2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
(38)
5月15日
わたしは冠婚葬祭以外素っぴんである。地下鉄に乗るときも、繁華街へ行くときも、礼拝に行くときもである。ドレッサーの引き出しには山のように化粧品がある。肌がとても弱いということもあるが、面倒なのと、化粧していると息苦しく感じるのだ。女のたしなみとしてファンデーションくらいは付けなければいけないのだが。
それと、わたしは男顔で素っぴんなので、ブラウスを着てスカートを履くと女装になってしまう。教会へは女装していくことがある。儀礼的なものである。なんか宙ぶらりんで身の置き所がないというか、女性的でも男性的でもないというか、それを求められても困るというか。ただ、わたしは地球人で、生物学的には女で、日本人だというだけだ。
それと、わたしは男顔で素っぴんなので、ブラウスを着てスカートを履くと女装になってしまう。教会へは女装していくことがある。儀礼的なものである。なんか宙ぶらりんで身の置き所がないというか、女性的でも男性的でもないというか、それを求められても困るというか。ただ、わたしは地球人で、生物学的には女で、日本人だというだけだ。
5月16日
楽しかったことは何かな…と思うとやはり「二の会」と言う学び会を思い出します。何か好奇心がくすぐられる機会はないものかなぁ。今は毎日穏やかに暮らしたいです。何も思わずに。
5月19日
昨日自転車で派手に転んでしまいました。幸いなことに、打ち身と擦り傷程度で脊髄刺激装置には影響はなさそうです。ただ体中が痛いです。主人に話をしたら、それで?と素っ気ない風でした。ところが、今日電話で母に転んだことを話したら、えらい勢いで怒られて、乗ってはダメ!と言われてしまいました。でも環境からして徒歩で生活するには何かと不便ですので、乗っちゃいますけど。今日も雨の中カッパを着て医者まで行ってきました。
自動車に乗る練習をしたいと主人に言ったら、拒否されてしまいました。確かに私の運転はとてつもなくへたくそであることは、以前、実家の事故で証明済みです。生涯学習センターであるミーティングの窓口をつとめることになったので、今まで地下鉄で通っていましたが、雨の日など行くのが億劫になってしまうので、せめてそこぐらいは車で移動できるようになりたいなあと思っているのです。あと、地下鉄を何度も乗り継ぐ精神科や駅から遠い眼科など、移動するだけで大変なので、なんとかしたいなあと思っています。ペーパードライバー講習という手もありますが、その費用を工面できない。せっかく新しいことにchallengeしようとしているのに。保険の費用や安全面からダメだと言われるのはわかるけど・・・。
自動車に乗る練習をしたいと主人に言ったら、拒否されてしまいました。確かに私の運転はとてつもなくへたくそであることは、以前、実家の事故で証明済みです。生涯学習センターであるミーティングの窓口をつとめることになったので、今まで地下鉄で通っていましたが、雨の日など行くのが億劫になってしまうので、せめてそこぐらいは車で移動できるようになりたいなあと思っているのです。あと、地下鉄を何度も乗り継ぐ精神科や駅から遠い眼科など、移動するだけで大変なので、なんとかしたいなあと思っています。ペーパードライバー講習という手もありますが、その費用を工面できない。せっかく新しいことにchallengeしようとしているのに。保険の費用や安全面からダメだと言われるのはわかるけど・・・。
5月21日
今朝3時半頃、主人が床に付きました。と同時にわたしが起きて、茶碗を洗おうとしました。そうしたら、主人がうるさいから後にしてと言いました。わたしはムッとしました。そして6時頃寝息を確認して、洗いました。考えてみれば、ガチャガチャしたら眠れないですよね。でもわたしは今でも不機嫌。なぜなら、予定したことが変更されるのが一番苦手だからです。
昨夜もわたしが昼間のミーティングに出て、少し帰りが遅くなって、新聞受けを見るのを忘れていました。主人が帰ってきて、見てみると不在通知が入っていました。そうしたら、受け付け時刻が済んでしまっていました。そうしたら主人が、通知の時刻が2時になっているよと言ったので、わたしはミーティングに行っていたと言いました。そうしたら主人が、ポスト見といてと言いました。わたしはムッとしてしまいました。わたしだっていつもいるわけではないし、たまには寄り道もするし、忘れることだってあるわ。けれどとりあえず、はい、と言いました。そんな些細なことが重なって、ずっと嫌な気持ちを引きずっているのです。よくないなぁと思います。
