2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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クロパの妻マリヤ
(ヨハネによる福音書19章25節)
聖書にはマリヤという名を持った婦人が多く出てまいります。新約聖書には少なくとも6人のマリヤが出てきます。その内すでに、イエスの母マリヤとマグダラのマリヤのことを学びました。今ここで学ぼうとしていますのは、クロパの妻で、イエス様の弟子ヤコブの母に当たる婦人マリヤであります。彼女のことについては、余り聖書に書かれていません。
マタイによる福音書27章25節を見ますと、このマリヤは、イエス様のあの悲惨な十字架上の死を遠くの方から見つめていた多くの婦人たちの内の一人であったことが分ります。この婦人たちは、イエス様に仕えてガリラヤから従って来た人たちであることが、聖書に記されています。また、56節によりますと、彼女たちの内に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフの母マリヤ、ゼベダイの子らの母などがいたことが明らかに記されています。
このクロパの妻マリヤと同じように、イエス様の十字架を遠くから見ていました。それのみでなく、彼女はアリマタヤのヨセフが、イエス様のお体を総督ピラトの許しを得まして、十字架から下ろし、きれいな布で包み、岩を掘って作った自分の新しい墓に弔い、その入り口に大石を転がして塞ぐのを見とどけておりました。彼女はお慕いしてきたイエス様の死という、余りにも大きな出来事に、驚きと悲しみが入り混じり、ただ呆然とイエス様のお墓から去りもやらず、お墓に向かって暫くすわっておりました
また、彼女はイエス様のよみがえりの朝早く、マグダラのマリヤと共に、イエス様の骸
に香油を塗って、最後の奉仕をしようと思い、用意しておいた香油を携えてお墓へ行きました。その時、彼女たちは天使からイエス様のよみがえりを、誰よりも早く初めに知らされ、他の弟子たちに先立ってイースター(復活日)の喜びを味わったのです。マタイによる福音書28章8節に記されていますところによりますと、彼女たちは他の弟子たちにイエス様のよみがえりを知らせんものと道を急ぎ走っていました時、よみがえりの主イエス・キリストにお目にかかりました。彼女たちの心には、歓喜と希望が満ち溢れ、喜びと讃美で弟子たちのもとへと走り行きました。
このように見てまいりますと、クロパの妻マリヤは、非常に恵まれた幸いな婦人であり、良き夫と二人の息子を与えられ、しかもその息子の一人ヤコブはイエス様の弟子に選ばれ、その上、自分もイエス様に仕え、イエス様のみ教えを聞き、イエス様に従って行くことを許され、しかもその上、イエス様を信じる真剣な少数の婦人たちと一緒に、よみがえりのイエス様にお目にかかる最高の喜びを知ることが許されたのであります。
しかし、聖書に記されていますところによりますと、クロパの妻マリヤには、別に目立つような特徴は何一つなかったようですが、考えようではこの婦人の特徴は、謙遜であったとも言えると思います。アブラハム・カイパー博士が言われていますように、クロパの妻マリヤは決して、桧舞台に立って歌う独唱者的存在ではなく、指揮者でもリーダーでもなく、コーラスの一員として、多くの他の人々と共に、美しい讃美を神様に捧げているのです。五本の糸で奏でられるハープの糸が、もし一本でも切れますと、完全な讃美が天に届かないと詩人ブラウニングも申しておられます。
クロパの妻マリヤは、マグダラのマリヤや、使徒ペテロのような特徴のある人格者ではなく、一般のごくありふれた普通の婦人でありました。しかし彼女は全身全霊を捧げ尽くして、キリストのためにより良い奉仕に励みましたところに、彼女の特徴があると申せます。さて、このクロパの妻マリヤのお話によって、私たちは何を学ばなければならないでしょうか。
1・・・キリストに対する誠実さ
恐ろしい十字架にかかられ、イエス様が死なれた時、墓にイエス様を葬る悲しみの時、主のよみがえりで喜びが溢れ出す時、いずれの時にも、彼女はそこにいて、喜びや悲しみをつぶさになめ、味わいました。そのような彼女を見ます時、キリストを信じ、誠実に真実一路に生きるキリスト者は、苦しみを味わい、悲しみを経験することがありましても、必ずよみがえりの喜びを知ることができますし、また永遠の命を頂くことが出来るのです。
2・・・クロパの妻マリヤは、日本のキリスト者婦人とよく似ています。
日本の婦人は非常に謙遜でおとなしく、人目に立つ行動を嫌います(もちろん、最近の若い女性にはこれと違った風潮があるように見受けられますが・・・)。キリスト者婦人も目立つような行動よりも小さい行いと、日々の生活に於けるキリスト者の愛を、世の人々に証しいたしましょう。桧舞台に立って独唱するのではなく、コーラスの一人として、はっきりと口を開いて讃美を歌う責任が、全てのクリスチャンにあるのです。
