いと言うような、私たちの目には見えない世界の出来事の背後で行われていることも、私たちの実際の生活の中に現われてくるものであります。悪に対する勝利は、神によらねば出来ることではありません。しかし、現実に、われわれの中で行われていることでもあるのです。サタンの業は、私たちの毎日の生活の中で、実際に起こって来るのであるとしたら、それを滅ぼす道も、具体的に、私たちの中で行われるものがありましょう。
 これは、信仰者が、神と協力して行うことでもありません。どこまでも、ただ神のみ力による他はないのです。しかし、神が私たちに行わせるのです。そういう意味で、私たちもまた、力の限りサタンと戦うのです。ただ、それをさせて下さるのも、それに勝たせてくださるのも、みな神なのであります。
 速やかに、という言葉がついています。困難な戦いをしている者にとっては、この小さな言葉は、どんなに有難いことか知れません。教会の分裂と言う不幸な経験をした人は、その分裂にいたる中、経過、そして、それが解決して行く苦労の多い道、さらに、その後まで残る影響、それは、自分で経験してみなければ分からないものでしょう。
 その人々にとっては、速やかに、と言うことが、どんなに慰めになることでしょう。すみやかに、はまた完全にということでもありましょう。
       (ローマ16:17~24) 
 
 
   竹森満佐一著「ローマ書講解説教」(新教出版社)
 
                上河原立雄撰 
 
この文章の転載は許可を得ております。
 
s-IMG_0157.jpg(ひとみ)
 
反省を込めてメールいたします。数年前の健診で生活習慣病であることが分り、食事や運動に心がけて来ましたが、入院することになりました。検査の結果、以前注意を受けていた心筋梗塞の疑いもありと言われ、反省しています。以前から妻には指摘されていたことを聞き流していたことが、結果として示され、もう一度、家庭での生活を厳しくチェックすることにしました。すると、食塩の取り過ぎがはっきりしました。元来、塩辛いものが好きな私で、食卓に並べてなければ、妻の目を盗んで自分で持ち出しては焼き魚や漬物や佃煮に手を出していました。
生活習慣病の文字通り、長い生活習慣を変えることは意志の弱い私には、なかなかできるものではありませんので、妻の協力を得て実行することにしました。嗜好を変えることは、愛煙家が禁煙を決心するに似ていて、簡単なものではありません。妻の言葉に反発する性格を見抜いて、妻は友人の栄養士さんの知恵と力を借りて、指導を受けることから始まりました。
最初は、誰もが体験する薄味の食卓は食べる気がしませんし、食欲も出ませんでしたが、毎日のメニューを記録したものを持参して、かかり付けの病院で検査を受けた結果、お医者さんに、よく頑張りましたね、数値が改善されつつあります。奥さんに感謝してください、と言われました。生活習慣病は、妻の協力や専門家の助言を素直に聞きいれれば克服できます。私の生活習慣病は、食生活以上に、身勝手生活病、妻の助言無視病であることがわかりました。こんなメールを送信できるようになりました。妻に感謝。
                  
 秋田県 A・Yさん
   自閉症者のひとりごとs-IMG_0156.jpg
(42)
 
9月18日
痴呆症の進行している母を受け止めるって難しいなぁと感じるのは、わたしがわたしがという気持ちがあるからだと思います。母を頑固にするのは、わたしが頑なだからだと思うのです。
神様、わたしにお与え下さい。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、変えられるものは変えていく勇気を、そして二つのものを見分ける賢さを、というお祈りを、AA のミーティングの最後にチェーンハンドリングでします。この祈りは言葉の深い意味とともに、静かになることを教えてくれます。
 
9月26日
異常に暑かった時のことを思えば、随分楽になりました。昨日から咳が出るので、風邪薬を飲んでおきました。漠然と時間が流れていく、そんな感じがします。昨日、今日と実家に来ています。疲れだかなんだか分からないけれど、礼拝に行く気にならず、横になっています。両親は元気そうです。母は何に関しても、わからんばかりで、考える気力が落ちているようです。
 