思っていることがあれば、ちゃんと言えばいいのに。それに当たり前のことを言われているだけなのに・・・。悶々として、ゴロゴロしています。
昨夜もわたしが昼間のミーティングに出て、少し帰りが遅くなって、新聞受けを見るのを忘れていました。主人が帰ってきて、見てみると不在通知が入っていました。そうしたら、受け付け時刻が済んでしまっていました。そうしたら主人が、通知の時刻が2時になっているよと言ったので、わたしはミーティングに行っていたと言いました。そうしたら主人が、ポスト見といてと言いました。わたしはムッとしてしまいました。わたしだっていつもいるわけではないし、たまには寄り道もするし、忘れることだってあるわ。けれどとりあえず、はい、と言いました。そんな些細なことが重なって、ずっと嫌な気持ちを引きずっているのです。よくないなぁと思います。
思っていることがあれば、ちゃんと言えばいいのに。それに当たり前のことを言われているだけなのに・・・。悶々として、ゴロゴロしています。
5月28日
実家に来ている。今朝というか昨夜というべきか、2:30に目覚めてしまいました。テレビを見ながら、夜が明けるのを待っていました。就寝が早めなので、寝不足ではないと思いますが、半日病院にいるとさすがに疲れます。今朝も母がコンタクトレンズがないといって探し始めました。コンタクトレンズなんて10余年も使っていないのに。しかも最初はメガネがないといって探し始めたのに、いつの間にか変わっていたのです。
ご飯を食べ終えたすぐに、何か食べるものはないかと探し始めたり。母は父が怒ると言っていますが、父の物言いがきつくなっても仕方がないかなぁ。この事実を受け入れながら、わたしも二人を見守っていかねば。母は週2回老人向けの体操教室に行っています。デイサービスも検討しているそうですが、本人の気持ち次第のようです。要介護1だそうです。
わたしに出来ることは顔を見せにくることくらいかなぁ。
ご飯を食べ終えたすぐに、何か食べるものはないかと探し始めたり。母は父が怒ると言っていますが、父の物言いがきつくなっても仕方がないかなぁ。この事実を受け入れながら、わたしも二人を見守っていかねば。母は週2回老人向けの体操教室に行っています。デイサービスも検討しているそうですが、本人の気持ち次第のようです。要介護1だそうです。
わたしに出来ることは顔を見せにくることくらいかなぁ。
6月1日
わたしって一体何者なんだろう。クリスチャンと言うアイデンティティはあります。生物学的には女で、結婚はしていますが、中身はおっさんですから、女性の働きといっても、感覚的にわかりません。若い頃から女だという自覚が今一でした。
主人と結婚したのも、彼を男性として愛したのではなく、異性だったから一緒に暮らすのには好都合だと思ったのです。そのうち愛せるようになれるのではないかと。肩で風を切って生きることに憧れ続けていたら、女性的な感じが抜けていったのかもしれません。自分は風を切って歩くタイプではないと知った(アスペだとわかった)とき、じゃあどうすりゃいいんだということに行き着いて、もがき苦しんでいるわけです。
主人と結婚したのも、彼を男性として愛したのではなく、異性だったから一緒に暮らすのには好都合だと思ったのです。そのうち愛せるようになれるのではないかと。肩で風を切って生きることに憧れ続けていたら、女性的な感じが抜けていったのかもしれません。自分は風を切って歩くタイプではないと知った(アスペだとわかった)とき、じゃあどうすりゃいいんだということに行き着いて、もがき苦しんでいるわけです。
6月11日
精神科の診察が終わったところです。掲示板に全障研全国大会が我が母校であることに動揺してしまいました。若い頃の思い出がいっぱい詰まったところです。自閉症の分科会がある。発達障害の学習会がある。それだけでウズウズしてきます。悪い癖が出てきました。
加納さおり (写真・春の雑木林)
加納さおり (写真・春の雑木林)
PR
猫 草
中1ギャップという言葉をご存じだろうか?小学校から中学校の環境の差になじめず、友達がつくれない、勉強についていけない、果ては不登校になったりすることだそうだ。長男が通う中学校では、すでに不登校の子、毎日机に伏して寝ている子、中間テストでオール0点の子、授業中歩き回り、教室から出ていく子が何人かいるそうだ。入学してたった2ヶ月でもうその状態。小学校の授業に比べ中学校の授業進度は速い。特に算数から数学への差が激しい。小学校までは自然数、つまり生活に密着した数の世界だったのが、中1でマイナスの概念、1次方程式、指数、数列、幾何学、関数、確率・・と飛躍的に扱う内容と理解量が増える。英語もそう。小学校の外国人教師による授業は1学期に1回、たった年3回である。教科書もなく、挨拶と単語ゲーム程度。授業を見学したが、外国人教師もほぼ初対面の子どもたちと「とにかく楽しく英語に親しむ」ノリのいい時間を過ごすだけ。それが中学では一気に英文法、単語を覚え、英文を読み書きし、リスニングも入ってくる。小学校の楽しいだけの英語授業とは何の接点も引き継ぎもない。
