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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  その愛のゆえに
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  =時々の記=
    (53)
 
6月21日
わが家はワールド・カップ・サッカーで盛り上がっています。息子は3年間サッカー部に所属していました。強豪校でしたから全国大会に3年連続で出場しました。今回の日本代表のゴールキーパーは先輩で、つい力が入ってしまいます。息子曰く、サッカーは数学の方程式と同じでボールが動いていく所にきっちり居ないとゴールが決まらないとか・・・。スポーツが勉強と結び付いているなんて信じられないところですが、そんなところもあるのかなあ、と思いながら楽しんでいます。
 主人は、右足に金属が入っているので激しいスポーツなどはもっての外ですが、卓球はしたいと言っていますが、主治医からは「歩くことのみ」に徹するように言われていますので、毎朝の犬の散歩で少しずつ筋肉も付いてきているようですが、まだ少し無理をすると疲れが出ます。
 雨煙る盆地の田圃燕飛ぶ
 古き城塗り替えられて緑さす
 馬鈴薯の花を付けたる朝(あした)かな      馬場路哉
 
7月3日
梅雨の季節です。修理は止めて新しいパソコンは、ノートパソコンにしました。何だか今までと違ってとても、キーが軽いです。久しぶりにメールを打てて、ちょっぴりドキドキしています。実は、今日、はがきをお送りしたのですが、月曜日につくと思います。やはり、メールは速いです。嬉しいです。これからも、よろしくお願いします。
 朝まだき段取りすれば時鳥(ほととぎす)
 ふっくらと芍薬(しゃくやく)丸く咲にけり
 立ち木より川の瀬身ゆるキャンプ村        馬場路哉
 
7月4日
昨日とは、打って変わって梅雨の晴れ間で、お日様が顔をのぞかせています。そこらへんの湿り具合も、少し、和らぎそうです。洗濯ものも、久しぶりに乾燥機を使わずに、乾きそうです。やはり、晴れると、気持ちがよいですね。今、北海道の叔父から電話が入りました。父の一番したの弟です。何とか元気に過ごしているとのこと。冬の北海道は、とても過ごしにくいそうですが、ようやく短い夏がやってきてくれて、ほっとしていると、伝えてくれました。
北海道で、生活している方のことを考えると、近畿地方は、すべてにおいて、生活しやすいのではと感謝しています。父の兄弟は、11人と聞いています。今、元気でいるのは、三人だけになってしまいました。みな、北海道でくらしています。私は、三歳の時北海道に連れて行ってもらったようですが、それ以来、一度も北海道には、行っていません。叔父や叔母が元気にしている間に行ってみたいな、と夢を描いています。7月号の北大前の写真を見ているといろいろのことが思い出されました。
 
7月6日
新しいパソコンになって、なかなか、うまく操作できず、機械に弱いなと、あらためて、長村さんのご苦労がよくわかりました。昨日のこと、犬たちが異常な鳴き声をはっしています。見るとわが家の屋根の上に大きな、ボスざるが、のそのそと平気なかおで、犬たちにご挨拶です。かぼちゃ、トウモロコシ、スイカ、などを食べにきているようです。
畔(あぜ)刈られぶんけつそむる青田かなs-IMG_0054.jpg
傾ぎ(かしぎ)ては表を向けぬバラの花
銀色の風車の回る青嶺かな
竹林(ちくりん)のすがすがしさよ夏の朝
ささやかな幸せ願ひ蛍見る
笹百合の一本咲ける小屋の側       馬場路哉
 
7月7日
毎朝、犬たちとの散歩にでかけるには、最も、気持ちの良い季節です。ジャーナルにも何方かが載せていらっしゃいましたが、”愛”ちゃんに元気をもらっている方なのですね。。
可愛い写真でしたね。私も、犬たちからたくさん元気をもらっています。昨日は,犬小屋にいれようとした途端、脱走してしまいました。でも、三十分もすると、ちゃんと家の玄関に戻ってきて、ワンかえったよ、と教えてくれました。思い切り、お利口だねとほめてやりました。なにも危害を加えなかったので、ほっとしています。
                                          写真:田上山とアクジバの花
 
