2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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…キリスト教…
明治維新後のカトリックと社会福祉(4)
カトリックの救ハンセン事業
禁教令は撤廃されても、日本国内での外国人の行動は必ずしも自由ではありませんでしたが、パリ外国宣教会の宣教師は、文字通り草鞋履きで日本各地を巡回していました。この宣教旅行の途上で、多くのハンセン患者がいることを、そして、人々から全くうち捨てられ悲惨な状態にあることを知り、心を傷めています。ハンセン患者の悲惨を見て、何とか救済の方法がないかと訴える宣教師の手紙が残っています。
資金の目処が立たずに手を出しかねていた中にあって、テストヴィド神父が、ハンセン患者の救済に着手しました(岩下壮一著「救ライ50年苦闘史」)。
テストヴィド神父は藤枝教会を拠点にして巡回宣教をしていましたが、たまたま御殿場付近で、ハンセン病の女性が夫に捨てられ、世間に嫌われて水車小屋の片隅のわら屑の中にうずくまっているのを見ました。このような哀れなハンセン患者の救済に対しても深い使徒的な使命を感じて、1886年(明治9)に御殿場の北に一軒の家を借りて、ハンセン患者の病室にすると共に、一角を聖堂として、それを聖フィロメーヌに献げたとあります。ハンセン治療にために、救ライの使徒と呼ばれていたモロカイ島のダミアン神父に手紙を送り、治療薬の入手も依頼していました。
1889年(明治22)6月29日に現在の神山復生病院の前身となる病院を神山平石の地に建て、20名の患者を収容しています。わが国の公立ライ病院に先駆すること20年であります。
(写真 タマゴタケ)
**********************
詩をつくり詩を発表する
詩をつくり詩を発表する
私はこれから詩のことは忘れたがいい
結局そこへ考えがゆくようでは駄目だ
イエスを信じ
ひとりでに
イエスの信仰をとおして出たことばを人に伝えたらいい
それが詩であろう
詩でなかったら人にみせない迄だ 信仰詩集「貧しき信徒」 八木重吉
(写真 高さ15mm.位の小さなキノコ)
(写真 高さ15mm.位の小さなキノコ)
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わたくしは、青年時代に「人類愛」という言葉を聞いたことがあります。わたくしは、それは美しい良い言葉に聞こえました。が、考えてみると、それは言葉の響きが良いだけで、実際に人類なんて抽象的な相手に会うわけではありませんから、人類愛を説いたって何にもならないと思うに至りました。
「人類愛」よりももっとよく聞いたのは「隣人愛」という言葉です。「人類」に比べると「隣人」の方が具体的で、身近に感じられて、「隣人愛」を説かれて、「それはそうだなあ」と思ったことでした。しかし、考えてみると、「隣人」という言葉も、「では誰が隣人なのか」と言うことになると、ある特定の人に予め決めておくわけにはいきませんから、これもやはり抽象的な表現であって、「隣人愛」という言葉も、言葉としてあるだけのことで、実際には何の力にもなっていないのではないかと思っているのですが、如何でしょうか。
この点について、キリストは、「隣人になりなさい」と言われています。ということは「隣人」とは、どこかに誰かとして存在しているというような性格のものではなく、「自分が隣人になる」ものであるということ、したがって、自分が隣人にならなければ、隣人になるものは存在しない、というわけです。これなら分かる話ですね。つまり、隣人になって欲しいと求めている人がいれば、その人の隣人になりなさい、ということです。
ただし、そうと分かっていても、ではそう言う隣人になれるかという問題があります。その問題は、自分の中に「愛」があるかどうか、という問題です。つまり、愛があれば隣人になりますが、愛がなければ隣人になるということは起こりません。そして、その愛は、自分が愛された体験を持っていなければ、どうすることが愛することなのかということも分らないのです。
聖書から得るものは、この愛を学び知ることであると思っております。
篠田 潔
(参照聖句・ルカ福音書10:25~28)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
(放送開始1952年10月)
11月 7日 小野 経男 (岐阜済美学院学院長)
14日 笠井 恵二 (岐阜済美学院宗教総主事)
21日 志村 真 (中部学院大学短期大学部宗教主事)