それらの溝を埋めるのは?結局塾しかない!というのが私を含め周囲の親の結論だ。長男の通う塾は6年生の2月、中学受験が終わった翌週から中学準備クラスがはじまり、小学校卒業までに中学1学期分の授業を先取りする。入学してからは新しいクラスだ、部活動選びだ、運動会だとイベントも多い。近隣の3、4小学校を寄せ集めたのが中学校なので、クラス数も多く、環境になじむのに時間もかかる。勉強面では塾で常に貯金を作っておいて、学校の授業は復習というわけだ。中学になって塾に通う子がグンと増えた。では塾に通わない子はどうなるのか?通信講座の自宅学習は小学校までに自学自習スタイルが確立していることが絶対的な必要条件だ。親に聞くには自意識が強くなった年頃で抵抗がある。先生に聞くにもどこから質問すればいいのか?というわけだ。先日家で長男と一緒に宿題をやっていた友だちが数式を勘違いして解いているのでつい私が教えたら「やめてよ、先生じゃないんだから!」と後で長男に文句を言われた。難しい年頃である。
中学で勉強や人間関係の壁にぶつかったらどうやって乗り越えるのか?落ち込んだらすくいあげる手段はあるのか?「中1ギャップ」と名前だけつけて、その答えが学校の中にみつからない、というのが一番の問題なのだろうと思う。 (写真・ヤマボウシ)
=時々の記=
(52)
6月3日
水野源三さんが、強く語りかけて下さっている詩は、今の私の心のためにプレゼントしてくださるものです。キリストの愛は、キリストを信じたとき、わかりました。キリストの愛をわかっていなかったのは、キリストを信じていなかったのかもしれません。そんな自分を深く反省しています。
時々、教会の姉妹方のことを、思い出します。私のために、心の病で苦しんでいらっしゃる方から、お励ましのお手紙を何度もくださいます。今は、心身の疲れで、どうしても教会の礼拝に行く気力がでないのです。
真っ青な澄み渡った空を見上げると、先きに、天に凱旋された、信仰の先駆者たちの顔が目に映るように感じられます。やはり、愛する父為吉が、暁美、どうしたんだ。神様は、生きて働いてくださっているんだぞ、とでも言ってくれているようです。暁美は、今、弱ってしまって、生きていく力さえ、なくなっていきそうなんだよ。でも、父為吉の代わりに、信仰の助け手となって、くださっている方々がいてくださるから、何とか生き延びているよ、と話しあっています。
小船にて釣りする人や湖(うみ)の夏
川の瀬の浅く澄みたる河鹿かな
石楠花(しゃくなげ)の寺へと急ぐおうなかな
里山に手入れのされてつつじ咲く 馬場路哉
6月9日
今日は、こちらは、最高気温が、30度を越す暑さだとか。いよいよ、夏が近づいてきました。犬たちの毛もすっかり夏の毛になりました。娘は、世田谷通信がとても身近に感じられると、いつも一番先きに目をとうして、そのとうりと同感することが多いようです。
今から、主人と二人で、山道の草刈りに出かけます。草がはびこって、道を狭くしているからです。村の方たちは、それぞれの持ち場を、自主的に刈りこんでいます。これも、昔ながらのしきたりの良いところでもあるのでしょうか。
ひょろひょろの苗も生えおる植田かな
一を引く山頂見えて風薫る
万緑の中なる里に帰りけり 馬場路哉
6月13日
昨晩は久し振りによく眠れました。今朝も、とてもきれいな響きで、ホトトギスがおはよう!元気?とでも言ってくれているかのように、朝早くから、裏山で鳴いています。「その愛のゆえに」は自分の投稿なのに、信仰を持ち続けることができていますことを、示され感謝しています。改めて読み返して、献金のお名前の欄に、泥谷先生ご夫妻のお名前があり、とても懐かしく思いました。先生には、私たちが長野県でくらしていましたときにも、慰問してくださり、また、上野緑ヶ丘教会へは、お二人で一度、25周年記念会のときには、先生に説教をしていただきました。父が召されたときにも、母を尋ねてきてくださいました。とても優しい先生です。
宿毛教会での懐かしい思い出は、私は何も覚えていませんが、母や父から、よく聴いていたものでした。ジャーナルは、日本各地の懐かしい方と再会させてくださる、最高の月刊誌です。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員) (写真・サツキ)