あなたは、精一杯、主イエス・キリストのために証し人として、キリスト者としての奉仕の精神に燃えて、お励みになっておりますか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
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伝道者の書講解
富井悠夫著
定価 1365円(税込み)
ISBN978-264-02880
-2C0016
キリスト教書店か書店でお求め下さい
(知床五湖)
(知床五湖)
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…キリスト教…
社会福祉活動のあゆみ(39)
明治維新後のカトリックと社会福祉(3)
1874年、九州北部は、大暴風雨の被害を受けました。そのさなか、恐るべき赤痢が流行します。医師のいない浦上に救護の手を差し伸べたのが、ド・ロ神父であり、篤志看護婦として立ち上がったのが、当時26歳の岩永マキ、守山ワイ、深堀ワサの浦上の乙女ら4名でした。青年たちも協力しました。ド・ロ神父は、「男女二名ずつを一組とし、患者の家への案内、新患の発見と隔離と予防措置、消毒などに働かせた」と言います。
岩永マキら乙女4名は、高木仙右衛門の納屋を借りて合宿して救援活動を続けました。この4名の共同生活にド・ロ神父は起床、祈り、活動、就床という規則を与え、修道生活に準ずるようなものになっていたのです。赤痢が終息すると尾島に天然痘が流行、この救援にド・ロ神父や岩永マキらも行くことになります。
天然痘もどうにか終息、浦上に戻るマキは、一人の女児を抱いていました。天然痘で両親を失ったのでした。孤児養育と言う新しい使命を課せられ、仙右衛門の納屋は孤児院となりました。
1877年、プワリエ神父は、マキらの女子共同体に修道会としての組織を与え、準修道会「浦上十字会」としました。俗に「女部屋」と呼ばれた女子修道会の誕生です。各地より、乙女たちが浦上十字会へ修練に行き、自分たちの土地に戻って「女部屋」を結成して、孤児救済事業や授産事業、その他、それぞれの土地の必要とされる奉仕活動を行っています。五島の奥浦慈恵院、鯉の浦養育院などが、彼女によって設立されています。
浦上十字会は、1956年に志しを同じくする長崎県下の女子共同体(準修道会)と合同して、「聖卑姉妹会」となりました。さらに、1975年に教会法による正式の女子修道会となり、「お告げのマリア修道会」となり、今日に至っています。
横浜のサン・モール会は、1874年、前に述べた孤児院の近くに、外国子女教育サン・モール学校を設立、孤児院も「慈善教育菫女学院」定員40名としています。サン・モール女学院に寄宿舎を設置し、寄宿生の舎費で貧しい子供たちの養育を可能にしようとしています。修道女たちの献身的な働きによって、近隣の誤解も解け、収容児童も増加して行きました。
1876年、そこで建物を新築し、1897年には、収容児童482名との記録があります。1902年には、校舎もさらに完成して、小学校令による認可学校となっています。この学校は、孤児を先ず養女として入籍し、学齢以下の者は里子に出し、学齢に達して寄宿舎に入れて、普通教育より技芸一般を教え、18歳を越えると多くは良縁を求めて嫁がせています。いったん校外に出しても、常に職員を送って指導や相談に応じています。
更に、市外大岡川村に土地を購入して宿舎を建て、夏期には児童を交替で転住させ、田園生活をさせています。同校は1923年(大正12)の関東大震災によって全ての施設を失い、職員や児童も失ったのですが、東京府下、下高井戸へ移転し再建しました。
このように、明治のはじめに設立された児童保護施設として菫女学院と浦上養護院を紹介しましたが、明治30年頃までに、既にカトリックの児童施設が日本の各地に作られていました(日本基督教社会事業史)。
あなたに聖書を
最近は「メタボリック症候群」という言葉は普通の言葉になりました。それは、体が肥満体であることからくる健康障害への警戒であってのことであります。この問題を、本人が自覚して、自分なりの対策を講じることはよろしいことでしょう。しかし、「メタボ」の人が増えると、医療費がかかって、それに伴う国の医療費補助額も増えて困るから、「メタボにならないようにしなさい」ということだとすると、本人の健康のことよりも、国の経済のことを優先させることになります。
太平洋戦争中、敵の国の言葉を使うのは非国民とされました。その結果、学問に必要な国際的な成果を踏まえるための英語圏の文献を読む道を、国は閉ざしてしまいました。文化的鎖国国家になってしまったのです。先細りするのは当然の結果です。そういうところに、国の都合が優先される場合の問題点の一つがあるように思います。