28日 西島麻里子 (済美高等学校宗教主事)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
CBC放送をキー局にして、多い時は国内6局、海外2局で「キリストへの時間」を放送しておりました。南米ブラジルに移住された方からのお便りもありました。放送を聞いて下さる度毎に、感想や今までの苦難の生活などを感慨深く知らせてくださいました。残念なことですが、郵便事情か治安・盗難かでしょうが、ご希望の本や聖書などはほとんど届きませんでした。今はインターネット時代ですからトラブルや問題はあまり起こりませんが、数十年前はそれが当り前でしたから、唯一の手段は手紙でした。政治に翻弄されたこともありました。キリスト教放送を行っている放送局の内容が反政府的と見做されると放送が禁止されたり、制限されたり政府のPR放送に利用されることもありました。今日のインターネット事情も本質的には変らないと言いえます。「言論・表現の自由」の権利の大切さを痛感します。
(O・H)
第45課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節(続き)
告白の他に、信仰が要求されています。すなわち、「自分の心で、神が死人の中よりイエスをよみがえらせたと信じる」ことが求められています。私たちは単にキリストを一人の人格として信じ、また、私たちの罪のために苦しみを受けられたと信じるのみでなく、特に、神が彼を死人の中からよみがえらせたという信仰を持たなければならないのです。キリストが肉体をもってよみがえられたことを信じる信仰は、実は他のすべてを含んでいる信仰にほかなりません。
それは、キリストは御自身がそうであると主張されたすべてであったし、また今もそうであること、また、聖書の中に提示されている正にその通りであることを信じる内容の信仰なのです。死人の中からよみがえらせることによって、父なる神は、キリストのなさったすべての贖いの業を確認し、承認されたのです。キリストのよみがえりを信じない者は、実は彼が救い主であることを信じない者に他ならないのです。
現代における宗教指導者たちの中に、人格に対する信仰と教理に対する信仰とを、相互に対立するものとして強調する人がいます。彼らは、人格に対する信仰(すなわち、キリストの贖い、よみがえりを信じること)よりもはるかに優れたことであり、より重要なことであると主張します。
このような歪んだ主張は表面上敬虔そうな響きを持っています。そして多くの人々が、まことしやかなこの表現に惑わされています。このように区別することは、要するに、贖いやキリストのよみがえりを否定することの巧妙な偽装に他なりません。「人格としてもキリストに対する信頼は、キリストについての教理を信頼することよりもはるかに重要である」という人たちは、実は、「教理は真理ではないので、受け入れることは出来ない。しかし、私たちはキリスト者であると呼ばれたい」と言っているのと同じです。このような形の否定は、現代の不信仰の詭弁的な陰険さに他なりません。
実際において、キリストについての教理を信じることなしに、人格としてのキリストを信じることは全く不可能なことです。イエス・キリストと私たちとは20世紀以上も離れています。私たちはキリストの時代に生きた人たちと同じような仕方で、キリストと直接の接触を持つことは出来ません。ガリラヤやユダヤの路上で、キリストと顔を会わせて接することなど望むべくもないことです。そのようなことは不可能です。
それでは、どのようにして、私たちはキリストに接することが出来るのでしょうか。ただ聖書の中で、私たちに提供されているキリストに関する真理によってのみ、それは可能となるのです。キリストについての真理こそ、私たちがキリストに接触することができる唯一の方法なのです。
「神はキリストを死人の中からよみがえらせた」という言葉を含めて、幾つかの決定的な叙述(真理、あるいは教理)を信じることなしには、キリストを信じることは出来ないのです。キリスト教は曖昧模糊とした神秘主義のようなものではなく、キリストについての聖書の教理を信頼することによって、歴史のキリストに接することになるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
秋の風景になりました。広々とした田圃にはトンボの夫婦が水の残ったところに卵を産みつけています。ススキや彼岸花がたくさん咲いています。短い秋が急ぎ足で過ぎて行きます。遠くに見える鉄橋を電車が行き来しています。立ち並ぶ高層ビル群は遠く遠くに見えます。晴れた陽には冬支度です。今年のカレンダーも10月を含めて3枚になりました。まだ早いのですが今年を振り返っています。夏の疲れが出ませんように!