キリスト者の生活綱要 (10)
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
4 まことの謙遜は他人を尊敬することである
1 自己否定は、根本的には神にたいしてであるが、一部にはまた人とも関係する。聖書が、人にたいして、「進んで互いに尊敬し合うように」、また真心なら兄弟の便宜を助長するために全力をささげるように、と命ずる時、われわれの罪深い性質がまず癒された後でなければ、それは決して受け入れられない命令である。
われわれはみな、自己愛によって盲目にされ、取り乱されているので、だれでも自己を高いものとし、自己と比較してすべての他人を低く評価する権利を、正当なものと思っている。
神がなんらかの優れた賜物を与えていて下さるのに、われわれは、自分でそれを獲得したものと迷想し、誇りでふくれ上がって、はちきれそうになっている。
2 われわれは、自分に満ちている悪徳を注意深く隠したり、たいしたことではないと自惚れたりするが、時には自分の悪徳を徳と考えることさえある。自分にある賞賛に価する能力と同じもの、あるいはそれ以上のものが、自分以外の人々にあることが分かると、われわれは極端な悪意をもって、それを軽んじたり割り引いたりして、その人の優れていることを認めようとしない傾向がある。
自分以外の人々がなにかの悪徳をもっていると、われわれは、その人を厳しく冷たく批判するだけでは満足せず、苦々しくそれを誇張して言う。われわれが、他の人々よりも自分を高い者としようと願い、自分は当り前の運命に属しているものではないと妄想する時、憎しみは傲慢となり、自分以外の人々を、自分より劣る者として、横柄に激しく軽蔑する。
3 貧しい者は富んだ者に、平民は貴族に、召使は主人に、愚者は学者に従うとはいえ、だれでも、自分が他人より実際に劣っているとは考えない。だれにも自己に自惚れがあり、その心に中に王国をもっている。
だれでも自分に陶酔し、他人の思想や行動に非難を浴びせる。そして、なにか争いがあると、害毒が飛び散るのである。すべてが気持ちよく快適である場合、他の人々にたいして柔和である人は多いが、邪魔されていらいらしている時、どれだけ人々が機嫌を保つことができるだろうか。
4 幸福な生き方をするためには、不正な野心と自己愛という悪魔が、心の中から根こそぎ引き抜かれなければならない。聖書に耳を傾けるなら、われわれは、自分の能力が自分の作ったものではなく、神から価なしに与えられた賜物であることを、思い出すに違いない。もしわれわれが、自分の能力を誇っているなら、われわれは、神への感謝を欠いていることを示しているのである。
「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」とパウロは言う。
われわれは、自分の欠点を認め、それを看視し、心底から謙遜にならなければならない。そのようにすれば、慢心せず。かえって卑下すべきであることがわかってくるであろう。
5 他方、他の人々に、どんなものであれ、神の賜物を認めるなら、その賜物と所有者を尊いものとして尊敬するようにしよう。そうでないと、神がその人に与えられた栄誉を、その人から奪うという大それた悪に陥ることになるからである。決してへつらって、その人を増長させてはならないが、われわれは、他の人々の欠点に寛大であるように教えられている。
欠点のために、他の人々を軽蔑すべきでない。だれにたいしても、愛と尊敬を示すことがわれわれの義務である。だれであっても、人々の栄誉と名声に注意を払うなら、われわれは、謙遜と温和のみでなく、礼儀と友情をもって、身を処していることになる。
自らを低くし、心の底から他の人々を尊敬すること以外に、まことの謙遜に到達することができないからである。ローマ12:10、ピリピ2:4、Ⅰコリント4:7。
地域りぽーと
これまでの冷え込みとは打って変わって暑い一日になりましたね。朝から畑の開墾をしました。笹の根が張っているところを根っこをとることにしました。昨年は、放置していましたが、隣の畝に根が伸びて凄いので、耕して山芋を植えることにしました。まだ、全部を掘り起こしたのではありませんが、あと少しになり嬉しいです。豆を植える所を作る方が先かもしれませんが、山芋も袋の中で伸びているのです。
一大決心して耕運機を買いました。それを使えば豆やズッキーニの所は簡単です。一箇所耕運機を使えないところがあるのです。やぶからしの根がはびこっているのです。