 馬場暁美  
                  (上野緑ヶ丘教会員)
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s-IMG_0053.jpg          キリスト者の生活綱要  (11)
               
ジャン・カルヴァン著
                        ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                                             吉岡  繁訳
 
  第2章 自己否定
 
  5 自分以外の信者の利益を求めるべきである
 
 1 すべて利己的な考えを捨て、自分自身のことをほとんど忘れ去らない限り、忠実に隣人の利益を求めることは、まことに難しいことである。自己を捨て、他の人々のためにすっかり自己を献げない限り、パウロの教えた愛のために働けという義務を、どうして遂行できるだろうか。
 「愛は寛容であり、愛は情け深い、また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない」のである。
 2 自分のことを求めるな、というのが命令のすべてであるなら、自己のみを愛し、なかなか自己のことを忘れ得ないようにされているわれわれの本性に、われわれは少なからぬ圧力を加えなければならない。むしろ、他の人々の利益を求め、更に進んで他の人々のために、自己の権利を放棄するようにしよう。
 どんな恩恵であれ、主から受けているのであれば、それは教会の共通の利益のために用いるという条件で、与えられているということを、聖書は強く警告する。神の恩恵の正当な用い方は、他の人々に、気前良くまた親切に分け与えることである。
 われわれが享受しているすべての祝福は、他の人々と分け合うという条件で与えられた神の投資であるということ、これが最も確かな法則、力ある勧告である。
 3 聖書によると、われわれのそれぞれの個人的能力は、人体の各部の諸機能にたとえることができる。身体のどの肢体も、それ自体のために力を持っているのではなく、また私的な用のためにそれを用いるためでもない。同様に、教会の会員の場合も、だれも自分の活動から自分の利益を受けず、信者全体との協力の中で利益を受けるべきである。
 忠実なキリスト者は、どんな能力を持っているにしても、それを兄弟である信者のために所有すべきであり、自分の利益を、教会の建徳のために真心から従属させるべきである。他の人々を助けることができる時には、いつの日か、自分のしたことを説明しなければならない管理人として身を処すことを、われわれは善意と慈愛の基準としよう。また、利益の配分は、愛の律法によって決めなければならないことも覚えておこう。
 なぜなら、まず自分のことを求めておいて、他の人々の利益の増進につながるようにしようというのではなく、他の人々の利益をまず先に考えるべきだからである。
 4 単に大きな利益に関わることだけでなく、生活の中の小さな好意においても、愛の律法を忘れることのないように、神は遠い昔から命じておられる。まず神に献げない限り、どんな祝福も享受すべきでない、ということの厳粛な印として、神は穀物の初穂を献げ物を、その民イスラエルに命じられた。
 われわれは神が賜物を、自分の手で、その造り主である方に献げてこそ、神の賜物は、われわれの聖化された生活の一部となるのであるから、それを献げない限り、それを罪によって濫用しているということになる。
 5 しかし、われわれが、能力や賜物を主に分け与えて、主を富ませようとしているのであれば、それは空しいことである。われわれの好意は、主にまで至ることができないから、詩篇の記者の語るように、われわれは、「地にある聖徒たち」にたいして、好意を示すべきである。
 聖書において、施しは聖なる献げ物にたとえられている。それは福音の下における慈善の行為が、旧約の下における犠牲に代わったことを示すためである。Ⅰコリント13:4~8、詩篇16:2~3。

写真:ヤマモモの実
『旧・新約婦人物語』(⒓)375d0726.jpg
  マグダラのマリヤ
    (ルカ8章2節)
 