千葉県 S・Tさん
「つのぶえジャーナル」の写真をPC上で楽しく拝見しています。10月号の写真は数年前に定年退職記念に家内と北海道一周旅行した道北の風景写真が多く、少し埃を被ったアルバムを出して来て、ひと時旅の話しが出来ました。提供してくれた方にお礼を言いたくてメールしました。・・・。
神奈川県 M・Mさん
20年程前までは賑やかな商店街も今は高齢化と後継者がいないため、馴染みのお店も一つまた一つと消えて行きました。ただ一軒になった八百屋さんの店先には小さな竹篭に入ったみかんが並んでいました。ひと篭買って果物皿にもったら、色とりどりのお花のように秋がわが家に来たようで明るくなりました。栽培されている方に感謝しながら、主人と頂きました。ここにも秋がありました。
東京都 K・Bさん
わたしの住んでいる辺りは、COP10(註・国連地球生き物会議・生物多様性条約第10回締約国会議)の会場が近いこともあり、警備が厳しくなっています。テロの警戒なのでしょうから仕方がありませんが、何処の国でも国際会議とテロの警備が当たり前になってしまったのはとても悲しいですね。生物多様性の会議など日常生活に余り係わりがないように思っていましたが、身近な食品や化粧品、新薬や飲み物までもが深い関わりのあることを多くの報道で知りました。大切なことは、その関心度、意識を大切に育てていくことなのだと思いました。名古屋に住んでてよかったです。
愛知県 O・Kさん
広島県 B・Rさん
『ありがとうございます』
暑い暑いと言っていた時から、何時しか日の入りが17時30分に近くなりました。涼しさから寒さに変りました。この変化に体調を損ねるからも多くなりました。皆様のご自愛をお祈りい申し上げます。今月号の主な写真は、森の動植物を研究し、その生態系に深い観察をもって、学生たちに教えている信友からのものです。山を愛し日本の自然にあたたかい眼差しで名山を紹介した深田久弥(きゅうや)の「日本百名山」の一つとされていいる、奈良県吉野郡、三重県多気郡の大台ケ原の写真を掲載したしました。
匿名2名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
‘10年10月15日現在
すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。
(ヨハネ1・9)
都会の夜には、光が氾濫しています。夜空を見上げても明るさに遮られて、星の輝きを見ることは出来なくなりました。暗闇の中は不安です。人は光を求めます。心の闇は、何に例えることが出来るでしょう。日々の生活に光が射し込むか否か、時代と世界に、まことの光が来たとは、なんと言う驚きでしょう。
しかし、私たちの周りには、心を惑わし、滅びと絶望に招き入れる「まことの光」でない様々な光と呼ばれるものがあるのです。光のように見えるけれども、それは「偽りの光」なのです。それを識別することは不可能なことです。自分の目や勘や知識や経験は役に立たないのです。
この世に来られた光は、様々の偽の光をそのあるがままの姿で、偽りの光として、識別させる光なのです。この「まことの光」はすべての人を照らす光ですが、それに対して、私たちは、自分を開くことも出来ますし、閉ざすことも出来ます。それに対して心を向けることも出来ますし、背を向けることも出来ます。もし私たちが、夜と霧の中で惨めな姿で滅びることを願わないなら、まったく違った仕方で、この「まことの光」のもとに行かなければなりません。
すべての人を照らす光とは、神のみ言葉です。今必要とする光は個人的に必要なこと、社会に必要なこと、また、教会(人)に必要なことは、ただ一つ、私たちにまだ可能な間に聖書を読むこと、神のみ言葉を聞くことです。ただ一つの明るい光を求めて!!