たまねぎやらっきょ、しまらっきょ、にんにくの収穫ももうすぐ始まります。たまねぎは、もう始まっていますが、・・・今日は神戸の義母宛に野菜を送りました。大阪から都会の母へです。
主人も息子も豆は、あまり食べてくれないのが少々難です。私は、大好きで私だけが食べています。これから自家製味噌に挑戦してみようと思っています。あずき味噌を売っている人を見つけたから、他の豆でもできるかどうかとか、果たしてどうなることやらと教えてもらっようにやってみようと思っています。
「つのぶえジャーナル」をご覧の皆さんは元気そうに思うでしょうがそうではないのです。今日も 指先がしびれていますし、関節も痛いです。急に冷え込んだ日からです。 なんで?自分に聞いています。不思議ですが、整形外科の診察日の前には、痺れが出ている、なんで?
今日も良いお天気ですが、しんどいです。午前にズッキーニを植えるだけで、帰ろうと思っていましたが、近所の人から山芋の種が余っているのであげると言われ、急遽畝つくりを笹の根っこの多いところ、山芋用に開拓中だったところを仕上げて植えました。他のところにも植えました。とても疲れ横になっている時に大雨で急いでベランダの洗濯物を取り入れました。本当に凄い雨でした。週に数回ビルと病院の掃除の仕事をしますが、携帯に、今日は、仕事が休みという連絡が入っていてよかったです。ぬれねずみになるところでした。
少しづつ動けるのに感謝しています。
大阪府 T・M さん
『旧・新約婦人物語』(11)
ヨセフの妻アセナテ
(創世記41章)
「パロはヨセフの名をザフナテ・パネアと呼び、オンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻として彼に与えた」(創正記41:45)
この無味乾燥に見えます散文的な聖句の中にも、神様のみ教えは満ちていまして、私たちにひしひしと迫るもののあることを覚えます。旧約聖書の婦人物語を学んでいる私たちは、ここにあまり有名ではなく、また私たちに関心も興味も与えないアセナテという婦人に突き当たります。
アセナテはヨセフの妻です。だれでもヨセフのことはよく知っておられると思います。彼はヤコブの11番目の子供として生まれましたが、父の偏愛のために、兄たちから嫌われ、苦しみを受け、ついにエジプトへ奴隷として売られたのです。その上、ヨセフは無実の罪で牢獄につながれると言う苦しい経験をなめました。けれども、神様は彼と共にいまし、彼は神様より夢を解く不思議な能力を与えられました。
ヨセフは王パロの夢を解いたことで、王に認められ、エジプトの宰相にまで抜擢されました。それは彼の30歳の時でした。人の30歳は思想の転換期であるといわれます。彼も思想上、生活上大きな変化が起こりました。30歳までの彼の生活は実に変化に富み、苦しい中にも神の道に進んで感激に満ちた生活でした。しかし、彼が30歳に達し、名誉が与えられ、高い位に付くことになって、かえってその生活は俗化し、感心のできない状態になってまいりました。今、その原因が何かを考えてみますと、初めに書きました聖句が私たちの注意をひきます。
ヨセフの生活が(精神的にも、物理的にも)、だんだんと神様から離れていった重大な原因の一つは、彼が同じ信仰の妻を持たなかったことにあります。その頃の彼の周囲の様子を見ますと、国王パロは、ヨセフの心をイスラエルより離れさせて、エジプトの自分たちの国策に利用しようとしたのです。
第一に、王はヨセフの名をエジプト流にザフナテ・パネアと変えさせたこと。
第二に、王は自分たちに都合のよいようにオンの異教の娘を彼の妻としたこと。
第三に、王は真の神様を礼拝せず、ただヨセフの能力を利用しようとしたのみで、神様を認めなかったこと。
このように、ヨセフの過去における神様を思う生活との結び付きを断ち切り、エジプト人としての生活をさせようとしたのです。ここで私たちが最も悲しく思いますのは、何故、ヨセフがこの異教の娘との結婚を拒まなかったかということです。
彼の妻アセナテという人が、どういう人であったのか、聖書には明らかではありませんが、彼女はオンの祭司の娘でした。このオンというのは祭司の町として有名なところで、エジプトにおける太陽崇拝の中心地でした。したがって、彼女は この強烈な偶像崇拝の雰囲気の中に育ったと見ても、彼女の家庭生活の態度が分かると思います。