少し前から、「ゆとりある教育」ということが、国の教育方針として掲げられました。その結果、学力が低下したというので、全国一斉の学力調査が行われるようになりました。「ゆとりある教育」は蔭が薄くなってしまいました。
今、一般市民の間では無差別殺人だけでなく、高級官僚や社会的責任を担っている人たちの間での収賄、汚職、欺瞞による問題が次々に起こっています。これは体の「メタボ」の問題どころではなく、乾いて、やせ衰えて、見る影もなくなった、貧しい「心」の問題ではないでしょうか。しかも、もっと問題なのは、そういう自分の「心の貧しさ」に気が付いていないことであります。
それが逆に言うと「本当に豊かなもの」に触れていないからではないかと思います。今、食べ物は豊かにありますが、それが人間の中味を豊かにしてはいませんし、貧しさの補いにはなりません。こういう問題を一挙に解決できるとは思いませんが、少なくとも本当の豊かさがどこにあるかと言うことを考えさせ、その方向を示すものが聖書であり、イエス・キリストの生涯を知ることにあると思っています。
篠田 潔
(参照聖句・マタイによる福音書5:3)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
(放送開始1952年10月)
10日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
17日 加藤幹夫 (日本基督教団阿漕教会牧師)
24日 加藤幹夫 (日本基督教団阿漕教会牧師)
31日 加藤幹夫 (日本基督教団阿漕教会牧師)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
=ピラカンサ=
☆ このラジオが教会に行くきっかけになり、もう30年になります。聞き逃したことは数回で、この放送から一週間が始まるようになりました。 名古屋市 W・Tさん
☆ 病院生活8年目、教会に行けなくなったのも8年になります。ふとしたことで聴くようになり、礼拝の順番のようで、とても嬉しいです。三年前から「つのぶえジャーナル」もいただけて、外出できない私には、各地におられる方の声や様子に接し、つい孤立しがちな病床生活に楽しみがふえて感謝しています。 岡崎市 H・Hさん
第45課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節(続き)
「では、なんと言っているか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である」(10:8)。
福音による救いという方法は、何か人間が近づき得ない、遠く離れたものではなく、また、救われるためには、私たちには、私たちに不可能な離れ業をすることを要求するようなものでもありません。それどころか、福音による救いが私たちに要求するものは、私たちの近くあるもの、私たちが容易に捉えることが出来るものに他なりません。すなわち、「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。真に救いを求める人は、不可能な要求によって、狼狽させられたり、困却させられたり、失望させられたりすることはありません。義のために飢え渇く者は、大きなことをせよと求められて、罠にかけられることはないのです。シリヤ人のナアマンは、要求されていることは、大いなることではなく、神のみ言葉に対する単純で謙虚な信頼に過ぎないことを学んだのです(列王記下・5章)。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(10:9)。ここに福音による救いが私たちに要求するもの・・・、すなわち、告白と信仰が示されています。口で主イエスを告白する(正確には、イエスは主であると告白する)。心の中で神がイエスを死人の中からよみがえらせたと信じることが求められているのです。
人間の経験からすれば、信仰が告白より先に来ます。しかし、ここでは告白が先に置かれています。それは、告白は信仰の外的証拠であるからです。「告白されるべきことは、イエス・キリストが主であることの限界ぎりぎりまで、彼の権威を認めなくてはならないのです。イエスは全ての権威・権勢の上に上げられ、天使も彼に服し、天と地の全ての権威が彼に与えられていること、また、勿論、イエスが私たちの主であることを認めなければなりません。ゆえに、この告白はキリストの主権性の承認と、私たちの上に臨むキリストの権威を真剣に認めることを含んでします。キリストを主と認めることは、キリストをメシヤと認めることです。すなわち、キリストを神であると認め、メシヤとしての座の全ての権威と大権とが与えられていることを認めることです。