10月1日
へビースモーカーではないが、タバコはわたしの楽しみである。今まで何度かタバコを止めようとしたが、意志と根性ではやめられないことがわかり、値上がり前に禁煙外来に通うようになった。これまでも一大決心して挑戦したが2回挫折した。2度あることは3度あるともいうが、3度目の正直ということもある。どちらに転ぶのやら・・・・。
午後からは長い待ち時間の精神科である。ああ面倒くさい。薬で保たれている健康なので、行かなければ仕方がない。買い物をして帰りたいが、開店までにまだ時間がある。いつもの喫茶店で時間をつぶしている。
 
10月4日
今日のAAも神様のご臨在のうちに終えることができました。疲れてぐったりしています。腰が痛みます。タバコは薬物療法を受けているので、身体は欲しがっていないと思いますが、精神的に依存していると感じます。ミーティング会場では飴ばかり舐めていました。医師の「あなたはやめられると思います」の言葉が励みになっていると思います。何事を問わず、何気ない一言が意外な展開をみせるものですね。
実家に行って、母の行動がおかしいとは思っても、それでおたおたはしなくなりました。けれども元気に振る舞うのはなかなかパワーのいることです。
 
10月8日
爽やかな日和ですね。諦めと受け止めるとは違うんですよね。理想の母に何かを望んでも、それは依存だし。理想の母親像を押しつけるのは何もならないことだし、諦めるしか仕方がない。必要なのは母の現実を受け止めることだ。
母への様々な思いを手放さないといけない。神様に委ねる。自分育てを人間に依存しては、いずれ崩れていく。神様のご意志に従って歩むことこそ、満たされ、「生きる」ことができる。・・・これが今日のミーティングとアフターで感じたことです。
明日はわたし達の10回目の結婚記念日だ。特別に何かすることは考えていない。明日は天気もよさそうではないし・・・。ただ一本ユリを買ってきた。願わくばディナーを食べに行きたいなあ・・・。
 
10月9日
わたしのアルコール依存、ニコチン依存、過食、どれにせよ何かを埋めようとする思いからきていると思う。もう埋めるのはやめようと思う。人間的には絶対に埋まらないものだから。アスペという障害から生まれた数々の傷、過去における母との関係、絶対に変わらないこと。アルコール依存症と言われて、はじめて神様に従おうという意識が芽生えた。弱さのうちに完全に現われたのだ。いつか自我が収縮して、愛をもって人のために働けるようになりたい。これは至難の業だが、行動のない信仰は死だと思うから。
(前メールからして)わたしって極端だなあ。おまけに思いと言葉と行いがてんでバラバラ。それが今のわたしかぁ。興奮しています。これを書きながら、クールダウン×2…眠れるといいなあ。
 
10月11日
結婚記念日で、ファッションビルの中にあるフレンチレストランで、ディナーしました。とても美味しくて、ああ何て幸せ。その後、レコード屋(今どき)へ寄って何枚かジャズのレコードを買って帰りました。主人は歩くのが速いので、ついていくのが大変でした。とはいえ、たまには街中のデートも悪くないなと思いました。もっと一緒に出掛ける機会があったらいいのにな。帰ってから早速レコードをかけてみました。アナログ盤もなかなか良いものですね。
 