日本でも、青年が親元を離れて、他国で結婚いたします時、知らず知らずの中に、自分の父母との関係は薄らいで、妻の里との関係が濃くなり、婿養子同様の関係となるものです。ヨセフの場合も同じで、知らず知らずの中に異教化し、エジプト化し、環境のよくなかったことが、ヨセフの子らの名を見てもわかります。51節を見ますと、「ヨセフの長子の名をマナセと名づけて」自分の今までの苦難と父の家の全てを忘れようとしたとあります。この名前はヨセフの生活態度をよく現わしております。そして第二の子が生まれる頃には、もうこの異教の空気や、エジプトの生活にも同化して、その子をエフライム(多く生まれる)と名づけ(52)、その生活に満足の気持ちを現わしているのです。
ヨセフが知らず知らずのうちに異教の空気に浸ったことは、彼の一生涯の誤りばかりではなく、彼の罪は彼の子供や孫に影響し、清き神の選民としてのイスラエルの一大汚点となりました。そして彼らの内に偶像崇拝の悪い習慣を伝え、後世のバビロン幽因にまで及んでいることは、聖書が明らかに示すところです。これらは私たちに、ことに、異教の盛んなこの国に住むクリスチャンとして、最も重大な関心事であり、未信者との結婚の失敗が、5千年昔と変ることなく、目の前の日本における現実の問題です。私たちはヨセフとアセナテの話で、次のことを学びます。出来ることなら、クリスチャンはクリスチャン以外の人とは結婚しないこと。やむなく未信者と結婚するクリスチャンは、信者でない夫や妻となる人を教会に導き、真の神を教える責任があること。しかし、夫や妻がそれを聞かない場合は、夫や妻はともかくとして、自分は決して神から離れないこと。そのためには自分だけでも教会に出席し、聖書を読み、常に夫や妻のために祈るべきです。
「なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか」(Ⅰコリント7:16)。
ポーリン・マカルピン著 (写真・鶴見緑地の花博会場にて)
(つのぶえ社出版)
…キリスト教…
キリシタンの貧しい人々への救済(9)
キリシタン慈善事業の意義
迫害下にあっても、最後までキリシタンの慈善事業は続けられていました。海老沢有道は、名著「切支丹社会活動及び南蛮医学」(1944年)において、「キリシタン社会事業は寧ろ迫害下にその進化を発揮したものと言い得ると思う」と述べています。先に述べたミゼリコルジヂャの組は迫害下にあっても困窮者や孤児の救済に当っています。1630年代、表面上日本のキリスト教会が消滅するまで、キリシタンの慈善事業は継続しています。
海老沢有道は、更にキリシタンの慈善事業の意義について次のように述べています。「精神的のみならず、物質的に肉体的に救いを求めている人々に、キリシタン教会が組織的社会事業を開始したことは非常な歓喜を持って迎えられたことは繰り返しのべるまでもない。我々はまず第一に乱世に喘ぐ民を、多くの犠牲を払い、あらゆる障害、妨害を越えて彼らに救いの手を差し伸べた社会的意義と功績を認めねばならない」。
更に付け加えるならば、キリシタン慈善事業の担い手が、一般の信徒であったということです。献身的なパードレやイルマンの指導があり、外国からの援助に依存する面が多かったことは確かですが、それにもまして、一般信徒―かつては平信徒と言われた―から高名なキリシタン大名、名も無き庶民に至るまで、慈善事業に寄進し、自発的に救済活動に参加していました。
例えば、府内病院開設に当って領主大友義鎮は、田地を提供したが、更に毎年一定額の寄進を申し出ています。大坂、堺では、小西隆佐、行長父子がハンセン病院を建て、その経営に財政的援助を行っています。
細川ガラシャは、数名の捨て子を邸内に引き取って養育していました。また長崎のミゼリコジャの中心人物は、ジュスチノと呼ばれる金細工商人で、彼の妻ジュスタは、12人の婦人で奉仕団を組織し、養老院を設立して、その世話に当っていたということです。信徒が自発的・積極的な慈善事業へ参加していたという点で、明治以降のカトリックの社会事業と大きく異なっているのではなかったかと思われます。
明治以降にあって中心となるのは修道会です。キリシタン時代に見られるこの信徒の自発性に、200数十年間パードレもイルマンもいない迫害の中にあって、潜伏キリシタンが生き生きとその信仰を守り続けることができた一つの理由があるように思われてなりません。
あなたに聖書を
わたくしたちは、様々な仕方で、自分というものを知らされています。鏡を見ること、他人の姿や書物に触れること、様々なテストや試練を受けること、災害や危機に遭遇することなどによって、自分を知らされます。
ところで、あなたには、誰かに自分が見られているという、自分以外の人からの視線を感じたことが無かったでしょうか。最近問題になっている、自分を不愉快にするストーカーの視線は嫌な視線です。しかし、恋愛関係が生まれる時の相手の視線は好ましい視線です。そういう風に、自分が好ましいものとして見られている自分であることを知らされる時には、自分という者の捉え方や生き方が、その相手に相応しいように変ってきます。