いま生きる私への
遠い遠い昔に
生きる望みをなくした人に
キリストが語られた御言葉を
いま生きる私への
サマリヤの井戸ばたで
命の水を求めた人に
キリストが語られた御言葉を
いま生きる私への
御言葉として聞かせてください
ガリラヤ湖の岸辺で
真の道を探す人に
キリストが語られた御言葉を
いま生きる私への
御言葉として聞かせてください 水野源三著・第4詩集「み国をめざして」
いちい(おんこ)の実i
小閑記
「パウロとエルサレム」(Ⅱ)
(ローマ書15:30~33)
(前号の続き)エルサレム教会も、必ずしもパウロに対して好意的であるとは言えないようです。不信の徒というのが、ユダヤ教のようにキリスト教から見て、不信者ということを意味するのか、それとも、エルサレム教会の主な人々のように、福音を信じているがユダヤ教以来の律法を守るとか、割礼を重んじるとか言うことが、やはり必要だと思っている人たちのことを言うのか、はっきりしません。おそらく両方ではないかと思います。そうすると、教会の人たちも、パウロをよく理解していたと思えないのです。
パウロは、「エルサレム教会に対するわたしの奉仕が聖徒たちに受けいれられるように」祈って欲しいと言っていますが、これは大変なことであります。奉仕の内容は書いてありませんが、おそらく、マケドニヤ、アカヤなどの諸教会からの贈物の事も入っているでありましょう。ペテロでさえ異邦人とは食事を共にしなかったことがあるのです(ガラテヤ2:12)。そうすると、異邦人教会からの贈物に対して、偏見を持つ者もあったかもしれません。そもそも、パウロが異邦人に伝道することすら、快くは思っていなかったでありましょう。
しかし、そこに示された異常な熱心と言うのは、ただ事ではないのです。それは、パウロが、今、エルサレム教会との問題で、このことを痛感していたからでありましょう。また、エルサレム教会のような立場をも生かすために心を砕いていたからでありましょう。
あるいは、そういう心づかいが、かえって、弱い立場の人々を苛立たせたのかもしれません。いずれにせよ、それは、非常に厳しい事実として、パウロに迫っていたことは、よく理解すべきではないかと思います。
竹森満佐一著「ローマ書講解説教」(新教出版社)
上河原立雄撰
この文章の転載は許可を得ております。
昨日も今日も
生まれた時から
耳が不自由だが
銀行に勤めている
京都の娘さん
家族の声も
友だちの声も
小鳥の声も
何も聞こえないが
明るい笑顔
昨日も今日も
心の耳に
イエスさまが
愛をもって
語りかけておられる 水野源三第四詩集「み国をめざして」
北方民族博物館の花壇
眸
私の楽しみは、町の図書館に行くことです。インターネット検索でいろいろの情報を手に入れることは出来ますが、それは情報であって私の心を満たしてはくれません。ここ一年ほど前から「にほんのこころ」に興味を持ち、改めてそれに類する本を読んでいます。しかし、その数の多さに驚きも禁じ得ません。私は、コーヒー党なのですが、一冊の本に出会い、ある言葉に心打たれました。それは、次の言葉です。
利休七則
茶は服のよきように
炭は湯の沸くように
花は野にあるように
刻限は早めに
降らずとも雨の用意
相客に心せよ
自分の生活をかえりみる時、心のゆるやかな思い、自然の赴くままにではなく、如何に漫然と時を過ごしていたかに気付かされました。千利休や茶道の奥深さに、日本の精神(こころ)を見る思いでした。自然体のままで季節感を大切にした感性、「もてなし」「しつらえ」という言葉に、ふと自分自身、たちどまることが出来ました。・・・・。
岩手県 W・Tさん
下露の小はぎがもとや蓼の花(蕪村)
(ウトロの夕日)
(ウトロの夕日)
(41)
8月17日
毎日本当に暑いですね。何もしたくない。出来ない。時々、「自閉症者のひとりごと」をPCで読んでいると、自分のことなのに、似ている人もいるんだと変な安心感と親近感を覚える。だから、読むのが楽しい。昨日、実家から帰ってきてくたくたで、寝ています。