この承認は、従って、キリストをその全ての職務(預言者・祭司・王)において、認めることに他なりません」(ホッジ)(比較章、Ⅰコリント12:13、ピリピ2:11、ローマ14:9、使徒11:20、マタイ10:32、ルカ2:8、Ⅰヨハネ4:15)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
・・・。庭石の隙間に住んでいるコウロギもひそひそ鳴きに変りました。9月も半ば、熱中症のニュースも少なくなりました。土手のすすきが秋風に揺れています。夕方の犬の散歩も暑さを気にせずに出かけられます。顔馴染みの方のご挨拶も「涼しくなりましたね」に変りました。夕焼けがとても美しくなりました。そろそろ冬支度です。夏の疲れが出ませんように、お祈りしています。・・・。
秋田県 G・Aさん
忙しいわけでもないのに、最近、心の余裕を失っていることに気付きました。数年前までは、仕事に追われて忙しくても、仕事帰りには好きなCDを買い求めていましたが、今は買っていません。バッハをはじめバロック音楽を聴くのが好きでしたが、そのような気分にはなれていませんでした。埃をかぶったデッキも気にならない自分を発見して唖然としています。心のゆとりのない生活に、ふと虚しさを感じていました。定年前の疲れなのでしょうか。・・・・。そんなことを考える時間が出来たと感謝しています。
岡山県 I・Iさん
(はがき)台風9号のおかげで、一息つける秋雨を味合っております。小生も今は祈りとみことばのいのちの源泉に与りつつ生かされています。エアコンいらずの地に長い間生活していた者には、都会のエアコン生活は、暑さとの戦い以上のものがありました。食糧の買い物も日中は出来ません。末の娘が近くにいまして時々買いに行ってくれたのが、最近は、毎日になり80代を生き抜くことは大変な気力、体力が要求されます。礼拝も教会までのバスと礼拝時間、帰りのバスでは、家に着くと疲れが出ますので、今は家内と二人の礼拝になることが多くなって来ました。我が家の日々の生活、信仰生活は、お互い病気持ちですが夫婦助け合い生活です。・・・・。
東京都 I・Kさん
9月のはじめに買い求めた小菊の鉢植えに、小さい紫色の花が沢山咲いていました。不思議なものですね。本と書類の殺風景な仕事場が明るくなりました。きっとお一人お一人にも秋の空があり、静けさが夏の疲れを癒してくれることでしょう。・・・。しかし更新作業の今、水のやり過ぎで、小菊は枯れてしまいました。何時も繰り返す失敗です。
10月号「つのぶえジャーナル」も出来上がり、ひと時の満足感を味わっております。信友から道北をバスと列車の旅の時の写真を頂きました。道北をお楽しみください。また、桒原廣子さん、川畑朱美さん、匿名さんの写真も掲載しています。PCの方は是非「拡大」でご覧ください。
10月号「つのぶえジャーナル」も出来上がり、ひと時の満足感を味わっております。信友から道北をバスと列車の旅の時の写真を頂きました。道北をお楽しみください。また、桒原廣子さん、川畑朱美さん、匿名さんの写真も掲載しています。PCの方は是非「拡大」でご覧ください。
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
西口義昭様 和田順一様 和田貴美子様 匿名様
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名様
今月のことば
何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。
(ピリピ1:28)
信仰の勇気か死の軽視か
この世には、英雄的な豪胆不敵という人物がいつの時代にもいますし、それを求めます。特に戦争に関係する事柄の中に多いのです。そうです。死に向かって進む覚悟を与えてくれる心の状態と言うものを、この世はよく知っています。軍服を美しく飾る姿は死の軽視を表しているでしょう。目的はどうあれ、死の軽視は、陶酔から生まれ、また、冷徹な計算から生まれます。
ところで、教会も戦いを知っています。ピリピ1:28を読みますと、使徒パウロは、明らかに、キリストの教会には「敵対する者」がいるだけでなく、それが強大な者たちだということも知っていました。彼らによって「ろうばいさせられる」強大な者たち、「逆らう者」たちの赴くところは「死の軽視」ではなく、「死」そのものです。
聖書によって死とは何かを学ぶことを知っている「キリスト者」は、死への恐れと死に際しての確信を抱きはしますが、しかし、「死の軽視」などという思いは決して抱くことはありません。「キリスト者」は、弱さと不確かさと臆病を、よく知っています。「キリスト者」は堅忍不抜の英雄ではありません。むしろ彼らは、弱い羊であり、幼児です。確かに、「キリスト者」の勇敢さ、大胆さを持ち合わせてはいますが、それは高鳴る血潮から生まれるものではなくて、むしろ、聖霊の恵みの賜物です。聖霊は、私たちに、真理を固持し、義を固守する勇気を与えてくれます。それは、私たちを、生命や財産に至るまでのあらゆる犠牲を厭わぬ者にするためです。