新約聖書の中に、マリヤという名の婦人が6人出てま  いります。すでにイエス様の母のマリヤを学びましたが、ここで学びたいのは、ガリラヤ湖の西南にあった町、マグダラに住んでいた婦人のことであります。このマグダラのマリヤはイエス様に従い、お仕えした多くの婦人の内で、一番目立った女性でありました。彼女はイエス様にお仕えした多くの婦人たちの指導者であったといってもよいと思います。4福音書をよく調べてみますと、彼女のことが案外多く記されていることに気付きます。今、それを拾って見ますと、次のような事実が分ります。
1・・・このマリヤは7つの悪霊に憑かれていて、それをイエス様に追い出していただいた女性です(ルカ8:2、マルコ16:9)。彼女がイエス・キリストを知る以前、悪霊に悩まされていた頃の悲惨な状態と、イエス様にいやされて以後の恵まれた状態との相違は、どんなに大きいものであったか、その開きの大きさは、わたくしたちには、想像もつかぬものがあります。また、彼女の喜びと感謝の気持ちは、どんなに大きく、広く、深いものであったかも、わたくしたちにはわかりません。そのような喜びと感謝に満たされて、彼女は主イエス・キリストに従って行く他の婦人たちと共に、自らの持ち物を携え、イエス様に従い行く一行に奉仕したのです(ルカ8:3)。
2・・・マグダラのマリヤは、イエス様がはりつけになっておられます十字架のもとに、イエス様の母マリヤと、母マリヤの姉妹とクロパの妻マリヤたちと共にたたずんでおりました(ヨハネ19:25)。この時、イエス様の弟子ヨハネ一人を残して、他の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げ去っており、重苦しく悲惨の極みにイエス様はおられたのです。そのような時に、これらの婦人たちは勇敢にもイエス様の足もとに留まっていたのです。何と言う感銘深い、彼女たちの見上げた態度でありましょう。
 マルコ福音書15章42~47節によりますと、マグダラのマリヤは、ヨセフの母マリヤと共に、その日の夕方までイエス様のみもとを離れず、アリマタヤのヨセフがイエス様の屍を十字架から下ろし、亜麻布で包み、岩を掘って作られた墓に納め、葬った後、墓の入り口に大きな石を転がして、人の出入りは出来なくするのを最後まで見届けているのであります。
3・・・しかし、マグダラのマリヤの話で最も美しく、喜ばしいクライマックスは、何と言ってもイエス様の復活の朝の出来事でございましょう(マルコ16:1以下)。イエス様が死に勝ちよみがえりになったその日の朝早く、まだ暗いうちに、彼女と他の女たちは、イエス様の屍に香料を塗って、最後の奉仕をしようと思い、イエス様の屍の置かれているお墓へまいりました。
 彼女たちは道々、あのお墓の入り口に転がしてある大石を、どうして除けようかと話し合いながら、お墓へと道を急ぎました。ところが、お墓の入り口に転がしてあった大石が、誰かの手で転がされ、お墓の中は空になっています。誰かが、主のお体を取り去って、どこかへ運び去った様子です。どこに主のお体が置かれているのかわかりません(ヨハネ20:2)。彼女たちは驚いて、このことを弟子のペテロとヨハネとに告げ知らせました。二人の弟子は走って墓に行きましたが、確かにイエス様のお体は墓にはありませんでした。
 マグダラのマリヤは一人、墓の外に立って泣いておりました。その時ふと後ろに、彼女は人の立つ気配がするのを感じたのです。彼女は振り向くと、そこによみがえりのイエス様が立っておられます。主イエス・キリストが・・・。しかし、イエス様のお体が無くなっていることに驚き、心が動転して泣きじゃくるマグダラのマリヤには、そこに立つ人が園を守る番人としか写りませんでした。彼女は「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」(15)と、その人に尋ねました。イエス様は彼女に、「マリヤよ」と、やさしく声をかけられました。初めて、そこに立つ人がイエス様だと気付いた彼女は、「ラボニ(先生)」と答えました。この時の彼女の心の内はどんなものであったでしょうか。喜びと感激が彼女の心に溢れたことでしょう。
 イエス様は彼女に、「わたしの兄弟たちの所に行って、『わたし(イエス)は、わたしの父またあなたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」(17b)と、お命じになりました。マグダラのマリヤはすぐに急いで弟子たちの所へ走って行き、自分がイエス様に出会ったことなどを報告したのです。
 7つの悪霊に悩まされたマグダラのマリヤでしたが、イエス様に救われたばかりでなく、主のおよみがえりの最初の伝達者とされる光栄を担うことが許されました。さて、このマグダラのマリヤのお話しから、私たちはいろいろと教えられるところがあります。今ここで2つの教訓を選んで学びたいと思います。
1・・・マグダラのマリヤの忠実さ
7つの悪霊から救い出されたその日から、彼女の第一の目的は、主イエス・キリスト に仕え、主に従い、主のために自らの一生を捧げる覚悟であります。十字架のもとで、共にキリストの死の苦しみを味わったマグダラのマリヤは、当然の報いとして、よみがえりたもうたイエス様に最初にお目にかかる、大いなる喜びを味わう光栄に浴しました。
わたしたちも同じように、主イエス・キリストに忠実でありましょうか? あるいは反対に、些細なちょっとした問題に直面し、ぶつかりました時、また小さい不幸や悩みに出合ったりしました時、すぐにイエス様を見捨てて逃げるようなことをしないでしょうか?
2・・・彼女の熱心な積極的奉仕
イエス様と弟子たちとは、非常に貧しい生活をして暮らしておられました。マグダラのマリヤとその他の女たちの奉仕がありませんでしたら、イエス様の伝道は大変困難なものであったことだろうと想像いたします。
さて、あなたはキリストの教会のために、どれ程の犠牲を払って奉仕に励んでおられることでしょうか。あなたのタレント、あなたの時間、あなたの財産や持ち物のどれだけを、あなたは喜んで、主のためにお捧げ出来たでしょうか。どうか、マグダラのマリヤのように、先ず、主イエス・キリストに従い、喜んで主のために、最上のご奉仕が出来ますように、またこの道は恵みの道であり、天国の門に通じる道であることを、お覚え下さい。
ad35d1e9.jpg   写真:米国南長老教会・宣教師から譲渡された「新緑の雀のお宿キリスト教会館
     (恵那市)」
               