 加納さおり 
 
『Tさんの叫び』s-IMG_0155.jpg
 
自分の中で、死にたいと思う気持ちと何で死ななあかんねんと言う気持ちが葛藤しています。愛されない者の辛さは、他の人には理解されないんだとつくづく思います。愛で包んでもらったことのない者が、何で神様の愛が判るかと思う。何時も一人で決断し、行動してきた私にとって、愛で包んでもらいたいと望まなかったのかもしれませんが、誰かに支えられていると感じたことがなかった。でも、何時もそばに誰かがいた。でも、今は、いない。
私かて支えられたいし、支えたい。しかし、支える方ばかりでは、倒れてしまう。今は、支える方ばかりで、倒れかかっている。
何で? 何時まで私が? もう嫌だ。全てを放りだしたい。正直に言って、教会に行くのも疲れる。 生きるってどういうこと? 生かされているのかもしれないが、何で生きなあかんのん。使命ってなに?  
主人も、こんな状態になった時に、信仰を捨てたっと言っていた。主人にも支えがなかったからか、自分勝手なことばかりしていた。私には、全てが、理解できなかった。今も主人は理解できないし、支えにならない。安堵感がない。説明しても理解してもらえない。主人に理解してもらえるように表現ができない。
 愛された経験の無い者、アスペの愛の欠落者にどう説明しろというんだ。 今日、私が死んでも誰も困らない。母と兄は、困るかもしれないが、もういい。
このメールだって読まれても消されて、それで終しまい。私の、はけ口程度だろう・・・。聖書にあるでしょう・・・・。私の心に届かなかったら意味がないのだから、もっと判る言葉で説明してよ!
 
 
 
 
世田谷通信s-IMG_0154.jpg
(83
猫 草
 
家の甘夏の木には4月に白い花が咲き、5月に緑の葉を濃くし、夏になってキンカンぐらいの実がいくつかできる。そこにアゲハの幼虫が数匹くっついている。幼虫は最初2mmぐらいの白黒まだら。そのまま大きくなって鳥のフンそっくり、と思っていると、ある日こんどは枝葉とそっくりの4cmぐらいの緑色の幼虫になっている。あの白黒から緑色にどうやって変わるのか?と思っていたら、脱皮の瞬間をみることができた。白黒緑の3色ミックス状態の幼虫がじーっとまっすぐになっている。やおら頭から脱皮を始めた。中から出てきたのはあの緑色のやつで、30秒ぐらいで一気に体の半分ぐらいまで脱皮した。そこからちょっと疲れたのかゆっくりゆっくりお腹を動かし、全体で2分ぐらいかけて終了。脱皮というのはずいぶん体力を消耗するものらしく、すぐには動けないようだ。体もしっとりして柔らかそうで、ここで外敵に狙われたらひとたまりもないだろうなあ。
別の枝を見ると、こちらは次の段階、もうすぐ蛹になるべく枝にくっついて動かない終齢幼虫がいる。ここに至るまでさんざん葉っぱを食べ、フンをまきちらしてきたのだが、蛹一歩手前の状態をみると「がんばれー」と応援したくなる。
幼虫から蛹というのもものすごい変化だ。蛹の中で一度体はドロドロに溶け再構成されチョウになる。仮死状態?いや・・まるっきり作り変えられるわけだが、チョウに幼虫時代の記憶って残っているのだろうか?同じレモンの木に卵を産みにくるのだろうか?どんなアゲハが出てくるのか?ハチに寄生されていないか?ずいぶん楽しみにしていたのだが、蛹になるのは甘夏の木ではないどこか別の場所。チョウになったかどうかは定かではない。
小さな甘夏の木には、様々な生き物たちの世界を垣間見ることができる。アリとアリマキの幸せな共生とそれを邪魔するハナグモの戦いとか、待ちぼうけしつつ睨みつけるカマキリとか、ひなたぼっこでうっとりしたトカゲとか。世界は想像もつかないほどに多様な生物で濃密に構成されている。決して人間だけのものではない。そして秋になり甘夏の木には再びアゲハの幼虫がいる。あの春の幼虫の子どもかどうかは誰にもわからない。
  s-IMG_0153.jpgその愛のゆえに
   =時々の記=
    (56)
 