また、「敵対する者」に対して信仰告白を行う用意をさせます。一人であれ、一群であれ、聖霊から来る勇気に依り頼む者には、死と敗北があるにしても、そこには何か抗しがたいものがあり、不思議な抵抗があります。神以外のものに信頼しない者に敵対する者は、やがて敗退するのです。それは、神に対して敵対していたからなのです。
わがよろこび、わがのぞみ、
わがいのちの主よ、
ひるたたえ、よるうたいて、
なおらぬをおもう。 (讃美歌527)
小閑記
「パウロとエルサレム」(Ⅰ)
(ローマ書15:30~33)
パウロの戦いは、生やさしいものではありませんでした。パウロにしてみれば、これなどは取り立てて言うほどでもなかったかも知れませんが、だれもが経験するようなものではありませんでした。ローマ人への手紙の背景に、このような凄惨な戦いを、だれが予想したでありましょう。
問題は、エルサレムのユダヤ人たちによる迫害であります。エルサレムは、教会の発祥の地であります。福音は、ここから宣べ始められました。パウロも、直ぐ前に、「わたしはエルサレムから始まり」(15:19)と言って、自分の伝道の起点がエルサレムであることを示していますし、伝道旅行の帰りには、必ずエルサレムに立ち寄りました。今度も、この手紙を書いた後で、帰途に就くのですが、その時、やはりエルサレムに向かうことになっているのです。
ことに、外地に教会からの多くの贈物まで持って行こうと言うので、パウロはエルサレムの教会のことをどんなに思っていたかが分かるのであります。
ところが、エルサレムの事情は、パウロの気持ちや熱心とは、全く反対の方に動いておりました。それは、この旅から帰ったパウロがエルサレムで捕らえられた(使徒21:27~36)のをみても想像のつくことであります。パウロは、それをよく知っております。有名なミレトの別れの言葉の中にも(使徒20:17~38)、パウロは、エルサレムでの迫害を予想し、「わたしの顔を、二度と見ることはあるまい」と言ったのでみんなの者が泣いたと書いてあります。
ところが、この平静に書かれたとみえる手紙の終わりに、彼自身の筆で、そのことが書かれたのであります。つまり、是非祈って欲しいことの内容として、「わたしがユダヤにおける不信の徒から救われ」るようにと書いてあります。救われると言うのはおだやかな言葉ではありません。しかし、パウロが予感しうる限りでは、救われるという言葉を使う必要なほどに、切迫した事情であり、悲しいことが待ち受けていたらしいのであります。リーツマンのような冷静な注解者さえ、「使徒会議があったにも関わらす、エルサレムの人々の異邦人キリスト者教会に対する反対は、考えられる限りのもっとも激しいもの」と申しております。
パウロはなぜそんなに嫌われたのでしょうか。先ず、ユダヤ人たちの反対があったことでしょう。パウロは、ユダヤ教の熱心家であり、教会を迫害までした人でありましたが(ピリピ3:6)、やがて回心して福音を信ずるようになり、伝道者になったのであります。したがって、ユダヤ教の人々から言えば、到底許すことの出来ない反逆であると言うことになりましょう。だから、教会さえ機会があれば、彼を捕らえて、あわよくば殺してしまいたいと思ったのです。
現に、捕らえられたパウロが、エルサレムからカイザリヤに護送される時に、40人あまりの刺客を用意したと使徒行伝には書いています。パウロが不信の徒から救われるように祈って欲しいと言ったのは、決して誇張ではなかったのであります。
竹森満佐一著「ローマ書講解説教」(新教出版社)
上河原立雄撰
眸
やっと教会生活20年になります。先輩の方々のお話は良きお手本になります。ある時のお茶の会の時でしたが、私の今を代弁して下さったかのように、「・・・・。信仰生活に喜びが持てない・・・・」というような発言をされた方がおられました。それに倣うかのように次々と同様の発言がありました。そんな中、物静かで、余り発言されないT姉が、私もそのような経験をしてきましたが、或る高女の先輩が、日々の信仰生活にみ言葉を読む時間をお作りなさい。礼拝に出席する時には、土曜日の夜には一週間を振り返り、感謝をお探しになって御覧なさい。沢山の喜びや感謝が心に浮かんできます。その気持ちを持って礼拝にのぞむなら、神様に対する感謝と畏れの気持ちに戻されます、と言われたことをお話になりました。
そうして、隣り人を愛し思う心を具体的の持つことがなければ、伝道も証しの生活も実りないものになり、味気ない信仰の生活になってしまうのではないでしょうか。この方の救いを・・・と願う心があり、また肉親の救いを祈り求め続けますなら、神様は必ず力と喜びを与えて下さいますとも言われました。今の自分の信仰の姿勢が神様に問われた思いにさせられました。