母と話をするのは、大変です。いろいろ聞いて想像しないと駄目だし。ワガママだし。母の話を聞いていると、述語がポンと出てきたり、あれだのこれだのそれだので、こちらが聞き返さないとわからないのです。前よりまた少し進んでいるようです。受け止めるって本当に難しいなぁ。父も毎日のことで、だんだんとワガママになっていく母に疲れているようです。兎に角しんどいよう・・・・です。
母と話をするのは、大変です。いろいろ聞いて想像しないと駄目だし。ワガママだし。母の話を聞いていると、述語がポンと出てきたり、あれだのこれだのそれだので、こちらが聞き返さないとわからないのです。前よりまた少し進んでいるようです。受け止めるって本当に難しいなぁ。父も毎日のことで、だんだんとワガママになっていく母に疲れているようです。兎に角しんどいよう・・・・です。
8月19日
今日のミーティングはわたしの3年目のバースデー・ミーティングだった。むろん誕生日を祝うものではない。飲まなくなってから満3年という意味だ。1年を節目に行う。ケーキを持っていき、仲間のおかげであるという意味で、仲間とケーキを分かち合う。それで当人も話をして、仲間の話を聴く。ノンアルコホーリクなら、だから何だということになるが、アルコホーリクが飲まないことは奇跡なのだ。だからみんなで祝う。
3年という年は危険な年とも言われる。気を付けてねという警告でもある。
わたしは相変わらずひねくれ根性だし、謙遜さが全く身に付いていないし、何しにミーティングに出ていたのかと思うが、飲まないで生活が送れるのは何らかの効果があるのであろう。神様に感謝している。
3年という年は危険な年とも言われる。気を付けてねという警告でもある。
わたしは相変わらずひねくれ根性だし、謙遜さが全く身に付いていないし、何しにミーティングに出ていたのかと思うが、飲まないで生活が送れるのは何らかの効果があるのであろう。神様に感謝している。
8月22日
インクルージョン、日本語ではなかなかピタッとくる概念がないので、非排他的とでもいっておこうか。特別支援学校にしようか、普通校にしようか迷っておられる親御さんも多かろうと思う。個人的には障害特性に配慮した教育が行われることを切に望む。わたしの場合、障害特性などお構い無しだったので、一番充実すべき若い頃、大事な人生をパーにしてしまった。子どもの発達の可能性は無限である。子どもは集団のなかで育つ。だからこそひとりひとりのオーダーメイドの教育が欲しい。社会にインクルージョンの発想が欲しい。たまには真面目なことも考えるんだよ。
体調が万全でないなか、主人に誘われるままに、駒ヶ根まで行きました。千畳敷カールは別天地。空気がよく、涼し~い。主人はひとりで山まで登って行きました。とても充実した山歩きだったようです。わたしはわたしでぼんやり景色を眺めていましたが、不思議と飽きることはなかったです。さすがに身体にはこたえます。明日からが思いやられます。ここは自然治癒力に任せるしかないのかしら。あ゛~づ~い゛~。クーラーを入れても30℃を超える。わたしの風邪は治るのだろうか、しんどくて心配になってくる。わたしの場合、行楽に出かけても気分転換より疲労の蓄積のほうが大きい。
8月27日
‘願い’が発達につながると、全障研の学習会で学びました。わたしの願いとは何か。素直になること、勉強すること、自然に話すこと。とくにアスペは自分の言葉で語るのが苦手な特性を持っています。アスペという特性を持った宇宙人は、どのように発達するのでしょう。
8月30日
アルコホリズムは治らない。ただ回復はする。神様によってわたしの意志と生き方の方向を変えていただくことで、愛と奉仕に生きることによって、一日執行猶予されているのである。すっかり本の一文のような口調になってしまったが、アルコホリズムについて話をするときは、ついこうなってしまう。染み付いている。逃げるわけではなく、単純にアルコールが飲みたい時がある。そんな時、わたしはアルコホーリクなのだから、一度飲み始めると底無しに飲み続けてしまう。だから返り着くのはこれなのである。教会の礼拝に出席し、実家にも寄ってきました。相変わらず母の話はあまりわかりませんが、それでも顔が見れただけで、義務を果たした気がしました。どういうわけか母には反発とそれを何とかしなければという思いが両方あります。
9月8日