9月22日
彼岸花が、まっかな色で元気づけてくれています。ちょうど、この時期に咲き始めるので、きっとそのような名前がつけられたのでしょう。こちらは、また暑さがぶりかえしてきました。そんな中、馬場家の総本家のおじいさんが、昨日82歳で亡なくなられました。そこで、急遽、忙しくなってきました。主人は、葬儀委員長をつとめねばならず、私も、ふうふう言いながら食事の手伝いや台所で、一日中立ちっぱなし。この歳になると、立ち続けるのが堪えます。明日も続きます。
山添に来た頃には、4日間、続きました。私は、初めての経験で、貧血を起こして、ぶっ倒れてしまったのを鮮明に覚えています。このような、弱い身体の者がよくも、今まで、この厳しい村で、耐えることができたものだと、今更ながら感謝しています。神様が守ってくださったのですね。
 
10月2日
山峡や光を帯びるイワシ雲
過疎進み老いの集える道作り
わけいればコオロギ飛びぬつぎつぎと
疲れしを徐々に癒せるブドウかな        馬場路哉
 
夏の疲れが、十分にとれますように、お祈りしています。
 
10月8日
今朝は、ぐっと冷え込んで、散歩に出る衣装も冬衣装に替えました。季節の移り替わりがあまりにも早すぎて、ついていけません。この夏の暑さで気力、体力ともに落ち込みました。神様のお守りを祈っている日々です。
寝る前の音楽と聞く虫時雨
上弦の月も明るさ持ちをりぬ
朝顔の末咲きどれも小振りなる
見慣れたる山を明るく月昇る          馬場路哉
 
庭の金木せいが、二、三日前から良い香りを放ってくれています。その木の近くに近づくと、ほんのりと匂います。自然から癒されるひと時です。
今から、冬用の寝具を引っ張り出して、日光欲をさせます。何時、寒くなってもよいようにの準備です。主婦の大変さを感じさせられています。主人は、上野高校の同級生が東京から帰省されるので、久し振りのささやかなクラス会にでかけました。
 
10月12日
この15日は、山添村の収穫秋祭りです。夜、遅くまで笛の音色が響いています。楽譜がないので、吹く人の後ろに回って指先きの動きをまねての練習だそうです。私たちは、およそ、15年振りに笛吹きの方や神輿を担いでくれた方たちに、お昼ご飯の接待をする役目が回ってきて、二日にわたって準備や片付けなどに追われそうです。今から体を休めておかないと、持ちそうにありません。
江戸時代から、伝わってきている祭りですが、だんだん、それを受け継ぐ人が減ってきて、風前の灯火の状態です。教会と比べるのは失礼ですがどこか似ています。若者が、いないのです。
十六夜(いざよい)の御使いの如雲に乗るs-IMG_0136.jpg
有明の丸き月あり犬散歩
霊峰と言われ頂上霧かかる
茶の花のポッと咲きたる日和かな
朝まだきコオロギの声聞きて起く       馬場路哉
 
犬たちの毛が冬の毛に変わりつつあります。これからの寒さに備えて、しっかり分厚い毛が犬たちを寒さから守ってくれるのでしょう。金木せいは、はらはらと花びらを落としています。甘い香りは、消えてしまいました。今は、うす紫の野菊がカレンな花を咲かせています。
19日は、主人はまた三重大学病院での検査です。検査の日が近づくにつれ、また、不安と焦りが入り混じって、精神状態がよくありません。ここまで生かされたことに感謝し、神様に、すべてをお委ねしてと、祈りつつ、過ごしています。
 
馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)
 
 
 
 キリスト者の生活綱要  (15)
        
                                         ジャン・カルヴァン著s-P1040020.jpg
                   ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                                                 吉岡  繁訳
 