 
      ポーリン・マカルピン著
        (つのぶえ社出版)

…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(37)s-IMG_0006.jpg
 
 明治維新後のカトリックと社会福祉(1)
 
 明治初期のカトリックの児童保護事業(1)
 
 徳川幕府は1858年(安政5)、諸外国と通商条約を結び、250年にわたる鎖国を解きました。この条約で外国人居留地には、居留民は自分たちの宗教の礼拝堂を建てることが認められることになりました。そこで1859年、パリ外国宣教会のジラール神父は、日本教区長として横浜に上陸し、1862年には横浜に天主堂が建立されました。翌年来日したフユーレ神父は、長崎に大浦天主堂を着工させています。完成させたのは、同年来日したプチジャン神父ですが、教会の献堂式は1865年2月19日に行われ、日本26聖人教会と命名されました。
 
 この他にも、長崎付近の島々、外海地方、平戸、五島地方に多くの信者がいることが分ってきました。世界宗教史の奇跡とさえ言われる「キリシタンの復活」です。この発見された浦上のキリシタンに対して、幕府は依然としてキリシタン禁教令を守り抜く方針であったため、厳しい迫害を加えました。
 
 明治新政府になってもこの方針は変らず、さすがに死刑にするということは国際問題になるので、1868年(明治元)に、浦上の主だったキリシタン114名を長門の萩、備後の福山、石見の津和野に、翌2年には残りの者全員を尾張以西の十万石以上の20藩に流刑に処しました(片岡弥吉著「浦上四番崩れ」)。
 