この点に関して、パウロは、ガラテヤの信徒の手紙の中で、この人たちに「あなたがたは今神を知っている、いや、むしろ神に知られているのではないか」と言っています。パウロという人は、ユダヤ人としてはエリートとして、またキリスト教大反対、クリスチャン撲滅運動の先頭に立っている人として知られていた人です。こういう自分であることにいささかの疑いを持たず、むしろそういう自分であることを誇りにしていた人でした。
ところが、その撲滅運動のさなかで、復活して生きているキリストから声をかけられ、パウロを、キリストのことを伝える有力な人物として用いることにしているということを告げられました。自分のことを、自分が考えているような捉え方ではなく、こういう思いもよらないような期待で見られている自分であることを知らされたのが、「目から鱗のようなものが落ちた」ということでした。見られている者としての自分を知ったのでした。
聖書は、あなたに、キリストによって、「神様から見られているあなた」のことを知らせる書物です。これによってあなたも、今までとは違った自分についての理解をされ、新しく生きられるようにと願っています。
篠田 潔
(参照聖句・ガラテヤ4:9)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
::::::::::::::
「キリストへの時間」放送予定
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
7月 4日 楠本茂貴 (名古屋高等学校・中学校聖書科主任)
11日 大藪博康 (名古屋高等学校・中学校宗教部長)
18日 大宮有博 (名古屋学院大学商学部准教授)
25日 葛井義憲 (名古屋学院大学人間健康学部教授・宗教部長)
この放送は「日本基督教団・日本キリスト改革派教会・金城学院・名古屋学院・岐阜済美学院・米国南長老教会と皆様の献金」で提供されています。
第43課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節
第二の誤りは、キリスト信者は如何なる意味においても律法の下にはないとする考えです。キリストがすべて信じる者に義を得させるために律法の終わりとなられて以来、もはやキリスト信者は神の律法を守る如何なる義務の下にも置かれていないと説くのです。このように説く人々は儀式律法と道徳律法とを一つに含めています。
十戒でさえもキリスト者を縛ることはできない。なぜならば、キリスト者は律法の下のにはなく、恵みの下にあるからであると説くのです。このような考え方は、今日のキリスト教世界をも毒して、多くの重大な道徳的腐敗の源となっています。
信者は、義を得るための方法としての律法からは解放されており、従って、律法の刑罰と呪いとしての神の道徳律法の下にも、もはや、いないということを意味するものでは決してありません。
道徳律法は神の性格の表現であり、その故に永遠であり、不変です。それは決して取り消されることはあり得ないし、如何なる人も、それに服従する義務から除外されることもないのです。パウロ自身もこの意味における律法から除外されることを否定しています(Ⅰコリント9:21)。キリスト者は義に生きるように救われる(Ⅰペテロ2:24)。
しかし、義に生きるとはどういうことでしょうか。キリスト信者は何が正しいか、何が正しくないかを、日常、どのようにして知るのでしょうか。それは十戒において要約され、全聖書の中に説かれている、神の道徳律法によってです。キリスト者は一日一日を神の律法に調和するように生きようと努めているのです。そして、それは永遠の生命を得るためではなく、すでに彼らはそれを得ているのであって、今は、神に感謝し神を喜ばすためにそうするのです。
道徳律法は、何が正しいか、何が神を喜ばすことなのか、何が不正なことであり、神の聖なる怒りを招くこてかをキリスト者に告げるのです。この意味では、キリスト者はあくまでも律法の下にあるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
小1の息子と毎日格闘しています。朝起きが苦手、仕度は遅い、挙句のはてに学校に行きたくないと泣き出します。遅刻しても連れて行きますが、学校から帰ってくると朝のことなどけろりと忘れています。友だちもできて楽しいようですが、朝がどうもダメなようです。そう言えば、わたしもそうでした。変なところが似るものですね。待ちにまった二人目がこの秋に与えられます。