礼拝への備え、日々の生活への備え、具体的な事柄へのみ言葉の備えの乏しさに気付かされました。これからは、信仰生活に喜びが持てない、という愚痴の思いを自分の信仰生活の中にあることを祈りの課題として大切にして、次の20年を歩みたいと新たにさせられました。病床にある友とご家族のことを、今までのことを思い出し、真摯に祈らなければと思いました。
神奈川県 M・Mさん
白い雲は 母の顔
笑った顔が 泣いた顔に変わり
雨となる
雨の音は 私のために
祈り続けてくれた
母の声
雨あがりの空は 私の重荷を
になってくれた
母の愛 水野源三「今あるのは 神の恵み」
自閉症者のひとりごと
(40)
7月16日
一昨日頃から、朝セミの鳴き声がします。虫は季節をよく知っています。大雨の被害が報じられていますが、全国的には空梅雨でした。これも摂理といえばそれまでですが・・・。
明日はスポンサーと会って話をすることになっています。先方は忙しい人なので、要領よく話さねばというか、わたしが意志を固めておかねば・・・。アスペの本と診断された用紙と、日常生活の棚卸しの表とAA の本をたくさん持って行きます。どういう話になるかはわかりませんが、時間をとってもらえてよかったです。
その続きでミーティングに行こうと思っています。今日は何もしたくなかったけど、洗濯物だけは干しました。
明日はスポンサーと会って話をすることになっています。先方は忙しい人なので、要領よく話さねばというか、わたしが意志を固めておかねば・・・。アスペの本と診断された用紙と、日常生活の棚卸しの表とAA の本をたくさん持って行きます。どういう話になるかはわかりませんが、時間をとってもらえてよかったです。
その続きでミーティングに行こうと思っています。今日は何もしたくなかったけど、洗濯物だけは干しました。
7月18日
今朝も早くに目が覚めて、落ち着かない時間を過ごしていました。礼拝に行きましたが、やはり落ち着かないので、途中で抜け出して、帰ってきました。助けて!という叫びに似た祈りをしました。今は家でぼんやりしています。明日はミーティング会場の窓口のサービスがあるので、午前中に家事を済ませて行かねばなりません。水曜日は先生の都合がよければ、AA グループのミーティング会場として、以前から使わせていただいている教会を貸してもらえるよう、お願いに行きます。牧師先生が変わると、また一からのお願いになるので、話下手の私には大きな課題です。
7月26日
アルコールを口にしなくなってからもう少しで3年になる。今も飲酒欲求はあるが、どうにかこうにか飲酒せずに過ごせている。アルコール依存症者は自分ではどうにもならないので、自分の意志と生き方の方向を神様に変えていただくしか、回復の手だてはない。神様から力を頂いて、怒りや恐れの原因を見つけ、埋め合わせをする必要のある人が出てきたら、それをきちんと行う。それを日々行う。祈りと黙想を通して、神様との触れ合いを深めていく。そして苦しんでいるアルコール依存症者にこのメッセージを伝えていく。信仰の道程に似ているのには、実に興味深い。
だがわたしはまだまだ神様に信じて従おうとしていない。早く従う者となりたい。
だがわたしはまだまだ神様に信じて従おうとしていない。早く従う者となりたい。
8月6日
明日から全障研です。明日の全体会は県の体育館で行われます。いちばん暑い時間帯に始まります。勘弁してよって感じ。明後日はいよいよ我が母校で分科会です。冷房設備がないので(わたしの在籍中はなかった)、どこまでもつかわかりません。思えば在籍中は、毎日が酒と運動と落ち込みと孤独の日々でした。今から思えばあの頃からアルコール依存症でした。随分無茶苦茶してきました。ろくに勉強してなくて、親には申し訳ないことをしました。
母校は何もない半農半漁の小さな町です。冬には強風吹きすさぶ地域で、心が寒々しくなり、雨が降れば駅が冠水、崖崩れで陸の孤島になる、そんなところにあります。
講義棟の渡り廊下からみえるあの海は、美しくもあったし、虚しくもありました。下宿から徒歩5分のその海は、海無し県で生まれ育ったわたしには、憧れでもあったし、恐ろしくもありました。
そんな日々の支えとなったのは、教会でした。まぁ、思い出が詰まった地ということですね。キャンパスラプソディーになってますね。卒業して20年も経つと随分感傷的になるものだわ。
母校は何もない半農半漁の小さな町です。冬には強風吹きすさぶ地域で、心が寒々しくなり、雨が降れば駅が冠水、崖崩れで陸の孤島になる、そんなところにあります。
講義棟の渡り廊下からみえるあの海は、美しくもあったし、虚しくもありました。下宿から徒歩5分のその海は、海無し県で生まれ育ったわたしには、憧れでもあったし、恐ろしくもありました。