 彼らは、これを「旅」と呼んでいましたが、苦しく残酷な流刑人の生活が始まったのでした。流刑先の藩によって程度の違いはあれ、厳しい拷問や重労働、そして飢餓や寒さに苦しめられています。在日外交団の抗議、欧米諸国の政府、一般国民からの数々の非難にもめげず、明治新政府は蛮行を断行したのです。浦上キリシタンの辛い苦しい「旅」は1873年(明治6)まで続くのでした。         写真:田上集落のサボテンの 花
 
  あなたに聖書を
 最近、「国家の品格」とか「女の品格」とか言って、「品格」という言葉が、よく使われています。広辞苑によりますと、「品格」と言うのは、第一に「物の良し悪しの程度」のこと、第二に「品位。気品」のことを言う、とありました。そしてこの言葉の使用例として、「品位や気品のある女性」という言葉が載っていました。
 これを読みまして、広辞苑の編集者には、「品位」という、男性よりは「女性」にふさわしい表現と考えられたのかなあ、と思いました。しかし、「品位を保つ」とか「品位を落とす」とか言うこともありますから、「品格」とか「品位」とかは、男女を問わず、大小の集団、更には民族や国家のも適用される言葉ではないかと思いますが如何でしょうか。
 
 ところで、近時、牛肉など食品の偽装がありました。また政府役人の収賄や汚職問題、また、無差別殺人なども問題となりました。こういうことは、ことの大小を問わず、昔から絶えず起こっている人間の問題でありますが、これは正に「人間の品格」は問われている問題でありまして、今日、いろんな品格が取り上げられている中で、私は、「人間の品格」ということは、最も基本的に取り上げられ、問題にされなくてはならないのではないか、と思うのです。但し、この品格と言うものが、何に基づいて決められるのか、また何を目指しているかによって評価されるのか、ということが基本的な問題ではないかと思うのです。
 
 戦後、「期待される人間像」が議論されました。最近では「教育基本法」が変えられました。これは、日本人の人間の品格のありようが決められたことになりますが、しかし、そういう限定で良いのかという問題が残っています。
 この点に関して、イエス・キリストは「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」と言っています。神とは絶対的なもの、また究極的な存在であります。この神との関係において絶えず自分を問うて生きていく、というところに、人間として相応しい品格が養われる、と言うのが、聖書が伝えているところであります。 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・マタイ6:33)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
    「キリストへの時間」放送予定P7010122.jpg
       (放送開始1952年10月)
 9月 5日  大西敏雄  (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
    12日  大西敏雄  (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
    19日  木下裕也  (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
    26日  木下裕也  (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 
 
 「ローマ人への手紙」研究 (69)P7100002.jpg
 第44課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
       10章1~10節(続き)
 
「モーセは律法による義を行う人は、その義によって生きると書いてある」(10:5)。この言葉はレビ記の18章5節から引用されています。その意味は、律法は完全な服従を要求し、そのような服従をしてはじめて、人間は律法によって義を獲得し得るのであると言う意味です。パウロにしてもモーセにしても、人間は堕落以降も完全な服従をすることにより律法によって義を獲得することが出来るとは決して言っていません。
 パウロは(そしてモーセも)行いによる義という原理を述べているに過ぎないのです。人間がこの原理に基づいて義と生命を獲得することが出来た時代がありました(堕落以前のエデン)。しかし、パウロの時代には(モーセの時代も同じく)、そのようなことはもはやなく全く不可能なことなのです。
 なぜならば、人間は罪の中に陥り、その心と生活において腐敗してしまっているからです。業による義の獲得はもはや不可能であるけれども、その原理は今も述べることが出来ます。イエス・キリストにおける神の恵みによる義と言う原理と比較するためです。
 