神奈川県 てんてこまいさん
大阪市 K・Aさん
緑内障の手術を受けて3が月目になりましたが、後発性の白内障による歪みやギラギラ感が出ていましたがレーザー治療でなくなりましたが、後の不都合は慣れて下さいと言われ、改めて人間の身体の複雑さに感心しています。楽しみにしていた「つのぶえジャーナル」は家内に読んで貰っていますが、その内容で会話が深まり、これも恵みと感謝しています。何かを失っても何かが与えられるものですね。・・・。
茨城県 W・Tさん
子供の時に一度だけ海を見ただけの毎日でしたが、子供たちの希望で鎌倉に行きました。乗り物酔いのある私でしたが、子供たちと騒ぎながらのドライブでその心配はありませんでした。青い海、大きな船はこの年になってはじめて感動しました。興奮したのはわたしでした。帰りは疲れて子供たちと一緒に寝込んでしまい、途中の風景は何も覚えていませんが、それからの家族の話題は海の話しになりました。自然に囲まれた山の緑や谷川も素敵ですが、何処までも続く海を眺めていると気持ちがおおらかになりますね。
山梨県 T・Sさん
26年前、名古屋市天白区に住んでいましたが、仕事の関係で岡崎に引っ越しました。住み良い街です。つばめが巣を作り、庭には紫陽花が咲いています。週の初めは日曜日の朝6時30分・CBC(中部日本)放送の「キリストへの時間」を聞く事から始まります。夜は聖書を読み、お祈りの中で、一日を顧みるのが私の日課です。「つのぶえジャーナル」は、PCで読んでいます。楽しい読み物ですね。有り難う御座います。
愛知県 S・Yさん
2010年も6ヶ月が過ぎました。この半年とも皆様に支えられてまいりました。感謝いたします。また、この「つのぶえジャーナル」がご縁で新たな交わりと出会いが与えられました。自然の素晴らしさ、日々の生活を写真に添えてお送りくださいまして、単調な紙面を華やかに、そして生活感のあるものにして下さいました。
今月号の写真も北海道大学正門前の桜の写真など三人の匿名さんと川畑朱美さんがお送りくださったものです。(写真・庭のテッセン)
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
入船佐奈枝様 稲田喜水様 匿名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
***************
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
‘10年6月15日現在 編集・発行人 長村秀勝
聖霊の力
ニコデモは言った、「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができるでしょうか」。(ヨハネ3:4)
人はある年齢に達し、それを越えた場合には、いろいろのことは過去のことになってしまいます。年老いた者には、どうにもならない虚しい人生の中の日々になります。老木に新しい芽が出たときの喜びは、ひとしおの感があります。
諺や人々の語る言葉に、「稽古ごとは若いうちに」とか「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」とか、「なにごとも四十歳まででなければ」とか、四十歳というのが一つの境目であるかのように思われています。誰であれ、いつまでも若く楽しく華やかで生き生きとあり続けたいと願うものです。
ところで、主イエスはこのみ言葉の人ニコデモに、新しく生まれるようにと勧められます。老人であったニコデモにとって、この主イエスのお言葉は希望を与えたでしょうか。不可能の淵に落とされた思いをしたとしても不思議ではありません。主イエスは、この不可能にさえ思えることを、可能であると言われるのです。人にはできないが、聖霊には可能なのであると言うのです。
老いの坂を登っている者も、希望を求めて歩む者にも、聖霊は光と喜びとしての新しいいのちを下さいます。キリストに生きると言う新しい生き方を与え、新しく生まれる喜びを約束して下さいました。
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。」(ヨハネ3:5~7)
その不思議な約束を信じて生きているのがキリスト者なのです。
カテゴリー
ブログ内検索
バックナンバー
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
[PR]Samurai Sounds
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円