台風もこちらの地方からは離れていったようですね。今日は体に埋め込んだ機械の点検日でした。こんな天気だから患者は少ないだろうと踏んでいったのが大間違いでした。痛みを抱えている人は実に多いのです。変に同情してしまいました。機械の電気刺激だけではどうにもならない人が多いのです。
9月9日
AAの新しいメンバーが大鬱になっています。主治医には入院を勧められているようですが、本人はそれを拒んでいます。AA に馴染んできたので、ミーティングに出たいという気持ちがあるのでしょう。わたしは自殺防止の意味で、主治医のいうことがわかります。少なくとも3食付いて日課があるので。わたしも鬱の辛さが分かる。去年はわたしもそうでした。久しぶりにBさんのために祈りました。お任せするのが一番だと思います。
加納さおり
(うとろ港・タンチョウ)
(うとろ港・タンチョウ)
(82)
猫 草
中学校の広報委員になり、教職員紹介の広報誌を作った。どこの学校でもとりあえずこれを作成するのは「お約束」である。先生方の写真、名前、担任、教科の他に、ちょっとした原稿をいただく。これをページに割りつけて、印刷屋さんに回して、できあがり。こう書くと簡単だが、なかなか仕事はスムーズには進まない。まず広報委員がクラスでなかなか決まらず、嫌々仕方なく手を挙げた人の集まり。そして初対面で素人の集団。1年生のママだと校長先生と担任の顔ぐらいしか覚えていない。それが教職員全員の写真を撮影し、コメントを回収し、という作業はなかなか骨が折れる。しかもできるだけ迅速に発行したい気持ちがある。先生方の顔と名前は誰だって早く一致させたいではないか。
先生方の思い出をお聞きし、間違いがないか何度も確認して、ようやく広報誌ができあがった。早速クラスと教職員に配布し、やったー!と達成感に浸る間もなく、ある事件が起きた。誰かが先生方の顔写真を切り抜いて、廊下のポスターにコラージュしたのだ。体は制服、顔は先生、というわけである。配布した当日のことなので、その子は家に持ち帰って読むことも、親に見せることもせず、いきなり切り刻んだことになる。
ちょっとした面白半分の行為なのだろう、でも冷水を浴びたような不快感を覚えた。PTAは完全にボランティアで、広報誌も義務ではない。好意を差し出され、それを感謝して受け取るどころか、即座に破り捨て、悪用する無神経さにぞっとした。次号の検討を始めている。行事・部活紹介号なので生徒の写真を多数掲載予定だ。今回のようなことが繰り返される心配があるなら、内容を考え直す必要がある。
何気なく蹴った石にたいした意味はないかもしれない。何故蹴ったかと問われても言葉はないかもしれない。しかしそれが人にあたって傷つけることもある。誰かが蹴った石が自分にあたったら理不尽な怒りを感じないだろうか?自分の行動に責任を・・と身長だけはすらりと伸びた、中身は気ままで生意気なイマドキの中学生に言っても通じないのだろうか・・。どうしたら伝わるのか。
その愛のゆえに
=時々の記=
(55)
8月20日
8月もあと、十日となりますのに、一向に暑さが和らぎません。朝の散歩で、ひと汗かき、家の内外の掃除で、ひと汗かき、一日に何度も着かえなければならないほど暑いです。大阪の精神科で、カウンセリングを受けている人がおられます。その先生が、心病める方のために、ご自分の命を削ってまでも、患者さんの立場になって、優しく、的確なアドバイスをしてくださるので、朝6時半には、診察券が3枚も入っているそうです。先生を待っている患者さんの列で待合室の椅子はいっぱい。先生の笑顔に触れ、元気を頂き、診察室を出る患者さんは、みな、ニコッと微笑んで出てくるそうです。宗教家ではありませんが、若いころ、先生のお父様がアル中で家の中は、いつも酒の瓶がとんできたとのこと。医学部を目指して、勉強したところは、トイレの中だったと。だから苦しんでいる方に寄り添ってくださるのです。ちなみに、先生は女性で、子供さんが4人もおられるそうです。今、患者さんのために、すべてを犠牲にして、仕事に打ちこんでおられます。マザーテレサのようだと、ある患者さんは、言っておられ、イエス様の衣に触って、病をいやしていただきたいと群衆が近寄っていたように、皆、わらをもつかむ思いで、暑い中、じっと、自分の診察時間までおられるとのこと。