 5節の「生きる」とあるその生活とは、「身体と霊魂をも含めた全人格と、この世と来るべき世におけるこの生涯の全過程を含むものである」(ホッジ)。これが生命の木によって象徴され、堕落以後は人間から取り上げられた生活なのです(創世記3:22~24)。その悲しむべき日以来、人間が永遠の生命と義を獲得することができる唯一の方法は、唯一の仲保者主イエス・キリストによる方法なのです。
 
 「しかし、信仰による義は、こう言っている、『あなたは心のうちでは、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストをひきおろすことである。また、『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることである」(10:6~7)。パウロは5節で、神の律法に完全な服従をすることによって義を得ることは、人間には不可能であることを述べたばかりです。モーセによって語られた律法は、罪人には不可能な服従の実行を要求しています。それゆえに、この方法による義の獲得は不可能なのです。
 
 J.G.ヴォス著                                                  写真:空と花
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 
  祈 り
 天の父よ。まことのひくき心と悔い改めとをもって帰って来るすべてのものを、あなたはあわれみ深く待っておられます。今、あなたの助けを求めるこの小さいしもべの祈りをきいてください。この朝わたしは新しい一日の生活に向かっておおしく出発しましたが、今はここに恥ずかしい思いでひれ伏しています。わたしの心はなすべきことをしなかったこと、なすべきでないことをしたことを思い出して重荷に悩んでいます。
 神よ、どうかあなたのいやしときよめのみ力をもう一度送ってください。そしてわたしがもう一度、わが主イエス・キリストを通してあなたから与えられた救いをしっかりととらえることができますように。
  わたしのいつわりの心と曲がった思いを
  故意に口にした暴言を
  考えなしに語った思いやりのない言葉をP7100005.jpg
  嫉妬と羨望に満ちたまなざしを
  悪事をよろこび、真理をよろこばない耳を
  汚れた手を、さ迷い歩く足を
  高慢な態度を  神よ、どうかおゆるしください。
  「もし、罪がないと言うなら、それは自分をあざむくことである」。
 全能の神、潔さと恵みのみ霊よ、わたしは当然赦していただく資格があると思って、あなたの赦しを願うのではありません。ただ自分の身をあなたのかぎりない愛に投げかけるだけです。
  わたしは、どんな功績や手柄をほめることもできません。
  わたしは、さけることのできない事情をたてにとることもできません。
  わたしは、性格の弱さを弁解することもできません。
  わたしは、自分の出会ったこころみの強さを口実にすることもできません。
  わたしは、わたしを迷わせた他人のいざないにかこつけることもできません。 
  わたしが言えることはただ一つです。
  わか主、み子イエス・キリストのゆえに、    アーメン
 
               ジョン・ベイリー「朝の祈り 夜の祈り」 写真:わが家のつた 
 
 
 
 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」P7140013.jpg
 
私は毎月「つのぶえジャーナル」を楽しみにしているファンの一人でございます。一  度では読み切れませんので大体三回くらいに分けて読んでいます。その中の一つに、興味のあるのが「世田谷通信」でございます。理由は二つです。私は若い頃から日記を書いているので、猫草さんのお書きになるお姿を想像しながら、読ませていただいております。もう一つは、同世代くらいでしょうか、娘が杉並区におりますので、とても身近に感じることが出来ることです。失礼とは思いますが、猫草さんは、どのような時にあのエッセイのようなものが浮かんできますか、また、日記などお書きですか。これからも楽しみに読ませていただきます。・・・・。
          静岡県  「世田谷通信」ファンさんより
 
 CBC「キリストへの時間」へ手紙を差し上げたところ、新約聖書と「つのぶえジャーナル」と担当者の方の手紙が添えてありました。それから1年半ほどになりますが、月に数回の手紙にも返事があり、此方の質問に答えて貰えるので、とても助かっています。まだ教会へは行っていませんが、勧められることなく付き合いしてくれるのがいいですね。私は、へそ曲がりで、勧められることについ反発する性格で、自分のペースでラジオを聴いたり、考えたりするのが一番なので、この「つのぶえジャーナル」も楽しみに読ませて貰っています。暑くなりますが、頑張って下さい。・・・。
                  三重県  F・Tさん