  第2章 自己否定
 
 8 神の祝福なしに幸福はない
 
 1 自己否定の中心、すなわち、自己否定と神との関係を、さらに詳細に論じよう。前述した多くの要点を繰り返す必要はない。ただまことの自己否定が、どんなにわれわれを平静にし、辛抱強くするか、ということを指摘するだけで十分である。
 先ず第一に、われわれが、生活の安定と平静とを望むなら、自分自身の持物を神の御心に委ね、同時に、われわれの征服者であり主であるお方に愛を捧げるよう、聖書は注意を促している。
 富や名誉を切望し、権力を要求し、宝を積み、華美で無意味な虚飾を助長すると思われるあらゆるつまらぬものを集めるのが、われわれの猛烈な情熱であり、抑えがたい望みである。その反対に、われわれは貧乏、無名、卑下を恐れて嫌い、なんとかしてそれを避けようと努める。
 自分の欲望に従う人々には、どんなに休みがないか、また彼らがどんなに多くのトリックを試みるか、さらに野心と貪欲の対象となるものを得て、貧乏と無名を避けようとする努力のために、どれほど疲れ果てているか、容易に知ることができる。
 2 神を畏れる人々が、そのような罠に捕らえられないように願うなら、別の道を進まなければならない。すなわち、神の祝福のともなわない繁栄を望んだり、願ったり、さらには思ってみることさえしてはならない。あらゆるものが神の祝福だけによって、価値が決まるということを、われわれは固く信じている。
 自分の勤勉さや努力によって、あるいは他の人の好意によって、簡単に富みや名誉が得られように見えるが、これらのもの自体には、なんの価値もなく、また、われわれの見解や努力では何の前進もできず、神が栄えさせてくださる場合だけ、前進することができるのである。
 3 他方、どんな不幸に見舞われようとも、神の祝福は、われわれを幸福にし繁栄させることができる。不信仰な人々が高い栄誉と巨万の富を得ているのを、われわれは日ごろ経験しているように、神の祝福なしに、われわれがある程度の富と名声を得ることは可能であるが、神の呪いの下にある人々が、一片の幸福も決してもたないことを、われわれは見るであろう。
 したがって、神の祝福なしには、われわれはなにも得ることができない。そして、なにか得たとしても、それはわれわれにとって災いとなるのである。だから、自己をますます惨めにするようなものを願う愚かな者にならないようにしよう。
『旧・新約婦人物語』(15)s-IMG_0151.jpg
 
モーセの姉ミリアム
 (出エジプト記2章、15章)
 
 今まで、私たちが学んできました旧約の婦人たちの中では、まだ人の指導者となり得る才能を備えた婦人は一人も見当たりません。しかしこれから皆さんに考えていただくモーセの姉ミリアムは、神に選ばれた能力のある預言者であったことに私たちの注目をひきます。
 ミカ書6章4節を見ますと、「モーセ、アロンおよびミリアムをつかわしてあなたに先だたせた」とあります。この言葉こそ、ミリアムが神に選ばれた指導者であった証拠です。このミリアムには指導者としての二つの特質があったようです。
 その1つは、出エジプト記15章20節に、「そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながらそのあとに従って出てきた。そこでミリアムは彼らに和して歌った。『主にむかって歌え・・・』」とあるのを見ても、彼女は預言者であったと同時に、歌が上手で、現代でいう聖歌隊の指揮者とも言えるほどであったと思われます。ともかく、彼女が多くのヘブル人の内、婦人として一 番初めの指導者として神に選ばれた光栄は特筆すべきでしょう。
 
 貧しい奴隷生活をしていたアブラハムとヨケベデとの間に、このように偉大な指導者が3人もそろって出たことは、実に驚くべきことで、計り知れない神様の摂理です。しかし、振り返ってこの3人がどうして指導者として神様に選ばれるに至ったかを考えてみますと、これは、もちろん神のみ旨ですが、そこに強い信仰による家庭教育が、大きな力を及ぼしていることは否めません。先に言いまたしたように、この親たちは実に立派な信仰の持ち主でして、この親にしてこの子あり、という感を深くいたします。
 全て子供を育てる家庭はいかに家が貧しくても、まことの神を信じる信仰の上に立つ家庭であれば十分なのです。信仰のある両親のもとで育てられた子供たちは、成人しても小さい時に教わった聖書の教えを、決して忘れることはできないでしょう。
 有名なアメリカの大統領リンカーンは、非常に貧しい田舎の家に生まれましたが、その家庭教育であのように強い信仰と正義の人をつくり、奴隷解放問題を解決して、アメリカの一番有名な大統領となりました。 
 ミリアムのお話しは、どこから始まっているかと言いますと小波が押し寄せるナイル河畔、波にもて遊ばれる葦の小舟に隠された赤ちゃんのモーセを見張っていたことから始まります。その時のミリアムの機知は、モーセを拾いあげたパロ王の娘に乳母を世話すると言って、母を連れてくるあたりによく現われています。これは勇気を必要とする行動です。イスラエルの大指導者モーセは、この姉の機知によって救われたと言っても過言ではありません。ミリアムの手によって救われたモーセは少年時代、両親のあつい信仰生活のうちにはぐくまれ、両親や姉ミリアムなどから、宗教教育がなされていたことでしょう。
 