このように、多くの心病める方が、また、イエス様と出会うことができるようになれば、と祈っています。
この犬の涼しき土間にねそべりぬ
暑き夜や心鎮もるクラシック
伊賀辻の名の残りをり閑古鳥 馬場路哉
暑いのに、主人は、山歩きに出かけました。たくさん、お水を持って熱中症にならないように、気を付けてと、見送りました。
玉虫のひかれて強き色放つ
虫くいの葉のほおづきも色づきぬ
秋立つや山の日の出に起き出でぬ
夜暗くあれば銀漢美しく 馬場路哉
きょうも、とても暑いです。
9月14日
今朝は、ようやく、秋らしく涼しくなりました。暑いときには、何とか頑張らなければと緊張していたのでしょう。急に涼しくなって、その疲れが出てきたように体が重く感じられます。犬たちは、この暑さにもめげず、何とか生きなければと、頑張って過ごしていました。やっと、涼しくなったねとでも言うように、日向に寝そべって甘えてきます。
彼方なる大きな星や星月夜
過疎の村土手をしめたるクツワムシ。
キャンパスのポプラに通う秋の風。
はるばると生家に帰り草を刈る 馬場路哉
主人は、月に一度の村の俳句会にでかけます。最高齢の方は、92歳だそうです。ご自分で、ペンを持ち、短冊に俳句を作って、おられるそうです。一度も欠席されたことがないと、皆、びっくりやら、励まされれるやらだそうです。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
(釧路湿原)
(釧路湿原)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
7 一般的善だけでは十分ではない
1 すべての愛の義務を実行してはじめて、まことの自己否定を実践することになる。
愛の義務は、外面的にだけ行う人々がその一つもゆるがせにしないとしても、それを成し遂げていることにはならない。真摯に愛の原理から行動する人が成し遂げるのである。ある人が能力の限りを尽くして、その義務を果たしても、心がそこになければ、はるかに基準以下であるということになる。
世の中には、非常に気前がよいとして知られている人でさえ、叱責や自尊心や横柄さを示さないで、物を与えることが決して出来ない。少なくとも大多数の人からは、傲慢や侮蔑なしには、どんな施しも殆んど与えられないというこの恐ろしい時代に、われわれは生きている。今の時代はきわめて甚だしく腐敗していて、異教徒ですら、耐えられないほどである。
2 キリスト者は、愛の業を行うに当たり、当然のこととして笑顔や礼儀正しい言葉以上のものを示すべきである。キリスト者は、まず助けを必要とする人の立場に立って考え、あたかも自分が苦しんでいるかのように同情し、まことの憐れみと情け深さを示し、自分のためであるかのように、快く救いの手を差し出すべきである。
心からの憐れみがあれば、尊大になることや非難がましくなることもなく、貧しい人や困っている人を軽蔑したり、その人々に威張り散らしたりすることもなくなる。われわれの身体のどこかが悪くなると、全身が働いて、それを健康に戻さなければならないが、そうだからと言って、その病気の部分を軽蔑したり、みんなの助けを受けているからと言って、恩義を感じるように強制したりはしない。
3 身体の異なった部分が互いに助け合う相互扶助は、自然の決まりであって、それは好意とは考えられず、それを拒むことは、もちろんとんでもないことである。したがって、何か一つの奉仕をしたとしても、人はそれで、その他のすべての義務を果たしたと思ってはならない。
例えば、金持ちが自分の財産の一部を分け与えても、他の人々に重荷を負わせているなら、決して許されていると考えることは出来ない。どんなに偉大な人物であっても、すべての人は隣人に対して負債者であり、力の限り与えることを、愛は自分に求めていることを知るべきである。
(知床五湖と知床連山)
(知床五湖と知床連山)
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〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円