  写真:桔梗
  『ありがとうございます』
 
ご覧の皆様、お変わりございませんか。本格的な暑さの毎日です。ご自愛下さい。幸いなことに、感想やご意見と共に、多くの方から暖かいお言葉や、時にはお叱りをくださり、励まされております。今月号は、涼しさをお届けしたく、写真を多くいたしました。PCでご覧の皆様、是非、拡大でご覧下さい。木々や花、風景写真は、毎回、滋賀県にお住いの方が送ってくださっているものです。森林や自然、山里のあり方を研究しながら学生たちと共に活動されている方です。週1~2回リハビリに通院していますが、殆んどのお年寄り(私もその年齢)の必需品が緊急連絡用の携帯です。器用に活用されています。あなた、持っていないの!?と言われ購入しました。携帯番号は090-6464-9164です。 
       
s-P7200022.jpg『つのぶえジャーナル』のための寄付者
  泥谷逸郎様 馬場伸直様 馬場暁美様 吉原富士見教会様  匿名様
 
   『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
稲田喜水様                                                                        

    写真:娘の癒しのゼダート
   今月のことば8a909ae6.jpg
  
  讃美歌
 
 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい(エペソ5:19)。
 
 あらゆる時代のあらゆる地域の人々は、歌を歌ってきました。一人一人、自分の仕方で歌ってきました。民衆の歌や愛の歌、仕事の歌や生活の歌。その歌の中心は、生きることと愛することと死ぬことであったと言えましょう。それがこの世の歌の三和音といえるでしょう。それらの歌は、私たちの血管を流れる血のざわめきに似ています。時には天にまで届くような歓声であり、時には死ぬほどに打ちのめされた絶望の叫び、また、心の心情に応じた歌であります。
 これらの歌には、一つの共通しているものがありましょう。それらの歌は、時に楽しげな歌、心の解き放たれた自由を歌いあげていても、その根底には物悲しい響きがあります。それは、決して不思議ではないのです。それらの歌は人間の歌であるからです。喜びや希望を歌い上げても、真の喜びを歌い上げていないからです。
 キリストの教会の歌も、人々の中で歌われています。しかし、喜びや希望、また死を歌っていても、そこには、人々の救いのために捧げられたイエス・キリストの愛と血と死があります。
 神のもとでは、死は最後ではなく、甦りと永遠のいのちがあります。讃美歌は、この世の歌とは違い、たとえ苦しみや悲しみ、愛であっても、その讃美歌の根底には、神のいのち、愛、死が歌い上げられています。すべての讃美歌の三和音には、信仰・希望・愛があります。
 教会とわたしたちひとりひとりに、讃美と感謝のために新しい歌を歌い続けましょう。
 