そんな日々の支えとなったのは、教会でした。まぁ、思い出が詰まった地ということですね。キャンパスラプソディーになってますね。卒業して20年も経つと随分感傷的になるものだわ。
8月9日
全障研大会第一日目。しかしよく飲んだ、ペットボトル4本に缶コーヒー3本。学生の頃の講義を聞いているみたいでした。情勢と到達点と少し元気になる話でした。大会には10年くらい前に出たけれど、あらためて運動体だなって思いました。そこが大事なんだけど、ついて行けないところなんだな。丸一日学習漬けに、満員電車。今晩は眠れますように。
全障研2日目、分科会・学習会に行ってきました。我が母校は、こぎれいになったけど、相変わらずのローカルさは変わりません。わたしは学習会に参加したので、一日みっちり講義漬けでした。主に発達の基礎です。学生のころ、こういう講義が聞きたかったなと思いました。でも、それはその頃の基礎と、その後の実践があったからこそ、今、分かるようになったのだから、まぁいいかって感じでした。さすがに疲れました。今日のミーティング会場は代わりの人にお願いして、ゆっくり過ごします。
加納さおり
大 漁
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。 金子みすゞ
(81)
猫 草
イメージの力が弱くなっている。何かを見たり、聞いたりしたときの感覚が鈍くなっているというか、単調になっている気がする。子どもがげらげら笑って観ている芸人のコントは微笑みにも至らない。テレビ番組がなんだか嘘っぽく感じる。ニュースだけは、という感じである。映画にも行く気がしない。駅まで行って電車に乗ってチケットを買って、混んでるかも・・と想像するだけで疲れる。あきらめて「来年TVでやるまで待とうっと・・」。
夏休みや連休はこういう自分にとって実はとてもつらい。いつもは会社や学校に出かけている家族がいる。お昼御飯を作らなくてはならない。朝ごはんを食べた直後に、「お昼何食べたい?ついでに夕飯のリクエストあったら言って!」と問うて家族に面倒がられる。かつては「夏休み?何をしよう?どこへいこう!」とわくわくし、連休ともなれば前日の金曜日の夜から旅行に出かけていたというのに。
服もそう。色違いのTシャツを交互に着ては洗って、ワンシーズン2枚のローテーションですごしそうになる。選ぶ色も紺や黒やベージュの無難な色なので代り映えしないことこの上ない。
唯一新鮮さを保っているのは読書の世界である。最近近所の図書館がWEB予約システムを導入したので、人気の本をどんどん予約して楽しみに待っている。予約本が確保できるとEメールが届くので最寄りの図書館に受け取りに行く。村上春樹1Q84など世田谷区の図書館では1800人待ちだが狛江だと130人なので、まだ待つ気にもなるというものである。いや、いままでも図書予約システムぐらいあったのだが申し込み用紙に書いて電話連絡、が面倒だったのだ。その点インターネット上で読みたい本を検索して予約カートに入れておき、メールが来るのを待つ、というのはすこぶる気楽でよい。ベストセラー本も1~2ケ月待てばだいたい読める。おかげで人気作家の本や話題の本にも詳しくなった。
表面上の生活は同じものを食べて同じものを着て同じように過ごしても、本だけは最新のものを手にしている・・どうやら自分にとって新鮮さが大切なのはこれだけらしい。
=時々の記=
(54)
7月16日
気が緩んだのか風邪に罹りました。風邪の症状は、自宅での療法で、なかなか改善されず、ついに診療所のお世話になりました。たくさんのお薬をくれました。主人の母だったら、この半分で質の良いのをくれたのにな・・・と仕方なく、袋に入りきれないほどの薬を頂いて、適当に飲もうと考えています。やはり、喘息系の家系ですので、かならず、最後は、激しい咳にやられます。今も、咳が激しく出ていますが、側にだれもいないので、うつらないでしょう。
さて、毎月、「今月の言葉」は、心して読ませていただいています。
昨日、主人の母の主治医の先生から、電話がはいりました。腎臓の機能がかなり低下しているので、いつ何がおきても、覚悟をしていてください。と。
92歳まで、生かされたことに、主人の兄弟は、誰も、その伝言に驚きませんでした。みな、それぞれに心の準備ができていると言っていました。
さっそく鈴鹿まで、雨の降りしきる中、行ってきました。差し入れた、お寿司や、果物は7割ほど食べてくれましたが、やはり、全体がむくんでいました。
自分でも、それがよくわかるのか、もうすぐ死ぬかと思う・・・と。皆で、力をあわせて、生きていくようにと伝えてくれました。最後まで、気丈に振る舞っています。さすがだなと思いました。子供たちとその子供たちの9人だけで、葬儀を執り行うことも決めました。
母は、生きている間、村のために一生懸命、医師として働かせてもらったので、静かに最後を迎えたいと言っていました。
7月24日