次に、ミリアムが聖書に出てくるのは、イスラエルの民が紅海を徒渉した劇的シィーンです。弟のモーセが神の召しを受けミデアンからエジプトに帰り、イスラエル人を奴隷生活から解放し紅海の海岸に到着した時、彼らは、パロの軍勢の追撃を受け、前は海、後ろは敵と進退きわまった際、神はモーセに不思議な力を与えて、紅海の水を退かせ、イスラエルの人たちは無事に海の中を徒渉しました。しかし、後から追いかけて海に入ったパロの軍勢は、水に覆われて全滅しました。
 この時、神の全能の力に感激したミリアムは、婦人たちを集めて神を讃美させ、祈祷会を指導しています。ここにミリアムの第2の特質が現われています。このあたりが彼女の長い人生のクライマックスなのでしょう。彼女が、このような指導者としての態度を、その後も持ち続けていたならば、幸いであったでしょうに、残念なことにその頃から、彼女の心に驕りと妬みが宿るようになり、ついにそれがシナイの荒野にかかった時、モーセに対する妬みとなって出てきました。
 民数記12章を見ますと、モーセがクシの女を妻としたことについて、ミリアムとアロンはモーセを非難したことがありますが、これはミリアムが、モーセの結婚にことよせてモーセの預言者としての特別な地位に嫉妬心をもって非難しているのです。神の召命によって働くモーセを非難することは、神を非難することです。このことによりミリアムは神の怒りに触れて、ライ病にかかりましたが、モーセの執り成しにより一週間ほどで彼女の病は癒されカナンへの旅を続けることができました。
 これらの話によって、私たちは多くの教訓を与えられます。
1、姉は弟や妹を神へ導く責任があること。
日曜日毎に自分だけでなく、弟や妹も教会へ連れて出席すべきです。日本においても教会学校や日曜学校の生徒は、初めに姉や兄に連れられてきたものが多いと思います。
2、驕り妬みは身を滅ぼすこと。
如何に偉大な指導者であっても、心に驕りと妬みの思いがあっては、自分に与えられた力もむなしくなり、かえって甲斐なきものとなるでしょう。ミリアムの場合、モーセに対する妬みによる不満があってから、彼女は預言者としての力もなくなり、せっかくの彼女の尊い特徴もみな消滅してしまいました。実に心すべきは驕りと妬みです。
3、私たちは、神様のご計画に従って進まないと、必ず罰せられるということ。
            人生の本当の幸福は、自分に与えられた特質を知り、これを有効に神様の栄光のために働かすことで
    です。自分を忘れて、それぞれ十字架を負うて、キリストに従うことです。
4、婦人といえども、神様に選ばれる時大きな仕事ができること。
とかく、日本の婦人方は、せっかく自分に与えられている特徴や能力を軽視して、これを使わないことが謙譲の美徳であると考え違いをしておられるのではいでしょうか。これは、神が与えられた能力を無視することで大きな罪です。ここに日本伝道のふるわない根本原因があるようです。私たちは与えられた賜物をよくわきまえ、これを力の限り発揮してこそ善かつ忠なる僕なのです。 
 
 
                         ポーリン・マカルピン著
                                (つのぶえ社出版)
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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