 朝静に
朝静に  この一日の
御恵みを 祈りおれば
わが心に あふれくる
主イエスにある安らぎ
 
朝静に  霊の糧なる
御恵みを 学びおれば
わが心に あふれくる
主イエスにある望み
 
朝静に  新しい一日を
たもう御神 たたえおれば
わが心に あふれくる
主イエスにある喜び     水野源三「今あるは 神の恵み」
 
 
   小閑記
       
   ペテロの失敗(Ⅰ)s-IMG_0017.jpg
 
 私たちはペテロに対するキリストの執り成しを思い出す。キリストはご自身、ペテロがキリストを否む真の脅威がペテロの人生に影を落とす前に、この執り成しを示された。
「シモン、シモン、サタンがあなたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないようにと祈った」(ルカ22:31~32)。
 その時まで、ペテロは目立った多くの経験をした。もはや多くの者がキリストと共に歩もうとしなかった時に、突然キリストはペテロに問われた。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6:67)。これは危機の時であった。キリストがご自身との交わりの深さを話された後、民衆がキリストを彼らの王としようとする熱心が冷めてキリストを捨てた時であった(ヨハネ6:53)。
 ユダヤ人たちはキリストの説教に躓いて、それは多くの人にひどいものとして受け取られたので、彼らは非難の態度を示して、「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6:60)と言った。一部の人々がキリストの力と交わりから離れて行き、重大な決断がなされようとしていたその時、弟子たちは彼らの心の態度をはっきり示さなければならない。彼らも意思表示を示したが、それは献身の態度を示すものであった。
 ペテロは全ての者の代表として「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6:68~69)と答えた。
 ここでペテロは、人の子からますます多くの弟子が去って行くその孤独を打ち破り献身の言葉を響かせる。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょう」。私たちは、あなたの所にしか参りません。他の如何なる道も廃教につながります。道は唯一つしかありません。それはあなた、キリストです。
 ここで真に、ペテロは救いの道を歩んでいた。そして、後で、キリストが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16:13)と問われ、そして、人々の考えが示された後、主は再び「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた時、ペテロは、世の人々の考えを越えた畏敬の念をこめて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えている(マタイ16:16)。
 私たちは、これをペテロの生涯の頂点と呼ぶことが出来る。しかし、ペテロ自身はキリストとの交わりにおける自分自身の不変性を正しく理解していなかった。それは彼を小麦のようにふるうであろうと言うサタンについての 聖書に対する彼の反応にあらわれている。彼は自分の信仰を脅かす危険を見ていない。シモンは「主よ、御一緒なら牢に入って死んでもよいと覚悟しています」(ルカ2:23)と言っている。
    ベルクーワ著「信仰と聖徒の堅忍」より 
 
 
                上河原立雄撰
 
この文章の転載は許可を得ております。
                                                                             (写真・エゴノキ)
s-IMG_0021.jpg(ひとみ)
高校を卒業して4年になりました。憧れていた大学に進学しましたが、将来を夢見て大学に来たのではなく、漠然と都会に憧れ、大学生活を経験したいという思いでしたから、学ぶことを忘れ、友達と買い物したり、青春時代なんて思いながらコンパと称してお酒を飲んだりの日々を過ごしていました。地元に残った友達が、両親の生活を教えてくれました。元気に畑で野菜作りをしているとのことでした。その働きで、毎月10万円ものお金を送ってくれましたが、私は遊びや衣服やお洒落に使っていました。不意に涙が出てきて、自分が情けなくて、悔しくて、両親に申し訳なくて、今までの2年間の生活を手紙に書きました。数日後に、母から、そうだったの・・・と言うメールが来ました。・・・・。
 
今は、両親と畑仕事をしています。地域で仕事を探すつもりで手伝っていた野菜作りが、辛く不安定ですが、やりがいのある大切なことに気付き、毎朝、出荷のために早起きして父の運転する車で大手のスーパーまで届ける内に、働いている大人の方々から、優しい声をかけていただくうちに、自分の仕事にしたいと思うようになりました。
仕事を終えた後は、インターネットでいろいろの情報を得たり、活躍している人との輪に参加して、勉強しています。若い人はみんな都会に憧れ、一度は出て見たいと思うものですが、その流れに流されてしまう前に、母からの、「そうだったの・・・」のひと言で、自分を見つめなおすことが出来ました。都会が悪いのではなく、単なる憧れでは、いけないということを今は思っています。
近所の人は、もうそろそろお婿さんをもらって、両親に孫を見せて上げなさい、と言われて、むっとしている私です。・・・。嫌いだった鳥の声、気にしたことのない川の汚れ、荒れた林を、地域のおじさんたちの手入れ作業に参加しています。楽しいよ!
 
               佐賀県  紫外線を気にしなくなったkです。
 
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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