源三さんの素晴らしい詩をメールしてくださり、とても、励まされ、強められています。
私たちを導きたもう恵み深き主の御手を覚えて、今日一日生きたいです。
毎日、「酷暑」が続いています。特に、「名古屋、岐阜」など、体温以上、39,8度の最高気温とか。名東区は大丈夫でしょうか。とくに、部屋の中でも、熱中症になってしまうとのこと。どうぞ、お気をつけてください。こちらは、気温は、高いのですが、山からの風が涼しさを運んでくれます。汗まみれになりながらも、そんな自然の風に癒されています。
母は、なんとか、頑張ってくれています。やはり、すべてに時があるとは、わかっていても、一日でも、元気で、生きていてほしいとみな願っています。
主人もなかなか俳句が作れないといっています。
今年まで作られ峡(かい)の青田かな
雨脚の白きを見せて梅雨に入る
飯粒(めしつぶ)を置けば来るなり雀の子
道作り終わるや否や豪雨来る 馬場路哉
7月28日
暑中お見舞いのメール有難うございました。この焼け付くような暑さにすっかりバテテしまいました。おなかの調子が悪く、二日間ですが、葛湯だけですごしました。ようやく、きょうは、普通食を頂けるようになりました。
今朝は、久しぶりに雨の中の散歩でした。おかげで、すこし、涼しくなりました。この涼しさも、今日限りとか。
いよいよ、来週から、8月です。田舎の行事が次々あります。まず、井戸替え。井戸にたまっている、砂、ほこりを全部入れ替えないと、きれいな水が湧いてきません。大変な作業ですが、飲み水ですから、体の続く限り、続けようと、三軒で話し合っています。
次に、墓(やまのなか)の草刈と清掃。これも、村中でしなければ、やりきれないほど、大変です。
みな、年を重ね、腰が曲がり、歩くのにも大変な状態ですが、この作業は、人に代わってもらうわけにいかず、また、お金で済ますこともできず、大変です。田舎のこのようなしきたりを嫌って、若者は、村を出て行ってしまいます。
主人の母のお見舞いに行かねばならないのですが、こちらが倒れ掛かっているしまつ。
どんな様子か。心配ですが。しばらく、行くことができません。
もう少し、頑張っていてほしいと、祈りつつ願っています。くれぐれも、熱中症には、気を付けてください。
8月6日
今朝は、比較的といっても、今までよりは、涼しく感じられます。また、日中は、暑さがぶりかえすのでしょうか。昨日、半年ぶりに、羽野先生のお母様のお見舞いに行ってきました。いつも、笑顔を絶やさない方でした。昨日も、私の顔を見るや、にこにこ笑顔で迎えてくださり、こちらが、励まされました。ベッドサイドには、羽野先生の写真がかざられており、先生のことを、いつも覚えて祈っていらっしゃるのがよくわかりました。
主人のことも、心配してくださり、恐縮してしまいました。
今は、ほとんど、車椅子での生活ですが、リハビリでは、歩行の練習をされているとか。
毎週、日曜礼拝で、私たちの横で、賛美されていましたので、とても、懐かしく、また、お元気でいらしたので、感謝いたしました。先生も、きっと、いつも、お母様のことを心配されつつ、伝道に励んで、いらっしゃるのでしょう。先生は、お母様をとても、大切にされていますから。
憩ふより背中の汗の引きにけり
鶏舎前一列をなす立ち葵 馬場路哉
先日、なんとか、井戸替えの行事を終えることができました。明日は、いよいよ、墓掃除です。ところが、主人が、また、昨夜から、痛風の発作に見舞われ、明日は、わたしが、多くの男性に交じってクワ、草刈などかなりきつい墓掃除に出なければならないと覚悟しています。体が、支えられますように、と祈りつつ、頑張ってみます。
8月12日
私たちの村の一連の盆の行事が、ようやく終わり、疲れが出たのか、ちょっと、横になったつもりが、朝寝をして、お客さんの呼び声で、びっくりして、今、飛び起きたところです。
こちらは、激しい雨が乾ききった地面を潤し、小さな畑の、ミニトマトがうれしそうに、赤い実をつけだしています。毎朝、3個ずつとれますので、ちょうど、食卓にのせられます。自分が育てているものは、どれも、愛着がわいて、どんなに、小さくても、捨てる気持ちにはなれません。ピーマンは、暑さにつよいのか、今年も、たくさん収穫できています。
父は、農業が好きで、ちょっとした敷地があれば、なにかしら作っていました。農業をすることによって、神様の愛、偉大さをかんじたと、よく話てくれたものでした。
常に、喜びなさい。絶えず、祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。
この聖句が、農作物を育てていると、いつも、口をついて出てくるのです。
いま、裏山からは、秋のセミが季節の移り変わりを伝えてくれています。
でも、まだ、日中は、暑さが続きます。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円